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chapter 7-2

 

「分かった。ベスも気をつけて。ちゃんと食って寝なきゃ駄目だぞ。うん、じゃあ」

 今日の昼休み、メリッサの遣いに約束の薬を渡し、ベイリウムはあくまで頓服として使用するよう、念を押した。約半月分。女性の精神安定剤の依存症は、決して少なくないのだ。すぐにエスカレートし、リスキーな量を要求されても困る。

 一人の部屋に帰宅し、軽く夕食を済ませるとべスから連絡が入った。叔母の具合が落ち着くまで、もうあと二日ほど滞在する、と。別にそれはそれで、エディは構わない。それでも彼女の体調を心配するのは、彼女の優しい性格を理解しているからと、エディがお節介なのとどちらとも言えない。きっと両方なのだろう。

 久しぶりにバスタブに湯を張り、ゆっくりと体を沈める。ベスと2人でいると。お互いがまだ気を遣い合う事もあり、シャワーで済ませてしまう事が多い。ただでさえ、一人でいても面倒さが先に立って、バスタブに浸かる事は少なかった。もう、バスルームには石鹸の匂いしかしなくなっている。昨日までは、まだラベンダーの香りが微かにしていたが、もう消えてしまったようだ。

 栓を抜いて、湯を流してしまう。曇った鏡に、上半身が映る。貧弱だ、とずっと思っていた体が、ベスと一緒だとさすがに女の体とは違うのか、さほどそうは見えなかった。ジェフとずっと一緒だったからかも知れない。それでも、自分では弱々しい体だと思う。

 髪を洗ってガウンを羽織り、キッチンに行ってナイトキャップ代わりにタンカレーをグラスに三分の一ほど注ぐ。氷を入れ、残っていたライムを搾って、更に残ったライムを一緒にグラスの中へ。まだ雫を拭っただけの髪を被ったバスタオルで拭きながら、ジン特有の香りを口の中で転がす。時間はまだ10時。一人で夜をゆったりと過ごすのは、いつぶりの事だろうか。

 クリス宅でのパーティー以降は、殆どの日にベスが此処にいた。エディが彼女の家にいた事もある。一人で過ごす日は、週に一度あったかどうか。彼女と一緒にいる事で、その罪悪感、これからどうするのかといった事を考える事は出来なかった。たとえ表情に出さずとも、彼女がエディの様子に気づいている事は、一緒にいて数日で分かった。

 ラジオの電源を入れ、古いロック専門の局に合わせる。新しいものは分からない。こっちに出てきてからは、そんなものをチェックしている余裕はなかった。ハイスクール時代まで聴いていた曲が、一番耳に馴染む。ちょうど、ジャーニーの『エニウェイ・ユー・ウォント』が流れていた。この頃は、卒業を控えてプロムの相手探しをしていた…あの色目を使うコーチから逃れる為。もし、あの頃に自分が女に興味がない、と自覚していたら、彼の誘いに乗っただろうか?

(いや、断ってただろうな。ジェフの方が遥かにいい男だ)

 また、ジェフの事を思い出している事に気づいて、自嘲めいた笑いが浮かんだ。

 空になったグラスをシンクに置いた時、乱暴にドアを叩く音がした。隣かと思い、近づいてみると、この部屋だ。鍵はまだ3つともかけてある。ドアに耳を当てて、声をかけた。「誰?」

「エディ。俺だ…」

「ジェフ!?どうして?」

 ドアの鍵を開けるのももどかしい。なぜ、今日というタイミングで来るのか。ベスのいる日なら、すぐにでも追い返すものを。追い返す理由を自分の中に見つけられない事を言い訳に、急いで3つ目の鍵を開けた。ドアが開くと同時に、倒れこむように、普段着姿のジェフが入って来た。実際に倒れこんだ、と言っていいかもしれない。入って来たジェフは、酒の臭いをさせ、エディに抱きつくようにもたれかかってきた。それを受け止め、足元をふらつかせながら、ドアに鍵を掛けなおす。

「今日は、『あの女』は?」

「嫌な言い方するなよ。ベスは叔母さんが倒れてブルックリンに帰ってるよ」

 ジェフを抱きかかえるようにして、ソファに誘導した。ジェフも、素直に従ってソファに腰を下ろす。

「コート、皴になるぞ」ジェフがのろのろと脱いだハーフコートを受け取り、背もたれにかける。

「エディ、水貰えないか?」

 返事をする事なく、キッチンへ行き、ミネラルウォーターをグラスに注いで持って来た。喉を鳴らして飲み終えたジェフは、グラスを置いたその手で、エディの手首を掴んだ。

「ジェフ、ちょっと何するんだよ」ジェフは何も答えず、エディの手首を引き、ソファに押し倒した。

(この重み、この匂いだ…)

 見かけに違わぬ体の重みも、フレグランスに混じった体臭も、体が覚えている。手をジェフの背中に回しかけて、慌てて胸元に戻してジェフの体を押し返そうとした。たとえ、それが本気でなくても。そうしなければならない、と思った。

「ジェフ、離せって」

 形ばかりの抵抗を試みるが、本気で抗ったところで、勝てないのはエディも知っている。頭に被っていたバスタオルも落ち、羽織っていたガウンも簡単に剥ぎ取られ、冷たいジェフの唇が素肌を這う。微量しか残っていなかった抵抗する力は消え失せた。腕をジェフの背中に回し、その体を全身で受け止める。エディは求められるままに体を開き、今までのわだかまりが頭の中から消えて行くのを感じていた。

 

 

 案の定、事が終ると、ジェフは眠ってしまった。無理な体勢で横たわるエディに圧し掛かったまま。

 ソファの背もたれを支えにして、ジェフの下から体をそっと引きずり出すように起こすと、足腰がぎしぎし言う。どれだけ負担の掛かる体勢であっても、その時は案外と夢中で気がつかないものだ。

 ガウンを羽織って、バスルームでもう一度シャワーを浴びた。何ヶ所かに、薄っすらとキスマークが残っている。指が触れると、肌が粒立つ。その感覚から逃れるように乱暴に手で撫で、バスルームを出た。クローゼットから毛布を出し、ジェフに掛け、脱ぎ捨てられた衣服を簡単に畳んで傍に置いた。ソファの近くにしゃがみ込み、ジェフの顔を覗き込む。

(全く。子供みたいな顔して寝てやがる…)

