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目次


Prologue Afternoon


Episode1 Yuko Hirai


Episode2 Fifth grade


Episode3 First love


True episode Kana Hirai


Episode4 Mami Amami


Episode5 Mitsuhara Ayase


Episode6 Each view


Epilogue Memories



Prologue Afternoon

 小学五年生への進学を間近に控えた、春の昼下がりの事。
 トラックの大きなクラクションと、タイヤの擦れる音が、自宅前の道路に響いた。
 気付いた頃には、もう遅かった。
 道路の真ん中には、長い髪を乱れさせ、額から真っ赤な血を垂らす母さんの姿がある。
周りには野次馬ができ始め、トラックの運転手はあまりの衝撃に混沌としていた。
 僕は手に持っていたサッカーボールを、その場に落とし母さんの元へ駆け寄った。
母さんの体を軽く揺らす。
 手に触れた母さんの体には、温もりと言うには程遠い冷たさを感じた。
 「ねぇ、母さん?」
 次は一声掛けてみた。
 それでも、何も反応がない。
「母さん! 母さん!」
 どれだけ声を掛けても、母さんは起き上がらない。
『母さん!』
 その言葉を発したつもりだった。
『母さん!』
 何度も、そう言い続けたつもりだった。
 それでも、聞こえて来る筈の自分の声は、聞こえて来ない。
 暫くして、ようやく気付いた。
 僕は声を失っていたのだ。
 これは母さんを死に追い合ってしまった、自分への代償。
 自然と、そんな考えが頭に浮かんでいた。
 転がるサッカーボールを追い掛けて、道路に飛び出した僕を、母さんは迫るトラックから身を挺して守ってくれたのだ。
 罪悪感で堪える事の出来ない涙を流し、小さな腕で冷たくなった体を抱える。
 そして、声なく叫び続けた。

Episode1 Yuko Hirai

 隣の家に住む、同級生の麗太君のママが亡くなった。
 その事を知ったのは、麗太君が私の家に預けられる事が決まった日であった。
 
=^_^=

自宅の玄関先で、麗太君のパパと私のママが何かを話している。
その場の空気は、今年から小学五年生へ進学する私にとっては、居合わせたら泣いてしまいそうな位に重苦しかった。
「それじゃあ、今日から息子を宜しくお願いします」
 とても背の高いスーツ姿の、麗太君のパパ。
 彼の後ろから、ひょっこりと麗太君が顔を覗かせた。
 どうやら、先程からそこにいた様だ。
 彼の手には、なぜか大きな旅行鞄がある。
 ママが麗太君に顔を近付けて、にっこりと笑う。
「麗太君、よろしくね。今日からは、私と優子と一緒に暮らすのよ。ここを自分の家だと思って、好きに使ってちょうだいね」
 麗太君は首を縦に振る。
「えぇ!?」
 廊下の隅から玄関を見ていた私は、唐突な自宅への入居者に、つい驚きの声を上げていた。
 ママ、麗太君のパパ、麗太君の三人がこちらを振り向く。
「あら、優子。いたんだ。ほらこっちに来なさい。麗太君に挨拶して」
 言われた通りに玄関へ行き、麗太君の前に立つ。
「さあ、麗太。優子ちゃんに挨拶しなさい」
 背中をパパにぽんと押された麗太君は、私に一礼した。
 どんな対応をしていいのか分からず、私はママの方を向いた。
 ママは何かを察した様に、私に言う。
「じゃあ、挨拶も済んだ訳だし。ママは麗太君のパパと大事なお話があるから、優子は麗太君と部屋に行ってなさい。麗太君の部屋は、後で用意するから」
「ちょっと……えぇ!?」
 ママに押され、私は麗太君を二階の自室に招いてしまった。
 そういえば、部屋に男の子を上げるのは初めてだ。
 中央に置かれている小さなテーブルの周りに、クッションが三つ置いてある。
 私はいつも座っている、キティちゃんの可愛らしいプリントが成されたクッションに、逸早く座った。
 なんとなく、これだけは男子に譲れないのだ。
「どうぞ」
 そう言うと、彼は私の向かいのクッションに座る。
「えっと……麗太君。お母さんは、大丈夫だった? えっと……ほら! あの……この前、事故に遭っちゃったでしょ? それで……えぇっと……今日から私と住むっていうのは……」
 訊きたい事は多々あるのに、言葉が上手く出て来ない。
 ぶっきらぼうな私の言葉に、麗太君は俯いてしまった。
「あぁ、ごめんね。そんな事を聞かれても困るよね……」
 どうして、私がこんなに喋っているのに、麗太君は無口なんだろう。
 これでは、沈黙を作るまいと頑張って話をしている私が馬鹿みたいだ。


 こんな麗太君を見たのは、今日が初めてだった。
 学校で見る彼はもっと明るく、クラスではムードメーカーの様な存在であった筈だ。
 やはり、ママの安否が心配なのだろうか。


 そんな考えを浮かべている内に、既に部屋には沈黙が下りていた。
 どうしよう……。
 なんか、お腹が痛くなってきた。
 昔から、こんな堅苦しい状況に陥ると、いつも私はお腹を壊す。
「ごめんね。ちょっと、トイレに行ってくるね」
 立ち上がり、私は逃げる様に自分の部屋から出た。

 二階のトイレで用を済ませた。
 そういえば、ママと麗太君のパパは、まだ玄関で話しているのだろうか。
 階段の上から玄関を覗くと、そこには誰もいない。
 どうやら、話は終わった様だ。
 一階のリビングへ行くと、ママは頭を抱えた状態でソファーに座っていた。
「ちょっと、どうしたの!?」
 ママはゆっくりと顔を私の方へ向ける。
 その表情は、涙に濡れていた。
「麗太君のママ……。さっき、病院で息を引き取ったんですって」
「そんな……」
 私には、直接の接点はない。
 しかし、ママにとっての麗太君のママは、近所付き合いでありながら親友の様に仲の良かった存在だ。
 勿論、麗太君にとっては、それ以上の存在でもある。
 身近な人が亡くなった。
 きっと、これは私の人生経験では初めての事だ。
 少しだけ、気分が悪くなった。
「麗太君に……何て言うの?」
「あの子には今日の夕食の後で、私からどうにか言って聞かせるわ」
 ママは私の頭を強く抱いた。
 豊満な胸部が、私の顔面を包む。
 それと同時に、少しだけきつめの香水の香りが私の鼻を突いた。
 いつもと同じ、ママの香り。
 なんだか安心した。
「優子、よく聞いて。あなたが麗太君の支えになってあげるの。あの子のパパは、仕事が多くて家に帰れないの。それに、まだ言っていなかったけど、今の麗太君は喋る事が出来ないのよ」
 ようやく理解した。
 私がどれだけ喋っても、彼が口を開こうともしなかった理由。
「麗太君のママが交通事故に遭った事は知ってるでしょ?」
「うん、知ってる……」
 しかし、私とママはその現場を直接見た訳ではない。
 丁度その頃、私達は買い物に出掛けていた。
 買い物から家に帰った時、麗太君の自宅前には警察がいて、私達は初めて事情を知ったのだ。
「麗太君は、その現場を見てショックを受けちゃったの?」
「そうよ。麗太君を一番に支える事が出来るのは、あなただけ。これから一緒に住んで、一緒に学校へ行って、大変な事もあるだろうけど、麗太君の事をお願いね」
 胸部に埋めていた顔面を離し、ママを見た。
 やはり、まだ涙を浮かべている。
「大丈夫だよ、ママ。麗太君の事は、私に任せて」
 泣いているママに代わって、歯を出して笑って見せた。

 とりあえず部屋に戻ろう。
 でも、私が部屋に戻って麗太君とお話するにしても、彼が喋れないのでは、どうしようもない。
 ふと、電話の隣に置いてある、メモ用紙の束とシャーペンが視界に入った。
「ねえ、このメモ用紙とシャーペンなんだけど、貰って良い?」
 ママは私の考えを理解してくれたのか
「頑張ってね」
 とだけ言って笑い掛けた。

 部屋に戻り、麗太君に一本のシャーペンとメモ用紙の束を差し出した。
「これを使って。言いたい事が伝わらないと、不便だから」
 麗太君は、私が差し出したそれを横目で見たかと思うと、勢いよく左手で振り払った。
 メモ用紙の束を挟んでいたピンが外れ、部屋中にメモ用紙が散らばる。
 一緒に払われたシャーペンは壁に強くぶつかり、欠けてしまった。
「ちょっと、何て事するの!?」
 散らばったメモ用紙を、そのままにしておく訳にもいかず、仕方なしにそれを拾う。
 腰を屈めてメモ用紙を拾う私を、麗太君は表情を変えずに見つめていた。
 どうして、こんな事をしたのか。
 しっかりと、その事を訊かなければならないと思った。
 しかし、訊く事が出来なかった。
 彼の表情が、あまりにも悲しげで、それでいて辛そうに見えたから。

 私は一段ベットの上で漫画を読み、麗太君はクッションの上でずっと俯いている。
 どうして自分の家で、こんな嫌な想いをしなきゃいけないんだろう。
 もう最悪。
 暫くして、ママが私の部屋に来た。
「麗太君、部屋の準備ができたわよ。いらっしゃい」
 ママが麗太君を部屋から連れ出す。
 私も、その後に付いて行った。
 
麗太君が案内された部屋。
 それは二階の一番奥の部屋で、かつてパパが使っていた書斎だった。
 私のパパは仕事の都合で、今は海外に単身赴任中だ。
 だから今、この部屋は誰も使っていない。
 壁際に、ぎっしりと難しい本が詰まった棚が一つ。
 窓際に置かれた殺風景な机と、その隣に位置する一段ベット。
 これらは全て、かつてパパが使っていた物だ。
「この部屋は好きに使ってくれて構わないからね。棚の本も読んで良いし」
 麗太君は頷き、一段ベットの上に弾みを確かめる様に座った。
 そんな光景を見たママは、安心した様に部屋を出てしまう。
 一段ベットに座る麗太君をそのままにして、私も部屋を出た。
「ママ、どうして麗太君の部屋をパパの書斎に選んだの? まだ空いてる部屋が一つあるでしょ?」
 ママが私の方を向く。
「あれで良いのよ。あの部屋に誰かがいてくれる。あの部屋から物音がする。それだけで、パパがいた時の事を思い出せるの」
 パパが単身赴任をして、まだ一年も経っていないというのに、どうしてママは、こんな事を言うのだろう。
 これでは、まるでパパがもう帰って来ないみたいじゃないか。
「パパは……帰って来るんだよね?」
 恐る恐る訊く私に、ママはからかい気味に笑う。
「馬鹿ね。パパは只の単身赴任よ。仕事の都合によっては、すぐに帰って来るわよ」
 私の額に軽くデコピンをして、その痕にキスをした。
「はぁ、う……」
 つい、そんな声を上げてしまった。
 額がむずむずしていて……何と言ったら良いのだろう……よく分からないが、少しだけ気持ち良い。
「パパの事は、あなたが気にする事じゃないわ。まず麗太君の事を考えなさいね」
「……うん」
 頭に霧がかかった様な感覚になり、少しだけボーっとしてしまった。

「二人とも、ご飯よ!」
 夕日が沈み切った七時頃、ママが一階から私と麗太君を呼んだ。
 私が部屋から出ると同時に、彼も部屋から出て来た。
 一瞬だけ目が合い、すぐに反らした。
 なんとなく、彼の事を直視する事が出来なかったのだ。

 リビングでは、ママがテーブルに夕飯と数枚の皿を置いていた。
 テーブルの上に置かれた夕飯を見る。
 今日は野菜炒めだ。
 あと、いつも通り茶碗に盛られたご飯と味噌汁が置かれている。
 私とママはいつもの様に、向かい合って椅子に座った。
「麗太君は、ここよ」
 ママが隣の椅子を引いて、麗太君を招く。
 彼は頷き椅子に座った。
 私、ママ、麗太君、全部で合わせて三つの椅子。
 麗太君が座っている椅子は、かつてパパが座っていた物だ。
 この家に、確かにパパがいたという証拠が、麗太君という存在によって埋められていく。
 ママを事故で亡くしてしまい、更には声まで失ってしまった麗太君。
 不幸で、可哀想な子。
 彼を見る度に、そう思う。
 しかし、私のパパの存在と摩り替わる様にして、今ここにいる麗太君。
 いつまで続くか分からない同居生活を共にする同居人としては、あまり好きになれなかった。

 テレビを点けると、ポケモンがやっていた。
 私は、この番組を毎週見ている。
 ママには「もう、五年生なんだから」と、よく茶化されるていたけれど、最近ではそれもなくなった。
 ママ自身も、私と一緒に毎週見ているから、それが決まりになっているのだろう。
 小皿に野菜炒めを盛り、テレビを見ながらご飯を食べる。
 いつもと同じ光景。
 ただ、ママの隣に麗太君がいなければ。
 なんとなく、麗太君が気になってしまう。
 もう小学五年生だというのに、ポケモンなんて見てる私を、内心では嘲笑しているのかもしれない。
 喋る事が出来ないから、その事を伝えようとしないだけ。
 勝手な想像をしただけで、勝手に頬が熱くなる。
 まったく、私は何を考えているのだろう。
 彼の事など気にせず、いつも通りにご飯を食べよう。
 そう思っていた矢先、ママが麗太君に話し掛ける。
「うちのご飯、お口に合うかな? 野菜炒めとかは、わりと自信作なんだけど。おいしい?」
 ゆっくりと、麗太君は頷く。
「そう! 良かったぁ! ご飯のおかわり、いっぱいあるからね」
 そんな遣り取りを前に、私はテレビに視線を集中させた。

