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 “リディーとはそれ以後、ひと月ほどは会わなかった”とミロンは言った。

 日ざしのいい日で大通りには、思い思いの服装をした人々が行きかっている。目の前のワイングラスのワインは、もうほとんど空になりかけていた。ぼくは夢中になって、ミロンの語る昔の話しに聞き入っていた。

 “春間近になってぼくは家に帰って来たが、リディーのことを聞くのが心苦しかった。あんなことをした経緯もあり、彼女のそばには出来るだけ近付くまいと思った。それで、家に帰って来ても出来るだけそっとしていたのだ。幸い、家の者は、ぼくたちのあいだにあったことは知らないらしかった。村にとっては、ぼくたちの事件など小さなものに過ぎなく、ほとんど広まることもなかったのだろうと思って、内心ぼくはほっとした。しかしその後の彼女のことは気にはなっていた。いずれは、もう一度会って謝らねばなるまいと思いもしたが、その日は先送りになっていた。彼女については、なんの噂も、話しも、耳には入っては来なかった。そしてその分だけ、彼女のことが気になってならなかった。今もあの家で元気にしているのだろうか? それとも、あの後、一人でこの村を出て行ったのだろうか? 彼女ならやりかねない、とぼくは思った。そしてもしそうなら、彼女は今はどこにいるのだろうか? そういった一切の情報、彼女について何んの知識も入って来ない自分が、もどかしくてならなかった…”

 “そうして悶々と、帰郷の日々を過ごしているとき、思いがけないことに、突然彼女がぼくの家に姿を現したのだ。しかも鞄まで持って。ぼくの驚きようといったらなかった。また駆け落ちを迫られるんではないだろうかと思って恐れたのだ。だが、彼女は、今度こそ本当に家出をするつもりだった。しかも今回はひとりでだと彼女は言った。彼女の表情は真剣だった。しかも、前のいきさつは、きれいに水に流してくれていた。彼女の表情は、何かがふっ切れたように晴れ晴れとして、爽やかで、実際その日は、彼女の旅立ちにとって、本当に素晴らしい春だった…”

 “ぼくも、あの彼女の旅立ちの日のことは忘れられない。長く続いた冬もようやく過ぎ去り、まだ山の峰々のところどころには残雪さえ見られる季節ではあったが、それでも平野部では春の花々がそろそろ咲き匂うような、よく晴れた、本当にさわやかな初春の日だった。村はまだ本格的な春にはなっていず、冬のあの冷たさが残ってはいたが、その冷たさと言えば、春を呼ぶような、ぼくたちの膚には最もさわやかに感じられるあの冷たさだった。そんな初春の季節の日に、彼女はやって来た。彼女は、まだ冷たさの残る春の日に、本当の春を運んで来るように現れて、そして、ぼくの家や村から、あのリトイアの駅を通って、去って行った。――なあホールバラ君、ぼくには、そんなイメージでしか、彼女のことを語れないのだよ。そして不思議なことに、彼女が行ってしまったその翌日から、あの暖かな、本格的な春が、村に到来したのだ。リディーは、村に春を呼ぶ少女――ぼくはそんな風に彼女のことを考えた”


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 “彼女のあのときの幸せそうな表情、草が萌え、まるでさわやかな村の風景にピッタリはまり込むような、黄色いブラウスを着た彼女の顔つきは、今もハッキリとぼくの記憶に残っている。17になったばかりの彼女は、新鮮で、生命力がみなぎり、本当に希望に燃えていたのだ。そんな彼女の背後に、暗い影が宿ろうなど想像もできなかった。一見、暗くさえ感じられた彼女が、どうしてここまで回復したのか、ぼくには分からなかった。リディーは、過去のことをすべて洗い流し、全く未知な、新しい未来に向かって旅立とうとしていたのかも知れない。彼女は、ただ晴れやかで、幸せそうで、十七才になったばかりの少女として、全く非の打ち所がなかった。ぼくはただ彼女の魅力に圧倒され、引きずり込まれて、彼女に従う他なかった。しかし同時にぼくはそれで幸せだと感じた。こんなに魅力あふれる女性に対して、何かしてあげられる自分が嬉しかったのだ。くり返し言うが、リディーって、あの日の春が似合うような、本当に素敵な少女だった…”

 “そうですか。そんな風に言ってもらって、ぼくも嬉しいです”と、ぼくは言った。“それで母は、汽車に乗ってメロランスヘ旅立ちました。それからどうなりました?”

 “リディーの最初の日のことはこの前話したね”と、ミロンは言った。“マルスを尋ねて下宿屋へ行ったが、あいにくマルスは投獄中で留守だった。そんな風に、リディーのメロランスでの生活は、その第一歩からつまづきの連続だった。彼女の前に、決していい生活が待っていたわけではなかった。しかし彼女を迎え出た男たちの中に、幸いなことに彼女のことを知っていた男がひとりいた。知っていた、と言うより、知るはずだった、と言い換えた方がいいかも知れない。というのも、このナタンという男は、リディーとは会わなかったけれども、ぼくに誘われて、ぼくの村、リトイアヘ行ったうちのひとりで、あのそり滑りに参加した友人の一人だった。だから彼は、リディーを見て、何よりも、その美しい顔立ちから、あるいは、あの噂のリディーでは?と直観した、ということだった。その直観はすぐ現実となった。リディーは、さっそく自己紹介をし、携えて来た手紙をナタンに見せた。ナタンは、マルスに代わって、彼女の為に骨を折らねばと考えたわけだ。とにもかくにも彼女の為にやらねばならないのは、彼女の為の宿捜しと、職業捜しとだった…”

 

