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chapter 2-2

 

「エディ、久しぶり」

 カウンターに出ているエディの姿を見つけるなり破顔したのは、マイケル・ウィルトンだった。ロウワー・イーストサイドの診療所で小児科医をしている。クリスの言っていた『マイク』である。元は、ジェフやクリスと同じ病院に勤務していたのだが、保険会社のいいなりのやり方に嫌気が差し、辞表を叩きつけたのが三ヶ月前と聞いている。小柄な体に、柔らかそうな長めのブラウンの巻き毛を後ろで一つに縛り、誰もが安心して心を開きそうな天真爛漫な笑顔が、彼の最大の特徴だった。

『自分が子供だから、子供の医者になったらしい』とは、マイケルとはメディカル・スクールで一緒だったクリスの弁だが、クリス自身が眼科を選んだ理由も聞いているだけに、2人がなぜ友人同士なのかは、エディやスコット達の中で謎だった。

『自分がファックしたいと思わない奴の体には、最低限しか触れたくないね。第一、一番生死に関わりなさそうだろ?』

「用意できてるぜ、マイケル。取り寄せも含めてな」

 錠剤のシートの束をカウンターの上に並べる。まだ病院の診察が始まって間もない時間の為、ソファにも誰もいない。

「そろそろ慣れたかい?」

「まぁね。たらい回しにされて半狂乱になった親を見ずに済むだけましさ。本当、HMOなんてクソだぜ」

 普段は穏やかなマイケルが吐き捨てるように言う。

「ま、所長が、俺がガキの頃から知ってる従兄だしな。あ、多分クリスマスに子供たち集めてパーティーやるからさ、来てくれよ。プレゼントくれとは言わないけどさ。詳しくは、リンが招待状作ってるから」

 リンは、マイケルの妻である。思春期の少女のトラブルは、彼女の持ち回りらしい。望まぬ妊娠で訪れる者、家出をして保護されたものの、明らかに虐待を受けている形跡のある少女など、男性の手に負えるものではなかった。

「じゃ、俺、戻るわ。スコットやジェフにもよろしく言っといてくれ」

 用を済ませたマイケルは、疾風のように去って行った。

「エディ。今日、ランチ一緒に行かない?そこの角に新しく出来たカフェがあるのよ。チャイニーズ風だけど」

 奥から同僚のアリスンの声がした。

「了解。あ、昨日のグラマシーで買ったチーズケーキ、全く食わなかったんで持ってきたんだ。後で食おうぜ」

「じゃぁ、コーヒーは私がおごるわ」

 エディは、奥にいるアリスンに親指を立ててみせ、ドアを開けて入って来た客に注意を向けた。

 

 

 遅めの昼食を取りに病院を出たところで、ジェフは後ろから肩を叩かれた。

「飯だろ?付き合うぜ」

 クリスの場合、誘いというより、半ば命令のようなものだ。しかしクリスは、ジェフが嫌がらない事を承知していたし、ジェフもまた、クリスの誘いにほっとしていた。早くどこかの店逃げ込んでしまわなければ、ナースに捕まり、下らないお喋りに付き合わされてしまう。

 店はクリスに連れられるまま、古く小さなレストランに入った。その店のお勧めだというラムチョップとフレンチフライ、サラダとコーヒーを頼む。

「あ、あとデザートにプラリネアイスクリームを」メニューを見て、ジェフが追加した。

 ジェフの味覚と食生活は、エディとクリスによって維持されているようなものだった。甘いもの中毒という以外、食べ物には無頓着な為、通いの家政婦の女性が作り置きしてくれる食事以外は、外食ばかりになる。かといって、一人では億劫なので、テイクアウトフードになるのだが、面倒くささが祟り、ついジャンクフードになってしまう。

 キッチンに立つことを厭わないエディが作る食事は、ジェフが見る限り、栄養バランスを考えているようだ。自身の健康管理のためだろうが。比してクリスは、栄養云々ではなく、いわゆる美食家のようだった。自分の欲求に素直なのだが、舌はそこそこ肥えているように感じられた。

「そういえば、昨日の呼び出し、何か特別な急患が入ったらしいじゃないか」

 ソーサーを持ち上げコーヒーを一口飲んだクリスが口を開いた。相変わらずの笑みを浮かべて。

 プラリネアイスクリームを平らげたジェフは、煙草に火を点けたところだった。

「あ?もう耳に入ってるのか。早いな」

「今朝、うちの検査も入ってたんでね」

 昨日の午後、虫垂炎で運びこまれた急患の事だ。ソープオペラの主演女優らしい、とは聞いていたが、テレビをほとんど見ないジェフにとっては、単に女性患者の一人に過ぎなかった。

「転倒して顔をどこかにぶつけたって痣つくってたな、そういえば」

「一応、眼底検査が必要だったらしい。問題はなかったけどね。たまたま俺に回ってきたんだよ。で、だジェフ」

 改めてクリスがジェフの顔を覗き込んで来た。ジェフはぎくりとする。

「ちょっと面白い事を思いついたんだ。今晩、俺の家へ来いよ。牡蠣の良いのが手に入ったんだ。食いながら話そう」

 ジェフの返事を待たず、クリスは立ち上がり、行ってしまった。

 彼はいつもそうだった。エディと一緒の際は遠慮があるのか、そうでもないのだが、ジェフ一人が相手だと、彼の意思の確認もなく、勝手に決めてしまう。それを嫌がっていない自分を、ジェフも自覚はしていたが。

 煙草を吸い終えてから、ジェフは席を立った。ウェイターを呼ぶが、勘定はクリスが済ませていったらしい。まぁ、いい。礼の意味で、彼の好きなラリックの小物でも持って行ってやろう、とジェフは考え、店を出た。

(ハリス・アンドディップルの近所じゃないか?)

 ハリス・アンド・ディップル、エディの勤務先である。久しぶりに、彼の仕事中のポーカーフェイスを拝んでやろう、と思い立った。

 ジェフの知るエディの顔は、ジェフが散らかした部屋を片付けながら怒る顔、鈍感な自分に呆れ返る顔、ベッドの中で眉間に皴を寄せながらも、決して嫌がってはおらず、時折覗かせる夢を見ているような顔。そして、どこも見ていない、空っぽの表情ーーー。

 昨夜、クリスが帰った後、エディがそんな顔をしていた。

「OK!じゃあ、何か好きなトッピングと、ジェノベーゼ・ソースでも持って行くよ」

 エディの声がした。隣には見覚えのある女性の姿。エディの同僚だろう。楽しげに肩を叩きあい、店の裏口へ吸い込まれて行った。

(俺には、あんな顔見せた事ないくせに!)たとえ、これがエディの本来の姿ではなくても。

 昨夜のエディを思い出して心に浮かんだ愛しさは霧散し、もう1本煙草を吸う為、ジェフは病院への道を急いだ

 

 

「メリッサ・エルウッド。今やってる『レストレス・アンド・ワイルド』ってドラマの主演女優だ。まだ撮影自体は残ってるんで、退院後ももうしばらくは、マンハッタンに滞在らしい」

 ケータリング・サービスに処理を頼んだ生牡蠣は、摩り下ろした生姜を載せたものと、レモンがそれぞれ添えられていた。更に、マリネを乗せたブルスケッタ。昨夜と違って、今夜は冷えた辛口のスパークリング・ワインが用意されていた。

 ジェフは、あらかじめ五番街で購入した貢物の箱を、クリスに手渡し、ワインに口をつけた。

クリスは、その包みを開けながら、尚も説明を続ける。

「彼女の付き人…というか、エージェントか。彼は俺を気に入らないみたいだったけどね。確か、マーク…マーク・アーモンドて言ったかな。もろに、オカマのね」

 喉を鳴らしてクリスは笑った。反対にジェフは苦虫を噛み潰したような顔になっていた。昨日、もう少しで腹膜炎を起こすところだったという彼女の手術を終え、出て来た所を弾かれたように飛び出して来たのが、そのマーク・アーモンドだった。メリッサのエージェントだと名乗った彼は、ひとしきり彼女が今大事な時期である事を語りながらも、ジェフに色目を使うのを忘れていなかった。それを俄かに思い出した。

「彼女はウィスコンシン出身らしいんだが、幸い俺の実家にいた家政婦もウィスコンシンのウィノナ出身でね。実家で食べたミートローフの話をしたら、今度食事に行こうって話になったんだが…乗らないか?」

「乗る?何に?」

「彼女の担当、あんただろ?幸い、あのマークは多分あんたがお気に入りだ。違うか?」

 ジェフは肯定する代わりに、ワイングラスを干し、生姜の乗った牡蛎にてを伸ばした。クリスも、レモンを絞ったものを手に取り、顔を上げて柔らかい身を口の中へ流し込む。白い喉がさらけ出され、波打つように動く。

 暗褐色の髪のジェフやエディと違い、クリスの柔らかいウェーブのかかった髪は、明るいブラウンだった。普段は、ジェフのように後ろに撫で付けている。しかし、ジェフが訪れた際には、すでにシャワーを浴びた後なのか、ふわりと顔を囲むように下りている。生成りのシャツは広く胸元が開けられ、やはり白く滑らかな肌をさらしていた。ジェフは、クリスの一連の動きから、目が離せずにいた。

「つまり…」

「つまり?」

「俺とあんたと、、どちらが彼女を落とせるか、賭けようぜ」

「悪趣味だな」

「お褒めの言葉をどうも。単なるお遊びじゃないか。彼女だって、ショウビズの世界の住人だ。素人じゃない。第一、このゲームに参加するなら、俺たちはあるメリットを享受できる」

「何だよ、メリットって」

「しばらくはナースの誘惑も、ゲイの噂も心配しなくていいって事さ」

 クリスの言葉に、ジェフは心の中で手を打った。確かに名案である。あのエージェントが少々面倒だが。

「それについては今日、既にとっ捕まったんだがなぁ」

 もう一つ牡蠣に手を伸ばしながら、ジェフの顔が憂鬱そうに歪んだ。夜勤明けから、急患が来た事で居残りになっていたERのナースに、クリスマスのデートを半ば強引に約束させられていたのだ。

「ちょうどいいじゃないか。しばらくは、それで噂も立たないし、そのナースだって相手がセレブリティ(有名人)なら身を引いてくれるさ」

 楽しそうに言うクリスは、ジェフから受け取ったラリックの繊細なガラスの器に見入っていた。が、静かにそれをテーブルの上に置き、ジェフの座るソファの肘掛へ腰を下ろした。思いがけない行動に、ジェフはつい、びくりとひるんだ。

 その様を口の端で笑うクリスは、ジェフの肩に手を回し、もう一方の手で、ジェフのつけているエルメスのケープコッドのベルトを緩める。

「今は、エディ以外は?」

 クリスの顔が近づき、囁く。外された腕時計は、ラリックの器に掛けられた。時計を外した手がジェフの太腿にかかる。ジェフはされるがままになっていた。

「本気で誘ってるのか?」

 クリスはジェフの耳元で可笑しそうに笑った。その声を捕らえた耳に、暖かく柔らかい感触が触れた。更に囁く声がする。

「エディにばれるのが怖いとか?」

 顔にかっと血が上ったジェフは、クリスの唇を噛み付くように塞いだ。

 

 

 昼休みにジェフが不貞腐れたのと同様、同じ日の夕方、エディが不貞腐れる番だった。

 人の家での食事に外食、と重い食事が続い為、エディはアパートの近くのカフェに寄った。昼の食事も重かった上、チーズケーキまで平らげたのだ。少しばかり胃袋を休ませたかった。

 デリも兼ねたこの店には、作るのが面倒になった時、買って帰るのに立ち寄る。が、あいにくと時間帯が悪く、テイクアウトの方は混み合っていた。チップ代が勿体無い、とも思ったが、列に並ぶのも面倒だった。とにかく、まずは腰を落ち着けて、コーヒーが飲みたい気分だった。やってきたウエイトレスに、コーヒーと日替わりのサラダ、ペストリーを頼み、一息つく。本来なら、あと1時間は早く帰れる筈だった。エディは、昼休みが終って店に戻った時を思い出していた。

『よぉエディ。別嬪さんがお待ちだぜ』

 呑気そうな声をかけてきたのは、遅番で出勤した同僚のダニエルだ。調剤室に入り、カウンターの方を覗くと、見覚えのあるストロベリー・ブロンドの女性が立っていた。

『エディ、ごめんなさいね、お仕事中に』

『君、確かジェフの所のジュディ?』

『ジュディスよ。覚えててくれたのね。ありがとう』

『美人はね』エディは破顔した彼女にウィンクを投げる。ジュディス・ニーマイア。以前、散々ジェフの身上調査のヒアリングをされたのだ。簡単に忘れられる印象ではない。

『今日、仕事終ったら、少し時間貰えない?』

 人の目もある。とっさに断る理由を、エディは思いつけなかった。

『あ、ああ、1時間程度なら』

『よかった!じゃあ、5時半にそこのテディズで待ってるわ』

 ジュディスは、すぐ目の前のダイナーを指名し、帰って行った。

 ジュディスの事は、さすがに誰も冷やかさなかった。彼女がジェフ目当てで、エディに近づいているのは、同僚数人の中でも周知の事だ。結局、仕事が終っても、小1時間ほどの労働をこなす羽目となった。

 クリスマスイブに、ディナーの約束を取り付けたが、好みは何か?最近は遊んでいないのか?好みのタイプは?エトセトラエトセトラ。

 事実を話す訳にはいかなかったが、甘い物中毒と、特に食の好き嫌いは無さそうな事。実家では、誰かを紹介しようとしているらしい、といった事を勿体つけて話すと、彼女はそれなりに満足して、エディを解放してくれた。

(どうせ、押し切られて了承しちまったんだろうに。なんで、俺が巻き込まれるんだ?)

