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chapter 5-1

 
 
 
 何事もなく、新年の休みが過ぎ去った。結局、どこかに出かける事もなく、ただ家で、ゆっくりと過ごして時間は過ぎていった。
 スコットから、アネットの実家に行く誘いも受けていたが、さすがにそれは遠慮した。幸い、職場の連中からの無理な誘いもなく、久しぶりに一人の時間を満喫出来た。
 あの痴話喧嘩から、ほぼ二週間。当然、何の連絡もない。エディは密かに期待している自分に気がつき、自嘲の笑いを浮かべる。最初にジェフをからかい、手を出すように仕向けたのは自分だ。元から、遊び目的だったはずだ。みるみるこちらに傾く彼の様子を、面白がっていたのは誰だ?それが、自ら嫉妬するまでになってしまった。これは、彼を弄ぼうとした報いなのだろう。弄ぶ?しかし、エディはジェフを遊びの対象と考えたことはあっても、捨て去ることは想像したことはなかった。過去の相手も、ただ、疎遠になって別れただけで、特にこちらから切って捨てたことはない。このままいけば、長きに渡るパートナーになりそうだと感じる頃には、エディの方から連絡を取らなくなることが多かった。そして気づけば時間は経ち、消滅している。何度、それを繰り返しただろう。何故?それは、自分でも理解していない事だった。
 電話の電子音が鳴り、エディは受話器を取った。
「はい。ハリス&ディップル…はい、ジャクソン。あぁ、ジュディスか。え?…うん。分かった。じゃあ」
「エディ、新年早々女からか?」
 同僚のニールがからかう。
「そんなんじゃないよ」
 笑いながら返す。ジュディス・ニーマイアからだった。どうせ、話の中身は分かっている。聞かされる内容も。それでもエディは、時間を取って欲しい、という彼女の依頼を受けた。自分の下心のために。エディには様子が分からないジェフの話を、彼女は聞かずとも教えてくれる。
 エディは煩げに顔にかかる髪をゴムでまとめて、調剤室へ入った。
 
 
「ちゃんと、約束を取り付けてきたよ。『稲ぎく』でディナーだ。あの、マークも了承済みでね」
 ジェフはネクタイを緩めながら、クリス宅のリビングに入ってきた。と、足を止めて、暖炉に目を向ける。
「これは、誰だい?親戚か?まさか、お前の隠し子じゃないよな」
 ジェフが、暖炉の上に飾られた少女の写真に今更ながら気付いた。 自分の部屋やエディのアパートと違い、クリスの家には、写真の類はこれしか置かれていない。 
 巻き毛をポニーテールにして、淡いブルーのギンガムチェックのリボンと、お揃いのサマードレス。庭に植えられているのであろう、大きな木から下がるブランコに座り、屈託ない笑顔を向けている。
「妹だよ」
「随分と年が離れてるんだな」
「よく見てみなよ。古そうな写真だろ?その写真を取った翌月に死んだよ。生きてたら俺と同い年。」
「すまない…」
 ジェフは、慌てて、写真を戻した。
「別に。大昔の事だ」
 クリスは、無表情で返す。
 妹のティナは、10歳のままで時を止めた。
 クリスティーナ。栗色の巻き毛に、クリスと同じ鳶色の瞳。
 面差しは違っていても、生まれてから、いつも一緒にいた双子の妹。
(クリスはあたしと同い年のくせに、なんでも知ってるのね。パパやママみたいに)
(そう、知らなくていい事もね)
『クリス!私、神様の所に行くの。汚れちゃったから、天国には入れて貰えないかも知れないけど』
(ティナ!!)
 母の実家から戻った日。そう言って、少女は微笑み、こちらを向いたまま空を飛んだ。
 高層アパートのベランダから。
 駆け寄ったクリスの手は、つい先ほどまでいた少女を包んでいた空気を抱き締めた。
 神様の依怙贔屓か、死に顔には大きな目立った傷はなく、仰向けに横たわる下に、真っ赤な絨毯が敷き詰められたかのようだった。
 赤い薔薇の花束に包まれてるようだ、と妹の顔に見惚れていると、母から平手打ちにされた。
『妹が死んだのに、この子は、涙も見せないなんて!!』
 残酷過ぎる情景を、死者と同じ10歳の子供に見せないように留意するより、母にはもっと大事な事があるのだろう、とクリスは子供なりに感じた。
 僅か10歳の妹に、病院の資金繰りの為に幼女趣味の親父と婚約させ、相手が肉体関係を迫ったのを黙認したのは、誰なのだ?今、ここで悲嘆にくれている女と、昼間一緒にいた祖母じゃないのか?人殺し。
 10歳の子供だからと、何も知らないと思っているのか?
 ティナの言う通り、自分は『何でも知っている』のだ。
 クリスは、警官に引き離されるまで、血の気を失った動かぬ妹の傍を離れようとしなかった。ただ黙って、涙も見せずに。
「同い年って事は、双子か…」
「俺が母親似。妹は、隔世遺伝か、母方の祖母に似てたな。この時、もう婚約者がいたんだ」
「ちょっと、待てよ。この子の年は、まだ小学生だろ!?」
「親同士の都合ってのは、そんなもんさ」
(その『都合』って奴で、ティナは死んだ。俺には、10歳近く年上の、まだ2回しか会ってないフィアンセが出来た。これも、その『都合』ってヤツだ)
「彼女の退院は?」
 話題を変えようと、クリスがジェフに尋ねる。
「明日の午後」
「なるほどね。それでか…」
 クリスは嬉しそうな表情をした。クリスも既に彼女、メリッサとの約束を取り付けていた。それで、週末の約束をクリスに提示してきたのだろう。退院日を教えなかったのは、ジェフとのバッティングを避ける為だ。
「何が?」
「彼女との約束さ。年末に言ったろ?退院が決まったら、食事を一緒にする口約束をしたって」
「ああ、その事か」やはり、ジェフは面倒臭そうだった。彼には、女性を扱うのは無理だろう、とクリスは思う。同性であるエディですら、上手く扱えない。それどころか、彼に我が儘放題である自覚すらない。そろそろ、彼との遊びも潮時かも知れない。
「なぁ…」
 ジェフが腕をクリスの上体に絡ませ、引き寄せようとした。その体を押しのける。「今日は夜勤なんだよ」
「でも、まだ昼だぜ」
 ジェフは尚もクリスを抱きすくめようとしたが、腕の囲みをかいくぐり、クリスが体を離す。
「その前に出掛けるんだよ。帰ってくれるか?」
 笑顔をジェフに向ける。渋々、といった様子でコートを手に取ったジェフが玄関へ向かった。その彼に冷ややかな目を向け、クリスは着替えのためにウォークイン・クローゼットに向かった。
 
 
 ジュディスから指定されたのは、前回と同じ、店の前のダイナーだった。テーブル席で忙しげに煙草を吸っていた。目の前の灰皿は、既に吸殻が高く積もっている。約束の時間には間に合っている筈だが、かなり彼女が早く来ていたのだろう。
「待たせちゃったかな?」
一応の礼儀で聞いてみる。
「ううん。私がせっかちなのよ。早く来過ぎたの」
「煙草、吸うんだね」
 言われて、ジュディスは、指に挟んだ煙草を見る。「止めてたんだけどね。復活しちゃったのよ」
 そういうジュディスの目に、みるみる涙が溢れてくる。
「おい、ジュディ、どうしたの?」
 エディは慌ててポケットからくしゃくしゃになったハンカチを取り出して、彼女に渡す。涙をぬぐい、紙ナプキンを掴んで鼻をかみ、ジュディスは顔を上げた。
「ごめんなさい。ドクター・テイトの事、聞いてる?」
「いや。クリスマス前後から会ってないんだ」
 ジュディスが意外そうな顔をした。しかし、事実なのだから、しょうがない。
「じゃあ、『賭け』の事も?」
 恐る恐る、といった様子で聞いてくる。賭け?クリスが何かジェフに持ちかけでもしたのだろう。
「去年、ソープ・オペラの女優がうちに運ばれて来たの。メリッサ・エルウッド。知ってる?『レストレス・アンド・ワイルド』の主演女優」
「いや」そもそも、エディはテレビを見なかった。ジェフもそのはずだ。
「彼女のこと、ドクター・テイトと、眼科のドクター・デ・ガーモが取り合いしてるのよ。今じゃ院内で、どちらが彼女を落とすか賭けてるわ」
(そういう事か…)
「でも、噂だろ?」
「違うわ。だって、私、聞いたのよ。ドクター・テイトが、メリッサを食事に誘うのを見たって。仲良しの同僚からね。信じられる?あのドクターが!?自分から誘うなんて…やっぱり噂は本当だったのよ」
「噂?」
「他の人に…勿論、ドクターにもよ、言わないでね。彼があんなに身持ちが固いのは、ゲイかそれとも恐ろしく理想が高いかどちらかだって」
 確かに外れてはいないが、事実を明かすわけにはいかない。
「つまりは後者だったって事よね。…私と食事に行った時だって、何も言わなかったのよ?もうその時彼女はうちに来てたのに!それならそうって、最初から言ってくれれば、変に期待しなかったのに!」ジュディスは更に鼻をかんでいる。
「あんたもあんたよ、エディ!友達なら、ドクターのそういう所は分かってたんじゃないの!?それとも、そういうのを隠すのも、男の友情って奴!?」
 ジュディスは、充血した目でエディを睨む。お鉢がこちらに回って来た。ジェフの厄介事は、本人と会っていなくてもついて回るようだ。
「いや、そういう事じゃ…」
「じゃあ、どういう事?まさか、分かってて笑ってたんじゃないわよね?」
「そんな酷い事するわけないだろ!あいつがその女優に熱を上げてるってのも、今聞いて知ったばかりなんだぜ」
「の割りに、驚かないのね」
 まだ不審気なジュディスを見て、エディはため息をついた。
「確かにね。ただ、あいつは…ジェフは、単純な男なんだ。気を悪くしないでくれよ。あいつが君とのデートを承諾したのは、その、君の迫力、と言ったら語弊があるけど、勢いに押されて受けたんだと思う。今回の彼女にしても、おそらくアプローチは受けてた筈だよ。つまり、彼女の場合、君より接触時間が長かったり、積極的だったんじゃないかな。それで何度か話してるうちに、情が移ったんだよ。驚かなかったのは、そういう事が予想出来たからなんだ」
 この偽善者め。エディは心の中で、自分に対して毒づいた。親身になって聞いてやっている振りをして、その実、自分の聞きたい事を引き出そうと躍起になっているのだ。女々しい奴。ああ、どうせ、卑怯な奴だ。己の欲望に忠実なクリスに比べて、自分はどうなんだ?
「でも、諦める必要はないんじゃないかな。望みがあるって断言出来ないけど。上手くいく時は、放っておいても上手くいくもんさ。俺は運命論者じゃないけど、そう思うよ。上手く行かないってのは、その方がお互いにとって幸福な結果なんだよ」
 ジュディスに言い聞かせている言葉は、むしろ自分に対してのものだ。そうしなければ、いくら予想出来た事でも、他人の口から事実を聞いた動揺を隠し切れなかった。
 