 ぼくには、ミロンの話しを聞いているうちに、ママの上京した当時がどんな風だったか手に取るように、想像できるようになって来た。それは、不思議と言えば不思議な物語で、その出来事が、もう三十年近い昔にあった出来事のようには、とてもぼくには思えなかった。だってそれほどママの姿が、ぼくの目の前に、歴然と浮かんで来たのだったから…

 

 ママは、白っぽいカーディガンを羽織り、大きな、また古びた革鞄を脇に置いて、下宿屋のフロアーに立ちながら、この見知らぬ、そしてまたみすぼらしい男たちの群れを、何も分からない乙女心をときめかせながら、期待を持ったまなざしで眺めた。


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 一方、男たちにしてみれば、若くて美しい十七才ほどの小娘が男臭い宿に飛び込んで来たということで、もう既に一騒動が持ち上がっていた。みんなは興味深げに、何を目的かは知らないが、突然訪れた、この可愛らしい娘を、まじまじと見つめた。

 そのうちナタンだけが、他の男には見れないように、彼女の携えて来た手紙を読み、それから彼女に返した。彼女が家出をして来たことは、彼ひとりだけの胸の中に収めるつもりだった。

 ナタンは、期待するようなまなざしでこちらを見つめている、産で、可愛らしいママを見つめ、胸が少しばかり震えるのを感じた。

 全くミロンって奴は、と彼は思った。リトイアの村で、こんな少女を相手にしていたのか。

 あきれると同時に、大きな驚きを感じた。しかしその少女は今、ミロンの手を離れて、初対面のこの自分の下にいるのだった。

 “リディアさん、ですね?”と、ナタンは、彼女の気を沈めるように、落ち着いた口調で言った。“この手紙によると家をお捜しとか。でもねえ、適当な家があるかどうか…”

 “おいおい、その手紙には何が書いてあるんだ?”

 “家を捜しているんだって?”

 他の男たちが口々に騒ぎ立てた。

 “おいおいみんな、このレディーに失礼だぞ”と、ナタンは、ピシャリと彼らの口を封じるように言った。“誰か、この人にふさわしいようなアパートを知らないだろうか?”

 “ひとつ知ってるぞ”と、誰かが言った。“マリーのアパートだ。彼女の隣の部屋が空いていると言っていた。あそこならどうだろう? ここからはそんなに遠くないし、部屋代も手頃だ。そのお嬢さんになら、気に入ってもらえると思うんだがな”

 “マリーのアパートか”と、ナタンはうなづくように言った。“あそこならよさそうだ。でも”

 そう言って彼は、他の男には聞こえないように、彼女のそばに近づくと、彼女にささやくように耳うちした。

 “契約金はあるんですか。だいたい1000※※ぐらいだと思われますが…”

 “ええ、大丈夫です”と、ママは答えた。

 “じゃ、さっそく行きましょう”と、彼は、再び大きな声に戻って言った。“時折地下鉄の音が聞こえる余りいい環境の所とは言えませんがね、でもここに比べれば、比較的静かで落ち着いた所です。さあ行きましょう”

 そう言って彼は玄関に向かったが、そんな彼を、そっとさせなかったのが、この下宿に住む彼の仲間たちだった。

 “おいおい、お前だって、あのマルスの代わりなんだろう”と、仲間のひとりが言った。“だったらお前ひとりで行かなくて、みんなで彼女の世話をしてやろうじゃないか。この際みんな一緒だがかまわないだろう”


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 “しかしお前たち”と、ナタンは振り向き様言った。“このお嬢さんが迷惑がるじゃないか”

 とたん、みんなの視線は、ぼくのママに注がれた。

 ママは、自分の鞄を持って立ち上がると、幸せそうな表情を見せながら、

 “どうぞわたしにはおかまいなく。みんな来て下さると言うのなら、そうして下さって結構ですよ”と言った。

 それですべては決まった。安宿のどう見てもみすぼらしい身なりの五、六人の男たちに囲まれて、都会へ出て来たばかりのママは、自分のアパートヘ向かうこととなった。

 

  ひとりの若く、はつらつとした少女をはさんで、五、六人の身なりの汚い男たちがぞろぞろと街の裏通りを歩いて行く姿は、都会の春の日が及ぼしたちょっとした異変であると同時に、同じ地域に住む大多数の住民にとっては無関心な、小さな出来事に過ぎなかった。でも、まだ都会に出て来たばかりで、何も知らない産なママにとっては、この出来事は、新鮮で、感動的ですらあった。そればかりか、目に見え、手でふれられるすべてのものが、驚きで、珍しいものばかりだった。壁が一部はがれ、裏街の、うらぶれた建物、無造作に打ち捨てられたトラック、地下鉄が上を走って行く陸橋、そのすぐ際に立つ家々、狭い路地で、無邪気に遊ぶ子供たち、輪回しをしたり、土をかけ合ったりしている。髪の毛もボサボサで、汚い身なりをしたかみさんが、家の前で、腰に手を当てて立っている。村ほどに緑はなくとも、これが都会なんだ、とママは、それらをつぶさに目にして、新鮮な感動を覚えた。これからわたしは、この街に溶け込もう…

 本来ならアパートまでは、地下鉄でひと駅分あるはずだったが、彼らは歩いて行くことにした。歩いているうちに、ゆるくカーブを描いた建物の群れの向うに、これまで話しでは知っていたが見たことのない、この都会を象徴するモニュメントの数々がうっすらと見えて来たときには、さすがにママはドキッとした。やはりここは都会で、紛れもないメロランスにやって来たのだと、ママは実感した。あれが、あの有名な、あの建物なのだ、とママは思った。

 やはりメロランスに来てよかった。だってすべて、興味あるものばかりですもの。ママはさっそく、その新鮮な感動を、ノートにつけたに違いない。残念ながらそのノートは失われて、残ってはいないけれども…