 と、ジェフが寝返りを打ち、エディの上に転がり落ちる。

「痛っ」

「あ?クリス…今、何時だ?」

 エディは、全身の力を込めて、ジェフの体を撥ね退け、時計を見た。

「今、11時過ぎ。言っとくけど、俺はクリスじゃない」声には、抑揚がなくなっていた。

「え…?」

 言うが早いか、ジェフが慌てて飛び起きた。エディの顔を見るなり、顔を逸らす。

「ジェフ。あんた、さっきも俺がクリスだと思ってたのか?」

 そうじゃないのは分かっている。ちゃんとジェフは、エディの名を呼んだのだから。

「いや、違う。分かってたよ、お前だって」

「じゃあ、今更どの面下げてここに来たんだよ。あんた、今はクリスのオトコだろ?あいつが相手してくれなくなったとでも言うつもりか?あいつが駄目だったら、俺ならやらせてくれるだろうって。」

「違う。そうじゃない。…いや、そうなのかも知れないな」

「俺は、あんたの性欲処理機械じゃない」

(そんな事を言いたいんじゃない。本当は嬉しかったくせに)

「分かってる」

「じゃあ、なんだよ」

「コリーが…」

 また、あの男だ。まさか、自分の事を聞いてやしないか、と不安がよぎる。

「あのクリスのそっくりさんだろ?奴がどうかしたのかよ」

「俺がいる前でも、クリスはあの男といちゃつきやがる。怒ったところで、『あいつとは火遊び程度だから妬くな』で終わりだ。で、あいつのディックを可愛がったその手で、あいつは俺のディックを可愛がるんだ」

(で、そのクリスに突っ込んだディックを俺に突っ込んだんだろ…)

「で、、俺にどうして欲しいんだよ」

「分からない」

「じゃあ、何しにここに来た!?」エディは拳をテーブルに叩き付けた。グラスが跳ね、床に転げて割れる。ジェフは相変わらずエディと目を会わせようとしいない。

「酔っ払って、愚痴を言いにか?それとも最近クリスに相手にして貰えないからって、てめぇのディックを慰めて貰いにか?」

「違う、違うんだ」

「何が違うんだよ?」

「そういうつもりじゃなかった…」

「じゃあ、どういうつもりなんだよ」

「ただ、やりきれなくて、お前の所しか思い浮かばなかったんだ…」

(そう。そうやって、俺の所に逃げ込んで来たんだ。でも、また出て行くんだろ?)

「結局、そういう事だろう?」

「済まない…」

「Fuck You(くそったれ)!」

「エディ…」

「出てってくれ」

「エディ、済まない」

「早く、さっさと服着て出てけよ」

 エディが立ち上がると、ジェフもしょうがなく立ち上がり、服を着始める。足元を見ずに立ち上がったせいで、先刻割れたグラスの破片が足の裏に刺さる。ジェフが着替えている間に拾い集めてテーブルに載せた。気配で、ジェフがまだ背後に立っているのが分かる。

「まだ、いるのかよ。早く出てけよ」

「済まなかった。けど、なんでお前も俺だと分かってて、追い返さなかったんだ?」

「早く出てけよ、Fuckin' dick head(くそったれ野郎)!! Get Fuck out of  here(さっさと出てけ)!!」

 もう一度、テーブルを殴る。背後で、遠ざかる足音と、ドアの閉まる音が聞こえた。

(今度こそ、本当に終りだな…でも、言うべき事はちゃんと言えたじゃないか。褒めてやるよ、エディ・ジャクソンさんよ)

 

 

「なんだよ、今度は女か?」

 ソファの上で寛いでいるコリーがクリスに訊ねる。クリスが確認している留守番電話のメッセージの声が漏れていた。

「『彼女』だよ。放ったらかしにしすぎるのもよくないな。愚痴が入ってた。もうそろそろ終らせようと思ってたんだけどね。逆上して押しかけられても困る。ま、それはジェフも同じだけどね。」

 苦笑しながらも、クリスの顔は、どこか楽しげだった。登録してある短縮ダイヤルを押し、メッセージを録音した。

「ジェフ。彼女の事、少しは構った方が良さそうだ。俺も、もう少しは構ってやる事にするよ」

「こないだ、ふてくされてたな。で、俺の事は構ってくれるのかな?」

 にやにやと笑うコリーの傍に歩み寄り、彼の手にあるクアーズの缶を取り上げた。

「あんたが寝室に行く気があるんならね」

「面倒くさい」

 コリーの手が、クリスの手首を掴んで引き寄せた。

(さて、どうやって幕を引こうか…ジェフは思うように動いてくれないだろう。エディ、あんたを巻き添えにしようか?あんたなら、俺の望みを叶えてくれそうだものな)

 ソファに押し倒されながら、クリスは笑いをかみ殺していた。

 

 

 ジェフの来訪から二日後の朝、ベスが戻ってきた。彼女がもう少し早く戻っていたらどうなったろうか、とエディを見て微笑む彼女を見て思う。

「叔母さんの具合はどうなった?もう落ち着いたのかい?」

 彼女の分と、自分にもう1杯、新しくコーヒーをセットする。ベスはマフラーを解き、コートを脱いで、ダイニングの椅子の背もたれに掛けた。

「うん。心臓が、ちょっとね。でも血管のバイパス手術が上手くいって、意識も戻ったから…。従姉妹達もついてるからって」

 今日はエディも休みだったので、彼女の帰りをこうして迎えられたが、もし出勤の日だったら、何も知らずに帰宅するとベスがいる状態だった。今日が休みで良かった、と思う。彼女がいない間にジェフとの情事があった事など、痕跡は無いのだが、後ろめたさと、羞恥心があった。彼女は、エディが男に抱かれて喜んでいたなどと知る由もなく、当然知られたくもない。アリスンに知られたくないのとは、違う意味で。

 疲れて帰って来たであろう彼女の為に、ヴァニラを利かせたパン・プディングを用意し,オーブンに入れた。コーヒーが入ったマグカップを2つ、テーブルに置く。小さく『ありがとう』と言った彼女は、珍しくエディの顔を見上げない。ただ、ぼうっと自分の足元を見ている。

「ベス、元気ないみたいだけど。叔母さん、本当に大丈夫なのか?」

「エディ」ベスが急にエディに真顔で向き直った。

「どうしたんだい?急に」

「あなたの方が疲れて見えるわ。最近、何か心配事でもあったんじゃない?あまり立ち入った事は聞くつもりないけど…」

 やはり、彼女は何でも見抜いてしまう。ジェフが来たのが、ベスのいない時で本当に良かった。

「ベスには隠せないな…ちょっと眠りが浅くて寝不足が続いててね。実際疲れてるのかも」

 一部は事実で、一部は嘘だ。それも、彼女なら見抜いているかもしれない。

「後で、カモミールティーでも買ってくるわ。私も疲れちゃったし」

「カ?カモなんだって?」

「カモミール」ベスはころころと笑った。

「ハーブよ。薬じゃないわ。リラックスさせる効果があるって言われてるの。私もあまり薬は好きじゃないわ。特に睡眠薬はね」

(あの女優さんにも、これが必要なんじゃないだろうか)

