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もくじ

webアンソロジー『青いばら 赤いゆり』


1、『つたわるおもい』 ―― 生田由良

2、『君が僕にキスをした、僕が君にキスをする』 ―― タチバナ

3、『女形はつらいよ~大江戸陰間物語~』 ―― 芹沢優希

4、『蛍の子』 ―― ムラカミ

5、『ism』 ―― むらさきあおい

6、『雨の降る夜に、恋は』 ―― 熊猫二郎笹助


あとがき

奥付

『つたわるおもい』生田由良

 駅前でわりと値段が安くおいしい。しかもいざという時はタクシーを呼んでくれるという親切さもウリの居酒屋風の店は今日も混んでいて、そんな中でさやかは飲酒しながらグダグダと語っていた。
 それを聞かされたミサはとても困惑していた。何度かさやかとの酒の席を設けたことはあっても、ペースは抑え目だったし他人の話にも耳を傾けている時間の方が多かったため、ここまでヒドくなるとは予想していなかったからだ。酔いがさめてしまったせいでさやかを家まで送り届けないといけないことにも気づき、気が滅入ってしまっている。
 これまで見たことのない友人の悪い意味での意外な側面をこうやって目の当たりにしてしまえば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いよろしく絶対にいけないものだと思えてきてしまう。
 そんな思考が自分のなかにあることに気づいたミサは思わずため息をもらす。ため息はすぐさま他の客の他愛のない会話のなかにまぎれてしまう。
 さやかに家はどこかと質問をしたところでかえってくるのは訳のわからない日本語らしき単語の塊だとわかりきっていたミサは質問せず、とりあえずさやかが落ち着くのを待つことにした。時間的にはおひらきなのでよっぱらいを担いで夜の街を歩きたくないし、ミサはさやかがどこに住んでいるのかさえ知らない。タクシーで行先をたずねられても答えられない。無意識のうちに懐をまさぐっていたが、店内は禁煙だし、さやかと会う時は持ってきていないことすら失念していて思わず苦笑する。
「わらったな」
 人に見せるつもりはなかったが、真向いに座っているさやかには見えてしまったようだ。しかも悪い方に解釈してしまったらしい。
「笑ってない」普段はもう少しまともだからこそ、こんなさやかを見てしまえば苦笑のひとつだってしてしまうなんて反論をすればその後の展開がどうなるかは心得ていたので、ただ否定だけした。
「わらったでしょっ」先ほどより語気が強くなった。酔っ払いの相手は大変だ。
「笑ってないって」また苦笑したら話がこじれてしまうので、かろうじてこらえる。
「わたし、なんかじゃ……だめだってことぐらい、わかってるけど」
 そこでさやかが顔だけつっぷす。手にしているグラスにはもう中身がないとはいえ、倒してグラスを破壊してしまいかねない勢いだった。
「でも、でも……。れんないってのはそういうもんれしょ」
 さやかの言葉にミサは答えられなかった。残念ながらそれほど恋愛をたしなんでいないミサにはさやかの言葉の真意がついぞわからなかった。ふと視線をさやかの頭頂部から外すと、店内禁煙と書かれた張り紙が視界に入ってくる。タバコを吸えたらどれだけよかったか。ミサはそのことと、これから払うふたり分の食事代のことを考えていた。


 ミサがさやかと知り合ったのは大学でだ。
 たぶん、同じゼミでなければ一生会話すらせずに卒業していたとミサは今でも思っている。さやかはなんというかほわほわしていて、抱きしめたらやわらかくていつまでも抱きしめていたいと思わせるような、そんな感じがする。わかりやすく言えばとても少女をしている。だからって別に、ヒヨコがかわいそうだからオムライスを食べられないとかわけのわからないことを言っているわけではない。
 顔合わせの飲み会でミサがさやかに言った、から揚げにしたらおいしそうという人に言うべきではない感想を笑顔でさやかが受け入れ、それ以来なぜか気が合って、講義が一緒ならとなりの席に座ったし昼食も時間が合えば一緒に食べていた。ふたりで出かける回数も少なくない。
 そういえばタバコを吸わなくなったのもさやかと行動を共にするようになってからだ。どうにも体質的にタバコの煙がダメらしく、最近は実質的に禁煙している状態となっている。それでも時々吸いたくなるが、そのたびに自分が持っていないことに気づき、苦笑していた。
 さやかとミサのそんな関係を見ていた周囲からはよく姉妹のようだと、やっかみがこもった感想を言われていたのをミサはタクシーの車内で思い出していた。
 たしかにミサの肩に頭をのせているさやか達の姿を見ると仲のいい姉妹に見えないこともない。しかし、こんなに密着したのは初めてで、ミサは複雑な感情を抱いている。その中にはさきほどの食事代と、これから払うタクシー代が含まれているのは言うまでもない。ただ、割合としてはそれほど高いものではない。むしろさやかの好きな人、というのが気になっていた。
 さやかとミサは少なくとも友人以上の関係を構築できているだろうが、別段自分の友人を伝えることはしていない。共通の友人はもちろんいるが、その友人達以外の友人をお互いに知らない状況だ。希薄な関係だと思うかもしれないが、お互いに忙しい学生生活を送っているのだからしかたがないとミサは諦めている。
 あの後、さやかは完全に沈黙してしまい、少ししてからかすかな寝息が聞こえ始める。つまり、店の中で寝てしまったのだ。
 そのことに気づいたミサは深くため息をつき、懐具合を確かめる。まあ、なんとかなるだろう。食べかけの食事を口に含み、それを飲みかけの中ジョッキで胃の中に流し込む荒業をやってのけたミサは会計をし、タクシーを呼んでもらった。
 タクシーにさやかを押し込むことはそれほど難しくなかった。というのも運転手やタクシーを呼んだ店員が照れながらも手伝ってくれたからで、乗せてしまえばあとはもう楽な仕事だった。ただ乗っていればいい。料金はもちろん後で請求するとしても、この状況でお代を半分も払わなくていいだろうと考えている。せいぜい3割ぐらいが妥当なところだと考えている。
 店からそれほど遠くない距離でタクシーは止まる。どこにでもあるような学生向けのマンションでふたりは降りた。正確に言うとミサがさやかを担いで降りた。
 さやかが寝てしまった以上さやかの住所を聞くことはできないため、しかたがなく自分の今の住処で連れてくることにした。緊急事態なのでやむを得ない。頭の中でそう言い訳しつつ、自分の部屋までなんとかさやかを連れて行った結果、とりあえず二度とこんなことをするものかと、深く心に刻む結果となったのは、また別の話となる。