 公園通りを通り、きれいなスズカケの並木道をも通って、ママは、いっとき高級アパート群を目にしてから、貧しい裏通りのこれから住むことになる自分のアパートのある所にやって来た。

 “ここだよ”とナタンに言われて、ママは、他の建物に挟まれるように建っている五階建ての、小さなアパートを見上げた。

 “ここの五階だ。マリーって子が住んでるけど、彼女と親しくなるがいい。なにくれと親切にしてくれるよ”

 そう言ってナタンは、どこかへ走って行き、しばらくして、アパートの管理人のおばさんを連れて来た。


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 それから、みんなはゾロゾロと、合鍵を持った管理人のおばさんとママに付いて、ぐるぐる回るアパートの階段を上がって行った。

 ママは扉を開けられ、一見して、自分の部屋が気に入った。午後の太陽光線が、スリガラスを金色に染めて部屋の中にも入り、白く壁の塗られた、ベッドとちょっとした家具以外は何も置いていない簡素そのものの部屋が、ママには新鮮に思われ、気に入ったのだった。

 ママはホッとしたように、持って来た鞄を床に置いた。扉の開いた入口には、つめかけた不精ヒゲの男たちがひしめき合い、その一部は、ママの部屋の中に図々しくも入り込んでいた。ナタンは、彼等に、失礼だから出るようにと注意を促した。

 “それじゃリディアさん”と、ナタンは丁寧に言った。“部屋も決まったようですから、ぼくたちはこれで失礼します。その他、入りようでしたらなんなりと、このぼくに連絡下さい。ぼくは今からさっそく拘置所に行って、あなたの手紙を見せて、マルスにこのことを連絡するつもりです。それから”

 と言って彼は再びママに耳うちをした。

 “みんなをこの部屋から追い出しますから、その後で少しばかりぼくに時間を下さい”

 ママがうなづくと、ナタンはみんなを追い出しにかかった。

 “さあみんな帰ろうぜ!”

 みんなは、まだ未練がましく、振り向きもって、ゾロゾロと部屋から帰りにかかった。

 ナタンが最後の一人になるや、彼は再び、ママの部屋にとって返して来た。

 “リディアさん”と彼は言った。“手紙の内容は、まだ誰にも言ってはいません。もちろんあなたが家出をして来たことも。手紙によると、家の他に、仕事の方も捜すようにって書いてありましたね。その方は、またあした捜すことにしましょう。きょうはもう遅いですから、ひとまずここでお休みなさい。マリーはそのうち帰って来るから、あなたに会うように、ぼくの方から連絡しておきましょう。あしたはまたぼくがここへ会いに来ますから、御安心下さい。こんな程度でしかお役に立てなくて、本当に済みませんでした”

 “いいえ、とんでもないことです!”と、ママは言った。“あなたには心から感謝していますわ。本当に、みんなに迷惑をかけてしまって、こちらこそ謝らねばならないぐらいですわ。それから、マルスさんには、わたしから会いに行かなくてよろしいんですか?”

 “いいえ、いいですよ”と、ナタンは言った。“まだあなたは着いたばかりですし、いろいろとおありでしょうから。マルスには、そのうち会いに行ってやって下さい。さあそれじゃ、ぼくももうこれで失礼させていただきます”

 “本当にナタンさん”と、ママは、彼に両手を差し出した。“なんと言ったらいいか、まだこれからあなたに世話になるかも知れない身ですもの。初めてお会いしたのに、心から感謝していますわ…”

 “いいんですよ。お互いさまですから”ナタンは、ドアを出るときちょっと体を振り向いて、それからさっと部屋を出て行った。


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 ママはついにひとりになった。西陽がスリガラスに当たって、金色に輝いている。その窓ガラスは、何もない部屋の中にあって、美しくさえあった。初めてママが都会で迎えようとしている夕方は、その窓ガラスのように美しく、感動的であった。ママはそっと歩み寄り、その窓を開いて見た。すると、新鮮な、ヒンヤリした都会の空気が室内に流れ込むと同時に、うらぶれたこの下町の近辺や、遥か向うの街の様子まで見遥かすことができ、それら大都会の春がすむ空の下を、村で見たのと同じ太陽が、傾きながらも、初春の柔かい光を投げかけている光景が目に飛び込んで来て、ママははっとなった。ママは、田舎では見たことのないそれらの光景に、息を呑むような美しさを感じたのだ。そして、しばしぼうぜんとなりながら、うっとりとするようなまなざしで、それら街の光景を、遥か彼方の街の様子まで時が経つのも忘れていつまでも眺め入るのだった…

 

  翌日、ママがどうしたものかとアパートの部屋で迷っていたとき、きのうのナタンが、朝の十一時頃になって、急に姿を現した。

 “心配したでしょう。少し遅くなってしまって”と、彼は、ママがあけたドアの入口の所に立って言った。“それで、家の方の手続きはもう終わりましたか?”