 
 帰宅すると、迎えてくれたのは、留守番電話の点滅するランプだった。エディは、ライダース・ジャケットを脱ぎながら、ボタンを押した
『メッセージ ハ 1ケン デス。』続いて声が流れ出す。
『スコットだ。帰ったら電話してくれ。A.S.A.P.(as soon as possible 可能な限り早く)』
 エディは深いため息をついた。スコットの声の調子からいくと、あまり良い話とも思えなかった。受話器をあげ、手が覚えている番号を押した。
「あ、アネット?エディだけど、いる?…」
『お前、今日、誰とデートしてた?』
(開口一番、これだ…)
「デート?今日は愚痴に付き合わされただけだけど?お前もよく知ってる、あのジュディからね」
『ジュディ?ああ、あのERのか。なら、いい』
 スコットの声は、始めの勢いを失っている。となると、恐らく誤解したべスが泣きついたか。
「べスから、何か言われたのか?俺は彼女が泣くようなことは一切してないからな。何もしないんで、泣いたっていうなら話は分かるけど」
『お前の事、庇って何か隠してないか?って聞かれたよ。ああいう、取り乱さない、おとなしい子に追求される方が怖いな』
「今日はジェフが女優さんをクリスと取り合いしてる件で、さんざんジュディの愚痴聞かされて、泣き出すのを宥めて、大変だったんだぜ」
『それは、俺もだよ!男ってすぐにはぐらかして逃げようとするってさ。ま、実際耳の痛い話だけどね』
「単に,丸く収めようと努力してるだけだと思うけどね、俺は」今日は、女難の日なのだろう。うんざりとした声で返した。
『お前、本当にいいのか?それで』
「何が?」
『自分まで誤魔化してると、取り返しのつかない事になるぞ』
 スコットの声は、からかうようなものではない。
 物事を丸く収めようとすれば、誰かが苦い思いを飲み込まなければならない事もある。ぶつかる事を恐れて、傷ついたことすら、見えない振りをすることも。時には、やせ我慢をしてまで。
 格好をつけて取り返しのつかないことになる位なら、恥をしのんでプライドなど捨てて、取り返しに行け。スコットにそう言われている気がした。
『俺はもう、べスとくっつけだの、何の言わない。元より、彼女にはもう義理は果たしたと思ってるからな。ジュディスの事は、俺からちゃんと伝えておく。だがな、ジェフの事はどうするんだ?あいつは今、クリスの野郎にべったりだぞ。院内の噂は別にしてな。こないだも、俺にのろけてきやがったぐらいだ』エディの胃が、きりりと痛む。
『クリスも、今は奴に優しいらしい。けどな、どうせクリスに好きにあしらわれて、お前のとこに泣きつきに行くのは目に見えてる。ただし、それは、お前のところに戻るんじゃない。慰めてもらって、また、誰かのところに行っちまう。そうなる前に…』
「分かってるよ、スコットロック」言われなくても、とうに自覚している事だ。
 静まり返った部屋に、遠くで走るパトカーのサイレンが響く。エディは黙って受話器を下ろした。
 
 
「で、お楽しみの計画は順調に進んでるのかい?」
 腹這いになったコリーが、煙草よりは細い包みに火を点けながら言った。特有の匂いが、少ない煙と共に漂う。
「まぁまぁってとこかな。上手く行き過ぎて、少しばかり物足りないぐらいの感があるけど」
 枕を抱え込んだクリスは、ベッドのヘッドボード見つめながら答える。
「もう一波乱欲しいところなんだけどな…」
 付け加えるクリスに、コリーは少しだけ煙を吐き出して楽しげに笑う。
「物騒な奴だな…トラブル・メーカー…か」
「ありがたい仇名だな。そんなに褒めないでくれよ。嬉しくて、また、あんたが欲しくなる…」
 クリスは寝返りをうち、体をコリーの脇腹に押し付けた。
「さっき、あんなに頑張ったのに?見かけによらずタフだな」
「物足りないんだよ…どっちにしても。で、手伝って欲しいんだけど」
 クリスはコリーの手を掴み、自身の両脚の間に導いた。
「何だ?俺も楽しめそうな事?」
 コリーは押し付けられた滑らかな手触りの器官を軽く握り、愛撫し始める。
「多分ね。相手はキャリアじゃない事は保証する、レザー・バーでちゃらちゃらしてるような奴でもないから、すれてない。それに…あんたの好きにして良いよ、壊さなけりゃね」クリスはコリーの愛撫に息も乱さず、ゆっくりと言葉を紡いだ。と、ふいに、コリーの手に急に力が加わった。クリスが小さく悲鳴を上げる。
「…どうだい?」
「結構」
 言うや否や、コリーがクリスの中に侵入し、荒々しく突き上げた。クリスは蹂躙されるがままに、声を高く上げ始めた。
 
 
 引継ぎを済ませたクリスは、自身の愛車、赤いアルファロメオ・スパイダーに乗って自宅へ向かった。病院から、コンドミニアムまでは、さほどの距離もない。ミッドタウンを北上するには、さほど道も混み合っていなかった。短いドライブを終え、ドアマンに鍵を預けると、すぐに自室に入る。キッチンでエスプレッソ・マシンのセットをして時計を見た。午前9時半。ちょうど、もう出かけていない頃だろう。クリスは受話器を手に取り、エディの自宅の番号を押した。
 いつもの囁くような声でメッセージを吹き込むと、音を立てるエスプレッソ・マシンに応える為、キッチンへ向かった。
(エディ、お前が俺を単なる悪趣味な奴としか見てないことを、俺は知ってるよ。けど、お前が平凡に生きたいと口では言いながらも、その道を自分で閉ざしていってるのも分かってる。お前は自分で分かってないのか?自分が不幸になりたがってる事を。お前も、俺も、望んでる結末は同じだ。気づかないのか?お前は一体、誰に対して罪を犯したと思ってる?自分を罰したい理由は何だ?)

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最終更新日 : 2014-04-11 16:05:38

chapter 5-2

 

「あれ…ジェフじゃないか?」
 妻のリンと共にパーク街を歩いていたマイケルは、数メートル先でタクシーを降りた二人連れに目を向けた。二人共、レザー仕立てのトレンチコート姿に、女の方は、この黄昏時にサングラスをかけている。
「ジェフ!」
 マイケルの声に、男の方が振り返った。やはりジェフだ。マイケルは、小走りに二人に駆け寄った。リンも後を追う。
「マイク。どうしたんだ?診療所はいいのか。放っておいて」
「たまにはね。今日は、大学時代の仲間と会う約束してるんだ。待ち合わせに安いホテル選んだら、クリスの奴、怒る怒る」
 くすくすとマイケルは笑う。しかし、目の前の二人は引きつった笑みを返した。
(やっぱり、スコットが言ってた例の…か)
 リンがマイケルのコートの袖を子供のように引っ張った。
「ジェフ。ところで、こちらは?」
 さすがに夫婦である。阿吽の呼吸で、妻の要求を飲み込んだマイケルは、ジェフに遠慮ない質問を投げる。屈託のない笑顔を浮かべて。彼は、その笑顔が武器になる事をよく分かっている。
 ジェフはマイケルの質問にたじろいだが、女の方が自らサングラスを外し、マイケルに向き直った。
「メリッサ・エルウッドです。あなたも、お医者様?」
 大きく波打つ栗色の髪に、深いジェイド・グリーンの瞳。影を落とさんばかりの睫毛は漆黒だった。見つめられたマイケルは、やに下がり、リンに肘うちされた。
「え、ええ、一応」
「医者って言ってもピンからキリまであるわ。うちは、底辺を這い回ってる方なんです」
 リンの言葉に、多少の棘が混じる。
「メリッサ、もう行かないと」
 あまり会話を長引かせたくないジェフが、メリッサを促す。
「あ、うちもだ。クリスの奴、遅れたらうるさいからな」
 やはり、二人の顔が一瞬曇るのを、マイケルは見逃さなかった。
「じゃあ、ジェフ、メリッサ。素敵な夜を」
「ありがとう。そっちも、お仲間によろしく」
 レザーコートの二人は、そそくさと目の前のウォルドーフ・アストリアへ入っていった。
「ねぇ、確か彼女、女優さんよね。なんか、ジェフも変じゃなかった?」
「さぁね。人それぞれ事情があるんじゃないの?俺たちも急ごう。本当に遅れちまう」
 怪訝そうな顔の妻の肩を抱き、マイケルは人ごみの中を歩を速めた。
 
 
「え?」
 ジェフは、メリッサのハンドバッグから、ちらりと見えた鉛色の鈍く光るものに目を留めた。
「物騒でしょ?マークが持たせてくれたのよ。護身用にって。デートの邪魔はしたくないけど心配だからって」
 バッグの口を少し大きく開けると、見えたのは、22口径のベレッタだった。殺傷力は低いが、女性でも扱い易い。護身用としては十分だ。しかし携帯しているのが見つかれば、逮捕されるのは間違いない。何もトラブルに巻き込まれないように、とジェフは心の中で十字を切った。
「使えるのかい?」
 ジェフは恐る恐る尋ねた。メリッサは、バッグを閉じながら小さく笑った。
「マークが教えてくれたわ」
「願わくば、使う機会が永遠に来ないように」
「本当に」
 パチンと口金の音がして、クラッチバッグが閉じられると、ジェフはほっと溜め息をついた。
 
