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chapter 1

 

 

N.Y. 1990年 10月

 

「服装?なんだっていいさ。あんただったら、そのままで十分モテるよ。」

「いや、そういうことじゃなくて…知り合いに見られたくないし、俺だってバレにくい格好がいいんだが…」

「世話のやける奴だな」

 エディ・ジャクソンは、目の前に立つジェフ・テイトの後ろに撫で付けた前髪に手を差し入れてかき乱し、前に下ろさせ た。

「ふむ…印象は変わるな」

 一歩下がって、ジェフの姿を上から下まで眺める。

「以前、オーダーしたっていうレザーパンツあったろう?今のそんなウールのパンツよりよっぽど似合うよ。ブーツ履いてさ。上はタンクトップにレザージャケットか、適当にワイルドに見えるブルゾン羽織ってりゃいい。どうせ店の中にいたら暑くなるんだから」

「お前は?」

「俺?今と大して変わりゃしないよ」

 いつものようにヨークの大きな黒い無地のシャツと、ぴったりとしたブラックジーンズにショートブーツ。少女じみて見える黒く大きな目、肩より少し長く伸びた豊かな巻き毛も、黒に近い暗褐色だ。黒尽くめの中、白いのはシャツの中に着たタンクトップ位のものだろう。

 マンハッタンにあって『ゲイのメッカ』とされるクリストファー・ストリートに行ってみたい、と言い出したのはジェフだった。

 どうせ行くなら、どちらが多くナンパされるか賭けよう、と提案したのはエディだ。ルックスから言って有利なのは明らかにジェフなのだが、物慣れているのはエディの方である。

「そもそもニューヨークに来て2年になろうってのに、行った事がないって…まぁ、ストレートって事で通してるんだからしょうがないか」

「サンフランシスコにいた時の相手と、こっちに来てもしばらく続いてたんだから、しょうがないだろ。大体、隠してたのに見抜いてちょっかい掛けてきたのはお前の方じゃないか」

「俺じゃなくたって疑うさ。女遊びの噂もなけりゃ、付き合ってる相手もいない。おまけに、その外見だ。うちの店の奴だって、あんたとこの女共だって言ってるだろ?『マンハッタンで、ちょっといいオトコは、みんなゲイだ』って。」

 その外見も、尤もなことだった。

 黒い真っ直ぐな髪に、氷塊のようにも見えるブルーの瞳。冷たく見える目つきを裏切る、しっかりと肉厚な唇。長身ではないが、胸板は厚く、シャツを着ていても、腕や胸が鍛えられた筋肉で覆われているのが分かる。

 膨れっ顔のジェフの顔を見て、エディは小さく笑う。

「蛇の道は蛇さ」

 いくら隠そうとしていても、自分を狙っている視線ぐらいは分かるものだ。初めて友人のスコットのアパートで引き合わされた日、ジェフにこっそりと耳打ちしたのはエディだった。

『あんたは、後ろに入れるのが好きなんだろ?』

 その時のジェフの慌てふためいた様子を思い出し、エディはくくっと喉を鳴らして笑った。

 『ゲイだとバレても特に困らない立場』と、『バレたが最後確実に出世に響く立場』というものがある。ジェフは明らかな後者だった。

 住いのドアマンにバレたくない、という理由から、予めジェフのレザーパンツはエディのアパートに預けられた。整髪料で整えられていない髪を後ろで一つに束ねてゴムでしばり、エディのアパートへ向かった。

 果たして、グリニッジヴィレッジには似つかわしくない濃紺のサーブが、エディのアパート前に到着した。

   

 

§             § 

 

 

 2人が入ったのは、さほど大きくも過激でもないバーのひとつだった。

 バーテンたちのいるスペースを囲むように、コの字型に作られたカウンター。奥には、サロンのようにソファとテーブルの席が幾つかある。広くはないが、ダンスフロアが入り口のすぐ脇に。更に、テーブル席とカウンターを繋ぐように、背の高い丸い天板のついた止まり木が点在する。

 相手を探す者は、ダンスフロアか止まり木にいる。一部壁際に佇んでいるのは、プロと思しき男達だ。

 顔を近くに寄せなければ相手の声が聞こえない、大音量のダンスミュージックが流れる中、男ばかりがいる様は壮観だった。彼らの熱気、汗に混じって、人の動きと共に香るフレグランス。一歩進んだ途端、気圧されたようなジェフの背中をエディが押した。

「俺は先に踊ってるよ。あんたはカウンターにでもいりゃいい。勝手に虫が…いや蝶々かな?沢山寄ってくるぜ。じゃ、Here we go(行くぜ)」

 ジェフをバーカウンターの方へ押し出し、エディはすでに数人が踊っているダンスフロアに入っていく。

 体をビートに委ねていると、アルコールも飲んでいないのに、軽い高揚感がわく。何も考えず、ただ体を動かしている事が心地よかった。

 軽く閉じていた目を開くと、ちょうどエディの視界に入る位置で、スツールで酒を飲むジェフの姿があった。早速、口髭をたくわえた亜麻色の髪の青年が隣に佇み、ジェフに何か話しかけている。ジェフもまんざらではない様子だったが、すぐに相手の方が肩をすくめて立ち去ってしまった。

 と、踊り続けていたエディの腰に、誰かが手を回してきた。

「Sis(お嬢さん)、一緒に踊ろうぜ」

 声はエディの耳元に心地よく響く。相手の腰が背後から押し付けられ、弦楽器のユニゾンのように同じ動きをする。

 エディは拒否しなかった。相手を邪魔に感じることなく踊り続ける。しかし、このままだと相手にも気の毒だ。曲が終ったタイミングで振り返る。

「次の曲は別のお相手を探してくれよ」

 呆気に取られていた相手は、明るいブラウンの髪をした見るからにマッチョな男だった。

(あんなのにつきあったら、壊されちまう)

 喉も渇いたところだったのでカウンターへ戻り、ジェフの隣に体を滑り込ませる。

「コロナを」

「さっきの奴は、振ってもよかったのか?」

 ジェフの声が少し不機嫌そうだった。

「ちょっと!相手がいるんなら、早くそう言ってよ!」

 『いかにも』な赤毛の青年が、尻を振りながらジェフの傍を離れていった。

「あんたこそ。良かったのか?さっきの子、振っちまって」

 コロナの壜に櫛切りのライムを押し込みながら、エディは訊ねた。つい笑ってしまうのは、隠し切れない。

「タイプじゃない。ああいう露骨なクイーン(女形)は。」

 ジェフは平常心を保とうとしているのだろうが、やはり、微かに拗ねているように聞こえる。エディには、それが面白くて仕方がなかった。コロナの中身を半分ほど空けて、席を立ち上がる。

「もう少し踊ってくるよ。1対2で負けてるからさ」

 静かに座っているよりも、踊っている方が自分が魅力的に見える事を、エディは経験上知っていた。

 ジェフに目配せをし、再びダンスフロアに向かった。通路を縫うように歩く途中、尻を掴もうとする手を振り払い、再び流れてくる音の洪水に身を任せる。ビールで熱を冷ましたつもりだったが、人の熱気で、すぐに暑さが戻ってくる。

 また、リズムに合わせて揺れるエディの腰を、誰かの両手が掴んだ。まるでバレエのリフトでもするかのように、力強く相手はエディを自分の方に向かせる。

「さっきの奴は、タイプじゃなかったみたいだな」

 今度は浅黒いブルネットの男だった。ヘイゼルの瞳が、照明によってくるくると色を変える。やはり、一人目の男と同じように腰を密着させてくる。逃れようにもエディのをつかんだ手は、びくともしない。細く見えるが、実はかなり鍛えているであろう、筋肉質の体をしている。両手が腰から尻の方に回り、がっしりと掴んで揺らそうとしていた。

「こんな可愛いケツ、見せ付ける方が悪い…」

 ジェフより少し背が高い。6フィートぐらいだろうか。エディの耳元で、笑いながら囁く声が響く。

確かに一人目よりは、好みのタイプではある。しかし、今日はジェフが一緒なのだ。このままだと体が反応し、相手に悟られてしまう。曲はまだ、1コーラス目が終ろうとしている辺りだろう。

(まずいな。どうやって逃げる?)

 相手の手が動いた。更に下がり軽く開いた両足を裂くように、脚の付け根の内側へ入ってきた。指の動きに、思わず体がびくりと震える。

「ヤサはどこ?」

 問いかけを無視して笑顔を返す。が、いつまでもたせられられるか、自信がなくなってきた。

「悪いな。こいつは俺の予約済みなんだ。好き勝手するんで、困ってたんだよ」

「ジェフ!」

(天の助けだ…)

 ジェフが、エディの両肩に手を掛けていた。と、下半身の束縛が解かれ、男は小さく舌打ちをして体を離した。

「飽きたらいつでも来いよ!」

 諦めは、悪いようだ。

「エディ、行くぞ!」

 エディが安堵の溜め息をついたのも束の間、ジェフが彼の腕を掴んで出口へ向かおうとした。まさに、ずかずかと音をたてそうな大股で。明らかに怒っている。

 半ば、引き摺られるようにして歩くエディの顔は、笑っていた。

 

 

 店からエディのアパートまでは、歩いてもたかが知れている。クリストファー・ストリートを出るまでは腕を掴まれ引き摺られていたが、さすがに途中でジェフの方から手を離した。

 エディは、まだ笑っていた。こちらを向かなくても、ジェフが不貞腐れているのは、これまでの付き合いで分かっている。

「あのクイーン以降、何人に声掛けられた?」

「3人」

 口笛を吹いて冷やかしたが、無視された。

 二人は無言で歩き続けた。相変わらず、ジェフは大股に歩いている。

「なぁ、ジェフ。怒ってるのか?さっきは助かったよ。流石にやばかった」

 笑いを堪えつつ聞いてみるが、やはり無視だ。

 無言のままジェフは、合鍵でエディのアパートの入り口の鍵を開けた。彼や、その同僚で眼科医のクリスの住むコンドミニアムと違い、ドアマンやセキュリティなどいない。入り口で住人の部屋のブザーを適当に押して開けて貰うか、自分で鍵を開けるか、だ。

 きしむ階段を上がり、エディの部屋の前まで来ると、さらに鍵を3つ続けて開ける、1室に鍵が1つというのは、この街では無用心を通り越して、無謀と言われる。

 勝手知ったるもので、ジェフは部屋の主であるエディを置き去りにしてリビングの灯りをつけ、奥の寝室に入って行った。エディは、その様子をまだ面白がりながらキッチンへ行き、炭酸ミネラルウォーターを取り出して飲み始めた。

 ジェフは、本当に自分の感情に素直だ。ただし、その本来の姿を見せるのは、限られた人間の前だけであったが。エディも、その限られた人間の中に含まれている。だからこそ、気を遣う事なく付き合えるのだ。

