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はじめに

 この話は「Pieces of Heaven」の続編にあたります。

 本編の「Pieces of Heaven」、過去編の「PAST」、それの未来編がこの「ALIVE」になります。
この話を先に読むよりは、時系列順に「PAST」から読むか、執筆順の「Pieces of Heaven」「PAST」「ALIVE」と言うように読むことをお勧めします。

 この話は過去の二編を読んだことが前提で書かれています。


現在、連載中です。
加筆修正をしながら不定期で更新中。
全10~15話程度の話になる予定(まだ未定です)

プロローグ

 そのとき扉をくぐって現れた人影に釘付けになった。
 見慣れているはずのその姿は、なぜか見知らぬ人のようだった。小柄な身体をパンツスーツで包んだ彼女の連れは、こちらも見慣れているミュージシャン。
 高柳瑛(たかやなぎあきら)というロック歌手。ハードな曲も、メロウな曲もその歌唱力でこなす一流ミュージシャンだった。スレンダーだが、背の高い彼の陰に彼女は隠れてしまう。
 静かで上品な店内。限られた人間が酒を飲み、語らうこの場所を教えてくれたのは彼女だった。だから彼女がここへ来ても何ら不思議はない。
 俺の視線に気付いたのか、カウンターに座る瞬間に彼女がこちらを見た。だが風景を見るのと同じように彼女の視線は滑り、そのまま隣に座る男に向かって微笑んだ。
 俺の中で何かが熱くなった。自分がどこにいるのかも、自分が一緒にいる相手が誰なのかも考えられないほどに頭に血が上った。俺は自分の相手も放りだし、彼女に近づくとその腕を取った。
 微かに眉をひそめて何か言いたげな彼女を引きずるように俺はその店を出た。









1

 いつもと変わらない朝を葉月玲(はづきれい)は迎えた。
 常宿にしているホテルのひとつ。そのジュニアスイートの眺めは悪くなかった。ここ一年くらい、玲は都心のホテルの幾つかを常宿にして泊まり歩くことも多かった。
 大きな理由のひとつは仕事が格段に増えたこと。殆ど寝るために帰ることも多くなって、家に帰るのが面倒なのである。一人暮らしでも家事はしなくてはならない。ホテルに泊まれば、部屋は汚れないし、食事の心配もいらない。もっとも、ホテルで食事をすることも殆どないのだが。
 マンションに帰るのは週の半分くらい。あのマンションは今でもvisionの三人が自由に出入りしている。けれどこちらも事情がずいぶん変わってきて、同じく忙しさを増した彼らは以前ほどあのマンションに来る時間はない。けれど来ないわけでもない。その辺の微妙な関係が事情の二つ目。
 そしてもうひとつの理由は……
 起きがった玲は時間を確認するとバスルームでシャワーを浴び、簡単なメイクをした。せいぜい玲の普段のメイクは十分程度。若い頃から仕事以外で丁寧なメイクをしたことがない。早い身支度は、それでも極端な低血圧の玲には酷く大変な作業なのだ。
 部屋にセットしたコーヒーメーカーから入れておいたコーヒーをブラックのまま飲み、出かける前に寝室を覗くとまだ眠っている男に声をかけた。
「私、出かけるわよ。先に行くから遅刻しないでよ」
 ん?ともあぁとも聞こえた寝ぼけ声をそのままに出かけることにした。いま撮影中のドラマで一緒に競演している男だった。玲は基本的にそれほど親切な人間ではない。昨夜一緒に過ごしたとはいえ、今朝も一緒になってロケに行く気はないし、親切に目覚めるまで起こす気もない。いちおう声はかけてやったのだから、あとは起きようと遅刻しようと男の勝手だと思っている。
 端正な顔も、眠っている顔はまだ幼くも感じた。自分よりもいくつ年下だったか……そんなことを思いながら玲は部屋をあとにした。

 現場には自分で車を呼んで出かけた。運転が好きなので自分でしてもいいのだが、帰りに酒を飲むことも多く、車はない方が無難だった。どうせ現場に行けば、冴子や川崎が車で来ている。そうかといって、男と過ごした朝にいちいちマネージャー達に迎えに来て貰うつもりもない。彼らはどうせ玲にはなにも言わない。また言われるほど子供でもなかった。
 ホテルを転々としているのは、マスコミが煩いからだ。昔と違い、どこに写真誌のカメラマンが居るかわからない時代。なにを書かれようといまさら気にしていない玲だが、相手や現場に迷惑がかかるのも考え物だったから一応の対策だった。
 現場に着くとさっそく冴子にヘアとメイクをして貰い準備をする。近場の街中のロケだったが、案の定男は遅れてきた。それでも撮影時間開始には、ぎりぎり間に合った。
「なんで起こしてくれないんだよ」
 照明スタッフが準備する中、男の少し責める口調に玲が答える。
「起こしたわよ、ちゃんと先に行くって声かけたでしょ」
「知らねぇよ。同じ現場来るのになんで置いてかれるかなぁ」
 ブツブツと独り言を言う顔は不愉快なのではなく、不可思議だという表情である。
「湊(みなと)くん、準備いいかい」
 監督に呼ばれて、ハイと素直に歩き出す背中は長身だった。
 一ノ瀬湊(いちのせみなと)。二十九歳だったと思う。
 現在俳優をメインにやっている人気者の彼は、デビューは歌手だった。今では俳優業の傍らに歌っているという、位置が逆転したような彼だが、あまりに端正な顔は歌手よりも俳優に向いていたらしい。若い女性にはダントツの人気がある。黙ってスチールに写っていれば、言うこと無しの二枚目。
 けれど中身はそこそこ砕けていて、お調子者の感じすらある。誠実ではあるが、けして堅くない。そんなところが彼を気に入っている理由だった。少し、元夫の若い頃に似ているかも知れない。
 『恋人』というわけではない。食事をしたり寝たりする相手がイコール恋人なのだと言われてしまえば、そうなのかも知れないが、少なくとも玲にとっては違った。なぜならそこには『情』はあっても、『愛』はないからだ。
 楽しいと思う。優しくもするし、されもする。けれど湊でなければならない理由はない。それは玲の付き合う人間が湊ひとりではないことでも証明される。そして湊と案外つかず離れず続いている理由は、湊がそこのところを勘違いしていないせいだった。
 たぶん湊にも他に女が居るだろう。玲を手に入れようなどと、勘違いを起こさない男である。だから玲は湊が好きだ。頭が良く、時勢が飲み込める男が好きなのだ。
 『遊び』などと悟っているわけでもない。楽しいから一緒にいる。ただそれだけで、しいて言えば玲にとっては友人にSEXが付いてきただけの関係である。だがそれを万人に理解して貰おうとも思ってない。自分は自分。相変わらず自己完結している玲だった。

 三日ぶりにマンションへ帰ると瑞紀(みずき)が来ていた。
「おかえり」
 先に仕事を終えていた瑞紀が玲を迎える。
 テーブルに散らばった楽譜、アップライトのピアノの蓋が開いている。このピアノはニューヨークへ行った徹(とおる)の預かりものだった。
「レッスン中?」
 玲はコートを脱ぎながら訊ねた。
 瑞紀は今度、映画の仕事でピアニストの役をやるらしい。最近頻繁にここへ出入りするのは、ここにピアノがあるからだ。
「ごめん、もう三日くらいここに居るんだ」
「別に構わないわよ。ピアノも見てあげられればいいんだけど、私のは我流だから。
徹がいればよかったわね」
「大丈夫。大崎さんにも教わってるから」
「撮影は順調?」
「まぁね。そっちは?」
「なんとかね」
「聞いてるよ」
「なにが?」
「また、新しい男に手ぇ出しただろ」
 上目遣いの瑞紀に
「新しい?湊のこと?」
「違う、そっちじゃない」
 譜面を片づけながら問いかける瑞紀に
「どっちだろ?」
 惚けながら、キッチンに向かう。
「コーヒー?俺容れるよ」
 瑞紀はあまり家事が得意ではない。
 几帳面なのだが、料理とかをマメにする方ではなかった。その点は残りの二人がマメなので問題ないのかも知れないが。
 瑞紀は玲と似ているのかも知れない。仕事をし出すと食事などどうでも良くなるタイプである。
「それともお酒にする?」
 玲が訊ねると、
「明日も撮影あるから止めておく」
 真面目な瑞紀は答える。
「食事はちゃんとしたの?」
「食べたよ。そっちは?」
「済んだ」
 相変わらず瑞紀との会話は簡潔で素っ気ない。いつもこんな感じで事務連絡のようだと玲は思う。けれどそれが不快でないのだ。むしろ疲れなくていい。
 玲は瑞紀との時間が嫌ではなかった。瑞紀との会話はどちらかというと、仕事仲間か姉弟の会話に似ている。玲にとっては負担のかからない相手である。似たもの同士は時に鼻につくこともあるが、互いを理解するには一番の相手である。
「俺、泊まってもいいかな」
「泊まってたんでしょ」
「違うよ、あっちで」
 瑞紀が指を差したのは自分の部屋ではなく、玲のベッドのある部屋だった。玲がわざと首を傾げて、ひと呼吸置くと、
「明日、撮影なんだけど」
 さっきの瑞紀と同じ言葉で返したが、結局はそれも承知の瑞紀に答えた。
「好きにしたら」

 瑞紀は二十五歳になった。
 出会って五年の月日は、元々大人びていたこの青年をもっと大人にした。最近の瑞紀はすっかり俳優である。玲とずっと共演しているトーク番組は今も続いていて、半月に一度は一緒に仕事をしている。
「瑞紀、彼女居ないの」
「面倒くさい」
 昨日とは違う男が居るベッドの中だが、どういうわけか瑞紀は他の男とは違うと思う。なぜか男と女の匂いがしない。実際、昔からそうだが身体を繋ぐことは少なかった。徹との関係に似ているかも知れない。体より心が求めている感じなのだ。単純に、近い場所にいたくて一緒に眠る感じだった。
 だからいつまでも姉弟のように感じるのか。たぶん今日も瑞紀とは何事もなく眠る気がする。女を作ることが面倒だという瑞紀は、だからといってまったく女の気配がないわけではなかった。どうやって付き合うのか、恋人にするわけでもないのに問題も起こさない。片割れとはえらい違いだと玲は思う。
「あっちには、もう少しおとなしくするように言っておきなさい」
「自分で言いなよ。あいつに俺が言うわけにいかない」
「なんで」
「つっかかって来るから喧嘩になるんだよ。めんどくさい」
「まだあんたたち喧嘩なんかするの」
「しないよ。俺が相手にしないから」
 しばらくの沈黙のあと瑞紀が言った。
「機嫌悪いんだけど」
 誰が……とは聞かなかった。
「見られたのよね」
「もう少し上手く扱ってよね。俺達が八つ当たりされるんですけど」
「面倒だから」
 瑞紀の口調を玲が真似すると、
「まったく……」
 そう言って瑞紀は溜息をついた。
「派手な噂になってるわよ」
「今度の女だろ?社長にも言われてるらしい。なにしろ相手が今売り出し中のアイドルだからさぁ」
「この間も一緒だった」
「なのに、あいつ玲に文句言ったの?」
「お子さまねぇ、相変わらず……」
「わかってるなら、もうちょっと上手く扱ってよ」
 瑞紀の言葉に、玲は上半身を起こした。
「ちょっとあんた、もしかしてそのこと言いに来たわけ?」
「ばれた?」
 瑞紀が舌を出す。
「まったく……」
 この話を持ち出すために瑞紀は三日もここへ通い詰めて玲を待っていたと言うことらしい。
「いい加減、あの男を甘やかすのやめなさい」
「甘やかしてない。迷惑なんだよこっちも」
「どうだか」
「玲……最近、あいつに冷たいよね」
「そう……かな」
 瑞紀と同じ二十五歳になったはずの男はいつまでも子供っぽかった。