 
 最後にここを訪れてから、一ヵ月半が経とうとしていた。ドアマンは、エディの見知らぬ男に変わっていた。ティムでもなく、もう一人のダグでもない。
「ドクター・デ・ガーモに」
 一応、笑顔で声を掛ける。会釈したドアマンは、無言で去った。
 クリスからの留守電があったのは、昨日だった。『頼みがあるから、明日の夜7時に家に来て欲しい』と。別に用は無かった。それどころか、仕事が終るなり、すぐに仕事場を出た。約束の時間までは、まだ1時間もあるというのに。わざわざ、この前にもジュディスと来たダイナーで時間を潰して。
「どうぞ。ドクターが入ってくれ、と」
 ドアマンに促され、エレベーターに乗る。ゴンドラが上昇する振動を感じながら、クリスに何か言うべきか考えてみたが、気の利いた言葉は何一つ浮かばない。頼みというのも、何か彼のお楽しみに協力しろ、というものだろう。ろくでもない事を言おうものなら、あの細面を殴り飛ばしてしまいそうだ。断っても良かったのだ。しかし、今となっては、彼がジェフとエディをつなぐ唯一といって良い存在である事が、エディを承諾させた。
 小さなベルの音が、目的階についたことを知らせる。ゴンドラから一歩足を踏み出したエディは、深呼吸をした。
 ドアを軽く三度叩くと、すぐにドアが開いた。珍しく、黒いベルベットのシャツにジーンズというラフな格好で出迎えたクリスは、患者に向けているのであろう、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている。
「わざわざ呼びつけて、悪かったな」
「いや。用もなかったから、構わないさ」
 エディも笑顔を返そうとしたが、失敗に終った。ただ、顔に細波が起きただけだ。
「まぁ、入ってくれ」
 リビングに通される。そういえば、この部屋には、まだ来た事がなかった。間取りはジェフのところと同じなずなのだが、内装に手を入れているので、ずいぶんと印象が違う。壁紙は紋様の入ったペールブルー、リビングの四隅には、アンティークと思われるスタンドが淡い光で部屋を照らしている。蛍光灯のような無粋な灯りはない。カーテンも、同じ色調で揃えられている。
「実は、味見役をして欲しいんだよ」
「味見?」
 思わず、素直に聞き返す。
「ああ。事情は今から話すよ。ちょっと掛けて待っててくれ」
 示された、モダンなデザインのソファに腰を下ろす。と、テーブルの上にある物に目が行く。見覚えのある、黒いセル・フレームの眼鏡があった。手に取ってみると、記憶に間違いない事が分かる。つるの片方のビスが取れている。一つだけだから大丈夫だ、普段はコンタクトだからと言って、エディが何度注意をしても、ジェフは聞かなかった。
(ジェフ…)
「こないだまで、うちの病院にソープ・オペラに出てる女優が入院してたんだよ。で、うちで手料理を振舞うって約束しちまってさ。実家にいた家政婦と同じ出身地だったんで、故郷の味を再現するって豪語したものの、出来たには出来たんだけど、さすがに自信なくてね」
 すぐ隣にあるダイニングにいるクリスが、珍しく大きな声で事情を説明している。この前、ジュディスから聞いた事情を。
「用意できたぜ」
 ダイニングに行くと、、形だけは、ミートローフのディナーが用意されている。
「一応調べて、レシピ通りには作ったんだ」
「へぇ、料理は自分で作るもんじゃないって言ってた人間とは思えないな。よっぽど落とすのに力入れてるんだな」
 つい、棘を含んだ口調になってしまう。
「まぁ、田舎の味だけど、食べてみてくれよ」
 クリスの笑顔は、まるで子供のように無邪気そうだ。目的は別として、料理は本気で取り組んだのだろう。エディはフォークを取り、グレービーソースのかかった端の方を、一口大に切った。
「ソースも自分で作ったのか?」
「もちろん」
 クリスは自慢気だ。そのあまりの子供っぽさに、思わずエディは噴出しそうになる。
 そのまま口に入れる。ソースの味は、いかにも手作り、といった味がする。玉葱の甘味と、刻んだマッシュルームの風味が口に広がった。
「旨いよ」
 クリスの表情が、ぱっと輝く。
「ワイン飲むかい?赤の旨いのがある」
「ああ、貰うよ」
どうせ、今日は地下鉄で来たのだ。夕食も取っていなかった。エディは空腹だった事を改めて思い出し、皿の上のミートローフに更に手を伸ばす。
「もう少し切るよ」
少し厚めにスライスされたものが、皿にサーブされた。注がれた赤ワインにも口をつける。苦味と、ほんのりと湿った土のような香りが鼻に抜けた。味覚が発達していると、経験がほとんどなくとも、ある程度料理は出来てしまうのかもしれない、とエディは思った。
「彼女、メリッサ・エルウッドっていうんだが、田舎の子なんだよ、ウィスコンシンのね。ジェフと俺と両方を天秤に掛けてるんだ。どっちを選んだ方が自分にメリットがあるかってね」
 相手も、それなりに下心あっての事のようだ。
「ショウビズの世界なんて、浮き沈みの激しいものだ。何某かの安全パイが欲しいんだろう。俺は、ジェフと比べたら女受けは良い方じゃないのは、自覚してる。だから、ドメスティックな線を狙おうと思ったんだよ」
 それが、この料理という訳か。
「で、これで、大丈夫そうかな?」クリスの表情は、まだ不安気だった。
「その彼女のウィスコンシンの味ってのは分からないけど、ちゃんとミートローフになってるから安心しなよ。味も十分だ」
 苦笑をクリスに向ける。結局、サーブされたものは全て平らげてしまった。
「頼みって、これだけで良かったのか?」
「ああ、十分だ。助かったよ」
「じゃあ、俺、帰るよ。明日も仕事がある」
 本当にいいのか?ジェフの事は?エディは軽く頭を振って立ち上がった、つもりだったが、そのまま椅子にまた座り込んでしまった。目の前の視界が揺らいだ。体が熱い。立ち上がろうとするが、体に力が入らない。
 徐々に、目の前が暗くなるのを感じて、エディは闇の中に落ちていった。
 
 目を覚ますと、自分が裸にされ、どこかに横たわっているのが分かった。
「気がついたか?」
 聞き覚えのある声がした。暗いブラウンの髪、同じく暗い色の瞳。そして差し出される、血にまみれた手…。
「リチャード…どうして!あんたが、どうしてここに!?」
 エディは急いで体を起こそうとするが、自由に動かない。自分の意思とは裏腹に、緩慢な動作で起き上がる。が、その上体は誰かに羽交い絞めにされた。
「怖がらなくていい」
 リチャードは優しく微笑み、エディの頬に手を伸ばした。あの時のように。体はまた引き倒され、血にまみれた手が体を這い回る。羽交い絞めは解かれたが、自分を覗き込む人影に気づく。あの時の、エスコート・サービスの女だ。腹部がぱっくりと開き、体内を晒してエディに微笑みかける。
「止めろ…止めてくれ…」
 逃れようとするが、リチャードの腕がしっかりとエディの下肢を捉えていた。意識を失う前の体の熱さは、まだ続いている。心臓は早鐘のように打っていた。耳に入るのは、自分がつばを飲み込む音、そして鼓動、荒い息遣い。
「頼むから…もう解放してくれ!」
 もがけばもがくほど、蜘蛛の糸に絡めとられるような感覚に襲われる。
「心配するな。リラックスしてろよ、可愛い子ちゃん」
 リチャードの体が覆い被さって来る。囁くような声で語りかけながら。内蔵を晒した女が、エディの頬を撫でる。
「お願いだ…止めてくれ!」
 エディは、子供が嫌々をするように、激しく頭を振った。両肩が、血まみれの女に押さえつけられた。
 
 
「コリー、来てくれ。寝室へ運ぼう」
 クリスの呼びかけに、レザー・パンツだけの姿のコリーが、寝室から姿を現した。
「このシス(お嬢さん)かい?『薬屋さん』じゃないか」
「ああ。どう、好みかい?」
「確かに、苛めたくなる気持ちは分からないでもないな」
 コリーは口の端を上げ、酷薄そうな笑みを浮かべた。
「何飲ませたんだ?」
「ゾピクロン。スクロピロロン系の超短時間型睡眠導入剤だ。それと、MDMA。MDMAが効いてくるまでは、もう少しかかるだろう。脚を持ってくれ」クリスは、椅子から崩れ落ちたエディの両脇に腕をかけた。
「意識のない人間は重いもんだってのは、事実みたいだな」
 エディの両脚を抱え上げたコリーが漏らした。
「だからナース達は逞しくなるのさ」
 全く意識のない人間は、起きている時よりも重い。エディは、さほど大柄でもジェフのように筋肉質でもない。しかし大人の男一人となると、それなりの体重はある。
 寝室まで運ぶと、ベッドの上に放り投げるように横たわらせる。
 かすかにエディが声をあげた。まだしばらくは目を覚まさないだろう。クリスはダイニングへ戻った。
 飲み残しのワインをシンクに流し、ミートローフをダストボックスのペダルを踏んで入れてしまう。新たに専用のクーラーから、シャルドネを取り出し、栓を開けた。グラスは2つ。ボトルも一緒に寝室へ持って行く。
 エディはいったいどんな夢を見るだろうか。
 寝室では、カウチで寛いだコリーが退屈そうにしていた。
 
 
「後は好きにしてくれていい」
 手を離したクリスはコリーに告げた。少し離れてカウチに腰を下ろし、ベッドの上の光景を眺める。
 エディは目を覚ましてから、ずっとリチャードという名前を呼び続けている。以前、ジェフの家で聞いた、あの男の名前だ。どんな夢をみているのか。恐らく、聞かせてくれた話の再現なのだろう。子供のように怯えながらも、コリーに抱かれ、喜んでいる。いつものポーカーフェイスは、跡形もなく消え去っていた。
「いい夢みさせてやってくれよ」
 コリーに押さえつけられたエディは、荒々しく犯されながらも、抵抗出来ずにいる。弱々しく、首を振り続けているだけだ。
 ジェフをこちらに引き寄せた際、クリスはエディがなんらかの反応を返してくるのを待っていた。しかし、何もしようとはしてこなかった。ただ、言いたい事を懸命に抑えているだけ。それもまた一興だったが、まだ物足りなかった。今夜も、本当はジェフの事を切り出したかったに違いない。息を荒げ、声を上げるエディを見ながら、クリスは、興奮が抑えられなかった。無意識に、手が両脚の間に伸びる。いつに無い興奮から、そこは普段以上に張り詰め、その存在を強く主張している。そっと握り撫でると、体に電流が走る。クリスは、コリーに突き上げられるままのエディを見ながら、小さく声を上げた。
「クリス、こっちへ来てお前も入れよ」
 クリスは立ち上がり、身に着けた物を床に脱ぎ落とす。ベッドに上がると、コリーに導かれるまま、エディの顔を跨いだ。コリーの手がクリスの両脚の間に伸び、エディの口元へと誘導する。クリスは意図を悟ると、コリーの手を払い除け、自らエディの口の中へと差し入れる。
「気分はどうだい?お姫様」
「悪かないね」
 クリスはコリーの顔を両手で挟んで引き寄せ、唇を求めた。互いに舌を絡め合っている間にも、エディの乱れた呼吸と、くぐもった呻き声が聞こえる。下肢に絡まるエディの舌と唇が作り出す感覚よりも、顔を歪ませ、舌を絡めているエディの顔を見ている方が、よほど興奮させてくれた。もっと傷つけたい。自分を憎むほどに。残酷な欲求が、クリスの体の中でむくむくと沸き起こる。
 大きな波が訪れようとしているのを感じ、クリスは腰をエディの口元に押し付けた。一度放ってしまうと、ベッドから降りて、カウチの傍のテーブルの引き出しを開けた。ポラロイドを取り出し、エディの顔から体全体が入るよう構えた。
「おい、俺の顔は外してくれよ」
 始めに狙った角度は止めて、構えなおす。角度を変えて、もう一枚。ファインダーの向こうで、コリーがクライマックスを迎え、声を上げた。