 ミサの部屋は必要最低限のもの以外は置いていなかった。
 たとえば冷蔵庫などの家電は新学期が近くなると発売される一人暮らしセットがそのまま設置されていているだけで、それにシールを張るとかマグネットをくっつけるとか、そういうことは一切していない。しいて言えばさやかなどの学友と一緒に撮った写真が貼ってある程度だ。
 吝嗇家だと思ってはいない。ただ、必要なものだけがある構成と言える。というか、そんなことするぐらいならその金と時間を他のことに使った方がいいという考え方の持ち主で、その分本や参考書は大量に読んでいる。
 十数時間ぶりの自室で行ったことはさやかをベッドに運ぶことだった。ここまで動かしても起きる気配がないので、たぶん朝までずっと寝ているのだろう。スヤスヤと眠るさやかを見ていると、自分に疲れがたまっていることに気づいた。それから風呂が完成するまでの間は読みかけの本に目を通していたが、内容がほとんど頭の中に入ってこなかった。その理由は疲れているから、だけではないのだろう。
 湯船につかると、体から疲れが抜けて行くような感覚が全身におこる。まるで全身をもみほぐされているかのようだ。それだけでこれまでとは質の違うため息がもれてしまう。時間が時間のため、カラスのように簡単に済ませてしまおうかとも考えたが、髪も顔も体もしっかりと洗い、浴室から出る。するとさやかが目を覚ましていた。
「あれ……。ここって……?」
「私のウチ。酔いつぶれたから連れてきたんだけど、いいでしょ」
「え、ああ、うん……」どうにもまだ酒は抜けていないようで、うつろな目をしている。あるいはただ単に眠いのかもしれない。
「だいぶ飲んでたみたいだけど、大丈夫?」
「うん、なんとか」それでもさやかはミサの方に顔を向けて言った。「めいわくかけちゃったみたいで、ごめんね」
「別にいいって」ミサはそう言いながらさやかに飲ませるために蛇口をひねっていた。氷はいれないほうがいいだろうと、水道水を注いだものを渡す。
「飲める?」
 さやかは質問に答えるより前に水を受け取り、ゆっくりと口につけた。
「ありがと」そこでようやく弱々しくも笑顔を見せる。考えてみれば今日初めて見た笑顔だ。
「どういたしまして」
 ミサもさやかに笑みを返す。そうすると、部屋の空気が弛緩したかのように思えた。
 もしかしてこれは、告白する絶好にチャンスなのではないか? ミサは冷静を保ちつつ頭の中で必死に考えていた。この想いをずっと胸に秘めたままにする、なんてことはできないとさやかは言っていたし、ミサとしてもそうだ。だから、ここで告白してしまえばいいのではないか。今さやかには好きな人がいるとはいえフリーだし、なんだかんだで仲はいいわけだし。
 どうしよう。しようかしまいか。
 ……。
 …………。
 うん、しよう。こんな機会は他にはない。今こそ勇気を出して告白してしまおう。
 そう思うと途端に喉がカラカラになり、心臓が早鐘をうつようになり、震えも自覚できる程になっていた。それでも、なんとか。今ここで。
「あのさっ、さやか――」ミサの言葉はそこでとまってしまった。
 なぜならさやかは再び眠っていたからだ。それに気づいた途端にミサは脱力し、一気に眠気が襲ってきた。それもしかたがない。実はさやかと同じくらいミサも飲んでいた。そのため今更になって疲れがやってきていて、まぶたがあり得ないくらい重くなっていて、今のミサに抗う手段は残されていなかった。


 それからしばらく悶々としながらもさやかと会う機会がないまま過ごしていた。会わない間にもアルバイトやら講義やらがあり、予習や復習、そして友達付き合いも欠かしていなかった。ある意味理想的な大学生の過ごし方と言い換えてもいいだろう。
 もちろんその中でも優先順位があり、たとえばアルバイトには時間厳守でなければならないし、講義もできるだけ出席しておけば後々の事態に備えることができる。基本的に遅刻はしないように行動しているので、講義で遅刻をしたことはない。欠席をしたこともないとはあえて言わないでおく。
 ひとりでいる時考えたくないのに頭をよぎるのはさやかの好きな人のことだ。もちろんミサには誰だかなんて微塵もわからないしもし自分がその人ならば……なんて気持ちはタバコの禁煙と同時にやめた。そんなこと考えても空しいだけで、そんな状態でさやかに自分の気持ちを正直に告げようなんて気になれない。ふと気づけば手が懐にのびていた。かつてそこにはタバコをしのばせていた場所だ。
 久しぶりにタバコを吸ってみたいと思い、気がつけば奥深くに封印してあったタバコを取り出し、火をつけてから口にくわえていた。久しぶりのタバコの味はあいかわらず爽快にさせてくれるものだった。最初に吸った時はこんなもの吸う人間の気がしれないと考えていたのだが、前に聞いたとおり人はなんであれ慣れる動物なのだろう。
 これまでは――少なくともさやかと会うまではタバコは欠かせなかったし、一服している時間はそれこそ至福のひと時と表現してもなんらおかしくはなかった。考えてみればタバコをあまり吸わなくなったのも、タバコの味が以前とは違ってきたのはさやかに会った頃で、さらに正確に言えばさやかがタバコの匂いが嫌いだと聞いたからだ。
 漫画かなにかで誰かの顔にタバコの煙を吹きかけるなんて行為がまれにあるが、こんな描写があるから喫煙者が肩身の狭い思いをするはめになるのだろうし。タバコが体に悪いことくらい自覚している。代替があればしなくてもすむかもしれない。ただ、そうでもしなければ生きていけないくらい辛いのだ。



 ミサがさやかの声を再び聞いたのはそれから半月ほどしてからだった。
「この前はありがとうね」会うなり自分の夢がかなったかのような笑顔のさやかはそう告げた。
 ミサにはミサの事情があり、さやかにもさやかの事情があった。たまたま講義が休講になったり、個人的な用事で大学に足を運べなかったりしていた。だからさやかと会うのはずいぶん久しぶりに感じるのだが、実は1週間も経っていない。
「別に、気にしないでいいよ」ミサは手を振りながら言った。
「お礼を兼ねて今度ウチに来てよ」
「え?」
 比喩でもなんでもなく、その瞬間だけなぜかさやかの言葉が理解できなかった。理解するのに一文字ずつ咀嚼する必要があり、自宅に招かれていることを理解すると同時に目を見開く。
 その反応は理解できなかったのかと認識したらしいさやかが再び口を開く。「ウチで、ふたりで女子会でもしようよ」
 ミサはその誘いにどう反応するのが最善であったのかわからなかったが、断るのは間違いなく最悪だとは即座に理解できた。だから、すぐにうなずく。こうしてミサはさやかの部屋に行くことになった――いや、あるいはなってしまったと表現するべきかもしれない。


