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chapter 6-2

 冷やかしに動じない2人の態度に飽きたのか、アリスンの広報活動にも関わらず、翌日以降は妙な気を回す事も、事あるごとに冷やかされる事もなくなった。エディもべスも、お互いに以前のままの接し方をした。べスに貸していたシャツは、綺麗にプレスまでして彼女が持ってくれていたが、人目のないタイミングで手渡してくれた。

 正直なところ、エディは肩の荷が下りたと思った。しかし、澱のように若干の罪悪感が残っている。彼女の言うように、自分が深く考えすぎなのか?今まで、相手が男であれ女であれ、行きずりの関係自体が経験のない事だったので、戸惑っている部分もあった。一度でも関係を持つと、その相手とは付き合い始めた。それだけではない。完全なる行きずりの相手は、あまりにリスクが高過ぎる。エディの直接の知り合いでなくとも、HIVキャリアで発症に怯える者や、発症して馬鹿高い病院代に苦労している者を知っている。

 女性が相手だと勝手も違うが、同じ職場内の事だ。しかも、明らかに自分の衝動から、彼女の気持ちを利用した。それを自覚しているからこその、罪悪感。彼女がもし、ジュディスのような性格なら、『なかった事』と言ってくれるままに考えられるのだが。

 週末は、考えても結論の出ない同じ事を、ずっと考えた。しかし、最終的に出た答えは、彼女の再度のアプローチがあるかどうか?だった。それまでは、彼女の厚意に甘えるしかない。

 1週間分の食料の買い物から戻ると、闇の中で赤いランプの点滅が奥に見えた。また留守番電話だ。ため息をついて、部屋の灯りを点ける。嫌な予感がした。電話番号は電話帳にも載せていない。番号を知る者もごく限られた相手だ。クローゼットに向かい、防寒用のキルティングのコートを脱いだ。部屋の中は冷え切っていたが、ヒーターをつける気にならず、キッチンで荷物を置き、コーヒーメーカーのセットをする。食欲も失せた。落としたコーヒーは、大きなマグカップに注ぎ、たまにしか飲まないスコッチウイスキーのボトルをラックから取り出した。カップの半分も入っていないコーヒーの中に、同じ位のウイスキーを注ぐ。少し温くなったので、そのまま4分の1ほどを一気に飲む。胃の中がかっと熱くなり、冷えた体を温めた。深呼吸をして電話の傍まで行き、再生のボタンを押した。一番聞きたくなかった、囁くような声が流れる。

『エディ、クリスだ。こないだは毒見役をありがとう。おかげで上手くいったよ。それで、今度の金曜日にうちでパーティーをするんだ。こないだ話したメリッサと俺がホストだ。内輪の人間しか呼んでないからリラックスして参加してくれ。時間は、また連絡するけど、多分7時辺りになるだろう。みんな彼女や奥さん連れだから、もし、あんたも誰か「良い人」がいたら、一緒にどうぞ』

 予想を上回る内容だ。彼の心臓は、鋼で出来ているに違いない。さて、招待に応えるかどうか。再び、指が覚えている番号を押した。

「エディだけど…あ、スコットか?」

『聞いたか?奴から』

「さっき留守番電話のメッセージ聞いたよ。お前は?」

『俺も、アネットも本当は行きたくないんだがな…俺は同じ職場だし、例の女優も一緒だろ?一応行くよ。ジェフも来るような事を言ってたがな」

 ジェフが来る。スコットに電話して良かった、という気持ちと、電話しなければ良かったという矛盾した気持ちが、同時に心に湧きあがる。

「マイクは?」

『あいつは来るだろう。お前はどうするんだ?』

 思わず、言葉に詰まる。「まだ、考えてない。お前がどうするか聞いてからにしようと思って…」

『何を子供みたいな事言ってんだ。どうせ、あいつの事だ。なんか考えてるに違いないからな。気が進まないなら、止めといた方がいいぞ』

 それは、エディもよく分かっている。

「ちょっと考えるよ」結論が出ないまま、電話を切った。

 スコットの言う通り、嫌な目に会いたくなければ行かないのが一番だ。しかし、一番心の中で引っかかっているのは、ジェフの事だった。

 結局、あのクリスマス・イブから、会う事はおろか、連絡も一切取っていない。このまま終るのか?終らせるのか?しかし、自分から連絡をする勇気も持っていない。電話をかけたところで、会話はぎこちないものになるのが目に見えている。コンドミニアムに直接行くのは、クリスに出くわす可能性があった。しかし、第三者が多数いる中だったら?

 気持ちは、半ば、行く事に傾いている。

(お前は一人で行くのか?それとも…)

  自分が今考えている事は、姑息で最低だ。しかも、あてつけがましい。またも他人の厚意を利用するのか?それも、よく分かっている。分かっているが…。

 答えは出たのも同様だった。自分は行くだろう。『彼女』を誘って。

 

 

「べス、今、ちょっといいかな?」エディは、昼休みに裏口を出たべスを呼び止めた。当然、周囲には他の者はいないタイミングでだ。

「何?」

「今週、週末空いてる?」

「週末?」彼女が喜びを抑え、平静を保とうとしているのが分かる。

「あぁ。ちょっと助けて欲しいんだけど、頼めるのが君しかいなくて…」これは、嘘ではない。そう、自分に言い聞かせる。

「私で出来る事ならね」

「もし嫌なら無理しなくていいんだけど、クリス…ドクター・デガーモが週末に自宅でパーティーするんだ。彼と、彼の彼女がホスト役でね。で、パートナー同伴って言われてて…」これは、嘘だ。ただ、ばれるような嘘ではない。

「いいわ。エディと一緒だったら、あのドクターでも大丈夫」

 そう。彼女もクリスが苦手だと言っていたのだ。

「助かるよ。多分、7時ぐらいからだと思う。あいつの家は、ここから歩いても行けるから。詳しくはまた…」

「待って。じゃあペンを貸して」

 べスは、手を出す。エディは胸元のポケットからペンを出して渡すと、べスもポケットからレシートのようなものを出し、何か書きとめた。

「うちの電話番号。電話帳には載せてないから」

「うちもだよ」エディもメモに書いて、べスに渡す。

「詳しくは、また連絡するよ」

「分かったわ。じゃ」

 べスは歩き去った。エディは彼女の後姿を見ながら、ため息をつく。

 彼女を連れて行くのは、二重の意味で当てつけだ。ひとつはクリスに。あの夜の事は、彼が仕組んだのは間違いない。ダメージを受けている姿など、決して見せたくなかった。べスがいれば、彼に対しても、平常心で接する事が出来るだろう。そして、もうひとつは、ジェフに。彼は、女連れの自分を見て、どう思うだろうか?エディが女ともデートをしているといっても、その現場までを見せた事はない。見たところで、友人同士の付き合い程度にしか見えなかったはずだ。しかし、今度は違う。勘の良い者なら、何事もない間柄ではない、と気づくだろう。そういう意味では、ジェフには分からないだろうが、彼ならきっと、仲良さげにしているだけで、そう思うに違いない。ジェフは、嫉妬を表に出すだろうか?内輪だとは言え、例の女優やべスもいるのだ。滅多な事は言えないはずだ。

 エディは、自己嫌悪に気づかない振りをし、調剤室に戻った。

 

 

 またしても、帰宅したエディを迎えたのは、留守番電話を知らせる赤いランプだった。

 どうせ、クリスに決まっている。録音の中身を確認するのは後回しにし、腹を満たす事を優先した。べスとの一夜以来、まともな食事は、仕事中の昼休みしか取っていない。それでも、食欲が湧かず、コーヒーとペストリー1つで済ませた事もある。昨日、買い物した食料品を無駄にする訳にもいかない。

 トマトとハラペーニョ、玉ねぎを適当に切って、フードプロセッサに入れてしまう。ライムと塩、胡椒も適当に。後は何回か回せば、サルサソースの出来上がりだ。エディが小さい頃は、ハラペーニョが辛くて食べられず、家にいた家政婦のファデラという黒人女性が、子供用にと別に作ってくれた。ハイスクールに入る頃には、ハラペーニョが多いものをリクエストすると、『大人になった』と、嬉しそうに笑っていた。

 フードプロセッサの中身を小さな器に移し、テーブルに置く。馴染むまで寝かせている間に、冷蔵庫からコロナを1本出し、残ったライムを切って瓶の中に押し込み、一口飲んだ。

 ジェフが一緒の時は、ワカモレも一緒に作って出したものだ。アボカドそのままだと食べられないのに、ワカモレにすると、トルティーヤを5枚位一気に平らげた。

 エディは、ジェフの事を思い出している自分に気づき、苦笑する。

 彼が来なくなってから、食料品の減りも遅くなり、買い物に行くペースも落ちた。勿論、家での雑用も減った。自分一人であれば、さほど時間を費やす事はないものだ。もともと、彼以外を家に呼ぶ事はなかったのだから。

 冷凍のフラワートルティーヤを、アルミフォイルに包んでオーブンへ放り込む。折りたたみの椅子に腰を下ろし、コロナをもう一口。そこから見える、留守番電話の点滅する赤いランプをぼうっと見た。

 どうせ時間を知らせる電話だろう。時間からして、べスに連絡するのは明日にした方が良いかも知れない。

 サルサとトルティーヤで軽く夕食を済ませ、もう1本コロナを出して来て、電話のボタンを押した。

『ロクオン サレテイル めっせーじハ 3 ケンデス』無機質な、合成された音声が予想外の数字を告げる。

 1件目は、数秒の沈黙の後、受話器を置く音が聞こえた。2件目は、すぐに切ったようだ。最後の1件も。

 クリスなら、全く気にする事なくメッセージを録音している。べスにしては、時間が合わない。1件目は、エディがまだ勤務中の時間だった。あとの2件も、べスならエディが帰宅する時間を把握出来るので、当てはまらない。と、電話が鳴った。恐る恐る、受話器を上げた。

「はい、ジャクソン…」

『エディか?』懐かしい声が聞こえた。

「ああ。どうしたんだよ、急に」平静を保とうとするが、つい、声が上ずるのを抑え切れなかった。ジェフの声が、妙に明るいのが気に障る。

『クリスから連絡あったか?』

「昨日、留守番電話にメッセージ入ってたよ。週末のパーティーの件か?」

『ああ。クリスに頼まれたんだよ。あいつ、今夜夜勤だから、お前に連絡しといてくれって』

 また、クリスだ。

「で?」

『時間なんだが、予定通り7時からだそうだ。スコットとマイクも来る』

「知ってるよ」

『お前は来るのか?って聞いてたぞ』

「行くって伝えておいてくれ。それだけか?」やはり、素直にはなれない。何より、あっけらかんとした、この話し方はなんなのだ?