 食事が終わった後、ママは麗太君をリビングへ呼び出した。
 きっと、麗太君のママに関する事を話すのだろう。
 私はママに言われ、その場を外した。
 一度は部屋に戻ったものの、どうしてもリビング内での出来事が気になってしまってしょうがない。
 少しだけ。
 そう思い、私は擦り足で階段を降り、リビングのドアのすぐ横に立った。
 ママの声が聞こえて来る。
「あなたのママに関しては、私もとってもショックを受けたわ。勿論、麗太君。あなたもそうなのよね」
 数秒の沈黙が下り、再び声が聞こえて来る。
「落ち着いて、聞いてちょうだい。今日、あなたのママが亡くなったわ」
 その知らせと同時に、椅子やテーブルをバンバンと叩く音がした。
 きっと、麗太君が取り乱しているのだろう。
 当然だ。
 隣の家に預けられて、その日の晩にママの死を知ってしまうなんて……残酷過ぎる。
 やがて、椅子やテーブルを叩く音が止んだ。
「辛いのは麗太君だけじゃないの! 私も辛いのよ。でも、過ぎた事はどうにもならない。だから……」
 麗太君を宥める為の勢い付いた声は、やがて弱々しい泣き声の様なものに変わった。
「だから、あなたはこれからの事を考えるの。過ぎた事は……どうにもならないんだから……」
 ママと麗太君は、このドアの向こうで泣いている。
 麗太君のママを、親しい仲と捉える事が出来ず、あの二人と共に悲しむ事が出来ない自分が、嫌でしょうがなかった。

 部屋に戻り、ベットに飛び込み枕に顔を埋めた。
 なぜか、麗太君に関する悩みが次々に浮かんでくる。
 私は、これから麗太君にどう接していけばいいんだろう。
 麗太君と、どうやって会話をすればいいんだろう。
 これから麗太君は、私を頼れる同居人として受け入れてくれるだろうか。
「あー、もう! どうして、こんなにモヤモヤするの!?」
 部屋の中で、一人で叫んでみても何も変わらない。
 麗太君と二人で話をしないと。
 ふと、階段を上がる足音が聞こえた。
 階段を上がり切ったその足音は、一番奥の部屋へ向かって行った。
 この足音は、麗太君だ。
 その事を確信するなり、私は先程のメモ用紙の束とシャーペンを持って、彼の部屋へ向かった。
 廊下の一番奥の部屋の前で、呼吸を整える。
「よし!」と小声で言い、ドアをノックした。
「入るよ」
 ドアノブを引いたが開かない。
 部屋に鍵はない筈だ。
 おそらく、麗太君がドアを押さえているのだろう。
「麗太君……」
 私には、彼の名前を呼ぶ事しか出来ない。
 彼自身が、ドアを押さえて私を拒絶しているのだから。
 きっと、こういう時は怒ってはいけないのだ。
 なんとなく、そう直感した。
 一回だけ呼吸を整えて、再び言葉を発する。
「ねえ、そうやってるだけじゃ何も変わらないんだよ? 確かに、麗太君のママの事は辛いと思う。でも、このままじゃ何も変わらないよ……」
 私の言葉に、彼は物音一つ返さない。
 落ち着いて。
イライラしちゃ駄目。
そう自分に言い聞かせ、話を切り出した。
「麗太君がいる部屋。そこって、元々はパパの部屋だったの……」
 ドアの向こうから、少しだけ床の軋む音がする。
「この部屋に誰かがいてくれるだけで、パパがいてくれた時の事を思い出せる。ママが、そう言ってたの。馬鹿だよね。パパは、只の単身赴任なのにね」
 いつもはにこにこと笑っているけれど、きっと一番に泣き出したいのはママの筈だ。
「だから、麗太君にはパパに代わって、私達を守って欲しい。そう思って、この部屋を麗太君に選んでくれたんじゃないかな?」
 麗太君の息使いが、段々と荒くなっているのが、ドア越しからでも分かる。
 それほど動揺しているのだろう。
「だから麗太君は、もう私達の家族なんだよ」
 我乍ら、かなり恥ずかしい事を言ったと思う。
 頬が熱くなってくるのが、なんとなく分かる。
 きっと、真赤に赤面してるんだろうなぁ。
 ふと、ゆっくりと部屋のドアが開いた。
 麗太君は頬を赤らめ、必死に涙を堪えている。
 しかし彼の目蓋には、僅かに涙が浮かんでいた。
私から必死に視線を反らそうとしているのを見るに、強がっているのだろう。
俯く麗太君に、先程、部屋から持ちだしたメモ用紙の束と、シャーペンを手渡した。
「伝えたい事があったら、これを使って」
 麗太君は、メモ用紙の上にシャーペンを走らせる。
 書き終えた様で、それを見せる。
『僕は、平井の家族になって良いの?』
 不安そうな表情を浮かべて問う麗太君に、私は笑顔で答えた。
「勿論だよ。ママも言ってたでしょ? 麗太君が、パパに代わって私達を守ってくれるって。何も遠慮しなくて良いんだよ。麗太君は、私達の家族なんだから」
 その瞬間、何かが外れた様に麗太君の目蓋からポロポロと涙が零れ出す。
 やがて、彼は床に膝を付き、大きく泣いた。
 麗太君が声を失っていなければ、きっと大きな声を出していた事だろう。
 しかし、麗太君に声はない。
 いくら叫びたくても、泣きたくても、声には出せないのだ。
 ならママに言われた通り、私が彼の支えになってあげるんだ。
 春休みが終わったら、一緒に学校へ行って、友達と遊んで。
 休みの日には麗太君と、ママに買い物に連れて行ってもらおう。
 きっと、これから毎日がもっと楽しくなる。
 麗太君の悲しい気持ちを消せる様に、私が頑張らないと。
 床に膝を付いて大泣きする彼の前に、目高を合わせてしゃがみ、頭を撫でてやった。
 少しだけ長めに伸ばされた彼の髪は、程良くサラサラで、私から見ても羨ましい位に柔らかかった。
 なんだか、麗太君って女の子みたいだ。
 見ていて、私が逆に守ってあげたくなる。
「今は泣いて良いんだよ。私は、笑ったりしないから」
 どうしてだろう。
麗太君を見ていると、妙に親近感が湧く。
 その原因を考える程に、なぜか胸が苦しくなった。

   =^_^=

 麗太君が私の家に預けられて、三日が経った。
 今日は、麗太君が私の家で迎える初めての日曜日という訳だ。
 私の日曜日の朝は、いつも早い。
八時半より少しだけ前に起きて、テレビの前にスタンバイしなくてはならないのだ。
 何度寝も出来る日曜日の朝から、なぜ、そんな事をしなくてはならないのかというと、八時半からプリキュアを見る為だ。
 ママからは「もう、小学五年生なんだから。そんなの、小学校低学年が見る番組よ」と、以前はよく茶化されたものだが、最近ではそれもなくなった。
 きっと、何を言っても無駄だと気付いたのだろう。
 懸命な判断だ。
 私にとって、週に一度の楽しみにしている番組へ掛ける情熱は、他人からとやかく言われて揺らぐものではないのだから。
パジャマのまま部屋を出て、階段を駆け下りてリビングへ行くと、テレビ前のソファーには先客がいた。
麗太君だ。
私と同じで、まだパジャマを着ている。
「おはよう」と挨拶をし、麗太君の隣に座った。
 麗太君は私に、軽くお辞儀をする。
 やはり喋れない事ほど不便な事はない。
 挨拶をされても、それを単純に返す事すら出来ないなんて。
 しかし、いつも麗太君は笑い掛けてくれた。
 
そういえば、私より早く起きて、麗太君は何を見ているのだろう。
テレビに視線を向ける。
どうやら、プリキュアの前の時間に放送中の特撮番組の様だ。
この番組、なんとなく知っている。
 たしか……クラスの男子達が、よくポーズを決めて『俺、参上!』等と言っていた事があった。
 おそらく、それだろう。
 麗太君も、やっぱりこういうのが好きなんだ。
「やっぱり、男の子なんだなぁ……」
 テレビの画面を見ながら呟いた時だ。
「優子だって、プリキュアとか見てるじゃないの」
 私と麗太君が座るソファーの後ろには、いつの間にかママが立っていた。
「ちょっと、いつからいたの?」
「少し前よ。来てみたらリビングのドアが開いてて、覗いてみたら……」
 少しの間を置いて、ママは「キャー!」とわざとらしく黄色い声で叫んだ。
「二人でソファーに座って、テレビ観てるんだもの。なんか、ママが入り込む隙がないっていうかぁ」
「違うよ! そんなんじゃなくて……」
 麗太君は、メモ用紙とシャーペンを片手に慌てている。
「まあ、二人とも仲が良いって事よね。そうでしょ?」
 私達二人の頭を、ママはワシャワシャと撫でた。
「うん……まあ」
 麗太君も、私に合わせて頷いた。

「そういえば、これって新しい仮面ライダーでしょ?」
 テレビに目を向けたママが、麗太君に訊いた。
 仮面ライダーという特撮ヒーローの話題を振られた事が嬉しかったのか、麗太君は嬉しそうに頷く。
「え? 仮面ライダーって、昭和のヒーローなんじゃないの?」
「そんな事ないわよ。平成になっても続いてるのよ。こう見えてもママは、昭和の仮面ライダーと平成の仮面ライダーを網羅してるの!」
 胸を張って自慢げに語るママに、麗太君は輝かしい眼差しを向け、何かの書かれたメモ用紙を見せる。
『電王』
 メモ用紙に書かれた意味不明な単語を見て、私は目を丸くする。
「これ何?」
「ああ、仮面ライダー電王ね!」
 ママは彼の手を握り、一気に体を抱き上げた。
「気が合って嬉しいわ! 麗太君は電王が好きなのね。私は平成のライダーでいうとカブトが一番好きなの! 電王役の佐藤健君も良いけど、カブトの水嶋ヒロ君も格好良かったわぁ!」
 仮面ライダーカブトこと水嶋ヒロを、抱きあげられた事が恥ずかしかったのか、やや赤面する麗太君に熱く語るママが……二人がどこか遠く見えた。
 ただ、話に付いていけないだけ、という事もあるけれど。
 そういえば、私が幼稚園の頃の事だ。
私に見せる為にと言って、ママが仮面ライダーのDVDをレンタルして来た事があったっけ。
 それで、仮面ライダーが気に入らなくて、なんだか凄く感じの悪い事を言った様な気がする。
 いったい、何を言ったんだろう……。
 記憶が曖昧過ぎて、思い出す事が出来なかった。

  =^_^=

 一週間後、麗太君のママの葬儀が行われた。
 私を含め、皆が黒くて堅苦しい服装をしている。
 黒という色が、余計に気分を沈める。
 葬儀場には、麗太君のママの親類や友人、もちろんママや私も参列した。
 しかし、ただ一人だけ。
 一番いなくてはならない人が、そこにはいなかった。
 麗太君のパパだ。
 ママは彼に関して、何かを言う事はなかった。
「あの子、沙耶原麗太君でしょ?」
「そうそう。まだ、小さいのにお母さんを亡くしちゃって。沙耶原さん家のお母さん、随分と若かったのにねぇ」
 周りからの同情の眼差しや声が、麗太君に集中する。
 彼は私の服の袖を、ギュッと握った。
 そういえば、ママはどこへ行ったのだろう。
周りを見渡すと、他の参列者の人達と何かを話しているのが見える。
 今、麗太君を守ってあげられるのは、私しかいないのだ。

 お坊さんの棒なお経と共に、参列者が線香をあげる為に、列を作って仏壇を周る。
 ママの番が来ると、私と麗太君に「こうするのよ」と言い、線香に蝋燭の火を灯し、灰の積もる線香立てに差した。
 次の番が周って来た私も、ママと同じ事をする。
 線香を差した時、棺の中で眠る麗太君のママが僅かに見えた。
 透き通った白い肌や穏やかな寝顔、およそ遺体には見えなかった。

 葬儀が終わると、火葬場へ遺体を運ぶのだそうだ。
 参列者も、それに同行する事になっている。
 つまり遺体を焼いた後、出て来た遺骨を参列者が専用の箸で拾う、という事らしい。
 それを聞いて、背筋が凍った。
 遺骨の骨を箸で拾うなんて……そんな光景を見ただけで、私は泣いてしまうかもしれない。
 逃げ出したい。
 しかし、そんな事をすれば周りの人達に迷惑が掛かる。
 麗太君のママの死に、皆が悲しんでいるのだ。
 私の自己中心的な行動で、場の空気を壊す訳にはいかない。
 今は我慢するしかないのだ。
 葬儀場から、参列者貸し切りのバスで、火葬場まで行く事になった。
 窓側に私、真ん中にママ、その隣に麗太君で、バスの一番後ろの席に座った。
 バスが走り出す。
 窓の外では、見慣れた街の景色が流れていた。
 ぼーっと眺めている内に、徐々に見慣れない景色へと変わっていく。
 街の郊外へ来たのだ。
 窓の外の見慣れない景色を見るうちに、私の中では少しずつ恐怖心が膨らんでいた。

 暫くすると、火葬場に到着した。
 広い駐車場と、その隣に芝生が茂る広い平野。
その中心に、石造りの綺麗な建物から、長い煙突を空に向かって真っ直ぐ伸ばした火葬場があった。
おそらく、燃やした遺体から出る煙は、あの煙突を通って空へ登るのだろう。

 停車場に着くと、私達はバスを降りた。
 参列者が、ぞろぞろと建物の中へ入って行く。
 私達も、それに続く。
 近くにいるママや麗太君は勿論、皆が顔色を悪くしている。
 先日まで生きていた近しい人が突然死に、遺体を焼かれる。
 その有様を、私達は見届けなくてはならない。
 誰も良い気分には、なれない筈だ。

