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 “…わたしの知っていることはそれだけのことだよ”

 突然ミロンが言った。その声は、まるで長い過去の眠りから呼びさまされるかのように、ぼくの耳には響いた。わずか三十年程前の過去が、こんなにも近くて、しかも一挙に手元から遠ざかってしまったことはなかった。ママの過ごした青春の日々――それが、何んの手がかりもなく、いきなり、プツリと、紙が裁断されるように途切れてしまって、それっきりになってしまったのだ。

 “ぼくの言えることはそれだけだ”とミロンは続けた。“あの作家と親密となってからはね、ぼくたちの会合に出ることも少なく、そのうちぱったりと来なくなってしまった。初めのうちは気にかけたけれど、そのうち別のメンバーが入って来たりで、いつのまにか彼女のことは気にかけなくなってしまったからね。ぼく自身、学生運動とのかかわりはそう長くはなく、やがて足を洗って、普通のサラリーマンになってしまった。今でも事業を起こしたい気持はあるが、もうこの年ではねえ。第二の人生を始めるには少し遅過ぎるという気もする”

 “それじゃ、その後ママがどんな風に過ごしたかは、知らないというんですね”とぼくは尋ねた。

 “彼女が、作家との旅行中に、大学の講師と知り合ったという話しは、その後かなり年数が経った後で知った話しだよ”とミロンは言った。“それで彼女の足が遠のいたということが納得できたのだ。しかしその後のことについてはぼくはほとんど何も知らない。君に話して聞かせられなくて残念だけどね、その後彼女との交際が遠ざかったのは事実なんだ”

 “分かりました”と、ぼくも寂しそうにうなづいた。“でも、これだけのことを話していただいただけでも十分です。おかげで、ぼくの知らなかった、ママのメロランスでの生活のことがよく分かりました。本当に感謝しています…”

 “君の母を思う気持はよく分かるがね”とミロンは言った。“昔の友だちはみんな分散して、どこにいるのか、わたし自身もよく知らないんだよ。しかし考えてみれば、わたしにとってもあの頃が、一番人生も充実し、楽しかったような気がする。君に会って、こうして、昔のことを思い出す機会を得られたことは、わたしにとっても、なつかしい、いいひとときだったよ。確かにあの当時は、君のママもいて、みんな希望にあふれて、楽しい、幸せな青春時代だった。わたしもできるものなら、あの当時の仲間たちに再会したい気さえする。そしておおいに、あの当時、お互いに過ごしたことについて語り合いたいものだ。おっと、つい感傷的になって、君の前で、つまらんことを言ってしまったようだね…”

 “いいえ、そんなことはないです”ぼくは言った。“誰だって、昔をなつかしがる気持は共通するんですから。――でも、別れる前にひとつだけ、聞いていいですか?”

 “ああ、何んでもどうぞ”とミロンは答えた。


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 “例のハポネルの件ですけど、その後どうなりました?”

 “ああ、あれはね”と、ミロンは言った。“ミスター・Xと呼ばれていたフィクサーを我々の手で暴き出して一応けりをつけたよ。そこに至るまでには様々なドラマがあったけれどね、我々の追求の手をゆるめなかったことが、何よりもその勝因だったよ。彼は別の罪も犯していて、我々の手で警察に引き渡した。逃げていたあの社長もやがて姿を現して元の会社に戻り、一応はめでたしめでたして終わったというわけだ”

 “そうですか。じゃ、いい終わり方をしたんですね。まるでハッピーエンドの映画を見るように”と、ぼくは少し顔をほころばせながら言った。

 ミロンは少しぼくを見た。

 “そう、ハッピーエンドの映画のように”と、彼は言った。それから彼は続けた。“君はいいことを言うね。確かにぼくたちの青春は映画のようだった。ハッピーエンドのもあればそうでないのもある。しかし、君のお母さんのは、そのいずれだったのだろう。あのぼくらのあいだでは余り話題に上がらなかった数学講師と結ばれたのだから、一応はハッピーエンドと言えるのだろうが、彼女のその後の暮らしは、余りぼくたちの耳には伝わって来なかった。ただ彼女に関連して、ひとつ知っていることがあるのでそれを君に伝えてあげよう。それは例の作家だが、彼女が秘書の仕事を辞めてから――それは多分、君のお母さんがあの講師と結ばれたからなのだろうが、急に生活が乱れ出したという話しだ。これも間接的にしかぼくは聞いてはいないのだがね、しかし多分、あの作家も、君のお母さんを愛していたのだろう。いや、当時、君のお母さんに接した者なら誰でも愛したくなるような、そんな雰囲気を、君のお母さんは持っていたのだ。それが、ぼくたちの仲間に飛び込んで来た君のお母さんの本当の姿だった…”