『あ、ああ。じゃあな』

 エディは答えずに受話器を置いた。クリスのせいで、エディがどんな目にあったかなど、彼は何も知らないのだろう。腹が立つほどにジェフの声は明るかった。下らない言い争いなどなかったかのように。いけしゃあしゃあと、クリスの名前を出して来た。

 もうエディには、ジェフに対しての当てつけに、罪悪感は無くなっていた。彼女への罪悪感も。

 昼間、べスから貰ったメモをポケットから取り出し、書かれた番号を押した。

「べス?エディだけど。遅くにごめん」

 

 

 その日は、冬とは言え、さほどの冷え込みも感じられなかった。ニュースでは、クリスマスの時と同じく、異常気象である事を伝えていた。クリス達のコンドミニアムまで、ハリス&ディップルからはタクシーに乗るには近すぎ、地下鉄でも遠回りになるため、エディはべスに徒歩での移動を提案した。彼女からすれば、エディと一緒であれば、別にどんな移動手段でも構わなかったのかもしれない。裏口を一緒に出て、彼女に声をかけた時点で、アリスンに見つかったが、エディはもう気にしなかった。

「あら、エディ。べスとおでかけ?」

「ああ」あっさりと肯定すると、アリスンはにんまりと笑っていた。

「友達のパーティーだよ。女性同伴って言うから、べスに頼んだんだ」嘘はついていない。

「ふうん」

 まだアリスンの目は、好奇の色を帯びている。

「じゃあ、、俺達はこれで。べス、行こう」

 にやにやと2人を見るアリスンを置き去りに、2人はパーク街に向かって歩き始めた。

「パーティーって言うのに、こんな普段着でいいの?」

「どうせ、俺の友達ばっかりだから、大丈夫だよ。自宅でやるんだし。俺だって、この格好だぜ」

 答えるエディも、普段着のままだ。黒いダウンジャケットにチャコールグレイのマフラー。中も黒いコーデュロイのシャツにブラックデニム。

 べスは、ラベンダー色のニット・ワンピースの上から、黒のロング・コートに少し濃い紫のショールをマフラー代わりに巻いている。ブーツもコートに合わせて、黒いレザーのロングのものを履いていた。多少、気を遣ったのだろう。歩くには、少し軽装かもしれなかった。

 『あの日』以来、数日ぶりに訪れた建物の入り口には、見慣れたドアマンがいた。少しだけ、安堵を感じる。

「ダグ、久しぶりだね」エディは思わず声をかけた。

「ああ、エディ。久しぶり。今日は、ドクター・テイトの所?」言葉に一瞬詰まってしまう。

「いや。今日は、クリス…ドクター・デガーモの所」

「じゃあ、ちょっと待っててください」

 ダグは振り返り、すぐ傍の内線で連絡をしている。「ドクターが、すぐ上がってきていいって言ってますよ」

 エディはダグに手を上げて了解の意を示し、べスをエントランスに誘導した。

「やっぱり、お医者さんだけあって、お金持ちなのね」

「俺達だと、入り口から自分で鍵を開けるもんな」ため息をつくべスに笑いかけ、エレベーターに乗る。

「エディのお友達って、スコットとか?」

「うん。スコットとアネットも来るよ。後はマイケルとその奥さんのリンかな。リンも、前に会ってるだろ?クリスの彼女は女優らしいよ。メリッサ・エルウッドって」

「その人、知ってるわ!何回か彼女のドラマ見た事あるのよ、アリスンに薦められて。彼女がドクター・デガーモのガールフレンドなの?」

「らしいよ」エディは出てきた名前に苦笑した。

 部屋の前まで着き、ブザーを押すと、タートルネックのセーターにレザーパンツという格好のクリスが、ドアを開けて出迎えた。

「やあ、よく来てくれたな」

 クリスに誘われ、中へ入る。クリスは紳士らしく既にべスに手を貸し、コートとショールを預かっている。その辺りは、やはり手抜かりはない。逆に、それが胡散臭いと感じさせる要因でもあるのだが。

 エディも ダウンジャケットとマフラーを脱ぎ、手渡されたハンガーに掛ける。室内では、ブライアン・アダムスの曲が流れている。その音を遮るように聞き覚えのある笑い声が聞こえた。

「もしかして…?」

「リンが早々と出来上がってるんだよ」クリスが苦笑いしている。珍しい事もあったものだが、リンには彼も逆らえない。

「まあ、入って適当な所に座っててくれ」

 クリスがさっさと奥に引っ込んでしまった為、エディはべスを促し、リビングへ足を踏み入れる。さっきの笑い声はやはりリンのもので、3人掛けソファで、例のクリスのそっくりさんの言葉に笑い転げている。横にいたマイケルが振り返った。

「エディ…」

 マイケルの目は『助けてくれ』と訴えていた。エディは笑いを堪えて、べスをマイケルの元へ連れていく。

「べス、覚えてないかもしれないけど、彼がマイケル。マイク、うちの薬局で一緒に働いてるべスだ。クリスマスにそっちに連れていった」

「ああ、べス、よろしく。マイケル・ウィルトンだ。ちょっと今日は、うちの奴がとんでもない状態で…悪いね」

 横目で、リンの様子を見ながら、べスに握手の手を差し出す。

「あんた…『薬屋さん』?」

 クリスのそっくりさんが振り返った。いやに『薬屋さん』と強調した、厭味な言い方する。まさか、彼まで来てるとは思わなかった。やはり、彼とクリスは『そういう』関係だという事なのだろう。

「『患者さん』まで来てるとは思わなかったよ」『患者さん』のにやにや笑いに、エディも口の端を歪めた笑いを返す。

「あらぁ!べス!久しぶり!あなたもパンチをいかが?」声のボリュームを調整出来なくなっているリンが、べスの手首を掴んでいた。べスは『大丈夫だ』というように、エディに笑いかけてきた。リンに誘われるまま、隣に腰を下ろす。

「『患者さん』ね。俺はコンピュータ・プログラマやってる、コリー・クラークだ」

「俺には、エディ・ジャクソンて名前があるよ、コンピュータ屋さん」

「分かったよ、エディ。で、『リチャード』って誰だい?」

 コリーが顔を寄せてきてエディに質問する。エディは自分の体が硬直するのが分かった。

「あんた…」

 コリーは意味ありげな笑いを向け、飲み物を取りに立ち去った。

「あいつ、クリスの最近の友達みたいなんだけど、ちょっと心配なんだ」

 マイケルの表情は曇っている。

「最近、クリスの目がぎらぎらしてる気がしてしょうがないんだ。多分、あの男と知り合ってからだと思う。あのコリーって奴が何かけしかけてるのかどうかは分からないけど、一緒にいる事で、何か悪い方に転がってるような気がするんだよ」

 それは、明らかにそうなのだろう。エディは身をもって体験している。

「でも、クリスはわざとやってるんだろ?」自分の受けた仕打ちを思い出し、言い方は皮肉交じりになってしまう。

「俺にはどうしようもないよ、マイク」

「分かってるよ…・俺も気にして本人には忠告したんだけどね。あのコリーって奴より、ジェフといる方がクリスの為なんだけどな」

(じゃあ、俺はそのために犠牲になれっていうのか?マイク。俺とジェフが終ったっていう事だろう?)

「あ、メリッサだ…」マイケルが、ダイニングから入って来た人影に注意を向けた。新たにサングリアの入ったピッチャーと、オードブルの皿を持っている。栗色の髪は夜会巻きにアップにされ、恐らく上質のカシミアであろうロイヤルブルーのプルオーバーにゆったりとしたガウチョ・パンツを穿いていた。殊更に着飾ってはいないが、他の者と違う空気を纏っているのは、ショービズの世界に身を置いているもの故の事だろう。手にした物をテーブルに置くと、新たに増えた客に気づいたようだった。

「あなたは…」エディを見て小首をかしげる。

「クリスの友人のエディ・ジャクソンです。それから、べス。キム・エリザベス・マッケンジー」

 自分の名前を聞いたべスが振り返り、立ち上がってエディに寄り添った。エディも、べスの背中に腕を回す。

「こんばんわ。メリッサ・エルウッドです」

 仕事用と思われる微笑を浮かべ、彼女は握手の為に手を差し出した。

「テレビで拝見してます、エルウッドさん」

「メリッサってよんでくださいな。キム・エリザベス」

「どうぞ、べスで」

「ゆっくりしていってくださいね、エディ、べス。と言っても私の家じゃないですけど」そう言ってくすくす笑う。

「私のエージェントのマークも、もうすぐ来ると思います。ちょっと彼は、その、特殊ですけど。びっくりなさらないでね」

「特殊…なんですか?」

「ええ、まぁ」

 エディは2人の会話を聞いている間、べスの背中に回した腕を腰にずらした。べスも自分の腕を回して来た。と、新たな来客を告げるブザーが鳴った。

「ちょっと、失礼」会釈をして、メリッサは歩き去った。

「やっぱり、一般人と違って綺麗な人ね」

「そうだよね」エディが答える前に、にやけたマイケルが答える。

「痛いっ」

 後ろから、リンがマイケルの尻を叩いた。しょうがなくマイケルは、酔っ払った自分の配偶者の相手をすべく、その隣に腰を下ろした。

 メリッサに誘われて入ってきたのは、スコットと、強張った笑みを張り付かせたアネットだった。それも、エディ達の顔を見ると、表情が緩む。

「エディ!」すぐに、隣のべスにも気がついたようだ。

「べス、元気だった?」

「アニー!」女性2人は、ハグを交わしている。スコットの目は、エディの目をしっかり捉えていた。エディは口元だけで、気まずい笑みを返した。

「いいんだな?」

「何が?」

「いや、いい。ジェフは?」

「まだ来てないみたいだぜ」

 エディは、テーブルの上にある、氷の入った大きなボウルから、ミラーの缶を2本取り出し、片方をスコットに渡す。自分はべスのいる側の肘掛に腰を下ろした。アネットには、サングリアを注いで渡した。

「とてつもない茶番だな、これは」

 苦々しげにスコットが言う。それはエディも分かる。恐らく、クリスが自身の書いたシナリオに登場する人物を一斉に集め、眺めようという趣向なのではないか。彼のほくそえむ顔が目に浮かぶようだった。分かっていて参加している自分は、どれだけ阿呆に見えるだろうか。

 

 