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最終更新日 : 2014-04-11 16:06:25

chapter 6-1

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 目が覚めたエディは、酷い頭痛に頭を抱えた。

 体は鉛の様に重く、頭の中ではビルの解体工事でボーリングでもやっているかの様だ。喉もからからに渇いて、いがらっぽい。昨夜、クリスに頼まれて、ミートローフの味見をさせられたところまでは覚えている。そこからの記憶は、途切れていた。

 サイドテーブルのデジタル時計は、11時半を指している。本来なら、とっくに出勤している時間だった。ふいに電話が鳴る。店からだろうか。

「はい、ジャクソン…あ、ダンか?悪い。体調が悪くて、電話出来なかったんだ。あ?そんなんじゃないよ。悪いな。ああ」

 受話器を置こうと、電話機に手を伸ばすと、何か紙のようなものが手に触れる。それは、ひらひらとテーブルから舞い落ちた。 エディは額を押さえながら体をゆっくりと起こし、更に時間を掛けて屈み込み、落ちた物を手に取った。

(これは…)

 思わず息を飲み、ベッドに座り込む。落ちていたのは、1枚のポラロイド。写っていたのは、エディ自身のあられもない姿だった。どう見ても、濡れ場にしか見えない。相手の顔は、見切れていて映っていない。見覚えのない、誰かの寝室。しかも、誰か分からない男を相手に、写真の中の自分は喜んでいるようにしか見えなかった。体中の血が引いていく音が聞こえたような気がする。

 恐らく、クリス手製のミートローフか、もしくはワインの中に、何か仕込まれていたのだろう。頭痛以外にも全身の倦怠感がある。これは,以前に経験したものとよく似ている。経緯は判然としないが、恐らく仕込まれた薬のせいで人事不明の状態となり、こんな無様な写真を撮られたのだろう。

(クリス…お前は俺に何がしたいんだ?これが、マイケルのいう『偽悪的行動』だというなら、お前の望みは何だ?俺に憎まれる事か?俺は、そんな馬鹿馬鹿しい手には乗らない)

 エディは写真をくしゃりと握り締め、サイドテーブルの上のライターに手を伸ばした。ジェフの為に用意してある灰皿の上で、ポラロイドに火を点ける。見知らぬ男に抱かれて、喜びに顔を歪ませたエディの顔が、火に包まれて更に歪んで灰になっていく。

 

 

「おはよう。昨日は悪かったな」

「おい、エディ。お前大丈夫か?顔色悪いぞ」

 昨日電話をかけてきたダンが顔を覗き込んで指摘する。長身で、頭ひとつ背の高い彼の顔を平手で軽く叩き、エディは力なく笑った。    

 言われるまでもない。今朝、バスルームで鏡を見た時、自分でも情けなく思ったのだ。こんな時、女なら化粧で誤魔化せるのだろうが。

「いい加減、歳には勝てないんだから、悪さも大概にしろって事かな」

 無理して笑いながら渦巻く髪を束ね、タイムカードを手にしたところで、背後に視線を感じた。

「おはよう、べス」

「あ、おはよう。もう大丈夫なの?」

 やはり、性格は良い女なのだ、彼女は。本心から、エディのことを心配しているのが分かる。声をかけようか躊躇しながらも、こちらの様子を伺っていたのだろう。

「ちょっと疲れがたまってたんじゃないかな。昨日、よく寝たから大丈夫だよ」

 返す笑みも、自然と優しいものになる。たとえ恋愛感情はなくとも、だ。

「その体調じゃ、無理よね」

 恐る恐る、といった様子でべスが続ける。

「何が?」

「あの、もし良ければ、今夜暇?夕食、一緒にどうかと思って」言うなり、彼女は俯いてしまった。確かに体調は芳しくないが、一人でいるよりは、彼女となら、まだ気が楽に過ごせるかもしれない。気分転換としても。

「大丈夫だよ。行こう。店は?もう決めてるの?」

 べスの顔が上がり、明るい笑顔をエディに向けた。

「よぉエディ。何があったか知らないけど、そうやって良い事もあるって事だ」

 背後から、ダンの冷やかす声がする。

「うるせえな」

「じゃあ、また夕方に」

 べスは先に調剤室へ入っていった。エディは、スコットがどうやって彼女を宥めたか、分かったような気がした。そして、そこには、アネットの助力があったであろう事も。

 

 

 べスが見つけてきたのは、リトル・イタリーにある、こじんまりとしたイタリア料理の店だった。既に予約をしていたのだろう。店に入るとすぐにベスが名乗り、給仕の男が席に案内してくれた。男女二人組ということも考慮してか、席も良かった。

 普段は飲まないが、珍しくべスに付き合って食前酒を頼み、前菜にはシーフードを。それと、給仕に選択を任せてワインを1本。メインにはミラノ風カツレツと、チキンのトマトソース煮。サラダを頼むと、パスタやリゾットが入る余裕は無くなった。

 食後のエスプレッソを頼む頃には、エディを気遣う様子も減り、随分とくだけてきた。

 特に、これといった話題があったわけでもない。同僚の噂話や、自分の故郷の事ーーーー彼女は、エディも住んでいた事もある、ブルックリンの出身だった。小さい時の思い出話。主にエディが水を向け、べスが語った。

 エディは、自分でも意外なほど、彼女の存在を嫌がっていない事に驚いた。これも、クリスに酷い目に合わされたせいかも知れないが、気持ちが安らぐ時間が持てることは幸いだった。

 エスプレッソが運ばれてくるまでの間に、べスが化粧室へと席を立った隙を狙い、給仕を呼んで勘定を済ませる。

 彼女といる時間は確かに心地良かった。しかし、これでいいのか?と囁く声が頭の中に響く。父と同じような道を歩むのか、それとも、完全に方向転換出来るのか?と。

 エスプレッソに口をつけ、べスが語る小さい頃の思い出に耳を傾けた。父親に連れられ、コニーアイランドに行ったこと。セントラル・パークの動物園ではしゃいで、迷子になりかけたこと。父親におぶさって眠った時の広い背中が暖かかった事。母親の作るプレスリー・サンドが美味しくて、よく真似をしたこと。キッチンで、よく一緒にビスケットを作ったこと

 両親に可愛がられて育ったのだろう。彼女が語る両親の姿は、まさに理想の親そのものだった。エディは、いつのまにか羨望の眼差しをべスに向けていた。

「素敵なご両親なんだね」

 エディの言葉に、、べスの顔が一瞬曇った。

「ええ。とても素敵な両親だったわ」

「だった?」

「死んだの。私がハイスクールを出てすぐに。卒業旅行で、友達と西海岸へ遊びに行ってる間にね。乗ってた車に酔っ払い運転の車が突っ込んで来て、大破したって。私がこっちに帰ってきた時には、もう土の中だった…」

「すまない」

「いいのよ。気にしないで。本当に良い両親だったわ。誇りに思ってるのよ」

 けなげに微笑む。そう言える彼女が、羨ましかった。いや、彼女からすれば、生きていてくれる方が、よほど良いだろう。

「エディのところは?あまり話してくれないのね」

 彼女に他意はない。それは分かっている。

「うちは、幸いにも両親ともにまだ生きてる…多分ね」

「多分?」

「大学を出た時から、帰ってないんだ。連絡も取ってない。今の住所も知らせてない」

「どうして…?ごめんなさい。立ち入った事を聞いたかもしれない」

 よく分かっている。さて、どこまでを話したものか。

「あまり、両親とは仲良くないんでね。男は、そんなものじゃないかな?父親は仕事が忙しくて、俺も弟もあまり遊んでもらった記憶がないし。母親も、俺が小さい頃はいつも父親の仕事を手伝ってたから、家政婦のおばさんに可愛がって貰ってたな」

「お金持ちなのね」

「そんなんじゃないよ。弟が出来てからは、母親は、今度は弟にかかりっきりになったからね。料理を覚えたのも、いつも台所で家政婦のおばさんに相手してもらってたからだな」

 気づくとべスはじっとエディの目を見つめていた。髪と同じ、柔らかいブラウンの瞳で。

「出ようか」

 無意識にエディはべスから目を逸らした。出来れば、あまり自分の家族の話はしたくなかった。

 勘定がいつの間にか済んでいる事にべスは軽く異議を唱えたが、即座に却下し、店の外へ出る。時間はまだ8時過ぎ。帰るにしても、中途半端な時間だった。

「飲みに行こうか?」

 自分の口から飛び出した言葉に、エディは自分でも驚いていた。べスの表情が明るくなった。それをイエスと受け取り、エディは近づいて来たタクシーを止めた。

 この近くでも良かったのだが、知らない辺りを彷徨って時間を潰してしまうのが嫌だった。エディは、チェルシーの自宅近くの住所を運転手に告げた。べスも何も言わない。通り過ぎる車のクラクション、エンジンの音、ラジオから流れるモータウン・サウンズが車内を支配していた。

 車から降りると、目的の店は目の前だった。時々立ち寄るカフェの地下に、その店はあった。小さな黒板が同じく小さなライトに照らされ、『Joy Stick』という名前を浮かび上がらせている。「洒落た名前ね」べスが笑う。

「こっちだよ。足元、気をつけて」

 階段にべスを誘導しながら、エディは自分が一歩先を降りた。半分ほど降りたところで、店でかかっている音楽が聴こえて来る。ピンクフロイドの『あなたがここにいてほしい』だ。ドア開けると、音が少し大きくなる。カウンターに15席ほどしかない、小さな店だ。カウンターの中から、ブルネットに緑の瞳の男がこちらを振り返った。苦みばしった顔を、くしゃりと破顔させる。