 

 “どうも色々とありがとうございました”しばらくしてからぼくは言った。“本当に、あなたと会えたことを、どう感謝したらいいのか。まるで、ママに接したような気持になって、胸が熱くなる思いでした。貴重な時間を、こんなにまでさいていただいて、何んと言ったらいいのか…”

 “いいや、わたしのことはいいんだよ”とミロンは言った。“ぼくも結構楽しかったしね。それに、君のお母さんにもう一度会ってみたい気さえする。実はぼくも、君のお母さんの魅力には勝てなかった方だったのでね。――でも、これで終わったようだね。君はこれからどうするんだね?”

 “これからですか?”とぼくは言った。“まずあなたから聞いた話しを色々と整理してみます。それから、じっくりとママのその後を考えてみるつもりです”

 “リディーのその後ねえ…”と、ミロンは、感慨深げに言った。“でも、君のお父さんの方は、つまりあの数学講師の方はどうしているの?”

 “亡くなりました。事故でね”と、ぼくは悲しそうに答えた。


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 “そう、そうだったね”と彼は言った。“じゃ、その当時を語れる者はもう誰もいないというわけか。あの作家がいれば… しかし彼はその後どうしたのか、ぼくは知らないしねえ。君のお母さんとくれば、行方不明だということだし。しかしこれも何かの縁だ。もし仮に、ぼくに新事実が思い出せたり、分かったりすれば、すぐ君に知らせるようにするよ。その代わり君も、その後の君のお母さんの足どりが分かったりすれば、ぼくにこっそりと教えてくれないだろうか。ぼくも君と同様、君のお母さんのことには関心があるのでね”

 “約束します”とぼくは言った。“その代わりミロンさん、あの当時一緒におられた人々で、その人の居場所が分かれば、誰でもいいから連絡して欲しいんです。もちろん、その作家がどうしているかが分かれば一番いいんですけど。その他でも例えば、エレナさんとか、マリーさんとか、ママに比較的近かった人の居場所が分かれば、それに越したことはありません。ぼくはまだ当分は、あのホテルにいるつもりです。居場所が変わればそのつど連絡します。どうです、約束していただけますか?”

 “お易い御用だ”とミロンは言ってくれた。“約束するよ”

 

 それからしばらく、最近の生活のことや、仕事のことなどを話し合った後、ぼくたちはいよいよ別れることとなった。

 

 “それじゃ君のお母さんの健康を祝して”

 ミロンはそう言って、残っていたビールを一気に飲み干した。

 “君のお母さんが、今も元気でいて、見つかるといいんだがね”と言ってミロンは立ち上がった。“実はあした、娘の誕生日でね。何かいい物でも買って帰ろうと思っているんだ。それじゃこれで…”

 “ええ、どうも済みませんでした”と言ってぼくも立ち上がり、ミロンと堅い握手をした。

 “じゃ、さようなら”

 そう言ってミロンは、テラスから立ち去り、やがて人々の雑踏の中へとかき消えて行った。

 ぼくは再び力なく、椅子に腰掛けた。目前には、車の流れや、警笛の音、あわただしく行き交う人々、バイクで走る若者たちの姿が見えていたが、ぼくはもうそれを見つめてはいなかった。ただ寂しくて、悲しくて、ひとり心の中で泣いていたのだ…

 

 一時間後、ぼくはホテルに戻っていた。

 落ち着いて、一人になれる、本当にいい部屋だった。窓から見える緑も申し分なく、ぼくは思わず窓のテラスに出た。そして、空を見上げ、こう思った。

 この両手で、あの空に浮かぶ雲をつかみたい…

 本当に、今すぐにでもこの体が浮き上がって、あの雲の所まで飛んで行きたい気持だった。


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 しばらくしてからぼくは部屋の中に入り、しばらくソファーに坐って、ぼうっーとしていた。