が、そのジェフがエディのことをどう捉えているかは、また別の話である。

「エディ!」

 刺を含んだジェフの声がエディを呼ぶ。寝室に来い、と言う事らしい。汗を含んだシャツを脱いで、ランドリーバスケットに放り込み、エディは寝室へ足を踏み入れた。

「灯りぐらいつけろよ…え!?」

 暗闇に目が慣れる前に、両腕が掴まれた。金属と、ゴムの軋む音がする。

「ちょっと待ってジェフ、それは…」

「そう。俺の仕事道具だよ」

 後ろ手に押えられたエディの両腕は、病院で使われる太いゴムチューブと、鋏型のクリップで縛られた状態だった。

「あんた、そんな趣味あったっけ?」

「うるさいな。罰ゲームだよ」

「罰?何の?」

 後ろ手に縛られたまま、エディはベッドの上に突き転がされ、ジーンズも引き下ろされた。

「今夜の賭け。俺の勝ちだろ?」

「あぁ、その事ね…」

 ジェフの言い分は一応尤もなので、素直に転がされたままになった。ジェフも服を脱いでいるのだろう、衣擦れと、重いレザーがチェーンを伴って床へ落ちる音がする。

エディの肩越しにジェフが手を着き、新たな負荷が掛かったベッドのスプリングが悲鳴を上げ、エディの体を揺らす。

と、剥き出しの下半身に挿入された指の感触は、これまでに体に馴染んだものと異なっていた。

「ジェフ…何してるの?」

 体の中で暴れる指に息を乱しながら、エディは訊ねた。

「俺の一番の仕事道具。コンドームよりは、使い勝手いいぜ」

 まったく悪びれた様子はない。それどころか、今までにない指の暴れ様に、エディは声を我慢する事を放棄した。体を波打たせるように乱れていても、それを見ている筈のジェフは何も言わない。手術用手袋をした指を更にもう1本挿入し、内部で蠢かせる。

 一度放出させればエディの体が楽になる事は、ジェフとて知っている。が、そうならないオルガスムもまた存在する事も。

「ジェフ…頼むから…」

 時折あがる喘ぎ声の合間を縫い、ジェフの意図を悟ったエディは哀願の声を上げた。

「駄目だ」

 ジェフの体が覆い被さって来た。

「俺が見てる前で、ほかの奴に触られて喜んでた罰だ」

 耳元で囁かれた言葉は、怒りを含んでいても、最大の愛の言葉とも言えた。

「あんたが婦人科医じゃなくて良かったよ…」

 精一杯の強がりを吐き出しながら、エディは首を無理に捻り、ジェフの唇を求めた。

「そうだな。俺は外科医だから、今からお前にメスを突き立てるんだ」


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最終更新日 : 2014-04-11 15:56:18

chapter 2-1

 

 

 

「よう、ジェフ。あんたも疲れた顔してんな。今日は、何?」

 スコット・ロッケンフィールドは、目元をくしゃりとさせて同僚のジェフを見下ろす。

 ハイスクールのカフェテリアを思わせる、安っぽい樹脂製の椅子に座ったジェフは、眉間をマッサージしていた。

「さっきまで胃のバイパス手術で、ひたすら裁縫」

 スコットも、紙コップに入ったコーヒーをすすりながら、ジェフの前に腰を下ろす。

「まだ俺の方がましか。スキニー(摂食障害)と婆さんの配管工事だけだからな(高カロリー輸液の管を挿入、固定)」

 患者やその家族が立ち入る事のない、病院スタッフ専用の休憩室である。院内スタッフのみの気安さから、会話の中身やボキャブラリーは残酷かつシニカルなものになりがちだった。さすがに良識の最後の砦、守秘義務を犯すような事はなかったが。

「なぁ、ちょっと聞きたいんだが、いいか?」

 ふいに思いたったように、ジェフがスコットに向かって指で小さく手招きをする。こういう時は、話の詳細はどうであれ、エディとの関係である事は、スコットも心得ていた。

「こないだ、その、『あの時』にエディの手を縛るのに、鉗子とチューブを使ったんだよ」

 返事の代わりに、スコットは大きな目を白黒させてむせた。笑いを堪えるために口を閉じていたが、咳も我慢するはめに陥り、顔も真っ赤になっていた。

「で、エディに俺が婦人科医でなくて良かったって言われたんだけど…どう思う?」

「どう思うって、あんた…」

 スコットは予想は出来たが、どうこの場で説明したものか迷っているうちに、視界に見覚えのある人物が侵入してきた。

「すぐに回答してくれそうな人がお出ましになったぜ。あんたのご近所さん」

「おや、お二人揃って。眼精疲労なら、ビタミン注射でもする?」

 半ば笑いながら近づいて来たのは、ジェフと同じコンドミニアムに住む、クリス・デ・ガーモだった。

「じゃあジェフ。俺、行くよ。もうすぐ巡回なんだ」

 スコットは立ち上がり、クリスに席を譲る。巡回は、嘘ではない。しかし、その場を立ち去る言い訳でもあった。

 スコットの大学時代からの友人エディは、それほどクリスを苦手としていない様だったが、正直な所、スコットはクリスと時間を共有したいとは思わなかった。学生時代のエディも危なっかしい所があったのだが、クリスは違う。クリス自身が危険に感じられるのだ。

 何より、彼の長年のガールフレンド、アネットがクリスを嫌っている、というのが最大の理由だった。

 

 

 スコットが立ち去った後の椅子に、クリスは優雅に腰を下ろして長い脚を組む。まるで、猫脚のソファにでも腰掛けたかのように。ジェフには、そう感じられた。

実質上、恋人と言っていいエディには自分の素をそのまま出せるのだが、1フロア上の住人、このクリスにはそうもいかなかった。彼もやはり、ジェフの性癖をすぐに見抜いた人間である。さらにその行動は、ジェフにとっては理解の範囲をこえていた。一番近いのは、猫かもしれない。いや、まだ猫の方が理解出来る、とジェフは思う。しかし、どこか惹かれてしまう。我が儘な猫に振り回されるのは、決して嫌いではない。

「何か面白い話してたんだろ?スコットがずいぶんと楽しそうに見えたけど」

クリスは眼科医にふさわしく、おそろしく視力が良い。先刻のジェフとスコットとのやり取りを、遠目に見ていたのだろう。

ジェフは、先のスコットの時と同じく指でクリスの顔を招き寄せ、エディとの行為で手を拘束するのにチューブと鉗子を使い、コンドームの代わりに手術用の手袋を使った事、そしてエディの言葉を伝えた。スコットに手袋の事を言わなかったのは、クリスと違って---彼もまたカムアウトしていないが---スコットが完璧なストレートだからだ。

 クリスは一瞬呆けた顔をしたが、すぐに俯いた。恐らくは笑いを堪えているのだろう。両肩が小刻みに震えている。  「ああ、可笑しい!ジェフ、あんたのそういう鈍感な所が好きだね、俺は」

「だから、どういう意味だよ」

「ああ、俺達はまず使わないからな。婦人科に知り合いはいないか?彼女とのセックスに仕事道具使った事あるかって聞いてみな。絶対、何人かヒットするぜ」

クリスは、よく喋るほうだ。しかし、その話し方は囁くようなものだ。それが、この場では都合が良かった。

「残念ながらいない」

「ヒントをやるよ。それを使えば、フィストも出来るようになるかもな」

 クリスの言葉にジェフは絶句し、次に茹でたてのロブスターのように顔を真っ赤にした。

 と、院内放送で自分の名前が呼ばれたのに気づいたジェフは、急いで立ち上がった。

「ああ、ジェフ。実家からワインが届いたんだ。今夜、おすそ分けに持って行くよ」

「今夜はエディが夕食を作りに来てくれるから、伝えとくよ」

「婦人科の奴に言って、くすねて持って行こうか?『あれ』」

「No!」

思わず大きな声が出た。

「いらない」

もう一度小さな声で言い直し、休憩室を後にした。職員やナースが忙しなく行き交う廊下を歩きながら、ジェフは少しだけ考えてみた。もし本当に使ったら、どうなるだろうか、と。

 

 

 

「クリスが?別に構わないさ。どうせ、余るぐらいだろうからな」

 ジェフ宅のキッチンである。

 週2回やって来る家政婦の女性以外、普段ここを正しく使用しているのはエディだけであろう。ほぼ毎日使われているのは、コーヒーメーカーと、食器洗浄器ぐらいのものだ。

ダイニングテーブルとシンクとの間に設置されたカウンターは、ずいぶんと古いものだったが、天板は大理石で出来ている。その気になれば、ペストリーや本格的なピザの生地を作ることも可能だろう。が、さすがに、仕事終わりにそこまでする気力や体力は、エディにもない。市販のフラワートルティーヤに、茹でた鶏肉を裂いたものを黙々と包んでいた。

「ジェフ、そこの耐熱皿にオリーブオイル塗っといて」

 天板で作業をしつつジェフに指示を出し、火にかけたソースパンとスープの様子を見る。

「あと、これ混ぜといて。いつもの要領でね」

 まだサラダスピナーを回しているジェフに、ボールに入った材料を示す。レモンと刻んだニンニク、塩、胡椒が入っている。

料理にはからっきし疎いジェフにサラダを任せ、巻き終わったトルティーヤを耐熱皿に並べる。背後のソースパンの火を止めて手元に引き寄せ、トマトソースの味見をする。

 客が一人来るからといって、作業に変わりが出る訳でもない。さほど金に困っている訳ではないが、エディの収入では毎日外食という訳にはいかない。デリで買って帰るか、冷凍食品が続くことになる。幸い、特に凝ったものでなければ、エディは自炊は苦にならなかった。ただ、一人であればワンプレート・ディナーで済ませてしまうのだが、人と一緒となると、最低限の体裁は整えることになる。

今日は、チキン・エンチラーダとレンズ豆のスープ、ギリシャ風サラダ、デザートには最近グラマシーに出来た洋菓子店で、マーブル・チーズ・ケーキを買ってきた。濃厚で美味しい、と勤務先である薬局の同僚から聞いていた。

 大きめの耐熱皿をオーブンに放り込み、やっとエディは一息ついた。ジェフもエディの指示通り、サラダを仕上げていた。

と、玄関でブザーが鳴った。階上の住人のお出ましらしい。主であるジェフが出迎えに行っている間に、散らかった洗い物を軽く濯いで食器洗浄器に放り込む。クリスはワインを持ってくる、とジェフは言っていた。

(何か、つまみぐらい作るか…)

 エディは天板下の戸棚を開き、オイルサーディンの缶詰を取り出し、バゲットをスライスし始めた。

 ジェフといると、つい、まめに世話を焼いてしまう自分の気持ちまでは、エディは全く自覚出来ていなかった。

 

 

 クリスが持参したワインは、彼の遠縁が経営しているワイナリーで作られた、ソーヴィニヨン・ブランのテーブルワインだった。来客用になら、たまに購入する事もあるが、普段に飲むものとして、わざわざ購入するのは億劫になるもの。つい短絡的に、ウイスキーやジン、ウォッカを優先してしまうのは、エディもジェフと同様だった。対照的に、曽祖父がヨーロッパからの移民だったというクリスは、実家の影響か、ほぼワインしか飲まない。

 既にクリスの持参したワインも2本目が空こうとしている。

 思ったよりも腹にたまった食事のため、チーズケーキの存在は無視され、リビングのキャビネットに収まっていたボンベイサファイアのボトルがテーブルに鎮座していた。

「本当にクスコを持って来られたら、どうしようかと思ってたよ」

「止めてくれよ。俺を殺す気か?あんたは」

 クスコ。クリスが昼間に大笑いした対象物である。

「でも、二人とも使ったことぐらいあるだろ?」

 クリスは平然と言ってのける。

「え?」

 聞かれた二人は同じ反応を示した。

 男性が使うことは、まずあり得ないこの医療器具は、女性器内部の検査に使われるものだ。鳥のくちばしのような形状をし、挿入後に傘のように開くことで、入り口をより大きく広げてくれる。だから、『フィストも出来るようになる』とクリスが語った訳だ。

「だから、実習の時の話さ。エディ、あんたも確かスコットの大学時代の友達だったら、経験あるだろ?なんで医者になるの止めたんだ?」出会ってから、何度目かの同じ質問だ。