「『薬屋さん』がおいでなすったな」

 コリーがニヤニヤしながらキッチンへ入って来た。

「メリッサ、飲み物とこれ、持って行ってくれるかい。さっき言ってた友達が来たんだ。ついでに挨拶してきたら?」

 クリスはケータリングで頼んだオードブルの皿をメリッサに示した。「じゃあ、クリス。オーブンの火、あと1分したら止めておいてね」

 彼女が出て行くのを見てから、コリーは更にクリスに歩み寄る。

「『リチャードって誰だ?』って聞いたら、固まってたよ。メデューサに睨まれたみたいにな」

 コリーは喉を鳴らして笑った。

「ズルイな。俺より先に楽しんでるなんて。メリッサが戻って来たら、俺もリビングへ行くよ」

「女連れで来てたぞ」

「ああ。見たよ。」クリスの目が好奇の色を帯びた。「楽しみだな、どんな様子か」

「今夜は、あの女が泊まって行くんだろ?」

 クリスの背後にぴったり寄り添ったコリーが尋ねる。

「いや。彼女は明日撮影があるから、ホテルに帰るらしい。昨夜、うちに泊まってたしな」

「じゃあ…」

「あんたが泊まればいい。彼女はマークが送っていくだろう」

 寄り添ったコリーは、クリスの耳朶を軽く噛んだ。

「今夜の事を一緒に思い出して楽しもうぜ…」


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最終更新日 : 2014-04-11 16:08:55

chapter 6-3

 

 クリスもメリッサもリビングに戻り、ジェフとマーク以外のゲストが揃った。メリッサはアネットとべスと話し込んでいる。それを興味深そうに、コリーが眺めていた。マイケルとスコットはエディと共にソファの傍に座り込んでリラックスしている。

 ホスト役である事を名目に、クリスは出窓に体を預け、全体を眺めるポジションを陣取った。後は、ジェフさえくれば、今夜のメイン・キャストは全て揃う。エディはスコット達と話しながらも、玄関の方を気にしているのが分かる。ジェフが来るのを待っているのだろう。それとも、来て貰いたくないのか?いや、来て欲しいのだろう。女連れで来たのだ。引き合わせる魂胆に違いない。コリーが意味ありげにエディの方を見ているのにも、気がついているようだ。彼は、あの日自分を抱いたのが、コリーだと気がついただろうか?それとも、コリーは単なるオーディエンスだと思ったか?冷静さを欠いたエディの様子を見るのは楽しかった。もう少し、揺さぶりを掛けたい欲望が抑えきれない。思わず笑みを浮かべ、エディの横顔をじっと見つめた。

(こっちを向けよ、エディ。あんたに伝えたい事があるんだ)

 願いが通じたのか、エディがこちらを向いた。目を見て笑いかけると、立ち上がってこちらへ来た。

「エディ、楽しんでくれてる?」余所行きの笑顔で問いかけるが、エディは無言だった。こちらの目を睨み返してくる。

「コリーは、いい夢見させてくれたかい?」

 エディが、目を見開いた。体が一瞬揺らぎ、グラスを持つ手が微かに震えている。クリスは体中の血がざわめくような快感を感じた。

「何の話だ?」声が僅かに上ずり、震えている。

「いや。なんでもない。お代わり、いるか?」

「頼むよ」

 クリスはエディからグラスを受け取り、ダイニングへ向かった。笑いが込み上げて来るのを必死で耐えた。これだから、止められない。後はジェフが来てくれるのを待つだけだった。エディの為のウォッカマティーニを作り、グラスを渡しにリビングに戻った所で、玄関のブザーがなった。すぐに玄関まで向かう。ジェフか、マークか…。

「あぁ、ジェフ。お疲れさん。もうマーク以外みんな来てるぜ」

「マークって…まさか、お前、彼女呼んだのか?」

 そう。クリスは敢えてメリッサのことを伝えなかった。これで、メリッサの反応も、ジェフの反応も楽しめる。そして…。

「エディも来てるよ。彼女連れて来たみたいだぜ」

「彼女?」ジェフの眉根が寄った。クリスは彼のコートをハンガーにかけ、ジェフの後ろを付いてリビングに入った。

 入って来たジェフに、一番先に反応を示したのは、案の定エディだった。しかし、表面上は何も反応しない。目の表情が変わっただけだ。スコットには会釈のみで、すぐにエディの方に向いた。エディの表情が、みるみる強張る。ジェフの表情がこちらからは見えないのが、クリスには残念だった。もう少し近づいてみる事にする。

「久しぶりに揃ったな」背後から声を掛けた。皆が一様に、それぞれの思惑で以って自分の顔を見るのは、見物だった。

 マイケルは、相変わらず酔っ払ったリンの世話をしている。もっとも退屈なカップルは、2人ともが白けた様な、嘘臭い笑顔を浮かべている。その『退屈なカップル』の傍にいたエディは、クリスの姿をみると。彼女の腰に腕を回した。べスも同じように腕を回す。ジェフの眉根に再び皴がよった。

(そういう事か。珍しい事だ)

「メリッサ、紹介するまでもないけど、今日は君の退院祝いも兼ねてるから、主治医だった彼も呼んだんだ。黙ってて、ごめんよ」

 クリスは、アネットの傍で立ちすくんでいたメリッサの手首を掴んで傍に引き寄せ、腰に腕を回した。彼女の背中の筋肉が緊張しているのがクリスの手に伝わった。それでも、顔に出さないのは、あっぱれとしか言いようがない。一番うろたえているのはジェフのようだ。メリッサの手前、堂々としていなければならず、かといって、エディが女連れで仲良さげにしているのも、気に食わないらしい。

「改めて、退院おめでとう。メリッサ」

 ひきつりながらも、ジェフは『主治医』としての精一杯の笑顔で、彼女とハグを交わした。恐らく、この2人はセックスはおろか、キスもしてないのではないか?とクリスは思う。

 ジェフとメリッサの2人を改めて引き合わせたところで、クリスは再び傍観者のポジションに戻った。内線電話が鳴り、新たな来客を告げる。マークだ。ダグには、すぐに通すよう伝えた。視線を再びテーブル周辺に戻すと、メリッサは気丈にもクリスの彼女としての振る舞いを忘れてはいないようだが、心なしか、ジェフに対する表情が硬い。  ジェフは、もうメリッサはどうでもいいのかも知れない。彼女の問いかけにも冷淡な様子が見て取れる。本当に、我が儘な子供のようだ。クリスの誘惑に乗り、こちらへ傾いたのは自分だというのに、いざエディが彼女を連れてくると、嫉妬する。それを計算の上で、エディも女連れ来たのだろうが、いざジェフを前にすると、平常心ではいられないようだ。更に、時折傍にやって来るコリーが、彼の顔に一瞬の怒りを浮かび上がらせる。

 玄関のブザーが鳴り、マークの到着を知らせた。

 

 

 やはり、あの夜エディを抱いたのは、このコリーという男のようだった。クリスの言葉で確信した。あのポラロイドに写っていたのが、彼だったのか。まだ時折エディの方を見ては、薄笑いを浮かべている。エディは、べスの腰に回した腕に力を込めた。一瞬、べスはエディの顔を見上げたが、すぐに自分も腕に力を入れて、エディの体を引き寄せるようにした。

 アルコールも適度に入り、皆が多少リラックスした頃に、新しいゲストを告げるブザーが鳴った。クリスに連れられて入って来たのは、いかにもなクイーン然とした男だった。彼が、恐らくメリッサの言っていた『マーク』なのだろう。入ってくるなり、すぐにメリッサの傍まで歩み寄る。

「メリッサ、あのプロデューサー、やっとOK出したわよ。ほんとに、あの禿親父と来たら!」

 いきなりイギリス訛りで捲し立てる。ちょうど傍にいたべスは、勢いに押され、怯えたような様子で、エディに体を寄せて来た。エディは、『大丈夫だ』と言い聞かせるように、彼女の体に回した手で背中を軽く叩く。

「あら、お嬢さん。オカマを見るのは初めて?怖くないわよ。オカマだってジェントルマンなんだから」機械仕掛けのように、にっと笑う。

「私は、マーク・アーモンド。メリッサのエージェントをしているの。あら、ドクター・テイト!メリッサの事ではお世話になったわ。お久しぶり」

 すぐにジェフの方に向き直った。メリッサは平然として見えるが、ジェフは引きつった笑いを浮かべている。そう。ジェフは、ああいうタイプが苦手だった。恐らく、あのマークからも好かれているのだろう。助けを呼びたそうだが、あいにくエディにはその気はなかった。また、ジェフもそこまでの勇気はなさそうだった。べスと一緒にいるだけではなく、2人で寄り添っている姿を見た、彼の表情で分かった。

「あなたは、ドクター・テイトのお友達?それとも…」マークが今度はエディの方へ向く。

「どっちもですよ。ついでに言うと、そこにいるスコット…ドクター・ロッケンフィールドやマイクともですけど」

「あら、そう」マークは目を細めた。一体、何が言いたいのか。

 今度は身を翻し、スコットとアネット、更にご機嫌になっているリンの面倒を見ているマイケルの方に向かった。

 出来れば、早々に立ち去りたかった。最低限の目的は果たしたのだ。人付き合いの義理も、ジェフから嫉妬を引き出す事も。あの、コリーとかいう男と、クリスの好奇の目に晒される状態から逃げ出したかった。あの2人が、自分の痴態を見ていたのだ。コリーに抱かれて喜んでいる姿を。思わず表情を硬くしたエディを、べスが心配そうに見上げていた。

「どうした?」

「何か心配事でもあるの?」

「大丈夫だよ」べスの腰に回していた腕を、彼女の肩に回し、軽く撫でる。顔を上げると、ジェフがこちらを見ていた。厳しい目つきで。

「ねぇ。やっぱり、ドクター・テイトって怖そう…」

 彼女もジェフの視線に気がついたのだろうか?

「怖くないよ」エディは苦笑する。そう、怖くない。手がかかるだけだ、駄々っ子のように。

「紹介するよ」

「え?でも…」

「おいで」

 スコット、アネットと話しているジェフの元へ、べスの肩を抱いて促す。

「ジェフ。紹介するよ。見かけたことあるかもしれないけど」自分は、堂々と振舞えているだろうか?