 様々な思いがぼくの頭を駆け抜けた。

 ママの若かりし頃、その足跡を、ぼくはこの数週間で一気に駆け抜けたのだった。様々なことがあったはずの幼少の日々。あるいは娘時代。その全部を埋め尽くすことはもともと不可能なことだった。ママがもしぼくの話しを聞けば、それは違うと言うのかも知れない。そしてまた違ったエピソードなどを聞かせてくれるのかも知れない。しかしそのように言ってくれるママは、ここにはいないのだ。ぼくは言いようのない空虚感に捕らわれた。窓の外の日ざしはあんなに柔らかく、空に広がる雲はあんなにも優しいのに、ぼくはたったひとりで、充たされることはないのだ。

 ママが、その若い時代を必死に生き抜いた日々――それは何んだったのだろうとぼくは考えた。

 人々はその時代を生き、そしてもう二度と帰ることはない…

 いずれにせよ、その時代について、お互いに見知らぬ二人が語り合ったということは、いいことだとぼくは思った。その時代の記憶を呼び覚まし、心に刻印することは、人々の心を少なくとも豊かにするものだ。そうでないなら、昔を語ることに何んの意味があるだろう? それがどんなにつまらぬ過去であれ、その人にとってはそれしかない過去、唯一の過去には違いないのだ。しかし、ママの過去について、ほぼその青春時代を語り終えた今となって、ぼくは未来に目を向けねばならないと考えた。

 それは、ママに巡り合うという大いなる未来――

 

 それから、ぼくは再びテラスに歩み寄り、青い空と、真白な雲を見上げながら、その後のママについて、色々と思いをめぐらせた。

 メロランス郊外の美しい湖で将来パパとなる人と出会ったママ。二人はどんな曲折を経て、その親密さを増して行ったのだろう? そして、その親密さが増すにつれ、ママとあの作家との関係は? そこまで思ったとき、ぼくはふとミロンが最後に語ったあの言葉が気になった。

 “君のお母さんがあの講師と結ばれてから、作家の生活は急に乱れ出したという話しだ…”

 小説家バロー・ギガリエ――どんな男かは知らないが、ミロンによって初めてもたらされたこの作家に注目せざるを得なかった。彼の足どりをたどるのは案外と簡単なのかも知れない。

 そしてあるいは――ぼくはそこまで思って、背筋が凍る思いがした。ママの失そうに、彼が深く関与しているのかも知れないのだ!


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 そうだ、その作家! ぼくはママの失そうに到った子供の頃の古い記憶を思い起こそうとした。パパが死んだ後も、ママは誰かにおびえていた。貧しい、苦しい生活をするなかで、ママはときどき、誰かに呼び出されたように、家を飛び出して行ったことがあったのだ。子供心ながら、ぼくはどうも変だ、と直観したことがあった。その陰に誰かがいる。姿は現さないけれど、その存在によって、パパのいないぼくたちの家は脅かされている。そんな風に感じたことがあったのだ。とするなら、その陰に、あの作家がいたと考えることは、不自然なことではなかった。彼ならやりかねないかも知れない――そう考えて、ぼくはりつ然とすると同時に、あの子供の頃の苦しい時代へと、頭が回転し始めるのだった。

 

 苦い子供の頃――それは二度と思い出したくないようなものだった。いずれはそれについても語るときが来るだろうが、今はその気にはなれなかった。ただその代わりに、その過去を共有するリサに会いたいと思った。彼女こそ、ぼくたちの孤独な過去を共有する数少ない証人なのだ…

 

 さっそくホテルから電話をすると、珍しく彼女が電話口に出た。

 考えてみると、きょうは休日で、彼女が家にいたとしても不思議はない。

 “もしもし、その声は、ひょっとして兄さん?”活きのいいリサの声が聞こえて来た。

 “そうだよ。今、メロランスに来ているんだ。一度会ってみたいと思って”

 “そうなの!”と、リサは驚いたように言った。“今、どこにいるの? 今なら会いに行けるわ。場所を教えてよ”

 “実はDホテルに来ているんだ”とぼくは答えた。“なんなら、ここまで来るかい? 部屋番号は、306号室だ。至って快適で、いい部屋だよ”