 エディは、ミッドタウンにある薬局で、薬剤師として勤務している。

 ミッドタウンには多くの企業が集まるのと同様、大病院から個人経営のクリニックに至るまで、医療施設も多い。その処方箋を扱う薬局や、医療品供給所も同じく多数ある。

 エディが、スコットと同じメディカルスクールにいたという事は、ほんの数人しか知らない事だ。それでも、何故医師になるのを止めたのかという点は質問しない、というのが不文律になっていた。クリスを除いて。今までは無視してきたのだが。

「ま、早く言えば落ちこぼれかな」

 自嘲気味に、エディは答えた、あながち間違いではないが、正解ではない。

「ジェフと違って、俺は女もいけるし。節操なしに遊び過ぎたんだよ。ま、節操ないのは今も変わらないから、こないだも…」

「俺だって、両方いける」ジェフが反論する。しかし信憑性は薄い。彼が女性と最後にデートしたのは、彼が出身地のシアトルからサンフランシスコに移った時だというのだから。

「俺は、どっちだっていいねぇ。楽しませてくれるんなら」にこやかに、きっぱりと発言したのはクリスだった。

「どのみち、あと何年かしたら、実家に戻って結婚するのは決まってるし」

 再びエディとジェフが、驚きの視線をクリスに向ける。

「驚くことないだろう?向こうにフィアンセがいるんだ。まだ2回しか会ったことないけどね。お楽しみは、こっちにいる間だけの期間限定。今の病院にも結構いるぜ。似たようなのが」

 クリスは、ニヤニヤ笑っている。

「眼科部長のバーンスタイン。彼も『そう』だぜ」

 ジェフが、グラスを満たした酒と同じ色の目を見開く。

 彼らの内輪話には、エディは全く興味がなかった。が、それを話しているクリス本人に、改めて興味を持った。正確には、警戒心を。

「嘘だろ?大体、なんで分かったんだ?」

「先週、彼と寝たからね」

「お前な…」

「会員制のバーでさ。当然お高い代わりに秘密厳守のね。偶然ばったり会ったんだよ。話しかけて来たから、口止め料の交渉かと思ったら、口説いてきたんだよ。ま、その時1回こっきりだけどね」

「確か、彼は結婚してたよな」

「してるよ。来年大学に入る娘と、ハイスクールに入ったばかりの息子もいる」

「家族思いで有名だったろ?彼は」

「そんな奴ら、いくらだっているさ」

 ジェフは、まだ信じ難い、と言った表情をしているが、クリスはあっけらかんとしたものだった。彼もまた、上司と同じ道を歩もうとしている。それは、エディにとってもまた、よく知ったものだった。

「じゃ、俺はそろそろ失礼するよ。明日朝一番に予約が入ってるんでね。エディ、ディナーごちそうさま。ジェフ、クスコ要りようだったら言ってくれ。話つけとくから」

 クリスにつられ、ジェフとエディも立ち上がった。

 玄関まで送る際、ジェフの腕はエディの腰に回されていた。

「あ、エディ。マイクから伝言。明日朝、取りに行くってさ」

 ドアノブに手を掛ける前、振り返ったクリスが目を細め、エディの腰を抱いているジェフの腕をしっかりと視界に捉えたのを、エディは見逃さなかった。

「俺にはまだ、あそこまでは割り切れないな…」

 ドアが閉まるなり呟いたジェフが、エディの腰にまわした手に力を入れた。

「でも親から何か言って来ないか?」

「やれ婆さんの誕生日だの、感謝祭の日に帰って来れないかだの、何か考えてそうだけどな」

 テーブルを片付けだしたエディを、ジェフも手伝う。

「でも気は進まないな。相手を騙してまで身を固めるなんてな…」

 ジェフはため息をついた。

「立場上は、そうも言えなくなってくるぜ。あまりに何もないと疑われるのは確実だろ?それともカムアウトするかい?」

 エディの言い方は、ジェフには冷たいと思われただろう。エディとてカムアウトしていないのは同じだが、店の同僚やその紹介など、女とのデートも何度となくあるのは同僚も承知している。『まだ縛られたくない』という、言葉の効力はあった。第一、万が一ばれたところで、出世などには無関係であるところが一番大きい。

「そういう、お前の所は?」

 自分の結論を出したくないジェフが、エディにお鉢を回す。

「さぁね。大学の専攻を変えた時点で、親父の事業は弟が継ぐことになったみたいだし。俺は家族の中でも『異質』だからな」

 テキサスの小規模都市の出身のエディの実家は、父親が幾つかのアミューズメント施設や飲食店を経営していた。僅かながら、生前相続の財産や、信託財産もある。本来なら、ジェフやクリスとも変わらない生活も可能だった。しかしーーー

「異質、ね。素直にそれを認めて受け入れるか、本質を見えない振りして無理やり世間に合わせるか…」

 リビングに戻ったジェフが、グラスに再び青い酒を満たして、ごちた。ジェフに促され、エディも隣に腰を下ろす。

「世間に合わせて周りを騙すんなら、徹底的にやって貰いたいもんだな。分かった時に嫌な気分になるのは家族の方だ」

「分かってるよ」

 ジェフがエディの手を取り、自分の膝の上に乗せた。強く握ってくるその手を、エディも握り返す。

「今夜は泊まってっていいか?」

「車で来たんだろ?当たり前だ」

 ジェフが、もう一度エディの手を強く握った。

 

 

『エディ、聞いてちょうだい。パパの書斎から、こんな写真とビデオが…』

『あぁ、でもパパには何も言わないで頂戴。パパを責めたら駄目よ。ママが我慢すればいいだけよ』

『親戚の中でも、何のトラブルもないのは、うちだけなのよ』

『おぉ、チャーリーにもいわないで。あなただから大丈夫だろうと思って言ったのよ。あなたはチャーリーとは違うもの。あの子は、あなたほど強くないわ。自分の父親がゲイだなんて知ったら、パパの事憎んでしまうわ』

(ママ、言わないよ。チャーリーは、きっと受け止めきれない。でも、パパは本当にゲイなの?)

『パパは違うって言ってるけど…いいのよ。ママがしっかりしてさえいればいいんだから』

(ママ、大丈夫だよ。俺はパパにつらく当たったりしない。だって、もしパパが、俺が全部知ってるって分かったら、自殺しかねないよ)

 

(夢かよ…)

闇の中、聞こえてくるのは時計の音と、隣で眠るジェフの寝息だけだ。

 エディの父親は、いわゆる『隠れゲイ』だった。本人は母に対して否定していたようだが、エディが母親から見せられた父の『宝物』は、明らかに特殊な店でしか扱っていないものだった、さもなければ、プライベートな撮影会で入手したものか。後者であったほうが、更に疑惑を確固たるものにしただろう。

 母がエディにだけ、そういう相談をしてきた理由は明らかだった。エディのクラスメートのせいだ。

ハイスクールの同じクラスに、ゲイであることをカミングアウトした者がいた。当然、その告白を境に周囲の態度は一変し、二つに分かれた。エディは、数少ない容認派の一人だった。かといって、当時は自身もストレートだと思っていた上、特にゲイに理解があった訳ではない。ただ、ライフスタイルの自由は尊重すべきだ、と思ったに過ぎない。

 対照的に、噂を聞いた弟のチャーリーは『気持ち悪い』と公言していたので、母親が、父の事は黙っていろ、というのは頷けた。しかし、話を聞いた父までも『気持ち悪い』、更には『あんなのを認めるなんて、お前も変わった奴だ』とエディに言ったのには驚かされた。

 その父が、『隠れゲイ』だったのだ。ショックというより、笑い話にしかならなかった。

(見つかるような所へそんな物を放っておく間抜け親父に、そんな風に言われたかないな)

 父親に言われる前から、エディには微かに自覚があった。

 そも、なぜ普通に『生きている』だけで、こうも違和感を感じるのか。自身では、ごく普通に振舞っているつもりである。なのに、何かが違っている。周囲が、その違和感をエディに向けるほどではない。しかし、自分が日々感じる違和感は、決して消え去る種類のものではなかった。目に見えない塵芥のように心の中に降り積もって堆積し、息苦しさを感じさせるまでに成長した。まるで、水の中を歩いているかのように、体が自由にならない動き辛さ。

 家族の中で、自分が『異物』のようである事は、ハイスクールに入った頃には感じていた事だった。

『Black sheep of a family(家族の中の黒い羊、異邦人、仲間はずれ)』

 まさに、自分がそうなのだ。家族の中にあっても、友人、知人の中にあっても。

 何がどう違うのか?

 素行が悪い、協調性が欠けている。そういう分かり易い事であれば、どれほど楽だっただろう。ただ『規格外』の存在。

 友人がいない訳ではない。人といる事、人付き合いが苦痛という訳でもない。しかし、どこか自分が無理をしているように感じる。自分はただ、平穏に生きたいだけなのに。

今ならば、精神科医にかかり、相談するところだろう。しかし、テキサスの中途半端な規模の町でそんな事をすれば、すぐに町中に知れ渡るのは目に見えていた。スクール・カウンセラーも、当てにはならない。一度は試したのだ。しかし、母親と同世代の中年女性は、彼女なりの可能な限りの母性愛溢れる微笑みを浮かべて、エディに言った。

『ティーンの頃には、誰しもが通る関門のような物よ。自分が何者であるかを知ろうと、あなたは模索しているのよ。悩むのが当然の事だから、心配いらないわ。時間が解決する事よ』

(模範解答をどうもありがとう)

 ならば、この息苦しさは何なのだ?周りに感じる違和感は?周囲が自分はこういう人間だと認識しているものとは違うのは、すでに自明なのだ。

 なぜに、親からも『お前は違うから』と言われねばならない?それすら、大人になる為の過程だと?

 さすがに親の言動や、女にさほど興味が持てない事までは、話せなかった。

 図書館にも通い、関係があると思われる書籍も読み漁ってみた。しかし、重篤な例や環境が及ぼす発達心理学など、自分が当てはまるとも思えなかった。

(所詮、この程度で悩むな、という事か)

 半ば諦めを持ってエディが決意したのは、この地を離れる事。出来るなら、東部、N..Y.へ、と決めたのも、この頃だった。

離れていた方が、お互いにベターな関係もある。たとえ、血の繋がった親子であっても。

(俺がいなくったって、母さん、あなたにはまだ、チャーリーがいる)

「エディ、眠れないのか?」

 ジェフが目を覚ましてしまったようだ。闇の中で目を凝らして見える時計は、午前2時を指している。

「軽い睡眠薬が、そこのテーブルの引き出しに…」

「いらない」

 エディは、ジェフの言葉を遮った。

「そうだな。お前は薬を飲まないんだったな」

 本格的に目が覚めたのか、ジェフは起き上がっていた。

「酒が抜けたら、目が冴えてきちまった。俺は薬飲むから水淹れてくるけど、何か要るか?」

「俺も水」

 ジェフがガウンを引っ掛け、枕元のスタンドを点けた。やわらかいオレンジ色の光がベッド周りを照らす。

(そう、もう薬はいらない)

 薬局勤務でありながら、エディは医師の指示でない限り、アスピリン以外、薬は全く飲まない。医師になるのを断念した時から。

 エディの薬嫌いは、同僚たちも皆知っている。しかし、事情まで知っているのは、スコットだけだ。それでも、全てを知っている訳ではない。ジェフも当然知らない。彼が詮索好きでない事。これが、ジェフと付き合っていられる理由でもあった。言えない訳ではないが、進んで言える類の話でもなかったのだから。