 うんざりした顔で、エディは運ばれてきたペストリーに齧りついた。不満の正体には気づかずに。

 

 

 暗いベッドルームにライターの灯りがつき、紫煙が上がる。

「灰皿は、そこのアクセサリー・トレイを使ってくれていい。他にないんだ」

 うつぶせに横たわるクリスが、物憂げに言う。

 体を起こしたジェフは、答える事なく、イタリアン・ブランドの名を施したガラスのトレイを指で近くに引き寄せた。

(とうとう、やっちまったな…)

 いつかはクリスと寝るだろう、いや、寝たいと思っている自分に、ジェフは気がついていた。またクリスも、思わせぶりな態度ばかりを取る。今夜のように直接的な行動が今まで無かったので、何も起こらなかっただけだ。

(エディには黙ってた方がいいだろうな)

 特にジェフとエディが恋人同士である、という約束をした訳でもない。ありがちな、『なんとなく、いつの間にかそうなっていた』というやつだ。お遊びとして『余所見をするな』という事はあっても、先日の物見遊山のように、エディもジェフが他の男に声をかけられようが気にもかけていないようである。

 また、ジェフはそこで、昼間見た楽しそうに笑うエディの姿を思い出した。

「なぁジェフ。エディが、なんで医者になるの止めたか知ってる?」

 急にエディの名を出され、ジェフは後ろめたさを感じた。

「今、エディにこの事言おうか迷ってたろ?」

 クリスは枕に顔をうずめて笑っている。図星なのだが、肯定するのも癪に障る。ジェフは、答えなかった。

「わざわざ言う必要はないんじゃない?」

 言わなくても、きっとばれるに決まってる、とクリスが考えている事までは、ジェフには思いつかない。

「エディって薬嫌いだったよね?メラトニンとか、FDAのサプリメント扱いの物でも飲まないだっけ?」

「ああ。アスピリン以外で飲んだのを見たのは、二日酔いが酷い時に、制酸剤を飲んでたぐらいだな」

「ふぅん」

「何、考えてる?」

「いや、何か関係あるかなぁってさ。ジェフ、明日、仕事は?」

「宿直」

「じゃあ、まだ時間はあるわけだ。俺は休みなんだ」

 ジェフが短くなった煙草をガラスのトレイに押し付けると、クリスの楽しそうに笑う声がした。


3
最終更新日 : 2014-04-11 15:59:14

chapter 3-1

 

 

 

 週末と週明けは、病院やクリニックに連動して忙しい。立込んできた来たレセプトと格闘している最中に、カウンターを指先で叩く音がした。エディは、顔を上げずに声をかける。

「あぁ?医者が薬局に来て、何の用だ?」

 クリスが立っていた。今日はオフなのだろう。長めのウェーブがかかった髪を下ろしているので、ミッドタウンの病院勤務の医師には、とても見えなかった。

「昨日、マイクから聞いたか?パーティーの件。」

「聞いた聞いた。リンからカード待ち。しかし、なんで、あんなまっとうな奴とあんたがつるんでのか分からんね、俺は」

 昨日訪れていたマイケルは、小さな診療所に移った自分を偽善者かも知れない、と語った事がある。しかし、彼が州立大学からスカラシップを取って、転入でクリスと同じメディカル・スクールに入った事を考えれば、理解出来る行動だ。

『クリスは正直なだけさ。学部生から、あそこにいるんだぜ。普通、楽な道を選ぶよ。ましてや、彼は跡継ぎだしね』

「俺が、真っ当じゃないって事かな?それは光栄。で、暇?」

「に見えるか?あと10分ほど待って貰えるなら、手は空くと思うけど」

 エディは回って来た薬とレセプトをさらにチェックしながら答えた。

「じゃあ、飯行こうぜ。待ってるし」

 クリスの返事を聞いて、エディは手で追い払う真似をした。

「クラークさん。コリー・クラークさん。お待たせしました」

 エディの呼びかけに、ソファに座っていた砂色の髪の青年が立ち上がった。カウンターの前まで来て初めてサングラスを外し、エディが手にした点眼薬と軟膏に見入る。その顔を見て、エディは一瞬ポーカーフェイスを崩した。案の定、さっき後ろに下がりかけたクリスも気づいたようだった。髪の色は違うし、体格も彼の方がややしっかりとしている。しかし、似ているのだ。そのすぐ近くにいるクリスに。

「こちらは点眼薬です。医師から聞いてらっしゃると思いますが…」

 事務的に説明するエディの声を聞きながら、その青年、コリー・クラークの眼光が和らいだ。そうなると、ますますクリスによく似ていた。

 そのエディの視線に気づいたコリーがクリスを見やり、何かに気づいたような顔をした。

「あぁ、気づかれましたか」

 悪戯が見つかった子供のような表情で、クリスが近付いて来た。この顔が曲者じみている、とエディは思った。彼の担当患者は、これが彼の本来の姿だと思い込んでいるに違いない。

「これも所詮、抗生物質の一種ですからね。こういうものは、血中濃度が一定以上保たれればそれでいい訳ですから…」

「クリス!」

 語り始めたクリスを、エディは制止した。

「失礼。私も医者の端くれで、眼科医なもので、失礼しました」

 髪をかきあげながら、クリスは人当たりの良さそうな笑みをコリーに向けた。

「ほぅ」

 目の前の青年は、口の端を上げて、にやりと笑う。せめて彼が血の気が多いタイプでないように、とエディは祈った。

「つい、調子に乗って喋りすぎるのが、私の悪い癖なんです。申し訳ない」

「いや、構いませんよ。で、あなたの病院はどちらです?ドクター…」

「デ・ガーモです。クリストファー・デ・ガーモ」

 エディは置き去りにされ、二人だけで勝手に会話を始めている。さし当たってトラブルを回避出来たことに胸を撫で下ろす。待っている患者の方を見ると、茶番の一部始終を見ていたと思しき老人が、目が合ったことに慌てて視線を逸らした。

「失礼」

 エディは老人に会釈をし、調剤室へ入った。

 本人の努力もあったろうが、挫折する事を知らず、望めば全てが手に入れば、ああいう人格が形成されるのであろう。

 エディは、クリスが羨ましくないといえば嘘になる事を自覚している。自分もこうであれば、と思う部分を持っているだけに、惹かれる所はあるのだが、常に行動を共にするのは危険だ、と理性が警告するのだ。数年前のように、医師になるのを諦めただけでは済まなくなる。そうなりたくなければ、一定の距離をおいて付き合う事だ、とジェフに紹介された時に、エディは決めていた。

 受付の方は、いつの間にか静かになっていた。待っている老人の為、薬の束を持ち、カウンターへ出る。既にそっくりな二人の姿はなく、走り書きのメモが置いてあった。

『デヴィッド・Kで待ってる/クリス』

「マクダウェルさん。お待たせしました」

 メモをくしゃりと握り締め、エディは老人に声を掛けた。

 

 

 果たして15分後、エディはお喋りな眼科医の友人と、中華料理のテーブルを囲んでいた。

(2日連続か…)

「なぁ、エディ。俺の好奇心に応えて貰える?」

「何が?」

 クリスの目は、獲物を見つけた猫のように爛々としていた。抑えきれない好奇心の現れである事が見てとれる。

「なぁ、なんで薬が駄目なんだ?副作用が怖いなんてわけじゃ…ないよな?」

(今度はそっちか)

「あながち、間違いじゃないと思うけど」

 苦笑と共に答える。が、クリスは納得しないだろう。

「一度、スコットに止められた事がある。ウィード(マリワナ)だろうが、合法なものだろうが、あんたには勧めないでくれって」

 クリスは、ウィードという言葉だけ更に低く囁いた。

「何故?」彼の目は笑っていた。

「医者になるのを止めた理由も駄目。薬が駄目な理由も教えない。それで、俺の好奇心が収まると思う?」

 思えない。そもそも誰なのだ。中途半端に、自分の事を彼に教えたのは。しかし、友人関係を続けていく以上、メディカル・スクール中退も、薬を飲まない理由も、いずれはばれてしまう事だ。

「その話をすると、結局医者になるのを止めた理由を話すのと同じだよ、クリス」

 エディの答えに、クリスの笑顔が更に明るくなったように見えた。

 クリスは、薬に耽溺するような馬鹿ではない。ただ、お楽しみのスパイスとして使いたいだけだ。それはエディも重々承知している。自分までは巻き込まれたくないが、下手に隠し通す事で、良からぬ事をされる方が更に恐ろしい。

「ただし、あんた一人に話すんじゃない。ジェフも一緒に、だ。それで良ければ」

「OK、交渉成立だ。奴は今夜は夜勤だって言ってたし、明日の夜、奴の家でどうだ?」

 本人のいない所で、勝手に予定が決まる。まぁいいだろう。おそらくジェフは拒まない。

「じゃ、俺は先に行くよ」

 立ち上がったクリスは、途中でウェイターに声を掛けていた。恐らく勘定を済ませるのだろう。エディは遠慮なく厚意に甘える事にした。

 

 

 

「おかげで謎が解けたよ。遊び仲間の一人から叱られてね。自分とは行かないのに別の奴となら行くのか?ってね」

 クリスは、目の前に座る自分とよく似た男に向かってにやりと笑ってみせた。

 その男、コリーの手にクアーズの缶。クリスの手には、シャブリの注がれたグラス。

「立場上、妙な所には出入りできない。なんで俺がレザー・バーに出入りしなきゃならないんだって、そいつとは喧嘩になったよ」

「で、そいつが見たのは俺だったて訳か。その彼氏とは、どうなった?」

「どの道一度きりにしたかった相手だからね。それを理由に、これっきりにして欲しいって突きつけたさ。面倒はごめんだ」

クリスはコリーの隣に腰を下ろし、彼の広げた脚に自分の脚を投げ出すようにして絡めた。そのまま、コリーの頬にかけた手が制止された。コリーが『何故?』といった表情で見上げてくる。

「どうして?そのつもりで来たんじゃないのか?初対面でけしかけて来たのは、そっちだぜ」

 挑むような笑みを浮かべるクリスにコリーは相好を崩し、そっくりな笑顔を返した。

「ドクター、あんたは自分とファックするのが趣味なのか?」

「そうだと言ったら?」

 コリーはクリスの手を掴んだまま、カウチの背もたれに押さえつけ、噛み付くように唇を重ねた。掴まれていたクリスの手が、やがてコリーの手を払いのけ、彼の顔を首元からかき抱いた。

 しばらくして、唇を離したクリスが口を開く。

「ここじゃ、ゆっくり出来ないだろ?あっちへ行こうぜ。酒も時間もたっぷりある。あんたさえよけりゃね。俺は明日も休みなんだ」

 自身の乱れた前髪をかき上げ、クリスの唇が、淫らな笑みを形作った。

 

 

 