 “ええ、おかげさまで”と、ママは彼を見つめながら言った。“どうぞ、遠慮しないで、お入りなさって”

 ナタンは、質素な部屋の様子を伺いながら入って来た。

 “それで、マリーは来ましたか?”しばらくして、彼は尋ねた。

 “ええ、夜遅く”と、ママは答えた。“随分帰って来るのが遅いようですのね。ほんの少しあいさつして、すぐ自分の部屋へ行きましたわ”

 “マリーは夜勤だからね”と、ナタンは、天井などを見回しながら、落ち着かぬ様子で言った。“ああそれから、マルスには会って来ましたよ”

 “どうでした?”と、ママはすぐ尋ねた。

 “元気でしたよ”と、ナタンは答えた。“あなたのことを話すと、とてもなつかしがっていました。あなたに会えないのが、残念そうでした。そんな大事なときには、居合わすべきだったって。しかし安心なさい。彼はすぐ釈放されそうです。公務執行妨害で逮捕されたときはいつもそうなんですから”

 “そんなにたびたび逮捕されるんですか?”と、ママは少し心配そうに尋ねた。

 “単なるデモですよ”と、ナタンは答えた。“ぼくたちや、労働者たちの生活の要求の為の。大した罪を犯したわけじゃありません。彼はすぐ元気になって帰って来ますよ”

 “なかなか勇ましい方ですのね”と、ママは、にっこりしながら言うのだった。

 “さて、それじゃ、例の仕事の件ですが…”と、ナタンはしばらくしてから切り出した。“ぼくの知っているある小さな工場なんですが、人手不足で、腕のいいミシン工を捜しているんです。


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そこの社長は、ぼくたちにも理解のあるなかなかいい人で、ぼくたちみんなが尊敬もし、親しくつき合いもしている。リディアさん、ミシンの扱いの方はどうなんです?”

 “少しなら”と、ママは答えた。“実は高校の実習で習ったぐらいですの。家にはミシンがなかったものですから”

 “まあいいでしょう”と、ナタンは言った。“少し習えば、あなたならきっと上手になられる。仕事というのは、下請で、ブラウスやスカートやズボンを縫う仕事なんです。今、人手がなくて、社長が困り果ててるんです。どうです。やってもらえないでしょうか?”

 “気に入りましたわ、その仕事”と、ママは言った。“是非わたしにやらせて下さい”

 “それじゃ決まりだ”と、ナタンは嬉しそうに言った。“あなたが来れば、きっと社長も喜ぶに違いない。いや、ぼくたちが社長と言ってるけどね、とっても気さくな方なんだ。名前はオーズ・ファーフレと言ってね、言いにくいから、みんな社長と言ってるまでさ。給料だって、彼は決して阿漕なことはしない。そりゃ決していいとは言えないけどね、でも働きに見合う分だけは払ってくれるはずさ。それじゃ、さっそく行きますか?”

 “ええ、でも少し待って下さい”とママは言った。“このままじゃまずいですから、少し着替えますわ”

 “そんな、普段着のままでいいですのに”と、ナタンは言ったが、彼は部屋の外に出て、そこの踊場で待つことにした。

 しばらくして、ママは着替えて出て来た。白いシャツ、エンジのブレザーに、同色系統のチェックのスカートで、ママとしては、持って来た唯一で、精一杯の外出着だった。

 “実は、これ一着しかないんですの”と、ママは部屋から出て来るなり、恥ずかしそうに言った。“これで学校へも通ってましたし、目立たないところで、ほころびている所もあるんですの”

 “それで十分ですよ”と、ナタンは、ママの服装をつくづく見つめながら言った。“さあ、それじゃ行きましょう…”

 

 ナタンが案内してくれた所は、地下鉄に乗って3っつ目の駅の所だった。そこも下町と見え、薄汚れた建物や、工場などが、ごちゃごちゃと軒を連ねていた。駅を降りてしばらく歩いた横丁を曲がったところの、あまり目立たない場所にその建物はあった。

 日差しが悪く、壁のはがれたみすぼらしい建物で、窓の奥は外から見ると真暗だった。

 二人が入口の前に立ったときには、すぐそばの、地下鉄が走る騒音が、うるさく耳に響いた。

 “確かに余り環境がいいとは言えないがね”と、ナタンは、地下鉄が通り過ぎてから言った。“でもミシンの音だって結構やかましいから、騒音どおしがかき消し合って、丁度いいんだ”

 しかし若いママには、すべてが興味にあふれ、その目は輝いていた。


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 “それじゃ中に入りましょう”とナタンは言い、ママを中に案内した。

 すると、薄暗い玄関の奥の方から、眼鏡をかけた、丸顔の、いかにも人の良さそうな社長が、作業着のまま姿を現した。

 “社長”と、ナタンは、彼を見るなり、親しみを込めて言った。“きのう話したリディアさんです。連れて来ましたよ”

 社長は、まだ十七になったばかりのママを、つくづくと眺めた。

 “ミシン歴は浅いですが、意欲の方は十分ですよ”と、ナタンはさらにそう付け加えた。

 “リディアさんか。初めまして”と、社長は気安そうにママに声を掛けた。“ファーフレです。よろしく。みんなはわたしのことを社長と呼んでいますが、実際はそんなものじゃないんですよ。御覧の通り、わたしは単なる作業員です。みんなと同じ仕事をしていますよ”

 “リディア・フローバです。よろしく”と、ママもそれに対して答えた。“採用していただけますでしょうか?”

 “もちろんです。さあ中に入りなさい”と、社長は言った。

 玄関を入った右手の広くなった所がすぐ作業場だった。何人かの女の人が働いており、ミシンの音が勇ましく鳴り響いていた。彼女たちの目が一斉に、入って来たママに注がれた。

 “みなさん。リディア・フローバさんです”と、社長は言った。“きょうからわたしたちの一員に加わることになりました。みんな、親切にしてあげて下さいね”

 女性たちはママをつくづく見やり、それから軽く拍手でママを迎えた。

 このようにして、ママのメロランスでの生活の第一歩は始まったのだった。

 ナタンはやがてママを一人残して帰って行き、ママは直接社長の指導を受けることになった。ミシンの前に坐って、ミシンの機構の説明や、扱い方の説明などを、ひとつひとつ受けて行った。そのあいだにも、数台のミシンのけたたましい音、それから、時々通り過ぎる地下鉄のゴーッという騒音が、絶えることがなかった。室内は薄暗く、日もささなかったが、ママにとってこの日は、充実した一日だった。ともかくも一人で、この見知らぬ大都会で、生活の糧を稼ぎ出しているのだという自負と喜びとがあった。社長の手ほどきで、ミシンの針が動き出したときには、ママは、胸が熱くなるような感動すら覚えた。