「エディ、久しぶりじゃないか!どうしてた?」

「ネイサン、久しぶり。ちょっとばたばたしててね。ご無沙汰して悪かったね」

 店の主、ブルネットの男ネイサンに促され、二人並んで座った。他の客がいるせいで、二人はぴったりと肩を寄せ合う形になる。

「俺は、ジン・ライム。タンカレーね」

「私はマティーニを」

 第三者が入ると、会話は変わるものだ。さっきの、互いの両親の話題は出なかった。ネイサンがいるお陰で、エディがチェルシーに越してきて、この店に出入りし始めた頃の話に変わる。店の常連客の話、笑い話、ネイサンがウェストポイント(ニューヨーク州内にある陸軍士官学校)にいた頃の、名物教官の話。

 同じ飲むにしても、この店に連れて来たのは正解だった。まだぎこちなく見えるカップル、とネイサンが推察したのだろう。べスも、普段の人見知りが嘘のように、よく笑った。酔いのせいか、体をエディに寄り添わせるように近づけてくるが、さほど気にもならない。エディも深く考える事は放棄し、空いた手をべスの背後に回した。

 平日という事もあり、ある程度の時間が過ぎると、客層が変わってくる。はじめは勤め人らしき姿も多かったが、遅くなるにつれ、近所の店に勤務する者、フリーランスで仕事をしていそうな者、あるいは、何をしているのか分からない者が増えてくる。そろそろ引き上げ時かも知れない。エディは、ネイサンに目で合図を送った。

「べス、そろそろ出ようか」

 べスを促し、立ち上がるが、自分もよろけそうになっている。久しぶりに飲み過ぎたのかも知れない。べスも同じようによろけながらも、エディよりはましなようだ。

「そこの酔っ払い二人!転ぶなよ!」

 ネイサンの声に、エディは振り返らずに手だけ振った。べスを先に上がらせ、自分はその後をゆっくり追う。

 階段を上りきると、二人とも転げるようにドアを開けて出た。二人して意味なく笑い、絵に描いた酔っ払いそのままに互いに腰に腕を回し、歩き始める。エディはそのまま南へ誘導した。自分のアパートの方向へ。べスが、エディの顔を見上げた。

 すぐ傍の路地まで来た時、べスの腕を引いて、陰に入る。急に我に返ったような顔のべスを無視し、小柄な体を抱き寄せた。彼女も無言で、されるがままになっている。

(お前は何をしようとしている?本当にいいのか?この女を不幸にしないと言えるのか?)

 頭の中に再び聞こえてきた声を無視し、べスの顎を引き寄せ、口付ける。

(唇は、男でも女でも柔らかいもんだな)

 馬鹿な事を考えていると分かりつつ、舌を絡ませ抱き寄せる腕に力を込めた。

 顔を離すと、べスはそのままエディの胸に顔を埋めた。

「今日、うちに泊まっていかないか?一人でいたくないんだ」

 その気持ちに嘘はなかった。べスが、エディの胸の中で、小さくうなずいた。

 

 

 目を覚ますと、待ち受けていたのは典型的な二日酔いだった。再び頭は酷く痛み、喉が渇いている。

 体を起こそうとして、肩に触れる滑らかな肌を感じ、隣を見る。べスがエディの方に向いて眠っている。途端、昨夜の記憶がジェットコースターのように脳内で再生された。

 よくぞ、女とのセックスが出来たものだと思う。最近は誰とも交渉自体なく、女との行為となると、思い出すのも苦労する程だった。ベッド脇の時計を見ると、まだ6時半。今日は早出で地下鉄で出勤する日だが、時間の余裕はありそうだった。彼女を起こさない様、注意深く体を起こす。

「エディ?」

 見下ろすと、べスが目を覚ましていた。まだ夢の続きでも見ているような表情で。

「起こしちゃったかい?」

「おはよう…」言うなり、枕に顔を埋める。寝起きの不機嫌を悟られないように起き上がり、クローゼットに向かう。客用のバスローブを出して、サイド・テーブルにバスタオルと一緒に載せた。

「夢を見てたかと思ったわ…」

「朝飯、食える?」エディはべスの言葉には応えなかった。

「作ってくれるの?」

「簡単なもので良ければ」

「喜んで戴くわ」

 先にシャワーを浴びたエディは、べスがいない間に朝食の準備をした。買い置きのマフィンを焼いて、スクランブルエッグとオレンジジュース、コーヒーを添えた簡単な朝食を二人で取り、アスピリンを二人で飲んだ。エディが飲む、唯一と言って良い薬を。

 流石に同じ服装を2日連続というのも拙いだろうという事で、べスにはエディのシャツを貸した。いくらエディが大柄でないといっても、小柄な女性であるべスにはぶかぶかだった。

 二人で混雑した地下鉄に乗り、よろけそうになる彼女の腰に手を回したエディは、半ばやけくそになっていた。

 

 

 地下鉄を降りる時点で、エディは軽く深呼吸をした。一緒に出勤する事で、恐らく誰か、昨日目撃していたダンなどに見つかれば、冷やかされる事は免れないだろう。しかし、その事をべスに告げると、時間差で出勤する、と言い出しかねない。そういう気遣いをさせるのは、申し訳なかった。たとえ彼女が内心で望んでいた結果だとしても、エディ自らが招いた事態だ。

 今までにも、アリスンの紹介であったり、誰かのホームパーティーで知り合った女性となど、誰かと2人きりで出かける事は幾度となくあった。それは、ジェフにも説明した通り、事実だ。しかし皆一様に、体の関係を持つ事はおろか、唇にも触れず、紳士的に自宅まで送って終っている。今回、自分の責任とは言え、内心頭を抱えたい気分だった

 2人揃って出勤すると、予想通りに冷やかしはあった。いい年をした大人の集まりだけに、あからさまなものではないが、ダンだけでなく、更にアリスンまで揃っていては、どうしようもない。エディもべスも、互いに肯定も否定もしなかった。しばらく言わせておけば、冷やかしも止まるだろう、と。それよりも、問題は自分自身だった。今後、彼女とどうするのか。

 べスは心得ているのか、全くベタベタしてくる気配もない。冷やかしを避けるためかもしれないが、誰もいない状況にあっても、今までと変わらない接し方をしてくる。

 昨夜、一人でいたくない、とべスに言ったのは嘘ではない。一人でいる事で、あのポラロイドを思い出してしまいそうだった。起きた事の記憶はなくとも、屈辱と、羞恥の感情だけは頭の中に記録されている。それを思い出すと、クリスを殴りに行きたくなる衝動が湧く。ただ、それこそが、彼の望んでいる事ではないのか。自分が我を忘れ、彼に怒りをぶつける事。それを見たいがために、わざわざ悪夢の再現のような事を仕組んだのではないか。そう思うと、心の中で振り上げた拳も引っ込めさるを得ない。

 今日が週末で助かった、と思う。比較的忙しい時間が続き、余計な事を考えずに済む。実際手がすくと、ダンに肩を叩かれ我に返る事が午前中だけで数回あった。カウンターに出る日でなくて良かったと思う。

 べスは、逆にカウンターに出ている。ガラス越しに見る限り、エディをことさらに意識する事もなく、いつも通りに見える。患者への当たりも、にこやかだ。

「エディ。誰に見惚れてるんだ?」

 またダンに肩を叩かれる。

「え?」振り返ると、にやついたダンが立っている。言われる言葉は、予想済みだ。

「別に。ぼうっとしてただけだよ」

「昨夜は寝不足ってか?」

「何言ってんだよ」

 肩越しにエディの顔を覗き込むダンの顔を、手の甲で軽く叩いた。何日かは、この調子が続くのだろう。

 『暫くは縛られたくない』と周囲に言い続けてきた言葉の効力が、尚も続いている事をエディは祈った。

 

 

 昼休みに待っていたのは、同僚達の要らぬ気遣いだった。わざわざエディとべスが同じ時間に行けるよう他の者が調整に回り、結局2人でランチを取る事になる。これで彼女を無視して、一人で行く度胸はない。店の裏口を一緒に出ると、べスは急に笑い出した。驚いて、エディは彼女の方を見る。

「ごめんなさい、急に笑い出したら、びっくりするわよね。みんながあまりにも気を遣うのがおかしくて」

 べスは、まだくすくすと笑っている。エディは返事に困った。迷った果てに、苦笑を漏らす。

「とりあえず、ご飯食べに行きましょう」

 女は、自信を持つと変わるのだろうか。引っ込み思案に思われたべスだが、今は堂々として見える。あくまでも、エディの前でだが。

 2人は並んで歩いた。手を繋ぐこともなく、体を寄せ合うこともなく。店の裏から、通りを1本越えたところにあるダイナーに入り、スパニッシュオムレツにサラダという簡単な食事を済ませる。食後にコーヒーを頼み、一息つく。それまでは、2人ともが昨夜の事を話題にするのは避けていた。もし、べスが口にしたなら、エディも自分の気持ちも話さなければならない、と覚悟はしていたが、彼女の口からその話題は出なかった。今も、窓の外を眺めている。

「ねぇ、エディ」

 不意をつかれ、ぎくりとする。「なに?」

「あまり、深く考えないで。あなたが、縛られたくない、特に誰とも付き合う気がないって言ってたの、私も知ってるわ」

 理由は異なるが、スコットがアネットに頭が上がらないのも分かる気がした。

「ティーンエイジャーじゃあるまいし、真剣に考え過ぎないで。でも、私は諦めが悪いの」

 そう言って、べスはまた笑った。

「ごめん」これは、エディの素直な気持ちだった。

「今まで通りでいきましょ。ね?」

 女の方が、やはり強いのかもしれない。


10
最終更新日 : 2014-04-11 16:07:50

chapter 6-2

 冷やかしに動じない2人の態度に飽きたのか、アリスンの広報活動にも関わらず、翌日以降は妙な気を回す事も、事あるごとに冷やかされる事もなくなった。エディもべスも、お互いに以前のままの接し方をした。べスに貸していたシャツは、綺麗にプレスまでして彼女が持ってくれていたが、人目のないタイミングで手渡してくれた。

 正直なところ、エディは肩の荷が下りたと思った。しかし、澱のように若干の罪悪感が残っている。彼女の言うように、自分が深く考えすぎなのか?今まで、相手が男であれ女であれ、行きずりの関係自体が経験のない事だったので、戸惑っている部分もあった。一度でも関係を持つと、その相手とは付き合い始めた。それだけではない。完全なる行きずりの相手は、あまりにリスクが高過ぎる。エディの直接の知り合いでなくとも、HIVキャリアで発症に怯える者や、発症して馬鹿高い病院代に苦労している者を知っている。