 ペン駅手前で西へ折れ、10番街を南へ下る。エディは自身の愛車、白いホンダ(勿論、中古車だ)に乗って、自宅へ向かっていた。

 ハロウィンも感謝祭も済んだ。クリスマスまではまだ間がある。しかし、人と会うイベント事は、重なる時は重なるものだ。

先日の昼休み、ジャージーから通っているアリスンから、自宅でピザ・パーティーをやるから来い、と言われ、つい承諾してしまった。

 同僚との付き合いも、平穏な生活を守る為の必要悪、とエディは考えている。その辺りがジェフは下手くそなのだ。だからこそ、忙しく、時間の不規則な職業を選んだのかもしれないが。

 エディは、出来る限り自身のプライバシーを守りつつ、『穏やかな暮らし』がしたかった。その為には、あまり気の進まない同僚との付き合いも上手くやる必要がある。ことに、彼女のようなタイプとは。エディはただ、『普通に』暮らしたいと思っていたのだから。

(早く帰ってシャワー浴びたい)

 人に気を遣って、首の辺りがすっかり凝ってしまっている。久しぶりにバスタブに湯をはることも考えたが、溜めているうちに寝てしまう可能性が高そうだ。久しぶりの連休なのだ。明日は部屋の掃除もしたかった。

 アパートのすぐ前の歩道に車を乗り上げ、エディはシートから重い腰を上げた。

 

 

 鍵の開く音が、連続して聞こえてきた。ゆっくり目を開けると、すっかり夜は明けている。玄関の方から聞こえてくる音は、無理矢理開けようとしているものではなさそうだった。それでもエディは、ベッドの中で身を堅くし、サイドテーブルの引き出しにそっと手を伸ばす。以前に買い求めたアーミーナイフを右手に握り、息を潜める。銃に比べれば随分と心許ないのだが、無いよりはましといったところだ。

 足音がリビングを抜け、寝室のノブがゆっくり回ると、予想した通りジェフの姿がそこにあった。

「腹減った。朝飯食わせてくれよ、エディ」

 ため息をついたエディは、何も答えず体を起こし、今ある食材を思い出そうとしていた。

 コーヒーをセットし、その間にベーコンの片面にブラウン・シュガーと粗挽きの黒胡椒をたっぷりとかけ、天板に乗せる。スライスしたパンも一緒に並べて、オーブンへ放り込む。焼きあがる間に、出来たコーヒーとオレンジジュースをジェフと自分の分を用意してテーブルにおいた。甘味の少ない林檎の芯を抜き、残っていたレモンの汁を振りかけておく。

「せめて、電話ぐらいして来いよな」

 あくびをかみ殺しながらも、エディの手際は良い。

「もう世間は朝だぜ。それとも、昨夜遅かったのか?」

「何?焼きもちでも焼いてくれようっての?」

 パンに、ベーコンと林檎を載せ、皿に置いてジェフの前に出す。笑ってみせようとしたが、どうも、うまくない。きっと疲れているせいだ、とエディは思った。

「俺が嫉妬するような事でもあった?」

「…ないね」数秒、視線を明後日の方向に向けてエディは否定した。

 ジェフが夜勤明けの日、こうした強襲があるのは、今に始まった事ではない。昨日クリスから聞いていたので、多少予測はしていたが、ついこの前ジェフの家に泊まったばかりで、間隔が狭いのは珍しい事だった。

 仕事を終えたばかりのジェフは旺盛な食欲を見せ、用意した朝食を綺麗に平らげていく。

 この突然の来訪が、ジェフの後ろめたさと嫉妬の化合物である事は、エディは知らない。

 

 

「この背中から、腰のラインが良いんだよ」

 ジェフは、やもすれば酷薄に見える青い目を細め、隣でうつ伏せに横たわるエディの背中を指でなぞった。その刺激にエディもかすかに反応し、小さく息を吐いた。

「マッチョでもなく、女みたいに肉感的でもない。少年みたいな、さ」

 ジェフの指は背筋を辿り、更に双丘の窪みへ達していた。情熱的な唇が、その動きをトレースしている。

「悪かったな。どうせ俺の体は、あんたと違ってガキっぽいよ。あのさ、言っとくけどぺドフィリア(小児愛)は、立派な病気だぜ、ジェフ」

「よせやい。俺は毛も生え揃ってないようなガキには興味ないよ。勿論、くねくねしたオカマもな」

 体を寄せてきたジェフから、熱だけでなく、硬い感触がエディの体に触れた。

「まぁた、その気になってんのか?夜勤明けで、一発終ったばかりだぜ?あんたのその鉄人的体力には恐れ入るよ」

 嫌味を返したつもりだったが、失敗に終った。体の反応が、持ち主の意思を見事に裏切っている。肌は、与えられる快感に粒立ち、余計な声が漏れそうになるのを堪えるのに必死なのが現実だった。

「体力がなくちゃ、外科医は務まらない…」

 くぐもって笑う声が吐息となって、エディの背中を愛撫するように掠めていく。ジェフの手は、全く動きを止めない。体を支えていた手がエディの胸元に回り、体が反応しているのを確かめると、指の動きは更に大胆になった。

「分かったよ、あんたには、かなわない」

 苦笑したエディはジェフの方に向き直り、片手をジェフの下半身へと伸ばした。もう一方の手が、ジェフの顔を引き寄せるのと、ジェフが喰らいつく肉食獣のようにエディの唇を捕らえたは、ほぼ同時だった。

 ダウンタウンはすでに活動を開始し、街の喧騒が、部屋に響く二人の荒い息遣いをかき消した。

 

 

 まだ、時間は正午を回ったばかりだった。

ジェフはベッドで熟睡している。予定では、家中の掃除をしようと考えていたのだが、寝室は除外せざるを得ない。

 居間のラジオを、ボリュームを調整してから電源を入れる。アナウンサーが、政治の話題の後、州のニュースを報道している。

 不織布のクロスで、灯りのシェードを拭って回り、ソファのクッションを叩いて埃を落として形を整える。ソファにも軽くブラシでをかける。

 ジェフには『所帯臭い』と言われるのだがーーークリスも同様の事を言っているのを、エディはスコットから聞いて知っているーーーこうした家の雑事をしている時が、エディの気持ちを一番落ち着かせた。余計な事も、心の迷いも何も考えなくて済む。

 ドレイノーをキッチンと洗面所、バスタブの排水溝に数滴落とす。ポリッシャーをつけた布でシンク回りを磨く。掃除機が使えないので、キッチンだけでも、モップで拭いておいた。

(カーペットは…ジェフが起きるまで待つか…)

 一通りの掃除を終え、汗を流すため、エディはバスルームに向かった。

 熱めの湯を出し、体を完全に目覚めさせる。石鹸を体に撫で付けるようにして、さっと汚れを落とした。

 最後に熱い湯のまま顔を洗い、改めて自分の体を見下ろす。

(貧弱な体だよな…)

 エディは、バスルームの鏡に映る自分の体を見た。

 首が他人より長く見えるのは、少年の様に華奢な骨格と、撫で肩のせいだ。肋骨が浮くほどでもないが、肉付きは薄く、20代も終ろうとしているのに、髭も薄ければ胸毛の生える気配もない、滑らかな肌をしている。

 ハイスクールでは短距離をやっていたので、太腿にはそれなりの筋肉はついた。下半身全体が、よくしなる鞭かバネのようだ、と陸上部のコーチにも言われた。尤も、そのコーチがゲイであった為に、自覚のなかった当時は彼の密やかな誘惑から逃れる為に、プロムの相手探しに必死になったものだ。その時のパートナーが、初体験の相手だった。

 しかし下半身に比べ、上半身は悲しいかな頑張ってトレーニングをしても、満足いくような筋肉には程遠かった。

常にヨークを大きく取ったシャツを愛用しているのは、そのコンプレックスを隠す為だ。

 しっかりと丸みを帯びた臀部から太腿にかけての筋肉は、全体的に貧弱だと自覚する体型をカバーするまでには及ばず、女受けはそれほど良くなかった。その分、チェルシーからヴィレッジ辺りを用事で彷徨くだけで、傍に寄って来る男は多かった。ぼうっとしていると、男娼に間違われる事も少なくない。

 エディは男達からの誘いを、半ば楽しみながら断っていた。

『行動はそうじゃないが、体型がなんかSissy(なよなよしている)なんだよ。後ろから見てると、この尻が誘ってるようにしか見えない』

 そう笑いながら、よくジェフはエディの下半身を後ろから触りに来ていた。

 同じ華奢でも、クリスは肉付きが薄いだけで、肩幅もあり、骨格は意外としっかりとしていてバランスが良かった。どれだけ脚が細くても、あれだけG.F.フェレのスーツが似合えば御の字だろう(とは言え、既成でなく、オーダーだろうが)。

 スコットは同じ細くとも、スカッシュで鍛え上げた全身は、まるで豹かチータを思わせる体躯だった。周りでいちばん小柄で幼く見えるマイケルは、以前空手をやっていたとかで、意外と筋肉質な体つきをしている。ジェフに到っては、文句の付けようがなかった。当人は肩幅の無さを嘆いているが、あれだけ僧帽筋が発達し、太い上腕二等筋を誇示しているのだ。慎重が6フィートに足りないといえど、十分に美丈夫と言えた・

(所詮、無いものねだりだな)

 改めて溜め息をつき、エディはバスルームを後にした。

 

 

「クリスが?」

「ああ。時間は聞いてない。ただ、今夜って。どうする?先に帰るかい?」

 煙草を吸うジェフの表情が曇る。

「面倒だな。お前の車で送ってくれよ。今日は確か、ハドソン夫人が来る日だ。もう少ししてから帰れば、もう帰ってるだろう」

 ハドソン夫人。ジェフの雇っている、通いの家政婦の女性である。彼女がいなければ、エディは完璧に家政婦と化し、労働が増えていただろう。しかし当のジェフは、自分で雇っておきながら、十代の少年が母親を避けるがごとく、彼女と会うのを避けている。

「じゃ、食事の支度もいらないな」

 クリスに昔の話をするのは、正直気が重かった。しかし、何故同席するジェフがうろたえているように見えるのか、理解に苦しむ。自分には強く出る割に、クリスにはそう出来ないジェフの事を知っているので、いつもの事だ、と自分に言い聞かせる。

「それと、ジェフ。こないだ、来たぜ。ERのナース。ストロベリー・ブロンドの彼女」

「あぁ、ニーマイアか?」

「無責任にデート引き受けるの、止めてくれよな。こっちにとばっちりが来るんだ」

「あぁ、分かってるよ」

 ジェフは煙草を灰皿に押し付け、顔にかかる前髪をうるさそうにかき上げた。

 エディにも、ジェフがジュディスに押し切られて引き受けたであろう事は分かっている。が、たまには自分だってジェフに八つ当たりしたい、とエディは思っていた。

 

 

 エディに言われるまでもなく、ジェフは自分の押しの弱さを自覚していた。 あの日もジュディスに押し切られ、赴任以来の評判を落とさない程度に、優しく微笑んで了承してしまった。予定はない、と答えた自分を呪いながら。

(俺だって、女とも付き合えるさ。でもな…)

 了承したそばから、後悔は押し寄せた。

 ジェフは、元から愛想の良い方ではない。冷たく傲慢そうに見える外見も、損をしている。

 子供の頃は体も弱く、近所のガキ大将にいじめられたり、からかわれたりしたものだった。馬鹿にされまい、とハイスクールに入ってから体を鍛え始め、今のような外見を作り上げた。学生の頃はそれで良かったが、今は周囲の人間の大きな誤解を招いている。ただ、やや引っ込み思案で、自信にあふれて押し出しの強い人間といる時に、発言に気後れしたり、タイミングを逃しているに過ぎない。

 しかし、医者という立場上、媚びるような態度や、優柔不断に見える態度は、デメリットにはなっても、得をする事はない。そういう意味では、院内の誤解は幸いと思っていた。1年掛りで築いた評判、『落ち着いていて、何事にも動じない信頼出来る医師』。仕事面では、その評判に恥じぬよう、努力した。が、女相手の付き合いは、いつまでたっても上手くならない。それを、周囲にばれないようにするのも、これもなかなかに大変なのだ。友人としてのスコットやクリス、恋人としてのエディとの付き合いがどれほど楽か!それを感じる度に、やはり自分は真性のゲイなのだろうか、とジェフは思う。

 ジェフの了承を得て、スキップしそうな勢いのジュディスの後姿を見ながら、ジェフはスラックスのポケットを探り、くしゃくしゃになったマルボロの箱とライターを握り、喫煙可能なカフェテリアの一角へ向かった。病院では出来る限り吸わないようにしていたが、手術後や、ナーバスになっている時は我慢できなくなる。たとえ、吸えない環境であっても、お守りのように手放せなかった。まるで、ライナスの毛布のように。