 目の前には、五つの固い金属扉が並んでいた。
 手前には柵で仕切りがされており、私達は柵を挟んで扉の前に立っている。
 棺桶に入った遺骨が、火葬場の人達によって運ばれて来た。
 扉が開かれ、棺桶が中に入れられる。
 そして、扉が閉められた。
「一時間程で火葬は終わります。待合室がありますので、そちらでお待ち下さい。火葬が終わったら、知らせますので」
 皆が待合室へ歩いて行く中、麗太君だけはその場を動こうとはしなかった。
 ただ強く拳を握り、扉を見ている。
 ママは察した様に私に言う。
「麗太君の事、今は一人にしてあげましょう」
 私は黙って頷き、ママの後に付いて行った。


 火葬が終わったという報告が届き、皆が待合室を出る。
 その頃には、麗太君も私の隣に戻って来ていた。
 しかし、戻って来ても言葉を交わす事はなく、私もママもずっと黙っていた。
 いつもの様に笑いながら、言葉を交わす気分にはなれなかったのだ。
 重い足取りで歩く私と麗太君に、ママはこっそりと言う。
「二人とも、収骨が終わるまで外にいなさい」
「いいの?」
「あなた達は、まだ小学五年生じゃない。収骨をする所なんて、残酷すぎて見せたくないの。特に、麗太君には……」
麗太君は何か言いたげな顔をして、メモ用紙を出す。
一度、横目で私を見てメモ用紙をしまい、ママに一礼した。
きっと、私の事を考えてくれたのだろう。
火葬場に来てから、収骨の事ばかりを考えてしまって、ずっと気分が優れなかったから。
「それじゃあ、待合室は閉められちゃったから、あなた達は外で待ってなさい」
 ママは私達の頭を撫で「じゃあね」とだけ言って、収骨に向かった。

 外に出ると、春の風が優しく頬を撫でた。
 駐車場の隣には芝生がある。
「麗太君、あそこ行こう」
 麗太君を連れて芝生の上に立った。
 気持ちの良い風、草の匂い、先程までの嫌な気分が嘘の様だ。
 しかし、私の隣にいる麗太君はずっと俯いている。
 折角、重苦しい雰囲気を抜けられたんだ。
 何か明るい言葉を掛けなくちゃ……。
「気持ち良いね。風とか草の匂いとか。家の近くに大きな公園があるんだけど、今度、ママと行こうよ。とっても気持ちが良いの。緑がいっぱいで、噴水とかがあって」
 必死に言葉を投げかける私を余所に、麗太君は火葬場の煙突の方を見た。
 さっきまでは、あそこから遺体を焼いた煙が上がっていたのだろう。
 麗太君は私の方へ向き直り、メモ用紙に何かを書いて、それを見せた。
『母さんを殺したのは僕』


 良く晴れた日の昼時。
 麗太君は、家の庭でサッカーボールで遊んでいた。
 麗太君のママは花に水をあげながら、その光景を見ていたという。
 誤ってボールを道路に出してしまった麗太君は、慌ててそれを追い掛けた。
 自身では気付かなかったのだそうだ。
 そこにトラックが走って来ていた事を。
 麗太君のママは、ボールを持って道路に立っている彼を突き飛ばし、自分が身代りになった。


 これが麗太君の言い分だった。
「でも、こんなの……麗太君が殺した事になんてならないよ。こんなの、ただの事故だよ」
『本当は僕が死ぬ筈だった』
「駄目だよ……そんな事言っちゃ……」
『本当は僕が死んだ方が良かったんだ』
 泣きながらメモ用紙に、苦悩の言葉を書きならべる。
「やめて……」
 静止する様に言っても、麗太君は聞かずに書き続ける。
『死ぬのは僕で良かった。僕が死ねば良かった。こんな事になるのなら』
 麗太君は新しいメモ用紙のページを捲り、その続きを書いた。
『生まれて来なければ良かったんだ』
「やめて!」
 気付いた時、私は彼の頬を強く叩いていた。
「そんな事言わないで! 麗太君のママは、麗太君を守る為に犠牲になったんだよ! それなのに、生まれて来なければ良かったなんて……言わないでよ! 麗太君のママは、そんな事望んでないよ!」
 麗太君は唖然としている。
 私が手をあげるなんて、思ってもみなかったのだろう。
「……ごめん」
 怒鳴って手をあげた次には、謝っていた。
 男の子の頬を叩いたのなんて、始めてだ。
 でも、きっとクラスメイトのマミちゃんなら容赦しないんだろうなぁ……。
 ボールをぶつけて来た男子をビンタで泣かせちゃう様な子だし。
『ごめん。もう言わない』
「うん。自分の事を悪く言っちゃ駄目。前にも言ったでしょ? 私達は、家族なんだって」
 麗太君は頷いて涙を拭う。
 辛い事が重なったからなんだろうけど、麗太君って意外と涙脆い。
 震える手で、再びメモ用紙に何かを書く。
『公園の話、もっと聞きたい。皆で行きたい』
 麗太君は、堪え切れない涙を目蓋に残しながらも、私に笑い掛けた。

   =^_^=

 朝の目覚ましの音が部屋に響く。
 重い目蓋で時計を見ると、どうやら二、三度の目覚ましが鳴った後の様だ。
 私は跳び起きて箪笥をあさり、今日の分の洋服を取り出す。
「もう! どうしてママも麗太君も起こしてくれないの!?」
 春休みの反動があったせいか、目覚ましのベルを二、三度も逃すとは不覚だった。
 今日が五年生の一学期初登校だというのに。
新しく買ってもらった春物のお洋服。
 いつもは殆どママが選んでくれている。
 私に可愛い服を着せて喜んでは、また別の物を着せる。
 ママはしょっちゅう、私を使ってファッションショーをしているのだ。
 近頃は麗太君も、その被害に遭っている。

 廊下に出ると、麗太君も部屋から出て来ていた。
「おはよう。今、起きたの?」
 麗太君は頷く。
 二人でリビングへ行くと、隣のママの部屋から悲鳴が聞こえた。
 何事かと思った次の瞬間、ママはリビングへ入り込むなり私達に言う。
「二人とも、このままじゃ遅刻よ! 急いで!」
 ママに急かされ、身支度を整える。
 朝ご飯は抜きで良いと思っていたのだが
「朝ご飯だけは食べて行きなさいよ!」
 というママの言葉には逆らえず、黙々とトーストを齧る。
「優子、髪梳かしてあげる」
「え? いいよ。自分で出来るから」
「時間がないんだから私に任せて! それに、優子は髪が長いんだから、余計に時間が掛かるでしょ!」
 麗太君の前でママに髪を梳かされていると思うと、少しだけ恥ずかしかった。

 学校へ行く前、ママは必ず玄関先まで着いて来る。
「二人とも、忘れ物はない?」
「大丈夫だよ」
 隣で麗太君も頷く。
「じゃあ、頑張ってね。二人とも仲良くね。いつも言ってるけど、知らない人に声掛けられても付いて行っちゃ駄目よ。えっと、あとは……」
 このまま言われると限がなさそうだ。
「ママ。時間、時間」
「ああ、そうね。よし! それじゃあ、行ってらっしゃい!」
 元気良く言うママに、私も笑顔で言う。
「行ってきます!」
 隣で麗太君も、メモ用紙を見せる。
『行ってきます』
 玄関の扉を開けると、朝の眩しい光が私達を照らし出す。
 春の日差しや風は、私達を祝福しているかの様に暖かく心地よく感じられた。


Episode2 Fifth grade

 久しぶりに来た学校の門前には、桜が舞っていた。
 しかし、今はそんな物を観賞している暇はない。
 朝の会の始まるチャイムが、既に鳴っているのだ。
 五年生一学期の初日からの遅刻は、さすがに拙い。
 担任の先生の高感度は左右されるし、何しろ皆が席に着いている教室にドアを開けて入るのだ。
 注目される事は間違いないだろう。
 思いっ切り走ったせいか、息切れが激しい。
「麗太君、ちょっと、待ってよ! 足、速いよ!」
 その場に立ち止まって膝に手を着く。
 先にいる麗太君は立ち止まり、私の側に駆け寄った。
 胸を押さえて呼吸を整える私に、手が差し伸べられる。
「ありがとう」
 差し伸べられた彼の手を取る。
 麗太君は私に笑い掛け、昇降口まで歩きながら手を引いてくれた。
 もう完全に遅刻だというのに、焦る様子もなく。

 昇降口のガラス張りのドアには、新クラスの生徒表が貼られていた。
 この学校は市内で最も小さく、クラスは二つしかない。
 しかも一クラスにつき、生徒は二十余人程しかいなののだ。
 出席番号の一番目から順に名前を見てみる。
 五年二組の欄に私の名前がある。
 クラスも少ないせいか、知っている友人の名前ばかりが目に止まる。
「あ、マミちゃんの名前がある! マミちゃんも一緒なんだ!」
 マミちゃん。
 私の幼稚園の頃からの親友で、五年生になった今でも、クラスが離れた事はない。
 きっと毎年、先生がクラス替えの時に気を廻してくれているのだろう。
 そういえば麗太君は……。
 沙耶原麗太。
 男子の番号列を見ると、彼の名前も私と同じクラスの表に書かれていた。
「良かった。麗太君と同じクラスだよ!」
 麗太君も嬉しそうだ。
 しかし彼の声の事や、これからの友人関係を、クラスメイト達はどう受け止めるのだろうか。
 今までの様に会話が出来ない事を考えると、その影響は多大なものに違いない。
 それでも麗太君と出会ってからの短い期間、彼を嫌う様な事はなかった。
 きっとクラスの皆も、彼の事を受け入れてくれる筈だ。

 窓から注ぐ春の日差しは、教室の並ぶ長くて一直線な廊下を照らしていた。
 やはり廊下には誰もいない。
 皆が教室に入っているのだろう。
 二人で歩を忍ばせて廊下を歩く。
 二階廊下の一番奥。
 そこに五年二組の教室はあった。
 後ろには麗太君が、しっかりと付いて来ている。
 やはり、五年二組の教室は静かで、皆が席に座っている様だ。
 どうしよう、こんな状況で教室に入るなんて、なんだか恥ずかしい。
 それに麗太君もいるし。
 朝から男の子と一緒に登校なんて、きっと何か変に思われるに違いない。
 でも、このままでもいられない。
「行くよ」
 振り返る事なく、後ろの麗太君に小声で言うと、私は教室へ入った。
 皆の視線が私に集中する。
 恥ずかしくて頬が火照る。
 教室に入って、最初に目に着いたのは担任の先生だった。
 若くて、表情にはどこか幼さが残っている女の人だ。
「あら、初日に遅刻とはやってくれるわね」
 先生は、僅かに笑みを浮かべながらそう言った。
 笑みを浮かべているからこそ、どこか怖い。
「あの……えぇっと、寝坊……しちゃって……その……」
 言葉を探している私に笑い掛ける。
「分かったわ。いつまでも春休みの気分じゃ駄目よ」
 教室中がざわつく。
 笑っている人もいれば、どこか上の空な人もいる。
 そういえば、マミちゃんは……。
 教室内を見渡すと、窓際の一番奥の席に彼女の姿がある。
 マミちゃんは私を見る事なく、ただ無感情に窓の外を眺めていた。
「えっと、平井優子ちゃんね」
「え? あ、はい」
「私は藤原博美。今年から五年二組の担任をさせてもらいます。宜しくね」
 私は慌ててお辞儀をする。
「あっ、はい! 宜しくお願いします!」
 おかしい。
 どうして先生は、麗太君の名前を出さないのだろう。
 さっきから一緒にいるのに。
「麗太君」
 彼の名前を呼んで振り返ったが、そこに麗太君はいなかった。
「あれ?」
「どうしたの?」
「あの……私……」
 麗太君が、ここにいた筈。
 そう言おうと思った。
「……なんでもないです」
 しかし言えなかった。
 なんとなく、男の子と登校したという事実を、誰かに知られるのが嫌だったのだ。

 麗太君、どこに行ったんだろう。
 彼の事を心配しているうちに、朝の会は終了した。

 始業式は一時間目に始まる。
 皆が移動しようと廊下に出る最中、麗太君はこっそりと教室に入って来た。
 教室に入って来た麗太君に出くわした先生は、何かを察したように自分の自己紹介だけをして、彼を廊下に誘導した。
 おそらく先生は、麗太君の事情を考えた上で、あの対応をしたのだろう。
 今年の担任の先生は、なかなか親しみのある人の様だ。

「今朝の事です。皆さんがランドセルを背負って元気良く登校する姿。いやぁー、晴々しく思いますねぇ」
 壇上の上に立つ校長先生は、シワだらけの顔でにっこりと笑う。
 ママから聞いた話によると、校長先生は今年で定年なのだそうだ。
 だからPTAや若い先生達は、よぼよぼで今にも死んでしまいそうな校長先生に、かなり気を遣っているとかどうとか。
「あの人の話って長過ぎ。今年一杯なんて言わずに早く辞めれば良いのに」
 私の後ろで、冷たく呟いたのはマミちゃんだった。
 クールで、どこかお姉さんっぽくて、ちょっと毒舌なマミちゃん。
 それでも男女共に評判が良く、教師受けも良いらしい。
 密かな私の憧れでもある。
「話長い。あの校長、本当に辞めてくれないかなぁ」
 しかし、友人として性格や言動は理解しているつもりだ。
「マミちゃん、そんな事言ったら駄目だよ。校長先生は、もうあんなにおじいちゃんなんだから」
「おじいちゃんだからって、優しくする通りはないよ。老害って言葉、知らないの?」
 老害なんて言葉を聞いたのは初めてだ。
「え? えぇっと……」
 言葉に詰まる私に、マミちゃんは頬笑む。
「優子は優しいね。でも、優し過ぎると損する事もあるんだよ……」
「どういう事?」
 問い返した時、マミちゃんは私から目を反らしていた。
 マミちゃんは、知り合った時から妙な事を度々口にしている。
 彼女との付き合いは長いが、その言葉に隠された意味も、考えも、私には知る由もなかった。