 睡眠薬、と聞いて、一瞬どきりとする。クリスに盛られたのも、恐らく超短時間型の睡眠薬だった筈だ。

 ベスに全てを話してしまいたい衝動がこみ上げる。話したところで、何の解決にもならない。しかし…

 ちょうどプディングがいい頃合いに焼けたので、ミトンで掴んでベスの前に出す。

「まずは腹ごしらえしなよ。少しゆっくりして、それから一緒に買い物でも行こう」

 甘い香りを湯気と共に立ち上らせる皿を目の前に、ベスが表情が綻んだ。

 触る事も出来ないほど熱い皿にスプーンを差込み、一口分を掬って冷ましているベスは、まるでティーンエイジャーの少女のようだった。以前は気弱げに見えた表情も、最近では堂々として見える。かといって、エディに対して独占欲をあからさまにしたりする事もない。女は、こんなにも変われるのか、とエディは思う。それが自分という存在の影響だとは、到底思えなかった。

 この生活が続けば、彼女は「その先」を考えるようになるだろう。それを受け入れてしまえば、次に来るのは「家庭」。そんなものを自分が持つのは許されない。なにより彼女を騙し、自分を騙して、この生活を続ける訳にはいかない。どこかで、終止符を打つべきだろう。けれど、それは、彼女を悲しませる事にならないのか?エディは、頬杖をついて、目の前のベスの姿を見つめた。

「やだ。急にそんな見られたら恥ずかしいじゃない。私の顔、何かおかしい?」

 久しぶりに、はにかむ彼女の顔を見た気がした。

「美味しそうに食べてくれるからさ。作り甲斐があるよ、こんな簡単なものでも」ベスに笑顔を向ける。

 そうだ、彼女に対する愛情がない訳ではないのだ。ただし、それは「家族的」な愛情だ。残念ながら、それは彼女が求めているものではない。

(そう。これは欺瞞だ。彼女に対しても、俺自身にも)

 彼女を悲しませたくはない。けれど、このままの生活は、嘘の上塗りのようなものだ。女達のいう、『男って…』と言われる、逃避を上手くやり過ごす方法が、見つからない。フレンチ・リーブ(徐々に相手から距離を置き、自然消滅させる別れ方)も出来ない。いっそ全てを話して、壊してしまったらどうなるだろう。

 出来もしない事を考えてみる。エディの目は、ベスの方を向きながらも、彼女を見てはいなかった。


14
最終更新日 : 2014-04-11 16:11:10

chapter 8-1

 
 
 
 エディの予想は的中した。
 彼女の使いに薬を手渡して僅か10日後、封筒に入った彼女からの伝言が届けられた。
『今夜か明日の夜、7時にこの前の店で』
 メッセージの下には、滞在先と思われるホテルの電話番号が書かれている。昼休みに電話を入れたが、あいにく留守だった。今夜が都合が良い旨をオペレーターに伝言する。今日も明日も早出なので問題はなかったが、嫌な事は早いうちに済ませるに限る。あとは、今日同じく出勤しているベスに伝えること。彼女が休みでなければ、ほぼ毎日エディのアパートに2人で戻る。既に3月。最後にジェフがエディの部屋を訪れてから、一週間。何事もなく過ぎていく日々。ただ、ベスへの罪悪感に苛まれてさえいなければ。
 男女の仲なのだから、当然セックスもする。しかし、女相手で、そうしょっちゅう出来るほどエディも器用ではない。何もせず、ただベッドの中で彼女を抱きしめて眠る日が多かった。恐らくは、エディが淡白なだけだと彼女は感じているだろう。これで結婚してようものなら、セックスレスを理由に、離婚と共に慰謝料を取られる所だ。
 ベスには、用事で少し遅くなる旨を伝え、メリッサの指定したラ・パルマへ向かった。
 店に入ると、先日の老オーナーが黙ってエディを奥の席へと案内した。彼女はいた。夕暮れ時に、屋内だというのに濃い色のサングラスをかけて。化粧も気のせいか、以前会った時より更に濃いように思われた。
「悪いわね。急に呼び出したりして」
「いえ」
 エディが席につくと、すぐにオーナーがワインを注ぎにきた。彼が立ち去るのを確認してから、メリッサが口を開いた。
「もう無くなってしまったのよ。次回から、もう少し量を増やせない?」
「容量は守ってくれるよう言った筈ですよ」
「でも出せるんでしょう?今度、新しい映画のオーディションがあるのよ。それまでに、なんとかしたいの。お願い」
 メリッサの表情はたとえ目元が隠れていても、焦燥感が浮かんでいるのが見て取れる。
 リタリンはアンフェタミンとよく似た効果を持つ。またその依存度も効果と同じく高く、ジャンキーのようになっている者もいる、と聞いた。
「あなたは、普通の幸せが欲しかったんじゃないんですか?」
「それは、それよ。まだ事務所との契約もあるわ。すぐに引退できるものじゃないわ。第一、クリスが婚約に賛成するかどうかも分からない」
それは、まずあり得ないだろう。それを知ったら、彼女はどうするだろう?
「お願い」
「俺は精神科医じゃありませんよ。そんな事、判断出来ない」
「だめよ。あなたは、私の言う事をきかなくちゃ」
急にきっぱりというメリッサに、戸惑った。
「どういう意味です?」
バッグを探ったメリッサの手が、白い封筒を探し当て、テーブル越しにエディに差し出した。封はされていない。少し硬い紙状のものが入っていた。封筒から出しかけて、エディの手は止まった。
「これは、誰から…?」
まさしく『あの時』の写真だった。封筒を持った手に思わず力が入り、握りつぶしそうになる。エディのところにはポラロイドしかなかったが、少し違うアングルのポラロイドと、もう2枚、ネガから現像したものが入っていた。
「マークの言ってた事、当たりなんでしょう?だから、お願い出来るわよね?」
「恐喝ですか?」
「なんと取ってくださっても結構」
(クリス、お前がまたさせてる事だろう)
「俺は、薬自体好きじゃないんです。」
「ねぇ、お願い出来るわよね」
 頭の中で悪魔が囁く。この女が、この行き詰った状態を壊してくれるのではないか、と。せめて、クリスに一矢報いる事だけでも出来ればめっけものではないか?
(俺の知った事じゃないさ。どうせ、犯罪の片棒担がされてるんだ…)
「その前に、俺はあなたに言っておかないといけない事があります」
「何かしら?」
「俺だけじゃないって事です」
「どういう意味?」メリッサが姿勢を正して向き直った。
「俺は…俺はジェフをクリスに寝取られたんですよ」
 メリッサは動かない。まるで塑像のようだ。
「今は?」
「だから言ったでしょう。今も、ですよ」エディは自分が予想外に冷静なのに、笑いだしそうになる。
「ジェフの家はどこ?」
「同じコンドミニアムですよ。一つ上の階」
「部屋の番号は?
「1402」
「薬は遣いをやらせるから渡しておいて」
 メリッサの声は、かすかに上擦っていた。エディの方は見ずに立ち上がり、そのまま出て行った。残されたのは、手もつけられていないワイングラスと、封筒に入った写真だけだった。
(クリス。あんたの望みはこれだったのか?俺に出来る事はやった。あとは…好きにしろよ。俺は疲れた)
 エディはテーブルの上の封筒を掴み、立ち上がった。
 
