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まえがきのようなもの

みなさま、はじめまして。
もしくはお久しぶりです。佐原チハルです。

ブログ『旅の空でいつか』(http://atoznotabibito.blog82.fc2.com/)の中の人です。

「クリスマスの小さなプレゼント」のイメージで書きました。

なにかお気づきの点やご感想などございましたら、ご連絡くださると嬉しいです。
コメント・お気に入りなど頂けますと大喜びします。

それでは、次のページよりお楽しみください☆


プロローグ


 霙まじりの雨の中、「自分はつくづく運がいい」と旅人は思った。

 雪に閉ざされる直前の冬の山を越え、麓の森を抜けたあたりで一人の男に出会った。
 実直そうな気のいい男で、旅人が腹を空かせ足を怪我していることを伝えると彼は、数日続くであろう雨がやむまで、自分の家に泊めてやろうと申し出てくれたのだ。
 旅人が事前に仕入れていた情報では、麓の森から一番近くの集落まで、歩いて三日程の距離がある。こんな人里離れたあたりに住んでいる人間がいるなんて思ってもみなかった。ありがたい話だ。

 男には家族があった。妻と、性別の違う双子の姉弟との4人暮らしだ。
 提供できるような金品を旅人は持っていなかったので、冬越えのための家や納屋の修繕や、保存食の処理や家事を手伝った。家族の少ない蓄えからのものであるため食事は簡素だったが、どの料理も温かく、身に沁みた。

 食後に白湯を振る舞われた際、はじめ旅人のことは無視しようと思っていたのだと男が言った。
 こんな季節に山を越える危険をおかすだなんていかにも怪しいし、下手に関わって自分や家族に害が及んでは困ると考えたのだそうだ。もっともな考えだと旅人は思う。

「では、どうして声をかける気になってくれたんですか?」

 見た目のせいだと男は言った。これにも納得して、旅人は苦笑する。
 旅人の体つきは、よく「細長い」と形容される貧弱なものだし、色素が薄くつくられているせいか、他の人間たちよりも白い色をした肌や、ほとんど灰に近い青の瞳、乾燥させた枯藁のような毛髪は、いかにも弱そうだ。対して男は、山近くでの厳しい暮らしがそうさせたのか、がっしりと鍛えられた体格をしている。
 これだけの差があれば、もし旅人が悪人であっても「腕っ節で負けることはないだろう」と男は考えたのだった。
 男は続けた。

「あとは、匂いだな。旅人さんからは、水の匂いがする」

 山の恵みと言えば、木の実・山菜・きのこなどが思い浮かべられるものだが、もうひとつ大事なものがある。水だ。
 豊かな山は清浄な水をつくり、麓を潤す。山とともに暮らす男はそれをよく知っていた。だから「山の恩恵の匂いのする人間をほうっておくわけにはいかないと思った」のだそうだ。旅人は再び苦笑した。

「ねぇねぇ、旅人さん」

 弟と揃って三角座りをしていた双子の姉がたずねた。

「旅人さんは、どうして旅をしているの?」

「ぼくも知りたい!」と弟が言い、「そういえばそうねぇ」と母親が言った。男も興味深そうな視線を向けてくる。
 旅人は頷いて、自分の鞄から紙の束を取り出してみせた。
 今度は弟がたずねてくる。

「それ、なに?」

 覗き込みたそうな顔をしているけれど、母親がそれをとめていた。
 姉の方は行儀よく我慢している。

「これは“物語”だよ」

 4人ともが不思議そうな顔になった。

「僕の仕事は、“物語”を集めることなんです。
 訪れた先で見たことや体験したこと、聞いたことを、こうして集めているのです」

 子ども2人は瞳をキラキラとさせ、大人2人は「そんな仕事があるのか」と目を丸くした。
 母親にがっしりと押さえられている弟が再び口を開いた。

「旅人さんは、集めた物語をどうするの? それ、ぼくも聞いてみたい!」

 弟の言葉に、姉も何度も頷いてみせた。期待されている。
 しかし旅人は、素直に「いいよ」とこたえることができなかった。語って聞かせることが、できないわけではないのだけれど。
 旅人が少し困ったような表情になったのを、両親は見逃さなかった。

「そんなこと言ってねぇで、子どもはもう寝る時間だろ! さっさと寝支度しちまえ!」
「旅人さんは、旅をして疲れていて、怪我もしているの。わがままを言ってはだめよ?」

 両親にそろって言われて、双子はしぶしぶ頷いた。
 目配せと小さく頭を下げることだけで両親に礼を告げると旅人も、子どもたちがそうするのに合わせて寝支度に入ることにする。無謀ではなかったが決して楽でもなかった山越えで、疲れているのも事実だった。

 旅人に提供された寝床は、双子のそれのすぐ傍だった。火の脇を守るように位置取られている両親からは少しだけ距離がある。

 旅人は他の人間よりも低い体温をしていたが、それでも、横たえた身体の熱で寝具が温まって来た頃だ。
 つん、と後ろ髪がひかれた。

「?」

 振り返ると寝具から抜け出した双子がそこにいて、正座をして旅人を見つめていた。
 何かあったのかと旅人が声を出すより先に、双子は「しーっ」と人差し指を口にあてて、静かにしろと伝えてくる。
 子ども達の意図を汲んで、吐息に乗せるようにして旅人はたずねる。

「どうしたの」

「あのね、あのね、」と弟の方はもじもじしている。弟の方は少し人見知りがあるのだろうか。恥ずかしがっているような様子だ。
 冬用とはいえ布の薄い夜着のせいで、二人が風邪をひいてしまう心配を旅人が口にしようとすると、それよりも一瞬だけはやく、姉が言った。