-数日前-
 玲は遊び仲間のひとりである、高柳瑛(たかやなぎあきら)と飲みに出かけた。
 瑛は二十七歳のボーカリスト。巷では「カリスマボーカリスト」などと呼ばれて、ここ数年、圧倒的なセールスを誇る歌手だった。
 瑛を見つけたのは桜井である。もともと桜井の事務所にスカウトされ、モデルや俳優をしていた瑛に歌の才能を見つけたのは偶然ではないかも知れない。纏ったオーラもただ者ではなかったが、桜井だけでなく、大崎も玲も彼の才能は感じていた。
 桜井の指令の元、彼専属のスタッフが組まれ売り出すとたちまちのうちにトップに躍り出た。それから数年。彼はずっとトップミュージシャンだった。

 低くスローなジャズが流れる店内。ドアを開けて慣れた店の中へ入る。そっと手慣れたエスコートをしてくれるのは、年下の男。昔の玲なら年下の男を伴ってこういう店に来るなどあり得ないことだった。
 家庭の中に複雑な空気があった玲は、やはりどこかファザコン気味で、年上の男ならどんなに年齢差があろうと気にしなかったが、年下と聞いただけで拒絶反応があった。それがやはりvisionのメンバーと付き合うようになってからか、年令には一切抵抗がなくなった。
 高柳瑛は事務所の後輩と言う立場にあたる。事務所の人間だからと言って皆面識があるわけではないのだが、瑛とは彼のデビューに関して桜井に相談されていた時期があったり、その後たまたま彼の私生活まで知る羽目になり親しくなった。
 世間で『カリスマ』と呼ばれるだけあって、独特の雰囲気を持っている。簡単に言えば『オレ様』なオーラが半端なく漂っているわけだ。こういう人間を玲は何人か知っている。共通するのは唯我独尊。そして彼らは共通に少年らしさを失わないのだった。
 瑛は体格もモデルをしていただけあって百八十を大幅に超える長身、しかも筋肉質の身体で、脱げば凄いと言うやつだった。短めの髪を金茶に染めて立たせ気味にしている姿は、昔はさぞややんちゃだったんでしょうねと言わんばかりだ。これでも最近はおとなしくなった方なのだった。
 このバーは会員制のために誰でも来れるわけではない。誰かの紹介や身元の確認があるので、業界の人間も多かった。店でのことがけして外に漏れる事がないからである。ここに来ると玲はカウンターに座ることが多い。この場所は純粋に酒を飲むために来ることが多く、馴染みのバーテンにカクテルを作ってもらうのが楽しみなのだ。
 瑛と共に定位置に着こうとして、自分を見つめる視線に気付いた。こんな風に刺すような視線で見られることにも、もう慣れている。どうしてこんなに子供のように無防備で居られるのか、いまだに玲にはわからない。
 それが鬱陶しくもあり、また愛おしくもある。正直自分でもこの感情は持て余していた。自分は彼をどうしたいのか、どうするつもりなのか全然わからなかった。
 しかも相手は玲が戸惑っていても、それを気遣うような余裕は見せない。瑞紀のように一定の距離を測って、土足で踏み込むような真似は絶対にしない接し方ではなく、いつでも自分の感情を露わにする。だからむしろ、もう短いとは言えないつきあいを続けている自分を誉めたいくらいだと玲は思っていた。けっきょく、こちらも『情』にほだされているのかも知れない。
 だがそれを敏感に察知する相手ではなかった。ある意味では、向こうは自分のために世界が回っているように感じることが出来る人間だからだ。そして主人に向かって走る犬のように、ぶつかってくるまで止まらないのだから始末が悪い。こちらが転ぼうとお構いなしなのだ。
 玲の視線を瑛が辿ろうとしたので、彼女は視線を戻して瑛に微笑んだ。嫌な予感が掠めたが、案の定こちらに向かってくる影を感じて身構える。
「今日は予定があるんじゃなかったっけ?」
「そうよ」
「これが?」
「先に約束してたの」
 玲が答え切らないうちにいきなり腕を捕まれて店の外へ連れ出された。
「甲斐っ、離しなさい」
 店の外へ出れば、どんな視線があるかわからない。つまらない諍いを世間に晒す気はなかった。背の高い甲斐は、出会った当時はただ痩せていただけの少年だったが、大人になるにつれ綺麗に筋肉が付き、今ではどう見ても立派な大人の男だった。そう、見かけだけは。
「俺とはぜんぜん会ってくれないのに……」
 腕を捕まれたままの玲は、甲斐の腕を払い落とすと溜息をついた。まるで、『遊んでくれない』と駄々をこねる子供と一緒だった。
「あのね、私も忙しいのよ」
「嘘付いたな」
「嘘じゃないでしょ」
 数時間前に仕事場に連絡があって、今から会いたいと言うから『まだ予定が終わらない』と答えた。どうやらそれを『仕事が残っている』と勘違いしたようであっさり諦めてくれたので、そのまま電話を切った。瑛と約束していたのはほんとで、だからまだ一日の予定が終わっていないのもほんとだったからだ。これをストレートに、誰かと会うなどと言えばごねられるのがわかっていたから、と言う理由も確かに存在するのだが。
 最近、玲が甲斐を避けているのは否めない。色々考えるところもあったし、なにより直情型の甲斐はのめり込むと恐い。甲斐が距離を保てない以上、玲の方がそれを保とうとするのは必須で、それを『逃げている』と問われればそうかも知れなかった。
「自分の相手を放りっぱなしよ」
 玲は先ほど甲斐と居た、見たことがある少女を思い出す。最近その存在が目立ってきたアイドルである。まだ大人になりきれない少女と大人の中間のような感じで、若い男達に圧倒的な人気があるらしい。
 今回甲斐が主役を務めるドラマの相手役で、すでに二人の噂は玲も聞いていた。まだ初対面の顔合わせから二ヶ月も経っていないだろうに。その噂は派手だった。
「店に戻りなさい」
 こんな深夜とはいえ、店の前で争いたくはない。さすがに玲は周りを気にした。マスコミにでも気付かれたら叶わない。まるで痴話喧嘩ではないか。
「玲、どっか行こう」
「馬鹿言わないでくれる」
 互いの相手をどうするつもりなのか。今の甲斐には玲しか見えていない。仕方なく甲斐を放って店に戻ろうとした玲の腕を再び甲斐が掴んだ。
「離して」
 振り払おうとした時、
「れい……」
 呼びかけられて店の入り口を振り返ると、瑛が壁にもたれて腕を組んだままこちらを見ていた。さすがにそうやって立っているだけで圧倒的な存在感だった
「あきら……」
 呟く玲に瑛は近づき、甲斐に向かって言った。
「悪いけど、今日は俺が先約だったんだ。まだ話し終わってないし、今度にしてくれないかな。だいいち、こんなところでお互い見つかったら困るじゃないか」
 大人な瑛の言い分に、甲斐が彼を睨む。まずいな、と玲は思った。甲斐の性格からして喧嘩になりかねない。だが玲が取り繕うとする前に瑛はさっさと自分の車に玲を乗せた。運転席にいるのは瑛のマネージャーの梶(かじ)である。あまりに早く戻ってきたので驚く梶に
「早く出せ」
 瑛はそう言って車を出させた。呆気にとられた甲斐はその場に取り残されたまま。
あとの処理に頭が痛いと玲は思う。そんな玲に瑛はしばらくなにも言わなかった。