 
 情事の後の気倦さが部屋を支配していた。
 久しぶりに、クリスの方からジェフの部屋を訪れたので、数週間来のジェフの不機嫌もすっかり直ったようだ。恐らくクリスの為に用意されていたのだろう、プロセッコを出して来て、ベッドまで運んで来てくれるサービスまでついて来た。あまり発泡ワインは好まないのだが、無粋なウィスキーやスピリッツを飲まされる事を思えば、十分だった。
 ふいに、寛いだ時間を邪魔するブザーが鳴り、静寂を破った。軽く舌打ちしたジェフがベッドから立ち上がり、ガウンを羽織って寝室を出て行った。あんなもの、無視すればいいのに、とクリスは思いつつ、グラスを空ける。
「ちょっと、メリッサ、待てよ。ま…」ジェフの慌てふためいた声と共に、荒々しい足音が聞こえ、何度かドアを開ける音が聞こえてきた。
(そうか。突き止めたか)
 クリスも立ち上がり、床に落ちたバスローブを羽織った。足音は近づき、寝室のドアが勢い良く開けられ、メリッサ、ついでジェフが入ってきた。
 メリッサは、バスローブ姿でベッド脇に佇むクリスを見て、目を見開いた。
「ドアマンの彼は、覚えててくれたわよ。ドクター・デガーモのガールフレンドとしてね。『驚かせたいから、あなたには知らせないで』ってチップをはずんだら、そのまま通してくれたわ。先にあなたの部屋に行っても何も反応がなかったから、もしや、と思ってこっちに来たんだけど…もう少し早かったら、『お楽しみ』の最中を邪魔できたのにね」
 歪んだ笑いを浮かべたメリッサはまずクリスを、次にジェフを見て、クラッチバッグの中から鉛色に鈍く光る物を取り出した。
「メリッサ、待て。落ち着くんだ!」
 メリッサの前に回りこんだジェフが、両手を広げて彼女の前に立ちふさがった。
「何よ…あんた達、グルだったんでしょ?エディに聞いたわ」
(そうか、エディ。やはり、あんたが幕を引いてくれるんだな)
「あんた達…絶対許さない。この薄汚いおかま野郎!」
 メリッサに握られた22口径が発砲され、立ち塞がっていたジェフの左腕を貫いた。クリスはベッド脇を離れ、ジェフの傍に近づこうとした。
「何やってんだ、逃げろ、クリス!」腕を押さえながら、肩でクリスの体を押しやろうとする。
(自分の命も危ないっていうのに、この期に及んで身を呈して庇おうっていうのか?このお人好しは…)
「ジェフ…」
「あんた達、2人共地獄へ落ちればいい!」
 ジェフがクリスを突き飛ばすと同時に、彼の体もクリスの方に倒れて来た。放たれた弾はベッドの脇のスタンドを跳ね上げた。
「こっちへ!」
 クリスはジェフに腕を掴まれ、一緒に立ち上がった。と次の弾はクリスの脛を撃ちぬいたようだ。焼けるような痛みに、クリスは顔を顰めた。流れる血がグレーのラグを赤銅色に染めていく。
 バスルームのドアが開けられ、ジェフに無理やり押し込まれると、再び銃声がした。
「ジェフ!」
 ジェフの右脇下辺りから出血していた。
「待ちなさいよ…許さないわよ…」
 メリッサはゆっくりと近づいてくる。どう見ても、正常な精神状態の人間ではないな、とこんな時に冷静に考えている自分に、クリスは心の中で笑った。
「早く、…バスタブの中に…」
 もう一度ジェフに突き飛ばされ、頭からバスタブの中へ転がり込んだ。と、更に銃声がし、ジェフの体が跳ね上がる。
 バスルームの窓の外から、クラクションに混じって、サイレンが聞こえてきた。ここへ向かってきているのか、別の件で来ているのかは、分からない。アップタウンの端とは言え、ここはマンハッタンなのだから。
 ジェフの体が便座に倒れこみ、更に銃声がして、洗面台のアフターシェイブローションの瓶が床に落ちた。彼の愛用しているフレグランスと同じ香りが、バスルームに広がった。
 弾倉が空になっても引き金を引き続ける音と、メリッサの悪態をつく声が聞こえる。バスルームの床は、みるみる赤く染められていく。止血を…と思うが、脚の痛みで、上手く立ち上がれない。ジェフの体が、何度かひきつけを起こしたように震えた。
(なんで、俺じゃないんだ?あんたは逃げれば良かったのに)
 みっともないとしか言い様のない格好で、バスタブに横たわったクリスは笑っていた。温かい液体が頬を伝い、冷たい顎先へと流れる。
「すまない、エディ」
そこにいない知己に向けて、クリスは呟いた。
 