 なし崩し的に入ることになったさやかの部屋はわりと普通だった。ショッキングピングのカーテンやテーブルがあるわけではなく、家財は新学期が近くなると発売される一人暮らしセットの類であろう無機質ながらもシンプルで使いやすそうな家電で固められていて、その間を埋めるかのようにクマとかイヌとかネコとかのぬいぐるみが配置されている。そして部屋にはアロマでもたいているのか、ミサがこれまで嗅いだことのない匂いがしている。きっとさやかの好きな匂いなのだろう。そう思うと胸があつくなっていく……ような気がする。
 さやかがミサを自宅に招いた理由は女子会をしようというものであった。しかし女子会といっても何をすればいいのか。時間を潰すのに最適なのは喫茶店などでタバコをすぱすぱと吸うことだとかつて考えていたミサにしてみれば戦略的買収並に自分に関係のない言葉であった。それでもおぼろげながら女子が飲んだり食べたりだべったりすることだとはわかっていて、それってつまりは飲み会なんじゃないかとさやかに質問しようとしたが言わないでおいた。せっかくのふたりきりなのだ、水を差すようなまねはしたくない。
「かんぱーい」
 さやかがそう言いながらミサのグラスに自分のグラスをぶつける。中に入っているのはアルコールの入っていないビールである。実はふたりとも提出期限がすぐそばにせまっている課題があることをどっさりとこの女子会で消費するためにビールやらおつまみやらを購入してから気づいた。ミサは同じゼミの友達からのメール、さやかは友達の電話で。そのため急きょ課題をしつつだべる会に変更し、そのために酔わないビールを購入し、今に至る。
 ミサにしてみればこんなミスはしたくなかったのだがさやかと一緒ならそういうドジを踏むのさえ楽しい。そう思えている。だから自然と笑顔になっていたし、話も弾んだ。
「はー」
 根を詰めて疲れたらしいさやかが唐突に体をのばす。ミサもそれにつられて課題から目を離す。
「つかれた」そう言うとさやかは舌を出した。
「私もつかれた。でも提出しないと単位を修得できなくて、最悪留年するはめになるからしないといけない」
 ミサは話しながらグラスに手をのばしていた。
「なんというか、もう1年があっという間だよね」さやかはもう完全に課題をする気はないらしい。それまで握っていたシャープペンシルを手放している。「これから先どうなるかもわからないし」
「そうだね。突然の別れなんてこともありうるかもしれないし」
「それは……」
 グラスを両手で持っていたさやかが顔を曇らせる。
「それは、やだな。ミサとはまだまだそばにいたいよ」
「うん、私もそうだよ」ミサにしてみればこう言い返せたのは奇跡に近い。さやかがおもわせぶりなことを言ったからだ。
「このままずっと、ずっと……そばに……」
 言い切らないままさやかが頭を机に乗せ、そのまま動かなくなる。
 何かしらの発作が起きたのかと慌ててさやかの容態を探る。呼吸は正常だし目に見える異変はない。ふと空になった缶が目に入る。
「ん?」
 さやかが飲んでいたのはアルコールの入っている、普通のお酒だった。つまりさやかは睡魔に抗うことなく、受け入れてしまっただけだ。そのことに気づいた瞬間、ミサの口からため息が出たがしかたがないことだろう。


 とりあえずさやかをベッドまで運んだが、目を覚ます気配はまったくない。壁にある時計に目をやると、もうすぐ日付が変わる時間帯になっていたことに気づく。こんな深夜にひとりで帰る気はない。家主の承諾はなくとも勝手に今夜の宿にさせてもらうことにした。
 とはいって他人の、しかも初めて入った部屋なのだからどこに何があるかなんてわからない。トイレや浴室の位置はすでに確認済みだとはいえ、それらを実際に使用していいのかが少し不安だったりする。まあ、浴室はともかく、トイレはためらいなく使用する気満々であることは否定しないでおく。
 さやかは相変わらずスヤスヤと寝入っている。寝顔を見つつも懐に手を入れ――そして今タバコなんて持っていないことに気づき、苦笑を浮かべる。さきほどまで課題をこなしていたテーブルを整理する。少なくともさやかのものと自分のものが混ざらないようにしなくてはならない。ミサはまだ眠くないので課題をこなすことにした。それにしても今時レポートをパソコンではなく手書きでしか受け付けないというのは時代錯誤な気がしてならない。痛む腕をかばいつつも少しずつペンを走らせる。かすかに聞こえるさやかの寝息とペンの音だけが聞こえて、いつまでもレポートをしていたい気分だった。とはいえ、いつかかならずレポートが完成してしまう時が来てしまう。というか、来てしまった。
 レポートが終われば途端に暇になる。読みかけの小説を携帯しているがだからといってここで読むのはミサとしてはあまりよくない感じがして、できないでいた。できたのはさやかの寝顔を見ることくらいだ。どれだけ見ても見飽きない。このまま携帯で写真を撮って待ち受けにしてやろうかとも考えたが、起こしたくないのでやめておく。
 今ミサの中では悪魔と天使が拮抗していた。悪魔は眠っているし好きなのだからキスしてしまえとミサにささやき、天使はそんなことをしてはいけない、意識があるときに告白してからキスはするものだと抵抗している。よく天使と悪魔が頭の中でそれぞれ対極の選択をささやくなんて描写がマンガではよくあるが、まさか実際に体験することになるとはミサはこれっぽっちも考えていなかった。
 さやかも恋をしている。ミサはそんなさやかが好きで、でも好きな人がいることを知っているため告白できないでいる。そもそも同性同士で恋愛というのはあんまりないし、それによりなんらかの不都合があるかもしれないという気持ちがミサに1歩踏み出せない原因となっている。この世の中はマンガのように途中から始まり途中で終わるわけじゃない。始まりがあり、終わりがある。そういうものだ。