 振り返ったジェフは、一瞬べスが怖いと表した表情を浮かべたが、すぐに笑みを返した。ただ、エディにはその笑顔が引きつって見える。

「彼女なんだ。キム・エリザベス。ベスだよ。ベス、やっぱり怖い?」

「よろしく、ベス。ジェフ・テイトです。俺は取って食ったりしないから、大丈夫ですよ」

 白々しい会話だと思う。よくぞ、ベスの事を『彼女だ』と言ったものだ。ベスもさすがに驚いて、エディの顔を再び見上げていた。

(もう、いい…どうにでも、なるようになればいい)

「よろしく、ドクター」

「ジェフでいいですよ。よく、こいつには飯を食わせて貰ってました」

(ジェフ、そんな余計な事を…)

「テックス・メックスが得意なんで、一度作って貰えばいい。それとも、もう食べたかな」

「いえ、ジェフ。まだ…」

「今度、うち来た時にでも作るよ。リクエスト、考えといて」

「じゃあ」先に音を上げたのはジェフの方だった。今度はマイケルとリンの方に行った。さすがにクリスとメリッサの所へは行きづらいらしい。

「エディ…」

 ベスが顔を見上げている。言いたい事は分かっている。不安でもなく、やや当惑の混じった顔だ。急に『彼女だ』などと言ったのだ。当然だろう。

「いいんだよ」改めて、エディはベスに笑顔を向け、彼女の肩を抱いた。

「エディ。今夜、うちに泊まっていかない?一緒にいて欲しいの」


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最終更新日 : 2014-04-11 16:09:30

chapter 7-1

 

 

 

 シャワーから出たベスは、冷蔵庫に入れておいた耐熱皿を取り出し、余熱したオーブンに入れた。昨夜の残ったパスタで、カナディアンベーコンのストラーダを準備しておいたのだ。後は、焼きあがるのを待つだけの、休日のブランチ。

 クリス宅でのパーティーの夜はベスのアパートに泊まったが、結局、通勤の便がいいのと、古い分広いからという理由で、ベスがエディのアパートに来る事の方が多かった。既に、キッチンは彼女も勝手を知っている。

「ねぇ、テッド」

 エディは、まさか自分の事と思わず、ベスの呼びかけを無視した。

「テッドって呼ばれるの、イヤ?」

 彼女のささやかな独占欲の発露か、自分だけは、他人とは違う呼び方をしたいのだろう。それに思い当たって、どうやら自分の事だとエディは気付き、しかめ面を作った。

「あ、ああ。慣れないし、親父がそう呼んでだから、あまり好きじゃないんだよな」

 そうだ、父親。彼がエディをそう呼んでいた…。

「じゃあ、ネッド」(テッド,ネッド共にエドワードの愛称)

「ガキの頃、お袋がそう呼んでてた」

 今度は、ウンザリとした顔を向ける。

「じゃあ、素直にエド」

 エディは肯定する代わりに、ドライヤーで乾かしている最中の彼女の髪を、笑顔でくしゃりと撫でた。

 人は、自分の心を守る為に、自分でも知らないうちに敢えて記憶を消してしまう事があるという。ならば、何故最後まで消えたままにしておいてくれないのだろう。ある日突然、それはやって来るのだ。残酷なほどに、鮮明に蘇る。ベスのたった一言が呼び起こした記憶。よもや、父親が自分の体をそういう目付きで見ていたなど。勘違いのままで思いこませてくれていたら、こんな思いをせずに済むものを。

『テッドも、もう少し筋肉がついてたらなぁ』

 笑顔の父親が撫でる、エディの華奢な背中。バスルームの鏡越しに合う視線。

(「も」って、誰と比べてやがるんだ)

 弟のチャーリーも、エディと体型は似たり寄ったりだ。恐らく、父親の脳裏には、コレクションした写真の彼の裸体が浮かべられていたのだろう。

(俺を、自分と一緒にしないでくれ。その口でテッドなんて、呼ばないでくれ。母さんとチャーリーに負担を掛けないでくれ。俺が黒い羊なのは、アンタと同じだからじゃない!!)

 母親に父親の宝物を見せられる前から、うっすらと気付いていた。気のせいだと思おうとしていた。

 シャワーから出て来る度に感じる、父の視線。不自然なタイミングで、覗かれるバスルーム。何度否定しても、湧き上がった疑惑。だからこそ、逃げようとしたのじゃなかったか。

 何故、記憶は突然に、招かれざる客のように頭の中に湧いてくるのか。

 エディは、バスルームに入るなり、身体が穢れたような気持ちになり、肌が真っ赤になるまで、スポンジで擦った。

 自分は、父と同じ道を行こうとしているのか?いや、違う、とエディは自分の心の中で否定する。

(俺はまだ、家庭を持ってない。持っちゃいけない。少なくとも、自分の子供にそんな目は向けない)

 バスルームには、以前はアイヴォリーの石鹸の匂いぐらいしかしなかったが、今は違っていた、先にシャワーをベスが使ったので、アグリーのフレグランス・シャンプーの香りと、マジックソープのラベンダーの香りが立ち込めていた。これが、女と暮らすという事なのだろう。今は週の殆どの日に、彼女はエディと一緒に此処に帰って来る。食事の支度は特にどちらともなく、思いついた方がしている。彼女も母親についてよく料理をしていた、と言っていた通り、腕はなかなかのものだった。普通なら、これが居心地の良い状態なのだろう。しかし、エディには違う。ベスへの罪悪感の問題ではない。もちろんそれは感じる。しかし、ただ、『自分がここにいるべきではない』と、感じるだけだ。居心地の悪さ。そこに圧し掛かる彼女への罪悪感。自分を騙している後ろめたさ。それらが、日に日にエディから快活さを奪っていく。ベスは気づいているかも知れない。それでも知らないふりをして、普段通りの振る舞いをするのは、彼女の美点で強さでもあるのだが。

 それでも、またこの関係も、今の状況も、いつか自然消滅するだろう。今までのように。ジェフとの事もそうなったように。

(いや、ジェフとの事は、俺はそう望んでいなかった筈だ)

 今までは、自覚はなくとも、自然消滅する事を自分が望んだのだろうか。

 シャワーから出ると、チーズの焼けた香りと、コーヒーの香りがリビングにまで漂っていた。

「エディ、電話借りたわ。今、留守番電話聞いたら、叔母さんが…倒れたって…」

 バスタオルを頭から被ったままのエディの胸に、ベスが飛び込んで来る。

「叔母さんて、ご両親が亡くなってから面倒見てくれてたっていう…?」ベスが、エディの胸の中で小さくうなずいた。

「私、ブルックリンに帰らなくちゃ…店にも連絡入れるわ。今朝早くに倒れて、病院で手術受けてるって」

「早く行ってあげなよ。世話になったんだろ?」

 ベスは黙ってもう一度うなずき、着替え始めた。エディもクローゼットから彼女のダウンジャケットを取ってくる。ついでに、彼女が以前に置いていったジーンズとセーターも出して来て、手近な紙袋に入れる。

「これ、うちに置いてた服。着替え代わりに持って行きなよ」

「ありがとう。行ってくる」

 慌ただしくベスが出て行った後、残されたのは、キッチンのテーブルに載った2人分の朝食だった。ベスの分のグレープフルーツジュースをシンクに流し、折りたたみのスツールに座る。部屋を沈黙が支配した。久しぶりの独りの時間。ベスが用意したストラーダは、まだ湯気を立てている。ベスの分と、耐熱皿の残りにラップをかけ、ゆっくりと食事を取る。二、三日はゆっくり過ごせる、と思いながら。

 

 

「エディ、ベスからの連絡は?」

 出勤していきなりの挨拶がこれとは、アリスンらしい。

「昨日の朝に帰ったばかりだから、まだないよ。第一、こっちにも入るだろ?」

「あら。もし何かあったら、昨夜のうちに、あなたの所に入るかも知れないじゃない?」

 既に、店の同僚の中では、エディとベスは公認も同様だった。特に冷やかす事も何か言われる事もない。

「俺も詳しくは聞いてないけど、病院に運ばれたっていうし、しばらくかかるかもな」

「そう…彼女、確かご両親が亡くなってるから、叔母さんが最後の身内だった筈なのよね」

「だから、急いで出てったよ」

 本来、この日は昼前からの出勤だったが、ベスの穴埋めの為に朝からの出勤に交代させられた。アリスンと一緒というのが気になったが、既に公認状態を否定しない2人には、さほど興味はないようだった。もし、ベスが最初に相談を持ちかけたのが彼女だったら、エディは確実に逃げていただろう。その方が、ベスには良かったのかも知れない、と思う。

 調剤室に入った時点で、既にカウンターの前に人影があった。まだ店も開けておらず、病院の診察も始まってはいない。

「エディ。お客さんだぜ、お前に。また女だ」にやにやと笑いを浮かべたダンが近づいて言う。

「まだ店開けてないだろ?」

「シャッター開けた時に声掛けられたんだよ。特別扱いだ。なんせ、一般人じゃないからな」

「一般人じゃない?」

「セレブリティ」

 セレブリティ。そう呼ばれる知己は、一人しかいない。まさか、と思いつつ、カウンターに向かう。ガラスの向こうに見えた姿は、まさしくメリッサの姿だった。サングラスをかけてはいるが、雰囲気で彼女だと分かる。

「エディ、お久しぶりね、覚えてくださってるかしら?」

「メリッサ…」

「ごめんなさい、お仕事中よね。何時に終るのかしら?」

「6時だけど…どうして、ここが?」

「マークに言って探して貰ったの。相談する相手が、あなたしか思いつかなかったの」

 恐らく、クリスかジェフに関する事なのだろう。今日はこの前のパーティーの日に比べ、化粧が濃いように見える。

「今日、お仕事が終ってから、少し時間いただけない?」

 何故、こうも女に相談や愚痴を持ち込まれるのか?それほど人畜無害に見えるのだろうか?相手は与り知らぬ事だが、どれもエディ自身関係ないとはいえない事ばかり。これもひとえに、クリスにしろジェフにしろ、トラブルメーカーである証ではないか。どのケースにしても、エディが相手にとって都合の良いポジションにいるからだ。エディにとっては不都合であっても。

「わかりました」

「じゃあ、場所は…」メリッサがバッグから手帳を出して何か書きとめている。そのページを破り、エディに差し出した。

「6時半に、ラ・パルマで。住所はこれよ」

 メリッサの声の響きは優しかったが、口調は自分が中心である扱いを受けて来た者のものだった。

 

 

 手帳に記された店はアッパーイーストの外れにあり、店からも徒歩で数分の所にあった。ちょうど、ジェフ達の勤務先やコンドミニアムからも東西逆となるため、彼等に会う事もない。それを考えた上での選択なのだろう。

 間接照明とキャンドルに照らされた店内はさほど高級そうには見えない。確か、以前ベスが来たいと言っていたのを思い出す。予約が一杯で、すぐには入れないと言われ、諦めたのだ。すぐに奥からオーナーと思しき老紳士が出てくる。

「失礼ですが、ご予約は?」

「あ、待ち合わせで…、連れは先に来てるかもしれません。ここに来るように言われたので」

「ジャクソン様でらっしゃいますか?」

「はい」

「どうぞ。お待ちでらっしゃいます」

 老紳士に促されて中に入ると、一番奥の席にひっそりと、人目を忍ぶかのようにメリッサが座り、エディに向かって手を上げていた。

「待たせたかな?」

「いいえ。私が早く来過ぎたのよ。今日はオフで、何もする事がなかったから」

 エディが席につくタイミングで、先ほどの紳士の奥方らしき年配の女性がワインを注ぎに来る。

「ごめんなさいね。急に呼びたてたりして。今朝も言った通り、あなた以外に相談する相手がいなかったの。誰にも言うべき事じゃないかもしれないけれど」老婦人が立ち去ったタイミングで、メリッサが口を開いた。