 女性が相手だと勝手も違うが、同じ職場内の事だ。しかも、明らかに自分の衝動から、彼女の気持ちを利用した。それを自覚しているからこその、罪悪感。彼女がもし、ジュディスのような性格なら、『なかった事』と言ってくれるままに考えられるのだが。

 週末は、考えても結論の出ない同じ事を、ずっと考えた。しかし、最終的に出た答えは、彼女の再度のアプローチがあるかどうか?だった。それまでは、彼女の厚意に甘えるしかない。

 1週間分の食料の買い物から戻ると、闇の中で赤いランプの点滅が奥に見えた。また留守番電話だ。ため息をついて、部屋の灯りを点ける。嫌な予感がした。電話番号は電話帳にも載せていない。番号を知る者もごく限られた相手だ。クローゼットに向かい、防寒用のキルティングのコートを脱いだ。部屋の中は冷え切っていたが、ヒーターをつける気にならず、キッチンで荷物を置き、コーヒーメーカーのセットをする。食欲も失せた。落としたコーヒーは、大きなマグカップに注ぎ、たまにしか飲まないスコッチウイスキーのボトルをラックから取り出した。カップの半分も入っていないコーヒーの中に、同じ位のウイスキーを注ぐ。少し温くなったので、そのまま4分の1ほどを一気に飲む。胃の中がかっと熱くなり、冷えた体を温めた。深呼吸をして電話の傍まで行き、再生のボタンを押した。一番聞きたくなかった、囁くような声が流れる。

『エディ、クリスだ。こないだは毒見役をありがとう。おかげで上手くいったよ。それで、今度の金曜日にうちでパーティーをするんだ。こないだ話したメリッサと俺がホストだ。内輪の人間しか呼んでないからリラックスして参加してくれ。時間は、また連絡するけど、多分7時辺りになるだろう。みんな彼女や奥さん連れだから、もし、あんたも誰か「良い人」がいたら、一緒にどうぞ』

 予想を上回る内容だ。彼の心臓は、鋼で出来ているに違いない。さて、招待に応えるかどうか。再び、指が覚えている番号を押した。

「エディだけど…あ、スコットか?」

『聞いたか?奴から』

「さっき留守番電話のメッセージ聞いたよ。お前は?」

『俺も、アネットも本当は行きたくないんだがな…俺は同じ職場だし、例の女優も一緒だろ?一応行くよ。ジェフも来るような事を言ってたがな」

 ジェフが来る。スコットに電話して良かった、という気持ちと、電話しなければ良かったという矛盾した気持ちが、同時に心に湧きあがる。

「マイクは?」

『あいつは来るだろう。お前はどうするんだ?』

 思わず、言葉に詰まる。「まだ、考えてない。お前がどうするか聞いてからにしようと思って…」

『何を子供みたいな事言ってんだ。どうせ、あいつの事だ。なんか考えてるに違いないからな。気が進まないなら、止めといた方がいいぞ』

 それは、エディもよく分かっている。

「ちょっと考えるよ」結論が出ないまま、電話を切った。

 スコットの言う通り、嫌な目に会いたくなければ行かないのが一番だ。しかし、一番心の中で引っかかっているのは、ジェフの事だった。

 結局、あのクリスマス・イブから、会う事はおろか、連絡も一切取っていない。このまま終るのか?終らせるのか?しかし、自分から連絡をする勇気も持っていない。電話をかけたところで、会話はぎこちないものになるのが目に見えている。コンドミニアムに直接行くのは、クリスに出くわす可能性があった。しかし、第三者が多数いる中だったら?

 気持ちは、半ば、行く事に傾いている。

(お前は一人で行くのか?それとも…)

  自分が今考えている事は、姑息で最低だ。しかも、あてつけがましい。またも他人の厚意を利用するのか?それも、よく分かっている。分かっているが…。

 答えは出たのも同様だった。自分は行くだろう。『彼女』を誘って。

 

 

「べス、今、ちょっといいかな?」エディは、昼休みに裏口を出たべスを呼び止めた。当然、周囲には他の者はいないタイミングでだ。

「何?」

「今週、週末空いてる?」

「週末?」彼女が喜びを抑え、平静を保とうとしているのが分かる。

「あぁ。ちょっと助けて欲しいんだけど、頼めるのが君しかいなくて…」これは、嘘ではない。そう、自分に言い聞かせる。

「私で出来る事ならね」

「もし嫌なら無理しなくていいんだけど、クリス…ドクター・デガーモが週末に自宅でパーティーするんだ。彼と、彼の彼女がホスト役でね。で、パートナー同伴って言われてて…」これは、嘘だ。ただ、ばれるような嘘ではない。

「いいわ。エディと一緒だったら、あのドクターでも大丈夫」

 そう。彼女もクリスが苦手だと言っていたのだ。

「助かるよ。多分、7時ぐらいからだと思う。あいつの家は、ここから歩いても行けるから。詳しくはまた…」

「待って。じゃあペンを貸して」

 べスは、手を出す。エディは胸元のポケットからペンを出して渡すと、べスもポケットからレシートのようなものを出し、何か書きとめた。

「うちの電話番号。電話帳には載せてないから」

「うちもだよ」エディもメモに書いて、べスに渡す。

「詳しくは、また連絡するよ」

「分かったわ。じゃ」

 べスは歩き去った。エディは彼女の後姿を見ながら、ため息をつく。

 彼女を連れて行くのは、二重の意味で当てつけだ。ひとつはクリスに。あの夜の事は、彼が仕組んだのは間違いない。ダメージを受けている姿など、決して見せたくなかった。べスがいれば、彼に対しても、平常心で接する事が出来るだろう。そして、もうひとつは、ジェフに。彼は、女連れの自分を見て、どう思うだろうか?エディが女ともデートをしているといっても、その現場までを見せた事はない。見たところで、友人同士の付き合い程度にしか見えなかったはずだ。しかし、今度は違う。勘の良い者なら、何事もない間柄ではない、と気づくだろう。そういう意味では、ジェフには分からないだろうが、彼ならきっと、仲良さげにしているだけで、そう思うに違いない。ジェフは、嫉妬を表に出すだろうか?内輪だとは言え、例の女優やべスもいるのだ。滅多な事は言えないはずだ。

 エディは、自己嫌悪に気づかない振りをし、調剤室に戻った。

 

 

 またしても、帰宅したエディを迎えたのは、留守番電話を知らせる赤いランプだった。

 どうせ、クリスに決まっている。録音の中身を確認するのは後回しにし、腹を満たす事を優先した。べスとの一夜以来、まともな食事は、仕事中の昼休みしか取っていない。それでも、食欲が湧かず、コーヒーとペストリー1つで済ませた事もある。昨日、買い物した食料品を無駄にする訳にもいかない。

 トマトとハラペーニョ、玉ねぎを適当に切って、フードプロセッサに入れてしまう。ライムと塩、胡椒も適当に。後は何回か回せば、サルサソースの出来上がりだ。エディが小さい頃は、ハラペーニョが辛くて食べられず、家にいた家政婦のファデラという黒人女性が、子供用にと別に作ってくれた。ハイスクールに入る頃には、ハラペーニョが多いものをリクエストすると、『大人になった』と、嬉しそうに笑っていた。

 フードプロセッサの中身を小さな器に移し、テーブルに置く。馴染むまで寝かせている間に、冷蔵庫からコロナを1本出し、残ったライムを切って瓶の中に押し込み、一口飲んだ。

 ジェフが一緒の時は、ワカモレも一緒に作って出したものだ。アボカドそのままだと食べられないのに、ワカモレにすると、トルティーヤを5枚位一気に平らげた。

 エディは、ジェフの事を思い出している自分に気づき、苦笑する。

 彼が来なくなってから、食料品の減りも遅くなり、買い物に行くペースも落ちた。勿論、家での雑用も減った。自分一人であれば、さほど時間を費やす事はないものだ。もともと、彼以外を家に呼ぶ事はなかったのだから。

 冷凍のフラワートルティーヤを、アルミフォイルに包んでオーブンへ放り込む。折りたたみの椅子に腰を下ろし、コロナをもう一口。そこから見える、留守番電話の点滅する赤いランプをぼうっと見た。

 どうせ時間を知らせる電話だろう。時間からして、べスに連絡するのは明日にした方が良いかも知れない。

 サルサとトルティーヤで軽く夕食を済ませ、もう1本コロナを出して来て、電話のボタンを押した。

『ロクオン サレテイル めっせーじハ 3 ケンデス』無機質な、合成された音声が予想外の数字を告げる。

 1件目は、数秒の沈黙の後、受話器を置く音が聞こえた。2件目は、すぐに切ったようだ。最後の1件も。

 クリスなら、全く気にする事なくメッセージを録音している。べスにしては、時間が合わない。1件目は、エディがまだ勤務中の時間だった。あとの2件も、べスならエディが帰宅する時間を把握出来るので、当てはまらない。と、電話が鳴った。恐る恐る、受話器を上げた。

「はい、ジャクソン…」

『エディか?』懐かしい声が聞こえた。

「ああ。どうしたんだよ、急に」平静を保とうとするが、つい、声が上ずるのを抑え切れなかった。ジェフの声が、妙に明るいのが気に障る。

『クリスから連絡あったか?』

「昨日、留守番電話にメッセージ入ってたよ。週末のパーティーの件か?」

『ああ。クリスに頼まれたんだよ。あいつ、今夜夜勤だから、お前に連絡しといてくれって』

 また、クリスだ。

「で?」

『時間なんだが、予定通り7時からだそうだ。スコットとマイクも来る』

「知ってるよ」

『お前は来るのか?って聞いてたぞ』

「行くって伝えておいてくれ。それだけか?」やはり、素直にはなれない。何より、あっけらかんとした、この話し方はなんなのだ?