 気がつけばミサは眠っていた。携帯で時間を確認すると7時を少し過ぎていた。今日の講義は午後からなのでまだまだのんびりしていられるはずだが一度教材を取りに戻らないといけない。さやかはまだ寝ていた。昨日からずっと眠り続けている。いつの間にか消えるのも悪いと思いさやかを起こそうと手を伸ばした瞬間、聞き覚えのある着信音が部屋に鳴り響く。さやかの携帯だ。
 その音に跳ね起きたさやかは寝ぼけ眼のまま携帯に出る。
「あ。吉田くん? おはよー」
 え。
 吉田くん……って。誰?
 ミサの頭のなかには疑問符があふれていて、今日の講義なんてどうでもよくなっていた。
 気がつけばさやかが携帯を閉じていた。
「ねえ、さやか。今の相手だけど……」ミサはそこまで口を動かして、その後どう聞けばいいのかがわからなかった。
「ああ。今の?」
 さやかは笑顔だ。昨日女子会をしようと告げてきた時と同じような笑顔だ。
「前に話したでしょ? わたしの好きなヒト。というか――」そこで急にもじもじしはじめる。「実はもうすぐ付き合う前の相性確認も兼ねてデートすることになってるんだ」
「そう……なんだ……」
 ミサの相槌に気をよくしたさやかがさらにしゃべりはじめるがその内容はほとんど入ってこなかった。さやかがデートをする。ただそのことだけが妙に強調されてミサに記憶された。よく目の前が真っ暗になったと表現されていることがあるが、それがまさにミサの前で起こった。起こってしまった。
 が、即座に視界は回復する。ふっきれたかのように心が穏やかで、この前のように心臓がバクバクとなっているわけでもない。落ち着いているというよりはふっきれたと表現したほうがいいだろう。帰り支度をちゃっちゃとすませ、ミサは扉の前に進む。
「さやか」靴を履きながら言う。
「何?」
「私は、さやかのことが好きだから」
 ミサは答えを聞くことなくそのまま扉をしめた。


 それからまたさやかに会う機会がなかった。というか、さやかがミサを意図的に避けて過ごしていたため会えなかったと言うべきだろう。共通の友人を通じてデートの日を聞いたがだからといって中止にするつもりなんてない。せいぜいうまくいかないことを期待するしかない。そんなことしたら嫌われてしまうだろうか。ミサはひとりで思考するが、そもそもあんなこと言った時点で嫌われたも同然だからいいか、と開き直って日々を過ごしていた。
 いや、それは語弊がある。開き直ったかのようにふるまわなくてはやっていけなかった。タバコを吸えばよかったのかもしれないが、なぜかしなかった。たぶんさやかのことを心が覚えていたせいだろう。
 さやかから会いたいと簡潔なメールが届いたのはデートが終わったすぐあとだった。幸いにもスケジュール帳に予定は書かれていない。会うことにした。


 ミサはさやかに居酒屋ではなくしゃれた喫茶店に来るよう指示された。指定された場所にある喫茶店に時間通り来るとすでにさやかはぶすっとしながらも座っていた。
「久しぶり」店員にコーヒーを頼んでから声をかけた。
「ひさしぶり」
 さやかはやはり機嫌が悪いようだ。モロに声に出ている。
「デートはどうだった?」
「よかったけど、よくなかった」いつものさやからしいあんまりよくわからない要旨だった。
「それってやっぱり、私が原因なの?」
「うん。ミサが悪い」腕を組みいかにも怒っていますと態度で示している。「だってミサの告白がわたしの頭のなかにずっと残っていて、そのせいで吉田くんのことが全然頭に入ってこなかったんだからね」
「あ、そうなの……」
「そうなの。そのせいでお断りしなくちゃならなくなったんだからね」
「お断りって、何を?」
「付き合うのを」即答した。
「なんで……?」
「ミサってぬけてるよね」さやかがため息をつく。「普通わかるでしょ、ここまで言ったら」
「え? あれでしょ。私のせいでデートが台無しになっちゃったから私が嫌いになっちゃったんでしょ?」
「違う、違うよ」
「その逆だよ」
 その逆。嫌いの反対はすなわち……。
「え!?」ミサはここでようやく気づいた。
「それってつまり……そういうことなの?」
 気づいたのはいいが、確信がもてず念のため確認をしようとする。さやかは頬を赤らめながらしずかにうなずいた。


 その後なんとかさやかから話を聞いた。
 どうにもミサの告白を聞いて自分の中にあるミサへの気持ちを少しずつ整理していたらしい。それで、デートの最中吉田くんをミサに当てはめ、そうだととても嬉しいことに気づき、その想いを告げるためにこうしてミサを呼び出したということのようだ。ちなみに意図的にミサを避けていた件についてはそうすると自分の思考を正常にたもてなくなるからと語っている。
 さやかの解説を聞いたミサは脱力していた。なんというか、これまでひとりで相撲をとっていたかのように思えてきたし、それが決して嫌ではないとわかったからだ。さやかがからむとなんでも肯定的に考えることにミサはいまさら気づいた。


「じゃあ、女子会しようよ」
「女子会?」
 さやかが怪訝な表情を浮かべていた。
「そ。女子会」ミサはそんなこと気にせずニヤリと笑っていた。「恋人ができた記念の」
 そう言いながらもタバコをすべて捨てなくてはいけないとも考えていた。しかし、そう考えてもまったく苦に感じていないミサはそこにいた。
 さやかは恥ずかしそうにしていたが、それでもゆっくりとそしてふかく頭を下げていた。

『君が僕にキスをした、僕が君にキスをする』タチバナ

 目の前には野津さんがいた。
 野津さんは、僕が中学二年生の時に始めた家庭教師の大学生で、黒の似合う人だ。僕が高校生になった今でも、野津さんは家庭教師を続けてくれている。
 野津さんは僕の勉強を見ている時だけ、メタルフレームの眼鏡をかける。煙草は吸わなくて、お酒は付き合いで飲むけれど、あまり好きじゃない。
 静かに話す人で、僕が落ち込んでいると気付いてくれる。無理に聞き出すようなことはせず、僕が話すのを待ってくれる人で、だからこそ僕は野津さんに何でも話すことができた。
 野津さんは一人っ子の僕にとって憧れの人で、同時にこんなお兄さんがいたらいいのにと、そう思える人だった。
 そんな野津さんが今、その瞳を熱情に染めて僕を見つめている。
「脩平……」
 野津さんの熱を孕んだ吐息のような声は、僕の鼓膜をじくじくと刺激する。
「野津、さん」
 生唾を飲み込み、その赤らんだ頬に手を添えた。僕の手を受けて、野津さんが感触を味わうようにゆっくりと瞼を閉じた。
 そして、互いの顔がじりじりと近づいていく。
「……野津さん」
 唇が触れるか触れないかの距離で、確認するように名前を呼ぶ。
「はやく、脩平」
 その言葉を皮切りに、僕は野津さんの唇に自身のを押し当てた。初めは触れ合うだけだった唇は、徐々に獣のように荒々しく、貪るように――


 けたたましく鳴り響く携帯電話のアラーム音に体が飛び上がった。
(ま、また、この夢……)
 心臓は激しく脈打ち、呼吸も荒い。
 数日前から見続けているこの夢は僕を悩ませていた。その原因もわかっている。
 夢の世界から引きずり下ろしたアラーム音は変わらず今も鳴り続け、僕を現実へと引き戻した。慌ててアラームを解除し、僕はのっそりとベッドから起き上がった。