「わたしたち、旅人さんのお話しがききたいの」
「ききたいんだ」と弟も続ける。

「疲れているのに、怪我もしているのに、ごめんなさい。
 でもね、わたしたち、うまれてからずぅっとここにいるの。
 他の人たちが住んでいる場所はとても遠いし、だから、他の場所のこと、あんまり知らないの」

「旅人さん、雨がやんだら、行っちゃうんでしょう?
 雨なんてあと2〜3日もしたらやんじゃうよ。
 だからね、ぼくたちやっぱり、いまのうちに旅人さんのお話聞いておかなきゃって、おもったの」

 双子は「おねがい!」と声をそろえて旅人に言う。
 どんな話聞きたいのかと尋ねてみれば、双子はクリスマスの話だと言った。
 クリスマスの深夜には、不思議な老人が大きな袋を抱えてやって来て、こっそりと、子ども達にプレゼントを置いて去って行くのだと言う。その話が聞きたいのだと。
 しかし旅人は、未だその老人に出会ったことがなかった。旅先でその老人に関わる逸話を聞いたことは多々あったが、いずれも今双子か語って聞かせてくれたものと大差ないものだ。
 旅人がそのように告げると、双子は「じゃあ、何かプレゼントとか、誰かがお願いを叶えてくれる話!」と言った。

「……」

 旅人は迷った。常であればこんな風に迷うこともなく、望まれれば様々な“物語”を聞かせて来ている。
 迷ったのは、双子が子どもであるせいだ。

 旅人が今までに集めてきた“物語”たちは、決して明るいものばかりではないのだ。むしろ明るさとは真逆のものばかりであるとすら言える。
 あの人のよさそうな両親にまっすぐに育てられてきたのだろうこの双子に、そうした“物語”を聞かせてしまってよいのだろうかと考えたのだ。
 けれど。

「「おねがい!」」

 ぷるぷると震えながらユニゾンした「おねがい」に、旅人は折れた。
 そもそも幼さを理由に「知りたい」という気持ちをないがしろにするなど理不尽な行いだし、あの両親に見守られ育てられたこの双子であれば、きっと受け止められるだろう。
 たとえ語ってすぐの後には無理であっても、いつか何かのきっかけで“物語”が記憶の中にかえってきたときには、きっと。
 “物語”とは、そういうものだ。

 旅人は笑って、2人に「いいよ」と頷いて見せた。
 風邪をひいてしまうことがやはり心配だったので、双子には寝具の中に入ってもらって、自分は起き出して外套をはおり、並んで横になる双子の枕元に座った。
 雨に濡れていた外套は、火の傍に広げておいたのですっかり乾いてくれている。

「あんまり夜更かししちゃうとよくないから、一晩でひとつずつだけだよ」

 双子は素直に頷いた。

「旅人さん、灯りはなくて大丈夫? あのたくさんの紙のやつ、見ながらじゃなくて大丈夫なの?」

 大丈夫だよ、と旅人も頷いた。
 あの紙の束にはたしかに今までに出会った”物語”を書き記しているけれど、それはあくまで念のためにしているだけの行為であって、実際は、集めた全ての”物語”は旅人の頭の中にすっかり記録されているのだ。
 旅人はそういう体質につくられているのだから。

 少しずれてかかっていた双子の毛布をあげて肩までかけてやると、数回静かに深呼吸をして。

 旅人は語り始めた。




青い鳥の話



 あるところに、不思議な青い鳥がいました。
 青い鳥はいろいろな願い事を叶えることができるので、青い鳥を手にした人間は、みんなしあわせになれると言われています。

 青い鳥はそのころ、一人の男に飼われていました。
 男はいろいろな人間に青い鳥を貸し出して、いろいろな人間をしあわせにしていました。青い鳥を貸し出すことで男はお金を手に入れていたので、この男もまたしあわせでした。
 青い鳥は、一度に一晩しか貸し出してもらえません。ですから青い鳥がくれるしあわせは一晩限りのものでしたが、人間たちはみんな、青い鳥を貸してもらいたがりました。

 青い鳥はたいそうな人気者だったのです。

***

「その鳥、ぼくもほしいなぁ」

 双子の弟が言うのに、姉も頷いてこたえた。

「わたしも、わたしも!」

 旅人がたずねる。「青い鳥を手に入れたら、ふたりはどうしたい?」

「ぼくは、とうさんがうんと大きな雉子をとれるようにしてもらう!
 もっとお腹いっぱい鍋が食べられるようになるんだ」

「わたしは、冬があまり寒くならないようにしてもらう!
 そうしたら冬でも木の実も山菜もとれるようになるし、母さんは凍ったみたいに冷たいお水で洗い物をしなくてすむようになるでしょう?」

 双子のこたえをきくと、旅人は笑って続きを語りだした。

***

 青い鳥には、いろいろなことができました。

 姿を自由に変えることができたので、今はもういない、懐かしい思い出の中の人物を「蘇らせる」ことができます。
 懐かしい人物に再び出会えた人間は、青い鳥のことも忘れ、素晴しい時間を過ごすことができました。

 怪我を綺麗に治すことができたので、ひどい怪我をした人間にはありがたがられました。醜い怪我のあとが美しい肌に戻り、痛みもすっかり消え去ります。
 怪我の治った人間たちは、青い鳥のことも忘れ、元気に動き回ることができました。

 青い鳥は恐れをとりのぞくことができました。何かひどいことをされたり、ひどい思い出に苛まれたりしている人間は、青い鳥にすがりつきました。
 恐れをとりさってもらった人間たちは、青い鳥のことも忘れ、安心して眠りにつくことができました。

 青い鳥は悲しみを取り除くこともできました。どうしようもない事故や事件や、通じることのなかった想いで悲しみのとまらない人間たちは、青い鳥に泣きつきました。
 悲しみをとりさってもらった人間たちは、青い鳥のことも忘れ、ふたたび笑顔をみせることができました。