 そして夕方、壁に掛けられていた丸い掛け時計の針が五時をさしたとき、ミシンの音は一斉にやむのだった。

 女工たちは持ち場から立ち上がり、帰り支度にかかった。

 ママも同じ仕種で立ち上がったが、そこへ社長がやって来た。

 “リディアさん”と社長は言った。“その服装じゃ作業がやりにくいでしょう。あしたからはもう少しラフな服装で来て下さい。ここは家族的なふんいきで、気を使う必要なんかないんですからね”

 “分かりました”と、精一杯のブレザーを着たママは言った。


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 他の女工たちが社長に軽く会釈をしながら出払ってしまい、いつしかママがひとりだけ残ることになった。

 同じく部屋の中に残った社長は、女工たちのやり残した服を一つ一つ丁寧に片付けながら、最後に、自分の為にとっておいた一番隅のミシンの前に腰を降ろすと、五時十五分を回ってからも、ひとり寂しくミシン掛けを始めるのだった。

 出口のそばに立っていたママは、そんな社長の姿を見つめた。

 “社長さんはまだ帰らないんですか?”と、ママは何気なく尋ねた。

 すると、ミシンを掛け始めた社長は、ひょいと顔を上げた。

 “ああ、仕事を間に合わせなくっちゃならないんでね”と、社長は答えた。“でもリディアさん、君はもういいから、お帰りなさい”

 ママは、作業場での社長を一人残して、外に出た。夕暮れどきの外の空気はすがすがしかった。しかしその空気以上に、ママの心の中は、晴れやかで、夕暮れの空にうっすらとかかるあの白い雲以上にさわやかだった。ママは、ふくらむ気持ちを抱いて、初めて見る下町を、駅に向かって歩いた。

 

 このように、ママのメロランスでの出だしは順調だった。

 夜遅くにはマリーが尋ねて来て、少しづつ都会のふんいきを知るようになって来た。三日後にはマルスが釈放され、真先に、ママのいる工場に尋ねに来てくれた。窓から顔を出したマルスに、ママは驚いたように、ミシンの手を止め、他の女工たちの前を通って窓際にまで歩み寄った。

 “まあマルスさんですの。お久し振り”と、ママは、窓越しにマルスと話し合った。

 “ここにいるって聞いたものでね”と、マルスは、道端に立ったまま、ママに答えた。“どうです? 都会での居心地の方は”

 “まあまあといったところね”と、ママは、朗らかな笑顔になりながら答えた。“それでもう大丈夫ですの? 逮捕されたということでしたけれども”

 “今、留置所を出て来たところですよ”と、マルスは答えた。“無罪放免。当然のことですよ。それで、ナタンはどうしてます?”

 “多分、お部屋にいると思いますけど…”と、ママは答えた。

 “それじゃ、仕事の邪魔をしちゃ悪いからね”と、マルスは言った。“また休みの日にでも会いましょう。ここはいい街ですよ。案内する所がいくらでもある。ぼくたちで案内しますから楽しみにして下さい。それじゃさようなら…”

 ママも、去って行くマルスに向かって手を振った。

 自分のミシンの所に戻って来ると、年取った女工が、意地悪い目つきで、そんなママを見つめるのだった。まあ、なんて男関係が派手なのかしら、と彼女たちは言っているようだった。


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 最初の一週間が過ぎ、待ちに待った日曜日がやって来た。

 もうその頃には、ママはマリーと親しくなっていて、マルスの話しをすると一緒に行こうと言ってくれた。

 ママは、メロランスでの初めての日曜日の朝、さわやかな目覚めを経験した。

 簡素な白い壁に囲まれたベッドには、他に誰もいなかったけれど、まるでここは宮殿で自分はお姫様のように感じたりもした。さっそくベッドから起きて、窓を開け放すと、朝もやに包まれた都メロランスの眺めは素晴らしかった。そしてママは思った。今から、あのメロランスヘ船出して行くのだ、と。

 朝の七時半にはもうマリーがママのドアを叩いた。

 “起きている?”と彼女は、ツーピースで、腰にアクセサリーを付けた晴れ着でやって来た。

 それがいかにも都会的で、田舎にはなかったそのセンスを、ママは羨ましく思ったりもした。

 ママには、都会へ出て来た時の外出着が二着しかなかったので、ブレザーでは堅苦しく、初めてここへやって来たあのラフなスタイル、白いカーディガンを羽織って行くことにした。

 “ねえ、この街を見物するのは初めてでしょう”とマリーは言った。“見る所はいくらでもあるわ。地下鉄に、聖堂に、タワーに、それに、船乗りに、美術館も、公園もある。とても一日なんかじゃ足りないわ。どれがいいかしら。E……塔にまず登ってみるのがよさそうだわ。そこからなら、街の全望が見渡せるもの”

 “お任せするわ”と、ママは控え目に言った。内心では、美術館に魅かれたりしたのだけども。

 二人が何やかやとペチャクチャ喋っていると、8時になって、マルスとナタンの二人が姿を現した。

 “おはようさん”と二人は言った。“ご機嫌はどうですか?”