 ある日の夕方、学校からの帰り道に僕は野津さんが男の人とキスをしているところを、目撃してしまった。
 場所は交差点――人通りはそれほど多くないが、車通りの激しい場所だった。よほど注意するか見知った人でなければ、その向こう側にいることを気付けない。運悪くと言うのか、僕は見つけてしまった。
 初めはなんてことのない大学生二人連れにしか見えず、その片方が野津さんだと気付いた程度だった。
 僕に気付いてくれるかと期待交じりに見ていたその時、隣にいた男の人が野津さんにキスをした。一度、僕も気のせいで済ますこともできただろう。けれども、二度三度と繰り返される向こう側の刺激的な出来事に、僕の頭は真っ白になった。
 憧れのお兄さんの衝撃的な場面を目撃してしまった。その事実が僕をその場所から逃げ出させた。いつもより少し遠回りして帰ったその日は、母さんからこっぴどく怒られてしまった。
 そんな時でも、瞼の裏には野津さんのキスシーンが焼きついて離れなかった。
 この夜から、僕はあの夢を見始めた。

 最初は、見たままが夢に出てきただけだった。遠くからキスする野津さんともう一人を、僕は動くことも出来ず、何の言葉も発せないまま、じっと眺めているだけの夢だった。
 翌日の夢はすぐ傍らで二人のキスを眺める夢だった。前日と同じように、動く自由も話す自由も与えられないまま二人を見ていたが、相手の男の顔だけは見えなかった。
 そのさらに翌日の夢で、僕は野津さんの前に立っていた。やはりこの時も僕の意思では動くことが出来ず、操られるままに野津さんの頬に手で触れ、口付けた。
 触れては離れ、離れては触れ……何度も何度も繰り返されるその行為に、僕は徐々に魅了されていった。
 けれども目を覚ます度、僕は罪悪感に襲われていた。僕はふとした合間に野津さんを思い出すようになった。罪悪感からなのか、そうじゃないのか。その度に心臓は強く脈打っていた。
 今まで、特定の誰かを思ったこともなければ、誰かのことをこんなにも考えたこともなかった。初めてのことに、何よりその相手が同性ということに、僕は戸惑っていた。けれども、相手が野津さんだったからか、その戸惑いも日を追うごとに薄れていった。


    ***


 しっかりと冷水で顔を洗ったはずなのに、未だに思考は霞がかったようにぼんやりしていた。高校への通学路を憂鬱な足取りで歩いていると、後ろから衝撃が飛んできた。
「脩平、うぃーすっ!」
 思いっきり叩かれたらしい背中を丸め、痛みのあまりうずくまる。肩にかかっていたスクールバッグがそれと共に地面に落ちた。
 ひりひりと熱くなる手のひら型の痛みは、じんじんとその存在を主張している。毎朝のこととは言え、いつも不意打ちで僕は身構えることもできない。
「……知哉、一体どんな馬鹿力で叩いたんだよ……」
 ようやく立ち上がってスクールバッグを肩にかけ直し、中学からの親友――知哉を睨みつけた。と言っても、知哉の方が十数センチ高いから、自然と上目遣いになってしまい、怖がられることはほぼない。
「わりぃわりぃ!」
 申し訳なさの欠片も見当たらない笑顔の前に両手を合わせて謝られる。その顔も手も、連日あるサッカー部の練習で日に焼けてすっかり真っ黒だ。そんな知哉を見ていると、力が抜けていく。
 ぷい、と視線をそらして、再び歩き始めた。慌てて知哉も追いかけてきた。
「だってよー。脩平ってば、すげぇしょぼくれながら歩いてんだもん。親友としては喝を入れねばと――」
「だからって、力入れすぎ」
 時間が経ってマシになったとは言え、まだ背中はぴりぴり痛む。
「わりぃって! 何、まーた寝不足か?」
「寝てるはずなんだけど……」
「その割には目の下、隈できてるぞ?」
「……知ってる」
 起きて洗面台の鏡と対峙してげんなりしたのはさっきのことだ。
 大きく息をひとつ吐き出すと、知哉は心配そうに覗き込んできた。
「何に悩んでんのか知らねぇけど、俺で力になれることがあったら言えよ?」
 打ち明けられるものなら、とっくの昔に話している。これが只、野津さんが男の人とキスをしているのを見てしまっただけならよかった。けれども、僕にはその続きがある。知哉に夢の話までした時、どう反応されるかが怖くて、僕はまだこの親友に打ち明けられないでいた。
 それでも、知哉の心遣いが嬉しくて、僕はできるだけ安心させるように微笑んだ。
「……ありがとう」
「おうっ」
 高校に着き、教室へ向かう廊下で、突然、知哉が声をあげた。
「ああっ!」
 左耳――知哉がいる方の耳を軽く押さえて、知哉を見た。
「そういえば今日じゃねぇの!?」
「……何が?」
「脩平のカテキョの日!」
 そう、今日が朝から憂鬱な理由はこれだった。あんなところを、あんな夢を見てからの、初めての家庭教師の日が今日だった。僕は一体、どんな顔をして野津さんと会えばいいんだろうか。
「脩平はあのカテキョのこと、頼りにしてんだから相談してみれば?」
 すぐさま、答えることができなかった。黙ったままの僕に知哉が首を傾げる。
「どうした?」
「あ、いや……うん、そうしてみるよ」
 曖昧なまま頷く僕に、知哉は何か釈然としない顔をしていた。

 野津さんに直接聞くかどうか。それだけを悩んでいる間に一時間目が終わり、二時間目が終わり、あっという間に放課後がやってきた。
 ざわざわと部活や委員会、帰路へと散っていくクラスメイトを眺める視界の中に、知哉が割り込んできた。
「帰らねーの?」
「え、あ、……うん、帰るよ」
 言われてからのそのそと帰宅準備を始める僕に、知哉が顔をしかめた。
「本当に大丈夫か?」
 知哉からの問いかけに、やっぱり僕は答えられなかった。
「脩平、一体何があったんだよ」
 覗き込んでくる知哉の顔は真剣そのもので、僕は知哉を直視することが辛かった。
「まだ、言えない……」
 視線を下へそらし、ぽつりとこぼした本音に知哉はため息を吐いた。
「……まだってことは、そのうち話してくれるんだな?」
 俯いたまま小さく頷くと、知哉が離れる気配がした。慌てて顔を上げると、朝と変わらない笑顔をした知哉が立っていた。
「ならいい。ぜってぇ話せよ!」
「わかってるって」
 いつもの知哉に今度は僕が安堵のため息を吐く番だった。
「やっべ! 遅れる!」
 時計を見た知哉が焦ったように声をあげ、肩からずり落ちていたサッカーバッグを担ぎなおした。
「じゃあな、脩平!」
「うん、また明日」
 教室から弾丸のように飛び出していく知哉の背を眺めた後、僕もスクールバッグを肩にかけて教室を後にした。