「クリスの事?」

「それと、もう一人、ドクター・テイト、ジェフの事よ」

 エディが言葉を継ごうとした時、先刻の老紳士が前菜を運んで来た為、口をつぐむ。再び2人だけとなった際に、口を開こうとしたエディを、メリッサが制した。

「私、二股かけてたのよ。彼等2人に」

 それは、知っている。あの、とんでもない目に会わされた夜、直接クリスの口から聞いている。本当は仕組まれたものだというのに。

「軽蔑するかしら?好きに感じてくださって結構よ。でもね、分かるでしょ?…ああ。分からないわね。あなたも男性だもの」

(また『男っていうのは』…って奴か)

「ただ、私は普通の幸せが欲しいだけなのよ。今はこうして女優の仕事をしているわ。でもね、時々、私は向いてないんじゃないかって思う時があるのよ。昔はあんなに憧れていた仕事につけたのにね」

 『普通の幸せ』。それは、どんなものなのだろう。自分には得られるのだろうか。

「私の実家は、とても田舎でね。女は大学なんて行く必要ないって言う人がまだいるような小さな町。ワシントンがどこにあるのか、地図を見ても分からない人が大勢いるような…。私はジェフもクリスも、2人とも好きだから、お付き合いしてたのよ。ジェフは私を大事にしてくれてるのか、まだ何もして来ないけど」

(やっぱり、女との付き合いが出来ないんじゃないか…)

「連れて歩くならジェフの方が良いんでしょうけど、私の本質を理解してくれてるのは、クリスの方だわ」

 その認識は間違っている。エディはメリッサにそう言いたかったが、黙って聞いていた。

「でも、あのパーティーの日、翌日撮影があるから私は先に帰ったんだけど、あれから2人とも連絡がないのよ。今までなら、毎日1回は電話もあったのに」それは、恐らくどちらもクリスの差し金なのだろう。

「俺は、あなたの役に立ちそうにない」

「なぜ?」

「俺は、何も聞いてないから」

「聞いてなくても構わないの。お願い。ジェフに口止めを頼んで欲しいの。ジェフとあなた、特別な仲なんでしょう?」

 予想外の言葉が出たことで、思わず言葉に詰まった。いったい誰に、何を聞いたのか?顔が強張りそうになる。

「どういう意味かな?」

「私のエージェント、マークには会ったでしょう?彼はあの通りの人よ。彼が、あなたとジェフの様子を見てたのよ。あなたと彼には何かあったに違いないって、マークは言ってたわ。クリスなら困るけど、ジェフなら…。だから、私と手を組まない?」

 エディは彼女の目の前に手をかざし、言葉を遮った。

「悪いけど、あなたやマークの想像しているような事はない。彼が何を思ったか知らないけど、ジェフとは一度下らない事で仲違いしたから、ギクシャクして見えたんだと思う。それに、人のそういう事に関わるのも、そういう取引めいた事も嫌いなんだ」

メリッサの顔から、潮が引くように血の気が引き、硬い表情に変わる。

「どうしても?」

「申し訳ないけれど」これ以上の面倒はうんざりだった。

「分かったわ。じゃあ、別のお願い、聞いてくださる?」

「他人のロマンスに介入するような事じゃないなら」

「神に誓って」メリッサは片手を挙げる

「どんな事?俺に出来る事なら、いいですけど」

「来週から新しい映画の撮影が始まる事になってるの。だけど…最近調子が悪くて。お薬を調達して欲しいの」

「俺は医者じゃない。あなたの主治医に…」

「主治医が出してくれないから、頼んでるのよ」

「なら、俺にも出せませんよ」

「お願い。違法な薬じゃないわ。単なる新薬よ」

「何です?」聞かなくとも、大体の見当はついていた。そろそろ流行りになりだすだろう、と店でも言っていたのだ。

「プロザックよ」

(やはりか…)

「処方薬だから、処方箋が要る。第一、即効性はない」

「白紙のものを持ってるの。署名も入ってるわ。即効性がないなら…別の、できるだけ速く効くものを」メリッサはバッグから、封筒を取り出した

「なら、その医者に出して貰えば…」

 メリッサは首を振る。偽造、という事なのだろう。

「俺に危ない橋を渡れって事?」

「お願い」

 即効性があるものに、心当たりがない訳ではない。リタリン。確かにアッパーになれるだろうが。彼女が薬漬けになったらどうなるのだろう?耐性も人によっては出来るのは早い。正常な状態の者が飲み始める事で、薬漬けになる事は少なくないのだ。一度飲み始めたら、簡単に止められない。離脱症状が出るのだから。その時、彼女はどんな行動を取るだろう?あのクリスに対して。

「分かりました。ただし、飲み方は俺の指示は必ず守ってください」

 エディはため息をついて、封筒を掴んだ。

「受け渡しはどうすれば?」

「一緒に、ベイリウムもお願い」

 エディは、再度ため息をついた。


13
最終更新日 : 2014-04-11 16:10:24

chapter 7-2

 

「分かった。ベスも気をつけて。ちゃんと食って寝なきゃ駄目だぞ。うん、じゃあ」

 今日の昼休み、メリッサの遣いに約束の薬を渡し、ベイリウムはあくまで頓服として使用するよう、念を押した。約半月分。女性の精神安定剤の依存症は、決して少なくないのだ。すぐにエスカレートし、リスキーな量を要求されても困る。

 一人の部屋に帰宅し、軽く夕食を済ませるとべスから連絡が入った。叔母の具合が落ち着くまで、もうあと二日ほど滞在する、と。別にそれはそれで、エディは構わない。それでも彼女の体調を心配するのは、彼女の優しい性格を理解しているからと、エディがお節介なのとどちらとも言えない。きっと両方なのだろう。

 久しぶりにバスタブに湯を張り、ゆっくりと体を沈める。ベスと2人でいると。お互いがまだ気を遣い合う事もあり、シャワーで済ませてしまう事が多い。ただでさえ、一人でいても面倒さが先に立って、バスタブに浸かる事は少なかった。もう、バスルームには石鹸の匂いしかしなくなっている。昨日までは、まだラベンダーの香りが微かにしていたが、もう消えてしまったようだ。

 栓を抜いて、湯を流してしまう。曇った鏡に、上半身が映る。貧弱だ、とずっと思っていた体が、ベスと一緒だとさすがに女の体とは違うのか、さほどそうは見えなかった。ジェフとずっと一緒だったからかも知れない。それでも、自分では弱々しい体だと思う。

 髪を洗ってガウンを羽織り、キッチンに行ってナイトキャップ代わりにタンカレーをグラスに三分の一ほど注ぐ。氷を入れ、残っていたライムを搾って、更に残ったライムを一緒にグラスの中へ。まだ雫を拭っただけの髪を被ったバスタオルで拭きながら、ジン特有の香りを口の中で転がす。時間はまだ10時。一人で夜をゆったりと過ごすのは、いつぶりの事だろうか。

 クリス宅でのパーティー以降は、殆どの日にベスが此処にいた。エディが彼女の家にいた事もある。一人で過ごす日は、週に一度あったかどうか。彼女と一緒にいる事で、その罪悪感、これからどうするのかといった事を考える事は出来なかった。たとえ表情に出さずとも、彼女がエディの様子に気づいている事は、一緒にいて数日で分かった。

 ラジオの電源を入れ、古いロック専門の局に合わせる。新しいものは分からない。こっちに出てきてからは、そんなものをチェックしている余裕はなかった。ハイスクール時代まで聴いていた曲が、一番耳に馴染む。ちょうど、ジャーニーの『エニウェイ・ユー・ウォント』が流れていた。この頃は、卒業を控えてプロムの相手探しをしていた…あの色目を使うコーチから逃れる為。もし、あの頃に自分が女に興味がない、と自覚していたら、彼の誘いに乗っただろうか?

(いや、断ってただろうな。ジェフの方が遥かにいい男だ)

 また、ジェフの事を思い出している事に気づいて、自嘲めいた笑いが浮かんだ。

 空になったグラスをシンクに置いた時、乱暴にドアを叩く音がした。隣かと思い、近づいてみると、この部屋だ。鍵はまだ3つともかけてある。ドアに耳を当てて、声をかけた。「誰?」

「エディ。俺だ…」

「ジェフ!?どうして?」

 ドアの鍵を開けるのももどかしい。なぜ、今日というタイミングで来るのか。ベスのいる日なら、すぐにでも追い返すものを。追い返す理由を自分の中に見つけられない事を言い訳に、急いで3つ目の鍵を開けた。ドアが開くと同時に、倒れこむように、普段着姿のジェフが入って来た。実際に倒れこんだ、と言っていいかもしれない。入って来たジェフは、酒の臭いをさせ、エディに抱きつくようにもたれかかってきた。それを受け止め、足元をふらつかせながら、ドアに鍵を掛けなおす。

「今日は、『あの女』は?」

「嫌な言い方するなよ。ベスは叔母さんが倒れてブルックリンに帰ってるよ」

 ジェフを抱きかかえるようにして、ソファに誘導した。ジェフも、素直に従ってソファに腰を下ろす。

「コート、皴になるぞ」ジェフがのろのろと脱いだハーフコートを受け取り、背もたれにかける。

「エディ、水貰えないか?」

 返事をする事なく、キッチンへ行き、ミネラルウォーターをグラスに注いで持って来た。喉を鳴らして飲み終えたジェフは、グラスを置いたその手で、エディの手首を掴んだ。

「ジェフ、ちょっと何するんだよ」ジェフは何も答えず、エディの手首を引き、ソファに押し倒した。

(この重み、この匂いだ…)

 見かけに違わぬ体の重みも、フレグランスに混じった体臭も、体が覚えている。手をジェフの背中に回しかけて、慌てて胸元に戻してジェフの体を押し返そうとした。たとえ、それが本気でなくても。そうしなければならない、と思った。

「ジェフ、離せって」

 形ばかりの抵抗を試みるが、本気で抗ったところで、勝てないのはエディも知っている。頭に被っていたバスタオルも落ち、羽織っていたガウンも簡単に剥ぎ取られ、冷たいジェフの唇が素肌を這う。微量しか残っていなかった抵抗する力は消え失せた。腕をジェフの背中に回し、その体を全身で受け止める。エディは求められるままに体を開き、今までのわだかまりが頭の中から消えて行くのを感じていた。

 

 

 案の定、事が終ると、ジェフは眠ってしまった。無理な体勢で横たわるエディに圧し掛かったまま。

 ソファの背もたれを支えにして、ジェフの下から体をそっと引きずり出すように起こすと、足腰がぎしぎし言う。どれだけ負担の掛かる体勢であっても、その時は案外と夢中で気がつかないものだ。