 青い鳥は、怒りをとりのぞくこともできました。身の内におさえきれない怒りを抱えた人間たちは、青い鳥にそれをぶつけました。
 怒りを打ちのめすことのできた人間たちは、みな壮快な心持ちになり、青い鳥のことも忘れ、他の人間を害してしまうことや自分の感情が爆発してしまうことを心配せずに生活することができました。

 青い鳥は、寒さや飢えをしのがせることもできます。寒さに震えれば、青い鳥はむしり取った自らの羽で人間を包み込んでやり、その人間の身体をあたためてやりました。飢えに様々なものを奪われた人間には、自らの血肉を与え、その人間の喉を潤し、腹を満たしてやりました。
 寒さや飢えをしのげた人間たちは、青い鳥のことも忘れ、ぬくぬくとした心地になることができました。

 また青い鳥には、快楽をあたえることもできました。人間社会のルールの中では達することも得ることもできない快楽のために、それらを望む人間たちは、青い鳥を好きに扱いました。
 思い思いの快楽にふけることのできた人間たちは、青い鳥のことも忘れ、爽やかな朝を迎えることができました。

 青い鳥は平気でした。
 なぜなら青い鳥は不思議な鳥で、夜明けとともに、すっかり元の姿に戻ることができたからです。

 夜があけ、自分の持ち主である男に身をひかれ鳥籠の中に戻ると、青い鳥はいつもほっと息をついて、空を見上げます。

 青い鳥は空が好きでした。
 広く、大きく、自由な空は、自分と同じ色をしていました。錆びてがさがさになった籠の格子は触れれば羽が傷ついて痛みましたが、そんなことも気にせず、青い鳥は格子のギリギリまで身を乗り出して見上げます。格子の隙間から抜けるような空を見上げると、空に溶けるような心地を味わうことができるのです。まるで自分も、空の一部になれたような気持ちのよさでした。

 青い鳥は知っていました。果てのないようなあの空の向こうには、空の国があることを。
 空の国には、地上に生まれ来る前の全ての命が暮らしています。そこで全ての命は、必ず、ひとつ以上の役目を与えられるのです。空の国で与えられたその役目を持って、命は地上に降り立ちます。

 役目には様々なものがありました。
 しあわせな役目もたくさんありましたが、そうでないものもたくさんありました。愛おしい人を懐かしむ役目や、怪我の痛みに耐える役目や、恐れに眠りを脅かされる役目や、悲しみに枯れない涙を流す役目や、怒りに身を焼かせる役目や、寒さや飢えに震える役目や、満たすことのできない快楽を求めて苦しむ役目がありました。

 青い鳥に与えられたのは、人間をしあわせにする役目でした。誰かをしあわせにする、その役目のために、青い鳥の身体はありました。

 それを青い鳥はよく理解していました。
 だから平気でした。

***

 旅人の語りに姉が言った。

「青い鳥って、すごい。なんでもできるし、なんでも知っているのね。
 それに朝になれば元通りだなんて、とても便利」

 弟も言う。

「ぼくにも、青い鳥みたいな力があればいいのに。
 そうしたらぼくだって、たくさんの人たちをしあわせにすることができるんだもの」

 にこにことした様子の双子に、少し考えてから、旅人は言った。

「ふたりは、怪我をしたことはある?
 転んだり、誰かにぶたれたり殴られたりして、痛いおもいをしたことは?」

「あるよー」と双子は頷いた。

「わたしは、山で遊んでいて骨を折ってしまったことがあるの。
 しばらく歩くこともできなかった。
 母さんが“痛いの、痛いの、とんでけー”っておまじないをしてくれたけど、痛いのがなくなるまでには時間がかかったな」

「ぼくは、家の手伝いをさぼって、父さんにお尻をぶたれたことがあるよ。
 長い間ひりひりしていて、座るのが大変だったんだ。
 夜になってから父さんは痛み止めの薬を塗ってくれたけど、次の朝になってもまだちょっと痛かったよ」

 青い鳥みたいに不思議な力があったらよかったのに、と双子は声を揃えて言う。
 それらを聞いて頷いてから、旅人はふたたびたずねた。

「おまじないをしても、薬を塗っても、痛いのはすぐにはいなくならないよね。
 悲しいのも苦しいのも、それは一緒だ。
 ……じゃあ、青い鳥が消したそれらは、一体どこに行ってしまったのだと思う?」

 不思議そうな顔をして静かになった双子の様子を見て、旅人は語りを続けた。

***

 青い鳥にはいろいろなことができました。
 けれど、できないこともありました。

 愛おしい人を懐かしむ役目の人間には、愛おしい人の代わりになってあげることができました。
 代わりに青い鳥は、誰かに懐かしまれることができなくなりました。

 怪我の痛みに耐える役目の人間からは、痛みを取り除いてあげました。
 代わりに青い鳥は、その人間の痛みを味わうことになりました。

 恐れに眠りを脅かされる役目の人間からは、恐れを取り除いてあげました。
 代わりに青い鳥は、その人間の恐れを抱えることになりました。

 悲しみに枯れない涙を流す役目の人間からは、悲しみを取り除いてあげました。
 代わりに青い鳥は、その小さな瞳から流す涙だけでは足りないほどの悲しみを抱えることになりました。

 怒りに身を焼かせる役目の人間からは、怒りを取り除いてあげました。
 代わりに青い鳥は、決してどこにもぶつけることのできない怒りを抱えることになりました。

 寒さや飢えに震える役目の人間からは、それを取り除いてあげました。
 代わりに青い鳥は、寒さや飢えを抱えることになりました。

 満たすことのできない快楽を求めて苦しむ役目の人間には、快楽を与えてあげました。
 代わりに青い鳥は、心地よい感覚を味わうことができなくなりました。

 青い鳥は不思議な鳥で、その身体は人間をしあわせにする役目を持っていたので、夜明けが訪れれば、傷ついた身体はすっかり元に戻りましたが、それだけでした。
 与えればなくなり、引き受ければ抱えることしかできません。
 人間に与えてしまったので、「愛おしく思われること」や「懐かしく思い出されること」や「心地よさを感じること」が、青い鳥にはありませんでした。人間から取り去った「痛み」や「恐れ」や「悲しみ」や「怒り」や「飢え」や「寒さ」は、全て青い鳥の抱えるものになりました。