「それでどちらに向かいます?」
 黙ったままの玲と瑛に困り果て梶が聞いた。
「ぁ、ごめんなさい」
 我に返って玲が答えると、
「自宅じゃない方がいいか……いつものホテルにするか?」
 瑛が聞いた。
「そうね……」
 玲が考え込む。このままマンションに帰ったら甲斐が来るかも知れない。今日はもう会いたくない気分だった。
「なんだったらうちへくるか?」
「まさか……」
「別に構わないけど」
「あなたは構わなくても……」
 玲は瑛の家で待っているだろう人間を知っている。
「あいつも歓迎すると思うけど?」
「それにしたって、伺うには時間が遅すぎるでしょ。行くならもっと早い時間の時にするわ」
 いくらなんでも気が引けた。玲が瑛と気兼ねなく会うのは、あくまで男女の仲ではないからだ。
 瑛には大事な人間が居る。思い続けてやっと手に入れられた想い人なのだ。瑛がその人を裏切ることは絶対にない。
 梶は瑛に言われて玲をホテルに送った。玲は社長職を退いて会長になった桜井が、ずっと大事にしてきた歌手だ。今はアメリカにいる神崎徹(かんざきとおる)と共にアカデミック・エンターテイメント、通称A・Eの所属タレントだった。
 瑛も同じくそこの所属タレントで、梶は瑛のマネージャーだった。
 瑛は今でこそ落ちついたが、ずっと問題児でマネージャーが居着かずに次々と変わるタレントだった。年上の落ちついて冷静な梶が担当になってから瑛も落ちついた。
 いまでもある意味瑛は問題児だが、昔に比べればずっとマシだろう。梶も高望みはしていない。諦めの境地なのだ。とりあえず瑛はそれらの問題を抱えていたとしても有り余る才能を持っている。あとは梶が我慢すれば良いだけなのだと、梶はマネージャーの本分として諦めていた。
 梶は玲のマネージャーではないが、事務所では玲と徹は別格扱いで、社長だった桜井が直々にマネージメントしていたくらいである。当然梶にとっても大事な人間で、一緒にいる以上、梶にも責任がある。A・Eにとっては一番大事な人間と言っても過言ではなかった。
「こちらでよろしかったですか」
 玲の常宿する幾つかのホテルは梶も知っている。そのひとつに送り届けて確認した。いつでも部屋は押さえてあるが、先ほど来る途中で連絡を入れて確認もした。
「ありがとう、ごめんなさいね。こんな遅くまであなたまで振り回して」
 玲は十四歳の時からこの世界にいて苦労もしたが、桜井達がまるでお姫様のように大事にしてきた人間と言ってもいい。言ってみれば、事務所にとっての箱入り娘というような扱いだった。だが本人は余り自覚がないらしく、不遜なところは全く見あたらない。上司である桜井にも、梶のような他のタレントのマネージャーにも、そして瑛のような後輩のタレントにも接する態度は全く差違がなかった。
 彼女自身は自他共に認めるように、自分にも周りにも無関心なだけなのだが、優等生体質は抜けないらしい。どう思われようと構わない相手は、大嫌いな人間か自分にはまったく無関係な人間に限られる。仕事関係者にはできる限りの敬意は払う主義である。
 どちらにしても高慢な感じとは縁遠く、表向きだとはしても周りにいつも気遣ってくれる。梶も薄々玲のこの態度は仮面を被っているせいだとは感じていたが、自分のようなものにまで気遣ってもらって悪い気はしない。
「またゆっくり話しましょう」
 瑛にもそう言って玲はホテルへ入っていった。
「揉めたんですか」
 梶にもだいたいのことは想像が付いた。
「いや、揉めるってほどでも……ない……そうでもない……か」
 梶は溜息をついて車を出す。
「ありゃ、大変だな。思いこむと何とか……ってやつだ」
 さっきの甲斐のことを思い出して瑛は呟いた。
「話には聞いてますがね」
「でもあれだろ?玲は甲斐より瑞紀って方と……じゃないのか?」
「知りませんよ、そんんなこと」
「神崎さんが居ないからなぁ」
「まだ帰らないんですかね」
「そんな噂もないんだろ?」
「聞いてませんが。でも神崎さん達のことは会長の直轄ですからね、私たちにはわかりませんが」
「ま、俺達には関係ないか」
「揉めないで下さいよ」
「なにがだよ」
「さっきのことで誤解されたんじゃないですか?天野甲斐がうちの事務所の人間ならいいんですが、余所のタレントですからね。玲さんはともかく、瑛さんはもめ事起こさないで下さいよ」
「するかよ、そんなこと」
「どうだか……」
 心配性の梶は呟く。
「だいたい、しつこくしたら嫌われるぜ。程々にしないと」
「あなたが言いますか、そう言うことを……」
 梶は胃が痛くなる思いだった。瑛が今一緒に住んでいる相手は、そうやってストーカーのようにしつこく付きまとい、手に入れた相手だったからだ。梶が当時どれだけ気を揉んだか知れない。瑛は自身が大問題児だというのに、本人にはまったく自覚はない。
「天野君もあなたには言われたくないと思いますよ」
 梶はもう一度大きく溜息をついた。

 玲は時間のあるときにはvisionの仕事場に出向くようにしている。最近は減ったが、最初の頃は自分が挨拶に出向き、この子達をよろしくと言って回ったものだ。玲はこの業界には長いからスタッフも出演者も顔見知りが多い。visionのメンバーが現場で軽々しく扱われないための保険のようなものだった。
 彼らのバックに有名人がいると思われれば蔑ろにもされないし、興味も持ってもらえる。最近順調に忙しくなった彼らにそれほど必要な行為ではないが、ある意味お願いして回ったのだから義理も生じている。現場で玲が歓迎されるのであればたまには顔を出すことも未だ必要だった。
 予想以上に忙しくなったvisionを確保しようと最近現場は必死である。玲に取り持ってもらおうとする者も現れ始めたが、玲はあくまで単なるプロデューサーでvisionは彼らの事務所が管理している。玲が彼ら自身のことにすべて口出しできる立場ではなかった。
 瑞紀の映画主演の折りに玲にも出演して欲しいとオファーがあった。
 玲自身も映画出演したことがないので、映画会社やプロデューサーが飛びついたのだが玲は断った。せっかくの瑞紀の映画初主演に玲が出て行ったら台無しである。瑞紀への注目度が下がってしまうからだ。
 その代わり、主題歌でならと申し出た。これなら宣伝効果もあり、表だって邪魔にはならないだろうと判断したからだった。
 瑞紀の現場の後は甲斐の現場に行くことにした。甲斐の現場は都内のスタジオだった。テレビドラマは局内よりもこういう撮影所で普通は撮影される。
 甲斐は今までほとんど演技はしていなかった。Visionの活動と、モデルの活動で精一杯だったからだ。もちろん、甲斐の容姿と存在感でオファーは後を絶たなかったが、玲は役者仕事はしばらく押さえるように甲斐の事務所にアドバイスしてきた。
 ひとつにはスケジュール的な問題。海外ブランドとの契約もあったので、いつ海外に呼び出されるのか予想が付かなかった。断るにもこの口実が一番問題なかった。
 だが実際には他の理由もあった。無理して他のメンバーと被る仕事をさせたくなかったのだ。とうぜん、いずれは全員が役者の道を歩むのもわかっていたが、今の芸能界でそれは安易な道だった。
 俳優も歌手もお笑い芸人も歌を歌う。同じように誰もが演技をする。芸域や役割分担のなくなった芸能界で個性を出すのはむしろ難しくなってきていた。
 それはグループの中でも一緒で、瑞紀が先陣を切って役者の道を選んだときに慶もいずれはそうなることがわかっていた。瑞紀と慶にはどんな役でもこなせる柔軟性があった。主役でも脇役でも、その個性が自在になるものを持っていた。
 だが甲斐は……ひと目見ただけでもわかる。甲斐は個性が強すぎた。容姿やオーラも抜きんでているので目立ちすぎるのだ。その性格がまんま表に出るせいかもしれないが、彼の押しの強さは主役に回ったときはいいが、脇役には向いていない気がする。たぶん脇に回ったら主役を食ってしまうだろう。
 ある意味主役は簡単に取れる。トップに躍り出るのも難しくはない。だが、そういう役者は一見、華やかで良さそうだが、主役しか張れない役者と見なされれば、いずれ使いづらくなり見捨てられる。
 それよりも若いうちはその華やかさを生かした仕事の方がいいように思えたのだ。それで挑戦させたモデルの仕事だった。あぁいう世界は、役者や歌手以上に難しい部分がある。何しろみんな容姿で勝負しているのだし、自信がなければやってられない。人より美しいことが当たり前なのだから、気の弱い人間ならプレッシャーに負けてしまうかも知れないが、甲斐ならその心配もない。
 モデルの世界のことは瑛にもよく話を聞いた。甲斐を預かった当時、瑛もまたモデル、俳優と転身して歌手へと道を進めた頃だった。瑛が歌手へと転向した経緯には、桜井に大崎や玲も相談されたと言う事実がある。
 甲斐の時は反対に瑛にモデルの世界のことを聞いたりもした。その結果、甲斐なら大丈夫だろうと判断したのだ。思惑は大成功で、まだ個人では無名に等しかった『天野甲斐』の名は世間の女性の話題をさらった。甲斐はあっという間に有名になり、visionと言うグループは注目され、器用で多才だった瑞紀が後を追うようにテレビの世界で活躍しはじめた。
 ここに玲の作戦があった。とにかく人気がなければ、使ってはもらえない。実力先行でスカウトされたミュージシャンでも芸能界では売れない可能性が多々あった。それをデビューして数年。その時点で売れていなかったアイドルなど本当はもう可能性などなく、後は消えていくしかない運命なのは仕方なかった
 だが、玲が引き受けた以上はそうさせるわけにはいかない。自分がアイドルとして数年、この世界でやっていただけに図式は分かっている。とりあえずは人気なのだ。そしてその後にプラスアルファとして『持続』と言うものが続く。
 visionの三人の容姿は申し分なかった。だが言わせてもらえれば、この程度の容姿なら他にも探せばいるだろう。特別彼らが飛び抜けているわけではなかった。
 そこで玲は思った。
 『なぜ自分は彼らに惹かれたのだろう』そこに思い当たったのだ。一番に思い出したのは、彼らの『目』だった。初めて会った時の、あの刺すような目線。自分たちの縄張りに踏み込ませないような、無言の圧力。圧倒的な『なにか』があった。
 生意気といえば生意気だった。玲は芸能界では大先輩に当たる。たとえ初対面で、面識がなかったとしてもあの態度はいただけなかった。
 けれど、不快ではなかったのだ。むしろ興味を引かれた。そして決定打は、あの翌日。甲斐に会った時に感じた違和感。あの前日の攻撃的な視線と、翌日の無邪気な笑顔の落差は、男を知っているつもりの玲でさえ釘付けになるものがあった。
 考えを変えて、プロデュースを引き受ける気になったのはその落差を受け止める余裕が玲にあったからだ。昔の彼女になら無理だっただろう。一回で、嫌な男だと撥ね付けたに違いない。
 ならなぜなのか?
 それは玲が大人になったからなのだ。
 甲斐の不遜な態度も無邪気な笑顔も、素直に『かわいい』と認められる大人の余裕が玲に出来たからなのだ。折りしも、世間では『年の差婚』や『年下の男』がブームといわれる年代になっていた。
 それならば、言葉は悪いがペットのように可愛がる男のアイドルが居ても不思議じゃない。世の自立したお姉様方にアイドルに嵌まってもらおうと思ったのだ。甲斐達には怒ると思うので言っていないのだが、玲が感じた気持ちは多分、世の女性たちの共通な思いになる気がした。
 大人の女には年下の異性に癒される時間が必要だし、その相手に使えるお金も充分ある。これを狙わないでどうする?と言うわけだ。年下の男とは言っても、実際にそんな相手とつきあえる人間はそうは居ない。アイドルはその疑似体験のために居るのだ。
 いままでアイドルというのは若い女の子のものだった。実際、『vision』もそのためのアイドルだ。だがこれを『商品』と考えた場合には、それではあまりに勝算が少なすぎた。賞味期限も短い。だが年上の女性相手ならばそんなものは関係ない。
 ライフスタイルも自分のポリシーも、ある程度出来上がってしまった女性達に選んで貰えれば、そうそう若い女性のように飽きることは少ない。長く大事にして貰えるはずだった。お気に入りに選んで貰えれば勝算はあった。
 本来玲は『商品』として扱われるアイドルには辟易していた。自分がそうだった歴史があるから尚更なのだが、自分がプロデュースするとなれば話は別である。しかも売れなければ、visionの将来はないのだから仕方がない。
 玲はvisionのプロデュースを引き受けることにした時に、それまでの自分の価値観や拘りをすべて捨てた。嫌いだったこと、見ないようにしてきたこと。利用すること、媚びを売ること。大嫌いだったそのひとつひとつが、裏を返せば、彼らを売る為の武器になる。玲はそのために自分が拘ってきたすべてのことを一回全部捨てたのだった。