 ジェフが、ミネラルウォーターの入ったグラスを2つ携えて戻ってきた。エディが起き上がった側へ腰を下ろすと、ナイトテーブルの引き出しから、プラスティックの壜を取り出し、中の錠剤を1錠振り出して飲んだ。短時間で切れるが、即効性のある、軽い睡眠薬である。乱用すると耐性が出来てしまうので、ジェフもたまにしか服用しない。

エディの飲み干したグラスをテーブルに置いたジェフは、ベッドに上がるとエディの腕を引き、そのまま押し倒した。

「ジェフ、何す…」

 開いた口は、ジェフの唇に塞がれた。抗おうとしたが、意図を悟り、柔らかく彼の背中に腕を回すに留める。キスは欲情を誘うものではなく、相手に自分のエネルギーを分け与えるかのような優しいものだった。

「俺の処方した睡眠薬だよ」

 体を離したジェフはすぐに顔を背けていたが、きっと自分の吐いた台詞に赤面しているに違いない。

 エディはベッドに潜り込むと、ジェフの肩口に顔を押し付けて、目を閉じた。


2
最終更新日 : 2014-04-11 15:57:45

chapter 2-2

 

「エディ、久しぶり」

 カウンターに出ているエディの姿を見つけるなり破顔したのは、マイケル・ウィルトンだった。ロウワー・イーストサイドの診療所で小児科医をしている。クリスの言っていた『マイク』である。元は、ジェフやクリスと同じ病院に勤務していたのだが、保険会社のいいなりのやり方に嫌気が差し、辞表を叩きつけたのが三ヶ月前と聞いている。小柄な体に、柔らかそうな長めのブラウンの巻き毛を後ろで一つに縛り、誰もが安心して心を開きそうな天真爛漫な笑顔が、彼の最大の特徴だった。

『自分が子供だから、子供の医者になったらしい』とは、マイケルとはメディカル・スクールで一緒だったクリスの弁だが、クリス自身が眼科を選んだ理由も聞いているだけに、2人がなぜ友人同士なのかは、エディやスコット達の中で謎だった。

『自分がファックしたいと思わない奴の体には、最低限しか触れたくないね。第一、一番生死に関わりなさそうだろ?』

「用意できてるぜ、マイケル。取り寄せも含めてな」

 錠剤のシートの束をカウンターの上に並べる。まだ病院の診察が始まって間もない時間の為、ソファにも誰もいない。

「そろそろ慣れたかい?」

「まぁね。たらい回しにされて半狂乱になった親を見ずに済むだけましさ。本当、HMOなんてクソだぜ」

 普段は穏やかなマイケルが吐き捨てるように言う。

「ま、所長が、俺がガキの頃から知ってる従兄だしな。あ、多分クリスマスに子供たち集めてパーティーやるからさ、来てくれよ。プレゼントくれとは言わないけどさ。詳しくは、リンが招待状作ってるから」

 リンは、マイケルの妻である。思春期の少女のトラブルは、彼女の持ち回りらしい。望まぬ妊娠で訪れる者、家出をして保護されたものの、明らかに虐待を受けている形跡のある少女など、男性の手に負えるものではなかった。

「じゃ、俺、戻るわ。スコットやジェフにもよろしく言っといてくれ」

 用を済ませたマイケルは、疾風のように去って行った。

「エディ。今日、ランチ一緒に行かない?そこの角に新しく出来たカフェがあるのよ。チャイニーズ風だけど」

 奥から同僚のアリスンの声がした。

「了解。あ、昨日のグラマシーで買ったチーズケーキ、全く食わなかったんで持ってきたんだ。後で食おうぜ」

「じゃぁ、コーヒーは私がおごるわ」

 エディは、奥にいるアリスンに親指を立ててみせ、ドアを開けて入って来た客に注意を向けた。

 

 

 遅めの昼食を取りに病院を出たところで、ジェフは後ろから肩を叩かれた。

「飯だろ?付き合うぜ」

 クリスの場合、誘いというより、半ば命令のようなものだ。しかしクリスは、ジェフが嫌がらない事を承知していたし、ジェフもまた、クリスの誘いにほっとしていた。早くどこかの店逃げ込んでしまわなければ、ナースに捕まり、下らないお喋りに付き合わされてしまう。

 店はクリスに連れられるまま、古く小さなレストランに入った。その店のお勧めだというラムチョップとフレンチフライ、サラダとコーヒーを頼む。

「あ、あとデザートにプラリネアイスクリームを」メニューを見て、ジェフが追加した。

 ジェフの味覚と食生活は、エディとクリスによって維持されているようなものだった。甘いもの中毒という以外、食べ物には無頓着な為、通いの家政婦の女性が作り置きしてくれる食事以外は、外食ばかりになる。かといって、一人では億劫なので、テイクアウトフードになるのだが、面倒くささが祟り、ついジャンクフードになってしまう。

 キッチンに立つことを厭わないエディが作る食事は、ジェフが見る限り、栄養バランスを考えているようだ。自身の健康管理のためだろうが。比してクリスは、栄養云々ではなく、いわゆる美食家のようだった。自分の欲求に素直なのだが、舌はそこそこ肥えているように感じられた。

「そういえば、昨日の呼び出し、何か特別な急患が入ったらしいじゃないか」

 ソーサーを持ち上げコーヒーを一口飲んだクリスが口を開いた。相変わらずの笑みを浮かべて。

 プラリネアイスクリームを平らげたジェフは、煙草に火を点けたところだった。

「あ?もう耳に入ってるのか。早いな」

「今朝、うちの検査も入ってたんでね」

 昨日の午後、虫垂炎で運びこまれた急患の事だ。ソープオペラの主演女優らしい、とは聞いていたが、テレビをほとんど見ないジェフにとっては、単に女性患者の一人に過ぎなかった。

「転倒して顔をどこかにぶつけたって痣つくってたな、そういえば」

「一応、眼底検査が必要だったらしい。問題はなかったけどね。たまたま俺に回ってきたんだよ。で、だジェフ」

 改めてクリスがジェフの顔を覗き込んで来た。ジェフはぎくりとする。

「ちょっと面白い事を思いついたんだ。今晩、俺の家へ来いよ。牡蠣の良いのが手に入ったんだ。食いながら話そう」

 ジェフの返事を待たず、クリスは立ち上がり、行ってしまった。

 彼はいつもそうだった。エディと一緒の際は遠慮があるのか、そうでもないのだが、ジェフ一人が相手だと、彼の意思の確認もなく、勝手に決めてしまう。それを嫌がっていない自分を、ジェフも自覚はしていたが。

 煙草を吸い終えてから、ジェフは席を立った。ウェイターを呼ぶが、勘定はクリスが済ませていったらしい。まぁ、いい。礼の意味で、彼の好きなラリックの小物でも持って行ってやろう、とジェフは考え、店を出た。

(ハリス・アンドディップルの近所じゃないか?)

 ハリス・アンド・ディップル、エディの勤務先である。久しぶりに、彼の仕事中のポーカーフェイスを拝んでやろう、と思い立った。

 ジェフの知るエディの顔は、ジェフが散らかした部屋を片付けながら怒る顔、鈍感な自分に呆れ返る顔、ベッドの中で眉間に皴を寄せながらも、決して嫌がってはおらず、時折覗かせる夢を見ているような顔。そして、どこも見ていない、空っぽの表情ーーー。

 昨夜、クリスが帰った後、エディがそんな顔をしていた。

「OK!じゃあ、何か好きなトッピングと、ジェノベーゼ・ソースでも持って行くよ」

 エディの声がした。隣には見覚えのある女性の姿。エディの同僚だろう。楽しげに肩を叩きあい、店の裏口へ吸い込まれて行った。

(俺には、あんな顔見せた事ないくせに!)たとえ、これがエディの本来の姿ではなくても。

 昨夜のエディを思い出して心に浮かんだ愛しさは霧散し、もう1本煙草を吸う為、ジェフは病院への道を急いだ

 

 

「メリッサ・エルウッド。今やってる『レストレス・アンド・ワイルド』ってドラマの主演女優だ。まだ撮影自体は残ってるんで、退院後ももうしばらくは、マンハッタンに滞在らしい」

 ケータリング・サービスに処理を頼んだ生牡蠣は、摩り下ろした生姜を載せたものと、レモンがそれぞれ添えられていた。更に、マリネを乗せたブルスケッタ。昨夜と違って、今夜は冷えた辛口のスパークリング・ワインが用意されていた。

 ジェフは、あらかじめ五番街で購入した貢物の箱を、クリスに手渡し、ワインに口をつけた。

クリスは、その包みを開けながら、尚も説明を続ける。

「彼女の付き人…というか、エージェントか。彼は俺を気に入らないみたいだったけどね。確か、マーク…マーク・アーモンドて言ったかな。もろに、オカマのね」

 喉を鳴らしてクリスは笑った。反対にジェフは苦虫を噛み潰したような顔になっていた。昨日、もう少しで腹膜炎を起こすところだったという彼女の手術を終え、出て来た所を弾かれたように飛び出して来たのが、そのマーク・アーモンドだった。メリッサのエージェントだと名乗った彼は、ひとしきり彼女が今大事な時期である事を語りながらも、ジェフに色目を使うのを忘れていなかった。それを俄かに思い出した。

「彼女はウィスコンシン出身らしいんだが、幸い俺の実家にいた家政婦もウィスコンシンのウィノナ出身でね。実家で食べたミートローフの話をしたら、今度食事に行こうって話になったんだが…乗らないか?」

「乗る?何に?」

「彼女の担当、あんただろ?幸い、あのマークは多分あんたがお気に入りだ。違うか?」

 ジェフは肯定する代わりに、ワイングラスを干し、生姜の乗った牡蛎にてを伸ばした。クリスも、レモンを絞ったものを手に取り、顔を上げて柔らかい身を口の中へ流し込む。白い喉がさらけ出され、波打つように動く。

 暗褐色の髪のジェフやエディと違い、クリスの柔らかいウェーブのかかった髪は、明るいブラウンだった。普段は、ジェフのように後ろに撫で付けている。しかし、ジェフが訪れた際には、すでにシャワーを浴びた後なのか、ふわりと顔を囲むように下りている。生成りのシャツは広く胸元が開けられ、やはり白く滑らかな肌をさらしていた。ジェフは、クリスの一連の動きから、目が離せずにいた。

「つまり…」

「つまり?」

「俺とあんたと、、どちらが彼女を落とせるか、賭けようぜ」

「悪趣味だな」

「お褒めの言葉をどうも。単なるお遊びじゃないか。彼女だって、ショウビズの世界の住人だ。素人じゃない。第一、このゲームに参加するなら、俺たちはあるメリットを享受できる」

「何だよ、メリットって」

「しばらくはナースの誘惑も、ゲイの噂も心配しなくていいって事さ」

 クリスの言葉に、ジェフは心の中で手を打った。確かに名案である。あのエージェントが少々面倒だが。

「それについては今日、既にとっ捕まったんだがなぁ」

 もう一つ牡蠣に手を伸ばしながら、ジェフの顔が憂鬱そうに歪んだ。夜勤明けから、急患が来た事で居残りになっていたERのナースに、クリスマスのデートを半ば強引に約束させられていたのだ。

「ちょうどいいじゃないか。しばらくは、それで噂も立たないし、そのナースだって相手がセレブリティ(有名人)なら身を引いてくれるさ」

 楽しそうに言うクリスは、ジェフから受け取ったラリックの繊細なガラスの器に見入っていた。が、静かにそれをテーブルの上に置き、ジェフの座るソファの肘掛へ腰を下ろした。思いがけない行動に、ジェフはつい、びくりとひるんだ。