4
最終更新日 : 2014-04-11 16:01:26

chapter 3-2

 

 PM6:30。エディの車の中で、二人ともが口を硬く閉ざし、沈黙を保っていた。白いホンダは、アッパーイーストへと向かっていた。互いに相手の沈黙の意味を知らぬままに。

 古びている分、歴史を感じさせる褐色砂岩の建物の駐車場に滑り込むと、制服を着たドアマンが近づいてきた。

「やぁ、ティム」

 窓から顔を出し、エディは顔なじみになったドアマンに声を掛ける。ジェフは車を降り、エディはキーをドアマンのティムに渡した。

「ドクター・デ・ガーモに、到着したって伝えてくれるかい?」

「承知しました。ドクター・テイト。ハドソン夫人から鍵と、いつものようにメッセージを預かってますよ」

「ああ、ありがとう」

 ハドソン夫人のメッセージは、ジェフが不在時の業務連絡のようなものだ。何を買い物し、何を作り置きしたか。すぐに食べられる物のリスト、クリーニングに出した物、引き取ってきた物など。ジェフは滅多に目を通す事しかしない。見ても、管理までは行き届かない為、このメモはエディの手によって冷蔵庫の扉に貼られる事となるのが常だった。

 建物内に入ってしまうと、二人の間を再び沈黙が支配した。

 ジェフが鍵を開けると、本人はそのままウォークイン・クローゼットへ、エディはキッチンへ向かう。

「エディ、本当にいいのか?」

「何が?」

 戻って来たジェフの手からメモを受け取り、冷蔵庫の扉にマグネットで留める。

「その、昔の話さ。俺が聞いた時も言わなかったじゃないか」

 ジェフの言葉を背中で聞きながら、冷蔵庫を開ける。ラップをかけたミモザ・サラダ、ロースト・ビーフ、ピーナツ・バターを使ったソースに漬け込んだ、鶏肉と野菜のインドネシア風グリルの用意。さらにレンジの上には、まだ温かい牛肉と野菜の煮込み。冷蔵庫のサワー・クリームは、古い物は廃棄され、新しい物に変えられていた。シチューに合わせてくれたのだろう、そこそこの値段と思われる赤ワインが、籠に入ってダイニングテーブルに載っていた。

「あんたは、『お前が話したくないならいい』って言ったろ?クリスがそれで引っ込むと思う?」

「思わない」

「そういう事さ…」

 ため息をついて、シチューの入った鍋を火にかける。足りなければ、カンパーニュのハーフカットが一緒にあるから、それでいいだろう。ついでに、ジェフの朝食用に、ロースト・ビーフも切っておけば、サンドイッチが出来るーーーーー。

 エディは、ジェフやクリスのいう『所帯じみた事』を考えながら、自分がナーバスになっている事を自覚せざるを得なかった。目の前の嫌な事を考える代わりに、『所帯じみた事』を考えて逃避しているのだ。

 そして、来客を告げるブザーが鳴った。

 

 

 

 

 

「本当に昔の事だ。メディカル・スクールに進んで、スコットと知り合って…。当時はまだ、サウス・ブルックリンのアパートに住んでた。安いけど、ぼろぼろでさ。金は親に借りてたけどね。寮は嫌だったんだ。管理されてるみたいでさ。分かるだろ?」

 クリスの前には、ハドソン夫人が用意したボルドー。ジェフとエディは、食事中からウォッカ・マティーニ。既にリビングへ移動していた。

 

 エディが『彼』と出会ったのは、春学期が始まってすぐの頃、学内のカフェテリアの中だった。『彼』、リチャード・ブラックは、いつも一人で、そこにいた。すぐに判別がついたのは、さほど目立つ風貌ではなかったが、両親が東欧からの移民であった為、その顔立ちのせいもあっただろう。後になって考えてみれば、彼の方が先にエディを見つけて、目を付けていたのかも知れない。気づけば彼は、常にエディの視界に入る所にいた。

 スコットとはカリキュラムが全て同じではないため、週の半分はエディは一人で昼食を取っていた。他に友人がいないではなかったが、誰ともつるむつもりがなかったのが正直なところだった。そんな時に限って、彼の姿は必ずエディのすぐ近くにあった。

 いつしかエディは,一人の際には彼の姿を探すのが習慣のようになっていた。その頃には彼の名前と、薬理学のコースを取っている事までは、噂で耳にしていた。

「ハイ。よく会うね」

 話し掛けて来たのは、リチャードの方だった。コーヒーを片手に、エディの向かい側に座った。

「俺はリチャード。リチャード・ブラックだ。リッチーでも、リックでも、好きに呼んでくれ」

「リッチー・ブラックモアのリッチーかい?」

「そうだ。君は?」

「エディ。エディ・ジャクソン」

「エドワード・ヴァン・へイレンのエディ?」

「そう。あんたも薬理学コースなんだろ?」

「よく知ってるな。まぁ、これだけ顔合わせてりゃ、分かるだろうけどな」

「の割りには、クラスでは見た事がない」エディは、にやりと笑ってみせた。

「俺は留年して、ここは長いからね。出なくていいクラスが多いのさ。ま、さぼってるって言った方が正しいがね」

「留年て、どの位?」彼はエディより2、3歳は上に見えた。

「さぁね。居心地がいいから、モラトリアムさせて貰ってるのさ」

「居心地がいい?俺は早く出たいね。ラテン語は、舌を噛みそうだ」

 顔を顰めるエディを、リチャードは興味深げに見ている。

「ところでな、いきなりだが、誰か部屋を探してる奴を知らないか?」

「ルーム・シェアなら…」

 学生課の掲示板に、と言いかけて、エディは止めた。

 

「その頃の俺は、好奇心の塊のようなもんだった。ガキの頃、行くなって言われてる所に限って行きたくなるだろう?明らかに危ないって分かってるとか。そういう意味でも、クリス、俺はあんたの好奇心の強さを責める事は出来ないだろう。奴は学部生の頃からスカラシップを受けてるって割りには、金に不自由してる様子もなかった。時々、コークのやり過ぎで、鼻血出してた位だしな」

 クリスもジェフも、自分の顔を注視しているのを、エディは感じていた。が、気恥ずかしさから、エディは自分の持ったグラスから視線を外せなかった。

「奴が言うルームシェアの相手に俺は自分から立候補した。場所も大学に近かったしな。スタジオみたいな所で、広いだけで何にもないような所だったよ。スクォッター(不法占拠)みたいな感じだったのかもしれない。家賃は、ただ同然だった。本当は、奴はルームメイトを探してたんじゃなく、奴の実験台を探してたんだ」

 エディは、引っ越すから手伝え、とスコットを呼び出した際の彼の様子を思い出していた。手伝い自体は快諾したものの、ルームシェアの相手の名前を聞くと、スコットは、その大きな目を更に大きく見開いて絶句した。

「本気か!?あの『有名人』はろくな噂を聞かない。人を殺した事もあるって話もあるくらいだ」

「本当に殺人犯なら、今頃大学にいられる訳ないだろ?」

 スコットは、自身の友人に対しては確かに熱血でお節介だが、基本的には私生活に干渉するタイプではない。

「悪い事は言わないから、止めた方がいい」

 スコットの口調は、いつになく真面目だった。

「得体の知れない奴と一緒に住むなんて、正気の沙汰とは思えない」

「奴が犯罪者だって分かったら、すぐに逃げてくるさ」

 笑いながら聞き流すエディに、スコットが最後に言った。

「俺が怖いのは奴じゃなくて、お前のその無鉄砲さだよ…」

 その言葉を後悔と共にエディが思い出したのは、半年後の事だった。

 

「ウィードくらい吸った事はあったけど、薬はね…。メディカルに進むのを決めてたから、下手に手を出したくなかった。それは、今も変わらない。それでも最初の一ヶ月は、何事も無く過ぎた。俺はスコットにも、それ見たことか!って奴の心配性を笑い飛ばしてた。調子が狂い始めたのは、翌月辺りだろう。リチャードが、俺を被験者にしたいって言って来た。『危なくないなら』って条件で了承した。実際には、実験てのは何でもリスクが付き物で、危険じゃないなんてのはあり得ないんだが…俺もガキだったからな。好奇心には勝てなかった。まず始まったのは、普段のありえない集中力と不眠だ。次は倦怠感。不眠は結構長く続いたよ。始めの時点で、ああ、何か盛られたなってのは予想はついたから、医者にもかかれない。血液検査で、一発でばれちまう」

「アンフェタミンか?」クリスが口を挟む。

「あったかもな。あと、アトロピンとかな。バルビツール系の眠剤もあったかもしれない。俺は、あれは全く効かないんだ、気持ち悪くなるだけで」

「あれは、ガキが使うもんだろ」

「クリス!」

 ジェフは、挑発的なクリスの言葉に動揺を見せた。

 エディが、リチャードの演出するショウの主人公となった夜。やはり眠れずに、以前に飲み残したワインを取りにキッチンへ行った。

 冷蔵庫の扉を開けた際の明かりにぼんやりと照らされ、リチャードがこちらをむいて座っているのが見えた。

「どうした?眠れないか?」

 リチャードは、優しくエディに微笑んだ。彼の前に、エディの探していた安物のワインのデキャンタがあった。

「俺の大事な被験者に乾杯。眠れない夜に乾杯」

 リチャードが、ワインの入ったゴブレットを肩の高さまで掲げてみせる。

「酔ってるのか?」

「予告なしに始めたのは悪かったな」

「俺がイエスと言う前から始まってたんだろ?」

「その通りだ。そうでもしないと、協力してもらえない、と思ったんでね」

「今更だな。協力はする。するから寝かせてくれよ。疲れてぼろぼろなのに眠れないなんて、地獄だ」

 その言葉に、リチャードの表情が輝いた。

「それだ。それが見たいんだ」

 リチャードは立ち上がり、自分より少し背の低いエディの両肩を掴んだ。

「心配は要らない。殺したりなんてしない。ただ、君にいろんなものを見せたいだけだ…」

 リチャードの声は小さく、祈るような、それでいて、女を口説く時のように優しいものだった。

 

「宣告されてから使われたのは、幻覚剤の一種だと思う。あと、どっから仕入れて来たのか分からない、セックス・ドラッグだな」

 更に、シリコン製の耳栓をされ、自分の体内の音しか聞こえない状態で、ベッドに寝かされた。しばらくすると、リチャードと、誰か知らない女、おそらくは娼婦ーーーにしたら身なりが良かった。どこかのエスコート・サービスから調達してきたのだろうーーーがやって来て、3人で絡み合った。体中がかっと熱くなり、敏感な粘膜に強烈なむず痒さを生じていた。聞こえるのは、自分の息遣い、思わず漏れる自分の声。相手の汗や体液の匂いも感じるというのに、現実感はなかった。

気が付けば、リチャードと二人で女を責め立てていた筈が、エディがベッドに組み敷かれていた。目の前で、女の形の良い臀部が揺れている。彼女はブロウ・ジョブに精を出していた。そしてリチャードは、エディの腰を抱え、後ろを貫いていた。初めての事にも科関わらず、痛みは感じられなかった。それどころか、一度放出してからも体の中の疼きは消えず、指一本動かしたくない程の疲労を感じながらも、一瞬の放出の快楽を求め、悶え続けた。自身の荒い息と喘ぐ声を聞きながら。

 

「しばらくは、リチャードのお気に入りは、その訳の分からないセックスドラッグだった。それこそ、毎晩奴と、たまにプロの女も入れて、しばらくは、やりまくってた。大学も行きながらね」

 エディは自嘲気味に笑った。ジェフは目を逸らし、クリスはにやにやしながら、エディを見つめていた。

「当然少しの間、インターバルはあった。体に耐性がつくのを避ける為にね。薬が抜ける時の気持ちの悪さは、いつまで経っても慣れなかったな」

 聴覚の次は視覚だった。極めてノーマルなストレートな恋人同士であっても、ちょっとしたスパイス程度に目隠しをしてメイクラブに及ぶ事はある。エディの場合も、そうだと思っていた。相手の女は全く微動だにせず、何の反応もしなかったが。

終ってから自分の部屋に押し込められたエディは、リチャードの笑い声を聞いた。始めは押し殺したような。やがて聞こえてきたのは、、我慢しきれなくなったような、高笑い。尋常ではない、狂気を帯びているかのような響きだった。