2

 今から思えば。そもそも玲にそう決心させてしまう彼らもすごかったことになる。
 割り切った玲は、まず甲斐をモデルにして女性ファッション誌を片っ端から制覇した。そして徹底的に甲斐の容姿を売りにした。容姿に加えてアイドル→ファッションモデルという奇妙な履歴に女性たちは引き付けられ、次にアイドルとは思えない甲斐の不遜な態度に苦笑しながらも許容しはじめた。
 この女性の反応の仕方は瑛の時も同じだったし、実は徹もそうだった。瑛はステージ上で『俺様』で勝手な態度を崩さなかったが人気は凄まじかった。
 徹はといえば、仕事中は優等生の顔を崩さなかったが、プライベートでは女を振りまわす天才だった。年下年上を問わず手当たり次第だったが、正確には女達の方が放っておかなかったのである。そして圧倒的に年下よりも年上の女性が多かった。手当たり次第……と言った風の徹の所行を女たちは憎むどころか許したのは年上の女性が多かったせいもあると思う。年上の女たちは徹に甘かった。
 玲はそれをずっと見てきたのだ。昔は理解に苦しんだが、今なら彼女たちの気持ちが分かる気がする。今の自分も甲斐達に振り回されながらもそれを楽しむ余裕がある。同じようなことなのだ。
 そして世の男を何とも思わなくなった世代の自立した女性陣は、容姿が良く元気で、そして個性的な男が好きになる。恋人でなくていいのだ。面倒がない、バーチャルなもので代用させることができる。
 そしてここが肝心なのだが、働く彼女らは年下のアイドルに充分、投資してくれる。CDを買い、雑誌を買い、ドラマを見て、DVDも買う。
 果てには彼らがCMを受け持つ商品を買い、映画、舞台、ライブのチケはどんなに高くても買ってくれる。若い女の子には出来ない投資をしてくれる。
 しかもライフスタイルの確立している彼女らは、いったん好きになると『飽きる』と言うことがあまりない。飽きずにずっとファンを続けてくれるのもメリットだった。
 visionの成功は玲が最初に彼らに感じたそのまま、それを世間の女性たちにぶつけた結果だった。もちろん裏ではいろいろ画策した。最初の頃は玲が甲斐といかにも付き合っているような噂を許容して、宣伝に利用したりもした。
 あれは最初のきっかけで大成功だったのだが。成功だったのは宣伝効果だけで、甲斐と玲の仲には溝を作ってしまった。『溝』と言えるかわからないが、見えないなにかで妙なすれ違いが出来たことは否めない。
 元々素直な甲斐が、こと玲の男性関係になると突っかかって来るのはその裏返しだった。出会って噂が出た頃、甲斐は玲に惹かれていた。それ自体は悪いとも何とも思わない。年齢的にも大人の女性に惹かれてもおかしくなかったし、間近で接している玲にそれを感じても不思議ではない。
 現に瑞紀も慶も、似たり寄ったりの感情を玲に持っていることは分かっている。ただ玲が甲斐の扱いを間違えてしまったのだ。よくある一過性のもの、もしくは想像の中のものであったり、割り切ったもの。普通はそういう関係だと思っていた。
 まさしく慶にとって玲は憧れの対象で、思ってはいても行動に起こすことはない。瑞紀もどこまで玲に対して思い込んでいるのか知らないが、一線を画してそこから入ることはない。
 たとえ身体の関係があったとしても、瑞紀は玲を支配しようなどとは絶対に思わないだろう。ある意味冷静だし、自分の『分』と言うものをわきまえている。大人だと言ってしまえばそれまでだが。
 甲斐が玲に関係を迫ったとき、心はやれないといったら身体だけでもいいと言った。だがむしろ玲がそう約束させてしまったことが、甲斐の中でしこりになったようだ。いつまでも割り切れず、燻っていると言ったらいいか。
 甲斐は素直な分、思い込みが激しくて融通が利かなかったのだ。一途だと、そう言えば可愛いのかもしれないが、それは玲が甲斐のことを愛していればの話だ。
 玲が彼らに注いでいる愛情は、異性に対するそれではない。瑞紀ははじめから感じ取っていたし、子供だった慶でさえわきまえている。
 それなのに、ある意味甲斐は一番子供のような存在だった。計算も出来なければ嫌らしい駆け引きもしない。あまりに無垢だということを玲は計算違いしたことになる。おかげで甲斐は中途半端な気持ちを抱えたままで、複雑な気持ちのままずっと玲の側にいることになった。
 甲斐のような人間には最初の時にはっきり撥ね付けた方が良かったのかもしれない。今となっては遅いし、玲にも本当のところはよく分からなかった。どうすればよかったのか……なんて。

 瑞紀の時と同じように監督以下に挨拶をして、スタジオの隅で見つめる。確かな存在感のある甲斐はいい演技をする。最初の頃に玲が危惧したような部分は今はない。
 年齢も相応になった甲斐は、現場のスタッフにも気を使いかなり気に入られていると聞く。共演の女の子とのツーショットを撮影していた。先日甲斐とあのバーに居た女の子だ。今時のアイドルとしては普通だろう。可愛いし、スタイルもいい。十九歳だったか。
 玲は頭の中で彼女のプロフィールをめくる。こういうデータはすべて頭に入れておく玲だった。主な共演者やスタッフの履歴くらいはすべて引き出しに入れてあった。何で必用になるかわからない。
 彼女のミスでスリーテイクまで撮りおわったところで撮影はアップした。今日の分は終了というところだった。
 終了時間は二十五時を回っていた。この世界では一日は二十四時間ではない。午前零時を超えると、そのまま二十五時、二十六時と時間は重ねられていく。中には二十七時終了などという仕事も珍しくはない。
 歌番組などと違って、ドラマなどは撮影が長引くと真夜中や明け方まで撮影は伸びる。しかも翌朝は、朝からまた撮影などというのも珍しくもない。睡眠もままならない状態が続くものなのだ。まして甲斐達のように他にも仕事を抱えながらやれば尚更だった。
 コツン、とヒールの音を響かせて玲は座っていた椅子から立ち上がった。瑞紀の時のように黙って帰るわけにはいかない。こんな真夜中に甲斐を尋ねてきたのは理由があるからなのだ。
 数歩、歩いただけで甲斐が目ざとく玲を見つけた。
「玲っ!」
 拗ねているのではなかったのか。心の中で瑞紀に皮肉を言いながら、仔犬のように自分の方へかけてくる大人のはずの少年を玲は見つめた。

 スタッフがいるのでさすがに抱き着いては来なかったが、まさにその勢いで甲斐は近づいてきた。目の前に立てば、小柄な玲などすっぽり隠れてしまうほどの長身である。
「来てくれたんだ」
 まるで参観日の母親を待ちかねるように目を輝かされれば、玲も多少良心が痛んだ。瑞紀や慶の現場を見る回数に比べれば、甲斐のもとを訪れる数は少ない。それは要するに、普段の甲斐の仕事が玲には経験のないファッション界の仕事だからと言うことでもあるし、仕事に関しては間違いない甲斐への信頼でもある。
 だがその一部分は、このあからさまな甲斐の態度にある。体中で『玲が好き』だと言っている。最初の頃こそ、誤魔化しや宣伝にも使えたが、いい加減それも通じなくなっていた。
 それでも本人は周りに何と思われようと構わない。本当に玲のことが好きなのだろう。その気持ちを疑ったことはないが、困っていることではある。もちろん玲には捨てられぬ思いがあるというのも一因だが、はっきり言ってそれ以外にも大いに原因があった。
 玲は自分の性格を自分で把握しているつもりだった。基本的に自分のことを恋愛には向かない体質だと思っている。他人には心を開かないことが多いし、他人との時間より自分の時間が大事だった。
 徹とのことは特別だと思っている。彼とはあまりに共有する時間や思いが多すぎた。彼への思いも男女のそれよりは少し複雑だと玲は思っている。
 だから玲は誰かを愛することがほとんどなかった。愛情は今までもほとんどが与えられ、それを受け止めてきたに過ぎない。だからそれを理解できぬ相手はことごとく切り捨ててきた。
 彼女が業界では擦り寄る男を相手にしないという評判が立つのはそのせいで、逆に相手が頻繁に変わるという噂も嘘ではない。男の友人は多いし、玲の酷く偏った生き方を理解する男とはそれなりの関係を結んできたからだ。
 今も昔も玲が固執して自分を譲る相手は徹だけで、それ以外の男はいつ切れてもいいから付き合っているといっても過言ではない。実際そういう付き合いを重ねてきた。
 だが、甲斐達をその仲間に引き入れるわけにはいかないし、もちろんそのつもりもない。だから出来れば距離を置いて付き会いたいと思っているのだが、最初の部分で間違えてしまった今では、修正できぬ時間の流れを持て余す玲なのであった。男と女の関係になるなど、玲の計算にはなかった。
なのに甲斐と瑞紀は予想外の形で玲に関わってきたのだ。

「お疲れさま」
 玲は微笑んでそんな甲斐を迎えた。けして甲斐が嫌いなわけではない。むしろその反対なのだ。けれど甲斐を男として見ているわけではない。むしろ保護者の気分なのだから、自分のような女にいつまでもまとわりつかないで優しい恋人を見つければいいのにと思う。自分はけして優しい人間ではないから。
「玲、遅くまで疲れなかった?」
 玲がけして自分で掛けない優しい言葉を掛けてくるのも甲斐の方だった。
「大丈夫よ、明日は?早いの?」
「ん?普通かな?九時入りだよ」
「早くはないわね。食事でもする?」
「ん~腹も減ったんだけどさ。玲の部屋に帰りたいな。少し疲れちゃった」
 笑顔で答える甲斐に、
「なんだか機嫌悪いって聞いたんだけど、そんな事なさそうね」
 嫌味も込めて玲は甲斐をからかった。
「誰だよ、んなこと言ったの……って、瑞紀しか居ないか」
 少しふくれた顔を見せる甲斐は本来の年齢よりもやはり子供にみえた。
「言われたわよ~あんたが機嫌が悪いのは私のせいみたいに言われて……」
 もう五年以上、こんな付き合いを続けている玲にとってはいつもと変わりない会話だった。言われる甲斐の方も笑いかえすその背の向こうに、ふと感じるものがあって目線をやった。
 玲の目に映ったのはじっとこちらを見詰める人影だった。後片付けにざわめくスタッフの間でじっとこちらを見ていたのは、甲斐と共演しているあの少女だった。じっと見つめるその目は、甲斐を見ているのか……それとも。
 気にはなったが、玲にも予定というものがある。悪いが今は甲斐以外のことに気を配ってる余裕はなかった。
「仕方ないわね、特別よ。夜食は作ってあげるわ」
 玲の言葉に
「やった!サンキュ」
 甲斐は調子に乗ったまま玲の頬にチュッ、と軽いキスをする。
「こら、いい加減にしなさいっ!」
 玲はまた母親のように小言を言わなければならず、周りのスタッフが見ない振りをしてくれることに感謝しながら甲斐の頭をたたいた。
(瑞紀……この男、どうにかしなさいよ……)
 もう一人のしたたかな男の顔を思い浮かべて玲はため息を付いた。

