閉じる


     静寂

 山肌を覆う木々が、視界を遮るように目の前に広がっている。夏には青々と茂り、空さえも覆い、地肌に届く日光は風に揺れる木漏れ日の優しい色となるのだが、見渡す木々には風雪による雪が着雪し、一面白の冬景色を見せている。葉を茂らせていたブナの木も、何処か隙間風の通る殺風景な枝振りで、空に喘ぐような枝先には樹氷がまとわり付いていた。
 西高東低の気圧配置が一週間続き、近年まれに見る大雪となった為に、人里から少しばかり入ったこの森には、身の丈を優に超す積雪がもたらされた。寒気が抜け高気圧が張り出してくると、気温は一時的ではあるものの一気に上昇する。昨日まで零下だったこの森も、日が高くなるにつれ雪が緩みだし、積もった雪の表面は一応に沈降してゆくのだろう。
 雪を被った杉林を抜けてブナ林へと標高を稼ぐと、青い空に雪の積もった針葉樹の色が映え、美しい色彩を見せる。雪を踏む度に雪の鳴く音がする以外は、何の音もしないしない。その静けさにふと隠れた気配があるような気がして、聞き耳を立ててみるが、全ての音は雪の白さと空の青さに吸い込まれているようで、ただ無音の静寂に立ちすくむ。時折、杉に積もった雪が砂の崩れるが如く音を立てて、滝のように雪を流れ落とす。日が高くなると共に、凍り付いた雪が緩みだし雪が落ち始める。雪に耐えていた枝は、一気に解放され勢いよく跳ね上がり次の雪を蹴落とす。その連鎖があちこちの杉で時折静かな雪の滝を作る。流れ落ちる雪の音さえも静けさの中の一部のようで、粉雪をまき散らしては、また無音の静けさへと戻る。
 雪煙が風に乗って青い空へと流れてゆくと、見上げた空に煌びやかに光りながら散ってゆく。樹に宿った雪が砂の如く流れ落ち、大気の中で光の粒になる。「雪流れ」言葉がふと、口を突いた。
 雪の山肌を分け入る。やはり雪の踏む音以外はしない。雪の流れ落ちる音はもとより森の一部で、静けさを乱す音ではなかった。一歩一歩雪を踏みならしながら進む。輪かんじきを履いていても膝まで潜る深雪に、此処が何処であるかなどは忘れ去り、ただ自分の影と対峙する。大きな雪が落ちたようで、雪煙が風を伴い肌を撫ぜる。舞い上がった粉雪に、ひんやりとした冷気を感じながら空を仰ぐと、今も過去もこの先の事も特に考える事など何もなく、ただ雪に映された自分の影の存在だけを捉え、また踏み出す。治山の為に植えられた杉は一定の間隔を保ち整然と並ぶ。土砂崩れや雪崩を防ぐ為に保安林として植えられたのであろうが、この麓にあった集落には、すでに人の気配はなく空き家が点々とあるに過ぎない。
 杉林の急登を抜けるとブナの森になり、その先の尾根へ出ると視界は開ける。ブナ平と誰かが名付けた場所だが、往路を振り返りしばし休憩するにはちょうど良い。ひとしきり掻いた汗を放つように、火照った体を雪山の外気に晒すのだが、暖かい陽射しに照らされると、微睡みさえ感じる。