『あ、ああ。じゃあな』

 エディは答えずに受話器を置いた。クリスのせいで、エディがどんな目にあったかなど、彼は何も知らないのだろう。腹が立つほどにジェフの声は明るかった。下らない言い争いなどなかったかのように。いけしゃあしゃあと、クリスの名前を出して来た。

 もうエディには、ジェフに対しての当てつけに、罪悪感は無くなっていた。彼女への罪悪感も。

 昼間、べスから貰ったメモをポケットから取り出し、書かれた番号を押した。

「べス?エディだけど。遅くにごめん」

 

 

 その日は、冬とは言え、さほどの冷え込みも感じられなかった。ニュースでは、クリスマスの時と同じく、異常気象である事を伝えていた。クリス達のコンドミニアムまで、ハリス&ディップルからはタクシーに乗るには近すぎ、地下鉄でも遠回りになるため、エディはべスに徒歩での移動を提案した。彼女からすれば、エディと一緒であれば、別にどんな移動手段でも構わなかったのかもしれない。裏口を一緒に出て、彼女に声をかけた時点で、アリスンに見つかったが、エディはもう気にしなかった。

「あら、エディ。べスとおでかけ?」

「ああ」あっさりと肯定すると、アリスンはにんまりと笑っていた。

「友達のパーティーだよ。女性同伴って言うから、べスに頼んだんだ」嘘はついていない。

「ふうん」

 まだアリスンの目は、好奇の色を帯びている。

「じゃあ、、俺達はこれで。べス、行こう」

 にやにやと2人を見るアリスンを置き去りに、2人はパーク街に向かって歩き始めた。

「パーティーって言うのに、こんな普段着でいいの?」

「どうせ、俺の友達ばっかりだから、大丈夫だよ。自宅でやるんだし。俺だって、この格好だぜ」

 答えるエディも、普段着のままだ。黒いダウンジャケットにチャコールグレイのマフラー。中も黒いコーデュロイのシャツにブラックデニム。

 べスは、ラベンダー色のニット・ワンピースの上から、黒のロング・コートに少し濃い紫のショールをマフラー代わりに巻いている。ブーツもコートに合わせて、黒いレザーのロングのものを履いていた。多少、気を遣ったのだろう。歩くには、少し軽装かもしれなかった。

 『あの日』以来、数日ぶりに訪れた建物の入り口には、見慣れたドアマンがいた。少しだけ、安堵を感じる。

「ダグ、久しぶりだね」エディは思わず声をかけた。

「ああ、エディ。久しぶり。今日は、ドクター・テイトの所?」言葉に一瞬詰まってしまう。

「いや。今日は、クリス…ドクター・デガーモの所」

「じゃあ、ちょっと待っててください」

 ダグは振り返り、すぐ傍の内線で連絡をしている。「ドクターが、すぐ上がってきていいって言ってますよ」

 エディはダグに手を上げて了解の意を示し、べスをエントランスに誘導した。

「やっぱり、お医者さんだけあって、お金持ちなのね」

「俺達だと、入り口から自分で鍵を開けるもんな」ため息をつくべスに笑いかけ、エレベーターに乗る。

「エディのお友達って、スコットとか?」

「うん。スコットとアネットも来るよ。後はマイケルとその奥さんのリンかな。リンも、前に会ってるだろ?クリスの彼女は女優らしいよ。メリッサ・エルウッドって」

「その人、知ってるわ!何回か彼女のドラマ見た事あるのよ、アリスンに薦められて。彼女がドクター・デガーモのガールフレンドなの?」

「らしいよ」エディは出てきた名前に苦笑した。

 部屋の前まで着き、ブザーを押すと、タートルネックのセーターにレザーパンツという格好のクリスが、ドアを開けて出迎えた。

「やあ、よく来てくれたな」

 クリスに誘われ、中へ入る。クリスは紳士らしく既にべスに手を貸し、コートとショールを預かっている。その辺りは、やはり手抜かりはない。逆に、それが胡散臭いと感じさせる要因でもあるのだが。

 エディも ダウンジャケットとマフラーを脱ぎ、手渡されたハンガーに掛ける。室内では、ブライアン・アダムスの曲が流れている。その音を遮るように聞き覚えのある笑い声が聞こえた。

「もしかして…?」

「リンが早々と出来上がってるんだよ」クリスが苦笑いしている。珍しい事もあったものだが、リンには彼も逆らえない。

「まあ、入って適当な所に座っててくれ」

 クリスがさっさと奥に引っ込んでしまった為、エディはべスを促し、リビングへ足を踏み入れる。さっきの笑い声はやはりリンのもので、3人掛けソファで、例のクリスのそっくりさんの言葉に笑い転げている。横にいたマイケルが振り返った。

「エディ…」

 マイケルの目は『助けてくれ』と訴えていた。エディは笑いを堪えて、べスをマイケルの元へ連れていく。

「べス、覚えてないかもしれないけど、彼がマイケル。マイク、うちの薬局で一緒に働いてるべスだ。クリスマスにそっちに連れていった」

「ああ、べス、よろしく。マイケル・ウィルトンだ。ちょっと今日は、うちの奴がとんでもない状態で…悪いね」

 横目で、リンの様子を見ながら、べスに握手の手を差し出す。

「あんた…『薬屋さん』?」

 クリスのそっくりさんが振り返った。いやに『薬屋さん』と強調した、厭味な言い方する。まさか、彼まで来てるとは思わなかった。やはり、彼とクリスは『そういう』関係だという事なのだろう。

「『患者さん』まで来てるとは思わなかったよ」『患者さん』のにやにや笑いに、エディも口の端を歪めた笑いを返す。

「あらぁ!べス!久しぶり!あなたもパンチをいかが?」声のボリュームを調整出来なくなっているリンが、べスの手首を掴んでいた。べスは『大丈夫だ』というように、エディに笑いかけてきた。リンに誘われるまま、隣に腰を下ろす。

「『患者さん』ね。俺はコンピュータ・プログラマやってる、コリー・クラークだ」

「俺には、エディ・ジャクソンて名前があるよ、コンピュータ屋さん」

「分かったよ、エディ。で、『リチャード』って誰だい?」

 コリーが顔を寄せてきてエディに質問する。エディは自分の体が硬直するのが分かった。

「あんた…」

 コリーは意味ありげな笑いを向け、飲み物を取りに立ち去った。

「あいつ、クリスの最近の友達みたいなんだけど、ちょっと心配なんだ」

 マイケルの表情は曇っている。

「最近、クリスの目がぎらぎらしてる気がしてしょうがないんだ。多分、あの男と知り合ってからだと思う。あのコリーって奴が何かけしかけてるのかどうかは分からないけど、一緒にいる事で、何か悪い方に転がってるような気がするんだよ」

 それは、明らかにそうなのだろう。エディは身をもって体験している。

「でも、クリスはわざとやってるんだろ?」自分の受けた仕打ちを思い出し、言い方は皮肉交じりになってしまう。

「俺にはどうしようもないよ、マイク」

「分かってるよ…・俺も気にして本人には忠告したんだけどね。あのコリーって奴より、ジェフといる方がクリスの為なんだけどな」

(じゃあ、俺はそのために犠牲になれっていうのか?マイク。俺とジェフが終ったっていう事だろう?)

「あ、メリッサだ…」マイケルが、ダイニングから入って来た人影に注意を向けた。新たにサングリアの入ったピッチャーと、オードブルの皿を持っている。栗色の髪は夜会巻きにアップにされ、恐らく上質のカシミアであろうロイヤルブルーのプルオーバーにゆったりとしたガウチョ・パンツを穿いていた。殊更に着飾ってはいないが、他の者と違う空気を纏っているのは、ショービズの世界に身を置いているもの故の事だろう。手にした物をテーブルに置くと、新たに増えた客に気づいたようだった。

「あなたは…」エディを見て小首をかしげる。

「クリスの友人のエディ・ジャクソンです。それから、べス。キム・エリザベス・マッケンジー」

 自分の名前を聞いたべスが振り返り、立ち上がってエディに寄り添った。エディも、べスの背中に腕を回す。

「こんばんわ。メリッサ・エルウッドです」

 仕事用と思われる微笑を浮かべ、彼女は握手の為に手を差し出した。

「テレビで拝見してます、エルウッドさん」

「メリッサってよんでくださいな。キム・エリザベス」

「どうぞ、べスで」

「ゆっくりしていってくださいね、エディ、べス。と言っても私の家じゃないですけど」そう言ってくすくす笑う。

「私のエージェントのマークも、もうすぐ来ると思います。ちょっと彼は、その、特殊ですけど。びっくりなさらないでね」

「特殊…なんですか?」

「ええ、まぁ」

 エディは2人の会話を聞いている間、べスの背中に回した腕を腰にずらした。べスも自分の腕を回して来た。と、新たな来客を告げるブザーが鳴った。

「ちょっと、失礼」会釈をして、メリッサは歩き去った。

「やっぱり、一般人と違って綺麗な人ね」

「そうだよね」エディが答える前に、にやけたマイケルが答える。

「痛いっ」

 後ろから、リンがマイケルの尻を叩いた。しょうがなくマイケルは、酔っ払った自分の配偶者の相手をすべく、その隣に腰を下ろした。

 メリッサに誘われて入ってきたのは、スコットと、強張った笑みを張り付かせたアネットだった。それも、エディ達の顔を見ると、表情が緩む。

「エディ!」すぐに、隣のべスにも気がついたようだ。

「べス、元気だった?」

「アニー!」女性2人は、ハグを交わしている。スコットの目は、エディの目をしっかり捉えていた。エディは口元だけで、気まずい笑みを返した。

「いいんだな?」

「何が?」

「いや、いい。ジェフは?」

「まだ来てないみたいだぜ」

 エディは、テーブルの上にある、氷の入った大きなボウルから、ミラーの缶を2本取り出し、片方をスコットに渡す。自分はべスのいる側の肘掛に腰を下ろした。アネットには、サングリアを注いで渡した。

「とてつもない茶番だな、これは」

 苦々しげにスコットが言う。それはエディも分かる。恐らく、クリスが自身の書いたシナリオに登場する人物を一斉に集め、眺めようという趣向なのではないか。彼のほくそえむ顔が目に浮かぶようだった。分かっていて参加している自分は、どれだけ阿呆に見えるだろうか。

 

 

「『薬屋さん』がおいでなすったな」

 コリーがニヤニヤしながらキッチンへ入って来た。

「メリッサ、飲み物とこれ、持って行ってくれるかい。さっき言ってた友達が来たんだ。ついでに挨拶してきたら?」

 クリスはケータリングで頼んだオードブルの皿をメリッサに示した。「じゃあ、クリス。オーブンの火、あと1分したら止めておいてね」

 彼女が出て行くのを見てから、コリーは更にクリスに歩み寄る。

「『リチャードって誰だ?』って聞いたら、固まってたよ。メデューサに睨まれたみたいにな」

 コリーは喉を鳴らして笑った。

「ズルイな。俺より先に楽しんでるなんて。メリッサが戻って来たら、俺もリビングへ行くよ」

「女連れで来てたぞ」

「ああ。見たよ。」クリスの目が好奇の色を帯びた。「楽しみだな、どんな様子か」

「今夜は、あの女が泊まって行くんだろ?」

 クリスの背後にぴったり寄り添ったコリーが尋ねる。

「いや。彼女は明日撮影があるから、ホテルに帰るらしい。昨夜、うちに泊まってたしな」

「じゃあ…」

「あんたが泊まればいい。彼女はマークが送っていくだろう」

 寄り添ったコリーは、クリスの耳朶を軽く噛んだ。

「今夜の事を一緒に思い出して楽しもうぜ…」


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最終更新日 : 2014-04-11 16:08:55

chapter 6-3

 