 マンションに帰宅する。ここで二人になるのはずいぶんと久しぶりかもしれなかった。甲斐は辺りを見回すように伺った。
 最近ここで皆と顔を合わせることは少ない。最近はvisionの活動も個人で活動することが多く、年に数回のライブを除けば、同じく年に数回の歌番組程度。レギュラーの番組を三人で持つ話も出ているのだが、なにせ三人とも忙しくなってしまった今では新しいレギュラーを始める話さえ立ち消えになってしまった。
 正直淋しいと思う。
 小さな子供が思う寂しさとは少し違うのかもしれないが、まだたいして売れなかった頃にいつも瑞紀や慶と遊び回っていたことや、玲と知り合ってここで四人、いつも食事をしていた頃が懐かしい。
 ずっと居着くなといつも言われて、それでもずるずると何日もここへ通ってきては、みんなで笑いあった。あのころは確かに明日の不安はあった。売れないまま終わっていくのかと、悔しさに泣いたこともあった。今はそんなことはなにもない。息付く暇もないほどの忙しさ。国内はもとより、海外でも仕事をする甲斐はなおさらだった。
 しかし……その分失った物も大きいと最近の甲斐は思うのだ。瑞紀や慶と馬鹿な話で盛り上がることも少なくなった。時間が無いのだ。雑誌やテレビの取材で三人そろっても、誰かの仕事がつかえていてゆっくり話す暇もない。もちろん三人で遊ぶなど、滅多に休日さえそろった試しはなかった。
 他にも遊び相手がいないわけではない。女にも不自由はしない。けれども子供の時から連んでいる瑞紀や慶との仲は特別だったし、玲への気持ちも特別だと甲斐は思っている。
 初めて会ったときから惹かれていた。正確には二度目に会ったときなのだが、あのとき自分の話にじっと耳を傾けてくれた彼女を見たときから好きになっていた。あとで瑞紀に、玲と巡り会えたのは甲斐のおかげだと感謝されたときも誇らしかった。
 夢中で好きになり、好きになれば自分の気持ちを隠すことなどできない甲斐は、自分の気持ちを玲にぶつけた。言葉で拒否はされたものの、体は受け入れてくれた。そのときはそれで充分だと思った。
 それだけでも半分は受け入れてくれたとあのときは思ったのだ。そう思った自分は子供だった。まだなにも知らなかった。大人の恋も知らなければ、玲という人間もよく知らなかった。
 おかげで甲斐は酷いしっぺ返しにあう。
 "体しかあげられない"そう言った玲に、"それでいい"と言ってしまった。それがどんな意味かもよく考えずに。
 それ以来、玲の心の扉はどんなに甲斐がたたいても開いてはくれない。甲斐はいつも扉の前に佇んでる子供と一緒だった。好きだと叫んでも扉は開かなかった。でもそれを開けてくれとは言えない。なぜならそれでいいとあのとき答えてしまったのは甲斐自身なのだから。
 それ以来、甲斐の気持ちは行き場を失っている。わかっているのだ。玲が誰を好きなのか、永遠に甲斐のことなど振り向いてもらえないことも。
 それでも好きなのだ。この気持ちは止められない。そしてその反動なのか、手当たり次第に誘われるまま女との噂は増えていった。けれど誰一人、この気持ちの飢えを満たしてはくれなかった。

 出された夜食に甲斐は微笑む。トマトソースのパスタは初めて言葉を交わした日に二人で食べた物だった。偶然二人の好物は一致していた。
 けれど夜中のこの時間に食べるのは甲斐一人。食の細い玲が夜食まで食べるわけもなく、けれど滅多に料理をしない玲が甲斐のためだけに作ってくれたのも事実だった。
「おいしい?」
 母親のような顔をして尋ねる玲に
「うん」
 甲斐は素直に答える。
 考えなしだと直情型の自分のことを瑞紀も玲も叱るが、またそこがいいところなのだと誉めてくれたりもする。甲斐は自分の性格が嫌いではない。裏表を作るのは嫌いだし、自分にはできない。このままの自分が受け入れてもらえないのなら、それはそれで仕方ないと思っている。
 正直すぎて傷つくことも多いが、不思議と裏切られることは少なかった。自分の手持ちのカードはすべて曝してしまうと言うのが甲斐の生き方だった。
 玲は自分と甲斐の食後のためにコーヒーを入れていた。普段はブラックの彼女だが、遅い時間と甲斐の食後のデザートの意味も込めてミルクのたくさん入ったカフェオレになっている。その母親然とした振る舞いに甲斐は一瞬、自分は彼女に母を求めているのかと思った。
 だが違うと思う。母親のような彼女は嫌いではないが、母親のいない慶とは違って甲斐はマザコンではない。ならば彼女のなにに惹かれているのだろう。珍しく甲斐は自分の感情の起伏を追っていた。

 二人は他愛もないことを話した。忙しくてこうして話したことなどいつだったか。それ以前も体を重ねてはいても、ゆっくり話などしていなかった気がする。玲は嫌な顔もせず、いま甲斐が撮影しているドラマの話を聞いてくれた。おもしろいNGのことや、ちょっとした現場の不満。誰にでも言えることではなくて、でも玲になら何でも話せる。
「しんどいの?」
 玲は甲斐の言葉の数々をそんな言葉で聞き返した。心配そうな顔で尋ねる。
「そうでもないよ。確かに慣れない現場だけど嫌いじゃないし、不愉快でもない。それに瑞紀や慶だってやってるんだからさ、どうってことない」
「そう」
 安心したように玲は言った。
「ならいいの。でも無理してるなら……」
「そんなことはないよ。そうじゃなくて……」
 甲斐は言いよどむ。そんなことは問題じゃない。仕事のことは大変でも当たり前。ありがたいと思っているくらいで、新しいことができるのはこの上なく幸せだ。けれど、この淋しさは埋められない。それをどうしたらいいのかもわからない。
 今日も甲斐はそれを玲に伝えられない。うまい言葉が見つからない。そして今更、それが欲しいとは言えない。代わりに出てきた言葉は……
「あいつとまだ続いてるの?」
 一瞬穏やかに微笑んでいた玲の顔が無表情になる。甲斐は自分が失敗したことを悟った。玲は自分に踏み込まれることを極端に嫌う。
 以前、瑞紀のことでさえ鬱陶しがって大崎の家へ逃げ込んだくらいなのだ。その次の言葉が告げられない。甲斐は思う。自分はこんなに臆病な男だったろうか?と。
「誰のことを言ってるの?瑛のこと?」
 甲斐が言葉を飲み込んでも玲が代わりに自分で答える。けれどその声が甲斐を拒否していた。
「仲、いいよねアイツと」
 甲斐はそれだけを言った。フッと玲は息を継いで、
「瑛は友達なの。なにを思ったのか知らないけど、甲斐が思ってるのとは違うのよ」
 その顔はやはりさっきと同じ母親の顔だった。わがままを言う息子の言葉に言い聞かせる母親の声に似ていた。違う、と甲斐は漠然と思う。さっきまで心地よかったはずのそれが、今はすごく不愉快だった。
「だったらいいよな」
 え?と言う顔で見返す玲の顔もろくに見ないまま、腕を引っ張り寝室へ連れ込む。
「ちょっと待ちなさい、待って……」
 その科白はどこかで聞いたことがあると思った。玲を強引にベットに押し倒しながら、あぁと甲斐は思った。それは前回ここを訪れたときにも、玲の唇から零れた言葉だったのだ。
 そしてあのバーでも。同じデジャブに付きまとわれながら甲斐は思う。やはり今日も自分は扉の前でなにも言えずに佇んでいる子供なのだと。
 そのとき、
『おまえはいつまでそうやってガキのまんまでいるんだよ』
 怒ったような瑞紀の顔が頭に浮かんだ。

 夜明けの気配に甲斐は目覚めた。
 傍らの人間は死んだように眠っていた。それでも彼女を傷つけるような抱き方をしたことはない。愛してるから。それでも彼女の心は傷ついただろうか。それならいいと、どこかで思ってしまう。
 自分が彼女を傷つけられたらいいのに。でも彼女は傷つかない。徹のために傷つくことはあっても、それ以外のことで彼女が傷つくことなどあり得なかった。それは彼女と知り合ったこの五年間に学んだこと。
 散らばった自分の服を拾い、引きずってリビングへ出る。ダイニングも明かりがついたまま、数時間前の表情をしている。飲みきれなかったカフェオレが冷めたままテーブルに残されていた。
 タイミングを逃したそれは、もうまずくて飲めた物ではない。出来立てはあんなに美味しそうで優しかったのに。
 ふと心が痛いと甲斐は思った。昨日は淋しいと訴えていた心が今日は痛い。それは玲をあんな風に抱いてしまったからなのか。
「痛……い」
 声に出したとたんに泣きそうになる自分に気づき、あわてて目を擦る。サイドテーブルにいつもあるメモに『ごめんなさい……』と一言だけ走り書きをして甲斐は部屋を後にした。