 青い鳥は人間をしあわせにすることができましたが、自分自身をしあわせにすることができなかったのです。
 それが青い鳥に与えられた役目でした。その役目のためだけに、青い鳥の身体はありました。
 青い鳥はそれをよくわかっていました。十分に理解していました。
 だから平気でした。
 平気だと、思っていました。

 けれど。

 青い鳥は寂しかったのです。
 誰かに愛おしく思われ、時には懐かしまれてみたいと思いました。
 痛かったし、
 怖かったし、
 悲しかったし、
 抱えた怒りを沈める方法を知りたかったし、
 寒さや飢えに震えるのは苦しいことだったし、
 心地よいという気持ちをいつか感じてみたいと思っていました。

 本当はずっと、そう思っていました。
 ちぎれてしまいそうなほどに強く、強く。
 けれどそうするための力を、青い鳥は持ってはいなかったのです。

 失い続け、抱え続けた青い鳥は、いつしか諦めを知りました。
 いつか死が訪れるその時まで、自分はきっとずっとこのままなのだろうと思っていました。与えられてしまった以上、役目は変わらないし、自分を変える力など自分にはないのだと知っていたからです。
 変わらない毎日が続いていくのだと、乾き固くなって行く心のうちで考えていました。

 けれどある日、青い鳥に変化が訪れました。
 それは寒い冬の朝のことでした。
 晴れた空は冷たく、そのぶん透き通るように高く広がっていたことを覚えています。

 青い鳥の持ち主である男のもとに、ひとりの子どもがあらわれました。
 上等な衣服に包まれて、耐えきれないような喪失感や、痛みや恐怖や悲しみや怒りや寒さや飢えとは無縁そうな、満たされた顔をした子どもでした。
 たいそうな金持ちの家の人間だろうと思われたその子どもに、持ち主の男は声をかけました。そして青い鳥がどれだけ不思議で、どれだけ人間をしあわせにする力を持っているのかを説明します。

 持ち主の男の話を、じっと聞いていた子どもは言いました。
「この青い鳥を買いたい」と。
 一晩だけ借りるのではなく、自分の手元に置いておきたいのだ、と。

 持ち主の男は驚き、迷いました。しかし購入のために子どもが提示した金額は、青い鳥を10年毎晩貸し出した時よりも大きな値段だったので、結局、持ち主の男は青い鳥を手放し、子どもに売り渡すことにしました。

 これも大した変化ではないだろうと青い鳥は思っていました。誰の元に行こうとも生まれ持った自分の役目が変わることはありませんし、役目から逃れるだけの力を自分が持っていないことは、もう十分に試してみて、知っていたからです。
 けれどその子どもがもたらしたのは、とても大きな変化でした。

 青い鳥には新しい鳥籠が与えられました。前の持ち主だった男に与えられたそれよりも広く、大きく、格子に触れても羽の傷つくことのないものでした。鳥籠の置かれた部屋はいつもあたたかく、喉を潤すのに十分な水と、青い鳥のことをよく考えられたエサが与えられました。
 奪われることとも渇望することとも無縁に育ったその子どもは、青い鳥に何も望みませんでした。望む必要がなかったためです。
 それまでに青い鳥が失ったものは失ったまま、抱えたものは抱えたままでしたが、それだけではありませんでした。何を望むこともなかったその子どもは、青い鳥が失ったものを少しずつ与えなおし、抱えたものがいつか抱えきれなくなって壊れてしまうことのないよう、丁寧に扱いました。

 何も望まれず、奪われず、負担させられることもなく穏やかに、青い鳥と子どもの生活は続きました。

 青い鳥は知りました。自分には自分をしあわせにする力はありませんでしたが、それなら、誰かにそれをしてもらえばよかったのです。
「人間をしあわせにする」役目をもった青い鳥は、自分が人間にしあわせにしてもらうだなんてことを、それまで思いつきもしなかったのです。

 子どもに買われて、青い鳥はしあわせを知りました。

***

 長いため息がふたつ聞こえた。双子の発したものだ。
 それまで息を詰めて旅人の語りを聞いていたらしく、胸を撫で下ろしているような様子だ。

「青い鳥、よかったね」

「青い鳥だけがしあわせになれないなんて、おかしいもんね」

 両親を起こさないようにと静かにひそめた声ながら、双子は喜びあっている。

 その様子は可愛らしく、喜んでもらえたことを旅人はとても嬉しく感じた。
 それでも言った。

「この話にはまだ、続きがあるんだよ」

 少し驚いたような表情で双子が視線を向けて来た。
 ここで話をやめてもいいのだと断ったうえで「続きを聞くかい?」と問いかけてみると、双子は目を見合わせて考えてから頷いた。

 旅人は語りを続けた。

***

 子どもは青い鳥を大切にしました。けれど時が経ち、たくさんの日々が過ぎて、子どもはやがて大人になりました。
 それまでにたくさんのことが起きました。
 子どもの両親が事故で亡くなり、親しみをもっていたはずの血縁者から騙されて子どもは、屋敷も、両親が残してくれたその他の財産も奪われました。
 着の身着のまま街に放り出された子どもは、慣れない仕事に手足を汚し荒れさせながらも、いくつもの仕事をみつけ、一生懸命に働きました。やっとありついた住処は不衛生な場所で、着ていた洋服は随分と前に売り払い、薄く祖末な布でつくられた上下を1着持っているばかりだったので、冬は寒く、夏は汗に汚れて匂っても、裸で過ごせる休日がなければ洗濯することもできません。食べ物はいつも不足し、翌日に不安を抱えない夜はありませんでした。