 
 目が覚めると、最近になってベスが持ち込んだテレビの音が聞こえて来た。ベスは早番だが、エディは昼前からの出勤だ。もう少し寝ていたい気分だったが、恐らく彼女が朝食を用意してくれているだろう。そろそろ起きた方がいいかも知れない。ベッドの中で、両腕を伸ばして伸びをした所で、ベスが室内履きのペタペタという足音を立てて寝室に入って来た。
「エディ、起きて!」
「ああ、起きるよ、すぐに」
「そういう事じゃないの!早く!ドクター、いえ、ジェフとクリスが…!」
 エディは2人の名前を聞いて飛び起きた。トランクス1枚の上にガウンを羽織り、リビングに転がり込むように飛び込む。
 居間に置かれたテレビでは、ちょうどファスナーで閉じられた、青い大きな袋が運び出される所が写っていた。背景は、まさしく見慣れたコンドミニアムの入り口だった。アナウンサーは冷静な口調で、ジェフが死んだ事、クリスも重傷で運ばれた事、メリッサによる犯行である旨を伝えている。
 体中の力が抜け、そのままカーペットの上に座り込む。ベスが背後に寄り添い、エディの肩を抱いて、母親のように優しく撫でる。その手を振り払い、エディはバスルームに飛び込んだ。何が起きたのか分かっているのに、分からない。いや、分かりたくない。
 電話のベルが微かに聞こえる。誰からかは分かっている。今、一番出たくない相手だ。
「エディ!スコットから」
「いない、俺はいないんだ!」
「エディ、でも…」ここで、バスルームのドアを開けようとしない所が彼女の良い所なのだ。だが。
「いいから、いないって言ってくれよ!」
「スコットに聞こえてるわ!」
「構うもんか!」便座に座り込み、タンクを殴りつける。
(なんでジェフだったんだ?クリス、お前か?いや。そんな筈ないな。どうせ、ジェフがしくじったんだろ?)
 これは、やはり自分に素直にならなかった罰なのか?黒い羊が、自分を偽って人並みの幸福を得ようと試した事が悪かったのか?
 神話にあるマイダス王のようだ。手に触れるもの全てを黄金に変える手を持って、愛する妻に触れてしまった。みんな何もかもなくなってしまえばいいと一度は願った。クリスが破滅を望むなら、その手伝いをしてやろう、とも。だが、なぜジェフだったんだ?
「エディ?私、仕事行くわ。もし…もし休むなら、伝えておくけど、どうする?」
「ありがとう。休ませてもらう。言っといてくれないか」まだ、ドア越しの会話。
「分かったわ」
「それと、ベス」
「何?」
「さっきはすまなかった。怒鳴ったりして」
「気にしないで」
 カーペットを摩擦するかのような足音が遠ざかっていった。たった今、全ての物事が動き出したかのように、外の音が聞こえ始めた。子供達が学校へ向かうのに騒ぐ声、しかめっ面の大人が出勤するために乗り込んだ車のバックファイアの音とクラクション。いつもと変わらない、朝のノイズ。けれど、この狭い空間から出て行ってしまえば、昨日の朝とは違う朝が始まる。まだ認めたくないジェフの死が、真実になってしまう。
 座り込んだまま、エディは頭を抱えた。嗚咽が、小刻みに体を震えさせた。
 
 
 どのくらいの時間が経過したのか。体を動かそうとすると、ぎしぎしと音をたてそうだった。立ち上がり、身に着けたものを脱ぎ捨て、火傷しそうに熱い湯を出し、シャワーを浴びる。頭から浴びてずぶ濡れになりながら、口の中には、しょっぱいものまで入って来た。涙がどのぐらい流れているのか。湯を被っている間は分からない。
 小さな窓には、既に西に傾いた太陽が、光線の色を変えて差し込んでいた。このままアパートにいれば、ベスが帰ってくる。細かに言及される事はなくても、エディが本当の事を口走らないでいる自信がなかった。
 髪もドライヤーはかけたものの、生乾きのまま服を着た。今は、顔見知り以上には会いたくない。ティーシャツの上からコーデュロイのシャツを引っ掛け、ボタンを留めようとした所で電話が鳴った。朝と同じくスコットか、さもなければ、マイケルか。いずれにしても、誰とも話したくない。ベスが留守番電話に切り替えるのを忘れていったらしくーーーもしかしたら、わざとかもしれないがーーーベルは執拗に鳴り続ける。エディは電話のコネクタを抜いた。静かになった電話機に目をやり、昨日も着ていたレザージャケットを手に部屋を出た。
 まだまだ外は明るい。どこかに飲みに入るにも早過ぎる時間だったが、宛ても無くなく、北へ歩いた。ちょうど『Joy Stick』の看板が目に入る。ライトは点けていないが、ドアも開いている。ブラックボードも出ているのだから、ネイサンは出て来ているのだろう。駄目もとで、階段を降り、ドアを開けた。
「エディ!」すぐにネイサンに声を掛けられた。エディが目を合わせただけで何も言わないのは、今朝のニュースを知っているのか?いや、ジェフとは一度か二度来ただけだ。ベスと来た回数の方が遥かに多い。覚えているとは思えなかった。
「早過ぎて悪いね。飲ませてくれよ」
 ネイサンは何も答えず、コースターをエディの目の前に滑らせた。
「ロンリコ151。ショットで」
「タンカレーじゃないのか?」
「今日はね。とっとと酔いたいんだ」
 目の前に、ショットグラスに入った淡い琥珀色の液体と、チェイサーが置かれる。エディは水の存在は無視して、少しとろみを帯びたようなラムを、一気に流し込む。高い度数のアルコールが、喉から胸元までを焼き尽くすように流れていく。
「おい、無茶な飲み方やめとけよ」
 エディは無言でグラスを差し出した。小さく溜め息をついたネイサンがグラスにまた注ぐ。が、すぐにそれも空になる。
「エディ!」
「怒るなよ、ネイサン。商売だろ?客が焼け酒飲みたがってるのぐらい、大目にみろよ」
「分かってるよ。ただ、俺は酒が気の毒に思うだけだよ。旨い酒には敬意を表すべきだ」
「そう言われれば、返す言葉はないね」乾いた笑いが出た。ネイサンらしい止め方だ。それでも、もう一度注いでくれる。
「これで最後だ。その飲み方は酒に失礼だからな。嫌なら、出てけ。この1杯は味わって飲めよ」
「分かったよ」
 恐らく、粘ったところで、彼はこれ以上は注いでくれないだろう。今度はゆっくりと一口、口に含んだ。強いアルコールが舌を焼くように感じさせるが、まろやかな甘さのようなものが後に残る。それでもチェイサーには手をつけず、数回に分けてグラスを空けた。
「酒は楽しく飲むもんだ。俺は、酒やら薬やらに逃げて、挙句に持ち崩した仲間を腐る程見てる。エディ、それは、お前さんも知ってるだろ?だから、あまり今日は飲ませたくないね」
 知っている。軍から離れた帰還兵の仲間の事だろう。それだけで、止めているのではない事も。
「また楽しく飲める日に改めて来るよ」カウンターに札を置き、立ち上がった。多少は酔っ払っている筈だが、足元もふらつかない。何より、酒を飲んだ時の高揚感もない。あるのは、まだ残る、酒が喉を焼いた感覚だけだった。
「またベスと一緒に来いよ!」
 真の事情は全く預かり知らぬネイサンに手を振り、階段を上がった。
 外はまだ明るかった。少しだけラベンダー色に変わった空に、薄ぼんやりと光る月が見える。そのまま、今度は西へ歩き出す。このまま北へ歩けば、ベスに会ってしまうかもしれない。ハドソン川に向かって歩き出すが、急に吐き気が襲った。喉を焼くアルコールと酸が一緒に込み上げる。エディは路地を見つけて、排水溝に吐き出した。飲んだ酒と胃液、液体しか出てこない。昨日の夕食以来、何も食べていないのだから、当たり前だろう。
 全てを吐き出してしまうと、、少し空腹を感じた。まだ焼け酒を飲むにしても、少し位は何か胃におさめておいた方がいいだろう。春は目の前とは言え、まだまだ寒い。温かいコーヒーも飲みたかった。すぐ目の前にカフェがあるのを見つけ、空席を確認して店に入った。シュガーレイズのドーナツという気分にはなれず、ベーグルとクリームチーズのサンドイッチとコーヒーを頼んだ。何も考えず、空席があったので座ったのだが、ちょうどエディが顔を上げた先に1人の男が座っていた。手にしたヴィレッジヴォイスのせいで面相までは見えない。エディよりも少し明るい位のブルネットだ。
 コーヒーとベーグルが運ばれて来たので、視線をテーブルに戻した。コーヒーに口をつけ、ベーグルを皿から取って顔を上げた時、息が止まりそうになった
(ジェフ…?)
 ブルネットに、人を射抜くかの様な強い視線。アイスブルーの瞳。肩幅はさほどでもないが、身に付けている服の上からでも分かる、隆起した上腕の筋肉。思わず目を見張り、その男をまじまじと見てしまい、慌てて視線を下げた。
(ジェフはもういない。いる訳がない。本当に、いなくなってしまった)
 さっきまでの食欲が、急激に失せていった。二口ほどかじったベーグルと半分も飲んでいないコーヒーを置き去りに、勘定をテーブルに置いて、エディは席を立った。
 店を出て1分もしないうちに、エディは後ろから肩を叩かれた。振り返ると、さっきの男が立っていた。人の良さそうな笑みを浮かべると、ジェフとは背格好は似ていても、顔立ちは全く似ていなかった。
「さっきのカフェで、俺の事見てたろ?口説いていいって事かな?」
 思えばクリストファー・ストリートは目と鼻の先だった。数ヶ月前に来た時、ジェフは自分の事は棚に上げて拗ねていたっけ。顔が泣き笑いになりそうになるのを堪え、男に笑顔を向けた。
「昔の彼氏に似てるって思ったんだよ」
「そりゃまた陳腐な口説き文句だな。俺はこれでも脚本家なんだぜ。未来の、だけど」
 声も全く似ていない。無意識にジェフと比べている自分に、苦笑が漏れる。
「てのは冗談。いや、脚本は本当に書いてるんだけど…時間があるなら、付き合わないか?この後。ちょうど前のパートナーに振られたところなんだよな。いや、あんたが嫌ならいいけど、誰でもいいって訳じゃなくて、その、見かけて気に入ったからなんだけど」
「俺も、最近別れたところだよ。HIVも陰性。仕事が病院の薬を扱ってるから、そういう事は欠かした事はない」
 エディの言葉に、相手は不安気な表情を笑顔に変える。
「俺もだよ。なんなら。検査の結果を見せてもいい。昨日届いたばかりなんだ。俺はジェレミー。ジェレミー・マクナット。口の悪い友人からはトンマなアイルランド人って(マクとつくのは、アイリッシュ系に多く、ナットはスペル違いで、バカ、とんまの意味)言われてる」
「俺はエディ。エディ・ジャクソン。どこか飲みに行く?」
「もし、あんたがいやじゃないなら、どこか落ち着ける所に行きたいな」
 ジェレミーの腕がエディの腰に回った。「いいよ、どこにする?」
 