 ガウンを羽織って、バスルームでもう一度シャワーを浴びた。何ヶ所かに、薄っすらとキスマークが残っている。指が触れると、肌が粒立つ。その感覚から逃れるように乱暴に手で撫で、バスルームを出た。クローゼットから毛布を出し、ジェフに掛け、脱ぎ捨てられた衣服を簡単に畳んで傍に置いた。ソファの近くにしゃがみ込み、ジェフの顔を覗き込む。

(全く。子供みたいな顔して寝てやがる…)

 と、ジェフが寝返りを打ち、エディの上に転がり落ちる。

「痛っ」

「あ?クリス…今、何時だ?」

 エディは、全身の力を込めて、ジェフの体を撥ね退け、時計を見た。

「今、11時過ぎ。言っとくけど、俺はクリスじゃない」声には、抑揚がなくなっていた。

「え…?」

 言うが早いか、ジェフが慌てて飛び起きた。エディの顔を見るなり、顔を逸らす。

「ジェフ。あんた、さっきも俺がクリスだと思ってたのか?」

 そうじゃないのは分かっている。ちゃんとジェフは、エディの名を呼んだのだから。

「いや、違う。分かってたよ、お前だって」

「じゃあ、今更どの面下げてここに来たんだよ。あんた、今はクリスのオトコだろ?あいつが相手してくれなくなったとでも言うつもりか?あいつが駄目だったら、俺ならやらせてくれるだろうって。」

「違う。そうじゃない。…いや、そうなのかも知れないな」

「俺は、あんたの性欲処理機械じゃない」

(そんな事を言いたいんじゃない。本当は嬉しかったくせに)

「分かってる」

「じゃあ、なんだよ」

「コリーが…」

 また、あの男だ。まさか、自分の事を聞いてやしないか、と不安がよぎる。

「あのクリスのそっくりさんだろ?奴がどうかしたのかよ」

「俺がいる前でも、クリスはあの男といちゃつきやがる。怒ったところで、『あいつとは火遊び程度だから妬くな』で終わりだ。で、あいつのディックを可愛がったその手で、あいつは俺のディックを可愛がるんだ」

(で、そのクリスに突っ込んだディックを俺に突っ込んだんだろ…)

「で、、俺にどうして欲しいんだよ」

「分からない」

「じゃあ、何しにここに来た!?」エディは拳をテーブルに叩き付けた。グラスが跳ね、床に転げて割れる。ジェフは相変わらずエディと目を会わせようとしいない。

「酔っ払って、愚痴を言いにか?それとも最近クリスに相手にして貰えないからって、てめぇのディックを慰めて貰いにか?」

「違う、違うんだ」

「何が違うんだよ?」

「そういうつもりじゃなかった…」

「じゃあ、どういうつもりなんだよ」

「ただ、やりきれなくて、お前の所しか思い浮かばなかったんだ…」

(そう。そうやって、俺の所に逃げ込んで来たんだ。でも、また出て行くんだろ?)

「結局、そういう事だろう?」

「済まない…」

「Fuck You(くそったれ)!」

「エディ…」

「出てってくれ」

「エディ、済まない」

「早く、さっさと服着て出てけよ」

 エディが立ち上がると、ジェフもしょうがなく立ち上がり、服を着始める。足元を見ずに立ち上がったせいで、先刻割れたグラスの破片が足の裏に刺さる。ジェフが着替えている間に拾い集めてテーブルに載せた。気配で、ジェフがまだ背後に立っているのが分かる。

「まだ、いるのかよ。早く出てけよ」

「済まなかった。けど、なんでお前も俺だと分かってて、追い返さなかったんだ?」

「早く出てけよ、Fuckin' dick head(くそったれ野郎)!! Get Fuck out of  here(さっさと出てけ)!!」

 もう一度、テーブルを殴る。背後で、遠ざかる足音と、ドアの閉まる音が聞こえた。

(今度こそ、本当に終りだな…でも、言うべき事はちゃんと言えたじゃないか。褒めてやるよ、エディ・ジャクソンさんよ)

 

 

「なんだよ、今度は女か?」

 ソファの上で寛いでいるコリーがクリスに訊ねる。クリスが確認している留守番電話のメッセージの声が漏れていた。

「『彼女』だよ。放ったらかしにしすぎるのもよくないな。愚痴が入ってた。もうそろそろ終らせようと思ってたんだけどね。逆上して押しかけられても困る。ま、それはジェフも同じだけどね。」

 苦笑しながらも、クリスの顔は、どこか楽しげだった。登録してある短縮ダイヤルを押し、メッセージを録音した。

「ジェフ。彼女の事、少しは構った方が良さそうだ。俺も、もう少しは構ってやる事にするよ」

「こないだ、ふてくされてたな。で、俺の事は構ってくれるのかな?」

 にやにやと笑うコリーの傍に歩み寄り、彼の手にあるクアーズの缶を取り上げた。

「あんたが寝室に行く気があるんならね」

「面倒くさい」

 コリーの手が、クリスの手首を掴んで引き寄せた。

(さて、どうやって幕を引こうか…ジェフは思うように動いてくれないだろう。エディ、あんたを巻き添えにしようか?あんたなら、俺の望みを叶えてくれそうだものな)

 ソファに押し倒されながら、クリスは笑いをかみ殺していた。

 

 

 ジェフの来訪から二日後の朝、ベスが戻ってきた。彼女がもう少し早く戻っていたらどうなったろうか、とエディを見て微笑む彼女を見て思う。

「叔母さんの具合はどうなった?もう落ち着いたのかい?」

 彼女の分と、自分にもう1杯、新しくコーヒーをセットする。ベスはマフラーを解き、コートを脱いで、ダイニングの椅子の背もたれに掛けた。

「うん。心臓が、ちょっとね。でも血管のバイパス手術が上手くいって、意識も戻ったから…。従姉妹達もついてるからって」

 今日はエディも休みだったので、彼女の帰りをこうして迎えられたが、もし出勤の日だったら、何も知らずに帰宅するとベスがいる状態だった。今日が休みで良かった、と思う。彼女がいない間にジェフとの情事があった事など、痕跡は無いのだが、後ろめたさと、羞恥心があった。彼女は、エディが男に抱かれて喜んでいたなどと知る由もなく、当然知られたくもない。アリスンに知られたくないのとは、違う意味で。

 疲れて帰って来たであろう彼女の為に、ヴァニラを利かせたパン・プディングを用意し,オーブンに入れた。コーヒーが入ったマグカップを2つ、テーブルに置く。小さく『ありがとう』と言った彼女は、珍しくエディの顔を見上げない。ただ、ぼうっと自分の足元を見ている。

「ベス、元気ないみたいだけど。叔母さん、本当に大丈夫なのか?」

「エディ」ベスが急にエディに真顔で向き直った。

「どうしたんだい?急に」

「あなたの方が疲れて見えるわ。最近、何か心配事でもあったんじゃない?あまり立ち入った事は聞くつもりないけど…」

 やはり、彼女は何でも見抜いてしまう。ジェフが来たのが、ベスのいない時で本当に良かった。

「ベスには隠せないな…ちょっと眠りが浅くて寝不足が続いててね。実際疲れてるのかも」

 一部は事実で、一部は嘘だ。それも、彼女なら見抜いているかもしれない。

「後で、カモミールティーでも買ってくるわ。私も疲れちゃったし」

「カ?カモなんだって?」

「カモミール」ベスはころころと笑った。

「ハーブよ。薬じゃないわ。リラックスさせる効果があるって言われてるの。私もあまり薬は好きじゃないわ。特に睡眠薬はね」

(あの女優さんにも、これが必要なんじゃないだろうか)

 睡眠薬、と聞いて、一瞬どきりとする。クリスに盛られたのも、恐らく超短時間型の睡眠薬だった筈だ。

 ベスに全てを話してしまいたい衝動がこみ上げる。話したところで、何の解決にもならない。しかし…

 ちょうどプディングがいい頃合いに焼けたので、ミトンで掴んでベスの前に出す。

「まずは腹ごしらえしなよ。少しゆっくりして、それから一緒に買い物でも行こう」

 甘い香りを湯気と共に立ち上らせる皿を目の前に、ベスが表情が綻んだ。

 触る事も出来ないほど熱い皿にスプーンを差込み、一口分を掬って冷ましているベスは、まるでティーンエイジャーの少女のようだった。以前は気弱げに見えた表情も、最近では堂々として見える。かといって、エディに対して独占欲をあからさまにしたりする事もない。女は、こんなにも変われるのか、とエディは思う。それが自分という存在の影響だとは、到底思えなかった。

 この生活が続けば、彼女は「その先」を考えるようになるだろう。それを受け入れてしまえば、次に来るのは「家庭」。そんなものを自分が持つのは許されない。なにより彼女を騙し、自分を騙して、この生活を続ける訳にはいかない。どこかで、終止符を打つべきだろう。けれど、それは、彼女を悲しませる事にならないのか?エディは、頬杖をついて、目の前のベスの姿を見つめた。

「やだ。急にそんな見られたら恥ずかしいじゃない。私の顔、何かおかしい?」

 久しぶりに、はにかむ彼女の顔を見た気がした。

「美味しそうに食べてくれるからさ。作り甲斐があるよ、こんな簡単なものでも」ベスに笑顔を向ける。

 そうだ、彼女に対する愛情がない訳ではないのだ。ただし、それは「家族的」な愛情だ。残念ながら、それは彼女が求めているものではない。

(そう。これは欺瞞だ。彼女に対しても、俺自身にも)

 彼女を悲しませたくはない。けれど、このままの生活は、嘘の上塗りのようなものだ。女達のいう、『男って…』と言われる、逃避を上手くやり過ごす方法が、見つからない。フレンチ・リーブ(徐々に相手から距離を置き、自然消滅させる別れ方)も出来ない。いっそ全てを話して、壊してしまったらどうなるだろう。

 出来もしない事を考えてみる。エディの目は、ベスの方を向きながらも、彼女を見てはいなかった。


14
最終更新日 : 2014-04-11 16:11:10

chapter 8-1

 
 