 その様を口の端で笑うクリスは、ジェフの肩に手を回し、もう一方の手で、ジェフのつけているエルメスのケープコッドのベルトを緩める。

「今は、エディ以外は?」

 クリスの顔が近づき、囁く。外された腕時計は、ラリックの器に掛けられた。時計を外した手がジェフの太腿にかかる。ジェフはされるがままになっていた。

「本気で誘ってるのか?」

 クリスはジェフの耳元で可笑しそうに笑った。その声を捕らえた耳に、暖かく柔らかい感触が触れた。更に囁く声がする。

「エディにばれるのが怖いとか?」

 顔にかっと血が上ったジェフは、クリスの唇を噛み付くように塞いだ。

 

 

 昼休みにジェフが不貞腐れたのと同様、同じ日の夕方、エディが不貞腐れる番だった。

 人の家での食事に外食、と重い食事が続い為、エディはアパートの近くのカフェに寄った。昼の食事も重かった上、チーズケーキまで平らげたのだ。少しばかり胃袋を休ませたかった。

 デリも兼ねたこの店には、作るのが面倒になった時、買って帰るのに立ち寄る。が、あいにくと時間帯が悪く、テイクアウトの方は混み合っていた。チップ代が勿体無い、とも思ったが、列に並ぶのも面倒だった。とにかく、まずは腰を落ち着けて、コーヒーが飲みたい気分だった。やってきたウエイトレスに、コーヒーと日替わりのサラダ、ペストリーを頼み、一息つく。本来なら、あと1時間は早く帰れる筈だった。エディは、昼休みが終って店に戻った時を思い出していた。

『よぉエディ。別嬪さんがお待ちだぜ』

 呑気そうな声をかけてきたのは、遅番で出勤した同僚のダニエルだ。調剤室に入り、カウンターの方を覗くと、見覚えのあるストロベリー・ブロンドの女性が立っていた。

『エディ、ごめんなさいね、お仕事中に』

『君、確かジェフの所のジュディ?』

『ジュディスよ。覚えててくれたのね。ありがとう』

『美人はね』エディは破顔した彼女にウィンクを投げる。ジュディス・ニーマイア。以前、散々ジェフの身上調査のヒアリングをされたのだ。簡単に忘れられる印象ではない。

『今日、仕事終ったら、少し時間貰えない?』

 人の目もある。とっさに断る理由を、エディは思いつけなかった。

『あ、ああ、1時間程度なら』

『よかった!じゃあ、5時半にそこのテディズで待ってるわ』

 ジュディスは、すぐ目の前のダイナーを指名し、帰って行った。

 ジュディスの事は、さすがに誰も冷やかさなかった。彼女がジェフ目当てで、エディに近づいているのは、同僚数人の中でも周知の事だ。結局、仕事が終っても、小1時間ほどの労働をこなす羽目となった。

 クリスマスイブに、ディナーの約束を取り付けたが、好みは何か?最近は遊んでいないのか?好みのタイプは?エトセトラエトセトラ。

 事実を話す訳にはいかなかったが、甘い物中毒と、特に食の好き嫌いは無さそうな事。実家では、誰かを紹介しようとしているらしい、といった事を勿体つけて話すと、彼女はそれなりに満足して、エディを解放してくれた。

(どうせ、押し切られて了承しちまったんだろうに。なんで、俺が巻き込まれるんだ?)

 うんざりした顔で、エディは運ばれてきたペストリーに齧りついた。不満の正体には気づかずに。

 

 

 暗いベッドルームにライターの灯りがつき、紫煙が上がる。

「灰皿は、そこのアクセサリー・トレイを使ってくれていい。他にないんだ」

 うつぶせに横たわるクリスが、物憂げに言う。

 体を起こしたジェフは、答える事なく、イタリアン・ブランドの名を施したガラスのトレイを指で近くに引き寄せた。

(とうとう、やっちまったな…)

 いつかはクリスと寝るだろう、いや、寝たいと思っている自分に、ジェフは気がついていた。またクリスも、思わせぶりな態度ばかりを取る。今夜のように直接的な行動が今まで無かったので、何も起こらなかっただけだ。

(エディには黙ってた方がいいだろうな)

 特にジェフとエディが恋人同士である、という約束をした訳でもない。ありがちな、『なんとなく、いつの間にかそうなっていた』というやつだ。お遊びとして『余所見をするな』という事はあっても、先日の物見遊山のように、エディもジェフが他の男に声をかけられようが気にもかけていないようである。

 また、ジェフはそこで、昼間見た楽しそうに笑うエディの姿を思い出した。

「なぁジェフ。エディが、なんで医者になるの止めたか知ってる?」

 急にエディの名を出され、ジェフは後ろめたさを感じた。

「今、エディにこの事言おうか迷ってたろ?」

 クリスは枕に顔をうずめて笑っている。図星なのだが、肯定するのも癪に障る。ジェフは、答えなかった。

「わざわざ言う必要はないんじゃない?」

 言わなくても、きっとばれるに決まってる、とクリスが考えている事までは、ジェフには思いつかない。

「エディって薬嫌いだったよね?メラトニンとか、FDAのサプリメント扱いの物でも飲まないだっけ?」

「ああ。アスピリン以外で飲んだのを見たのは、二日酔いが酷い時に、制酸剤を飲んでたぐらいだな」

「ふぅん」

「何、考えてる?」

「いや、何か関係あるかなぁってさ。ジェフ、明日、仕事は?」

「宿直」

「じゃあ、まだ時間はあるわけだ。俺は休みなんだ」

 ジェフが短くなった煙草をガラスのトレイに押し付けると、クリスの楽しそうに笑う声がした。


3
最終更新日 : 2014-04-11 15:59:14

chapter 3-1

 

 

 

 週末と週明けは、病院やクリニックに連動して忙しい。立込んできた来たレセプトと格闘している最中に、カウンターを指先で叩く音がした。エディは、顔を上げずに声をかける。

「あぁ?医者が薬局に来て、何の用だ?」

 クリスが立っていた。今日はオフなのだろう。長めのウェーブがかかった髪を下ろしているので、ミッドタウンの病院勤務の医師には、とても見えなかった。

「昨日、マイクから聞いたか?パーティーの件。」

「聞いた聞いた。リンからカード待ち。しかし、なんで、あんなまっとうな奴とあんたがつるんでのか分からんね、俺は」

 昨日訪れていたマイケルは、小さな診療所に移った自分を偽善者かも知れない、と語った事がある。しかし、彼が州立大学からスカラシップを取って、転入でクリスと同じメディカル・スクールに入った事を考えれば、理解出来る行動だ。

『クリスは正直なだけさ。学部生から、あそこにいるんだぜ。普通、楽な道を選ぶよ。ましてや、彼は跡継ぎだしね』

「俺が、真っ当じゃないって事かな?それは光栄。で、暇?」

「に見えるか?あと10分ほど待って貰えるなら、手は空くと思うけど」

 エディは回って来た薬とレセプトをさらにチェックしながら答えた。

「じゃあ、飯行こうぜ。待ってるし」

 クリスの返事を聞いて、エディは手で追い払う真似をした。

「クラークさん。コリー・クラークさん。お待たせしました」

 エディの呼びかけに、ソファに座っていた砂色の髪の青年が立ち上がった。カウンターの前まで来て初めてサングラスを外し、エディが手にした点眼薬と軟膏に見入る。その顔を見て、エディは一瞬ポーカーフェイスを崩した。案の定、さっき後ろに下がりかけたクリスも気づいたようだった。髪の色は違うし、体格も彼の方がややしっかりとしている。しかし、似ているのだ。そのすぐ近くにいるクリスに。

「こちらは点眼薬です。医師から聞いてらっしゃると思いますが…」

 事務的に説明するエディの声を聞きながら、その青年、コリー・クラークの眼光が和らいだ。そうなると、ますますクリスによく似ていた。

 そのエディの視線に気づいたコリーがクリスを見やり、何かに気づいたような顔をした。

「あぁ、気づかれましたか」

 悪戯が見つかった子供のような表情で、クリスが近付いて来た。この顔が曲者じみている、とエディは思った。彼の担当患者は、これが彼の本来の姿だと思い込んでいるに違いない。

「これも所詮、抗生物質の一種ですからね。こういうものは、血中濃度が一定以上保たれればそれでいい訳ですから…」

「クリス!」

 語り始めたクリスを、エディは制止した。

「失礼。私も医者の端くれで、眼科医なもので、失礼しました」

 髪をかきあげながら、クリスは人当たりの良さそうな笑みをコリーに向けた。

「ほぅ」

 目の前の青年は、口の端を上げて、にやりと笑う。せめて彼が血の気が多いタイプでないように、とエディは祈った。

「つい、調子に乗って喋りすぎるのが、私の悪い癖なんです。申し訳ない」

「いや、構いませんよ。で、あなたの病院はどちらです?ドクター…」

「デ・ガーモです。クリストファー・デ・ガーモ」

 エディは置き去りにされ、二人だけで勝手に会話を始めている。さし当たってトラブルを回避出来たことに胸を撫で下ろす。待っている患者の方を見ると、茶番の一部始終を見ていたと思しき老人が、目が合ったことに慌てて視線を逸らした。

「失礼」

 エディは老人に会釈をし、調剤室へ入った。

 本人の努力もあったろうが、挫折する事を知らず、望めば全てが手に入れば、ああいう人格が形成されるのであろう。

 エディは、クリスが羨ましくないといえば嘘になる事を自覚している。自分もこうであれば、と思う部分を持っているだけに、惹かれる所はあるのだが、常に行動を共にするのは危険だ、と理性が警告するのだ。数年前のように、医師になるのを諦めただけでは済まなくなる。そうなりたくなければ、一定の距離をおいて付き合う事だ、とジェフに紹介された時に、エディは決めていた。

 受付の方は、いつの間にか静かになっていた。待っている老人の為、薬の束を持ち、カウンターへ出る。既にそっくりな二人の姿はなく、走り書きのメモが置いてあった。

『デヴィッド・Kで待ってる/クリス』

「マクダウェルさん。お待たせしました」

 メモをくしゃりと握り締め、エディは老人に声を掛けた。

 

 

 果たして15分後、エディはお喋りな眼科医の友人と、中華料理のテーブルを囲んでいた。

(2日連続か…)

「なぁ、エディ。俺の好奇心に応えて貰える?」

「何が?」

 クリスの目は、獲物を見つけた猫のように爛々としていた。抑えきれない好奇心の現れである事が見てとれる。

「なぁ、なんで薬が駄目なんだ?副作用が怖いなんてわけじゃ…ないよな?」

(今度はそっちか)

「あながち、間違いじゃないと思うけど」

 苦笑と共に答える。が、クリスは納得しないだろう。

「一度、スコットに止められた事がある。ウィード(マリワナ)だろうが、合法なものだろうが、あんたには勧めないでくれって」

 クリスは、ウィードという言葉だけ更に低く囁いた。

「何故?」彼の目は笑っていた。

「医者になるのを止めた理由も駄目。薬が駄目な理由も教えない。それで、俺の好奇心が収まると思う?」

 思えない。そもそも誰なのだ。中途半端に、自分の事を彼に教えたのは。しかし、友人関係を続けていく以上、メディカル・スクール中退も、薬を飲まない理由も、いずれはばれてしまう事だ。

