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「揺籃期の終わり -ふみふみこを語る- 」朱堀裡乃進

揺籃期の終わり -ふみふみこを語る-


 処女作品集、である。
 そこまではいい。誰だって最初は初めてだ。しかしそのタイトルが『女の穴』で表紙にはスカートをたくし上げる女子高生が描かれている、とくればもうそれは看過できない。
 どだいこういうのは引っかかった方が悪いと決まっている。仕方ないな、と『女の穴』を手に取ると数冊の本と共にレジに持って行き、私はこう言った――「それだけカバーお願いします」。
 あまりに直球な表紙につい中学生のようなことをしてしまったが、兎にも角にも『女の穴』は我が家にやってきた。それから1時間後、そこには半勃起し「ふみふみこ」という名前を深く記憶に刻み付けた男が一人。
 多少脚色してあるものの(実際は6割5分勃起していた)、これが私とふみふみことの出会いであった。
 ゆるふわキュートな絵柄が織り成すストーリーは捉えようのない夢まぼろしのようでいて、確たる腥さを孕んでいた。それは現実でも虚構でもない「どこか」に属していた。
 もしあなたがおとなならば、その場所を知っているだろう。そう、そこは「繭」だ。揺籃期が過ぎ行かんとする時に自らを覆ったあれだ。ふみふみこは既に押し破ったその繭の糸をそっと織り込み物語を紡ぐのだ。
 この文章を書いている2012年11月末現在「ふみふみこ」単体名義の単行本は3冊が刊行されているが、そのうちのひとつは最早その事を隠す気もない――『ぼくらのへんたい』だ。
 まさしくふみふみこが描くのは『へんたい』であり、作品の中には様々な形でそれが顕れる。『へんたい』という言葉にも様々な意味があるが、今回はmetamorphosisとしての在り様について見てみよう。


 ふみふみこ作品においてたびたび登場するのが『幻想との対話』だ。
 それらは般若であったり、自分の書いた漫画のキャラクターであったりする。無論それらは自らの意識との対話に他ならず、そこに顕れる意識は自分が目を向けたくないもの、即ち「影」だ。
 揺籃期とは言い換えればこの「影」から隔絶された時期である。光であふれた「繭」を破り自分に影があるという事実を受け入れたとき、人は自我というものを真に獲得するのだ。対話はそれそのものが『へんたい』なのである。
 一例として『女の鬼』を見てみよう。この物語の主人公である萩本小鳩は中年の古文教師、村田に恋をするが、その教師がゲイであるということを知り涙する。その前に「鬼」が現れる。
 小鳩はそれを「私」と認めている。しかしそれは客観的な理解であり真の意味でのそれではない。鬼の欲望の赴くままに振る舞い、必然として訪れる村田からの拒絶の果てに鬼の面を自らつけたときそれは果たされる。
 般若の面を被って見る幻想の中で繰り広げられるのは「繭」の破壊だ。村田に恋する原因であった「小鳩」という名前を褒められたときのこと、そこから般若が生まれるまでを追い、般若の面をつけたまま涙する小鳩の元へ豚の姿の村田が現れる。
 そこで語られる般若の意味は「最もつらく苦しい状態」であり、それを「呪い」と形容する。豚のキスでそれが解けたかに見えるが、夢から醒めてみるとそこにあるのはこぶという形で顕れた鬼の角であった。この夢を経て「鬼」は呪いから実態を持つ痛みへと変わったのだ。
 それからの全ては揺籃期の象徴たる「小鳩」との決別だ。髪を切り、想いを屈折せずに伝える。そして、その「想い」がいずれ薄れるやもしれぬという事を受け入れる。そこで繰り返されるのは「世界はこんなに大きいのよ」というフレーズであり、そこで生き抜くためには「鬼」でなくてはならないのだ。