 
 エディの予想は的中した。
 彼女の使いに薬を手渡して僅か10日後、封筒に入った彼女からの伝言が届けられた。
『今夜か明日の夜、7時にこの前の店で』
 メッセージの下には、滞在先と思われるホテルの電話番号が書かれている。昼休みに電話を入れたが、あいにく留守だった。今夜が都合が良い旨をオペレーターに伝言する。今日も明日も早出なので問題はなかったが、嫌な事は早いうちに済ませるに限る。あとは、今日同じく出勤しているベスに伝えること。彼女が休みでなければ、ほぼ毎日エディのアパートに2人で戻る。既に3月。最後にジェフがエディの部屋を訪れてから、一週間。何事もなく過ぎていく日々。ただ、ベスへの罪悪感に苛まれてさえいなければ。
 男女の仲なのだから、当然セックスもする。しかし、女相手で、そうしょっちゅう出来るほどエディも器用ではない。何もせず、ただベッドの中で彼女を抱きしめて眠る日が多かった。恐らくは、エディが淡白なだけだと彼女は感じているだろう。これで結婚してようものなら、セックスレスを理由に、離婚と共に慰謝料を取られる所だ。
 ベスには、用事で少し遅くなる旨を伝え、メリッサの指定したラ・パルマへ向かった。
 店に入ると、先日の老オーナーが黙ってエディを奥の席へと案内した。彼女はいた。夕暮れ時に、屋内だというのに濃い色のサングラスをかけて。化粧も気のせいか、以前会った時より更に濃いように思われた。
「悪いわね。急に呼び出したりして」
「いえ」
 エディが席につくと、すぐにオーナーがワインを注ぎにきた。彼が立ち去るのを確認してから、メリッサが口を開いた。
「もう無くなってしまったのよ。次回から、もう少し量を増やせない?」
「容量は守ってくれるよう言った筈ですよ」
「でも出せるんでしょう?今度、新しい映画のオーディションがあるのよ。それまでに、なんとかしたいの。お願い」
 メリッサの表情はたとえ目元が隠れていても、焦燥感が浮かんでいるのが見て取れる。
 リタリンはアンフェタミンとよく似た効果を持つ。またその依存度も効果と同じく高く、ジャンキーのようになっている者もいる、と聞いた。
「あなたは、普通の幸せが欲しかったんじゃないんですか?」
「それは、それよ。まだ事務所との契約もあるわ。すぐに引退できるものじゃないわ。第一、クリスが婚約に賛成するかどうかも分からない」
それは、まずあり得ないだろう。それを知ったら、彼女はどうするだろう?
「お願い」
「俺は精神科医じゃありませんよ。そんな事、判断出来ない」
「だめよ。あなたは、私の言う事をきかなくちゃ」
急にきっぱりというメリッサに、戸惑った。
「どういう意味です?」
バッグを探ったメリッサの手が、白い封筒を探し当て、テーブル越しにエディに差し出した。封はされていない。少し硬い紙状のものが入っていた。封筒から出しかけて、エディの手は止まった。
「これは、誰から…?」
まさしく『あの時』の写真だった。封筒を持った手に思わず力が入り、握りつぶしそうになる。エディのところにはポラロイドしかなかったが、少し違うアングルのポラロイドと、もう2枚、ネガから現像したものが入っていた。
「マークの言ってた事、当たりなんでしょう?だから、お願い出来るわよね?」
「恐喝ですか?」
「なんと取ってくださっても結構」
(クリス、お前がまたさせてる事だろう)
「俺は、薬自体好きじゃないんです。」
「ねぇ、お願い出来るわよね」
 頭の中で悪魔が囁く。この女が、この行き詰った状態を壊してくれるのではないか、と。せめて、クリスに一矢報いる事だけでも出来ればめっけものではないか?
(俺の知った事じゃないさ。どうせ、犯罪の片棒担がされてるんだ…)
「その前に、俺はあなたに言っておかないといけない事があります」
「何かしら?」
「俺だけじゃないって事です」
「どういう意味?」メリッサが姿勢を正して向き直った。
「俺は…俺はジェフをクリスに寝取られたんですよ」
 メリッサは動かない。まるで塑像のようだ。
「今は?」
「だから言ったでしょう。今も、ですよ」エディは自分が予想外に冷静なのに、笑いだしそうになる。
「ジェフの家はどこ?」
「同じコンドミニアムですよ。一つ上の階」
「部屋の番号は?
「1402」
「薬は遣いをやらせるから渡しておいて」
 メリッサの声は、かすかに上擦っていた。エディの方は見ずに立ち上がり、そのまま出て行った。残されたのは、手もつけられていないワイングラスと、封筒に入った写真だけだった。
(クリス。あんたの望みはこれだったのか?俺に出来る事はやった。あとは…好きにしろよ。俺は疲れた)
 エディはテーブルの上の封筒を掴み、立ち上がった。
 
 
 情事の後の気倦さが部屋を支配していた。
 久しぶりに、クリスの方からジェフの部屋を訪れたので、数週間来のジェフの不機嫌もすっかり直ったようだ。恐らくクリスの為に用意されていたのだろう、プロセッコを出して来て、ベッドまで運んで来てくれるサービスまでついて来た。あまり発泡ワインは好まないのだが、無粋なウィスキーやスピリッツを飲まされる事を思えば、十分だった。
 ふいに、寛いだ時間を邪魔するブザーが鳴り、静寂を破った。軽く舌打ちしたジェフがベッドから立ち上がり、ガウンを羽織って寝室を出て行った。あんなもの、無視すればいいのに、とクリスは思いつつ、グラスを空ける。
「ちょっと、メリッサ、待てよ。ま…」ジェフの慌てふためいた声と共に、荒々しい足音が聞こえ、何度かドアを開ける音が聞こえてきた。
(そうか。突き止めたか)
 クリスも立ち上がり、床に落ちたバスローブを羽織った。足音は近づき、寝室のドアが勢い良く開けられ、メリッサ、ついでジェフが入ってきた。
 メリッサは、バスローブ姿でベッド脇に佇むクリスを見て、目を見開いた。
「ドアマンの彼は、覚えててくれたわよ。ドクター・デガーモのガールフレンドとしてね。『驚かせたいから、あなたには知らせないで』ってチップをはずんだら、そのまま通してくれたわ。先にあなたの部屋に行っても何も反応がなかったから、もしや、と思ってこっちに来たんだけど…もう少し早かったら、『お楽しみ』の最中を邪魔できたのにね」
 歪んだ笑いを浮かべたメリッサはまずクリスを、次にジェフを見て、クラッチバッグの中から鉛色に鈍く光る物を取り出した。
「メリッサ、待て。落ち着くんだ!」
 メリッサの前に回りこんだジェフが、両手を広げて彼女の前に立ちふさがった。
「何よ…あんた達、グルだったんでしょ?エディに聞いたわ」
(そうか、エディ。やはり、あんたが幕を引いてくれるんだな)
「あんた達…絶対許さない。この薄汚いおかま野郎!」
 メリッサに握られた22口径が発砲され、立ち塞がっていたジェフの左腕を貫いた。クリスはベッド脇を離れ、ジェフの傍に近づこうとした。
「何やってんだ、逃げろ、クリス!」腕を押さえながら、肩でクリスの体を押しやろうとする。
(自分の命も危ないっていうのに、この期に及んで身を呈して庇おうっていうのか?このお人好しは…)
「ジェフ…」
「あんた達、2人共地獄へ落ちればいい!」
 ジェフがクリスを突き飛ばすと同時に、彼の体もクリスの方に倒れて来た。放たれた弾はベッドの脇のスタンドを跳ね上げた。
「こっちへ!」
 クリスはジェフに腕を掴まれ、一緒に立ち上がった。と次の弾はクリスの脛を撃ちぬいたようだ。焼けるような痛みに、クリスは顔を顰めた。流れる血がグレーのラグを赤銅色に染めていく。
 バスルームのドアが開けられ、ジェフに無理やり押し込まれると、再び銃声がした。
「ジェフ!」
 ジェフの右脇下辺りから出血していた。
「待ちなさいよ…許さないわよ…」
 メリッサはゆっくりと近づいてくる。どう見ても、正常な精神状態の人間ではないな、とこんな時に冷静に考えている自分に、クリスは心の中で笑った。
「早く、…バスタブの中に…」
 もう一度ジェフに突き飛ばされ、頭からバスタブの中へ転がり込んだ。と、更に銃声がし、ジェフの体が跳ね上がる。
 バスルームの窓の外から、クラクションに混じって、サイレンが聞こえてきた。ここへ向かってきているのか、別の件で来ているのかは、分からない。アップタウンの端とは言え、ここはマンハッタンなのだから。
 ジェフの体が便座に倒れこみ、更に銃声がして、洗面台のアフターシェイブローションの瓶が床に落ちた。彼の愛用しているフレグランスと同じ香りが、バスルームに広がった。
 弾倉が空になっても引き金を引き続ける音と、メリッサの悪態をつく声が聞こえる。バスルームの床は、みるみる赤く染められていく。止血を…と思うが、脚の痛みで、上手く立ち上がれない。ジェフの体が、何度かひきつけを起こしたように震えた。
(なんで、俺じゃないんだ?あんたは逃げれば良かったのに)
 みっともないとしか言い様のない格好で、バスタブに横たわったクリスは笑っていた。温かい液体が頬を伝い、冷たい顎先へと流れる。
「すまない、エディ」
そこにいない知己に向けて、クリスは呟いた。
 
 
 目が覚めると、最近になってベスが持ち込んだテレビの音が聞こえて来た。ベスは早番だが、エディは昼前からの出勤だ。もう少し寝ていたい気分だったが、恐らく彼女が朝食を用意してくれているだろう。そろそろ起きた方がいいかも知れない。ベッドの中で、両腕を伸ばして伸びをした所で、ベスが室内履きのペタペタという足音を立てて寝室に入って来た。
「エディ、起きて!」
「ああ、起きるよ、すぐに」
「そういう事じゃないの!早く!ドクター、いえ、ジェフとクリスが…!」
 エディは2人の名前を聞いて飛び起きた。トランクス1枚の上にガウンを羽織り、リビングに転がり込むように飛び込む。
 居間に置かれたテレビでは、ちょうどファスナーで閉じられた、青い大きな袋が運び出される所が写っていた。背景は、まさしく見慣れたコンドミニアムの入り口だった。アナウンサーは冷静な口調で、ジェフが死んだ事、クリスも重傷で運ばれた事、メリッサによる犯行である旨を伝えている。
 体中の力が抜け、そのままカーペットの上に座り込む。ベスが背後に寄り添い、エディの肩を抱いて、母親のように優しく撫でる。その手を振り払い、エディはバスルームに飛び込んだ。何が起きたのか分かっているのに、分からない。いや、分かりたくない。
 電話のベルが微かに聞こえる。誰からかは分かっている。今、一番出たくない相手だ。
「エディ!スコットから」
「いない、俺はいないんだ!」
「エディ、でも…」ここで、バスルームのドアを開けようとしない所が彼女の良い所なのだ。だが。
「いいから、いないって言ってくれよ!」
「スコットに聞こえてるわ!」
「構うもんか!」便座に座り込み、タンクを殴りつける。
(なんでジェフだったんだ?クリス、お前か?いや。そんな筈ないな。どうせ、ジェフがしくじったんだろ?)
 これは、やはり自分に素直にならなかった罰なのか?黒い羊が、自分を偽って人並みの幸福を得ようと試した事が悪かったのか?
 神話にあるマイダス王のようだ。手に触れるもの全てを黄金に変える手を持って、愛する妻に触れてしまった。みんな何もかもなくなってしまえばいいと一度は願った。クリスが破滅を望むなら、その手伝いをしてやろう、とも。だが、なぜジェフだったんだ?
「エディ?私、仕事行くわ。もし…もし休むなら、伝えておくけど、どうする?」
「ありがとう。休ませてもらう。言っといてくれないか」まだ、ドア越しの会話。
「分かったわ」
「それと、ベス」
「何?」
「さっきはすまなかった。怒鳴ったりして」
「気にしないで」
 カーペットを摩擦するかのような足音が遠ざかっていった。たった今、全ての物事が動き出したかのように、外の音が聞こえ始めた。子供達が学校へ向かうのに騒ぐ声、しかめっ面の大人が出勤するために乗り込んだ車のバックファイアの音とクラクション。いつもと変わらない、朝のノイズ。けれど、この狭い空間から出て行ってしまえば、昨日の朝とは違う朝が始まる。まだ認めたくないジェフの死が、真実になってしまう。
 座り込んだまま、エディは頭を抱えた。嗚咽が、小刻みに体を震えさせた。
 