「その話をすると、結局医者になるのを止めた理由を話すのと同じだよ、クリス」

 エディの答えに、クリスの笑顔が更に明るくなったように見えた。

 クリスは、薬に耽溺するような馬鹿ではない。ただ、お楽しみのスパイスとして使いたいだけだ。それはエディも重々承知している。自分までは巻き込まれたくないが、下手に隠し通す事で、良からぬ事をされる方が更に恐ろしい。

「ただし、あんた一人に話すんじゃない。ジェフも一緒に、だ。それで良ければ」

「OK、交渉成立だ。奴は今夜は夜勤だって言ってたし、明日の夜、奴の家でどうだ?」

 本人のいない所で、勝手に予定が決まる。まぁいいだろう。おそらくジェフは拒まない。

「じゃ、俺は先に行くよ」

 立ち上がったクリスは、途中でウェイターに声を掛けていた。恐らく勘定を済ませるのだろう。エディは遠慮なく厚意に甘える事にした。

 

 

 

「おかげで謎が解けたよ。遊び仲間の一人から叱られてね。自分とは行かないのに別の奴となら行くのか?ってね」

 クリスは、目の前に座る自分とよく似た男に向かってにやりと笑ってみせた。

 その男、コリーの手にクアーズの缶。クリスの手には、シャブリの注がれたグラス。

「立場上、妙な所には出入りできない。なんで俺がレザー・バーに出入りしなきゃならないんだって、そいつとは喧嘩になったよ」

「で、そいつが見たのは俺だったて訳か。その彼氏とは、どうなった?」

「どの道一度きりにしたかった相手だからね。それを理由に、これっきりにして欲しいって突きつけたさ。面倒はごめんだ」

クリスはコリーの隣に腰を下ろし、彼の広げた脚に自分の脚を投げ出すようにして絡めた。そのまま、コリーの頬にかけた手が制止された。コリーが『何故?』といった表情で見上げてくる。

「どうして?そのつもりで来たんじゃないのか?初対面でけしかけて来たのは、そっちだぜ」

 挑むような笑みを浮かべるクリスにコリーは相好を崩し、そっくりな笑顔を返した。

「ドクター、あんたは自分とファックするのが趣味なのか?」

「そうだと言ったら?」

 コリーはクリスの手を掴んだまま、カウチの背もたれに押さえつけ、噛み付くように唇を重ねた。掴まれていたクリスの手が、やがてコリーの手を払いのけ、彼の顔を首元からかき抱いた。

 しばらくして、唇を離したクリスが口を開く。

「ここじゃ、ゆっくり出来ないだろ?あっちへ行こうぜ。酒も時間もたっぷりある。あんたさえよけりゃね。俺は明日も休みなんだ」

 自身の乱れた前髪をかき上げ、クリスの唇が、淫らな笑みを形作った。

 

 

 

 ペン駅手前で西へ折れ、10番街を南へ下る。エディは自身の愛車、白いホンダ(勿論、中古車だ)に乗って、自宅へ向かっていた。

 ハロウィンも感謝祭も済んだ。クリスマスまではまだ間がある。しかし、人と会うイベント事は、重なる時は重なるものだ。

先日の昼休み、ジャージーから通っているアリスンから、自宅でピザ・パーティーをやるから来い、と言われ、つい承諾してしまった。

 同僚との付き合いも、平穏な生活を守る為の必要悪、とエディは考えている。その辺りがジェフは下手くそなのだ。だからこそ、忙しく、時間の不規則な職業を選んだのかもしれないが。

 エディは、出来る限り自身のプライバシーを守りつつ、『穏やかな暮らし』がしたかった。その為には、あまり気の進まない同僚との付き合いも上手くやる必要がある。ことに、彼女のようなタイプとは。エディはただ、『普通に』暮らしたいと思っていたのだから。

(早く帰ってシャワー浴びたい)

 人に気を遣って、首の辺りがすっかり凝ってしまっている。久しぶりにバスタブに湯をはることも考えたが、溜めているうちに寝てしまう可能性が高そうだ。久しぶりの連休なのだ。明日は部屋の掃除もしたかった。

 アパートのすぐ前の歩道に車を乗り上げ、エディはシートから重い腰を上げた。

 

 

 鍵の開く音が、連続して聞こえてきた。ゆっくり目を開けると、すっかり夜は明けている。玄関の方から聞こえてくる音は、無理矢理開けようとしているものではなさそうだった。それでもエディは、ベッドの中で身を堅くし、サイドテーブルの引き出しにそっと手を伸ばす。以前に買い求めたアーミーナイフを右手に握り、息を潜める。銃に比べれば随分と心許ないのだが、無いよりはましといったところだ。

 足音がリビングを抜け、寝室のノブがゆっくり回ると、予想した通りジェフの姿がそこにあった。

「腹減った。朝飯食わせてくれよ、エディ」

 ため息をついたエディは、何も答えず体を起こし、今ある食材を思い出そうとしていた。

 コーヒーをセットし、その間にベーコンの片面にブラウン・シュガーと粗挽きの黒胡椒をたっぷりとかけ、天板に乗せる。スライスしたパンも一緒に並べて、オーブンへ放り込む。焼きあがる間に、出来たコーヒーとオレンジジュースをジェフと自分の分を用意してテーブルにおいた。甘味の少ない林檎の芯を抜き、残っていたレモンの汁を振りかけておく。

「せめて、電話ぐらいして来いよな」

 あくびをかみ殺しながらも、エディの手際は良い。

「もう世間は朝だぜ。それとも、昨夜遅かったのか?」

「何?焼きもちでも焼いてくれようっての?」

 パンに、ベーコンと林檎を載せ、皿に置いてジェフの前に出す。笑ってみせようとしたが、どうも、うまくない。きっと疲れているせいだ、とエディは思った。

「俺が嫉妬するような事でもあった?」

「…ないね」数秒、視線を明後日の方向に向けてエディは否定した。

 ジェフが夜勤明けの日、こうした強襲があるのは、今に始まった事ではない。昨日クリスから聞いていたので、多少予測はしていたが、ついこの前ジェフの家に泊まったばかりで、間隔が狭いのは珍しい事だった。

 仕事を終えたばかりのジェフは旺盛な食欲を見せ、用意した朝食を綺麗に平らげていく。

 この突然の来訪が、ジェフの後ろめたさと嫉妬の化合物である事は、エディは知らない。

 

 

「この背中から、腰のラインが良いんだよ」

 ジェフは、やもすれば酷薄に見える青い目を細め、隣でうつ伏せに横たわるエディの背中を指でなぞった。その刺激にエディもかすかに反応し、小さく息を吐いた。

「マッチョでもなく、女みたいに肉感的でもない。少年みたいな、さ」

 ジェフの指は背筋を辿り、更に双丘の窪みへ達していた。情熱的な唇が、その動きをトレースしている。

「悪かったな。どうせ俺の体は、あんたと違ってガキっぽいよ。あのさ、言っとくけどぺドフィリア(小児愛)は、立派な病気だぜ、ジェフ」

「よせやい。俺は毛も生え揃ってないようなガキには興味ないよ。勿論、くねくねしたオカマもな」

 体を寄せてきたジェフから、熱だけでなく、硬い感触がエディの体に触れた。

「まぁた、その気になってんのか?夜勤明けで、一発終ったばかりだぜ?あんたのその鉄人的体力には恐れ入るよ」

 嫌味を返したつもりだったが、失敗に終った。体の反応が、持ち主の意思を見事に裏切っている。肌は、与えられる快感に粒立ち、余計な声が漏れそうになるのを堪えるのに必死なのが現実だった。

「体力がなくちゃ、外科医は務まらない…」

 くぐもって笑う声が吐息となって、エディの背中を愛撫するように掠めていく。ジェフの手は、全く動きを止めない。体を支えていた手がエディの胸元に回り、体が反応しているのを確かめると、指の動きは更に大胆になった。

「分かったよ、あんたには、かなわない」

 苦笑したエディはジェフの方に向き直り、片手をジェフの下半身へと伸ばした。もう一方の手が、ジェフの顔を引き寄せるのと、ジェフが喰らいつく肉食獣のようにエディの唇を捕らえたは、ほぼ同時だった。

 ダウンタウンはすでに活動を開始し、街の喧騒が、部屋に響く二人の荒い息遣いをかき消した。

 

 

 まだ、時間は正午を回ったばかりだった。

ジェフはベッドで熟睡している。予定では、家中の掃除をしようと考えていたのだが、寝室は除外せざるを得ない。

 居間のラジオを、ボリュームを調整してから電源を入れる。アナウンサーが、政治の話題の後、州のニュースを報道している。

 不織布のクロスで、灯りのシェードを拭って回り、ソファのクッションを叩いて埃を落として形を整える。ソファにも軽くブラシでをかける。

 ジェフには『所帯臭い』と言われるのだがーーークリスも同様の事を言っているのを、エディはスコットから聞いて知っているーーーこうした家の雑事をしている時が、エディの気持ちを一番落ち着かせた。余計な事も、心の迷いも何も考えなくて済む。

 ドレイノーをキッチンと洗面所、バスタブの排水溝に数滴落とす。ポリッシャーをつけた布でシンク回りを磨く。掃除機が使えないので、キッチンだけでも、モップで拭いておいた。

(カーペットは…ジェフが起きるまで待つか…)

 一通りの掃除を終え、汗を流すため、エディはバスルームに向かった。

 熱めの湯を出し、体を完全に目覚めさせる。石鹸を体に撫で付けるようにして、さっと汚れを落とした。

 最後に熱い湯のまま顔を洗い、改めて自分の体を見下ろす。

(貧弱な体だよな…)

 エディは、バスルームの鏡に映る自分の体を見た。

 首が他人より長く見えるのは、少年の様に華奢な骨格と、撫で肩のせいだ。肋骨が浮くほどでもないが、肉付きは薄く、20代も終ろうとしているのに、髭も薄ければ胸毛の生える気配もない、滑らかな肌をしている。

 ハイスクールでは短距離をやっていたので、太腿にはそれなりの筋肉はついた。下半身全体が、よくしなる鞭かバネのようだ、と陸上部のコーチにも言われた。尤も、そのコーチがゲイであった為に、自覚のなかった当時は彼の密やかな誘惑から逃れる為に、プロムの相手探しに必死になったものだ。その時のパートナーが、初体験の相手だった。

 しかし下半身に比べ、上半身は悲しいかな頑張ってトレーニングをしても、満足いくような筋肉には程遠かった。

常にヨークを大きく取ったシャツを愛用しているのは、そのコンプレックスを隠す為だ。

 しっかりと丸みを帯びた臀部から太腿にかけての筋肉は、全体的に貧弱だと自覚する体型をカバーするまでには及ばず、女受けはそれほど良くなかった。その分、チェルシーからヴィレッジ辺りを用事で彷徨くだけで、傍に寄って来る男は多かった。ぼうっとしていると、男娼に間違われる事も少なくない。

 エディは男達からの誘いを、半ば楽しみながら断っていた。

『行動はそうじゃないが、体型がなんかSissy(なよなよしている)なんだよ。後ろから見てると、この尻が誘ってるようにしか見えない』

 そう笑いながら、よくジェフはエディの下半身を後ろから触りに来ていた。

 同じ華奢でも、クリスは肉付きが薄いだけで、肩幅もあり、骨格は意外としっかりとしていてバランスが良かった。どれだけ脚が細くても、あれだけG.F.フェレのスーツが似合えば御の字だろう(とは言え、既成でなく、オーダーだろうが)。