 標高にして1200メートルを超えたくらいなのだが、見渡す先には海も見え、空と海の青さが白く霞みながら溶け合っていた。遥か霞む空までの距離を想ってみても掴み所が無く、何を基準に計れば良いのやら見当もつかなかった。雪に覆われている尾根は何処までも丸くて角らしい所が無く、ただ白い弧を描きながら幾重にも重なり合っている。さらに高みへと向き直り、身を整え直すと、肌に日光の暖かみと谷から吹き上がる冷気を受け、真新しい白銀へと踏み出す。
 北西に張り出した雪庇に気を掛けながら、雪崩は起きぬかと雪の層を突き尾根筋を辿る。無雪期ならば、細かく木々の間を登り下りしながら抜けてゆく尾根なのだが、地表の凹凸などは全て包み隠し、のっぺらぼうな雪の尾根が平坦に続いていた。陽に照らされた雪肌が白く光り輝くと、砕いた宝石をちりばめたように様に乱れ反射する。煌めきに足が沈み込む雪の音を聞きながら高度を稼ぐ。緩んだ雪が樹から落ちる。「雪流れ」独り口にするでもなく、ただ想うのだが、ふと足を止めてその光景をしばし見る。斜面に落ちた雪が塊となって転がりだすと、次々とバウムクーヘンの様に膨れ大きくなる。そのうちバランスを失って倒れるのだが、中には真っすぐ転がったまま斜度の緩い所まで転がって、さも巨大なアンモナイトの化石の様相で突っ立っている。大きなものでは腰の丈程もあろうか。眺めていると、また別のバウムクーヘンが転がって行き、行方を目で追う。自分がここで転がったなら、さぞ大きなバウムクーヘンになるだろうと思いながらも、それは遠慮して高みへと踏み出す。
 葉の無い枝の間からは、空が青く映え、色濃い原色の深い中に一本、飛行機雲が走っているのを見つけた。国際線の旅客機だろうか、雲を引く先に幽かな灰色の機体が確認でき、目を凝らしてみると双発、いや四発の雲が出ているのが見えた。此処から見る彼らと、彼らから見る此処ではどんな違いがあるのだろう。同じ距離で相対しているのに、その見え方は随分と違うのだろうと思った。幽かに唸る轟音を残し、雲は引かれた後から滲み流れてゆく。空に残された痕跡は、青の原色に戻り、白いこの森の静けさに取り込まれてゆくのだろう。
 踏む足が沈むのを眼で追う以外は何も無く、息を切らさぬ歩調で踏みしめてゆく。ふと踏み出す足を半歩ずらす。クロカワゲラが雪の上をちょこまかと歩き回っているから、踏まぬ様に避けながら歩く。こんな事は度々の事で、踏み出す足下の安全を確認すると同時に、踏まぬ様に注意する。カワゲラは羽も持たず雪の上を這い回る。動きは結構すばしっこく生命力を感じさせるには充分で、あたかも雪の上で生きてゆくのが当然の様に走り回る。こんな雪の上に何があるのだろうと思ってみても、人間の眼などにはカワゲラの見ているものなど分るはずも無く、彼らには彼らの思う世界があるのだろうが、生き抜く為にこの雪の上を選んだと言う事だろう。またいたかと、半歩ずらす。暖かい陽射しの中、雪の上ではよく見かけるその姿に、頑張れよと心で念じ後にする。
 一旦尾根を下り雑樹林を進む。谷向こうが見えた所で気圧計を出して高度を測る。今日の気圧から差し引いて標高を求め、おおよそこの辺りである事を確認する。気温と時間を手帳に記して、体が冷える前にレイヤーを替える。

 目的地とは言え、此処に何かある訳でもなく、進む方向を変える分岐点のようなもの。見渡せる山並みから下りる方向の目標物を見定め、眼で帰路を追う。尾根の形状と雪の具合を頭に叩き込み眼で辿ると、まっさらな斜面に踏み跡をつけて下りてゆく。野兎の足跡を跨ぎ、この森で息づくものを想う。猿、兎、カモシカ、熊と思い出した所で下りてきた斜面を見上げると、太陽の逆光で空が黒く見える程に色濃く青い。ブナの幹が美しい影となり、濃い青に映えていた。眩しい光に眼が眩み、また斜面を下りてゆく。踏みしめる雪の音以外、何の音もしないのは時間さえも流れていないかのようだ。思考は停止した様に、体を動かす事以外は何も思わず、耳に届く音も、肌に感じる空気も、ただ森の一部に過ぎない。
 ふと見た木の根元に黒っぽい動物の毛並みがあった。距離にして50メートル、山の位置関係からすればほぼ真横の斜面と言った所か。こちらの動きを窺っている様に見える。うずくまっているその姿からは、なにか特定は出来ないが、カモシカだとすれば色が黒過ぎる。熊だとすればまだ早いような気もするが、熊の生態はここ近年変わりつつあるし、傾げている首からすると、カモシカではなさそうだった。どちらにせよこの森を出て行かなければならないのは自分の方だ。じっと動きを窺ったまま斜面を下りた。たぶん黒い眼がこちらを見ているのだろう。生命と言うお互いの関係が、森の静けさの中に溶けて行った。食おうが食われまいが森の中では自然な摂理な訳で、クロカワゲラにしても、野兎にしても常に自分の命を生きながらえさせる為に、この森の一部となる。尤もツキノワグマが人を食う事は無いが、いや、人間はこの森の生態系には組み込まれてはいない。
 ブナの木から、杉の木に変わり始めた所でふと足を止め、山の高みを見上げる。ただ樹木が雪を宿して、時折雪流れを作り、その樹木の先を見上げると白い雪に覆われた山容が静かに佇んでいるだけだった。森に住む生命の気配は遠のき、人里が近づくと時間は正確に流れ始め、今が何時であるかが意味を持ち始める。集落まで来ると、空は電線で結ばれていた。
 陽は傾き光の波長が赤くなり始めると、車は長い影を引いていた。山並みが見える場所で停め、外に出ると、もう陽の暖かみは無く冷たい風が乾いた様に吹いていた。歩いたであろう峰を眼で追ってなぞるが、自分の痕跡などは峰々の何処を見渡してもあるはずも無く、夕映えの色彩をまとっていた。街の喧噪が耳元でうろつくが、赤く染まる山の姿には何の音も動きも感じられず、ただ構えて佇み、時間の移ろいも無いかの如く全て停止しているようで、白い肌に赤を映している。感じられるものは、ただの静寂だけだった。
                                      
                                         〈了〉

この本の内容は以上です。


読者登録

見方 歩さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について