 “いいホテルに泊まっているのね”電話の声は言った。“分かったわ。40分ほどで行けると思うわ。今すぐ用意するから”

 “ああ、待っているよ”

 短いやりとりの後、ぼくは受話器を切った。

 リサが来る。本当に久し振りだ。ぼくの胸は久し振りに、生き生きと脈を打ち始めた。

 

 約一時間ほど後、ドアのノックする音が聞こえて、ぼくは振り向いた。

 さっそくドアに駆け寄り、ドアを開いた。するとそこに、あのなつかしいリサが立っていた。

 彼女は、白いサテンのブラウスにスカーフを軽く巻き、グリーンのタイトスカートという簡素な着こなしだったが、ショート・カットの彼女によく似合っていた。

 “さあお入り、ここだよ”そう言って、ぼくは彼女を室内に案内した。

 リサは、スカーフに手をやりながら、興味深げに室内を見回した。それから、くるりと振り向いてぼくを見た。

 “それで、いつ着いたの?”とリサは尋ねた。


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 “それがね、半月ほど前”とぼくは答えた。“ここでね、いろいろとすることがあってね。さあ、そこへお掛けよ”

 そう言ってぼくはソファーを指示した。

 “何か、熱いコーヒでも注文しようか”

 “いいの? 兄さん。無理をして”と、リサは言った。“ホテルで注文すると高くつくのよ”

 “かまわないさ。それくらいのこと”とぼくは言った。“なんてったって、久し振りなんだもの”

 さっそくぼくは電話でコーヒを二つ注文した。

 それからぼくは、ソファーに坐る可愛らしいリサをしげしげと見つめた。

 “去年の秋。そうだ、去年の秋、ドシアンの家に来て以来だものなあ…”とぼくは感慨深げに言った。“あれから、リトイアのぼくたちの故郷も訪ね、ルブライラでは、セーラに会ったりして来た。そしてここでは、ママの過去にのめり込んでいたんだ… あんまり色んなことがあったんで、ぼくはいっぺんにふけてしまったみたいだ”

 そう言うと、ソファーに腰掛けているリサは、おかしそうに笑った。

 “相変わらずね、兄さんったら”と、リサは言った。“まだ若いのに、まるで年寄りみたい。で、姉さんに会ったの? 元気にしてた?”

 “お前と同じくらい”と言って、ぼくは笑顔を見せた。“セーラは田舎で、結構よろしくやっているよ。お前と違って、田舎向きだものな。かびの研究だなんて、地味なことをやっている。しかしそんなセーラも、なかなか輝いていて素敵だったよ。お前の方は、どうなんだい?”

 “わたし?”と、リサは、可愛い目と、あどけない口許を開いて言った。“ふふ、最近ね”そう言って、リサは可愛く笑った。“あのルナールから求婚されたの”

 “求婚だって!”と、ぼくは驚いて言った。

 しかし、リサは平然とした表情をしていた。

 “でも断ったわ”と、リサは表情一つ変えることなく言った。“だって彼、余り信用のおける人じゃないことが分かって来たもの。結構浮気者だしね。わたしと付き合っていながら、別の女とも付き合っているのよ。それで最近、彼との関係、うまく行ってないの”

 “そう、お前も、いろんなことがあるんだなあ”とぼくは言った。“それで、仕事の方はどうなんだ?”

 “まあまあよ”と、リサは、肩をそびやかすようにして言った。“ルナールとうまく行かない分だけ、仕事が来なくなったわ。でも、それほどでもないの。でも、その代わりにね”リサはそう言って、生き生きとした目をぼくに向けた。“とってもいい人に巡り会ったの。ルシアンという人。そんなにハンサムじゃないけど、とっても力強くて、男らしいところがあるわ。それでいて、ナイーブで、ひたむきなの。話しもうまくて、とっても楽しい方。小さい頃は苦労したらしいけど、今ではそれが勲章となっているの。


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そうあの人が言っていたわ。兄さんも一度会ってみるがいいわ。とってもいい人よ。年は確か、兄さんよりは四つほど上だと思うけど…”

 “そう、また機会があればね”と、ぼくは言った。“他にも何人か、男がいるんじゃないのかい?”