 
 結局、近くのモーテルに入った。始めに話した以上、特に言葉は交わさず、どちらともなく抱き合い、共にシャワーを浴びた。
はじめにジェフに似ている、と思ったのは、エディの願望が見せた錯覚に過ぎないようだった。実際のジェレミーはその屈強そうに見える体格とは裏腹に、笑うと人の良さが透けて見えた。
 ベッドに入ってからも、その印象は変わる事はなかった。互いの存在を確かめ合うように抱き合い、お互いが優しく相手の体に触れる。初めて肌を合わせる相手だけに、どこが相手を喜ばせるのかは分からない。探り合うように、互いに相手の反応を確認しながら、ゆっくりと体を交える。が、最後には音を上げたのはエディの方だった。自分のポイントを執拗に攻められ、息が上がる。思わず漏れた声と共に体が跳ね上がるのを、ジェレミーの腕に絡め取られる。その背中にしがみつくように腕を回すと、彼の体の重みが直接感じられた。
「いいよ、エディ。今だけ俺の事、そいつだと思ってたらいい」
 耳元で温かい声が響いた。お互いの欲求を満たし合う行為でありながら、荒々しさとは程遠いものだった。それでも、突き上げられると頭の中は真っ白になってしまう。ジェレミーの体に両脚を絡め、全身でしがみつく。それに応えるように、ジェレミーの手がエディの頭をかき抱いた。

15
最終更新日 : 2014-04-11 16:12:13

chapter 8-2

 

「ジェフっていう男、そんなに俺に似てた?」
 隣で横たわるジェレミーの言葉にぎくりとした。「俺、何か口走ってた?」
 ジェレミーは曖昧な笑顔を向けるだけで、何も答えない。恐らく、自覚なく口にしてしまったのだろう。
「ジェレミー、今だけ司祭になったつもりで聞いてくれないか?」
「俺は信心深くないけどいいよ」
 エディは深呼吸をして、仰向きになった。
「今朝のニュースでやってた…アッパーイーストに住んでる医者がソープオペラの女優に撃たれて死んだろ?1人は重傷で」
「なんか、あったな。そういえば」
「ジェフってのは、その死んだ方の医者の名前だよ」
 ジェレミーの体が動いたのが視界の端で分かった。
「彼女、メリッサをそそのかしたのは俺だよ。こうなる可能性もあったのに…本当の事を彼女に話してしまった。彼を…ジェフを傷つけるつもりなんてなかった。ましてや死んで欲しいなんて思った事も…」
 話し続けようとしたが、上手く言葉が出なかった。また嗚咽が込み上げる。不意に目の前が陰り、ジェレミーの体が覆いかぶさって、エディの頭を抱え、子供をあやすように抱きしめた。
「ちゃん泣かないと、余計苦しいんだ。これだったら、泣いてる顔も隠せる。俺からも見えない。今だけだ。今だけは、ちゃんと泣いておけよ」
 ジェレミーに抱きしめられるまま横を向き、彼の首筋に顔を伏せた。涙は後から後からあふれ出る。嗚咽を堪えるエディの髪を、ジェレミーはずっと優しく撫で続けていた。
 