 午前中に予定していたドラマのロケを終えた甲斐は、夕方から他のテレビ局のスタジオに入る。久しぶりに瑞紀と慶が居た。瑞紀は相変わらずで慶は、
「おまえまた背が伸びたか?」
 年が下と言うことを除いても慶の成長は遅く、いつまでも少年のようで痩せて小柄だった。それが二十歳の少し前から背が伸びて、成長期はとうに終わったはずの成人した今でも止まることをやめない。
「いくらなんでも……もう伸びないよ」
 おとなしい慶は小さな頃は瑞紀にべったりで、甲斐にはなかなか懐かなかった。それが悔しくていじめたりもしたことが懐かしい。
 さすがに今は甲斐を怖がることもなくなった。それでも百七十センチにやっと届く身長になった慶をかまいながら、気づかれぬようにそっとため息を付いた。玲はあれからどうしただろうか。
「どうした?夕べは楽しかったんじゃないのか?」
 玲をけしかけた張本人は涼しい顔で甲斐を伺う。同い年のこの悪友はどうしたことか、幼い頃から大人びて人の気持ちを見抜くのがうまかった。快活で屈託のない甲斐はリーダーに見られがちだが、本質のところで瑞紀に勝った試しはない。
 それを悔しいと思った少年時代も確かに存在するのだが、いまでは瑞紀と張り合うことさえ馬鹿らしいと思ってしまう。
「行っただろう?玲が」
 なにをどうけしかけるのか知らないが、あの玲と五分に渡り合えるのは瑞紀くらいだ。
「おまえさぁ……」
 言いかけて甲斐は黙る。いま言い出そうとした言葉に自分で驚いたからだった。
「なに」
 思わず聞きそうになっていた。『おまえは玲を欲しいと思ったことはないの?』さすがの甲斐もそれは馬鹿正直すぎると自重した。そんなことを言っても瑞紀に笑われるだけだ。
 この男はそんなへまはしない。いつだって冷静で世渡り上手なやつなのだ。けして冷たいわけではないが、そう言うところが玲に似ていると誰もが思うだろう。
「俺さ、もうだめかも……」
 逆に自分でも予想しない弱気な言葉が漏れた。さすがの親友も唖然としてみていた。慶は……息をのんで甲斐を見つめていた。
「何かやらかしたのか」
 それでも瑞紀が自分を取り戻すのは早い。
「俺は、会えば玲を困らせることばかりしてる」
「今更だな」
 甲斐の言葉を一刀のもとに瑞紀は切り捨てた。本当にヤナ奴だ。甲斐は口にしたことを後悔した。だが同時にほっとしても居た。こんな弱気なことを愚痴ったのはいつ以来だろうか?瑞紀はそんな甲斐をとうに見透かした様子で
「おまえが悩むのも馬鹿らしい。おまえに心配されるほど玲は柔な女じゃないよ」
 まるで甲斐のプライドを引きずりおろすようなことを平気で言う瑞紀をにらめば、
「おまえが困った奴なのは、出会った頃から玲には百も承知だ。それにおまえがなにをしたって……」
「わかってるさ」
「なにを?」
「俺ごときが玲を傷つけるなんてことがないことくらいわかってる。俺にそんな価値はない」
 最大級に卑下していった言葉を今度も瑞紀はあっさりと切り捨てた。
「それがわかってるならいい。おまえも思ってたほど馬鹿じゃなかったんだな」
「瑞紀ぃ……」
 慶が横から口を挟んだ。さすがに甲斐がかわいそうだと思ったらしい。
「ケイ」
 瑞紀に向き直られて慶が緊張した表情になる。
「おまえ、玲に好きだって言ったことあるか?」
 唐突な質問に慶が固まる。
「好きって、いつも言ってるよ」
 母親の居なかった慶は玲と出会ってからすっかり甘えた息子に成り下がっていた。
「そうじゃない、そう言う意味じゃない。わかるだろ?」
 瑞紀に言われて、
「ないけど」
 慶は正直に答えた。いままで一度もそんなことを瑞紀に聞かれたことはなかった。瑞紀や甲斐が玲といろいろあったことは知っている。けれど慶がそれを必要以上に問いただすことはなかったし、二人が慶に聞いてくることもなかった。
 小さな頃から年下の慶は二人に子供扱いで、慶もそれに慣れている。二人が慶に秘密を持っても慶は別にそれを不快だとも思わなかった。
「おまえの方が利口だな、けい」
 瑞紀に変な誉め方をされて慶は居心地が悪くなる。もとよりこの長兄代わりの瑞紀に隠し事ができるとは思っていない。
「おまえ玲が好きだよな。母親の代わりじゃなくて……抱きたいと思ったことあるだろ」
 瑞紀の爆弾発言に驚いたのは甲斐の方だった。
「けい……おまえ……」
甲斐の驚きの前に慶はすました顔で答えた。
「瑞紀……あんまり露骨に言わないでくれるかな」
 そこには子供の慶ではなく、一人前の『男』が居た。
「なんで『素振り』も見せないか甲斐に説明してやれよ」
「いやだよ、なんでそんなこと言わなくちゃいけないのさ」
「いつまでもこいつがわかんないから、おまえでもわかるってことを説明してやれ」
 瑞紀の命令でも慶には従えないこともある。
「やだね」
 珍しく強情にそう言いきって慶はそっぽを向いた。
「こいつ、猫かぶってたのか」
 甲斐が呆れたように呟く。
「それはちょっと違うな」
 瑞紀が代わりに答えて。
「猫かぶってるもなにも、玲も承知で気づかない振りしてるんだし、慶はそれをいいことに未だ彼女に子供っぽい振りでベタベタ甘えてやがる。全くどこでそんな知恵付けたんだか、こいつが俺らん中でいちばん質(タチ)が悪い」
 苦い顔で瑞紀が呟いた。慶は聞こえないふりで横を向いたままだったが、
「瑞紀っ!そういうのルール違反だよ」
 不満そうに食ってかかった。
「甲斐がなにしようと、なんで俺まで引っぱり出されるんだよ」
 珍しく本気で瑞紀に詰め寄る慶に、甲斐は横から慶の頭をはたいた。
「なにすんだよっ!」
 興奮のまま甲斐に向き直った慶は、
「だいたいなんだよ。甲斐も甲斐だよ。少しは分かれよっ!」
「なにがだよ!」
 売り言葉に買い言葉、止まらなくなった慶はそのまま甲斐にかみついた。
「抱いてもらってんだろ?なにが不満なんだよ!」
「抱いてもらっ……!? 抱いてもらってるって何だよ!!!」
「抱いてもらってるんだよ。なにが違うんだよ。それとも抱いてやってるとでも言うつもり?」
 小憎らしいほどに甲斐の弱点をついてくる慶は、さすが瑞紀が育てただけはある。
「甲斐はいい奴だよ、嘘は付かないし、裏切らないし。でもだからってそれが正しいとはかぎらないだろ。少しは周りの人間の気持ちも考えろよ。空気読めよ!甲斐が馬鹿正直になればなるほど、周りが振り回されて傷つくのがわかんないのかよっ!」
 慶にことごとく欠点を指摘されて甲斐は一言もなかった。瑞紀にはいつも言われてる。いつもぶつけられる言葉。慣れている。
 けれど……年下の慶にそれを言われたのは堪えた。一言も返せない。甲斐はなにも言わずに立ち上がると楽屋を出ていってしまった。パタン、と閉まったドアの音に慶はふと我に返る。
「瑞紀ぃ~~っ!!」
 二人の話を横で傍観していた瑞紀を慶は思いきり睨んだ。
 やられた。瑞紀の術中に見事填って甲斐にぶちまけてしまった。
「言い過ぎちゃったじゃないか」
「いいんだよ。たまには俺が言うよりもその方がいいときもある」
「甲斐……思い切りへこんじゃったよ」
すまなそうに言う慶に、
「だいじょうぶさ……おまえは気にすんな」
 慶の頭をぽん、と手のひらでたたいた瑞紀は甲斐の後を追うように部屋を出ていった。





3

 甲斐を探すのは簡単だった。
 甲斐はいつも一人になりたいと、スタジオの隅の暗がりに座り込んで、準備に右往左往するスタッフを眺めているのだ。一人になりたくても一人で居られない。一番寂しがりなのは甲斐だと瑞紀は知っている。
 スタッフは忙しく、はじっこで蹲る甲斐やその隣に腰を下ろした瑞紀を気にもとめない。
「慶はな、ガキのようであれでちゃんと計算してるんだよ。玲に対して自分がどんな立場で居れば問題がないか。それで居てちゃんと玲の気持ちも理解してるから、玲を困らせるようなことは言わない」
 甲斐は無言だった。瑞紀は甲斐を安心させるように続けた。
「玲はなにがあってもおまえを見捨てるようなまねはしないさ。おまえのこと大事にしてるから。それがおまえの望む形じゃなかったとしてもな」
 独り言を言うように瑞紀は呟いた。

 FAXから次々流れてくる紙を見つめながら玲は微笑んだ。レコーディングのたびに籠もるスタジオには久しぶりにショウの姿があった。
 次回の玲の新曲は瑞紀の映画の主題歌だが、この映画にはもう一つの目玉があった。それは映画の音楽を徹が担当していることである。
 瑞紀の役はピアノのシーンも多いために徹がピアノ曲を何曲か書き下ろし、さらにはじめてバイオリンなどの弦楽曲も含むオーケストラ並の演奏曲を作曲している。クラシックの世界に進もうとしていた徹だが、さすがにここまで本格的に作曲するのは初めてで、かなりの時間を費やしこれに挑んでいる。
 けれどいろいろな事情で日本にはいまだ戻ってきてはいない。作曲は向こうのスタジオで仕上げて、メールやFAXでやりとりをし、今回は向こうで音取りをしたデモテープを持ってショウだけが帰国した。
 その中には玲が歌う新曲のデモもある。これに玲が詞をつけて歌うことになっている。そちらはほぼ完成して、レコーディングも完成間近だった。テーマ曲の方は仕上がりがまだで、オーケストラの本録りとメインの曲を弾く徹のピアノを待つばかりだった。
「徹のピアノは向こうで録音するんでしょ」
「俺だけ帰国で悪かったね」
「そんなことないよ、徹も忙しいんでしょ」
 徹はこの仕事と平行して向こうで歌う自分の曲の創作に追われ、とても日本との行き来の時間がとれないのだった。
「無理して往復することないよ、夏に一度帰ってきたんだし」
 数ヶ月前、徹は数度目の帰国を果たしている。何ヶ月かに一度は帰ってくる徹は数日の休暇を過ごすと、観光客のようにまたニューヨークへ戻っていく。 
 それをもう淋しいとか思うようなことはなくなった。徹は徹で向こうの活動に忙しいし、玲もいろんな意味で忙しい今、自分たちの距離をそう遠いとは思わなくなっていた。
 この二年の間に玲も二度、向こうへ行っている。それは遠距離恋愛のように、緩やかでむしろ負担は少ない。切ない思いは抱いているものの、昔のことを思えばお互い自由なままに思っていられるだけでも幸せというものだった。お互いが相手を思うことに罪悪感を抱かなくて良いというのは実は初めてのことだった。
 いつもつまらない事情やら思いに邪魔をされて相手を思うことにすらいつも陰りがあった。それに比べれば今は優しく晴れやかな時間の流れだった。
 元々、最初から感じていたように男と女としての距離が縮まれば逆に上手くいかないのはわかっている。年齢だって若いとは言えない今は別に物理的な距離などどうと言うことはなかった。むしろ今までの中で一番いい関係と言える。
 男と女というよりは、古い友人として大事な仲間として失えない相手だと認識している。徹と玲の間には常識的な男女間のルールは存在しない。もっと生きるための根源に関わる存在なのだった。だからお互いに相変わらず適当な相手がいるのも無言の了承なのだ。いまの徹の相手が日本人なのか金髪の相手なのかは知らぬことだが。
「結構いい感じだろ?」
 デモテープを聴かせながらショウが言う。ショウも自慢なのだろう。
「がんばったね」
 徹の成果を玲はそんな言葉で表現した。初めてでここまでやるのはかなり大変だったはずだ。
「かなりね、がんばってたよ」
 側でそれを見ていたはずのショウが答えた。
「バイオリンとかはショウが手伝ったのでしょ」
 ショウはピアノもバイオリンも弾ける。音大出身のショウはなんでも器用だった。
「徹のピアノソロと、実はこれ俺なんだよね」
 いつもの柔らかな笑顔を浮かべてショウがピアノに被って聞こえるバイオリンの音をミキサーの音量を上げながら言う。
(あ……)
 音を聴いて玲はふわっと微笑った。
「たしかに……」
 徹のピアノの音とショウの弾くバイオリンの音はよく聞けば聴き分けられる。それくらい玲には馴染んだ音だった。
「すごい……」
 プロの音にも負けない。少なくともはじめ玲には聞き分けられなかった。
「けっこう必死になっちゃってさ、徹と二人で死ぬほど練習した」
 ショウは言葉とは裏腹に楽しそうにそう告げる。スタジオに籠もって必死になる二人が見えるようで、玲は頷いた。
「いい作品になるね」
 映像の出来と瑞紀の演技も気になるが、玲にとってはこの音楽もまた初めてづくしの勝負だった。
 瑞紀の演技も評価を得るだろうが、多分徹にとっても勝負だろう。歌い手としてではなく音楽家として飛躍するための一步だ。これが評価されれば神崎徹の音楽家としての評価が上がる。日本国内はもとより、それは今活動している向こうでの評価にも関係するだろう。とても大事な仕事だった。
「あたしもがんばる」
 スタジオで玲も気合いを入れ直した。ショウがその言葉を微笑んで聞いていた。