 “いやねえ”と、リサは、怒ったような顔をして言った。“わたしってそんな、男たらしなんかじゃないわ”

 “でもさ”とぼくは言った。“お前のような可愛い娘を、男ならほっときゃしないだろう。いつ会っても、お前の兄でよかったとぼくは思うさ”

 “きょうはどういう風の吹き回し?”とリサは言った。“そんなこと言ったって、夕食はおごらないわよ”

 そのとき、ホテルのボーイが、暖かいコーヒーを運んでやって来た。ポットから、茶碗に注ぐと、礼儀正しく、部屋から出て行った。暖かいコーヒーを口にすると、とてもうまかった。

 

 “きょうは夕食を一緒にしてくれるつもりで来てくれたのかい?”コーヒーを一口飲んでから、ぼくは尋ねた。

 “だって、久し振りなんですもの”と、リサは答えた。

 “でもぼくは内心、不安もあったんだ”とぼくは言った。“お前は長いこと都会で暮らしているし、田舎者のぼくのことなんか、もう忘れてしまっているんじゃないかって。生活が忙しくなりゃ、兄妹のことなんか、かまっちゃいられないものねえ…”

 “そんなことないわ”と、リサはにっこりして言った。“兄さんや姉さんのことは、忙しい合間でも、ときどき考えているわよ。ときには会いたいと思うこともあるし…”

 “本当かい?”と、ぼくは嬉しい気持になって言った。“じゃ今後も、会いたいときにはいつでも会ってくれるんだね”

 “もちろんよ”と、リサは答えた。“兄妹ですもの。何んの遠慮もいらないじゃない。今日もこうして会いに来ているし… ちょっとかまわない?”

 そう言ってリサは、コーヒを脇に置くと、たばこを吸い出した。

 ぼくは、椅子に坐ったまま、そんなリサをじっと見つめた。

 “ぼくたちをきょう、こうして引き合わせているのは、それは何んだと思う?”ぼくはふと、そんなことを言ってみたくなった。

 リサは、難しいといったような笑顔になった。

 “兄さんが誘ったから来たまでよ。そうじゃない?”

 “それもあるけど、それはお互いの過去だということを、ぼくは言いたかったんだ”とぼくは言った。“お前は忙しそうだから、過去を振り返る暇もないようだけど、ぼくの関心は、過去にある。そしてもちろん、ぼくたちの将来にもね”

 “さあさ始まった”とリサは言った。“そんなことを言う為に、わたしを誘ったの?”


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 “もちろんそうじゃない”とぼくは言った。“お前の元気な姿を見る為さ。――でも今のぼくは、過去の記憶でいっぱいだ。そしてもちろん、そこにお前も登場してくる。それで、お前を呼ぶ気になったんだ。――今は離れ離れになってしまったけど、ドシアンでの、お前と二人きりの三年余り、あれはよかったなあ、と今でもつくづく思うのさ…”

 “わたしにもいい思い出よ”とリサは言った。“のんびりできて、仕事も忙しくなかったし。それに、きれいな空気と、美しい景色。ときどき、あそこへ帰れば、と思うときもあるわ”

 “今だってあそこに家は残っているさ”と、ぼくは言った。“しかし、お前の方から出て行った…”

 “仕方ないわ。あのときはそうだったもの”と、リサは弁解した。“それに今だって、やはり都会の暮らしの方がいい。田舎は、たまに帰るのにはねえ…”

 “段々とお前の意識も都会向きになってきたんだねえ”とぼくは言った。“でも、それでもいい。お前の為に、家はいつでもあけてあるんだから。生活に疲れたら帰っておいでよ。あそこは本当にいい所さ。しかも四年近くもいたんだ。四年近くもだよ。そのあいだに色んなことがあった。冬と夏には旅行に行ったし、近くの野原には数限りなく出掛けた。ぼくたちにとっちゃ、オディープに続く、第二のふるさとのようなものさ。そこでぼくは、音楽と文学に触れ、お前は、大学の近くの本屋へ働きに行く。本当に満たされた、充実した毎日だった。いろんなことを話したし、いろんな将来の計画についても話し合った。お前は熱心に聞いてくれた。――でも、ママの過去を探訪するという計画以外は、すべてつぶれてしまったけれどね。ねえ、あんな日々を、もう一度取り戻してみたいと思うときがあるよ。お前はやりたくなさそうだけれどね。それに、同じような過去が戻ってくるものか、どうか。時はどんどん経過して行くからねえ。それからあの時代、ぼくたちと一緒に過ごしたセーレンも、いい思い出さ。今頃は天国から舞い戻って、あの辺りをさ迷っているかも知れないけれどねえ…”