 そこから暫くのインターバルの後、最終回の幕が上がった。

「部屋の中央に両手首を縛られて、吊るされた女がいたんだ。天井からぶら下げた滑車にね。俺からは後姿しか見えなかった。傷んだブロンドといい、背中のそばかすといい、見覚えがある気がしたが、覚えちゃいない」

「その時は、目隠しも耳栓もなしか?」クリスである。

「ああ。その代わり、多分クラックあたりじゃないかと思う。大昔、バッドトリップした時と、記憶がよく似てた。そこから先は、朧気にしか覚えてない。俺は後ろから、リチャードは前から、二人で女をやってた。でも、女は全く反応しないんだ。始めは眠らせれてるか何かと思ってた。覚えてるのは汗と…金属じみた匂いと、手にまとわりつく、粘っこい液体の感触…」

「まさか、それって…」

「そうだ、ジェフ。手が濡れたんだ。見たらさ、赤いんだよ。あの独特な金属臭は分かる。さすがに腰が抜けそうになったよ。リチャードが、真っ赤になった手を俺に差し出してた」

 ジェフが口元を押さえた。

「とにかく逃げ出そうと思って、そこら中にあるものを、全部奴に向かって投げつけた」

 

 その時、へなへなと座り込んでいたエディは、必死の思いで立ち上がり、手当たり次第に投げつけ、自分の部屋に飛び込んだ。ドアが開けられないように、ソファやテーブルなど、動かせる家具を全てドアに寄せ、その場に座り込んだ。極度の緊張感に耐え、どの位時間が経過したのか分からなかった。耳を済ませても、エアコンのモーター音しか聞こえなくなっていた。

 いつのまにか、夜の明けるのを待たずして、エディはその場で眠ってしまっていた。

「気づいたら、昼近かったな。手のひらは、赤黒いままだった。奴の気配がないのを確認して部屋を出たら、テーブルの上に、ポラロイドが1枚置かれてた」

「それって…」恐る恐る、ジェフが尋ねる。

「そう。その女の写真。正面から撮影した、ね。まるで、検死したみたいに、綺麗に開腹してあった」

「じゃあ、1度目の目隠しの時も、そういう事か?」

「恐らく、ね」

 さすがにクリスは豪胆なのか沈黙を守っていたが、顔色は良くないものの、ジェフに比べれば平然としていた。

「何ヶ月間だ?」

「半年…かな」

「なら、それで済まなかったんじゃないのか?」

 上目遣いにエディを見るクリスは、アンコールを要求している。

「そうだな」

 

 それからエディは簡単にまとめた荷物を持って、部屋を出た。地下鉄の急行に乗り、マンハッタンを南下し、トライベッカまで『逃げた』。安モーテルを転々とし、時には町で拾われた男の部屋で世話になり、一ヶ月はロウワーマンハッタンに潜伏した。

 大学の授業に復帰したのは、その後のことである。

「復帰後の最初に受けた授業が悪かったな。婦人科の解剖だったんだ」

「フラッシュバックか?」クリスは、相変わらずにやにやしている。

「ああ。起き上がれなくなって、早退した。で、そのまま大学はドロップアウト。どの道、授業もあれだけ休めば留年は免れない。改めて、薬剤師の免許だけは取ったけどね」

「確かに、俺より遥かに無鉄砲だな」

 クリスは口の端で笑いながら、ワインを新たに注いだ。

「それは否定出来ないな。若気の至りにしちゃ、少々ワイルド過ぎた。だから決めたんだよ、これからは平々凡々に生きるって」

 気づけばジェフの手が、エディの手を握っていた。いつになく優しい目でその手を見つめ、軽くエディの手の甲を叩いた。

「俺の話は、これでおしまい。気は済んだかい?」

 エディはオーディエンス二人に対し、わざとおどけてみせる。オーディエンスの片割れ、クリスは肩をすくめた。

「じゃ、用は済んだところで、俺は引き上げるよ」

 握っているジェフの手を軽く握り帰して、手を離した。このままここにいても、クリスの更なる好奇の目に晒されそうだ。それだけは、ご免こうむりたかった。もし、クリスがここにいないなら、話は別だが。もし、いないなら…?

「お前、車は?」

「明日取りに来るよ。明日も休みだからね」

 エディはソファから立ち上がった。いつもなら、『自分も』と立ち上がるクリスは、その様子が見られない。エディの心の中に、暗い何かが改めて湧き上がる。

 ジェフとクリスは、玄関までエディを見送りに来た。

「ティムに車を呼んでおくよう伝えとくよ」

「分かった」ジェフと軽いハグを交わす。クリスは手を振るだけだった。

 エレベーターを降りると、ティムがタクシーを呼び止めるところだった。

「ちょっと、待っててくれるかい?」

 一声かけて、エディはジェフの部屋の窓を見上げた。ちょうど、リビングに面した大きな窓がある筈だった。そこに、ほっそりとしたシルエットが写る。クリスだろう。

(やはり、そういうことか)

 エディは小さく舌打ちし、ティムにチップを渡して車に乗り込んだ。

 普段のクリスなら、用が済めばとっとと帰るのだ。それが、わざわざ居残った上、エディの姿を窓から見ていた。

『ジェフをもらうよ』クリスがそう言っているかのように思えた。

(勝手にしろ!)

 エディは、荒々しく背もたれに体を倒した。初めて自覚した、嫉妬という感情に蓋をして。

 

 

「さて、わざわざ知らせなくても、許可はもらえたようだぜ」

 リビングのカーテンを開け、窓から通りを見下ろしていたクリスが言う。声はかすかに笑っている。

「どういう事だ?」

 自分の為に、ジェフはウォッカマティーニをもう一杯作った。エディの話を聞いて、神経がまだ高ぶっている。

 先刻までエディがいた場所に、クリスが腰を下ろした。

「あんたと寝ても良いって事さ」

 ブラックデニムのパンツ越しにも分かる、すらりとした脚を、ジェフの膝の上に乗せる。ジェフは意識してしまうが、退けようという気にもならなかった。それは、エディから聞いた話のせいだと言い切るには苦しかった。

「あんな話の後に、よくその気になれるな」

 ジェフが呆れた声を出す。

「逆じゃないか?あんただって興奮してた筈だ。違うか?」

 スリップオン・タイプの革靴がカーペットの上に落ち、クリスの裸足の指先が、ジェフのフラノ地のパンツ越しに股間をまさぐった。

「怖がりながらも、自分もあんな状況でエディを抱いてみたいって想像してたろ?」

 からかうように笑うクリスの指の動きは、止まらない。彼の言う事は図星であり、それを証明するかのように、ジェフの体はしっかりと反応していた。クリスの指の動きにではない。彼の言った言葉に対してだった。


5
最終更新日 : 2015-04-30 12:19:10

chapter 4-1

 
 
 
 街は既にクリスマス・ムード一色だった。エンパイア・ステートビルは、先日からイルミネーションを赤と緑に変えた。デパートにしろ、専門店にしろ、一部の敷居の高い店を除けば、「SALE」の文字と共にクリスマスの飾りつけでウィンドウが埋まる。街のあちこちで煌びやかなイルミネーションが輝き、ミッドタウンにはクリスマスの買物客が歩道を溢れそうに歩いている。
 去年のクリスマスは、エディは同僚達のパーティーに呼ばれ、その後はスコットに呼び出された。初めてジェフに出会ったのも、その時だ。
 メディカル・スクールに入学して以来、実家にも帰っていない。それどころか、クリスマス・カードすら送っていなかった。せめて生きている、という証に数年ぶりに送ろうかと考える。
 ランチ・タイムを過ぎ、ミッドタウンの歩道は変わらず混んでいる。そこで働く者、観光客、買い物で訪れた者。歩くスピードで、分かれているかのようだ。
 普段より時間のずれた昼休みが、エディは好きだった。独りになれる上、どこのランチョネットに行っても、さほど混雑しておらず、ゆっくりくつろげる。
 ジェフの家での『打ち明け話』以来、ジェフにもクリスにも会っていない。あれから、ほぼ1週間。日々の雑事に追われ、新年の休みの計画を建てたりする事で、どんどん日は過ぎた。彼らからの連絡も入らない。
 しばらく、新年の休みは何処にも出かけていなかった。たまには、アムトラックに乗って、暖かい街まで贅沢な長距離列車の旅もいいかもしれない。
 ゆったりとした気持ちで考えながら店に戻ると、久しぶりの来客が待ち構えていた。スコットの姿が、カウンターの前にあった。エディの同僚、べスこと、キム・エリザベス・マッケンジーと何やら話し込んでいる。
「よう、スコット。アネットに言いつけるぞ」
 楽しげにひそひそ話しをしている二人に声を掛ける。小さく悲鳴をあげて、べスがうろたえたた様子を見せた。
「あ、あ、あらエディ。そんな事言ったらスコットに失礼よ。あなたを待ってたのよ」
 そそくさと、逃げるように調剤室へ行ってしまう。
「どうかしたの?彼女」
「いや、何も」
 スコットはにやにやしている。きっと何か隠しているのだろう。何か、エディにとっては、良からぬ事を。
「で?」
「何が?」
「何もなくて、お前が来る訳ないだろ?用件だよ、用件」
「ああ。リンからカードを預かって来てる」白い封筒が差し出された。マイケルの言っていた招待状だろう。
「リンからなんでお前の所行くんだよ」
「アニー経由」
 スコットは口をへの字に歪める。マイケルが妻のリンに頭が上がらないのと同様に、スコットも同棲しているガールフレンドのアネットには逆らえない。この二人のタッグに勝てる者は、エディの知る範囲では、誰も存在しない。
「で、アニーからも伝言。たまには飯食いに来いって。俺らがクイーンズに引っ越してから、足が遠のいてるからな、お前は。今夜は?」
 特に予定が入っている訳ではない。エディは肩をすくめた。
「了解」
「じゃあ、もう一人ゲストがいるから、お前の車で連れてきてくれ」
「え?」
「じゃあな」
 エディが聞き返したのも聞こえなかったかのように、スコットはそそくさと出て行った。追いかけようとしたが、処方箋を目の前に差し出されたため、断念せ得ざるを得なかった。
 スコットが頭が上がらないのと同じく、エディもアネットには頭が上がらない。彼女は、スコットが何も言う前から、ジェフとエディの関係に気づき、理解を示してくれた。店の同僚達に比べれば、はるかに気楽ではあったが、もう一人のゲスト次第では、気疲れする夜になることは確実だった。
 
 
「エディ!」
 タイムカードのパンチングをしているエディに声をかけてきたのは、べスだった。
キム・エリザベス・マッケンジー。エディより2つか3つ年下で、頭一つ分ほど彼より小柄だ。よくエディを外食だ、ホーム・パーティーだと引っ張り回すアリスンに比べれば、店では目立たない存在である。栗色の肩までの真っ直ぐな髪と同色の目は、時折気弱げに見えるが、陰気という印象ではない。ただ、おとなしそうな雰囲気である。
「スコット…ドクター・ロッケンフィールドの言ってた『もう一人』って、私なの」
 『私』というところで、べスは微かに口ごもった。久しぶりに、スコットのお節介が発動したと見える。
「ドクター・ロッケンフィールドなんて言われたら、誰のことか分からなかったよ。スコットロックだろ?了解」
 エディは、自分で『同僚用』と名づけている笑顔を向け、愛車のキーをべスに見せた。
 店の裏側にある、従業員専用の駐車スペースにべスを誘い、助手席のドアを開ける。
「ごめん。ちょっと煙草臭いかも知れない。こないだ、ジェフ…ドクター・テイトを送って行ってから、掃除してないんだ。奴は他人の車で遠慮なしに煙草吸いやがるから」
 エディは苦笑しながら、車を発進させた。混み合ったパーク街を北上し、60丁目で東へ曲がる。ブルーミングデイルズの前を抜ければ、クイーンズボロ・ブリッジは、すぐそこだった。
 まだ日は完全に沈みきってはいないが、最初からミッドタウンを東に出て、イーストリバー沿いに走った方が、女性受けは良かったかもしれないとエディは少し後悔した。べスからは逆方向にはなるが、マンハッタンの摩天楼から覗く夕日と、対照的な対岸のクイーンズを眺めるには良かっただろう。
(ま、最初からサービス精神旺盛でもな。あまり期待させるのも良くないだろう)
 橋を渡っている間中、べスは子供のようにはしゃぎながら、イーストリバーを行きかう船を眺めていた。
 