 
 どのくらいの時間が経過したのか。体を動かそうとすると、ぎしぎしと音をたてそうだった。立ち上がり、身に着けたものを脱ぎ捨て、火傷しそうに熱い湯を出し、シャワーを浴びる。頭から浴びてずぶ濡れになりながら、口の中には、しょっぱいものまで入って来た。涙がどのぐらい流れているのか。湯を被っている間は分からない。
 小さな窓には、既に西に傾いた太陽が、光線の色を変えて差し込んでいた。このままアパートにいれば、ベスが帰ってくる。細かに言及される事はなくても、エディが本当の事を口走らないでいる自信がなかった。
 髪もドライヤーはかけたものの、生乾きのまま服を着た。今は、顔見知り以上には会いたくない。ティーシャツの上からコーデュロイのシャツを引っ掛け、ボタンを留めようとした所で電話が鳴った。朝と同じくスコットか、さもなければ、マイケルか。いずれにしても、誰とも話したくない。ベスが留守番電話に切り替えるのを忘れていったらしくーーーもしかしたら、わざとかもしれないがーーーベルは執拗に鳴り続ける。エディは電話のコネクタを抜いた。静かになった電話機に目をやり、昨日も着ていたレザージャケットを手に部屋を出た。
 まだまだ外は明るい。どこかに飲みに入るにも早過ぎる時間だったが、宛ても無くなく、北へ歩いた。ちょうど『Joy Stick』の看板が目に入る。ライトは点けていないが、ドアも開いている。ブラックボードも出ているのだから、ネイサンは出て来ているのだろう。駄目もとで、階段を降り、ドアを開けた。
「エディ!」すぐにネイサンに声を掛けられた。エディが目を合わせただけで何も言わないのは、今朝のニュースを知っているのか?いや、ジェフとは一度か二度来ただけだ。ベスと来た回数の方が遥かに多い。覚えているとは思えなかった。
「早過ぎて悪いね。飲ませてくれよ」
 ネイサンは何も答えず、コースターをエディの目の前に滑らせた。
「ロンリコ151。ショットで」
「タンカレーじゃないのか?」
「今日はね。とっとと酔いたいんだ」
 目の前に、ショットグラスに入った淡い琥珀色の液体と、チェイサーが置かれる。エディは水の存在は無視して、少しとろみを帯びたようなラムを、一気に流し込む。高い度数のアルコールが、喉から胸元までを焼き尽くすように流れていく。
「おい、無茶な飲み方やめとけよ」
 エディは無言でグラスを差し出した。小さく溜め息をついたネイサンがグラスにまた注ぐ。が、すぐにそれも空になる。
「エディ!」
「怒るなよ、ネイサン。商売だろ?客が焼け酒飲みたがってるのぐらい、大目にみろよ」
「分かってるよ。ただ、俺は酒が気の毒に思うだけだよ。旨い酒には敬意を表すべきだ」
「そう言われれば、返す言葉はないね」乾いた笑いが出た。ネイサンらしい止め方だ。それでも、もう一度注いでくれる。
「これで最後だ。その飲み方は酒に失礼だからな。嫌なら、出てけ。この1杯は味わって飲めよ」
「分かったよ」
 恐らく、粘ったところで、彼はこれ以上は注いでくれないだろう。今度はゆっくりと一口、口に含んだ。強いアルコールが舌を焼くように感じさせるが、まろやかな甘さのようなものが後に残る。それでもチェイサーには手をつけず、数回に分けてグラスを空けた。
「酒は楽しく飲むもんだ。俺は、酒やら薬やらに逃げて、挙句に持ち崩した仲間を腐る程見てる。エディ、それは、お前さんも知ってるだろ?だから、あまり今日は飲ませたくないね」
 知っている。軍から離れた帰還兵の仲間の事だろう。それだけで、止めているのではない事も。
「また楽しく飲める日に改めて来るよ」カウンターに札を置き、立ち上がった。多少は酔っ払っている筈だが、足元もふらつかない。何より、酒を飲んだ時の高揚感もない。あるのは、まだ残る、酒が喉を焼いた感覚だけだった。
「またベスと一緒に来いよ!」
 真の事情は全く預かり知らぬネイサンに手を振り、階段を上がった。
 外はまだ明るかった。少しだけラベンダー色に変わった空に、薄ぼんやりと光る月が見える。そのまま、今度は西へ歩き出す。このまま北へ歩けば、ベスに会ってしまうかもしれない。ハドソン川に向かって歩き出すが、急に吐き気が襲った。喉を焼くアルコールと酸が一緒に込み上げる。エディは路地を見つけて、排水溝に吐き出した。飲んだ酒と胃液、液体しか出てこない。昨日の夕食以来、何も食べていないのだから、当たり前だろう。
 全てを吐き出してしまうと、、少し空腹を感じた。まだ焼け酒を飲むにしても、少し位は何か胃におさめておいた方がいいだろう。春は目の前とは言え、まだまだ寒い。温かいコーヒーも飲みたかった。すぐ目の前にカフェがあるのを見つけ、空席を確認して店に入った。シュガーレイズのドーナツという気分にはなれず、ベーグルとクリームチーズのサンドイッチとコーヒーを頼んだ。何も考えず、空席があったので座ったのだが、ちょうどエディが顔を上げた先に1人の男が座っていた。手にしたヴィレッジヴォイスのせいで面相までは見えない。エディよりも少し明るい位のブルネットだ。
 コーヒーとベーグルが運ばれて来たので、視線をテーブルに戻した。コーヒーに口をつけ、ベーグルを皿から取って顔を上げた時、息が止まりそうになった
(ジェフ…?)
 ブルネットに、人を射抜くかの様な強い視線。アイスブルーの瞳。肩幅はさほどでもないが、身に付けている服の上からでも分かる、隆起した上腕の筋肉。思わず目を見張り、その男をまじまじと見てしまい、慌てて視線を下げた。
(ジェフはもういない。いる訳がない。本当に、いなくなってしまった)
 さっきまでの食欲が、急激に失せていった。二口ほどかじったベーグルと半分も飲んでいないコーヒーを置き去りに、勘定をテーブルに置いて、エディは席を立った。
 店を出て1分もしないうちに、エディは後ろから肩を叩かれた。振り返ると、さっきの男が立っていた。人の良さそうな笑みを浮かべると、ジェフとは背格好は似ていても、顔立ちは全く似ていなかった。
「さっきのカフェで、俺の事見てたろ?口説いていいって事かな?」
 思えばクリストファー・ストリートは目と鼻の先だった。数ヶ月前に来た時、ジェフは自分の事は棚に上げて拗ねていたっけ。顔が泣き笑いになりそうになるのを堪え、男に笑顔を向けた。
「昔の彼氏に似てるって思ったんだよ」
「そりゃまた陳腐な口説き文句だな。俺はこれでも脚本家なんだぜ。未来の、だけど」
 声も全く似ていない。無意識にジェフと比べている自分に、苦笑が漏れる。
「てのは冗談。いや、脚本は本当に書いてるんだけど…時間があるなら、付き合わないか?この後。ちょうど前のパートナーに振られたところなんだよな。いや、あんたが嫌ならいいけど、誰でもいいって訳じゃなくて、その、見かけて気に入ったからなんだけど」
「俺も、最近別れたところだよ。HIVも陰性。仕事が病院の薬を扱ってるから、そういう事は欠かした事はない」
 エディの言葉に、相手は不安気な表情を笑顔に変える。
「俺もだよ。なんなら。検査の結果を見せてもいい。昨日届いたばかりなんだ。俺はジェレミー。ジェレミー・マクナット。口の悪い友人からはトンマなアイルランド人って(マクとつくのは、アイリッシュ系に多く、ナットはスペル違いで、バカ、とんまの意味)言われてる」
「俺はエディ。エディ・ジャクソン。どこか飲みに行く?」
「もし、あんたがいやじゃないなら、どこか落ち着ける所に行きたいな」
 ジェレミーの腕がエディの腰に回った。「いいよ、どこにする?」
 
 
 結局、近くのモーテルに入った。始めに話した以上、特に言葉は交わさず、どちらともなく抱き合い、共にシャワーを浴びた。
はじめにジェフに似ている、と思ったのは、エディの願望が見せた錯覚に過ぎないようだった。実際のジェレミーはその屈強そうに見える体格とは裏腹に、笑うと人の良さが透けて見えた。
 ベッドに入ってからも、その印象は変わる事はなかった。互いの存在を確かめ合うように抱き合い、お互いが優しく相手の体に触れる。初めて肌を合わせる相手だけに、どこが相手を喜ばせるのかは分からない。探り合うように、互いに相手の反応を確認しながら、ゆっくりと体を交える。が、最後には音を上げたのはエディの方だった。自分のポイントを執拗に攻められ、息が上がる。思わず漏れた声と共に体が跳ね上がるのを、ジェレミーの腕に絡め取られる。その背中にしがみつくように腕を回すと、彼の体の重みが直接感じられた。
「いいよ、エディ。今だけ俺の事、そいつだと思ってたらいい」
 耳元で温かい声が響いた。お互いの欲求を満たし合う行為でありながら、荒々しさとは程遠いものだった。それでも、突き上げられると頭の中は真っ白になってしまう。ジェレミーの体に両脚を絡め、全身でしがみつく。それに応えるように、ジェレミーの手がエディの頭をかき抱いた。

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最終更新日 : 2014-04-11 16:12:13


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