 スコットは同じ細くとも、スカッシュで鍛え上げた全身は、まるで豹かチータを思わせる体躯だった。周りでいちばん小柄で幼く見えるマイケルは、以前空手をやっていたとかで、意外と筋肉質な体つきをしている。ジェフに到っては、文句の付けようがなかった。当人は肩幅の無さを嘆いているが、あれだけ僧帽筋が発達し、太い上腕二等筋を誇示しているのだ。慎重が6フィートに足りないといえど、十分に美丈夫と言えた・

(所詮、無いものねだりだな)

 改めて溜め息をつき、エディはバスルームを後にした。

 

 

「クリスが?」

「ああ。時間は聞いてない。ただ、今夜って。どうする?先に帰るかい?」

 煙草を吸うジェフの表情が曇る。

「面倒だな。お前の車で送ってくれよ。今日は確か、ハドソン夫人が来る日だ。もう少ししてから帰れば、もう帰ってるだろう」

 ハドソン夫人。ジェフの雇っている、通いの家政婦の女性である。彼女がいなければ、エディは完璧に家政婦と化し、労働が増えていただろう。しかし当のジェフは、自分で雇っておきながら、十代の少年が母親を避けるがごとく、彼女と会うのを避けている。

「じゃ、食事の支度もいらないな」

 クリスに昔の話をするのは、正直気が重かった。しかし、何故同席するジェフがうろたえているように見えるのか、理解に苦しむ。自分には強く出る割に、クリスにはそう出来ないジェフの事を知っているので、いつもの事だ、と自分に言い聞かせる。

「それと、ジェフ。こないだ、来たぜ。ERのナース。ストロベリー・ブロンドの彼女」

「あぁ、ニーマイアか?」

「無責任にデート引き受けるの、止めてくれよな。こっちにとばっちりが来るんだ」

「あぁ、分かってるよ」

 ジェフは煙草を灰皿に押し付け、顔にかかる前髪をうるさそうにかき上げた。

 エディにも、ジェフがジュディスに押し切られて引き受けたであろう事は分かっている。が、たまには自分だってジェフに八つ当たりしたい、とエディは思っていた。

 

 

 エディに言われるまでもなく、ジェフは自分の押しの弱さを自覚していた。 あの日もジュディスに押し切られ、赴任以来の評判を落とさない程度に、優しく微笑んで了承してしまった。予定はない、と答えた自分を呪いながら。

(俺だって、女とも付き合えるさ。でもな…)

 了承したそばから、後悔は押し寄せた。

 ジェフは、元から愛想の良い方ではない。冷たく傲慢そうに見える外見も、損をしている。

 子供の頃は体も弱く、近所のガキ大将にいじめられたり、からかわれたりしたものだった。馬鹿にされまい、とハイスクールに入ってから体を鍛え始め、今のような外見を作り上げた。学生の頃はそれで良かったが、今は周囲の人間の大きな誤解を招いている。ただ、やや引っ込み思案で、自信にあふれて押し出しの強い人間といる時に、発言に気後れしたり、タイミングを逃しているに過ぎない。

 しかし、医者という立場上、媚びるような態度や、優柔不断に見える態度は、デメリットにはなっても、得をする事はない。そういう意味では、院内の誤解は幸いと思っていた。1年掛りで築いた評判、『落ち着いていて、何事にも動じない信頼出来る医師』。仕事面では、その評判に恥じぬよう、努力した。が、女相手の付き合いは、いつまでたっても上手くならない。それを、周囲にばれないようにするのも、これもなかなかに大変なのだ。友人としてのスコットやクリス、恋人としてのエディとの付き合いがどれほど楽か!それを感じる度に、やはり自分は真性のゲイなのだろうか、とジェフは思う。

 ジェフの了承を得て、スキップしそうな勢いのジュディスの後姿を見ながら、ジェフはスラックスのポケットを探り、くしゃくしゃになったマルボロの箱とライターを握り、喫煙可能なカフェテリアの一角へ向かった。病院では出来る限り吸わないようにしていたが、手術後や、ナーバスになっている時は我慢できなくなる。たとえ、吸えない環境であっても、お守りのように手放せなかった。まるで、ライナスの毛布のように。


4
最終更新日 : 2014-04-11 16:01:26

chapter 3-2

 

 PM6:30。エディの車の中で、二人ともが口を硬く閉ざし、沈黙を保っていた。白いホンダは、アッパーイーストへと向かっていた。互いに相手の沈黙の意味を知らぬままに。

 古びている分、歴史を感じさせる褐色砂岩の建物の駐車場に滑り込むと、制服を着たドアマンが近づいてきた。

「やぁ、ティム」

 窓から顔を出し、エディは顔なじみになったドアマンに声を掛ける。ジェフは車を降り、エディはキーをドアマンのティムに渡した。

「ドクター・デ・ガーモに、到着したって伝えてくれるかい?」

「承知しました。ドクター・テイト。ハドソン夫人から鍵と、いつものようにメッセージを預かってますよ」

「ああ、ありがとう」

 ハドソン夫人のメッセージは、ジェフが不在時の業務連絡のようなものだ。何を買い物し、何を作り置きしたか。すぐに食べられる物のリスト、クリーニングに出した物、引き取ってきた物など。ジェフは滅多に目を通す事しかしない。見ても、管理までは行き届かない為、このメモはエディの手によって冷蔵庫の扉に貼られる事となるのが常だった。

 建物内に入ってしまうと、二人の間を再び沈黙が支配した。

 ジェフが鍵を開けると、本人はそのままウォークイン・クローゼットへ、エディはキッチンへ向かう。

「エディ、本当にいいのか?」

「何が?」

 戻って来たジェフの手からメモを受け取り、冷蔵庫の扉にマグネットで留める。

「その、昔の話さ。俺が聞いた時も言わなかったじゃないか」

 ジェフの言葉を背中で聞きながら、冷蔵庫を開ける。ラップをかけたミモザ・サラダ、ロースト・ビーフ、ピーナツ・バターを使ったソースに漬け込んだ、鶏肉と野菜のインドネシア風グリルの用意。さらにレンジの上には、まだ温かい牛肉と野菜の煮込み。冷蔵庫のサワー・クリームは、古い物は廃棄され、新しい物に変えられていた。シチューに合わせてくれたのだろう、そこそこの値段と思われる赤ワインが、籠に入ってダイニングテーブルに載っていた。

「あんたは、『お前が話したくないならいい』って言ったろ?クリスがそれで引っ込むと思う?」

「思わない」

「そういう事さ…」

 ため息をついて、シチューの入った鍋を火にかける。足りなければ、カンパーニュのハーフカットが一緒にあるから、それでいいだろう。ついでに、ジェフの朝食用に、ロースト・ビーフも切っておけば、サンドイッチが出来るーーーーー。

 エディは、ジェフやクリスのいう『所帯じみた事』を考えながら、自分がナーバスになっている事を自覚せざるを得なかった。目の前の嫌な事を考える代わりに、『所帯じみた事』を考えて逃避しているのだ。

 そして、来客を告げるブザーが鳴った。

 

 

 

 

 

「本当に昔の事だ。メディカル・スクールに進んで、スコットと知り合って…。当時はまだ、サウス・ブルックリンのアパートに住んでた。安いけど、ぼろぼろでさ。金は親に借りてたけどね。寮は嫌だったんだ。管理されてるみたいでさ。分かるだろ?」

 クリスの前には、ハドソン夫人が用意したボルドー。ジェフとエディは、食事中からウォッカ・マティーニ。既にリビングへ移動していた。

 

 エディが『彼』と出会ったのは、春学期が始まってすぐの頃、学内のカフェテリアの中だった。『彼』、リチャード・ブラックは、いつも一人で、そこにいた。すぐに判別がついたのは、さほど目立つ風貌ではなかったが、両親が東欧からの移民であった為、その顔立ちのせいもあっただろう。後になって考えてみれば、彼の方が先にエディを見つけて、目を付けていたのかも知れない。気づけば彼は、常にエディの視界に入る所にいた。

 スコットとはカリキュラムが全て同じではないため、週の半分はエディは一人で昼食を取っていた。他に友人がいないではなかったが、誰ともつるむつもりがなかったのが正直なところだった。そんな時に限って、彼の姿は必ずエディのすぐ近くにあった。

 いつしかエディは,一人の際には彼の姿を探すのが習慣のようになっていた。その頃には彼の名前と、薬理学のコースを取っている事までは、噂で耳にしていた。

「ハイ。よく会うね」

 話し掛けて来たのは、リチャードの方だった。コーヒーを片手に、エディの向かい側に座った。

「俺はリチャード。リチャード・ブラックだ。リッチーでも、リックでも、好きに呼んでくれ」

「リッチー・ブラックモアのリッチーかい?」

「そうだ。君は?」

「エディ。エディ・ジャクソン」

「エドワード・ヴァン・へイレンのエディ?」

「そう。あんたも薬理学コースなんだろ?」

「よく知ってるな。まぁ、これだけ顔合わせてりゃ、分かるだろうけどな」

「の割りには、クラスでは見た事がない」エディは、にやりと笑ってみせた。

「俺は留年して、ここは長いからね。出なくていいクラスが多いのさ。ま、さぼってるって言った方が正しいがね」

「留年て、どの位?」彼はエディより2、3歳は上に見えた。

「さぁね。居心地がいいから、モラトリアムさせて貰ってるのさ」

「居心地がいい?俺は早く出たいね。ラテン語は、舌を噛みそうだ」

 顔を顰めるエディを、リチャードは興味深げに見ている。

「ところでな、いきなりだが、誰か部屋を探してる奴を知らないか?」

「ルーム・シェアなら…」

 学生課の掲示板に、と言いかけて、エディは止めた。

 

「その頃の俺は、好奇心の塊のようなもんだった。ガキの頃、行くなって言われてる所に限って行きたくなるだろう?明らかに危ないって分かってるとか。そういう意味でも、クリス、俺はあんたの好奇心の強さを責める事は出来ないだろう。奴は学部生の頃からスカラシップを受けてるって割りには、金に不自由してる様子もなかった。時々、コークのやり過ぎで、鼻血出してた位だしな」

 クリスもジェフも、自分の顔を注視しているのを、エディは感じていた。が、気恥ずかしさから、エディは自分の持ったグラスから視線を外せなかった。

「奴が言うルームシェアの相手に俺は自分から立候補した。場所も大学に近かったしな。スタジオみたいな所で、広いだけで何にもないような所だったよ。スクォッター(不法占拠)みたいな感じだったのかもしれない。家賃は、ただ同然だった。本当は、奴はルームメイトを探してたんじゃなく、奴の実験台を探してたんだ」

 エディは、引っ越すから手伝え、とスコットを呼び出した際の彼の様子を思い出していた。手伝い自体は快諾したものの、ルームシェアの相手の名前を聞くと、スコットは、その大きな目を更に大きく見開いて絶句した。

「本気か!?あの『有名人』はろくな噂を聞かない。人を殺した事もあるって話もあるくらいだ」

「本当に殺人犯なら、今頃大学にいられる訳ないだろ?」

 スコットは、自身の友人に対しては確かに熱血でお節介だが、基本的には私生活に干渉するタイプではない。

「悪い事は言わないから、止めた方がいい」

 スコットの口調は、いつになく真面目だった。

「得体の知れない奴と一緒に住むなんて、正気の沙汰とは思えない」

「奴が犯罪者だって分かったら、すぐに逃げてくるさ」

 笑いながら聞き流すエディに、スコットが最後に言った。

「俺が怖いのは奴じゃなくて、お前のその無鉄砲さだよ…」

 その言葉を後悔と共にエディが思い出したのは、半年後の事だった。

 