 始業式の後、クラスで学級活動が行われた。
 当然の様に、最初はクラスメイト全員の自己紹介から始まる。
 どうせ、たった二クラスしかないんだから、殆どが顔見知りな訳だけど。
 麗太君はどうするのだろう。
 言葉を発する事が出来ないのだから、自己紹介以前の問題だ。
 そういえば、始業式の時にクラスの男の子達と楽しそうに笑っている姿を見た。
もしかしたら、私がそこまで心配する必要はないのかもしれない。
 皆が順に席を立ち、その場で自己紹介をする。
 数人の自己紹介が終わり、麗太君の番になった。
 おそらく、先生がフォローを入れてくれるに違いない。
 先生がどんな行動を取るのか、少しだけ気になった。
「次は……沙耶原麗太君ね」
 麗太君が席を立つと、教室に所々からひそひそと小さな声が聞こえて来る。
「沙耶原君、声が出せなくなっちゃったんだって」
「あ、それ知ってる。でも、どうして?」
「よく分からないけど、交通事故がどうとか」
 以外にも、麗太君が喋れなくなったという事に関しては、クラス中に広まっている様だ。
 声の主の大半が、クラスでは活発そうなグループの女の子達だった。
 そんな女の子達を、どうしてか男の子達は睨んでいる。
 その一方で他の女の子達は「私は関係ない」といった表情で、目線を反らしている。
 麗太君の事に関して、勝手に何かを言われるのが気にくわないのだろう。
 しかし、ここで目立つような行動を取れば、これから女の子達から敵視される。
 きっと怖い筈。
 勿論、私もそうだ。
 同じ女の子をクラス内で敵に廻せば、教室で肩身の狭い思いをするのは間違いない。
 そうだ、マミちゃんなら。
彼女なら、女の子からの評価も良くて人望も厚い。
もしかしたら、どうにかしてくれるかも。
そう思い、マミちゃんの席の方を見た。
やはり、相変わらず窓の外ばかりを眺めていて、何かをしようとする気配は見られない。
ここは先生に任せるしかない様だ。
 教室の脇で、今まで皆の自己紹介を聞いていた先生が、麗太君に代わって喋り出した。
「沙耶原麗太君は、春休み中に色々あって、声が出せなくなっちゃったの。でも、声が出せないだけで、今までの麗太君とは何の変わりもないの。だから皆、沙耶原君の支えになってあげてね」
 納得した様に皆が「はい!」と返事をする。
 それを聞いて、麗太君は安心した様に席に座った。
 クラスメイトの皆が、先生の話を納得したかの様に思えた。
 しかし聞こえて来る。
「色々って何だろう」
「ママとパパの事とかじゃないの?」
「あ! それ有り得るかも!」
 女の子達の、麗太君に関する勝手な妄想話は未だに続く。
 もう我慢ならないよ!
 女の子達を敵に回したら、その時は何か打開策を考えれば良い事だ。
 立ち上がろうとした瞬間。
「いい加減にしろよ」
 男の子の怒り気味の声と、椅子を強く退かして立ち上がる音が聞こえた。
 私は数センチだけ浮かしたお尻を、再び椅子に落ち着かせる。
 声のした方を振り返ると、そこにはまるで中学生の様な容姿をした男の子がいた。
 男の子にしては少しだけ長い髪、高い背丈。
 たしか、光原綾瀬君だったかな。
 成績優秀でスポーツ万能な優等生。
 おまけに顔立ちも良いから女の子にモテモテ。
 男女問わず皆の人気者。
 そんな少女漫画のヒーロー的な存在、光原綾瀬君の事は、友達の話題によく出て来るので、なんとなく知っていた。
 同じクラスになったのは、今年が初めてだ。
 光原君が席を立ったからだろう。
 皆が彼に注目している。
「麗太の何が分かるっていうんだよ? 何も知らない癖に、麗太の事を勝手にどうこう言うのは気に入らないな」
 皆が光原君を見る目、それは男女問わず正義の味方でも見ているかの様な、期待に満ち溢れた眼差しだった。
 先生は光原君を止めようともせず、その光景をただ見ている。
「ごめん」
 一人が謝罪した。
 それに続いて、先程の女子グループの内全員が「ごめん」と口にした。
 光原君に注意された事がショックだったのか、彼女達は浮かない顔をしている。
「分かれば良いから」
 そう言って、彼は笑顔を振り撒く。
 彼女達は機嫌を取り戻したのか頬を赤らめて、それから何かを言う事はなかった。

 今日は初日という事もあり、昼前に学校は終わった。
 どうやら麗太君は、光原君や男の子達と帰る様だ。
 帰る家が同じだからといって、別に一緒に帰る義理はない。
 それなら、私はいつも通りマミちゃんと帰るべきだろう。
 学校に来る前に、ママにもいつも通りに帰ると言ってあるし、問題はない筈だ。
 教室の後ろのドアには、ランドセルを背負い、左手に巾着袋をぶら下げているマミちゃんが私を待っていた。
「優子、早くしないと先に帰っちゃうよ」
 そんな事を言っているが実際のところ、マミちゃんが私を置いて先に帰った事はない。
 新しく配られた教科書をランドセルに詰め込み、マミちゃんの元へ駆け寄った。
「よし、じゃあ帰ろっか」
 マミちゃんは少しだけ笑んで、「……うん」とだけ言葉を返した。

 学校からの帰り道である通りは、人や車の通りが多く、それに加えて帰宅中の私達と同じ小学生も、ちらほらと見られた。
 もう昼時だ。
 この時間になると無償にお腹が空く。
「今日のお昼は何かなぁ」
 呑気に呟くと、隣にいたマミちゃんはクスッと笑った。
「優子は呑気だね。その頭の中には三食の事しか入ってないのかな?」
「そんな事ないよ。昼時だから考えてるだけ」
「優子の母さんが作ってくれる昼ご飯?」
「うん!」
「そっか、美味しいよね。優子の母さんが作ってくれる物なら何でも」
 マミちゃんは、私のママと仲が良い。
 というより、マミちゃんが一方的に憧れている、とでも言うのだろうか。
 どうしてかママの前では、マミちゃんはいつもの様なクールな表情は見せず、敬語まで使って楽しそうに話しているのだ。
 それは私達がまだ小学二年生の頃、マミちゃんが初めて私の家を訪れた時からだった。
「ねえ、優子の家に寄っても良い?」
「え? なんで?」
「前に優子の家に行った時、優子の母さんから料理本を借りたから返そうかと思って。あんまり長く借りてるのも悪いし。それに、ほら」
 左手に持っていた金着袋を半開きにし、中身を見せてくれた。
 中には綺麗にラッピングされた数個のクッキーが入っている。
「優子の母さんに借りた料理本で作ってみたの。本を返すついでに食べてもらおうと思って」
 そういえばママは、マミちゃんの作ったクッキーを早く食べてみたいと言っていた。
 しかし、私の家には麗太君が一緒に住んでいる。
 もし、マミちゃんと麗太君が家で鉢合わせでもしたら……彼女はどう思うだろうか。
 クラスメイトの男の子と一緒に住んでいるなんて、マミちゃんは私の事をどう思うだろうか。
 せっかく、クッキーを作って来てくれたのだ。
 帰ってもらうにしても、なんだかマミちゃんに悪い。

 結局、マミちゃんを家まで連れて来てしまった。
 どうしよう……。
 今更、マミちゃんに帰ってもらうにしても、きっと彼女は聞かない筈だ。
 麗太君が先に帰って来ていませんように。
 無駄な祈りを込めて、玄関のドアを開けてマミちゃんを招いた。
「ただいま」
「お邪魔します」
 玄関に麗太君の靴がないという事は、まだ帰って来ていないのだろう。
「おかえりないさい」
 奥からママが出て来る。
「マミちゃん、いらっしゃい」
 ママを見るなり、マミちゃんは頬を少しだけ赤く染めて、料理本とクッキーの入った巾着袋を差し出した。
「あの、これ……作ってみたんです。よかったら……食べてみて、下さい」
 ママの前でのマミちゃんって、なんだか素が現われている様で可愛いな。
「はい、ありがとうね。そろそろお昼だから、マミちゃんも一緒に食べてく? 今日はチャーハンよ」
「良いんですか?」
「ええ、勿論よ」

 私とママ、その向かいにマミちゃん、
 テーブルの上には三人分の皿に盛られたチャーハン。
 どうやら麗太君の分はキッチンに置かれている様だ。
 どうにかして、麗太君が帰って来る前にマミちゃんには帰ってもらわないと。
「このチャーハン、凄く美味しいです!」
「そう、良かった。いっぱい食べてね。おかわりもあるから」
「はい!」
 ママの前でのマミちゃんは活気があって、学校では露わにする事のない表情を見せる。
 今から「帰って」だなんて、無茶なお願いは出来そうにない。
 麗太君が帰って来る前に、マミちゃんをどうにかしなければと考えを巡らせ、チャーハンを一口二口と口に運んでいた矢先、玄関のドアが開く音がした。
「あ、麗太君が帰って来たみたいね」
 ママは立ち上がり、玄関の方へ行った。
「え? 麗太君って……沙耶原……」
 驚いた様な顔をした後、マミちゃんはそう呟いた。
 麗太君が帰って来てしまった。
 もう、マミちゃんに何を言っても誤魔化す事は出来ない。
 そう悟った。

 ママは「花壇に水をあげて来る」等と言って、残したチャーハンをラップに掛けて外へ出て行ってしまった。
 私、マミちゃん、麗太君をリビングに残して。
 出されたチャーハンを黙々と食べている麗太君を、マミちゃんは怖い目でジッと見ている。
 どうやら麗太君は、ここにマミちゃんがいる事に関して、全く気にしていない様だ。
「あの……マミちゃん……」
 情けなく呼び掛けると、マミちゃんはテーブルを手の平で強く叩いた。
「どういう事か説明して欲しいんだけど」
 彼女の表情はいつも以上に不機嫌そうだ。
 正直に話せば、きっと分かってくれる筈。
「あの、これには事情があって」
「事情? じゃあ話してよ。大方、予想は付くんだけど」
「え?」
「沙耶原の母さんが死んだから、沙耶原は優子の家で面倒になってる訳でしょ?」
 彼女の言葉を聞いた麗太君は、チャーハンを食べる手を止め、マミちゃんを睨んだ。
 マミちゃんは、前から男の子に対しては常に敵対心を剥き出しにしていたけれど、今の発言はさすがに酷過ぎる。
「そういう事なんだけど……マミちゃん……駄目だよ。そんな言い方……」
「は? 優子も、優子の母さんも甘すぎるんだよ。いくら家が隣同士だからって、優子の家に沙耶原を居座らせる事はないと思う。それに、沙耶原の父さんは? どうして息子だけを隣の家に預けてるの? 沙耶原、父さんはどうしたの?」
 麗太君は今まで見せた事のない様な、不機嫌極まりない顔をして、メモ用紙にシャーペンを走らせた。
『天美には、僕の父さんの事も母さんの事も関係ない。お前にどうこう言われる筋合いなんてない』
 そう書かれたメモ用紙を見せられたマミちゃんは軽く舌打ちを鳴らし、麗太君を睨む。
「はぁ? 私は、あんたが優子の家にいる事が気に喰わないって言ってんの! 分かる?!」
『優子と優子の母さんは、ここにいて良いって言った』
「え?」
 拍子抜けした様な声を上げ、マミちゃんは悲しげに私を見た。
「優子……」
「マミちゃん……あの……」
 少しの沈黙が下りたすぐ後、ママが戻って来た。
「あらあら、どうしたの? なんか雰囲気が暗いわよ。もしかした、優子とマミちゃんで麗太君の取り合いでもしてたの?」
「ち、違います! そんな訳ないじゃないですか!」
 からかい気味なママへ、真っ先に反論したのはマミちゃんだった。
 それに続いて焦り気味に答える。
「からかわないでよ! そんな話してないから!」
「えぇー? つまんないの。私が皆位の頃は、興味本意でチューとかしてたんだけどねぇ」
「え? チュー?!」
 ママの言葉を聞いた瞬間、頬が熱くなった。
 きっと、かなり赤面している事だろう。
 しかし、マミちゃんと麗太君は先程と変わらず不機嫌そうだ。
 ママはそれを見兼ねたのか、私達に言った。
「食後だけど、お茶にしない? さっき、マミちゃんが持って来てくれたクッキーもあるし」

四人分の高そうなカップに入った紅茶と、先程のクッキーを皿に盛った物を、ママはテーブルの上に並べた。
 普段は紅茶を飲む際に、こんなカップは使わない。
 マミちゃんに対して見栄でも張っているのだろうか。
 皿に盛られた数個のクッキーから一つを摘まみ、口に運んだ。
 美味しい。
 口に広がった甘い味は、以前にママが作ってくれた物と同じ味がした。
 ママや麗太君も、私に続いてクッキーを食べる。
「凄い。私が作るクッキーと同じ味だわ」
「本当ですか!? 嬉しいです!」
 マミちゃんは嬉しそうに笑い、紅茶を飲む。
「この紅茶も美味しいですよ」
「そうでしょ。庭にあるプランターで植えた葉を使ってるの。前に、優子と麗太君で葉を摘んだのよ」
 そういえば、春休みに手伝わされた覚えがある。
 毛虫やらミミズで大騒ぎしている私やママを横に、麗太君は平気な顔をして虫を追い払ってくれたんだっけ。
 あの時は、さすが男の子だなぁと関心したものだ。
「え? 沙耶原が?」
「うん。麗太君、凄く頼りになったんだよ。私やママが虫を見て大騒ぎしてたら、麗太君が追い払ってくれたの!」
「そうそう。やっぱり男の子ね」
 麗太君は照れ臭そうに微笑み、紅茶を飲んだ。
「そう……沙耶原が……」

 それから私達は暫くの間、世間話やテレビゲームで盛り上がった。
 マミちゃんが麗太君と少しだけ距離を置いているのは、やっぱり気になったけれど。
「私、そろそろ帰りますね」
「あ、もう五時じゃない。そうね、そろそろ帰らないとね」
「……はい」
 帰り際、なぜかマミちゃんは、どこか悲しげな表情を浮かべていた。