 “とってもいいわよ”とママは答えた。

 “準備もいいようだし、出発するとしましょうか”と、マルスは言った。

 

 四人は、お互い腕を組み合って、楽しそうにママのアパートを出発した。朝のひざしを浴びた春の街路樹の葉がさわやかだった。落ち着いた石畳や、古い建物、両開きの窓や、屋根に少し覗いて見える煙突など、どれをとっても絵になるようなたたずまいで、ママは歩きながらワクワクした。早朝のパンを運ぶ少年が自転車に乗って駆けて行く。老人が白い愛犬を連れて散歩に来ている。ママは思う存分、メロランスの日曜の香りを、胸の中に吸い込んだ。

 そしてついに、ママたち一行は、乗物に頼らず自分の足で、メロランスの中心を流れるS……川に着いた。それは素晴らしい川だった。


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 ママは、郊外の、葦の茂った小さな湖水のほとりにあるその閑静な館に行くのが嬉しかった。これがメロランスの目と鼻の先にある建物とはとても思えなかった。周りには、静かな森が広がり、水鳥が餌をついばんでいるような清楚な湖が広がっている。

 ママは、約束の6時に作家の家に行った。家政婦が玄関に現れ、ママをその静かな邸内へと案内した。初めて面接を受けたあの書斎に通されたとき、しかし、あの作家はいなかった。古いテーブルと椅子、天井まで届く書棚、それに大きな地球儀や書棚のあいだにある出窓など、面接のときそのままだった。あのときはよく見なかったが、今ようやく窓の外を眺めてみると、夕暮れの窓の外が思いの外美しいことに気が付いた。西陽を受けて森が小麦色に輝き、青い小さな湖面が、さらさらとさざ波をたてている。こんなに感動的な気持になったのは、そうだ、とママは思った。外のあの美しさは、今のわたしの気持にピッタシだわ。あのお空も、湖も、わたしの今の幸せな気持を反映している…

 そのとき、ふと、後ろのドアが開いたのでママはハッとなって振り向いた。

 そこにはあの作家が立っていた。

 “景色を見ているのかね。まあお掛けなさい”と彼は言った。“外の景色もなかなかのものだろう”

 ママは窓際に立っていたが、おずおずとそばにあった椅子に坐った。

 “まあ気を楽に”と、作家は言った。

 ママが腰掛けると、作家は、黙りこくって、観察するようにママをじっと見つめた。

 “それで”と、しばらくしてから作家は言った。“結局、君に白羽の矢が当たったわけだ。理由はいろいろあるが、今は細かいことは言わないことにしよう。それでだ、さっそくだが、あしたから仕事にかかってもらえるかな。仕事の中味は、手紙や書類の整理、わたしの原稿のタイプや、口述筆記、その他だ。朝の9時に来てもらって、夜の5時には帰ってもらっていい。週給は、60※※※。いいかね”

 その当時の60※※※の週給は、それまでのママの1ケ月の給料に匹敵していた。ママは嬉しさで、飛び上がりたいほどだった。

 “それ以外にも”と、作家は言った。“ときどき外遊をするが、そのときには付いて来てもらうことがあるかも知れない。旅先のホテルでタイプが必要なときもあるかも知れないのでね。しかし、そんなに遠くじゃない。日数もほんの数日間だけだ。あんまり遠い旅のときは来てもらわなくて結構だからね”

 ママは黙って聞いていた。

 “それで何か、質問はないかね?”作家は尋ねた。

 “わたし”とママはやっと口を開いた。“こんな経験は初めてで、ドキドキしています。まさかわたしが合格するなんて思ってもみませんでした。もっと経験を積んだ、才能のありそうな方がたくさんいてましたのに、どうしてわたしが選ばれたのか、今もって不思議でなりません。


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おこがましいかも知れませんが、それはどうしてなのか知りたいと思っているんです”

 “どうして? 選ばれて嬉しくはないのかい?”と作家は穏やかな表情で尋ねた。

 “いえ、まるで夢のようですわ”とママは答えた。

 “それでも選ばれた理由が知りたいんだね”と、作家は穏やかに言った。“いい。特別にお教えしよう。理由は簡単だ。他に適当な人がいなかった。それだけの理由だ。言葉を変えれば彼女たちは確かに経験を積んでいる。技巧にはたけている。たが、インスピレーションがないのだ。秘書というものは、作家にとって、インスピレーションの源泉でなくてもならん。他の面接者にはそれが欠けていた。わたしの作品について的確に批評した子もいた。だが、わたしの求めていたものは批評家ではなく、あくまでも秘書としての適格性なのだ。君が特にすぐれていたというわけではない。他の子にはそれが感じられなかっただけなのだ。君を選んだのはそのような理由からだ。それで納得をしてもらえたかね”

 ママにとっては難しい解答だったが、それでうなづく他はなかった。

 “他に質問は?”作家はまた言った。

 “いいえ、結構です”とママは言った。“こんな未熟なわたしですのに、身に余る光栄ですわ。体の震えが、どうにも止まらない状態ですの”

 作家はその言葉で、やっとくつろいだ表情になった。

 “これからも長いことだし”と彼は言った。“できるだけ緊張はほぐしてもらう方がいいな。それでは今度は気分を変えて、少しは君のことを話してもらおうかな”

 “わたしのことですか?”とママは驚いて言った。“わたしのことって、特に話すようなことなんか、ありません”

 “例えば出身地とか、現在の仕事だとかさ”と、彼は言った。“君には恋愛経験はあるのかね?”

 ママにはとっ拍子もない質問で、ドキリとした。

 “それはもう済みました”と、ママはか細い声で、目を伏せるように言った。“今は、思い出したくもありません”

 “そう、苦い経験だったようだね”と、作家は言った。“じゃ、もう触れないことにしよう。じゃ、君の出身は?”

 “そんなこと、言うんですか?”ママは、困ったように顔を上げて、作家を見た。

 “よければ言ってもらいたいのだがね”と、作家は、涼しい顔で答えた。“何か、さしさわりでもあるのなら、言わなくて結構だが”

 “いいです”と、ママは言った。“田舎は、リトイアの近くのサビーノです。小さくてなかなかいい田舎でした。わたしは今年の春、そこから出て来たのです”

 “リトイア?”と作家は言った。“詳しくは知らないが、多分あそこだね。でも、田舎でしたって、当分は帰らないつもりなのかい?”