 一週間振りに会った野津さんは、夢の中の野津さんとは程遠い、いつも通りの野津さんだった。
「脩平、どうした?」
「……え?」
 気が付けば野津さんは教える手を止め、隣から僕を覗き込んでいた。
「手。止まってる」
「あ、ごめん……」
「脩平が上の空だなんて、珍しいな。悩み事か?」
「ま、まぁ。そんな、とこ」
 瞬間、脳裏に夢に出てくる野津さんが浮かび、僕は恥ずかしくて顔が熱くなった。
「……ふぅーん。もしかして、好きな子?」
 好きな子。そう言われた途端、全身に衝撃が走った。僕は、野津さんのことが、好きなのか?
「いやいや、いいよ。無理して言わなくても、おれはちゃーんとわかってるから」
 ろくに反応を返せない間に野津さんが勝手に納得して頷いていた。
「そ、そうじゃなくて……!」
 どうして僕は、あんなにも野津さんのことばかり考えていた? 野津さんのことが好きだから? 本当に?
 頭の中で疑問ばかりがぐるりぐるりと回る。
「照れるなよぉ。脩平も高校生だし、今更照れることなんてないだろ?」
「ち、違うって」
 今更否定の言葉を吐いたところで、野津さんは自分の考えのまま、満足げに頷き続けている。
「なんだよ、水臭いなぁ。相談くらい、いくらでも乗るのに」
 ほら、言ってみなよ。と、首をかしげた野津さんが僕を見つめる。その目が面白がってるように見えるのは、絶対、気のせいじゃない。
『脩平、頼りにしてんだからさ、相談してみれば?』
 不意に思い出した知哉の言葉に、僕はゆっくりと口を開いた。
「……じゃあ、野津さんは恋人、いる?」
 僕の質問に野津さんは目を丸くして驚いた。
「おれの、こと?」
 こくんと頷くと、野津さんは腕を組んで唸った。
「そうだ、なぁ……うーん。恋人、とは言えない……かな」
「恋人じゃ、ないの?」
 今度は僕が驚く番だった。
「厳密に言えば、な。でも、向こうにはおれが好きなのバレてるし、あいつも面白がってるみたいだし。おればっかり好きみたいで、……振り回されてばかりだよ」
 そう言いつつ目を細めた野津さんは、間違いなく目の前の僕を見ていなくて、別の誰かをその瞳に映していた。
「じゃあ、恋人じゃなくても、キスとか、しちゃうもの?」
 野津さんがさっきよりも大きく目を見開いて驚いた。言葉にしてからから自身の失言に気付いたが、こぼれ出た質問はもう戻すことができない。
「な、なんだよ。ずいぶん大人なこと聞くなぁ」
「いいから。どうなの?」
 開き直って問い掛けると、野津さんは僕から視線をふいっと逸らした。
「……あるかも、な」
 少し遠くを見つめて肯定した野津さんに、僕の心臓が一際大きく高鳴った。


    ***


 気が付けば、夢で見る野津さんよりも、僕じゃない誰かを見つめる野津さんの表情が、頭から離れなくなってしまっていた。
 日に日に溜め息は増えていき、月曜日の朝は知哉の突撃への反応も上の空になっていた。
 そんな僕の前に立ちふさがり、知哉はいつの間にか怖い顔で僕を見ていた。
「脩平、今日の放課後、俺が部活終わるまで待ってろよ」
「ど、どうしたんだよ。いきなり……」
「いきなりじゃねぇだろ。お前、最近本当おかしいぞ?」
「おかしくなんかないって。それより知哉、顔怖いって」
 そう指摘すると、知哉は一瞬顔を歪めた後、また怖い顔に戻っていた。
「……ともかく、ぜってぇ待ってろよ」
 有無を言わせない知哉の態度に僕は頷くしかなかった。

 すっかり人気のなくなった教室にひとり、窓から外を眺めていた。グラウンドが見渡せる三階の窓からは、サッカー部の場所はわかっても、知哉がどこにいるかはわからない。
 練習風景を眺めていても、思い出すのは野津さんだった。
 野津さんにあんな表情をさせてしまう相手とは、いったいどんな人なんだろうか。何が野津さんを夢中にさせているんだろうか。
 ぼんやり考えている間に、すっかり空が赤く染まっていた。
「下校時間だぞ。早く帰りなさい」
 見回りに来た先生に返事をし、僕は教室を出た。知哉とは校門で合流し、家の近所の公園に着くまでの道中、二人とも一言も言葉を発しなかった。
 公園入り口の車よけのポールに寄りかかったところで、知哉が口火を切った。
「脩平、何があったんだよ」
 心配そうに見てくる知哉に何と答えていいかわからず、見つめる僕に知哉は続けて口を開いた。
「カテキョの日から、脩平、ぜってぇおかしいって」
 おかしいのは自分でも自覚している。夢は相変わらず見ているし、前よりも野津さんのことを考えている時間も増えている。
 どう切り出すか悩んでいると、突然、知哉が両肩を掴んできた。
「もしかしてお前……あのカテキョに何かされたのか!?」
 語気が荒くなるのと同時に、肩を掴む力が強くなる。