 一方『さきくさの咲く頃』のそれは『女の鬼』と明確に趣を異にする。
 この一冊を語るにあたっては帯より三箇所を引用しよう――『レンズ越しに見ていた、いとこの暁生と恋仲になるが、なかなかうまく行かない』『また子供の頃のように、無邪気に笑いあえる日が来ることを望みながら』そして『夢のように終わる、三人の青春』。
 さて、これらから『女の鬼』との決定的な差異がお分かりだろうか。
 言うまでもなく「レンズ」は繭である。主人公である澄花は父親の遺品である双眼鏡でどこかを覗くのが趣味(引用はしなかったがこれも帯に書かれている)であり、その対象にいとこである暁生の家も入っている。
 そうして長年見つめ続けてきた暁生と付き合うことになる、ということ、それはつまり暁生自身ではなく澄花のアニムスと付き合うということである。
 ご存知でない方には、アニムスとは女性の中にある男性像とでも思っていただければよいだろう。幼なじみかついとこであっても、澄花と暁生の間には隔絶があった。それは澄花が自ら作り出したものであり、暁生を「レンズ越し」の存在、アニムスに留めるためである。
 しかし一度それが取り払われてしまえばそこにいるのは触れられて、くちづけられて、肌を重ねられる「人間」である。アニムス、即ち自分自身の姿を求める澄花とうまくいくはずはないのだ。
 そして訪れる別れの際、澄花は問いかけられるのだ――「俺をどうしたかってん」と。
 もちろん答えはアニムスとしてあってほしい、言い換えれば自分の理想と違わぬ存在になってほしいということである。しかし澄花はこのことに気付けない――否、認めない。繭の中では目を逸らさずにはいられないのだ。
 更に言えば、もうひとつ目を逸らさねばならぬ理由がある。実は澄花が持っているのはアニムスだけではない。その対となる理想の女性像、アニマをも所持しているのだ(ユングの定義ではアニマは「男性の中の女性像」であるが、これ以上に適切な言葉が見つからなかったためここではこれをアニマと呼ばせていただく)。
 それは暁生の双子の姉である千夏である。といっても、彼女は「レンズ越し」ではない。しかし澄花にとって容姿が端麗であり頭の出来も違う彼女はもはや「地続き」の存在として見られていない。言い換えればそこに「人格」を見出しておらず、その点において決定的にアニマなのである。
 友すらもアニマとして見てしまうというその構造は即ち真に友を持たぬということである。この事実もまた致命的なものであり常に目を逸らさねばならないほどだ。しかし千夏は自らがアニマであることを察しており、それが最後には跳ね返ってくることとなる。
 彼女が伸ばしていた髪を大学に入ってばっさりと切るという行為には「女性」の象徴である髪を失うことによりもはやアニマではない、という意思表示を見て取ることもできるだろう。
 その証拠に、高校を卒業して初めて千夏と会ったその晩、澄花の孕む矛盾が自ら描いた漫画のキャラクターとして目の前に現れるのだ。
 暁生――おそらくはアニムスと実態が半々の――を想いながらの自慰のさなか、全ての答えが告げられる。「ぜんぶぜんぶひとりよがりだから」と。
 それに「せやねん」とだけ答えたとき、澄花の繭はもう殆ど残っていない。しかし、揺籃期は終わるものに対して一切の手心を加えない。きらきらと光る糸の一筋も残さぬために、澄花は双眼鏡を手に『取らされる』。
 覗くそこに見えるのは暁生と千夏、澄花の慣れ親しんだ高校時代の姿をしたアニマとアニムスだ。今までと違う点は覗くだけではなく会話ができるようになっていること。
 もはや理想でいられなくなった二つに向けて澄花は「またあそぼうね」と声をかける。ひとりよがりな理想としてではなく、「子供の頃のように」一人の人間としての二人に向けて。
 そしてアニマとアニムスへは、こう。
 
 「もう 春も終わりやね」

 こうして物語とともにアニマとアニムスと澄花、三人の春は終わる。
 さて、始めの問いを覚えておいでだろうか――――いったい、『女の鬼』とこの物語はどう違うのか?
 賢明なる読者諸氏にはお分かりの方も多いと思うが、答えは「何かを得たか」だ。
 小鳩は鬼を自らの一部として得た。しかし澄花は双眼鏡を、アニマを、アニムスを、ただ捨てただけだ。
 アニマとアニムスはともにラテン語で「魂」を意味する。彼女の魂は欠落し、まだ埋められていない。その欠落は紛れもなく『へんたい』であるが、まだ終わってはいない。
 しかし物語として非常に美しく終わっているのは偏に作者の技量によるものであり、『青春の終わり』を描ききったからといえよう。


おわりに

 『へんたい』についての論考、いかがだっただろうか。
 本来であれば現在刊行されている3冊全てに触れるべきだったのだろうが、『ぼくらのへんたい』は初の続き物コミックスということもあり、登場人物たちの『へんたい』を今の段階で語ることは少々性急すぎると判断した次第である。何卒ご容赦願いたい。
 性急といえばそもそもこの原稿を書いている2012年11月よりふみふみこの単行本が3ヶ月連続で刊行される(12月に刊行される『そらいろのカニ』の発売日はこの雑誌の刊行日の翌日、12/24である)というのに、それを読まずして考察に走ったのも性急といえば性急であるといえるだろう。
 しかし、堪え性のない私には編集長から「漫画」という餌をぶら下げられてふみふみこの名を出さないという選択肢はなかったのだ――溢れんばかりの気持ちを押し殺すことなどとても!
 そんな気持ちだけが先走った拙文ながら、ふみふみこという作家の持つ世界と表現力の素晴らしさの一片でも伝えることが出来れば幸いである。そして、残りの塊はぜひ単行本を買ってあなた自身で感じていただきたい。