 “ええ、そのつもりです”と、ママはきっぱりと言った。“それ相応の決心をして、出てきましたから…”


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 “そう、向うでは何をしていたのだね”

 “学生でした”と、ママは答えた。“なかなか楽しかったですわ”

 “そう。まじめに勉強していたんだね”と、作家は言った。“少しは教養のある子の方がいい。技術はあっても、勉強はさっぱりという子が多いんでなあ。小説は好きな方だったのか?”

 “ええ、少しは”と、ママは答えた。

 本当はかなりだったのに、相手が作家ではそう言う他なかったのだ。

 “まあ君なりにわたしの作品を読む機会があれば、大いに批評してもらって結構だ”と作家は言った。“だがわたしは曲げないよ。いい意見は取り入れても、書き換えたりなんかはしないからね”

 ママはクスリと笑った。

 “わたしにそんな力なんかありませんわ”と、ママは正直に言うのだった。

 “まあ少しは慣れて来てくれたようだね”と、作家はママが笑ったのを見て言った。“万事こんな調子だ。あした、定刻に来てくれたまえ”

 ママはやっと解放されて、内心ほっとしたものを感じた。

 それにしてもなんと素晴らしいのだろう。ママは、沈み行く夕陽が、葦の茂る湖畔の館に当たるのを見ながら、意気ようようと引き上げて行ったのだった…

 

 ママは、それまでのミシン会社に辞表を出し、一部の同僚たちに惜しまれながら会社を去った。勇ましいエレナは、とりわけママの退職を惜しんだ。今後も友だちになってね、とエレナは言い、ママもそれを約束した。こうして、その翌日からさっそく、秘書としての仕事が始まった。

 仕事は淡々と進んだ。手紙類や案内状の整理。様々な請求書や、入金の案内もあり、会計の一切までも、ママに任された。ママには、作家のふところ具合が想像も出来ないほど裕福なのが、手に取るように分かって来るのだった。それから作家の原稿による地味なタイプ打ちも始まった。

 静まり返った書斎で、ママがタイプ打ちをしているあいだ、作家は、窓から外を見つめながら、ぼんやりとパイプをくゆらすこともあった。

 “ねえ君”と、しばらくしてから彼は言った。“そんなに根を詰めてやっていればくたびれてしまうだろう。少しは休憩したら?”

 “でも、どうしても午前中に仕上げてしまわないと”と、ママは言った。“午後からはあなたのおっしゃった文章で、ファンに返事を書かなければなりませんので…”

 “そんなのは適当でいいんだよ”と、作家は言った。“まあそれより、ここへ来て休憩しなさい。見て御覧。窓の外はあんなに美しい。ねえ、ここに飾っているこの剥製の鳥はなんて言うか知っているかい?”そう言って彼は、書斎の奥に飾ってある一羽の大きな剥製の鳥を指さした。


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 ママは首を横に振った。

 “ヒシクイという鳥だ”と作家は言った。“昔は冬に、この湖水にも飛来したものだが最近はメッキリ減った。くちばしの黄色いのが特徴だ。冬になってこの湖に飛来して来るとき、空に一文字になって飛んで来る様は、なんとも言えず壮観だったよ。だが、最近は、そういう光景も見られなくなってしまった。今はまるでこの湖水は、死の湖みたいだ。そしてつまらんまがもが、羽を休めたりしている…”

 “そうですか?”とママは、驚きの目でもって、その鳥を見つめながら言った。

 “君の田舎はリトイアとか言ったね”と作家は続けた。“聞いたところではなかなかいいところだそうだ。あそこには湯治場もあって、落ち着いたいい町だということだよ。また行く機会でもあれば、案内してくれるだろうね”

 “案内なんて、とんでもありません”とママは言った。“是非と言うのなら仕方がないですけど、本当にわたし、案内できるほど町のこと、知っちゃいないんです”

 “今のは冗談だよ”と作家は言った。“ただね、そんな遠い田舎から来た君が、今ここにいるのが不思議な気がするんだ。女って、分からないものだね”

 “何が分からないんですか?”と、ママは尋ねた。

 “いや、立派な度胸だ、ということだ”と、作家は言った。“君はもちろん、こちらで一人暮らしなんだろう?”

 “ええ、現在のところは”と、ママは正直に答えた。

 “わたしも若い頃、田舎からこの町にやって来たが、君とは違って、もっと小心で、おどおどばかりしていた”と、作家は言った。“そして随分、人生の苦しみもなめた。しかし、その話しについてはまた後にしようか。さあ、もう作業にかかってくれていいよ”

 

 最初の一週間は夢のように過ぎ去って行った。友だちによれば、ミロンは夏休みで里に帰ったということだった。今になってみれば、自分を培ってくれた里がなつかしいという気がした。しかし、ミロンのように気軽に帰るというわけには行かなかった。辛くともここに残って頑張る他はなかったのだ。それにしてもあの小川、教会の鐘の音や、牛のいるあの家、細い道や森、そしてモーリイと行った湖などのなつかしさがどっと込み上げて来た。いつかは帰ってみたい。しかしそのときはいつだろう?