 
 スコットと、そのガールフレンド、アネット・フェルナーの住まいは、クイーンズ北側の住宅街にある、家族向けのアパートだった。建物自体は古く、エレベーターもついていなかったが、部屋は2階なので、将来もさほど苦痛ではないだろう。内装は、ほとんどアネットが手がけたのであろうが、壁紙が全て貼りかえられ、綺麗になっている。造りつけの暖炉の上にはスコットの家族、アネットの家族、そして二人の写真。出窓にはシクラメンの鉢植えが色違いで3個並んでいる。
 エディとべスが到着した時には、リビングまで香ばしい匂いが漂っていた。やや広めのダイニングに通されると、、アネットはキッチンで作業の真っ最中だった。
「座ってて。もうすぐ出来るわ。ダーリン、飲み物をお願い」
 彼女には、手が何本あるのだろうと思わせる手際で、料理がテーブルに並ぶ。
「エディ、べス、何にする?」
「俺、ビールだけにしとくよ」
「じゃあ、白ワインを頂くわ」
「OK」エディにはミラーの缶が、べスには、グラスに注がれたリースリング。
 バーテンを命じられたスコットが用意をしている間に、4人分のキャベツのスープが給仕され、温められた芥子の実のついたロールパンが出され、ハーブ入りバターを塗ったチキンの脚と、グリルしたじゃがいもとたまねぎの載った大皿が、テーブルの真ん中に鎮座した。更にシーザーサラダが出て来る。
 会食自体はスムーズなものだった。一番ありがたかったのは、4人の中で最も社交的なアネットの存在だった。彼女が主に会話を転がし、ややシャイなべスの言葉数を増やし、エディとスコットの負担を軽減した。
 当たり障りのない話題。クリスマスの予定、新年の休みの計画、新しくオープンしたレストランの評判、まだ終りそうにない、中東への派兵。給料が上がらないことへの不満と、土地の高騰。海外旅行に行くなら、ヨーロッパとアジアのどちらか、再開発が進む、リトルイタリー北側の話。
 デザートには、ベイクド・アラスカがコーヒーと共に供された。
「さすがに2人の時には作らないわよ。頑張っちゃった」
 アネットは出来映えにご機嫌だった。溶けてしまわないうちに、きれいに平らげてしまうと、後片付けをしながら女同士のお喋りに興じる二人と、邪魔者扱いされ、リビングへ追いやられた男二人に分かれた。
「で、今回は何のお節介だよ」
「俺が自分から仕掛けたんじゃないぜ。オファーがあったからだ」
「オファーって…」一瞬考えて、エディは額を押さえた。
 エディはそれほど女にもてる訳ではなかったが、外面の良さから、こうしたアプローチは忘れた頃にやってくる。まだ、アリスンに依頼されるより遥かにましだった。彼女は、店の情報通でもあり、広報係でもある。
「お前とべスが上手くいこうがいくまいが、俺には責任はない。それは彼女にも伝えてある。きっかけを作る役割って事で、引き受けたまでだ。ま、お前の友人である俺を選択した時点で、彼女は馬鹿じゃないと思ってるんだが」
「それは、分かるよ」
 ミラーの缶を飲み干し、エディは苦笑した。
「最近ジェフの動きが、やたら変だしな。聞いたか?」
「何の話だ?」
 スコットが小さく『くそっ』と呟いた。
「いや、奴がお前に言ってないんなら、本気かどうか分からんが…」
「クリスがジェフを寝取った件か?」
 エディは小さな声で自嘲するように言った。スコットが舌打ちして視線をそらした。自ら口にしたエディは、微かな胃のきしみを感じていた。
「やっぱりそうだったのか。いいのか?それで」
 まるで、細波のように、顔にこわばりを感じるが、すぐに戻す。しかし、笑顔は皮肉なものにしかならない。
「いいも何も。奴が選んだことだ。別に奴と俺とで、余所に転ばない約束はしてない」
「なら、『彼女』とも付き合ってみるんだな。俺は悪くない組み合わせだと思ってるぜ」
 エディは、ふん、と鼻で笑って返事を誤魔化した。
「とりあえず、マイクのとこのパーティーには、彼女も呼んだ。例によってアネットからリンに連絡はいってるから。お前も来れるんなら、彼女のエスコート役はお前だ。ジェフが何と言おうとな。」ジェフの下りだけ、スコットは更に声を潜めた。
「ジェフはその日、ナースとデート」
「ああ、あの!!」
 スコットははじけたように笑い出した。スコットとジェフは外科だが、、ジュディスはERである。彼女の熱の上げっぷりは、相当有名らしい。
「なにしろ1年越しだからな。彼女の執念にも恐れ入るよ。そうか」
 スコットは、まだ笑っている。
「いずれにせよ、あと1週間だ。マイクは、もうお前を頭数に入れてるみたいだぞ子供相手だから、夕方には解散だ。俺はアネットと食事に行く。お前はお前で、その後どうするか考えとけよ」
 どうもエディには選択の余地は無さそうだった。
「分かった。考えとくよ」
「エディ!べスが帰るって!送ってあげて!」
 キッチンからアネットの声がした。リビングの男二人は顔を見合わせて、立ち上がった。
 
 
 べスの住まいは、グラマシーの南側、イーストビレッジ寄りだと聞いていた。帰りは橋を越え、すぐに2番街を南下した。国連本部を過ぎると、もう一度42丁目を曲がって、東へ出る。イーストリバー沿いに南下した。
「ちょっと遠回りかもしれないけど、ドライブにはいいんじゃない?」
 エディはべスに向かって軽口を叩く。すぐにヘリポートが見えてきた。川沿いに並ぶ大きな医療センターと、病院の向こう側に、ミッドタウンのビルの灯りが見えている。特にべスは何も言わないが、突然のドライブを楽しんでいるであろうことは感じられた。
「ドクター・ロッケンフィールド…スコットって、親しみやすい人なのね。大きな病院のお医者さんって、もっと気取ってるかと思ってたわ」べスの顔はエディの方を向いていたが、視線は窓の外に向けられていた。
「あいつは特別かもな」友人の話題には、エディの表情も和らぐ。
「同じエディのお友達でも、ドクター・テイトはあんまり喋らないし、なんだか怖い気がして…あまり、うちに来ないからいいんだけど」
 エディは思わず噴出した。
「あいつが怖そうなのは、まさに『見掛け倒し』だよ。いつか分かる」
「でも、ほら、もう一人。ほっそりした、もう少し背の高い…」
「クリスかい?クリス・デ・ガーモ。」
「そう!あの人は…何だか苦手だわ。本音が見えない気がして」
 確かにスコットの言う通り、彼女は馬鹿ではない。ただし、エディに関しては、彼女も買いかぶっているようだ。
 東14丁目に差し掛かったところで、ハンドルを西に切る。この辺りがグラマシーとイーストビレッジの境目だ。
「1番街を入って、シティ・バンクの前でいいわ。そこから歩いてすぐなの」
「歩くって、どの位?いくら住人でも、あまり早い時間じゃないんだぜ。一番近い通りまで送るよ」
 これはサービスでもなんでもない。相手が誰であれ、申し出ることだ。
「じゃあ…シティ・バンクを過ぎたら、右に曲がって、2ブロック先まで。そこからは目と鼻の先よ。車が出られなくなっちゃう」
「OK」
 遠慮と気遣いの攻防は、この位にしておいた方が良さそうだった。二人だけで話すのは、今日が初めてだろう。これ以上は彼女が恐縮してしまう。
 車を路肩に止め、サイドブレーキを引くと、べスがエディに向き直っていた。
「今日はありがとう」
 ほんの一瞬の事だった。彼女の唇がエディの口許を掠め、べスは大急ぎで車から降りた。エディが呆気に取られている間に彼女は数メートルを走り、振り返って手を振っていた。エディも振り返すと、べスはすぐ隣の建物に入っていった。そこが彼女の住まいなのだろう。
 彼女の性格を悪くない、と思いながらも、エディは気が重くなるのを感じていた。自分の中で明確な言語化はされていなかったが、エディの気持ちは、彼女に対しては良い友人の域を出ず、寝取られた鈍感男に向いていた。それを認められずにいることが、自身の気持ちを更に重くしている自覚は、全くといって良いほどなかった。
(彼女なら、明日からも急に態度が変わることはないだろう)
 特に何か言われたわけでもない。クリスマスまでは、何も考えずにいられそうだった。
(帰ったら、忘れずに冷蔵庫にいれよう)
 リアシートには、帰りにアネットから渡された、チキンの残りと玉ねぎをロシア風ドレッシングで和えたサンドイッチがあった。逃避のための所帯じみた思考に没頭し、エディは車を西へ走らせた。
 
 
 日勤を終えたジェフは、照明を落として薄暗くなった廊下を歩いていた。
 入院患者のいる病棟と違い、外来の廊下には人影が全くといって良いほどない。遠くからERの様子が聞こえてくる位のものだ。もう少し時間が経てば、病室をこっそり抜け出した患者の姿もあるが、ちょうど夕食も終ったばかりで、、消灯にはまだ時間があった。薄暗い中、ジェフの足音だけが響いていた。
 と、数メートル先に、見覚えのあるシルエットを発見して、足を止める。非常灯のおかげで、なんとか相手の顔が識別できる。コンタクトも装用中なので、知り合いを無視する無礼も働かずにすむ。
 前方にいる人影は、ジェフよりもやや背が高く、ほっそりとしておりーーーが、何かどこかが違う気がする。彼の知る男、クリス・デ・ガーモなら勤務先に非番であってもあんなラフな格好ーーーレザージャケットにダメージ・ジーンズーーーでは来ないだろう。しかし、どう見ても彼だ。
 クリスと思しき人物は、ジェフの姿を視認したが、すぐにそ知らぬ顔でサングラスをかけ、傍らのベンチに腰を下ろした。
(あれはクリスだよな?けど、なんで俺が無視されるんだ?)
 先日、エディが帰ってからの二度目の情事の後も、特に変化は無かった筈、とジェフは思い返す。が、つい、『何か自分が相手に悪い事をしてしまったのではないか?』と考えてしまう。我ながら情けない、と分かっているが、直すことが出来ずにいる。
 それでも、意味なく無視されたことに不貞腐れたジェフは、何も声を掛けることができないまま、駐車場へと足を速めた。
 
 
『ささやかながら、今年も子供たちの為の会を行います。来場時間も終了時間も設定しておりません。ただ、お願いがあります。
①子供たちへのプレゼント(高価な物ではありません)購入の為、ご寄付をお願いします。
②子供たちに行き渡るよう、出来れば日持ちのする焼き菓子等のご用意を
③来場時は、出来るだけラフな服装で。また、当然ながら、貴重品は決して手許から放さないで下さい。』
 
 スコットから手渡されたカードには、リンの文字が躍っていた。書かれている文章に比べ、カード自体はクリスマス・カードらしく飾られている。去年までは、マイケルの従兄であるジャックの妻アビーが担当していたらしい。が、字が綺麗で、可愛いカードが書ける、という理由から、リンにお鉢が回ってきたという。
 クリスマス・パーティーとマイケルは言っていたが、それはあくまでも、診療所に来る欠損家庭の子供たち向けのものだ。実際に招待状を受け取る大人達、ジャックやマイケルの知己は、サンタクロースの手伝いをするに過ぎない。
皆、それほどに裕福ということはないが、何がしかの形で医療に携わり、それなりの収入を得ている者も少なくない。年に一度、サンタの手伝いをする程度の余裕はある。
 ①の要望は、既に小切手を用意してアネットに託した。焼き菓子の類は、スコットやべスとも相談し、当日の昼間に買い物に行く事になっている。
 マイケルからのオファーということになっているが、実際の影響力が大きいのはリンである。さすがのクリスも、彼女には頭が上がらない、と聞いている。クリスも果たして来るのだろうか?彼がマイケルやリンと友人関係である事が、未だ信じられない。
 友人を庇ってか、マイケルが言った事がある。自分が偽善者であるのと同様、彼は偽悪的に振舞っているのだ、と。
『あいつの性格から言って、そんな面は絶対見せないと思うけどね。クリスは自分で分かってやってるんだ。どこまで自分が壊れずに悪くなれるか、自分に強いてる。傍から見ると、あいつ程要領良く適当にやってる奴はいないように見えるけど、あいつ程破滅願望な奴を、俺は見たことはないよ。分かってやってくれ、とは言わないけどね』
 マイケルの顔は、あくまでも彼お得意の、柔らかい微笑みを浮かべていた。。
 クリスが偽悪的かどうかは別として、彼の言動は全て、相手に与えるダメージを計算した上のものであることは確かだ。
 この企画にクリスも参加するなら、きっと普段の行いの罪滅ぼしに違いない、とエディは考え、カードを封筒に戻した。