 私はマミちゃんを外まで見送った。
 空はすっかり真っ赤な夕焼け色に染まり、遠くの方の空から見えるオレンジ色の陽が、とても綺麗で眩しい。
「マミちゃん、また来てね」
「うん。ありがとう、優子。またね」
 帰り道を一人で歩くマミちゃん。
 赤いランドセルを背負ったその背中は、学校で見せる強気な言動や表情とは裏腹に、とても小さく見えた。


 麗太君と光原君は、よく一緒にいる。
 あと、周りに男の子が数人。
 休み時間には、そのメンバーでサッカーをしている様だ。
 教室のベランダからは、校庭が一望できる。
「麗太、行ったぞ!」
 跳んで来たサッカーボールを麗太君は胸で受け止め、迫って来る相手チームの男の子達を、凄いペースで抜いて行く。
 そして、あっと言う間に点を決めてしまった。
 麗太君って、サッカー上手いんだ。
「優子、いつから男子の生態を観察する様な子になっちゃったの?」
 隣で一緒に試合を見ていたマミちゃんは、いつも通り不機嫌そうな口調で問うた。
「生態って……動物じゃないんだから……」
 今まで、こんな事をして休み時間を過ごす事はなかった。
 マミちゃんや他の女の子達と適当に何かを話し、ダラダラと過ごすだけ。
 今日は休み時間に陽の光に当ったせいか、どこか新鮮だ。
「沙耶原君って、今まであんまり目立つ様な子じゃなかったけど、凄く格好良いかも」
「えー、そうかな? 私は光原君かなぁ」
 隣にいた女の子達は男の子達の試合を見て、あの子が良いだのと議論している。
 皆、私よりも遥かに考えが大人だ。
「ねえ、優子は誰が好みなの?」
「は!?」
 いきなり質問を振られた為、そんな間の抜けた声を上げてしまった。
「で、どうなの?」
「うーん……私には、まだそういうのは早いかな……」
「またまた、優子はいつもあやふやだなぁ」
「じゃあさ、マミちゃんは?」
 次は、ベランダの箸でボーっとしていたマミちゃんに質問が向けられる。
「男子とか……敵でしかないでしょ?」
 逆に返された冷たい一言で、その場の空気が張り詰めた。
 自分自身がこの場にいては、空気が悪くなる。
 そう思ってしまったのか、マミちゃんは教室に戻ってしまった。
「マミちゃん!」
 呼んでも何も反応せず、そのまま教室のドアを開けて廊下へ出て行った。
マミちゃんは機嫌が悪くなると、いつも一人でどこかへ行ってしまう。
しかも、かなり長く根に持ってしまって、酷い時には三日間、誰にも口を利かなかった事がある。
「……どうしよう……」
「放っておけば良いじゃん」
「え?」
「勝手にベランダから出て行ったの、マミちゃんなんだから」
 その口調は、どこか冷たかった。
「そんな……放っておけないよ!」
 ベランダから教室を抜けて廊下に出ると、マミちゃんはまだ見える距離を歩いている。
「マミちゃん」
 追い掛けてマミちゃんへ呼び掛けた。
 しかし、マミちゃんを歩を止めず、振り返る事もなく歩く。
「マミちゃん!」
 いくら彼女の名前を呼んでも、こちらを振り返ってはくれない。
 ダメだ。
 この調子だと、以前の様に口を利いてくれなくなってしまう。
 どうしたら良いのだろう。
 マミちゃんが私に耳を傾けてくれる言葉。
 もしくは、マミちゃんの心情が大きく動く言葉……。
 頭の中で展開された私の考え。
 マミちゃんが動揺する言葉。
 それと言ったら、もうあの渾名しかない!
「ま……マミマミ!」
 私に背を向けていたマミちゃんは、渾名を叫ばれた瞬間、勢いよく振り返った。
 天美マミ……あまみまみ……まみまみ……マミマミ。
 それは以前、マミちゃんが初めて私の家に来た時、ママが付けた渾名だ。
 からかい気味にマミマミと呼ぶママに対して、マミちゃんは頬を真赤に染めて右往左往としていたものだ。
 それからというもの、マミマミという渾名で彼女を呼ぶと、その日の事を思い出してしまうのか、確実に頬を真赤に染めて動揺を隠し切れなくなる。
「あ……ま、マミマミって……。それ、いつの渾名よ! 馬鹿じゃないの! どうして今、その渾名で呼んだの?!」
 どうやら渾名で呼んだのは効果抜群だった様だ。
 マミちゃんの表情が柔らかくなった。
 頬を真赤にして焦っちゃって、なんだか可愛い。
 私はケロリと答える。
「可愛いと思って」
「馬鹿……そんな事……ない」
 口ではそう言っているが、照れているのを隠し切れていない。
 マミちゃんが、これ以上機嫌を悪くする事はなさそうだ。
 機嫌を損ねた理由。
 それは先程の皆の態度もあるかもしれないが、何より麗太君の事だろう。
「麗太君の事……もしかして怒ってる?」
「別に怒ってはいないよ。怒る事でもないし……」
「ただ」とマミちゃんは続ける。
「何て言うか……。ちょっとだけ不安だったのかも」
「何が?」
「その……」
 マミちゃんは少しだけ言葉を詰まらせ、目を反らした。
「優子が……沙耶原と一緒に住んでるなんて……」
 隣に住んでいた男の子と同居する。
 最初は少しだけ抵抗があったけれど、もう既に慣れてしまった。
 というより、私、ママ、麗太君の三人の生活は、今までになかった様などこか異質な楽しさがある。
 今のところは、それほど嫌な想いもしていないし、生活に支障もない。
 何も問題はないのだ。
「マミちゃんは、何をそんなに心配してるの?」
 私の質問に、少しだけ間を開けて、マミちゃんは突然、安心した様に息を吐いた。
「……何でもないよ。もう、いいよ。優子は、何だかんだで楽しくやってるんだね」
「うん、まあね」
「そっか。それなら、良いんだ」
 普段、マミちゃんから見る私はどう見えているのだろう。
 マミちゃんは、私や麗太君をどう見ているのだろう。
 一つだけ、確信した事がある。
 きっと、マミちゃんは私の事を大事に思ってくれている。
 それがとても嬉しかった。

   =^_^=

 廊下、教室、校庭、夕日が何もかもをオレンジ色に染めていた。
 教室へ降り注ぐ夕陽はとても眩しくて、それでいてどこか心地良い。
 こんな夕暮れ時まで学校に残っているのは、おそらく去年の運動会以来だろう。
 というのも、私達は授業が終わった後、友人数人で時間を忘れてお喋りをしているのだ。
 もうクラス内では情報通なキャラで定着している由美ちゃんの話は、とても面白くてのめり込んでしまう。
 私とマミちゃんは、彼女の話に夢中だった。
「ここだけの話なんだけどね。担任の藤原先生、今までで彼氏が五人もできていたらしいよ」
「五人?! それって……凄いの?」
 驚く私に、マミちゃんは何ら変わらぬ口振りで言う。
「まあ、大人の女の人ならそれくらいは普通なんじゃないの」
「へぇ、普通なんだ……」
「まあ、今年で二十五だもんね。二十五年間も生きていれば、それくらいはねぇ」
「え? 藤原先生って今年で二十五歳?!」
「あ! これは言う筈じゃなかったんだけどなぁ」
 由美ちゃんはキッキッキと、作った様な笑い声を出す。
「由美ちゃんはいろんな事を知ってるね」
「でもそれ、クラス内の事だけでしょ? ていうか、それしか知らないでしょ?」
 そんな彼女の冷たい一言に、由美ちゃんはケロリと答える。
「そんな事ないよ。クラスだけじゃなく他の事も知ってるよ」
「え、何? 聞きたいなぁ!」
「どうしようかなぁ。優子ちゃんやマミちゃんの事だから、きっと夜中にトイレに行けなくなっちゃうんじゃないかぁ」
「ちょっ、わ、私、ほん怖とか見ても一人でお風呂にもトイレにも入れたから!」
 彼女のからかい気味な言葉に反応して、つい焦ってしまった。
 本当は、お風呂にはママと一緒に入ったし、夜中のトイレには、ママを起こして付いて来てもらった事がある。
 怖い話に、あまり耐性がある訳ではないのだ。
 しかし、一番慌てていたのはマミちゃんの方だった。
「え? えっと、やっぱり……その話、私は……いいかな……なんて……」
 明らかに怖がっている様にしか見えない。
 まったく、昔からクールに振る舞ってはいるけれど、どこか抜けてるんだから。
「マミちゃん、もしかして怖いの?」
 私の問いに、マミちゃんは更に大慌てする。
「そ、そんな訳ないでしょ! 私は……優子とは違うの……」
「へぇ、それじゃあマミちゃんのお手並み拝見といきますかぁ。どこまで私の話に耐えられるかなぁ」
 私達は息を呑んで、由美ちゃんの話を聞き始めた。

 ここ最近の話なんだけどね、隣のクラスの子が塾の帰りに変な女の人を見掛けたらしいよ。
 その女の人は、真赤なコートを着て真っ赤なハイヒールを履いて、黒いサングラスに真っ白なマスク、それと物凄く長い髪をしてたんだって。
 それでね、隣のクラスの子が、その女の人に話し掛けられたの。
「早くお家に帰りなさい。さもないと食べちゃうわよ」って。
 女の人にしては凄く怖そうな低い声で……。
 怖くなって逃げ出したんだけど、追い掛けては来なかったらしいよ。
 ママにこの話をしたらね、この街では十何年か前にも同じ様な人がその時間に住宅街とか公園をうろついてたんだって。
 これって、巷で言う口裂け女って奴だと思うんだ。

 口裂け女。
 その呼び名が出た瞬間、私はマミちゃんの手を咄嗟に握った。
 マスク越しの耳まで裂けた痛々しい口、サングラスの下の血走った目、不気味な程に真っ赤な服。
 話を聞き想像した口裂け女は、あまりにも恐ろしい。
「マミちゃん……帰りは……一緒だよね?」
 たぶん、私は震えていると思う。
 自分の住んでいる街に、そんな異質な存在がいるなんて事を考えたら、背筋が寒くなって来る。
「う、うん。勿論、帰る時は一緒に……」
 どうやらマミちゃんも私と一緒で、怖がっていた様だ。
「まったく、二人とも怖がりだなぁ」
 由美ちゃんは相も変わらず、私達を見てニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべている。
「由美ちゃんは怖くないの?」
「こういうのには慣れてるもん。もっと怖い話も知ってるし。聞きたい?」
 全力で首を横に振った。
「それにね、今日はもうすぐお母さんが迎えに来てくれて、塾まで送ってくれるから、とりあえずは口裂け女に会う事もないしね」
「いいなぁー、由美ちゃんは」
 私の家の車は、パパが出張先に乗って行ってしまった為、今はない。
 でも、こんな噂話を本気で怖がって親を呼ぶなんて、小学五年生としては恥ずかしい。
 それにまだ五時ちょっと前だ。
 春の最初というだけあって、まだ陽は僅かに出ている。
 帰るのなら今だろう。
「マミちゃん、そろそろ帰ろうか?」
「うん。今、私も帰ろうと思ってた」
 由美ちゃんは、「口裂け女に食べられないようにね」と私達をからかいつつも、学校の少し外まで見送ってくれた。

 先程よりも陽は沈み、辺りは薄暗くなっている。
 たしか由美ちゃんは、口裂け女が出るのは住宅街や公園だと言っていた。
 まさか本当に出て来るとは思っていないのだが……どうしても先程の話を意識してしまう。
 商店街を抜け住宅街へ入ると、道を通る人の数は一層少なくなった。
「優子、なんか近いんだけど」
「え? そうかな……別に近寄ってたつもりはないんだけど……」
 嘘だ。
 本当は怖くて、先程からマミちゃんの方へ無意識のうちに寄っていた。
「出て来るわけないよね……口裂け女なんて……」
「まさか……住宅街なんだから怪しい人がいればすぐに目に付く筈……」
 言葉が止まる。
「え、何? どうしたの?」
「……あれ」
 マミちゃんは人差し指で前方を指差した。
 前方の道の隅に建っている電柱。
 その隣に誰かが立っている。
 真っ赤なコートを着込み真っ赤なハイヒールを履き、顔にはサングラスとマスク、長く伸ばした髪を腰より下まで垂らしている。
 口裂け女だ!
 間違いない!
 そう確信した。
 マミちゃんは酷く震えた手で、私の手を握る。
 目の前にいる見た事もない異形の存在、それを前に、私も怖くて動く事が出来ない。
 マミちゃんは私に問う。
「あれ、口裂け女?」
「分かんないよ……。でも、そう決まった訳ではないし……走れば越せるかな……」
「馬鹿! そんな事して、もし捕まったら食べられちゃうよ」
「でも……このままここにいるわけにもいかないし……。回り道したら、時間かかって真っ暗になっちゃうし……」
 マミちゃんの手に力が籠る。
「行こう。優子、私から離れないで」
 そうは言っているものの、彼女の声はかなり震えている。
 しかし、マミちゃんが自分に任せて欲しいと言っている以上、勝手な行動を取ったら結果は良い事には成り得ない。
 それなら、マミちゃんに付いて行くだけだ。
「行くよ!」
 マミちゃんの言葉を合図に、私達は走り出した。
 手を繋いで、口裂け女と思しき女性の横を通り過ぎた時。
 とても低い、まるで女性とは思えない様な声が聞こえた。
「もう暗くなるわ。早くお家に帰りなさい」
 それを聞いた瞬間、背筋に悪寒が走り、とても嫌な気分になった。
 マミちゃんの歩がより速まる。
 手を繋いでる状態で、マミちゃんと私の距離が少しだけ空く。
 私はマミちゃんに引っ張られる様にして、後ろを振り返らず走った。