 それでも子どもは青い鳥を手放しませんでした。そして、何も願いませんでした。
 子どもは知っていたのです。人間をしあわせにする役目を持った青い鳥は、人間をしあわせにしたぶんだけ、自らを損なわせていたことを。

 子どものそんな様子が嬉しいと感じると同時に、青い鳥は悩みました。
 自分には子どもをしあわせにする力があり、その役目を持って生まれたのに、子どもが決して、それをさせてくれなかったからです。人間が願ってくれなければ、役目を持っていようと、どれだけの力を持っていようと、青い鳥には何もできません。
 青い鳥は自分のことを使ってくれるようにと、毎晩のように言いました。願うように祈るように乞いました。

 青い鳥と、かつて子どもだった青年との生活は何年も続きました。
 重い1日、1日を積み重ねた先で、ついに、青い鳥の願いが叶う日はやってきました。

 その年は夏の間も寒冷で、冬の厳しさはかつてない程のものでした。裕福な者たちでさえ生活に苦しみを覚え、そうでない者たちは命を繋ぐのに満足なだけの蓄えを持つことが困難で、貧しい者・病んでいた者たちは、ころころと命を落としていきました。
 青年はそれまで、休む間もない程にたくさんの仕事を抱えていましたが、その年はどれだけかけずり回っても、少しの仕事を探すこともできませんでした。
 ゴミ箱から漁れる食料も見つけられない、何も腹に入れられない日が何日も続いて、ついに青年は、青い鳥に助けを求めたのです。

 青い鳥は喜びました。これでやっと、青年をしあわせにすることができます。

 青年は、青い鳥を商品にすることにしました。
 何のことはありません。少し昔と同じように、青い鳥はまた一晩ずつ貸し出され、たくさんの人間をしあわせにすることになったのです。
 青い鳥を貸し出した青年の元にはお金が入るようになったので、青年は食べるものを買ったり、すきま風の吹き込む壁や雨漏りのする屋根を修理したり、あたたかい洋服を買えるようになりました。
 青年は、生きて春を迎えることができました。

 あたたかい風の日が増え、新芽が綻びたくさんの花が開きはじめるころ、青年は変化していました。
 骨はもう浮いてはおらず、顔色はすっかりよくなって、住居は衛生を保てる場所に変わり、身なりも十分に整えられたものになりました。
 けれどその厳しい冬は、青年自身のことすらも、すっかり変えてしまったのです。

 一度商品に変わってしまった青い鳥を、青年はもう友人のようには扱いませんでした。
 花が落ち、緑のしげる季節になっても、太陽がじりじりと照りつける季節になっても、紅葉の季節になっても、青い鳥は商品のままでした。

 青い鳥は友人を助け、その代わりに、友人を失ったのでした。

 身を削られ、次々に背負わされる重みに潰されそうになりながら、青い鳥は空を見上げます。そうして「役目」のことを考えました。
 考えて、考えて、やがて木枯らしが切るような冷たさを伴うようになったころ、変わってしまった青年を見つめている途中で、ふいに、青い鳥は青年の持って生まれた役目を理解しました。
 青年が持って生まれた役目は「変化」でした。いいもわるいも問わず変化し、変化させる役目です。

 青年は変わりました。青年の環境も変わりました。青い鳥も変わりました。
 商品だった青い鳥は、子どもだった青年に変化させられて、子どもの友達になりました。
 けれど友達が持ち主に変わると、青い鳥はまた商品に変わりました。
「変化」が青年の持って生まれた役目である以上、変わってしまうことは止められないのだろうと、青い鳥は悟ったように思いました。

 商品ではなく、また友人に戻りたいのだと、青い鳥は何度も青年に言いました。
 けれど変わってしまった青年は、もう青い鳥の言葉をきこうとはしませんでした。そんな日々が続いていたため、青い鳥はすでに、自分が青年に届ける声をも失ってしまっているのだということに気づいていました。もしくは青年が、自分の声をきく耳を捨ててしまったのだということに。

 青年の「変化」という役目は、いいもわるいも問いません。「変化」させる対象が人間であるのかどうかさえ。
 青い鳥には、まだもうひとつ、変化があったのです。

「人間をしあわせにする」役目の青い鳥には、自分をしあわせにする力はありません。
 けれど青年に出会い、変わり・変わられる中で青い鳥は、変化するということを知りました。自分を変え、自分の環境を変えることを覚えたのです。

 青い鳥は迷いました。
 はじめて何も望まれず、奪われず、ただ慈しんで傍に在ってくれた青年を、青い鳥は欠けがえのない存在だと思っていたからです。
 けれど変わってしまった青年は、再び冬を越え、春を迎え夏を過ごし秋が去っても、変わったきり、変わり続け、もとの青年に戻ってはくれませんでした。

 もう遠い昔のようにしか思い出せない、子どもだった青年と出会った日のような寒い冬の朝。
 青い鳥はついに、青年のもとを飛び立ちました。

 貸し出された先に、青年が青い鳥の身を引き取りに来たその時、青年の指を思い切りひっかいて生まれた隙をついて、力いっぱい、青い鳥は羽ばたきました。

 空を目指して翼を向けて、高く、高く、青い鳥は羽ばたきました。
 久しぶりに青年が自分を呼ぶ声が、叫ぶようなその声が刃のように聞こえましたが、寂しさと悲しさに切られるような心地がしましたが、青い鳥は振り返りませんでした。

 冷たく、高く透き通った広い空に、やがて青い鳥は溶けて消えて、それから先はもう、二度とその姿をあらわすことはありませんでした。

***

「……これで、おしまい」

 旅人が語り終えて双子を見ると、姉も弟も無言で静まり返り、くりっとした瞳をただ大きくさせているばかりだった。
 よく見るとふたりは、並べられた布団の下で、互いの手をぎゅっと握り合っているようだ。