 ショウと別れて玲はホテルに戻った。甲斐とあんなことがあって、またあの部屋へ帰りたくなくなっている。
 そこへ来客があった。
 ゆとりのあるホテルの大きな部屋を横切り、相手を確認して玲はドアを開ける。いつでも大胆な男は珍しくあたりを気にして部屋へ入ってきた。
「なんかちょっとイケナイ気になるなぁ」
「なに言ってんだか」
 ふざけた男の科白に玲は言い返す。
「珍しいわね、相談なんて」
 男は高柳瑛だった。玲と瑛はどこでも目立つ。下手に食事でもしようものならいい話題を提供することになる。事務所で会うのが安全なのだが、あいにく二人とも都合が悪く、いっそのこと密室で……と言うことになった。
 もっとも独身の二人がどこで会おうと、記事に書かれる以外で別に困ることはないのだが。玲自身はこれでも瑛の相手に気を使っているつもりだった。瑛のことを疑うような人間ではないが、つまらない噂でも気分のいいものではないだろう。
「それでなんなの?」
 珍しい瑛の頼みに玲は耳を傾ける。
「誕生日なのさ」
 何かと思えば玲は優しく微笑んだ。瑛は恋人の誕生日に贈る品を聞きに来たらしい。
しかも今回は『特別』なんだそうだ。話を聞いて玲は納得した。
「いいわよ、一緒にみてあげるわ」
「サンキュ」
 ほっとした表情をする瑛は珍しい。
「まったく……恋人には甘いわね、あたりまえか」
「当たり前、玲だって好きな男の前ではそうだろう?」
「どうだか」
 玲は曖昧に微笑んだ。徹との間でどれだけ甘い時間があったかほとんど記憶にはない。やはり自分たちは恋人と言うよりは仕事を挟んでの『同士』と言う表現がぴったりだった。
「お、すげー」
 瑛が見つけたものを手にとって眺めた。
「もしかして徹さん?」
 玲が誇らしげに頷いた。瑛が手に取ったのは昼間スタジオでショウから説明されたオーケストラ曲の総譜だったのだ。瑛が見つけて手に取った厚い紙の束。それは今日ショウがスタジオで話していたオーケストラ曲のスコアだった。ファックスで送られていた変更が入る前の、ショウが持参してくれたこれは徹の手書きの原本だった。
 ピアノですべての曲を表しながらスコアリーディングする。そのテープも受け取った。その後、編曲者に色々な楽器のパートを任せることになっている。ただピアノとバイオリンの部分は徹とショウが二人で四苦八苦しながら完成させたと言うのは、さっき聞いたばかりだ。
 五線譜に書かれた楽譜はクラシック演奏者には見慣れたものだ。けれど今時は楽譜の読めるアイドルも少なく、中には歌詞しか記されていない譜面で歌う歌手も今時は珍しくもない。歌詞しか書いていないものを譜面と呼ぶかは知らないが。
 瑛も最初は譜面など読めずにすべて耳から覚えていた。今は愛すべきパートナーの影響で譜面も読めるし、作曲した譜面も起こせるようになった。
 玲と徹はもちろん譜面が読める。徹は当たり前だが、玲もこの業界に入ったときに徹やBlackRockのメンバー、大崎達の指導で、作曲も譜面できちんと起こすことが多かった。
 それでも今回のこれは、いかに徹といえど大変だったに違いないのだ。原譜はもちろん訂正が激しいもので、それ自体はもう用をなすことが出来ない有様だった。いわゆる下書きのようなものだ。当然公に使われるものは写譜をしたものが使われる。
 用無しの、ゴミ同然になった原譜をショウがわざわざ持ってきたのは玲のために他ならない。離れている場所で徹がひとつひとつ仕上げた軌跡。見慣れている徹の自筆の音符や記号、そして赤や青で記入された変更や訂正の文字。玲にとってそれがどういう意味なのか、価値なのか。
 ショウは知っているから持ってきたのだろう。徹も玲の手に渡るから、本来人に見せるべきではないそれを手放したのだろう。差し出しだされたそれを胸に抱きしめた玲を、ショウは優しい瞳で見つめていた。

「さすが徹さん、すげーな」
 瑛は感心したように譜面を見ていた。元は音楽を目指していたわけではない瑛だが、いまでは恋人の影響もあって自分で作る作業もこなす。ストレートに徹の努力の跡がわかるのだろう。
「あんまり見ないで」
「なんだよ、減るもんじゃないじゃないか。ケチだな。自分だけ独り占めかぁ?」
 からかうように瑛が言うそれへ
「違うのよ。本来人に見せるべきものじゃないの。わかるでしょ?これ完成品じゃないんだから」
「なるほどね」
 にやつく瑛に
「なによ」
 強気で睨むと
「ふ~ん、人に見せるべきものじゃないものをもらっちゃうんだ。やっぱり」
「やっぱりってなによ」
 意味ありげに笑う瑛に玲は心で舌打ちをする。しばらくからかわれるネタを提供してしまったようだった。
「まったく、ろくでもない男ね」
 呆れる玲に瑛は楽しそうな視線を送った。
「でもよかったじゃん」
「なにが」
「なかなか徹さん帰ってこないからさ、どうなってるのかと思ったけど久しぶりのコラボで楽しいでしょ」
「コラボねぇ……」
「帰ってくるんでしょ?」
「どうだか……」
「だってこれあの映画のでしょ?プローモーションとかあるじゃない」
「それどころじゃないと思うわよ」
 徹はこの仕事とスケジュールがくっついてまだツアーのスケジュールが残っている。日本と行き来している時間はないはずだった。
「彼は作品上げるのがぎりぎりなんじゃないかな」
「なんだそうなんだ」
「たぶんね」
 残念だとは思うが仕方がないとも思っている。
「それより買い物……いつにするの?」
「あ、そうだ。それでさ……」
 瑛の買い物につきあうなどなんの問題もなかった。少なくとも玲にとって何でもなかった。しかもこの買い物の件が瑛の恋人も公認のものだとなればなおさらである。だから気にもとめなかったこれが、のちのち事件の発端になるなど考えもしなかったのである。

 数日後。
 瑛と待ち合わせた玲は二人で有名な銀座の宝飾店を訪れた。そしてさらに数日後。そのときの写真が大きく週刊誌のグラビアを飾ることになった。しかもご丁寧に一週間前に瑛がホテルの部屋を訪ねた時の写真も掲載されていた。状況証拠は完璧だった。実情を知る人間は少ない。
 そして当事者の玲と瑛、そして事実を知る関係者は本当のことが言えない事情があったのだった。
「今更だわ」
 玲は覚悟を決めた。
「ほっときましょ」
「いいのか?」
 行く先々でのマスコミの攻撃にいささか疲れたような瑛の声に、
「そっちは?」
 淡々と玲が尋ねる。
「いや構わないけどさ」
「なら決まりね。わざわざ墓穴掘ること無いわ。一生かかったって私とあなたが結婚するなんてあり得ない。記者さんが待つと言うなら待ってもらいましょうよ。待ちぼうけ食うだけなんだから」
 意地悪そうに呟く玲はこの手の攻撃には慣れていた。
「あなたの大事なハニーは大丈夫なの?」
 からかうように玲が言うと、
「まぁ玲に悪かったって言ってた。それだけなんだけどさ」
「私のことは気にしなくていいわよ、べつに迷惑掛ける相手が居るわけじゃなし」
「徹さん、怒んねー?」
「馬鹿ね、本気にするわけないでしょ」
「そりゃそうだ」
 瑛は笑った。徹も瑛達カップルのことは知っている。
「私とあなたのこと知ってる人間なら、本気にしないわよ」
「だな」
 瑛はやっと重い息を吐いた。

 人の噂は七十五日と言う。
 実際この業界で長い玲はすでに経験済みだった。しかも噂事態に尾ひれが付くのは当たり前、火のないところに煙どころか、自分で火を付ける人間さえいる世界だ。マスコミが自分のメディアを売るためにはなんでもするように、中には自分のスキャンダルを自分で売るような人間さえいる。作品の宣伝に利用されることもあれば……と、いちいちまともに相手にしていられない。
 それでもそれで傷ついていた若い日もあったのだが、いまの玲にとってはすべてが『くだらない』の一言である。ゆえに誰にも弁明はしなかった。それよりも瑛の私生活には触れて欲しくない部分がある。むしろ自分と瑛がこういう形でマスコミを賑わすのは好都合かもしれなかった。