 家に着くと、私達は無我夢中で玄関に上がった。
 すぐ後ろまで口裂け女が付いて来ている。
 そんな気がしたのだ。
 背負っているランドセルが重くて熱い。
 汗のせいだ。
 私とマミちゃんは息を切らしながら、ランドセルを背中から降ろした。
 慌てて帰って来た私達が、どうやら騒がしかったのだろう。
 リビングからママと麗太君が出て来た。
「ちょっと、二人とも。どうしたの? そんなに息切らして。かけっこでもしてきた?」
 呑気なママの問いに、私は口調を荒げる。
「そんなんじゃないの! 出たの!」
「何かの当たりくじでも引いた?」
「違うの! 口裂け女!」
 ママと麗太君は顔を見合わせ、次の瞬間笑い出した。
「まったくもう、この子は……口裂け女だって! いつの時代よ! 麗太君もそう思うでしょ?」
 口を押さえて堪えながら麗太君は頷く。
「……本当に出たんです!」
 マミちゃんがそう言うと、ママは少しだけ難しい顔をした。
「もしかして、赤いコートとハイヒール、それとマスクにサングラス……あとは……もの凄く低い声の……女の人?」
「はい、そうです! その人です!」
「なんで分かったの?」
「同じ人が出たのよ。私が高校生だった頃に……。あぁ、懐かしいわ……」
 ママの表情はどこか切なげに見えた。
それでいて小学生である私には、到底理解する事の出来ない様な何かを秘めている。
 そんな気がした。
「まあ、私に任せて!」
 ママは胸を張って言い出した。
「どうするの?」
「口裂け女をね、この街から追い出すの。そりゃもう、ボッコボコにして」
「そんな、危ないよ!」
「そうです! 口裂け女に食べられちゃいますよ!」
 私とマミちゃんの頭に手を置いて、ママは「うりうり!」と言いながら強く撫でた。
「大丈夫よ。明日には口裂け女なんて出て来なくなってるから」
 根拠はないが、ママの言葉には何故か説得力があった。

 ママの言う通り、次の日の夕方、その次の日の夕方も、口裂け女が出て来る事はなかった。
 二週間程過ぎて、ママにその事に関して聞いてみると
「出て来ない? 当たり前よ。私が追い払ったんだから。私は街の平和を守るヒーローなの! 仮面ライダーよ!」
 等と言って、妙に手の込んだ変身ポーズをとって見せた。
 この街から口裂け女はいなくなり、彼女の噂を学校で聞く事もなくなった。
 しかし、私の内では未だに疑問だけが残っている。
 口裂け女の正体とその経緯。
 そして何より……ママの正体だ。
 ママに口裂け女が出没したと話した翌日から、それはこの街から姿を消した。
 本当に口裂け女がいなくなった事が、ママの起こした一つの行動であるのなら、一体どのようにして……また、口裂け女を街から追い出す程の力量を持つ私のママは、一体何者なのか、全ては謎である。

  =^_^=

 春も終盤に差し掛かり、少しずつではあるが季節の移りを予感させていた。
 そんな日曜日の午後の事。
「高校の頃の友達と会う約束をしてるの。夕飯までには帰って来るわ」
 それだけ言うと、ママはテーブルの上に一枚のメモ用紙を置いて、出掛けて行ってしまった。
 テーブルの上のメモ用紙……何が書いてあるのだろう。
 手を伸ばしたが、寸前で止めた。
 いくらママの物でも、勝手に見てはいけない。
 我慢しよう。
 そういえば、ママの高校時代の友達って、昔の彼氏とかだろうか。
 再会を機にお付き合いする様な関係にでもなったら……。
まさか、パパがいるんだから、ママに限って妙な事はしない筈だ。
 きっと、そうに違いない。
リビングのソファに寝転がり、テレビの電源を入れた。
適当にチャンネルを回すが、やはりこんな時間だ。
面白い番組なんて、あまりやっていない。
強いて上げるとすれば、ベタベタな展開の刑事ドラマだろうか。
回したチャンネルで放送している刑事ドラマが気になったので、番組表を見てみた。
『湯けむり温泉サスペンス 若おかみの事件簿』
 なんてベタなんだろう。
 逆に面白い。
 こういったタイトルだと、何となくオチが見えて来るというものだ。
 夏頃になると、年齢層の広いドラマが頻繁に見られるのだが。
「ああ……暇だなぁ。今年の夏はキッズウォ―とか五つ子とかやるのかなぁ……」
 そんなどうでも良い事を呟いていた時、階段から音がした。
 麗太君が二階から降りて来たのだ。
 ドアを開けて、麗太君がリビングに入って来た。
 麗太君は周りを見回している。
 ママがいないからだろう。
「ママなら、高校の頃の友達に会うとか言って、出掛けて行ったよ」
 麗太君は頷いて、お菓子の入っている戸棚を開けたが、それを見て溜息を吐く様にして戸を閉めた。
「何かお菓子ある?」
 麗太君は首を横に振る。
「そっかぁ……」
「……」
 部屋の中が静まる。
 暇だ。
 お菓子はないし、誰かと遊ぶにしても近場のマミちゃんは日曜日は塾だし。
 本当に暇だ。
 ソファーから半身を少しだけ浮かして伸びをした時、テーブルの上のメモ用紙がチラッと見えた。
 それは、見てくださいとでも言わんばかりの位置に置いてある。
 そういえば麗太君は……
今度は冷蔵庫を物色している。
「見ちゃえ」
 ソファから体を起こしテーブルへ寄る。
 裏返しになっているメモ用紙を手に取り、書いてあるものを見た。
 丁寧に書かれた地図だ。
 おそらく、家の裏を真っ直ぐに進んだ小さな通りだろう。
 そこは大通りから大分離れていて、さらに特に立ち寄る目的もないので、そこには行った事がなかった。
 端の一軒に赤いペンで二重丸が記されている。
「どこだろう……ここ」
「麗太君、ちょっと来て」
 もしかしたら分かるかもしれないので、麗太君にも聞いてみる。
「ここ、どこだか分かる?」
 麗太君は常に携帯しているシャーペンで、メモ用紙にそれを書いた。
『駄菓子屋』
「え? 駄菓子屋?」
 麗太君は頷く。
「そんな所があったんだ。よく行ったりするの?」
『うん。僕も知ったのは最近。綾瀬とよく行くんだ。そんなに混む事もないし、静かだし、好きなんだ。あの駄菓子屋』
「そっか……光原君と……」
 喋れない事で、あらゆる障害を生んでしまった麗太君の為に、光原君は静かで居心地の良い駄菓子屋を紹介してくれたのだろう。
 なるほど、光原君がクラスメイトや先生から慕われる理由がよく分かる。
 さすがだ、騒がしいだけの男子とは一味違う。
 マミちゃんも、そういう男子の一面を見れば、少しは考えを変えてくれるかもしれない。

そういえば、どうしてママは駄菓子屋の位置を、地図に書いてまでメモに残したのだろう。
高校の頃の友達に会って来ると言っていたのも、何か引っ掛かる。
わざわざメモに位置を記して残したという事は、私……いや、私と麗太君をそこへ誘導する為?
分からない。
でも今、私達がする事はただ一つ。
「麗太君、駄菓子屋まで案内して!」
 麗太君は、待ってましたと言わんばかりに頷いた。
 どうやら彼も乗り気の様だ。
 私達は、日常から外れた様な少しばかりの冒険心を抱いて、自宅を後にした。

 麗太君に案内されて着いた駄菓子屋は、自宅から十分程の場所にあった。
 表の大きな通りから外れ、裏の通りを行き、古そうな民家の連なる通りの一角。
 外には、何種類かのアイスが詰められたケースが置かれている。
 入口の硝子戸はというと、閉まってはいるが、営業中という木製の小さな掛札が戸に引っ掛かっている。
 どうやら営業中の様だ。
 しかし……どうも人を寄せ付けまいとしている様な雰囲気が、入り口全体に漂っている。
「ねぇ、この駄菓子屋……営業中って書いてあるけど、普通に入って大丈夫なの?」
 頷くと、普通に駄菓子屋の硝子戸を開けてみせた。
 薄暗い店内の壁や小さなケースには、幾つもの駄菓子が詰め込まれている。
 よく見ると駄菓子だけではない。
 文房具やエアガン等、種類は様々だ。
 店の人は店内にはいない。
 代わりに、店の奥に障子で閉まっている座敷から人の声が聞こえる。
 店を放っておくなんて、悪い人でも入って来たらどうするのだろう。
 不用心だなぁ。
 天井からは鈴の付いた紐がぶらさがっている。
 物を買う時は、これを鳴らして呼んでくれ、という事なのだろうか。
 麗太君はそれの先端を持ち、揺らして鈴を鳴らした。
 すると、少しの間を置いて障子が開き、よぼよぼのお婆ちゃんが出て来た。
 床に杖を突いて、今にも倒れそうだ。
「あら、麗太君。来てくれたんだね。それと、隣にいる女の子は優子ちゃんかな」
 よぼよぼのお婆ちゃんは、私を見てにっこりと笑う。
「え? 私?」
「そうだよ。あんた達が今日ここに来る事は、さっき香奈ちゃんから聞いたんだよ」
「香奈ちゃん?」
 香奈……平井香奈。
 私のママの名前だ。
「どういう事? どうしてママが? だってママは、高校の頃の友達に会うって言って……」
「リビングのテーブルの上に、ここを示したメモがあったでしょう」
 確かに私達はメモを見て、ここまで来た。
 全部、ママとこのお婆ちゃんが仕組んだのだろうか。
 でも、どうして?
「香奈! 博美! こそこそしてないで出て来なさい!」
「え?!」
 突然、お婆ちゃんは名前を呼んだ。
「ネタばらしには早いと思うんだけどなぁ」
 そう言って座敷の奥から出て来たのは、ママだった。
 隣にもう一人。
「でも、優子ちゃん。困っちゃってますよ」
 藤原先生だ。
「藤原先生?!」
 私と麗太君は顔を見合わせる。
「麗太君、もしかしてママから何か聞いてるの?」
 麗太君は首を横に振る。
 良かった。
 私だけが何も知らない訳ではないようだ・
 藤原先生とママが座敷から降りる。
「こんにちは。優子ちゃん、麗太君。二人とも、学校以外で会うのは初めてね」
「え……あ、はい。そうですね」
 色々な事が突然に起こり過ぎて、上手く言葉が出せない。
「ちょっと、優子。先生の前なんだからハキハキしなさいよ」
 ママはからかう様に私に言った。
「で、でも……あの」
「まあまあ上がりなさいよ。長い立ち話なんかしてたら腰にくるわ」
 お婆ちゃんは私達を座敷の奥の部屋に招いた。

 表の駄菓子屋の外観とは打って変わって、招き入れられた座敷の奥には、普通の居間があった。
 中央には縦長な卓袱台が置かれていて、部屋の隅には大きなテレビがある。
 卓袱台の上に置かれた駄菓子の束や、三つの湯のみ茶碗と急須を見るに、三人ともさっきまでここで談義していたのだろうか。
「さぁ座って」
 お婆ちゃんに言われ、皆が縦長な卓袱台を囲んで座る。
「はい、どうぞ」
 お婆ちゃんは私達の前に、粉の入った小さな市販の袋を二つ置いた。
 袋には、よく見るコーラとサイダーの模様が描かれている。
「これは?」
「知らないのかい。ちょっと待ってなよ」
 お婆ちゃんはゆっくりと立ち上がり、暫くしてから水の入ったコップを二つ持って来た。
 袋をポンポンと叩き、コーラと書かれている方の袋の粉を水の中に入れ、かき混ぜる。
 すると、コップの中の水はたちまち泡を発し、コーラと同様黒く染まった。
「飲んでごらん」
 お婆ちゃんはコップを私達の前に差し出す。
 怪しいとは思ったのだが興味の方が勝り、コップの中のコーラらしき液体を一口飲んだ。
 おいしい。
 というより、これは普通のコーラだ。
「どうだい?」
「おいしい!」
「そうかい、良かった」
 藤原先生は微笑ましそうに言う。
「やっぱり似てますね。香奈さんと優子ちゃん」
「そうね。私も昔は、よくこれを飲んでいたものね」
 昔……そういえば、ママと藤原先生はどういう関係なのだろう。
 それにこのお婆ちゃんは?
「ママは、藤原先生とお婆ちゃんとは、どういう関係なの?」
「そうねぇ、一番に話さなくちゃならない事が抜けてたわね」
 ママは駄菓子を一つ取り自分の側に置き、お茶を一口飲むと話を切り出した。

 ママの話によると、高校の頃の友達、つまり藤原先生とは、この駄菓子屋で知り合ったのだそうだ。
 その頃、ママは高校生。
 藤原先生は、まだ小学生だった。
 年を経ても、藤原先生との付き合いは長く、今日の様に大人になった今でも頻繁に会っている。
 私が見たテーブルの上に置かれたメモ用紙は、全てママの計算で、私と麗太君を駄菓子屋に誘導する為の物であった。

「あの頃が懐かしいわ。友達は皆、この街を離れて都心に引っ越しちゃったし。今となっては、残る私の友達は博美だけね」
 ママは少しだけ悲しそうな顔をしていた。
 数週間前、麗太君のママは亡くなっている。
 きっとママの心には、その事も大きな傷として残っているのだろう。
 ママの周りにいた人は、少しずつではあるがいなくなっていく。
 きっと、大人になれば私も……。
 でも今は、ママの周りにはたくさんの人達がいて、ママを支えている。
「今は、私が……いるから」
「え?」
 恥ずかしくて、顔が火照ってきた。
「私がいるから。麗太君も、マミちゃんだって。パパだって、すぐに出張から帰って来るよ」
 私は何て事を勢いで言ってしまったのだろう。
 本当に恥ずかしい。
 麗太君だって側にいるのに。
「……ありがとう、優子」
 赤面して俯く私に、ママはいつもの様にからかう事もなく、穏やかに微笑んでくれた。