「それから青い鳥は、どうなったの?」

 たずねたのは姉だったが、弟の方も興味深そうな視線を旅人に向けている。

「どうなったんだろうね。僕にもわからないや。
 “それから青い鳥がどうなったのか、知る人は誰もいなかった”って、僕にこの話を教えてくれた人が言っていたから」

「「……」」

 落ち込んだ様に、双子は黙り込んでしまった。

 双子も旅人も何も話さず、無言の時間がいくらかすぎると、小さなあくびが聞こえて来た。
 姉のものなのか弟のものなのかはわからなかったが、気がつけば、随分と遅い時間になってしまっている。

「さぁ、もうおやすみ」

 旅人が声をかけると、いかにも眠たそうな様子で双子が頷いた。

「また明日も、お話しきかせてくれる?」

 うつらうつらとした声で弟がたずねて来るのに、旅人は笑顔で頷いた。それを見て双子は、安心したように瞼を落とす。

「おやすみ、また明日」

 旅人がそう言った数秒後には、ふたり分の健やかな寝息が聞こえて来た。

 再びズレかかっていた毛布をかけなおしてやってから、外套を綺麗に畳み直し、旅人も寝具に身を沈めた。

そうして夜が更けていった。



しあわせの少女の話


 旅人がその家に来た二日目も、雨は降り続いた。

 森の奥にそびえる山のせいで家族の暮らす地域は、冬はひどく乾燥する。恵みの雨であるとも言えたが、なかなか表に出ることのできないせいで、双子はひどく退屈していた。
 手伝うべき家の仕事が山のようにあることは常と変わらなかったが、両親の目が傍にあるぶん隙間を見つけて遊ぶこともできず、動きたい盛りの双子には、うずうずとした心地をおさえることは困難だった。

 そのため双子は夜の訪れを待ちわび、暗くなれば両親に言われるより先に眠りにつく準備を整えた。両親が寝静まった後、また旅人が話しを聞かせてくれることを、心から楽しみにしていたのだ。

 両親の寝息と、しとしとと雫を落とす雨の音だけが聞こえる夜中になると、双子は小声で旅人を呼んだ。
 呼ばれた旅人は、前日の夜と同じように、畳んでおいてあった外套を着込み、寝具におさまる双子の枕元に座った。
 そうして、これも前夜と同じように、ズレた毛布を肩までかけなおしてやってから、語り始めたのだった。

***

 あるところに、裕福な家庭に生まれたひとりの醜い少女がいました。
 彼女は生まれつき身体が弱く、いつもベッドにもぐりきりでした。
 両親は娘を心配し、また世間体を心配し、少女に対して出来る限りの治療を受けさせました。しかし少女の病は、どんなお医者さんにも治せません。
 生まれたときからそんな日々が続いていたので、少女自身も両親も、病気のことはもうすっかり諦めてしまっていました。両親は次第に少女の部屋を訪れることが少なくなり、身の回りの世話をする人間も、日に2度の食事と、決まった時間にトイレの処理をしに来る意外、顔を見せなくなりました。
 満足に起き上がることのできない少女に可能だったのは、ただ、窓の外を眺めることだけでした。

 少女の住む街に、冷たい木枯らしが吹きはじめたころのことです。
 木枯らしに乗って、一匹の黒い小鳥がやってきました。春に訪れ、夏に旅立って行く季節鳥です。街中をひとまわりして、そこに暮らす人間たちを隅々まで見下ろし、最後にその黒い小鳥は少女のもとにやってきました。
 窓の外を眺めていた少女の視界に、小鳥の姿が入ります。

(この鳥、こんな時期にこのあたりを飛ぶものだったかしら?)

 あたたかい部屋に入れてあげた方がいいのではないかしら。そう考えた少女は窓を開け、灰色の曇り空を飛んでいた黒い小鳥を、自らの部屋に入れてあげました。

「こんにちは。はじめまして、お嬢さん」

 黒い小鳥が喋りました。
 小鳥に話しかけられたのははじめてだったので少女はたいそう驚きましたが、「こんにちは、はじめまして」と言葉を返しました。
 なんて不思議なことだろうと考えはしましたが、毎日毎日、ベッドに寝ていることしかできないでいた少女は、ひどく退屈していたのです。それに誰かに「はじめまして」と挨拶されることなど、随分と久しぶりのことだったのです。

「外は、とても寒かったのではありませんか?
 あなたはあたたかい季節にやってくる渡り鳥でしょう?
 どうしてこんな季節に、この街にやってきたのですか?」

 少女が尋ねると、黒い小鳥は笑ってこたえました。

「寒くなんてありませんよ。
 実はわたくしは、小鳥ではなく、悪魔なのです。
 人間の世界の寒さなど、悪魔にはなんということもありません。
 力が弱いせいで今はこんな姿をしていますが、あともう何人かの魂を食べることさえできれば、もっと大きく、もっと強い姿になることができるのです」

 驚く少女に悪魔は続けました。

「お嬢さん、ずっとベッドに寝たきりで、随分と退屈していたのではありませんか?
 わたくしのお喋りを少しばかり、聞いてみてはくれませんか」

 悪魔と話しをすることだって、少女には初めての経験です。
 それはとても恐ろしいことのような気もしましたが、とにかく、少女は退屈していました。それにこの悪魔は小さな鳥の姿をしていて、見た目はとても可愛らしいのです。
 ぜひ聞きたいわ、と少女は答えました。

 小さな頭をこくこくと頷かせてから、悪魔は言いました。

「ここは、ひどい街ですね。
 この家のようにあたたかく裕福な生活をしている人間もいれば、外で雨にぬれ、霜に冷えながら寝起きする人間もいる。
 けれどわたくしが見たところ、お嬢さん、あなたはこの街でも、どうやら一番可愛そうな方のようだ」