 クリスもメリッサもリビングに戻り、ジェフとマーク以外のゲストが揃った。メリッサはアネットとべスと話し込んでいる。それを興味深そうに、コリーが眺めていた。マイケルとスコットはエディと共にソファの傍に座り込んでリラックスしている。

 ホスト役である事を名目に、クリスは出窓に体を預け、全体を眺めるポジションを陣取った。後は、ジェフさえくれば、今夜のメイン・キャストは全て揃う。エディはスコット達と話しながらも、玄関の方を気にしているのが分かる。ジェフが来るのを待っているのだろう。それとも、来て貰いたくないのか?いや、来て欲しいのだろう。女連れで来たのだ。引き合わせる魂胆に違いない。コリーが意味ありげにエディの方を見ているのにも、気がついているようだ。彼は、あの日自分を抱いたのが、コリーだと気がついただろうか?それとも、コリーは単なるオーディエンスだと思ったか?冷静さを欠いたエディの様子を見るのは楽しかった。もう少し、揺さぶりを掛けたい欲望が抑えきれない。思わず笑みを浮かべ、エディの横顔をじっと見つめた。

(こっちを向けよ、エディ。あんたに伝えたい事があるんだ)

 願いが通じたのか、エディがこちらを向いた。目を見て笑いかけると、立ち上がってこちらへ来た。

「エディ、楽しんでくれてる?」余所行きの笑顔で問いかけるが、エディは無言だった。こちらの目を睨み返してくる。

「コリーは、いい夢見させてくれたかい?」

 エディが、目を見開いた。体が一瞬揺らぎ、グラスを持つ手が微かに震えている。クリスは体中の血がざわめくような快感を感じた。

「何の話だ?」声が僅かに上ずり、震えている。

「いや。なんでもない。お代わり、いるか?」

「頼むよ」

 クリスはエディからグラスを受け取り、ダイニングへ向かった。笑いが込み上げて来るのを必死で耐えた。これだから、止められない。後はジェフが来てくれるのを待つだけだった。エディの為のウォッカマティーニを作り、グラスを渡しにリビングに戻った所で、玄関のブザーがなった。すぐに玄関まで向かう。ジェフか、マークか…。

「あぁ、ジェフ。お疲れさん。もうマーク以外みんな来てるぜ」

「マークって…まさか、お前、彼女呼んだのか?」

 そう。クリスは敢えてメリッサのことを伝えなかった。これで、メリッサの反応も、ジェフの反応も楽しめる。そして…。

「エディも来てるよ。彼女連れて来たみたいだぜ」

「彼女?」ジェフの眉根が寄った。クリスは彼のコートをハンガーにかけ、ジェフの後ろを付いてリビングに入った。

 入って来たジェフに、一番先に反応を示したのは、案の定エディだった。しかし、表面上は何も反応しない。目の表情が変わっただけだ。スコットには会釈のみで、すぐにエディの方に向いた。エディの表情が、みるみる強張る。ジェフの表情がこちらからは見えないのが、クリスには残念だった。もう少し近づいてみる事にする。

「久しぶりに揃ったな」背後から声を掛けた。皆が一様に、それぞれの思惑で以って自分の顔を見るのは、見物だった。

 マイケルは、相変わらず酔っ払ったリンの世話をしている。もっとも退屈なカップルは、2人ともが白けた様な、嘘臭い笑顔を浮かべている。その『退屈なカップル』の傍にいたエディは、クリスの姿をみると。彼女の腰に腕を回した。べスも同じように腕を回す。ジェフの眉根に再び皴がよった。

(そういう事か。珍しい事だ)

「メリッサ、紹介するまでもないけど、今日は君の退院祝いも兼ねてるから、主治医だった彼も呼んだんだ。黙ってて、ごめんよ」

 クリスは、アネットの傍で立ちすくんでいたメリッサの手首を掴んで傍に引き寄せ、腰に腕を回した。彼女の背中の筋肉が緊張しているのがクリスの手に伝わった。それでも、顔に出さないのは、あっぱれとしか言いようがない。一番うろたえているのはジェフのようだ。メリッサの手前、堂々としていなければならず、かといって、エディが女連れで仲良さげにしているのも、気に食わないらしい。

「改めて、退院おめでとう。メリッサ」

 ひきつりながらも、ジェフは『主治医』としての精一杯の笑顔で、彼女とハグを交わした。恐らく、この2人はセックスはおろか、キスもしてないのではないか?とクリスは思う。

 ジェフとメリッサの2人を改めて引き合わせたところで、クリスは再び傍観者のポジションに戻った。内線電話が鳴り、新たな来客を告げる。マークだ。ダグには、すぐに通すよう伝えた。視線を再びテーブル周辺に戻すと、メリッサは気丈にもクリスの彼女としての振る舞いを忘れてはいないようだが、心なしか、ジェフに対する表情が硬い。  ジェフは、もうメリッサはどうでもいいのかも知れない。彼女の問いかけにも冷淡な様子が見て取れる。本当に、我が儘な子供のようだ。クリスの誘惑に乗り、こちらへ傾いたのは自分だというのに、いざエディが彼女を連れてくると、嫉妬する。それを計算の上で、エディも女連れ来たのだろうが、いざジェフを前にすると、平常心ではいられないようだ。更に、時折傍にやって来るコリーが、彼の顔に一瞬の怒りを浮かび上がらせる。

 玄関のブザーが鳴り、マークの到着を知らせた。

 

 

 やはり、あの夜エディを抱いたのは、このコリーという男のようだった。クリスの言葉で確信した。あのポラロイドに写っていたのが、彼だったのか。まだ時折エディの方を見ては、薄笑いを浮かべている。エディは、べスの腰に回した腕に力を込めた。一瞬、べスはエディの顔を見上げたが、すぐに自分も腕に力を入れて、エディの体を引き寄せるようにした。

 アルコールも適度に入り、皆が多少リラックスした頃に、新しいゲストを告げるブザーが鳴った。クリスに連れられて入って来たのは、いかにもなクイーン然とした男だった。彼が、恐らくメリッサの言っていた『マーク』なのだろう。入ってくるなり、すぐにメリッサの傍まで歩み寄る。

「メリッサ、あのプロデューサー、やっとOK出したわよ。ほんとに、あの禿親父と来たら!」

 いきなりイギリス訛りで捲し立てる。ちょうど傍にいたべスは、勢いに押され、怯えたような様子で、エディに体を寄せて来た。エディは、『大丈夫だ』と言い聞かせるように、彼女の体に回した手で背中を軽く叩く。

「あら、お嬢さん。オカマを見るのは初めて?怖くないわよ。オカマだってジェントルマンなんだから」機械仕掛けのように、にっと笑う。

「私は、マーク・アーモンド。メリッサのエージェントをしているの。あら、ドクター・テイト!メリッサの事ではお世話になったわ。お久しぶり」

 すぐにジェフの方に向き直った。メリッサは平然として見えるが、ジェフは引きつった笑いを浮かべている。そう。ジェフは、ああいうタイプが苦手だった。恐らく、あのマークからも好かれているのだろう。助けを呼びたそうだが、あいにくエディにはその気はなかった。また、ジェフもそこまでの勇気はなさそうだった。べスと一緒にいるだけではなく、2人で寄り添っている姿を見た、彼の表情で分かった。

「あなたは、ドクター・テイトのお友達?それとも…」マークが今度はエディの方へ向く。

「どっちもですよ。ついでに言うと、そこにいるスコット…ドクター・ロッケンフィールドやマイクともですけど」

「あら、そう」マークは目を細めた。一体、何が言いたいのか。

 今度は身を翻し、スコットとアネット、更にご機嫌になっているリンの面倒を見ているマイケルの方に向かった。

 出来れば、早々に立ち去りたかった。最低限の目的は果たしたのだ。人付き合いの義理も、ジェフから嫉妬を引き出す事も。あの、コリーとかいう男と、クリスの好奇の目に晒される状態から逃げ出したかった。あの2人が、自分の痴態を見ていたのだ。コリーに抱かれて喜んでいる姿を。思わず表情を硬くしたエディを、べスが心配そうに見上げていた。

「どうした?」

「何か心配事でもあるの?」

「大丈夫だよ」べスの腰に回していた腕を、彼女の肩に回し、軽く撫でる。顔を上げると、ジェフがこちらを見ていた。厳しい目つきで。

「ねぇ。やっぱり、ドクター・テイトって怖そう…」

 彼女もジェフの視線に気がついたのだろうか?

「怖くないよ」エディは苦笑する。そう、怖くない。手がかかるだけだ、駄々っ子のように。

「紹介するよ」

「え?でも…」

「おいで」

 スコット、アネットと話しているジェフの元へ、べスの肩を抱いて促す。

「ジェフ。紹介するよ。見かけたことあるかもしれないけど」自分は、堂々と振舞えているだろうか?

 振り返ったジェフは、一瞬べスが怖いと表した表情を浮かべたが、すぐに笑みを返した。ただ、エディにはその笑顔が引きつって見える。

「彼女なんだ。キム・エリザベス。ベスだよ。ベス、やっぱり怖い?」

「よろしく、ベス。ジェフ・テイトです。俺は取って食ったりしないから、大丈夫ですよ」

 白々しい会話だと思う。よくぞ、ベスの事を『彼女だ』と言ったものだ。ベスもさすがに驚いて、エディの顔を再び見上げていた。

(もう、いい…どうにでも、なるようになればいい)

「よろしく、ドクター」

「ジェフでいいですよ。よく、こいつには飯を食わせて貰ってました」

(ジェフ、そんな余計な事を…)

「テックス・メックスが得意なんで、一度作って貰えばいい。それとも、もう食べたかな」

「いえ、ジェフ。まだ…」

「今度、うち来た時にでも作るよ。リクエスト、考えといて」

「じゃあ」先に音を上げたのはジェフの方だった。今度はマイケルとリンの方に行った。さすがにクリスとメリッサの所へは行きづらいらしい。

「エディ…」

 ベスが顔を見上げている。言いたい事は分かっている。不安でもなく、やや当惑の混じった顔だ。急に『彼女だ』などと言ったのだ。当然だろう。

「いいんだよ」改めて、エディはベスに笑顔を向け、彼女の肩を抱いた。

「エディ。今夜、うちに泊まっていかない?一緒にいて欲しいの」


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最終更新日 : 2014-04-11 16:09:30


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