 高校時代のママ、その頃の藤原先生の話。
 私や麗太君の学校での話。
 長い話に明け暮れた後、私達は座敷から降りた。
 既に陽は傾き始めていて、駄菓子屋の入り口である硝子戸からは、オレンジ色の光が真っ直ぐに差し込んでいる。
 帰り際、お婆ちゃんは私と麗太君に言った。
「何か好きなお菓子を一つ持って行きなさい。今日はタダで良いからね」
「お婆ちゃん、ありがとう!」
 棚の上には、スーパーで買える様なお菓子もある。
 どうせなら食べた事のない様なのが良いなぁ。
「麗太君は、どんなのが好きなの?」
 振り返ってみると、麗太君は店の隅にしゃがんで何かを見ていた。
「どうしたの?」
 近寄ってみると、隅には丸く太った白い猫が座っていた。
 目の前だけをじっと見つめていて、まるで動こうとしない。
 なんでこんな所に猫が……さっき店に入った時には、いなかった様な……。
 もしかしたら、気付かなかっただけかもしれない。
 そもそも、この猫は本物なのだろうか。
 恐る恐る猫の頭を撫でてみた。
 すると、ニャアァ―という、なんとも脱力気味な、それでいてどこか可愛らしい泣き声を発すると、大口を開けて大きなあくびをした。
「この猫……本物だよ!」
 喜んでいる私に続いて、麗太君も猫を撫で始める。
 気持ちが良いのか、猫は太った体を床に倒し、寝そべって腹を出して見せた。
「可愛い!」
 興奮している私の声を聞き付け、座敷の前で話していたママ達が来た。
「なんだマル、また来たのかい」
 お婆ちゃんは上の棚に置いてあった猫の餌の入った皿を取り出して、床に置いた。
 皿に盛られた餌を、猫は尻尾をゆっくり振りながら食べ始めた。
 ご機嫌なのだろうか。
「マルって?」
「太くて丸いからマル。こいつの名前さ。ずっと前から、勝手に入って来るのが習慣になっちまったのさ」
「ずっと前?」
「私が高校生の時からよ」
 ママは屈んで、ゆっくりと猫の頭を撫でる。
「ママが?」
「そうよ。さすがに、同じ猫ではないと思うけど。そうねぇ、もしかしたら、今ここに来てるマルは、私が高校生の時のマルの子供かもしれないわね」
 マルには飼い主が付けてくれる鈴がない。
 おそらく野良だ。
 そういえば、入り口の硝子戸は閉まっていたのに、どこから入って来たのだろうか。
 ふと、上の方に位置する開いた窓から、外の光が差し込んでいる事に気付いた。
 なるほど、あそこから入って来たのか。
「お婆ちゃん、あの窓」
「あれは、マルが好きな時に入って来れる様にする為の物さ。マルも親子揃って大事なお客さんだからね」
 マルも、私達と同じだ。
 親から子へ、自分の好きな場所や物は伝えられていく。
 ママもこの場所が好きで、私達をここに呼んだのだろう。
 勿論、私もこの場所が好きになった。
 だから今度は、マミちゃんにも教えてあげよう。
 ママや麗太君、藤原先生も、皆でここに集まればきっと楽しいから。


Episode3 First love

 七月になると、日射しは更に強くなり、外に出る事が億劫になる。
 特に放課後の帰宅は、時間的に日差しが強いから、家に着いた頃には体は汗まみれになってしまう。
 家に帰り、リビングの戸を開けると、とても気持ちの良い冷風が体をすり抜ける。
 ああ、幸せ。
 ここは天国か?
 暑い外から涼しい部屋に入る度に思う。
「あら、おかえり」
 ソファに寝転がって、ママは雑誌を読んでいた。
 すぐ隣のテーブルにはアイスコーヒーが置かれている。
 良いなぁ……ママは……。
「汗かいたからシャワー浴びて来るね」
「その前に、部屋にランドセル置いて来なさいよ」
「はーい」

 部屋に戻り、ランドセルを降ろした。
「熱っ」
 直射日光がランドセルの表面に当たっていた為、かなりの熱を帯びている。
 触らないで置いておいた方が良いかな。

 洗面所で汗まみれの服や下着を脱ぎ、洗濯機に突っ込んだ。
「ふぅ……」
 汗びっしょりの服や下着を脱いだからか、なんだか重荷が外れた気分がして、とても気持ちが良い。
 洗面台の鏡に自分が映る。
 長くて黒い髪、膨らみのない小柄な体。
 他の子達は、少しずつではあるが体に変化がある。
 クラスには、所々膨らんで来ている子もいるし……。
 私は、どうなるのだろう。
 鏡で自分の裸を眺めて数分、唐突に洗面所のドアが開いた。
「優子、ちょっと用事ができたから出掛けて来るわ……」
 ママは唖然した表情で私を見ている。
「……ち、違うの! これは、そういう事じゃなくて……」
 慌てて弁解する私に、ママは含み笑いを浮かべる。
「自分の体に魅入られちゃった? まあ、女の子だしね。でも、その体型じゃ十年早いわよ」
 それだけ言うと、ママはドアを閉めた。
 恥ずかしい!
 きっと私は、外の暑さでどうかしてしまっているんだ。
 さっさとシャワーを浴びて、夕飯まで寝ていよう。

 シャワーを浴びた後、バスタオルを体に巻き、暫くボーっとした。
 風邪をひいてしまいそうだけれど、これがとても涼しくて気持ちが良い。
「さて、と……あれ?」
 服を着ようと辺りを見回したところ、パジャマは置いてあるが、下着を持って来ていない事に気付いた。
 バスタオルを巻いた状態で、パジャマを持って部屋まで下着を取りに行く事には抵抗があるが、今はママも麗太君も帰って来ていないし、問題はないだろう。
 サッサと部屋に行けば良いだけの話だ。
 パジャマを片手に、部屋を出た。
 やっぱり廊下は暑い。
 でも、ずっと涼しい場所にいたから丁度良いかもしれない。
 裸だし。
 二階へ続く階段は、玄関から然程距離はない。
 階段を一段登ろうとした瞬間の事だ。
 突然、玄関のドアが開いた。
 まずい‼
 慌てて階段を登ろうとしたが、二段目で踏み外して床に転倒した。
 パジャマとバスタオルが派手に宙を舞う。
「痛っ……腰打ったぁ」
 打った部分を押さえながら、咄嗟に瞑っていた目を開けると、玄関には唖然とした表情で私を見る、学校帰りの麗太君の姿があった。
 暫くの沈黙。
 麗太君は我に返ったのか、慌てて後ろを向いた。
 しかし、その頃には遅かった。
 バスタオルは体から完全に離れ、私は何も身に着けていない無防備な状態で床にへたり込んでいた。
「あ……あ、わ、わあああああああああ!!」
 家中に響く程の大きな声で叫び、その場に散らばっているバスタオルとパジャマを拾って階段を駆け上がった。
 部屋に戻った頃には、恥ずかしさで頬は火照り、ジッとしていられないような衝動に駆られた。
 ベットの上に倒れ、枕に赤面した顔を押し付ける。
 今日は最悪だ。
 ママに裸を見られた上に、麗太君にまで……。
 しかも……全部。
 全部、見られてしまった。
 胸も、腰も、お腹も、お尻も……その、お尻の前の方とか……。
 どうしよう、次に麗太君に会う時にいつも通りの自分でいられる自信がない。
 次に会う時……夕飯……。
 もう、今日の夕飯はいらない。
 とりあえずパジャマを着て、朝まで寝よう。

 目が覚めると、部屋の中は真っ暗で、淡く暗い光が窓辺から差し込んでいた。
 どうやら、眠っている間に夜になっていたようだ。
 放置されていた冷房から吹く風が、部屋の中を完全に冷やしていた。
「寒い……」
 枕元に置いてある目覚まし時計の針は、九時を示している。
 朝まで寝ようと思っていたのだが、もう眠れそうにない。
 やっぱりお腹も減ったし、とりあえずリビングに行ってみよう。
 麗太君には、ちゃんと話をしないと。
 あんな格好でうろついていた私が悪い訳だし。

 リビングへ行くと、麗太君とママはテーブルで向かい合って何か談義をしていた。
 どうやら夕飯は食べ終わっている様だ。
 私の分は、テーブルの隅にラップを被せた状態で置いてある。
 テーブルの中央には数枚のメモ用紙。
 麗太君は、それに言葉を書いてママと話しているのだ。
 部屋に入って来た私を見るなり麗太君は、私を横切って部屋から出て行ってしまった。
「ねぇ、麗太君と何を話してたの?」
「そうねぇ……なんていうのかしら……。まあ、麗太君にも色々と事情があるのよ」
「やっぱり、私があんな事をしたから……」
 ポツリと呟いた一言に、ママは興味津々な反応をする。
「何? 麗太君と何かあったの?」
 どうやら、麗太君は学校から帰って来た後の出来事をママに話していない様だ。
「うぅん。何でもないよ」
 本当に良かった。
 それにしても、私に関した麗太君の話でないのだとすれば、ママと麗太君はどんな話をしていたのだろうか。
 聞いてみても、ママは誤魔化すばかりで何も教えてはくれなかった。



翌日、昨日の一件もあってか、ママを除いて私達は、朝からどことなく気まずかった。
家を出る時も、登校中も、学校でも、何となく距離を置いていた。
まあ、学校ではあまり麗太君とは話したりしないし、そもそも男子と二人っきりのところを皆に見られたら、からかわれる事間違いなしだ。
「優子、今日は何か変だよ」
 マミちゃんに、直々そう言われた。
 私は、いつも通りにしているつもりなのだけれど……。

 昼休み、今日一日の半分、頭から麗太君の事が離れなかった。
 やはり昨日の一件のせいだ。
 もう、思い出すと頬が熱くなってくる。
頭を抱えて机に突っ伏していると、マミちゃんが心配そうに声を掛けてくれた。
「優子、今日やっぱり何か変だよ。熱でも出たんじゃないの?」
「そんな事ないよ。私は大丈夫……たぶん」
「たぶんって……ほら、おでこ出して」
 額にマミちゃんの手が添えられる。
「うーん、熱はないみたいだけど……給食もあんまり食べてなかったでしょ?」
「……うん」
「何かあった?」
「……」
 黙ってしまった私に、マミちゃんは小声で聞いた。
「もしかして、沙耶原と何かあった?」
 沙耶原。
 その名前が出た瞬間、反射的に机から体を起こしていた。
「ち、違うよ! 麗太君とは、そういうのじゃなくて……その……」
 そして頬を真赤に染めて弁解していた。
 まずい、誰かに聞かれちゃったかな。
 教室を見渡してみると、運良く男子は一人もおらず、数人の女の子がちらほらといるだけだった。
 どうやら今の話は、誰にも聞かれていない様だ。
「優子は分かりやすいなぁ」
 マミちゃんは溜息を吐き、私をゆっくりと椅子に座らせた。
「よし、落ち着いて。今、教室にはあんまり人がいないし、大きな声を出さない限り大丈夫だから」
「あの……えっと……」
 昨日あった事なんて、マミちゃんに言える訳がない。
 もし言ったとして、マミちゃんは男子だからという理由だけではなく、心の底から本気で麗太君を敵視する筈だ。
「あの、麗太君は……」
「沙耶原君がどうしたって?」
 どうにか誤魔化そうと言葉を探していたところ、話を聞き付けたのか、由美ちゃんがこちらへ来た。
 さっきから私達の遣り取りを見ていたのだろうか。
「聞いた分だと、優子ちゃんは麗太君のせいで、食欲がなくて、頬が火照って、他の事に手が付けられないって状況なんでしょ?」
 大まかな話では当たっているけれど、何か妙な勘違いをされている気がする。
「つまり恋なんでしょ?!」
 由美ちゃんの目はいつになく輝いている。
「はぁ?!」
 私より先に、マミちゃんが言葉を発した。
「そんな、このクラスの男子なんて……しかも沙耶原?! 優子が沙耶原を好きになる訳ないでしょ! 絶対にない!」
 私の意見を聞く事なく全否定するマミちゃんに、由美ちゃんは挑発的に言葉を返す。
「分からないよぉ? 沙耶原君、あんな癒し系なくせにサッカー上手くて格好良いし。それにほら、喋れないし……。そういうところって、女の子からしたら母性本能擽られるものなんじゃないのかな?」
「知らない! あんな、なよなよした奴。そうでしょ?! 優子?!」
「え、私?!」
 急に話を振られて、言葉に詰まってしまった。
 まあ、他人事ではないのだけれど。
「優子ちゃん、ぶっちゃけどうなの? 沙耶原君の事どう思ってるの?」
 確かに由美ちゃんの言う通り、麗太君は格好良い、というよりは癒し系で優しいし、悪い個所を見つける方が難しい位だ。
 でも私にとっての麗太君は、今や家族も同然で、それ以上の関係なんて想像も付かない。
 しかし、なぜだろう。
 昨日の一件のせいかもしれないが、麗太君を見る度に変に意識してしまう。
 麗太君と一緒に住み始める前は、こんな事なんて全くなかったのに。
「もしかしたら……由美ちゃんの言う通りかもしれない……」
 私は小さく呟いた。
「本当?! じゃあ、ちょっくら行って来ますわ!」
 今にも走り出そうとしていた由美ちゃんを、マミちゃんが袖を引っ張って止める。
「ちょっと、どこへ行く気?」
「麗太君を呼んでくるに決まってるじゃん!」
「呼んで来てどうするつもり?」
「優子ちゃんの想いの丈を打ち明ける!」
 次の瞬間、袖を掴んでいたマミちゃんの手は、斜め四十五度からのチョップとなり、由美ちゃんの頭に直撃していた。
「馬鹿じゃないの! そんな事して、困るのは優子なんだよ! 分からない?!」
 説教をするマミちゃんを前に、由美ちゃんは叩かれた所を摩りながらぺこぺこと頭を下げる。
「いやぁ、伝える事があるのなら早い方が良いかと。てか、地味に痛い」
「それじゃあ駄目なんだよ! ちゃんと順を追わなきゃ! ていうか、そもそも馬鹿なのは優子だよ!」
「え、私?」
「あんな、なよっちい奴のどこが良いわけ?」
 マミちゃんは、いつになく真剣だ。
 なら、私もしっかりと自分の想う麗太君の事を話さなくちゃ!
「麗太君は……少し前にママを亡くして、声も出せなくなっちゃって、落ち込んでた時もあった」
 あの日、麗太君が私の家に来た日、私が彼の支えになってあげると決めたんだ。
「落ち込んでいても、しっかりと立ち直って、ちゃんと学校にも来てる」
 日常生活に言葉を発せない障害があっても、麗太君はしっかりと学校へ来て、昼休みには今まで通り、元気に外でサッカーをしている。
 そんな麗太君を日々、私は本当に凄いと思っている。
 凄いと思っているだけ。
 別に恋人とか、そういう意味での好きではなくて……。
 どうしてだろう、内心では否定しているのに、麗太君に対する想いが溢れて来る。
「私は……そんな麗太君が……」
 無意識のうちに、言ってしまいそうな言葉があった。
 次の瞬間、頭がくらくらして、視界がぼやけた。
 体中が熱くて、頬もかなり火照っている。
 まるで風邪を引いた時に熱が出る様な感覚だ。
 さっきまでは平気だったのに。
 姿勢を保つ事が出来ず、私の半身は机に倒れた。
「ちょっと優子?! どうしたの?! ねぇ!」
「優子ちゃん! どうしたの?! 話が大人過ぎてショートしちゃったの?!」
 二人の声が聞こえる。
 なんとなく、体を揺すられている事も分かる。
 でも、だるくて体が動かせない。
「あ、ちょっと来て、優子ちゃんが……優子ちゃんが!」
 由美ちゃんが誰かを呼んでくれたみたいだ。
 誰かの背中におんぶされた。
 体を密着させている背中からは、何となく知っている香りがした。
 これは……私の家の香り。
 ママ?
 それともパパ?
 まさか、ママやパパがここにいる訳がない。
 じゃあ、もしかして……。