「痛っ。どうしてそうなるんだよ!? 僕は何もされてないって!」
 否定し、体を捻って知哉の手から逃れると、知哉は困惑の表情を浮かべた。
「じゃ、じゃあ。何があったんだよ……」
 知哉がにじり寄ってくる。
「何を勘繰ってるのか知らないけど、僕は何もされてないってば」 
「でも、カテキョのことなんだろ!?」
 声を荒げる知哉に何も返せない。口を噤む僕に知哉はひとつ息を吐いた。
「……やっぱり、俺にも言えないこと、なのか?」
 知哉は僕よりずっと長身で、声も頭上から降ってきているはずなのに、目の前の知哉は何故か怯えたように見えた。
「僕のこと、軽蔑しない……?」
「するわけねぇだろ! 俺達、親友じゃねぇかよ!」
 間髪入れずに返された知哉の言葉に、僕は勇気を持って口を開いた。
 この間、野津さんが男の人とキスしているところを見てしまったこと。それが野津さんの好きな人だけど、恋人ではないこと。そして、夢に出てきて悩んでいること。僕は言葉を途切れさせながら、知哉に打ち明けた。
 でも、やっぱり夢の内容までは話せなかった。知哉に変な誤解をされたくなかった。
「な、なんだ、それ……気持ちわりぃ」
 知哉の言葉に思い切り頭を殴られたような錯覚に陥った。
「きもち、わるい……?」
「だ、だって、男同士だろ!? どう考えたって、おかしいだろ……」
 顔を歪めて言葉を吐き出す知哉の顔が見れなくて、僕は知哉から視線を外した。
「なんだよ。もしかして脩平、そのカテキョのこと……」
「ちっ、違うよッ! 野津さんのことは尊敬してるけど、そういうんじゃなくてッ!」
 慌てて否定して知哉を見ると、疑いの眼差しをした知哉の瞳とぶつかった。衝撃で頭が真っ白になる。
 知哉からそんな目で見られたことなんて、今まで一度だってなかった。いつだって知哉は僕を信頼してくれていた。それは僕も同じで、いつだって知哉を信頼してきた。けれども、それが今、壊れた気がした。
「やっぱり、知哉に相談するべきじゃなかったんだ……」
 ぽつりとこぼした言葉に知哉が僕の腕を掴んだ。ぎりりと握り締められる。
「なんだよ、それ」
「もういいよ。離してよ」
 何もかもがどうでもよくなって、力が抜けていく。
「何がいいんだよ! 俺に相談すべきじゃないって、どういうことだよ!?」
 さらに握り締めてくる痛みに眉を顰め、知哉を睨み上げた。
「離せよッ! 夢まで見ちゃう僕のことも、どうせ気持ち悪いんだろッ!?」
 強い力で引寄せられたと思った瞬間、唇がぶつかった。
「――ッ!?」
 目を閉じるなんてことができず、見開いた目はぐるぐると周囲をさ迷い、状況を把握しようとする。見えたのは知哉の跳ねた髪の毛と、周囲を照らしている電灯だった。
(僕、知哉にキスされている……?)
 そのことにようやく至った時、知哉が離れた。
「な、なに……?」
 呆然と言葉を発すると、額を手で押さえ、混乱したように後ずさる知哉の姿を捉えた。目は大きく見開き、首は小さく振り続けている。
「ち、ちが……」
「知哉、どうして……?」
「ちがう、違う! そうじゃない!」
「ともや……?」
 一歩、また一歩と、後ずさる知哉にそろそろと手を伸ばせば、乾いた音が周囲に響いた。叩き払われたことに気付いた時、知哉は「違うッ!」と叫び、僕に背を向けて走っていった。
 走り去る知哉の後姿を呆然と眺める僕とは裏腹に、心臓はうるさく騒ぎ立て、心はかき乱されていた。
 それが僕の初めてのキスだった。

 呆けたまま家に帰った僕は、夕飯がろくに喉を通らず、早々とベッドに潜り込んだ。しかし、一向に眠気がやってくる気配がない。目を瞑れば、瞼の裏で知哉との出来事がリピートし続け、僕はどんどんと目が覚めていった。
「気持ち悪いって言ったのに」
 吐き捨てるように言った知哉の真意がわからなかった。
(どうしてキスなんか……)
 そっと唇に触れてみるけれど、あの時の感触は蘇ってこなかった。思い出そうとしても、出てくるのは知哉の跳ねた髪の毛と公園の電灯だけで、感触なんて覚えていない。ただただびっくりしている間に、知哉は走り去った。
 そして、どうやら僕はあんなことをされても、知哉を嫌えないらしい。その上、知哉にキスをされて嫌じゃないと思っている自分に何より驚いた。野津さんとキスする夢を見続けたせいなのか、そうじゃないのか。今の僕にはわからない。
 それよりも気になったのは、知哉の狼狽振りだった。あんなにも知哉をうろたえさせたのは、一体何だったんだろうか。
 結局、うとうととし始めたのは空が白み始めた頃だった。いつもの時間に起きて来ない僕を心配した母さんに叩き起こされ、慌てて家を出て学校に向かう道中、いつも来るはずの知哉からの突撃はなかった。

 教室に入ると、知哉の机の上にサッカーバッグが乗っているのを見つけた。
(知哉、先に来てたんだ……)
 もしかしたら、サッカー部の朝練があったのかもしれない。今、ちょっと先生に呼ばれているだけかもしれない。
 都合の良い言い訳で無理やり納得させたが、結局、知哉はチャイムが鳴るまで教室に戻って来なかった。
 そして、知哉は僕を避け始めた。


    ***


 毎朝の、後ろから来る突撃がなくなった。知哉は僕より早く学校に着き、授業が始まるまで教室から姿を消すようになった。
 チャイムが鳴らないと戻って来ない知哉に、僕は声をかける隙を見つけることができずにいた。それは休み時間も同じで、チャイムが鳴った途端に席を立ち、チャイムが再び鳴るまで知哉は戻らなかった。
 こんなにも知哉に避けられたことは初めてだった。僕はどうしたらいいかわからず、教室を出て行く知哉を目で追いかけることしかできなかった。背中を視線で追い、一体何が悪かったのか考えても答えは見つからなかった。
 そんな僕らの状態が数日続いた。それだけ続けば仲の良いクラスメイト達も何かあったと気付き始め、澤田が「ケンカでもしたのか?」と聞いてきたのは、二時間目後の休み時間だった。
 僕が曖昧に笑えば「いつまでも怒ってないで許してやれよ」と返され、僕は首を傾げるしかなかった。
「怒る? 僕が? どうして?」
 避けているのは知哉なのに。
「そんなの知らないって。って、脩平が怒ってるんじゃないのか?」
「別に僕は怒ってない、けど……」
 答える僕に澤田と渡邉が不思議そうに顔を見合わせた後、渡邉が口を開いた。
「脩平、気付いてないのか? 知哉のやつ、授業中ずっと迷い犬みたいな目をして、お前のこと見てるぞ?」
「知哉が?」
「オレ、お前らより後ろの席だろ? 色々丸見えなんだよ」
「丸見えって」
 苦笑いを浮かべていると、休み時間終了のチャイムが鳴り響いた。
 次の授業、こっそり見てみろよ。自分の席に戻りながら言う澤田と渡邉に頷き返したところで、知哉も教室に戻ってきた。
(知哉が、僕を?)
 自分の席に戻っていく知哉を横目でまじまじと眺めても、一向にこっちを見る気配はない。
 頑なに前を見る知哉から視線を外した時、知哉がこっちを見た気がした。慌てて視線を戻すと、知哉と視線が合った。目を見開いて驚く知哉はすぐさま視線を逸らしてしまった。
(やっぱり、怒ってるのは知哉じゃないか……)
 こっそりと溜め息を吐き、僕は無理やりにでも授業に集中することにした。
 けれど、どんなに熱心に板書しても、先生の話に耳を傾けても、いつの間にか僕の意識は知哉に戻っていた。
(渡邉が変なこと、言うから)
 休み時間に言われたことが気になり、集中しようとすればするほど、授業に集中できない。ノートをとっているけれど、内容はさっぱり入ってこない。
 今、知哉を見たら本当に目が合うんだろうか。そんなことを思っても、僕は知哉の方を見る勇気はない。また目を逸らされたら――それを考えるだけで辛かった。