「ウィードくらい吸った事はあったけど、薬はね…。メディカルに進むのを決めてたから、下手に手を出したくなかった。それは、今も変わらない。それでも最初の一ヶ月は、何事も無く過ぎた。俺はスコットにも、それ見たことか!って奴の心配性を笑い飛ばしてた。調子が狂い始めたのは、翌月辺りだろう。リチャードが、俺を被験者にしたいって言って来た。『危なくないなら』って条件で了承した。実際には、実験てのは何でもリスクが付き物で、危険じゃないなんてのはあり得ないんだが…俺もガキだったからな。好奇心には勝てなかった。まず始まったのは、普段のありえない集中力と不眠だ。次は倦怠感。不眠は結構長く続いたよ。始めの時点で、ああ、何か盛られたなってのは予想はついたから、医者にもかかれない。血液検査で、一発でばれちまう」

「アンフェタミンか?」クリスが口を挟む。

「あったかもな。あと、アトロピンとかな。バルビツール系の眠剤もあったかもしれない。俺は、あれは全く効かないんだ、気持ち悪くなるだけで」

「あれは、ガキが使うもんだろ」

「クリス!」

 ジェフは、挑発的なクリスの言葉に動揺を見せた。

 エディが、リチャードの演出するショウの主人公となった夜。やはり眠れずに、以前に飲み残したワインを取りにキッチンへ行った。

 冷蔵庫の扉を開けた際の明かりにぼんやりと照らされ、リチャードがこちらをむいて座っているのが見えた。

「どうした?眠れないか?」

 リチャードは、優しくエディに微笑んだ。彼の前に、エディの探していた安物のワインのデキャンタがあった。

「俺の大事な被験者に乾杯。眠れない夜に乾杯」

 リチャードが、ワインの入ったゴブレットを肩の高さまで掲げてみせる。

「酔ってるのか?」

「予告なしに始めたのは悪かったな」

「俺がイエスと言う前から始まってたんだろ?」

「その通りだ。そうでもしないと、協力してもらえない、と思ったんでね」

「今更だな。協力はする。するから寝かせてくれよ。疲れてぼろぼろなのに眠れないなんて、地獄だ」

 その言葉に、リチャードの表情が輝いた。

「それだ。それが見たいんだ」

 リチャードは立ち上がり、自分より少し背の低いエディの両肩を掴んだ。

「心配は要らない。殺したりなんてしない。ただ、君にいろんなものを見せたいだけだ…」

 リチャードの声は小さく、祈るような、それでいて、女を口説く時のように優しいものだった。

 

「宣告されてから使われたのは、幻覚剤の一種だと思う。あと、どっから仕入れて来たのか分からない、セックス・ドラッグだな」

 更に、シリコン製の耳栓をされ、自分の体内の音しか聞こえない状態で、ベッドに寝かされた。しばらくすると、リチャードと、誰か知らない女、おそらくは娼婦ーーーにしたら身なりが良かった。どこかのエスコート・サービスから調達してきたのだろうーーーがやって来て、3人で絡み合った。体中がかっと熱くなり、敏感な粘膜に強烈なむず痒さを生じていた。聞こえるのは、自分の息遣い、思わず漏れる自分の声。相手の汗や体液の匂いも感じるというのに、現実感はなかった。

気が付けば、リチャードと二人で女を責め立てていた筈が、エディがベッドに組み敷かれていた。目の前で、女の形の良い臀部が揺れている。彼女はブロウ・ジョブに精を出していた。そしてリチャードは、エディの腰を抱え、後ろを貫いていた。初めての事にも科関わらず、痛みは感じられなかった。それどころか、一度放出してからも体の中の疼きは消えず、指一本動かしたくない程の疲労を感じながらも、一瞬の放出の快楽を求め、悶え続けた。自身の荒い息と喘ぐ声を聞きながら。

 

「しばらくは、リチャードのお気に入りは、その訳の分からないセックスドラッグだった。それこそ、毎晩奴と、たまにプロの女も入れて、しばらくは、やりまくってた。大学も行きながらね」

 エディは自嘲気味に笑った。ジェフは目を逸らし、クリスはにやにやしながら、エディを見つめていた。

「当然少しの間、インターバルはあった。体に耐性がつくのを避ける為にね。薬が抜ける時の気持ちの悪さは、いつまで経っても慣れなかったな」

 聴覚の次は視覚だった。極めてノーマルなストレートな恋人同士であっても、ちょっとしたスパイス程度に目隠しをしてメイクラブに及ぶ事はある。エディの場合も、そうだと思っていた。相手の女は全く微動だにせず、何の反応もしなかったが。

終ってから自分の部屋に押し込められたエディは、リチャードの笑い声を聞いた。始めは押し殺したような。やがて聞こえてきたのは、、我慢しきれなくなったような、高笑い。尋常ではない、狂気を帯びているかのような響きだった。

 そこから暫くのインターバルの後、最終回の幕が上がった。

「部屋の中央に両手首を縛られて、吊るされた女がいたんだ。天井からぶら下げた滑車にね。俺からは後姿しか見えなかった。傷んだブロンドといい、背中のそばかすといい、見覚えがある気がしたが、覚えちゃいない」

「その時は、目隠しも耳栓もなしか?」クリスである。

「ああ。その代わり、多分クラックあたりじゃないかと思う。大昔、バッドトリップした時と、記憶がよく似てた。そこから先は、朧気にしか覚えてない。俺は後ろから、リチャードは前から、二人で女をやってた。でも、女は全く反応しないんだ。始めは眠らせれてるか何かと思ってた。覚えてるのは汗と…金属じみた匂いと、手にまとわりつく、粘っこい液体の感触…」

「まさか、それって…」

「そうだ、ジェフ。手が濡れたんだ。見たらさ、赤いんだよ。あの独特な金属臭は分かる。さすがに腰が抜けそうになったよ。リチャードが、真っ赤になった手を俺に差し出してた」

 ジェフが口元を押さえた。

「とにかく逃げ出そうと思って、そこら中にあるものを、全部奴に向かって投げつけた」

 

 その時、へなへなと座り込んでいたエディは、必死の思いで立ち上がり、手当たり次第に投げつけ、自分の部屋に飛び込んだ。ドアが開けられないように、ソファやテーブルなど、動かせる家具を全てドアに寄せ、その場に座り込んだ。極度の緊張感に耐え、どの位時間が経過したのか分からなかった。耳を済ませても、エアコンのモーター音しか聞こえなくなっていた。

 いつのまにか、夜の明けるのを待たずして、エディはその場で眠ってしまっていた。

「気づいたら、昼近かったな。手のひらは、赤黒いままだった。奴の気配がないのを確認して部屋を出たら、テーブルの上に、ポラロイドが1枚置かれてた」

「それって…」恐る恐る、ジェフが尋ねる。

「そう。その女の写真。正面から撮影した、ね。まるで、検死したみたいに、綺麗に開腹してあった」

「じゃあ、1度目の目隠しの時も、そういう事か?」

「恐らく、ね」

 さすがにクリスは豪胆なのか沈黙を守っていたが、顔色は良くないものの、ジェフに比べれば平然としていた。

「何ヶ月間だ?」

「半年…かな」

「なら、それで済まなかったんじゃないのか?」

 上目遣いにエディを見るクリスは、アンコールを要求している。

「そうだな」

 

 それからエディは簡単にまとめた荷物を持って、部屋を出た。地下鉄の急行に乗り、マンハッタンを南下し、トライベッカまで『逃げた』。安モーテルを転々とし、時には町で拾われた男の部屋で世話になり、一ヶ月はロウワーマンハッタンに潜伏した。

 大学の授業に復帰したのは、その後のことである。

「復帰後の最初に受けた授業が悪かったな。婦人科の解剖だったんだ」

「フラッシュバックか?」クリスは、相変わらずにやにやしている。

「ああ。起き上がれなくなって、早退した。で、そのまま大学はドロップアウト。どの道、授業もあれだけ休めば留年は免れない。改めて、薬剤師の免許だけは取ったけどね」

「確かに、俺より遥かに無鉄砲だな」

 クリスは口の端で笑いながら、ワインを新たに注いだ。

「それは否定出来ないな。若気の至りにしちゃ、少々ワイルド過ぎた。だから決めたんだよ、これからは平々凡々に生きるって」

 気づけばジェフの手が、エディの手を握っていた。いつになく優しい目でその手を見つめ、軽くエディの手の甲を叩いた。

「俺の話は、これでおしまい。気は済んだかい?」

 エディはオーディエンス二人に対し、わざとおどけてみせる。オーディエンスの片割れ、クリスは肩をすくめた。

「じゃ、用は済んだところで、俺は引き上げるよ」

 握っているジェフの手を軽く握り帰して、手を離した。このままここにいても、クリスの更なる好奇の目に晒されそうだ。それだけは、ご免こうむりたかった。もし、クリスがここにいないなら、話は別だが。もし、いないなら…?

「お前、車は?」

「明日取りに来るよ。明日も休みだからね」

 エディはソファから立ち上がった。いつもなら、『自分も』と立ち上がるクリスは、その様子が見られない。エディの心の中に、暗い何かが改めて湧き上がる。

 ジェフとクリスは、玄関までエディを見送りに来た。

「ティムに車を呼んでおくよう伝えとくよ」

「分かった」ジェフと軽いハグを交わす。クリスは手を振るだけだった。

 エレベーターを降りると、ティムがタクシーを呼び止めるところだった。

「ちょっと、待っててくれるかい?」

 一声かけて、エディはジェフの部屋の窓を見上げた。ちょうど、リビングに面した大きな窓がある筈だった。そこに、ほっそりとしたシルエットが写る。クリスだろう。

(やはり、そういうことか)

 エディは小さく舌打ちし、ティムにチップを渡して車に乗り込んだ。

 普段のクリスなら、用が済めばとっとと帰るのだ。それが、わざわざ居残った上、エディの姿を窓から見ていた。

『ジェフをもらうよ』クリスがそう言っているかのように思えた。

(勝手にしろ!)

 エディは、荒々しく背もたれに体を倒した。初めて自覚した、嫉妬という感情に蓋をして。

 

 

「さて、わざわざ知らせなくても、許可はもらえたようだぜ」

 リビングのカーテンを開け、窓から通りを見下ろしていたクリスが言う。声はかすかに笑っている。

「どういう事だ?」

 自分の為に、ジェフはウォッカマティーニをもう一杯作った。エディの話を聞いて、神経がまだ高ぶっている。

 先刻までエディがいた場所に、クリスが腰を下ろした。

「あんたと寝ても良いって事さ」

 ブラックデニムのパンツ越しにも分かる、すらりとした脚を、ジェフの膝の上に乗せる。ジェフは意識してしまうが、退けようという気にもならなかった。それは、エディから聞いた話のせいだと言い切るには苦しかった。

「あんな話の後に、よくその気になれるな」

 ジェフが呆れた声を出す。

「逆じゃないか?あんただって興奮してた筈だ。違うか?」

 スリップオン・タイプの革靴がカーペットの上に落ち、クリスの裸足の指先が、ジェフのフラノ地のパンツ越しに股間をまさぐった。

「怖がりながらも、自分もあんな状況でエディを抱いてみたいって想像してたろ?」

 からかうように笑うクリスの指の動きは、止まらない。彼の言う事は図星であり、それを証明するかのように、ジェフの体はしっかりと反応していた。クリスの指の動きにではない。彼の言った言葉に対してだった。


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最終更新日 : 2015-04-30 12:19:10


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