 少女はまた驚きました。

「私が一番可愛そうだと、あなたはどうしてそう思うの?」

 悪魔は笑って答えます。

「だってあなたは、ひとりぼっちだ。
 同じ家の中に家族がいて、たくさんの使用人たちがいて、だというのに、なんと孤独なことでしょう。
 いつもベッドでひとりきり。
 あなたは満足に起き上がることもできないというのに、みぃんな、あなたの傍にはなかなか近づこうとしてくれない。
 これだけ裕福であたたかい家なのに、あなたの心は、ほとんど凍えかかっている。
 それに病気のせいでしょうか。ひどく貧相な身体つきで、お顔も醜い造形でいらっしゃる。女性にとって、これが不幸でないはずがありません。
 それに、なんと言っても一番は……」

「一番は?」

 可愛らしい小鳥の姿で、悪魔はニヤリと笑いました。

「あなたはもうじき、死ぬでしょう。
 あぁ、なんて可哀想なお嬢さん。
 病気を治すためにとこれまで、美味しいものをお腹いっぱい食べることも、外を好きに駆け回ることも、友人をつくることも諦めて、痛い注射や苦い薬も我慢して、ずぅっとベッドで大人しくしていたというのに。
 あなたの病は治ることなく、そうしたたくさんの楽しみを知ることもなく、このまま死んでいくのです」

「私はもうすぐ、死ぬのですか。あなたにはそれがわかるのですか?」

「わかりますとも。
 だって私は悪魔です。死期を感じ取ることくらい、朝飯前なのでございます。
 そうですね……あなたに残された命の長さは、おそらく保って、数週間。どれほど長く保てたとしても、次の春には出会えぬでしょう」

「そう、ですか……」

 悪魔の言葉に、少女は俯き、黙り込んでしまいました。

 悪魔の言葉は本物だと、少女にはわかるような気がしました。
 なぜなら、今まで少しは効いていたはずのたくさんの薬たちは最近はひどく苦いばかりで、少しも効き目を感じられなくなっていました。一度出はじめた咳はなかなか止まらないし、数週間前からは、そこに血も混じるようになっていました。視界はかすんで濁るように感じることも多くなったし、それになんだか眠くてたまらない時間も増えて来ていました。

 黙ったままの少女に、悪魔は言いました。小さな翼をめいっぱいに広げて、少女だけに聞こえる声で、囁くように。

「ですから他の誰でもなく、あなたの前に、わたくしは参ったのでございます。
 可哀想なお嬢さん。わたくしならば、あなたの願いを叶えることができるでしょう。どれほど滑稽な願いでも、すっかり叶えて差し上げます。
 さぁどうでしょうお嬢さん。わたくしと取引してみませんか?」

「取引?」

「お約束、ということです。
 いいですか、可哀想なお嬢さん。わたくしがあなたのお願いごとを、きっと叶えて差し上げます。
 ですからかわりにお嬢さんには、わたくしの願いを叶えて頂きたいのです」

「あなたのお願い事を、私が? 私にできることなどあるのかしら」

 もちろんですとも、と悪魔は頷き、ニヤリとしたまま言いました。

「とても簡単なことですよ。
 数日後か数週間後か数ヶ月後か、あなたに死の時が訪れたら、どうかわたくしに、あなたの魂を食わせて頂きたいのです」

「魂を食われたら、どうなりますか」

「どうなるのだったら、どうだと言うのです?
 死後の魂など、天に昇ろうと、地に落ちようと、彷徨おうとも食われようとも、大した違いなどないのではないですか?
 死は平等です。
 死ねば終わり。
 そういうものなのではないですか?」

 少女にはわかりませんでした。けれど悪魔の言葉にも頷けるような気がします。
 悪魔は続けました。

「死後のことより大切なのは、生きている今ではございませんか。
 今まで何もできずにいた、醜い、可哀想なお嬢さん。
 残り僅かな生の時間、悔いのないよう、生きるがよろしい。このわたくしが全力で、お手伝いして差し上げます」

「お願い事、なんでも叶えてくれるの? 本当に?」

「悪魔は隠して騙します。けれども嘘は吐きません。
 条件は2つ。
 1つ。死後の魂を下さると、わたくしに約束してくださること。
 2つ。寿命を伸ばす願いだけは叶えられないということ。
 死の訪れる瞬間まで、病を治すことはできますが、それだけです。寿命を長く伸ばすようなことは、悪魔の管轄ではございませんので」

 可愛らしい黒い小鳥の姿で、悪魔は「さぁどうします」と少女の鼻先につめ寄ります。
 焦点の合わせられるギリギリまで近づいて来た可愛らしい悪魔を見て、それから視線をずらし、窓の外の景色を眺めて考えて、少女は答えました。

「わかりました。取引、しましょう。
 死後の私の魂はあなたに差し上げます。ですからそれまで、あなたの力を私にかしてください」

 少女の言葉を聞いた悪魔は、嬉しそうに、少女の額にキスをしました。もちろん悪魔は小鳥の姿でしたので、実際はおでこを突っついたような形です。
 痛いやら痒いやらでくすぐったいような心地になり、少女は思わず笑みをこぼしました。