「いいのかねぇ……そんでもって俺なんかと居てさ」
 一ノ瀬湊はホテルの部屋のソファーに横になったまま雑誌を眺める。
「よしなさいよ、悪趣味な」
 玲が咎めたのは湊が眺めているのが自分と瑛の記事だったからだ。
「なんで俺じゃなくて、瑛とばっか噂になるわけ?」
「なによ、噂になりたいの?」
「そうじゃないけど、なんかムカつくじゃん」
「よくわからないわね」
 呆れたように言う玲に、
「どうせあなたにはわかりませんよ」と、湊は嫌味のように呟く。
「なんか俺、無視されてるみたいで気分良くないんだよね。だって瑛とはなんでもないのにここまで書かれて、俺とはもう何年になるよ」
「あのねぇ……あなたとだって別にずっと付き合ってるわけでもないでしょ?」
「書かれたのは二、三回だったかな……」
 さらに呟く湊に、
「派手に書かれたら、もうあなたとは終わりにするわよ」
 とどめを刺すと、
「わかったよ、別に書かれたいわけじゃないんだよ。面倒だし、そんなこと思ってるわけないだろ?けど男って言うのは変なメンツがあんだよ」
「馬鹿じゃない?」
 くだらなくて付き合ってられないと玲は思う。瑛はどこまで行っても友人でしかない。男女の感情がないから間違って寝ることもない。あちらも同じだろう。
 じゃぁ、数年のつきあいがあり、そこに男女の関係が混ざることもある湊とどこが違うのだろう?たぶん湊とも友人の関係は築ける。湊もそうだと思う。どこが違うか?たぶん湊には気にする大事な相手が居ないからだ。湊に大事な人間が出来たら二人の身体の関係は終わる。友人に戻るだけだ。では自分はどうなのだろう。自分はどこでその区別を付けるのか。
 徹との関係はほとんどプラトニックで、そのせいか昔からお互いに相手が居ても気にしなかった。おそらくものすごく歪な感情なのだ。完全に体と心が分離してしまっている。しかも互いにだ。
 もっとも身体を束縛する関係なら二人の恋は十代の時に終わっていた。それがなかったから未だに続いている想い。断ち切れないそれがいいのか悪いのか、もう玲は考えることを放棄している。
 一時は思ったのだ。すべてが手に入らないなら、いらない、と。だからこそいったんは別れた。でも自分と徹は半身がすでに結ばれたままだと気づいてしまった。そのことを認めたからこそのいまの平穏なのだ。けれど気持ちが結ばれても身体は離れたままだ。
 他の誰か一人を求めることはないが、不特定多数を求めることには慣れてしまっている。そこに罪悪感もなければ、疚しさもない。玲が気にするのは一点。相手に大事な人がいるか居ないか。それだけなのだ。誰かを傷つけるのは嫌だから。お互いがフリーな関係なら枷はない。
 だが玲は気づいていない。相手の恋人ばかり気にしているが、自分の相手自身には少しも容赦がなかった。自分が割り切れるからといって、相手もそうとは限らない。でも玲の割り切った考えはこうはじき出す。最初から納得ずくだった関係はお互い様だと。
 そこに絡む感情の複雑さには頓着しない。玲の感情が細やかになるのは徹に対してだけなのだ。他の人間に対しては非常にドライだった。
「瑛に会っても絡まないでよ」
 湊は浅はかな人間ではない。玲の情事は芸能界では知る人ぞ知る事である。徹もそうだったが、玲の恋愛も派手だとも思われている。だが実際にはそれほどでもないのだ。大崎をはじめ、ただその相手が目立つのだ。
 容姿端麗、才能もあって頭のいい……と形容詞が続いていく相手がほとんどで、だから数人のその相手達がかなり目立つ。そして中には瑛のように純粋に男友達も多く存在する。湊も多聞に洩れない相手だった。容姿端麗は意識してのことではない。けれど、才能と頭の良さは選ぶとき、かなりの比重を占める。
 玲ははっきり言って頭の悪い男は嫌いなのだ。自分たちの状況も冷静に判断できぬ男ほど信用ならないものはない。ましてやこういう仕事をしているのだ。だから同じ仕事仲間の湊が瑛にまずいことを言うことはあり得ない。それでも念を押す慎重さを玲は持ち合わせていた。
「これだけ付き合っても信用ないのかねぇ」
「そう言うわけじゃぁ……」
 湊は冗談半分、本気半分で皮肉を言う。玲が人を信用しないのは有名だ。彼女の信望者なら誰でも知っている。あれだけ彼女に尽くしている仲間さえ、彼女はどこまで信用しているのか怪しいものだと当人達も納得している。
 彼女の人間不信は重症だ。だが彼女を愛する人間ならそれは十分承知している。納得しているかは別だが、承知はしている。承知の上でこうやって付き合っているのだから仕方がない。湊が付く溜息を玲は気づかぬ振りで無視を決め込んだ。

 湊が彼女に惚れ込んだのは直に彼女を知ってからだった。アイドル時代の彼女を知るには湊は少々若かった。湊は玲よりも六歳年下である。いまでは大した年齢差ではないが、彼女がデビューしたときはまだ八歳の子供であった。彼女の最初の引退騒動のときでさえまだ十三歳。この世界に入るまでは彼女に対してさほど印象はなかったと言って良い。
 湊は元々歌手志望で田舎から上京した。地元では容姿も歌唱力もなかなか良いと、人気もあったしアマチュアにしては破格の数のライブ経験もしていた。よくある話だが、地元ではちょっとしたプロ並みだったのだ。
 地元で世話になった人の紹介でA・E(アカデミック・エンターテイメント)のオーディションを受けた。受かったところまでは順調だった。デビューもわりと早かったと思う。だがその後が問題で、まったく売れなかったのだ。
 容姿が良くてちょっと歌のうまい歌手ならこの世界には掃いて捨てるほどいる。箸にも棒にも引っかからない。きっとそんな感じだったのだろう。
 二十歳で上京して数年は存在も余り知られていなかった。そのまま田舎へ帰るしかない湊に転機が訪れたのはドラマへの出演だった。俳優になるなど全然考えていなかったのに、食べていくためには仕方なく端役を引き受けた。そしてその後、湊は方向転換をせざるを得なかった。
 端役にもかかわらず、湊に対する問い合わせが殺到し、すぐに次の仕事が決まったからだった。その後二年ほどで湊の存在は若者なら知らぬものはなくなったが、皮肉なもので湊が本当は歌手だと知るものはその半分も居たかどうか。
 もっと皮肉だったのはラジオの番組を引き受けてからは湊の声がいいと、さらに人気が上がったことだった。歌手のつもりの湊には面白くない結果ではあったが、そうなると出した歌の方も人気が出てあっという間にミリオンも出せる歌手になった。
 この世界の不思議さである。
 俳優をやる前といまの湊と、別に変わったところはないのに、世間の認知度は百八十度変わった。以前落ち込んでいた湊に、やりたいことがあるなら環境を整えるべきだとアドバイスをくれたのが玲だった。歌がやりたいならとりあえず人気を保て。人気があればなんでも出来る。そんなふうに玲は言った。
 同じ事務所に所属はしていても『葉月怜』は別格である。神崎徹と並んで、他のタレントとは違い、社長自ら指揮をとってマネージメントしている歌手である。接点はほとんどなかったのだが、録音スタジオなどですれ違ったり面識はあった。
 どこで湊の悩みを聞きつけたのかは知らないが、ロビーで休憩が一緒になったときにそう言われた。以来、たまに相談と言うほどではないにしろ話をするようになり、気づけば身体の関係もできていた。
 だが何年経ってもそこに馴れ合いとか、生臭い感情がわかないのはどうしてだろう。
正直、湊にとっての女は玲ひとりではない。だからこそわかるのだが、彼女は不思議な人だった。いまだにつかみ所がない。
 わかることと言えば、彼女の中にはずっとひとりの人間が住んでいて、他の人間は入り込めないと言うことだけ。無理に入ろうとすれば、彼女から二度と声も掛けてもらえないだろう。無理強いする人間は男であれ女であれ、たとえ目上の人間でも彼女に切り捨てられる。
 彼女の方が捨てられることは絶対にない。なぜなら彼女の方は絶対に他の人間を求めないからだ。そう言う彼女を理解する人間だけが、彼女の側にいられる。友人関係もしかり。
 湊は思う。身体の関係など彼女にとって何の意味もない。友人も情人も彼女にとって大差はない。それはどちらも大切なのではなく、どちらも彼女にとって大した意味はないのだ。彼女は本当のところ誰も必要としていない。神崎徹、彼以外は。
 そんな扱いにも関わらず、彼女とこうしているのはなぜだろう。彼女には惹きつけられる。それがプラスの思考ならいいのだが、おそらくそうではない。彼女の中の昏い部分に引き寄せられる。やっかいだと思いながら、彼女から目が離せないのが実情だろう。
 そこには情人も友人も境はない。彼女に言わせれば、すべてひっくるめて『仲間』なのだ。彼女を真の意味で理解して支えようとする者達は彼女のブレーンになり、仲間になる。彼女が必要だと理解する前に、周りの方がつい先に手を出してしまう。彼女という人を知ると、何とかならないかと足掻いてしまうのだ。
 高柳瑛はやはり同じ事務所で、俳優兼歌手と言う立場から湊とはライバルと見られがちだが、当人達はそうではない。瑛は元々モデル出身であり、湊のように望んで歌手になったわけでもない。彼は櫻井社長が見つけて育てた歌手だ。
 ただ似ていると言えば、望んだ訳でもないのにお互い本業ではない違う仕事をしているところか。だがそれさえも根本的には俳優業に対する思いとか認識は違うに違いない。瑛はどちらかというと周りが仕事を選んでさせている。『高柳瑛』と言うブランドを周りが作り上げているのだ。そして彼はその期待に充分応えるだけの努力と才能を持っていた。
 湊は違う。自分のやりたいことを自分で選んでやっていた。歌がうまくいった今でもたまに芝居をしているのは、芝居のおもしろさに気づいてきたことと、演じることが歌に通じるものがあると気づいたからだった。
 それについても以前、玲が面白いことを言っていた。なぜ玲は余り芝居をしないのかと尋ねたら。『私は歌うときに充分演じているからいいの。芝居もできないわけじゃないけれど、映画や舞台は持続させる体力が私にはないから。三分の歌の中で、充分表現できるからそれでいいのよ』
 彼女の中では二時間、三時間の映画や舞台も、たった三分の詞の世界も余り違いはないらしい。自分の言いたいことが伝えられれば、それでかまわないのだろう。むしろ湊はたった三分で伝えられると言い切った彼女に感心した。
 それ以来、湊は芝居にも真剣に取り組んでいる。なぜなら、湊にはまだ三分で伝えられると、自信を持って言い切ることが出来ないからだった。
「不思議な女……」
 理解仕切れないから今でも湊は彼女の側にいる。近くで彼女を見ていたいとそう思うのだ。






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