 “あの頃は、わたしも、本当にひょっ子だったわ”と、リサは言った。“生活の変化が余りにも大きくて、とまどったのよ。何をすればいいのか分からなかった。一番の変化は兄さんよ。それまであんなに荒れていたのに、急に、なぎが来たみたいに、大人しくなってしまって…”

 “環境が人を変えるいい例さ”と、ぼくは言った。“ぼくだって、貧しい環境にいれば心もすさんで来る。――でも、一定の安定を得れば、心も穏やかになって来るものさ。今は穏やか、穏やかそのものだよ。そしてその目を通して世間を見れば、色んなものが見えて来る。世間の人々の愚かしさや悲しさ。ぼくはとてもその中に入って行く気にはなれない。ぼくはもう完全な世捨人さ…”

 “まだそんなことを言ってるの”と、リサは言った。“でもわたしの兄さんだから許してあげる。兄さんはいつか、詩人にしかなれないって、言っていたわねえ”


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 “そう、詩人こそ、ぼくの望むところさ”と、ぼくは言った。“世間一般のことは知らなくてもいい。でも、その為に一生を賭けられるようなもの、そんなものを、ぼくは追い求めて行きたいのさ。いつまでもね…”

 “兄さんの考えていることは、まるで雲をつかむような話しよ”と、リサは言った。“でも、そんなところが兄さんらしいわ。昔とちっとも変わっちゃいない…”

 “ぼくはねえ、もう一人で生きて行くしかないんだ。あのキルケゴールのように”と、ぼくは言った。“一人で色んなことを考えてしまう。しかしその中身は、世間の人々には余り意味のないものさ。とりわけ、ぼくたちや、ぼくたちの親の過去のことなんか、誰が興味を持ってくれるだろう? しかしぼくは、それを追求せずにはいられない。なぜだろう? それはお前にも分かるだろう? それは、ぼくたちの過去がそうさせるんだ。ぼくたちの家庭が、ある日を境に崩れ去った。だから、その埋め合わせをしたいだけなんだ…”

 “世間では、親のいない人なんか、いくらでもいるのに”と、リサは言った。“兄さんはいつまでもそのことにこだわり続けるのねえ…”

 “素晴らしい子供時代、そしてごく普通の家庭生活。一体それはなんだろう?”とぼくは言った。“それこそは、その人の人格形成そのものなんだ。誰もそこに亀裂が入ることなど望んでやしない。亀裂が入らなければ、それはそれで、幸せな生涯を送ることができたはずなんだ。色んなことに挑戦し、力強く、幸せに生きて行くこともできただろう。ぼくだって、今頃は、いっぱしのサラリーマンになっていたかも知れないんだ。何んにも考えず、ごく普通に、社会の流れに乗って、その歩みを止めることもなかっただろう。――でもぼくは違った歩みを始めた。何も歩まないことに決めたんだ。社会のレールに沿っては何も。そしてもっと真実を見つめたいと思った。人の生き死に、そして人生そのものへ。それをもっと、しっかりと見つめることなんだ。本当の幸せって、なんだろう? それは、誰かが与えてくれるはずのないものだ。それは、自分で見つけるしかないものなんだ。ぼくはだだっ子かも知れないけれど、性急に物分りのいい大人になんかになってしまえば、真実なんて、もう見えなくなってしまうかも知れないんだ。ぼくの好きなこと。それは、不可能に挑戦するということさ。だって、本当の真理は、その不可能の境界の向う側に存在しているかも知れないからだ…”

 リサは黙ってぼくの言葉に耳を傾けていた。

 “兄さんの話しを聞いていれば、誰かが言っていたあの言葉を思い出すわ”しばらくしてからリサは言った。“ホラッ、あの言葉。月が欲しいからと言って泣く子を笑ってはならない。その子には月が必要なんだ――って。誰が言ったのかしら?”