 気が付くと、目の前には白い天井が見えた。
 体を預けた真っ白なベット。
 それを仕切る真っ白なカーテン。
 額に貼られている冷えピタ。
 ここが保健室だという事に、ようやく気付いた。
 私が倒れた後、どうなったんだろう。
 たしか、誰かの背中におんぶされて……。
 その後の事が思い出せない。
 いや、そこで意識がなくなったんだ。
 額に手を添えてみるとまだ熱いが、歩けない程ではない。
 ベットから降り上履きを履いて、カーテンを開けた。
 保健室には誰もいない。
 私以外に寝ている人も保険医の先生も。
 ただ、保健室の外から声が聞こえて来る。
 どこかのクラスが音楽の授業で、合唱をしているのだろう。
 まだダルイし、合唱を聴きながら眠ろう。

「平井さん」
 暫くして、保険医の先生に起こされた。
「大丈夫? 熱は?」
 額に手を添えられる。
「熱は……まだ少しあるかもね。担任の先生に頼んで、お母さん呼んで貰えるけど、お母さんは今、家にいるの?」
「はい……たぶん」
「そう、良かった。こんな状態で歩いて帰るなんて辛いものね。荷物は、さっき友達が持って来てくれたからね」
 部屋の隅に置かれている椅子には、私のランドセルが置いてある。
 いったい、誰が持って来てくれたんだろう。
 マミちゃんかな。
 保険医の先生は藤原先生の所へ、連絡を取ってもらいに行ってくれた。
 手を添えられた額をさする。
 保険医の先生って、なんだかお婆ちゃんみたいで可愛い。
 とりあえず、椅子に座って待ってようかな。
 椅子に腰掛け、意味もなくぐるぐると周る。
 外で蝉がうるさく鳴いている。
 もうすぐ夏休みか。
 夏休みには、麗太君と過ごす時間が格段に増える。
 それまでには、麗太君の前では普通でいられる様にならないと。

 暫くすると、保険医の先生が藤原先生を連れて戻って来た。
「優子ちゃん。大丈夫? まだ熱あるんでしょ?」
「はい。でも大分、良くなりましたから」
「そう、良かった。もう暫くしたら、ママが迎えに来るからね」
 藤原先生は、机を挟んで私の向かいに座った。
「優子ちゃん、ちゃんと後でお礼言っておくのよ」
「え? 誰にですか?」
「麗太君に決まってるじゃない」
 麗太君?
 何かしてもらったっけ?
「あなたをここまで運んだの、麗太君よ」
「え?!」
 私は麗太君におんぶされていたのか。
 恥ずかしくて頬が熱くなってきた。
 熱が上がりそうだ。
「あと、マミちゃんにもね」
「マミちゃん?」
「そうよ。あなたが寝ている間に、ここまで荷物を持って来てくれたんだから」
 二人には、迷惑掛けちゃったかな。
 あと由美ちゃんにも。
「後で、皆に言っておきます」
「そうしておきなさい。それにしても麗太君、格好良かったみたいよ。皆の前で躊躇いもなく優子ちゃんをおんぶして運んだんだから」
「へぇ、あの麗太君が」
 藤原先生は、笑みを浮かべて私を見る。
「麗太君って、もしかして優子ちゃんの事、好きだったりしてね」
「そ、そんな訳ないじゃないですか! もう!」
「あらそう。でも、全く気がないっていうなら、真っ先に優子ちゃんの所へ行って、運び出すなんて事はしないと思うわよ」
 赤面してあたふたしている私に先生は「もう、背伸びしちゃって」と笑っていた。
 確かに、先生の言う事にも一理あるのだ。
 麗太君は、私の事をどう思っているのだろう。
 私は……。
 そういえばあの時、私がマミちゃんに言おうとした言葉を思い出した。
 倒れる寸前、私が言おうとしていた言葉。
 私は麗太君の事が……。
 そうだ。
 きっともう、私は麗太君の事が好きになってしまっているんだ。
 この短い期間を一緒に過ごすうちに、私は無意識のうちに彼を理解し出して、好きになってしまっていた。
 これはたぶんもしかしたら、よく聞くが今まで経験のなかった初恋というやつだ。


 ママはタクシーで、学校まで迎えに来てくれていた。
 そういえば、うちの車はパパが出張先へ乗って行ってしまったんだ。
 タクシーなんて、お金も掛かっただろうに。
「タクシー代、優子のお小遣いから削らなきゃね」
 無邪気に笑いながら、そう言っていた。
 本当にお小遣いを削られる事はないと思うけど。

 家に帰るとシャワーだけ浴びて、私はすぐ布団に入った。
 麗太君はまだ帰って来ていなかった。
 きっと、クラスの男の子達とどこかで遊んでいるのだろう。
 それか光原君と、あの駄菓子屋に行っているか。
 ああ、また麗太君の事が頭に浮かぶ。
 私は本当に麗太君の事が好きなんだな。
 そう改めて実感した。
 麗太君の事を考えながら、私はゆっくりと目を瞑った。



 眼が覚めた時、周りは完全に暗くなっていて、冷房の弱風だけが、無造作に吹いていた。
 なんだか体が熱い。
 熱がぶり返してしまったのだろうか。
 パジャマが汗で濡れていて、気持ちが悪い。
 それに喉も乾いている。
 ママの所へ行って、何か飲ませてもらおう。
 体に掛かっている布団を避けて、ふらふらとベットから立ち上がった。
 やばい、頭がくらくらする上に、一歩が重い。
 ちょっとずつドアの方へ進み、部屋から出ようとした時だ。
 私がドアを開けるより先に、ドアが開いた。
 誰かが来たのだ。
 ドアが開くと、そこには麗太君がいた。
 彼の両手にはお盆、その上にポカリスウェットとコップがある。
「麗太君……」
 掠れた小さな声で呟いてすぐ、麗太君が来てくれた為の安堵感からか、全身の力が一気に抜け、私は彼の胸に倒れた。
 麗太君は今、どんな表情をしているのだろう。
 いきなり倒れ込んじゃったから、びっくりしているのかな。
 見上げると、麗太君は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「大丈夫だよ……ただの風邪なんだから」
 掠れた小さな声で言い聞かせた。
 麗太君は手に持っていたお盆を近くにある棚の上に置くと、両手で私の体をゆっくりと抱き締めた。
 感じたその香りは、やはりママとパパの香りと一緒だった。


 麗太君は、机の上にさっき手に持っていたお盆を置き、箪笥から替えのパジャマを出してくれた。
「ありがとう……」
 麗太君は首を横に振り、メモ用紙を見せる。
『どうって事ない。冷えるから早く着替えた方が良いよ。僕は部屋に戻るから、何かあったら呼んで』
 去ろうとする麗太君の腕を、私は咄嗟に抱き寄せた。
「行かないで……一緒にいて……」
 もし、麗太君に私の事を少しでも思ってくれている気持ちがあるのなら、一緒にいて欲しい。
 何より、抱かれた感覚が忘れられない。
 腕を必死に抱く私を見て、麗太君はゆっくりと頷いてくれた。

 お互いに反対方向を向き、私はベットの上で替えのパジャマに着替えた後、麗太君が持って来てくれたポカリスウェットで喉を潤した。
「麗太君、昼休みの事なんだけど……」
 しっかりと言っておきたかった。
 あの後、私は麗太君と話す暇さえなかったから。
「さっきは、ありがとう。麗太君が、私を保健室まで運んでくれたんだよね。ビックリしたよね? いきなり倒れちゃうんだから」
『どうって事ない』
 言葉を発する事が出来るのなら麗太君は、咄嗟にそう言っているのだろう。
 きっと、咄嗟に思い付いた言葉も、相手に訴える事も、本来なら容易なのだ。
 それなのに、今の麗太君にはそれが出来ない。
 他人は麗太君に対して、必要最低限な言葉だけを求めてしまう。
 私は……そんな他人にはなりたくない。
「あの時……いや……今も感じているけど、麗太君からは、ママやパパと同じ香りがするの。だから私は、麗太君の事を家族も同然だと思ってる」
 きっと、麗太君もそう思っている。
 でも私は、もういつからか分からないけれど、それ以上の関係を彼に対して望む様になっていた。
「でもね、私は……それだけで終わりたくはないって思ってる」
 麗太君と過ごして来た今日までの短い日々、それを胸に焼き付けて、今こそ言おう。
「私……麗太君の事、友達や家族としてじゃなくて、それ以上の意味で好きになっちゃったの! 裸を見られたからとかじゃなくて……本当に!」 
 私は麗太君の事が好き。
 好きで堪らない。
 もう、言わずにはいられなかったのだ。
 顔を真赤にして、私は俯いた。
 麗太君、私の事どう思ったかな。
 もしかして……退いちゃったかな……。
 幾つもの不安が込み上げて来る。
 でも次の瞬間には、赤面して火照った私の頬に、麗太君の手が添えられていた。
 そのまま抱き合ってしまいそうな位に、彼との距離が縮まる。
 頬に当てられた手は、冷たくて気持ちが良い。
「麗太君……私……」
 今、こういう時、私は麗太君に何と言えば良いのだろう。
 全く、言葉が浮かばない。
 それでも、彼が好きだという事は変わらない。
 この事だけは、麗太君に分かってもらいたい。
 抱き合ってしまいそうな位の距離を更に縮め、私達はお互いに唇を重ねた。
 私が幼い頃に交わした、ママやパパとの経験を除けばファーストキス。
 まさか、こんなに早く時が来るとは思ってもいなかった。
 ちょっと前まで麗太君の事は、ただのクラスメイト程度にしか思っていなかったのに、それが今では……こんなに愛おしいなんて……。
 お互いに唇を離した後も、私達は何度かキスを繰り返した。


 翌日の朝、私の体調は完全に回復していた。
 熱も下がっているみたいだし、ダルくもない。
 リビングへ行くと、私とは逆にダルそうにソファに座っている麗太君の姿が目に入った。
「あれ? 麗太君、どうしたの?」
「きっと、優子のが移ったのね」
 ママは体温計を用意し、麗太君に差し出した。
 彼はそれを受け取ると脇に挟み、またぐったりと背にもたれる。
 ああ、なるほど。
 原因は昨日のキスか。
 そのせいで、菌が麗太君の方へ行ってしまったんだ。
 麗太君の事が気掛かりで、学校なんて行く気になれない。
「麗太君、私のせいで……」
 俯く私にの頭に、ママはポンッと軽く手を置いた。
「優子。あなたは今日、休んだ方が良いと思うんだけど」
「え?」
「様子見よ。学校へ行って、風邪がぶり返しちゃったらいけないからね」
「それじゃあ……」
 ママはニコッと笑い、私の頭を優しく撫でた。
「移したのは優子なんだから、麗太君の側にいてあげなさいよ。まあ、程々にね」
「うん!」
 夏休み直前の平日。
 私達は、二人揃って学校を欠席した。
 麗太君と二人っきりになっても、もう妙な感覚を覚える事はない。
 だって、私が麗太君を好きだという気持ちは、私達二人、お互いの中で確定しているのだから。
 きっと、これから毎日がもっと楽しくなる。
 夏休みだって間近なんだ。
 そうだ!
 夏休みになったら、麗太君と夏祭りに行こう。
 綺麗な花火を二人で見るんだ。
 学校のプールだって、夏休みになれば自由に使えるし。
 何よりも麗太君と一緒にいれる時間が増える事が、楽しみでしょうがない。

   =^_^=

 夏休み直前に起きた、ちょっとした一件。
 麗太君に裸を見られたり、異常に彼を意識してしまったり、その後にキスをしたり。
 私みたいな小学五年生には、少しばかり早かったかもしれないけれど、これが私にとっての初恋だった。



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