 
 朝食を一緒に、と誘うジェレミーの誘いをエディは固辞した。
「ハドソンに身投げなんて事はしでかさないから、心配ないよ」
 瞼の腫れも、目の充血もひいた。連絡先を聞こうとするのをかわし、自分のアパート方面へ流しているタクシーを止めて別れた。
 予想していた事ではある。ドアを開けると、目を晴らしたベスが腕の中に飛び込み、途端に堰を切ったように泣き出した。
「エディ…」聞き覚えのある声が2人分。スコットとアネットの姿があった。アネットが掴んだ腕を振り払い、スコットは近づいてきて、エディのジャケットの襟元を掴んだ。
「お前な…」
「分かってるよ」
「ご丁寧に電話のコードまで抜いて行きやがって。彼女がどれだけ心配したと思ってるんだ」
 スコットがこうして静かに言う時は、怒りが頂点に達している時だ、とエディは経験上知っている、
「待ってくれ。まず、ベスを休ませないと」
「いや。傍にいる」
 子供のように、ベスはエディのジャケットを掴んで離さない。
「大丈夫だよ。ここにいるから。スコットと話すから、奥で休むんだ。な?行こう」
 ベスの肩を抱き、寝室へ誘った。ベッドに入らせ、暫く手を握っていた。その間も、嫌だ、行かないで、とうわ言のように呟いていたが、しばらくすると、泣きつかれた子供のように寝入ってしまった。両親を失った時の事を思い出させてしまったのかもしれない。
 居間にもどったエディを迎えたのは、いきなりのスコットの拳だった。
「スコット!」もう一発殴ろうとするスコットの手首に、アネットがしがみついた。さすがに彼女を力づくで振り払おうとはしなかった。口の中に鉄の味が広がった。
「これだけで済んで、ありがたいって思えよ」
「分かってるよ」
「お前、彼女に…メリッサに何かしたか?それとも、何か言ったのか?」
 エディは答えなかった。答えられる訳がない。立派な連邦法違反もあるのだから。
「あったって言わないだろうがな。ジェフが死んだ事で、お前がショックを受けてる事は分かってる。けど、ベスはどうするんだ?」
 それも、答えられる類のものではなかった。
「だんまりか。まぁ、しょうがない。まだ、ちゃんと考えられる頭じゃないだろうからな。」
「帰ってくれないか、スコット」
「お前…」
「スコット!エディの気持ちも考えてあげて!」
「アニー、助かるよ」
「ほら、ダーリン!」
 アネットに止められ、スコットは渋々諦めてくれた。
「すまないな」
 上着を掴んだスコットはドアの傍まで行き、振り返ってもう一度エディを見た。
「ちゃんと考えろよ」
 最後に一言残し、二人は帰って行った。部屋の中が急に静まり返る。まだ、街が動き出すには早い時間だった。
(ちゃんと考えろよ、か…)
 考えてないでもなかったが、スコットにまだ伝える気がしなかったのだ。電話の傍まで、ゆっくりと歩み寄った。
受話器を上げ、911を押す。
「ミッドタウン・サウス署の殺人課に繋いでくれないかな?」

16
最終更新日 : 2014-04-11 16:12:47

Epirogue1

‡Epirogue‡

 

 

 

 結果的に殺人を犯したメリッサは勿論の事、彼女に対して違法に薬物の違法供給をしたと自ら申し出たエディ以外にも、警察の厄介になる者はいた。

メリッサのエージェント、マークである。

 彼女に渡した未登録の拳銃が今回の事件に使用された事で、彼は拳銃の不法所持により拘置所に収監された。そこでマークは、銃の入手元と、そのネットワークを話すと司法取引を持ち掛け、さらに負けを覚悟で賭けに出た。クリス・デガーモに対し、メリッサの気持ちを弄んだとして、弁護士を通じて民事訴訟を起こす準備がある、と通告したのだ。

 物的証拠も少なく、正確性に欠ける関係者の証言すら、あまり期待出来ない状況では、相手側の弁護士の力量(これは、自身の雇った弁護士から聞いた)から言っても、本来到底勝ち目はなかったのだが。

 しかしマークの読みは当たり、 これ以上問題を大きくしたくない デガーモ家は、顧問弁護士を通じて、示談金による和解の申し入れをしてきた。自身の弁護士からそれを知らされたマークは、申し出を快諾。示談金をたんまりとふんだくった。そこから自身と、そしてメリッサからの依頼により、エディの保釈金を支払い、晴れて自由の身となった。

 当然ながら、メリッサは何らかの刑は免れないようだった。恐らく裁判の日には、弁護士は彼女に白い襟のついた清楚なワンピースかシックなスーツでも着せるだろう。陪審員に、『爛れた関係のエリート医師2人に弄ばれた、気の毒な清純派女優』の印象を与える為に。

『エディ。保釈金は、あたしとメリッサからのお詫びだと思って頂戴。あんたを巻き込んで、あんたが好きだった男を殺しちまった事へのね』

 彼女は、エディの真意を知っていたのだろうか?今となっては、知る由もない。知った所で、何の救いにすらならない。

 正確な事情も理解しないまま保釈され、ポーカーフェイスで以てマークを見るエディに、オカマのエージェントは優しく笑った。

『本当は、あんたの恋人だったんでしょ?死んだ、あのドクターは』

 マークの問いに、エディは曖昧に笑みを返すのみで、返答の代わりとした。

『保釈金の出所は、あたしやメリッサじゃないのよ。実は、ドクター・デガーモの実家からなの。よくもうちの女優を弄んでくれた、訴えてやるって言ったら、たんまり示談金支払ってくれたわ。どうせ、ドクター・テイトを誘惑したのも、彼の仕業だろうし。』

 マークは、口の端を歪めて笑った。

『別に、あんたの仇を取った訳じゃないから、気にしないで頂戴』

 マークは、次のスターを探す前に、休暇と称して故郷のロンドンに帰って行った。

 そうしてアイスクリームの屋台が姿を消し、セントラル・パークが枯れ葉色に染まり、雪化粧をし、ミッドタウンを走り抜けるタクシーが泥水を跳ね上げ、事件から1年が過ぎた。

 検死の結果、『複数の動脈が受けた銃創による失血死』と判断されたジェフは、故郷シアトルの6フィート下の土の中で眠りについていた。

 傷の癒えたクリスは、実家の伝手で中西部の都市にある病院に赴任した。(婚約は、勿論解消された)

 マイケルは一児の父となり、次の冬には、二児の父となる。

 スコットは、アネットとの長い春に終止符を打ち、先日ボラボラ島へハネムーンに旅立った。

 そしてエディは、グリニッジヴィレッジのバーにいた。カウンターの内側に。

 

 