 “そう、まさにぼくはその子供さ”と、ぼくは、しんみりと言った。“ねえ、外はこんなに晴れているんだ。素晴らしい空さ。そして、この素晴らしい大空の下で、子供の頃に戻ってみたいって、思わないかい? こんな都会じゃなく、ぼくたちのいたあの田舎にさ”

 こういう話しになるとぼくは雄弁だった。ぼくは続けた。

 “オディープと名づけられたあの村に。そこには、ママもパパもいました。そして、ぼくたち三人の兄妹も。その結束は強く、ホールバラ家は幸せそのものでした。


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子供たちは暑さ寒さに関係なく、日夜、野原を駆け巡りました。そこで、色んな珍しいことを見つけては遊び回りました。森で隠れん坊をしたり、川で昆虫採りをしたり、野原でボール投げやとっ組み合いをしたりして遊び回りました。夕陽が沈むまで、日が暮れるのも忘れて遊んでました。学校生活も楽しく、家の中でも、人形を使ったりして遊びました。ぼくが宇宙船の艦長。そして、妹たちは乗組員。他に人形たちの乗務員と共に、空想の宇宙空間を果てしなく旅し続けました。そこで様々な悪に出会い、勇ましく立ち向かいました。親たちは、二階で遊ぶぼくたちを、めったに見に来ることはなく、優しく、暖かく見守っていました。夜には望遠鏡で星々を観察しました。そしてぼくたちの空想は広がって行くばかりでした。なぜ? なぜ人は生まれ、ここにいるのだろう? なぜ、宇宙はあんなにも遠く、つかみようがないのだろう? なぜ? なぜ? なぜ? 再び日は明けて、今度は野原でたこ上げをしました。空にはばたくたこ。その雄姿を見ているだけで、子供たちの心はなごむのでした… それなのに今はもう、このなぜ?も少なくなり、感動する心もない。それが不満で、悲しいのさ。ねえリサ、そんなことがあったことを忘れちゃダメだよ”

 “でも、どうしろっていうの?”と、リサはぼくを見つめて言った。

 “じゃ、もう少しぼくは続けるよ”とぼくは言った。“幸せなホールバラ家は、未来永ごうに続くと、子供は思っていました。しっかりした父親と優しい母親。この仲はなかなかしっくり行っていたし、子供たちは子供たちで、時にはけんかをしながらも仲はよかったのです。みんな手をつないで村に郊外へピクニックへ行くときは、とくに幸せでした。暖かい日ざしの下、弁当を広げ、明るい賑やかな話し声が、広い自然の中でこだましました。そこで小さな、可愛いらしい動物たちと出会い、子供たちの目は、一層大きく見開かれました。日光は、まぶしいほど暖かく照りつけ、村の生活は平和そのものでした。――しかしある日、そこに暗雲が立ち込めたのです。暗い暗い雲で、再起不可能のような、絶望的に不気味で、恐ろしい雲が。それが、ホールバラ家をおおい尽くし、まず最初の犠牲――尊い父の生命を奪って行ったのです。それが、つまづきの始まりでした。次いで家庭に不幸が起こり、一家は離散、取り戻しようのない奈落へと突き落とされて行ったのです。それが幸せなホールバラ家に起こったてんまつでした。ざっと、童話風に語れば以上のようになる。そして、ぼくはあの時点に立ち返りたい。幸せが突然停止したあの時点にね。それがぼくたちにとってなんだったのか、もう一度問い直してみたいのさ”

 “考えてみれば、わたしたちの歩んで来た人生って、並のものじゃないわね”と、リサは言った。“でも誰もそんなこと、分かってくれないわ”

 “分かってくれなくて結構さ”と、ぼくは言った。“ぼくは、人がどう言おうと、もう一度、自分の歩んだ道を、歩み直してみるつもりさ。そうでないと、今の自分が、納得行かないんだ。あの時点を境にして、今のぼくとは違った自分を想像することもできようが、そんな人生を、ぼくは望んでいるわけじゃない。そうじゃなくて、変節を被ったぼくたちの人生に、完全なる説明、完全なる理解が得たいだけなんだ。それを与えてくれるのは人なのか、ぼく自身なのか、それとも神なのか、それはぼくには分からない。でもぼくはそれを見つけるまで、この追求の手をゆるめないつもりなのさ…”


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販売価格110円(税込)

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