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最終更新日 : 2014-04-11 16:02:47

chapter 4-2

 

 スコットとアネット、べスと待ち合わせをし、4人掛かりでゼリー・ビーンズやM&Mのチョコレート、クッキーやマフィン等を大きな紙袋3つほど買い込み、タクシーを拾った。

 大人が4人乗り込むと荷物を置く場所もなく、全てトランク行きだった。クリスマスの混雑を考えると、車は時間がかかるので効率は悪いのだが、大きな荷物を抱えての地下鉄はぞっとしない。第一、傍迷惑である。
「せっかくのクリスマスなのに雪がないなんて、気分出ないわね」
 渋滞に巻き込まれ、退屈を紛らわせながら、アネットが呟く。
「その分、セントラルパークで凍死する人間が少しでも減るだろうさ」
「嫌な言い方だけど、一理あるわね。これも、温暖化現象ってやつのせいなの?それなら、オゾン層破壊してる企業に感謝しなきゃね」
「でもホームレスが根本的に救われるわけじゃないさ」
「クリスマスにしちゃ、話題が殺伐とし過ぎてないか?お二人さん。止めようぜ」
 エディ達が物心ついた時にはベトナム戦争の真っ最中で、都会は反戦運動真っ盛りだった。親戚の中には、出兵した者も、逆にそれを嫌ってヒッピーのコミューンに行った者もいた。戦争が終結後も、帰還兵で後遺症に苦しむ者は少なくなかった。かと言って、彼等が手厚いケアを受けている訳ではない事を、ハイスクールに入って知った。
 平和な日々は何年か続いたが、またこの国は戦争を始めている。また『余所の国』で。
 TV宣教師は平和を訴えながらも、自分たちの教会への寄付を同じように声高に訴えている。その寄付は、ホームレスを救うことはない。しかも、同じ時間軸で見れば、今回の戦争で今まで死んでいった人数よりも、この街で死んでいくーーー殺されたり、巻き込まれたり、あるいは身を持ち崩したりーーー人数のほうが遥かに多い。PTSDから家を出てしまった帰還兵(ヴェテランズ)を含めて。分かっていても、直視したくない現実。
「着いたぜ」
 スコットに言われて、車から降りた。スコットと二人でトランクから荷物を下ろされた荷物を抱え、アネットが精算を済ませる。
 以前、どこかの医師が自宅兼診療所として使用していたものの、高齢になったため転居し、荒れるがままに放置されていた褐色砂岩の建物である。内装も自分達でやるからという条件で粘り、ジャックが安く借り受けた、と聞いた。一階の半分は、本来住居スペースだった筈だが、キッチンを除き、全てクリニックのために開放されている。
 エディ達が到着した時、診察室とキッチン以外は、既に託児所状態と化しており、幼児たちが走り回る中、リンと二人の女性が面倒を見ていた。
「あ、いらっしゃい。マイク!スコットとエディが来たわ!」
 真っ先に見つけて、声を掛けてきたのはリンだ。あとの二人、ブルネットとアッシュブロンドの小柄な女性は、恐らくジャックと、その相棒、トミーの妻だろう。
「アニー、いらっしゃい。あなたがエディのお友達ね。私はアビゲイル。ジャックの家内よ。アビーって呼んでちょうだい」ブルネットの方である。
「あら?よろしくね。私はマデライン。トミーの妻よ。マディって呼んでね」
 アッシュブロンドの方が、べスに握手の手を差し出す。とまどいながらも、べスも手を伸ばした。
「アービーィー!ケーキ食べたい!切ってー!」
 走り回っていた子供の一人が、アビゲイルの腕を掴んで揺すった。部屋の中央の大きなテーブルの上には、山盛りのフライドチキンと、チェダーチーズ入りのビスケット、ちょっとした玄関マットほどありそうな、生クリームのケーキが載っている。
「はいはい、分かったわ。アニー、早速だけど、あと、彼女…」
「キム・エリザベス。べスって呼んで」
 べスはアビゲイルに笑顔を返した。
「悪いけど、手伝ってくれる?男性は奥のキッチンへ行って、あっちを手伝って。よろしくね」
 アビゲイルは、スコットに向かってウィンクした。スコットも何も言わず、ため息をついて、エディの肩を叩き、奥へと促す。エディも苦笑いを浮かべて、従った。
「お?来たな。新しい労働力が。よく来てくれたな。マイクから聞いてるよ、俺はジャック。一応、院長って事になってる」
「よろしく、エディ。俺はトミー。院長って肩書きはあっても、ここの実質的な支配者はアビーだ。分かるだろ?」
 マイケルの従兄、ジャックと、トミーの両方から握手の手を際出される。スコットは既にマイケルの所へ行って、何やら話し込んでいた。ひとまず、二人と握手を交わす。
「エディはガールフレンドを連れて来てるって聞いてたんだけど?」
「フィアンセだろ?ジャック。もうあっちの女共に捕われの身だって」
 ジャックとトミーは、エディとジェフのことまでは知らない。勿論、クリスの真実の姿もだ。
「ちょっと待ってくれよ。連れて来たのは同僚だって。スコット、お前、マイケルになんて言ったんだよ」
「ガールフレンド候補」
 スコットは、リノリウムの床に座り込み、マイケルと共に何やら作業にかかっている。
「お前な…」
「嘘は言ってない」これもスコットのお節介発動だろう。
 ジャックとトミー、更にその二人の知己とらしき男があと二人、スコットと共に作業をしていた。持参した菓子類の袋詰め作業だ。彼らの前でジェフの事は持ち出せない。故に、スコットの発言をむやみに否定出来なかった。
「さて、じゃあ、悪いけど、マイクの指示に従って作業してくれるか?」
 必要以上の詮索を打ち切るように、ジャックがエディに言う。これ幸いと、スコットにわざとぶつかりながら、隣に腰をを下ろして作業を始めた。
 作業に加わって、10分ほどだろうか。入り口近くから、女たちの一際大きな笑い声が聞こえてきた。
「誰か来たんだろう」
 座り込んだまま、ジャックが伸び上がると、診察室の方から二人分の人影が入ってきた。
「あ…れ?クリス?」
 振り返ったマイケルは、二人分の友人の姿に、驚きの表情を隠せない。ジャックとトミーは目を白黒させるばかりだ。スコットは、不審気な表情を露骨に表していた。
 入ってきたのは、クリスが二人。いや、正確には違うのだが、初めて見る者には、そう見えただろう。かたやクリスの定番、フェレのスーツにコート。もう一方はレザー・パンツにボマー・ジャケットを着ている。二人ともが、同じサングラスをかけ、にやにやと笑っていた。
「もしかして…」エディは小さくつぶやいた。
 あのクリスの事だ。フェレのスーツを着ているのは本人でなく、先日のそっくりさんであろう。
「ちょっと、クリス!あんた気持ち悪いわよ、正直なところ」
 歯に衣着せないのは、さすがリンである。追いかけて、確認しに来たらしい。
「ちょっとリン、俺はいいけど、、それは彼に失礼じゃない?」
 笑いながらサングラスを取ったのは、やはりレザー・パンツの方だった。傍らにいる彼は、まだにやにや笑いを浮かべたまま黙って見ている。
「確か、こないだうちに来た…」
 エディは立ち上がった。と、件の彼が振り返った。
「あ、薬局の…」
 形だけの握手を交わすと、彼、コリー・クラークは、入ってきた女たちに代わる代わる質問攻めに会い始めた。クリスはM&Mの大きめな箱をジャックとトミーに渡している。どうやら、キャラクター型のベンダーを子供たちの人数に合わせて持参したらしい。
「ああ、エディ。あんたは騙せなかったな。やはり、覚えてたか」
 クリスはエディに声を掛けると、余所行きの笑顔を浮かべ、女たちのいる中へ入って行った。と、スコットがエディの傍までいざり寄って来た。
「あいつ、前から思ってたけど、絶対ナルシストだな。自分とファックするのが趣味なんだぜ、きっと」
 スコットの言葉はエディも考えていたことだけに、否定は出来なかった。むしろ、クリスなら褒め言葉として受け止めかねない。
「お前、ストレートのくせに言う事が大胆だよな。あの二人が『そう』とは限らないのにさ」
「『そう』かどうかは別として、奴の考えそうな事だろ?」
「まぁ実際『そう』だと思うけどね」
「俺のことを『ストレートのくせに』とか言うなら、ちったぁお前も気遣えよ。お前とジェフのことを想像しないよう、どれだけ俺が苦労してたと思う?」
 言ったスコット自ら、すぐに何かに気づいたような顔をした。エディも気づいていたが、この場では気づかない振りをせざるを得ないだろう。スコットが、ジェフのことを過去形とした事に。
「とにかくだ。もう少ししたら俺はアネットとホテルに戻るんで出てくぞ。べスは任せたから、お前の好きなようにしろ」
 取り繕うようにスコットはエディの肩を叩き、立ち去った。作業はあらかた終了していたが、エディにとっての最大の難関が残っていた。
 
 
 スコットがアネットを伴って出るのを機に、エディもべスを連れて診療所を辞することにした。車が捕まらないことを考慮し、チャイナタウンまではスコット達に便乗させてもらった。
 スコットには『好きにしろ』と言われたものの、エディに実質の選択肢は一つしかなかった。
 実際、どうしろというのか?自分も予定がなく、同じく予定がない、と公言している同僚女性を放置して一人で帰るほど、エディは心臓が強くない。いくら、それが彼女に対する偽善だと分かっていても。
 結局、べスを誘ってチャイナタウンで食事を取り、彼女をアパートの近くまで送り届けた後、自宅傍のバーで、したたかに飲んだ。飲むつもりはなかったのだが、別れ際の彼女の言葉が、エディの罪悪感をかきたてた。
『エディ、私ね…何でもない。ごめんなさい。でも、無理はしないでね』
 彼女はただ微笑んでいた。何の事情も知らず。
 ジンの匂いのする息を吐き、べスの言葉を頭の中から追い出そうとでもするように顔を軽く振ると、エディはアパートの鍵を開けた。
 ふらつき気味の体を支えるために握った手すりが、ぎしぎしと音をたてる。三階の自分の部屋までたどり着き、部屋の鍵を開けたところで、入ってすぐのリビングに灯りが点いていることに気づいた。
 家を出たのは昼間だ。リビングは歩道に面して窓があるため、日中は灯りは点けない。ジェフに合鍵は渡してあるが、何日も会っていない。第一、今夜はジュディスとデートのはずだ。いない筈の人間がいることよりも、見知らぬ人間に襲われる可能性を考慮するほうが、この場合は賢明だろう。特に、この街では。
 緊張した面持ちで周囲に目を配り、ゆっくりとキッチンへ向かう。ここは暗闇のままなので、ゆっくりと目を凝らす。誰かがいる気配はない。
 人っ子一人いない様子だが、寝室のほうから、微かないびきが聞こえてきた。盗みに入って居眠りする呑気な泥棒はいないだろうが、念のために、寝室のノブに手を掛け、ゆっくりと半開きのドアを開けた。リビングの灯りがベッドに差し込み、人影を照らす。エディは安堵の溜め息をついてベッドに歩み寄り、サイドテーブル上のスタンドを点けた。当然目を襲った光に、大の字になって横たわるジェフが、不満げな呻き声を上げて寝返りを打つ。苦笑しながらジェフを見ていたエディは、視界に入った布の固まりに目を遣った。ベッドから少し離れたライティング・ビューローに今夜ジェフが着ていたであろう服が、山積みになっていた。
 一番の被害者は、下敷きになっているチャコール・グレイのカシミアのコートだろう。更にその上に、ムッシュウ・ディオールのスーツ、床にはジョン・ロブの靴、更にソックスがご丁寧にばらばらに脱ぎ捨てられている。スラックスはプレスの痕跡も残さないほど皴が酷く、上着はサイド・ベンツが開いた状態でスラックスを受け止めている。
(全く…片付けるって事を知らないのかね、このお兄さんは)
 エディは、先刻とは違った意味で溜め息をつき、スラックスを手に取った。元の折り目を崩さないよう、裾を摘んで持ち上げた途端、じゃらじゃらと小銭がポケットから零れ落ちた。小声で悪態をつき、腕にスラックスを掛けたまま屈みこむと、ちょうど鼻の位置でぷんと甘く香ばしい匂いがした。もしや、と思い、あわててジャケットとコートを腕に抱えると、かさかさと音を立ててハーシーズ・バーの包み紙が数枚、カーペットの上に落ちた。更に、ピーナッツ・バターの一気食いまでやらかしたらしい。八割がた空になったスキッピーの瓶に、スプーンが刺さったまま放置されていた。どうやら、今日のデートは、相当に気疲れしたらしい。エディだけではなく、マイケルにもうるさく注意されているはずだが、何かあってストレスがたまった際、ジェフが甘いものを一気に食べてしまう悪癖は一向に納まらない。
(しょうがないな…)
心の中で毒づきながらも、エディの顔は微笑んでいた。
 結局、他人のために労力を使っただけで、クリスマスが終ろうとしていた。それでも、エディの心の中には温かいものが湧いていた。
 