 夏休みで学生仲間は帰郷したり仕事をしたりのみんなバラバラで、みんなが一緒になるという機会はなかなか出来なかった。そのあいだに、同じアパートに住むマリーや、エレナたちとママは親しくなった。みんな似たような境遇で地方から出て来ていたが、里に帰るつもりはなかった。マリーとは時間帯が合わなかったのでめったに顔を合わすことはなかったが、日曜日は、みんなが顔を合わせる唯一の日だった。

 一週間後の日曜日の午後、マリーが、続いてエレナがママの飾り気のない部屋に入って来た。


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 マリーとエレナとは初対面だったが、ママは簡単に二人を紹介した。

 マリーはほっとしたように白いベッドの上に坐った。

 “けさはずっと眠っていたわ。すっかりくたびれてしまっていてね”と、マリーは言った。“でもあんたはいい仕事にありついたようね”

 “そうでもないわ。結構忙しいもの”とママは答えた。

 “でもあの作家、どんな人なの?”とマリーは尋ねた。

 “まだよく分からない”とママは答えた。“でも、どちらかと言えば物静かで、それでいてとてもエネルギッシュな人。頭の中は色んな知識でいっぱいなの。どこであんな着想を得て来るか不思議なくらいよ”

 “でもいいわあ”とマリーは言うのだった。“作家なんて、あこがれるわ。そんな人と一緒に仕事ができるなんて。そのうちきっと、いいことがあるわよ。わたしのところなんか、ろくでもない人ばかりよ。奴らにからかわれて、本当に辛い仕事”

 “あんた、何をやっているの?”と、少し年上のエレナが尋ねた。

 “わたし?”とマリーは、エレナを見た。“バーで働いているの。でも、これでもいろんな情報は得ているのよ。人には知られていない裏情報もね。みんな酔っているから、わたしには本当のことを話してくれるの。でも作家なんて、そんないい客はめったに来ないわ”

 “そう、あんたらしいわね”と、エレナは言うのだった。“わたしはもっと固い仕事。知ってるでしょ。このリディーと一緒の職場にいたの。リディーはやめてしまったけどね。でもわたしはみんなの為にあそこで頑張るわ。リディーもやめた後も協力してくれると約束してくれているもの。そうでしょ、リディー”

 “ええ”とママは、マリーの顔色を伺うように答えた。“だってあの会社はヒドいですもの。以前のように正常化するまでは、わたしも協力は惜しまないわ”

 “でも、協力するって、どうするの?”と、マリーは尋ねた。

 “社長を背後であやつっているハポネルという会社があるの”とママは言った。“でも仕組みが複雑でなかなか手が出せないの。社長は、みんなの不満を押さえる為、チンピラまがいの専務を雇ったわ。彼がいるから、みんななかなか手が出せないわ。彼はギャングともつながりがあるという話しだし。だからみんな涙をのんで仕事をしているわ。病気をする娘も出て来るし、本当に悲惨な状況なの”

 “そう、そんなにヒドいの”とマリーは言った。“でもあんた、やめてしまったのならなんにも出来ないじゃないの”

 “でも、話しは聞いているわ”とママは言った。“そして、マルスたちに相談したりしているの。いい知恵がないか。彼らは結構役立つのよ”

 “あああの人たちね”と、マリーは言った。“ときどきわたしのバーにも来てくれるわ。身の上相談にも乗ってくれるし、いい人たちよ。でも、めったに現金で払ってくれないけど… それはともかく、あんたたちは何が知りたいの?”


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 “あの専務がハポネルと関係があるのは分かっているけど、なかなか尻尾がつかめないのよ”とエレナが言った。“ハポネルの誰れとつながっているのか、それが分かればなんとか対策を打つこともできると思うわ”

 “ハポネルって、わたしも知っている会社ね”とマリーは言った。“その会社がそんなにヒドいことをしているの?”

 “会社ぐるみなのか、一部の分子なのか、それが分からない”とエレナが言った。“でも、わたしたちの会社が借金しているのは確かだけど、その借り入れ先がハポネルなのか別組織なのか、それもはっきりしたことは分からないの。でも、ハポネルと関係あるのだけは確かよ”

 “そう、そういうことなら任せなさいよ”と、マリーは言った。“わたしのいるバーにはいろんな人が来るし、ハポネルのうわさについても入って来るに違いないわ。なんならその社員をうまくバーに引っかけてみましょうか”

 “そんなの、でも危険よ”とエレナは言った。“なにしろ相手は、ギャングと関係があるんですからね”

 しかしマリーはすっかり興味を持って、エレナの忠告を聞かなかった。

 “まあ任せなさいよ”とマリーは言った。“こういうことは得意中の得意なんだから…”

 

 ママら三人にとって、その日はおしゃべりのうちに過ぎて行った。みんな境遇が似ていた為か、すっかり意気投合するのだった。ママは、三人のうちでは一番若く、しかもずっと若かったが、たくましい彼女らの姿を見て、心が奮い立つのを感じた。こんなさわやかな興奮を感じたのは、本当に久し振りのことだった。みんなと力を合わせて、社会の悪に向かって立ち上がる。こんなに胸がワクワクすることってあるだろうか。こんなにハッキリとして、正しいことは他にないように、ママには思えた。しかもママは、そのささやかな一員だったのだ。

 

 翌日から再び、秘書としての生活が始まった。

 作家は相変わらずで、時としてママを笑わせることも心得ていた。

 

 昼食は、自分のつくった弁当を、ママは食べることにした。自分の為に当てがってもらった裏庭に面した部屋を、ママは昼休みの場所とした。裏庭はまるで森のようにいっぱい木が茂っていて、快い夏の日ざしが庭の樹々を明るく照らしている。透明なガラス窓でおおわれたこの簡素な部屋がママは気に入った。壁紙や、窓のさんなどの塗装が、ところどころはげていたが、その部屋の痛んだ様子も、ママの気に入るところとなった。テーブルクロスも古く、椅子も古く、風化されるままになっていたが、何ら飾り気のないところが自分にはピッタシだとママは思った。書斎の、人を威圧するような、堂々とした風格は緊張を強いり、気疲れさせるばかりだった。まさに息が詰まり、肩が凝る気がした。



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