「ダーリン、今夜は早く帰れるんだろ?起きて待ってるから」

 夜遊びにはまだ時間も早く、人もまばらな店内で、黒に近い褐色の髪の男が、アイス・ブルーの目を細め、カウンター内のエディに微笑みかける。

「あぁ、いつもよりはね。明日は、あんたの誕生日なんだからさ。けど、明け方には違いないんだから、腹が減ったらサラダと冷蔵庫に豆のブリトーが残ってるから、そのままオーブンへ…」

 エディが言い終えるのを待たずして、先の男がエディの首を引き寄せて唇をかさねた。ほんの1.2秒、舌こそ絡めていないが、恋人同士の物と充分に分かるキスを交わす。

「Hi,Sis.(お嬢さん)。ここは女性は…」

 入り口の方で、店長が『招かれざる客』らしい人物を制止しているようだった。

「分かってるわ。知り合いが働いてるって聞いて、会いに来ただけよ」

 懐かしい声がした。

 砂色の髪をした、長身の店長の手を軽く払い、入って来たのは、小柄な女性の姿だった。

「エディ…」

 彼女───ベスはエディの名を呼び、立ち止まる。

 エディは、自分にキスをした男の頬に軽くキスをし笑顔で送り出す。「ジェレミー、じゃあ後で」

 ジェレミーと呼ばれた男が去る姿を見届けてから、ベスはエディの前のカウンターに座った。

「Don、悪いな。彼女、俺の知り合いなんだ」

 エディが、店長に手を上げて合図を送る。

 端正な顔立ちの店長は、何か合点がいったように青灰色の目を軽く細めて、席を外した。

「なんにする?」

「ベイリーズ。ロックで」

「女の子っぽいな。そんなのも飲むんだ」

 とろみを帯びた液体を安物のロックグラスに注ぎ、ベスの前の紙コースターに置く。しかし、まだ彼女の顔を直視出来なかった。

「たまにはね」

 キャラメル色の酒を軽く口に含んだベスは、最後に会った時────拘置所の面会の時よりは、ふっくらしている。いや、元に戻っただけだろう。あの時は、限界までやつれていたのだから。

「久しぶりだね」

「久しぶりね、本当に。髪、伸びたわね」

 ベスが笑う。

「切るのが面倒でね」エディは苦笑いと共に、胸元まで伸びた波打つ暗褐色の巻き毛に触れた。「撫で肩隠しさ。今も、ハリス&ディップルに?」

「いいえ。でも、またミッドタウンの薬局兼、医療品供給所にいるわ」

 会話は、すぐに途切れてしまう。それでも、まだ目を合わせる事は出来ずにいた。彼女も、また。

「ここは、スコットに聞いた?」

「えぇ、先月。会いに来る決心がやっとついたから」

 グラスを持ったベスの左手薬指に、金色の指輪が光っていた。

「そうか…。」

「さっきの彼、あなたの恋人?」

 ベスの問いは、ジェレミーの事を指していた。カウンター越しの遣り取りを見ていたのだろう。ジェフとの関係は、面会の際にも話していなかった。公選弁護士は守秘義務を守り、スコットは友情を優先した。 話す決心がまだついていなかった、というのは、言い訳になるだろう。あの時はまだ、現実に対峙する事を避けていた。かと言って、この期に及んでも、素直に答えるのはエディには、まだ躊躇があった。が、それでも彼女に伝えるべき言葉がある。

「俺は…君には本当に悪い事をした」

「知ってたわ」

 磨いていたグラスから、エディは顔を上げた。その先には、寂しげに笑うベスの顔があった。

「あなたが、私と一緒にいても、私を見てなかった事。そして、本当は誰を見てたのか。でも、認めたくなかったのね、きっと。あなたが誰をどう思っていようと、今は私の傍にいるんだから、って。ずっと自分にそう言い聞かせてたわ」

「すまなかった。ずっと、ずっと謝らないといけないと思っていた。事件の事は勿論の事、君の気持ちを分かってながら、騙していた。ジェフとの関係も…。本当なら、遅くとも面会に来てくれた時、話すべきだったと思う。でも、まだ決心がつかなかった。あそこを出てからも、話す機会は充分にあった筈なのに…。それほどに、俺は臆病で卑怯者だ」

 ベスの目を見て、もう一度謝罪の言葉を口にする。しかし、ベスは否定するかのように、目を閉じて頭を振った。

「あなたは、自分に正直にならなかった事で、本当に愛する人を永遠に失ったわ。罰は、それで充分だと思わない?」

「ベス…」

「私も、怖がらずに真実に目を向けるべきだった。そうすれば、傷はもっと浅くて済んだ。お互いに、もっと正直になるべきだったわね」

 今、目の前にいる彼女は、スコットを通じて、こっそりと気持ちを伝えて来た、内気な女性ではなかった。自分よりも遥かにマチュア(成熟した)な大人の女がそこにいた。

「ありがとう」 エディは、真摯に感謝の言葉を足す。一言で伝えきれない想いが、声を微かに震わせ、低く響かせた。

「私、秋に結婚するの。」

 ベスが、左手薬指の指輪をエディに向けた。

「招待状を送ったら、さっきの彼と、一緒に参列してくれるかしら?」目が悪戯っぽく笑っている。

「君は、その…他の友達は気にするんじゃないか?」

「N.Y.に住んでて、ゲイの友人が、あなただけだと思う?」

「じゃあ、俺達の時も、その教会は受けてくれるかな?」

 エディは、ベスの発した『ゲイ』という言葉に、何も抵抗を感じる事なく、自分の左手を彼女に見せた。そこには、今年のエディの誕生日にジェレミーから贈られた、ペア・リングが銀色に鈍い光を放っていた。他人に見せた事はないが、内側には永遠の愛を誓う言葉が刻まれている。

 ベスが吹き出した。「多分ね。その時は、私がブライド・メイドを連れて来たげるわ」

「おいおい、ブライド・メイドって…俺にウエディングドレス着せる気?」

「撫で肩で、ヒップラインが綺麗だから、オープンショルダーでマーメイド・ラインのドレスが似合いそうだわ。首が長いから、チョーカータイプのネックレスが合うわね」

「楽しそうに言うなよ、洒落にならない。勘弁してくれよ」

 やっと、心からの笑顔を互いに向け合う。

「久しぶりに、あなたの作るテックス・メックス・スタイルの料理が食べたいわ。今度ダブル・デートしましょうよ。『あなた達の家』でね」

 ウィンクするベスに、エディは苦笑し、手近なコースターに住所と電話番号を記して手渡した。そして、家族にするようにハグと暖かいキスをした。

 悪夢は、もう見ない。幸福の扉を閉ざす事も。

 エディの心の中で、新しいドアが微かに開いていた。

 隙間からは、明るい光が差し込んでいた。

 

 

†    E N D   †

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付



The Killing Words


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著者 : セキトウ マイ
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/akafujimai/profile


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