 知哉と僕は中学一年生からの付き合いになる。初めはただのクラスメイトで、知哉はその頃からサッカー部だった。
 仲良くなったきっかけは体育の授業でサッカーをやった時だ。運動があまり得意でない僕に、ボールの蹴り方を教えてくれたのが知哉だった。そのお礼にと数学を教えてあげてから、僕らはよく話すようになった。
 中学三年生まではただの仲の良い同級生だった。知哉が部活推薦で僕と同じ学校を志望していることを知ってから、僕らはもっと仲良くなった。いつの間にか下の名前で呼ぶようになり、互いを親友と称するようになった。
 それからまだ一年しか経っていない。ずっと続いていくと思っていた僕らの関係は、あの夜を境に崩れてしまった。その事実が辛かった。何とか修復したかった。
 今日こそ話しかけようと決意する度に、知哉は霧のように視界から姿を消してしまう。その度に僕は少しずつ挫けていった。
 そして、あの夜から一週間が過ぎようとしていた。いつの間にか、野津さんの夢は見なくなっていた。


    ***


 知哉が目の前に立っていた。
「知哉……!」
 慌てて伸ばした手は知哉に届かず、空中を振りかぶった。知哉がゆっくりと背を向け、僕から離れていく。
「知哉! 嫌だっ! 何でだよっ!」
 懸命に追いかけようとするのに、僕はまるでスローモーションにかかったように、一つの一つの動作がひどく重い。その間も知哉はぐんぐんと離れていく。
「嫌だッ! 知哉ッ!」
 唯一自由になる声で懸命に呼び止めようと張り上げるけれど、ついに知哉は消えてしまった。
「知哉、知哉……ッ! いやだ、消えないで。いやだ……!」
 ようやく体が自由になったところで、知哉はもういない。追いかけることも、できない。僕はその場に座り込み、呆然と天を仰いだ。見上げた先には、ただ闇が広がっていた。

 けたたましく鳴り響く携帯電話のアラーム音で、僕は夢の世界から掬い上げられた。
「もぉ、いやだ……」
 頬は涙が流れ、枕まで濡らしている。知哉の夢を見るようになって三日が過ぎた。この三日間、僕は同じ夢を見て、毎朝涙に濡れていた。それももう限界だ。
 ぐじぐじと溢れてくる涙を拭うが、止まらない。知哉からは避けられ続けている。目が合ってもすぐに逸らされる。声をかけようと近寄れば逃げられる。僕の心はもう迷子になっていた。
 泣き過ぎて痛む頭を押さえ、僕はベッドを出た。
「母さん、今日休みたい……」
 リビングにいる母さんにそう告げると、僕を見た母さんが慌てて駆け寄ってきた。
「脩平……どうしたの?」
「お願い、今日だけだから」
 濡れたままの頬を撫でる母さんに何も答えられず、「お願い……」とだけ告げた。
 もう辛かった。去っていく知哉の背中をこれ以上見たくなかった。必死に平静を取り繕っているのに、夢を見る度に剥がされる。
「何か、あったの?」
 心配そうに覗き込む母さんにゆっくりと首を振った。
「大丈夫だから、今日休んだら元気になるから……」
 頑なな僕の態度に小さく溜め息を吐いた後、ゆっくりと頷いてくれた。
「……じゃあ、先生に連絡入れておくわね」
「母さん、ありがとう……」
 瞼を閉じるとまた一滴、頬を流れた。それを母さんが優しく撫でて拭い取る。
「いいのよ。野津くんもお休みする?」
「……野津さんは、大丈夫」
「そう。朝ごはん食べる?」
 母さんの言葉に首を振り、寝不足だからと僕は自室に戻り、逃げるようにベッドに丸まった。

 いつの間にか眠っていたらしく、気が付けば昼過ぎになっていた。夢らしい夢も見ず、久しぶりに熟睡できたらしい。
 ふと、点滅して着信を知らせる携帯電話が目の端に止まり、見てみると友人達から数件の着信と心配のメールが届いていた。その中に知哉からの連絡はやっぱりなかった。もしかしたらと、ほんの少しの期待は無情な現実に砕け散る。
 心配してくれた友人達にメールを返し、ベッドから体を起こした。服に着替えていると腹が勢いよく鳴り出した。しっかり眠れ、朝から何も食べていないことでようやく空腹を覚えたらしい。僕は腹をさすりながらリビングに降りていった。
 リビングに入ると母さんの姿はなく、ダイニングテーブルに今日の弁当と、夜まで出掛けるという書置きが残っていた。
「いただきます」
 手を合わせ、ひとり寂しくお弁当を平らげた後、メールが来ていることに気付いた。何気なくメールフォルダを開いて息を呑んだ。
「……知哉」
 差出人の名前を見て、僕はすっかりうろたえてしまっていた。
「一体どうして」
 答えの返って来ない携帯電話を見つめ、呟いた言葉は静かに消えていった。恐る恐る開いたメールにはたった一言「大丈夫か」とだけ書かれていた。
 どうして今、こんなメールを送って来るんだろう。知哉が去っていく姿を見たくなくて、僕は知哉から背を向けた。知哉から逃げた今に、どうして。
 ぽたりと液晶に雫が落ちる。僕はいつからこんなに泣き虫になってしまったのか。溢れる涙はぽたりぽたりと、僕の手元に落ちていく。口から呻き声が漏れ、感情が言葉にならない。
「なん、で……ッ」
 思い出すのは、知哉にキスされたあの夜のことだ。今まで何度もあの場面だけを思い出した。知哉に強く引き寄せられ、キスされたことは忘れられなかった。忘れようとも思わなかった。
 知哉に避けられれば避けられるほど、強く強く、僕の中に残っていった。
 いつの間にか、あの夜からもう一週間以上経ってしまっている。
(こんなことなら、言わなきゃよかった)
 後悔ばかりが頭の中を駆け巡り、喘ぐように息がこぼれる。
 その時、来客を知らせるチャイムがリビングに鳴り響いた。びくりと体を揺らせて息を詰めていると、再びチャイムが鳴った。涙を拭い、立ち上がってインターホンに出た。
「……はい」
『あ。脩平?』
「えっ、野津さん!?」
『今大丈夫か?』
「あ、ちょっと待って」
 インターホンを切り、小走りで玄関に向かう。扉を開ければ、野津さんが立っていた。


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