 
 眠りの底へ落ちる瞬間は、何物にも変えがたい快楽だ。その直後に叩き起こされようものなら、その相手を殴り倒してしまいたくなる。
 安心から来る酔いと睡魔の誘惑に耐え、ジェフの服をクローゼットに掛け、チョコレート・バーの残骸を片付けた。すぐにでも倒れこみそうな眠気と戦いながらシャワーを浴び、転がり込むようにベッドに入った。ジェフの体に自分の体を押し付けるように彼の体を押しやり、胎児のように丸くなったエディは、そのまま体がマットレスに吸い込まれそうな錯覚に陥った。
 何時間、いや何十分たったのだろう。温めのバスに浸かっているような心地よさに包まれ、浅い眠りから深い眠りに入ろうとしていた。誰かがエディの肩を揺すっている。煩げにその手を払おうと片手を挙げると、肩に掛かっていた手がその手首を掴んだ。振りほどこうと試みるが、しっかりと強く握られた手首は、びくともしなかった。
「エディ、起きろよ」
「うるさいな…寝かせてくれよ。」
 もう一方の手がエディの脇から胸元に伸びる。その手は持ち主と違い、羽根のように軽やかな動きで以って胸元から脇腹へと動き回る。手首を握っていた手も、振り払おうとする力が抜けたと分かるや、背中沿いに下肢へと降りていく。エディは首から上を支配する睡魔に体を任せようとするが、背中から下肢に向かって走るしびれが、それを許さない。
 小さな窪みの抵抗を無視して、ジェフの指先が中へ潜り込むと、残りの指がその奥に隠れた膨らみへと伸びる。潜り込んだ悪戯な指は、動きを止めることなく、更に奥へと入って来る。
「ジェフ、頼むから寝かせてくれよ。せめて朝まで待ってくれ」
「何言ってんだよ。もう朝だぜ。ほら、こっちも目が覚めてる」
 ジェフが、枕に半分顔を埋めたままのエディの手を取り、自身の股間に引き寄せた。
 彼の言葉を裏切るように、空はまだミッドナイトブルーの色を保ち、日が昇る気配を見せない。
 耳元に送り込まれる愛撫のように、ジェフの声が荒くなった吐息となって、エディの耳をくすぐる。エディは眠ることを断念し、体にまとわりつく手に巻き込まれるように向き直り、程よく筋肉ののったジェフの背中に腕を回した。終わってしまえば、またジェフも眠りに誘われるだろう。しかし、それを分かっていながら、一度は抵抗してしまう。面倒臭げにジェフの欲求に応えるのは、単にポーズに過ぎなかった。強がる振りをするのは、今に始まったことではない。今回は、クリスに寝取られて以来のことで、エディも体が喜びに震えている自覚はあった。それでも、その気持ちを表に出せない性分が恨めしかった。
 ぴりぴりと沁みる痛みの後、下腹部に湧き上がるざわめきにエディは身を任せ、あやされる子供のように、ジェフの作る振動に合わせて同じく体を揺らし始める。そして、リズミカルに吐息混じりの声をカデンツァのようにあげ、、やがて訪れる一瞬の仮死状態を待った。
 
 
 スカッシュで打ち込む時のような声をあげ、エディを追ってジェフが絶頂を迎え、覆い被さって来る。その重みを心地よい疲労感と共に受け止めながら、エディは先刻までの全身の緊張感を解いた。ゆっくりと呼吸が整うのを待つ。
 急に、体にかかる負荷が軽くなった。ジェフが体を起こしていた。臥せたまま枕を抱えて、エディはジェフの顔を見上げた。
「デート、上手く行かなかったのか?」
「行くも行かないも…疲れただけで終わりさ」
 ジェフの明らかに拗ねたような言い方に、エディは鼻を鳴らして笑った。
「お前こそ、同僚と上手くやってるんだろ?楽しそうにしてたみたいじゃないか」
 べスの事かと思ったが、ジェフとは接触は殆どない。スコットが、わざわざジェフに言うとは思えなかった。ましてやクリスの耳に入ったにしては、早すぎる。
「同僚?誰のことだよ。第一、俺が店の子と時々デートしてるのは、あんただって知ってるじゃないか」
 エディは半ば笑いながら付け加えた。またジェフが拗ねてしまうかも知れない、と思いつつ。
「前に見かけたんだよ。昼休みかなんかで、お前が女の同僚と楽しそうに話しながら帰ってるとこ」
 全く思い当たる節はなかったが、恐らくはアリスンやべスと一緒に昼食を取った時にでも、見かけたのだろう。
(どこがこの御仁の嫉妬のボーダーラインなんだ?)
 エディは全身に倦怠感を感じながらも、顔の筋肉が緩むのを感じた。思い切って体を起こし、クリネックスで始末をしているジェフの頬に口付けた。頬に当たった冷たい感触に気づいたジェフが、起き上がったエディの頭をかき抱き、髪をくしゃりとかき混ぜた。
 と、サイドテーブルの上の電話が鳴った。まだ明け方の五時。こんな時間に電話をしてくる人間の心当たりは、一人しかいない。エディは渋々受話器を取った。
「はい。ジャクソン。…ああ、いるよ」エディは無言で受話器をジェフに差し出した。気持ちは、また暗闇に戻ったような気になる。
「俺?…はい、ああ、お前か。…ああ、え?もう?…分かったよ、けど…え?…ああ。分かった」
 短い会話で、クリスは切ったようだ。ジェフがエディに受話器を返す。恐らくはまたクリスから何かの提案があり、ジェフが押し切られたのだろう。
 ジェフの顔が不機嫌そうに歪んでいる。
「そんなに嫌なら、はっきり断ればいいのに」エディは突き放した。「どうせ、何か言われて押し切られたんだろ?」
「お前はそう言うけどな。こっちはこっちの事情もあるんだよ」
 事情。そんな事はエディの知った事ではない。
「それならそれでいいけど、俺の所まで面倒持ち込むのはやめてくれよ」
「俺がいつ面倒を持ち込んだよ?」
「あんたが直接持ち込まなくても、転がり込んで来るんだ。今までだってそうだろ!?」
 これは、明らかに八つ当たりだ。それは、分かっている。しかし。
「俺がそうしたくてしてる訳じゃない!お前、何怒ってるんだ?」
「あぁ?排卵日でね、気が立ってるんだよ!だから、ファックの時は中に出さずに、ちゃんと被せてくれよな!」
 エディはこれ以上の口論から逃げるため、ベッドから降りてバスルームに向かった。
 
 
「で、飛び出して来たってわけ?」
 クリスはくすくす笑いながら、不貞腐れて煙草を吸うジェフを見た。
 明け方エディの家に電話したのは、正解だった。この男が、あの気の強い女とのデートを上手くこなせるわけがない。疲れただけで終ってしまい、逃げ場所としてエディのところに転がり込んでいるに違いない、と踏んだのだ。嫌な事があるとすぐに、母親に甘えるかのようにエディのところに逃げ込むのだ、この逞しい体の持ち主は。またエディも、こちらが思った通り、自分の声を聞くなり不機嫌になったのが分かった。ポーカーフェイスをまとっているつもりだろうが、嫉妬を押し殺しているかと思うと、クリスは楽しくて仕方がなかった。一度は、あの取り澄ましたエディの顔を歪ませてやりたい。これもクリスの密かな欲望だった。目の前にいるジェフは、そのための道具に過ぎない。例の女優との計画も、単なる退屈しのぎのひとつだ。
 ジェフは、クリスからの電話の後、突如怒りだしたエディに腹を立てて、そのまま出てきたという。自分は今夜は夜勤なのを良い事に、帰宅時間を見計らってクリスを叩き起こしたのだ。普段のクリスなら居留守を決め込むか、玄関のブザーのコンセントを抜いておくところだが、今日は特別だった。
 エディからもクリスからも鈍感、と言われているだけあって、エディの怒りが嫉妬である事に全く気づいている様子はない。理不尽な怒りを向けられたことに、単純に立腹している。今まで全く嫉妬の欠片も見せなかったエディ自ら、そのチャンスを与えてくれた。これは利用すべきだろう。
「あいつか謝って来るまで、絶対に口もきいてやるもんか」
 ジェフは、まだ憤懣やるかたなし、といった顔で、手元のクアーズの缶をあおる。
「全く、あんたも子供だねぇ、」
 クリスは口の端を上げて笑った。その言葉に、ジェフの眉がきっと上がる。
「誰が子供だって!?エディのほうがよっぽど子供じみてるよ!」
 ジェフは声を荒げるが、その後すぐに小さな声で自信無さげに付け足す。「少なくとも、今回の事に関しては、だけど」
「まぁ、今回は、それでよしとしとこう。…元気だよな、全く。あんたはいいけどさ、俺は夜勤明けで眠いんだけど…」
 クリスは苦笑しながら、組んだ脚の上で頬杖をつき、上目遣いにジェフを見た。途端、自分のあまりに不躾な訪問に気づいたジェフの顔が、絵の具でも撒いたように紅潮する。
「いや、構わないけどさ…徹夜明けって、妙に欲情しないか?」クリスの手が、ジェフの膝の上に乗せられた。ジェフが一瞬 たじろいだのが、クリスの手のひらに伝わった。俯いていた視線が、クリスを捉える。膝から徐々に上に這い上がる手に、ジェフは一切抵抗しない。ゆっくりとジェフの右手があがり、クリスの手首を掴んだ。
 
 
 エディは、ノズルから滴り落ちる雫を受けながら、シャワー・カーテンを開けた。体から疲労感は抜けきらないが、眠気はとうに吹き飛んでしまっていた。二十分ほど前、バス・ルームに入った際に勢いに任せて引いてしまったため、シャワー・カーテンが数箇所、レールから外れている。
 ジェフは、もう家に着いただろうか。先刻は、大人げない態度を取ってしまった。エディがバスルームに入ってすぐ、寝室の方から物音がしたのは、ジェフが出ていった気配だろう。彼の性格は、大体把握している。なのに、つい、声を荒げてしまった。自分のどういう言葉に、ジェフがどういう反応を示すか、重々承知しているはずだったというのに。クリスの前では、自分に対してのように強く出られない事もよく分かっている。これまでも、何度となく目にしてきた。実際にクリスがジェフに手を出して以来、その傾向は更に高くなっているはずだ。それでも戻ってきたのだ、ジェフは。しかし、その安堵感は、ものの見事に打ち砕かれた。たった一本の電話で。
 分かっていたのではないのか?いずれ、こうなる事を。分かってながらも、気づいていない振りをしてきたのではないのか?クリスに対して湧き上がる嫉妬を、見えない振りをして来ただけだ。エディも、今回ばかりは認めざるを得なかった。
 鈍感なジェフは、はっきりと言わなければ気づきもせず、エディが突然怒鳴った事を、理不尽だと怒っているだろう。彼はそういう男だ。故に、無意識の悪意ともとれる言動を振りまく。普段、職場では無口を装っているので、そういった言動のほとんどがエディに向けられたものだが。
 自分はクリスに嫉妬している。直接ジェフにそう言えばいいだけのことが出来ない。きっと今頃、クリスの家で愚痴を零しているだろう。今はクリスもまだ新しい玩具に興味がある状態だが、今にあの大きな駄々っ子に手を焼くことになる。その時、またジェフは戻ってくるだろう。何食わぬ顔をして。それでも、自分はきっと、そんなジェフを受け入れてしまうのだろう。やはり、何もなかったような顔をして。

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最終更新日 : 2014-04-11 16:04:12


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