 使用人たちに面倒そうに世話をされる以外で、誰かに触れられるのは、とても久しぶりのことでした。

***

「ねぇその悪魔は、悪い悪魔?」

 弟がそうたずねるのに、姉は「悪くない悪魔なんているのかしら?」と首を傾げました。

「ねぇ、その悪魔と同じ小鳥を、わたしも見たことがあると思うの」

「ぼくも! ぼくもあるよ!
 あの、毎年やって来て軒先に巣をつくっていく、あの鳥でしょう?」

 旅人は「おそらく、それだね」と答えます。

「わたしが見たことのある鳥の中にも、悪魔はいたのかしら」

「えー、それは怖いなぁ。知らないうちに悪魔に出会っていたらどうしよう」

「でも、いい悪魔がいるのだったら、会ってみたいと思わない?
 そんな子がいるのかどうかなんてわからないけれど……」

「そうだね。お願い事、聞いてくれるしね」

「ね。でも、魂を食われるってどういうことかしら。
 痛いのかしら。苦しいのかしら」

「死んでから後の話なんでしょう? 痛いも苦しいもないんじゃないかな」

「どうなの?」と双子に揃って視線を向けられて、旅人は苦笑しながら首を振った。

「どうだろう。わからないな。
 僕もまだ、悪魔に魂を食われたことがないからね」

 なるほど、と納得した様子の双子に、今度は旅人がたずねた。

「もし、ふたりのところにも悪魔がやって来たとしたら、どうする?
 ふたりは願い事をする?」

 双子は、うぅんと唸って考えだした。
 しばらくの間考えて、しかし答えは浮かんでは来なかったようで聞き返される。

「旅人さんは? どうしても叶えて欲しい願い事ってある?」

「!」

 ある。
 正確には、あった。
 今ではもう遠い昔の話だ。

「……他の人だったらどんな願い事をするのか、聞いてみたい?」

 うん、と双子は頷いた。

「じゃあ、この少女はどうしたか。話の続きに戻ろうか」

 双子が再び頷いたので、旅人は語りを先に進めた。

***

 醜い少女と小鳥のような悪魔との、取引が成立しました。
 悪魔は張り切って言います。

「さぁお嬢さん、どうされますか? あなたは何をお望みですか?
 家族や使用人たちをこの部屋に縛り付けますか?
 病を治し、外に飛び出して行かれますか?
 骨の様な体つきとその醜い顔を美しく整えますか?
 それとも食べ物?
 それともお金?
 あぁそうだ、凍えた心のお嬢さん。誰かに恨みはありますか?
 わたくしにお任せ頂けたなら、お嬢さんよりももっと早く、そいつを死に追いやることもできますよ。
 さぁ、さぁ、お嬢さんは何を望みますか?」

 嬉しそうに、歌うように、悪魔の言葉は続きます。
 少女は少しだけ首をかしげて考えて、言いました。

「あなたの目を、貸してください」

 笑い声をぴたりと止めて、今度は悪魔が首を傾げました。
 少女が続けます。

「家族たちのことは、もういいのです。不思議な力で縛り付けたところで意味はないし、私の死が明日であろうと10年後であろうと、彼らの私への想いは変わらないでしょう。
 病のことも、もういいのです。ずっと付き合って来た連れ合いです。どうせ寿命も変わらないのなら、最期まで付き合おうと思います。
 それに、私が急に起き上がり駈けられるようになってしまったら、みんなきっととても驚いてしまう。すぐに死ぬ命なのに、そうでない風に誤解させてしまったら申し訳ないわ。
 身体と顔も、もういいのです。そうね、女性は可愛らしく、ふくよかでなければ貰い手がなくなってしまうと言われていますね。けれど元より、私は誰かの元に嫁げるような身体ではありません。外見を理由に誰かを惹き付けなければ生きていけないような、そんな枷は元々私には嵌められてはいなかったの。選ばれることを望まない私には、美しさは不要のものなのです。
 食べ物も、お金も、今与えられているもので十分です。
 ……私は今まで、誰に好かれることもなかったけれど、誰に嫌われることもありませんでした。同様に、誰を愛すこともなかったけれど、誰を嫌うこともありませんでした。殺したい程誰かを恨み、憎むようなこと、私にはする機会がありませんでした」

 聞いた悪魔は、先ほどまで楽しそうに高らかに広げていた翼をわずかに萎ませました。

「可哀想なお嬢さん。そうかあなたは、凍えているのではなく、きっと乾いておいでなのですね。
 もう、全てを諦めてしまっていたのですか。
 もう、何に期待も絶望もできなくなってしまっていたのですか」

「そうなのかも、しれません。
 けれどひとつだけ、私にも心残りがあります。
 私は生まれてから、ずぅっと、この部屋の中にいたのです。私が知っている景色と言えば、昔頂いた写真のご本の中のものか、そこの窓から見えるだけのものしかないのです。
 私はもっと、見てみたい。私の暮らすこの家が、街が、どんな場所なのか。見たいのです。知りたいのです。
 だからお願いです、悪魔さん。あなたの目を私に貸してください」

 悪魔は、今度は翼をきちんとたたみ、姿勢を正して答えました。

「お安いご用ですよ、可哀想なお嬢さん。悪魔は嘘は吐きません。
 いいでしょう。その願い、確かに聞き届けました」

 悪魔は少女から離れ、翼をぱさりと羽ばたかせると、たずねます。

「どのような形をお望みですか」

 少女は微笑んで、窓を再び開きました。

「飛んで、街をまわってください。
 そしてどうかそこで見聞きしたことを、私に伝えて欲しいのです。
 この街ではどのような人が生き、暮らしているのか。何に喜びを感じ、何に涙を流すのか。
 私はそれが知りたい」

「承知」と言葉を残し、悪魔は街に飛び立ちました。

 こうして、少女と悪魔の約束の日々がはじまりました。

***

「やっぱり、いい悪魔なんじゃないかな。
 女の子が言ったとおりに、街に行ったよ」

「どうかしら。だって、約束でしょう?守るのは当たり前なのではないかしら。
 魂を食われることと引き換えにするほどの価値のあるはたらきかしら」

「女の子にとってはそうだったんじゃないの?」

 双子は話を続ける。

「でも、教えてもらうだけなんでしょう?
 楽しいことがあっても、面白いことがあっても、そこに一緒にいることもできないんでしょう?」

「行きたくなったらいけるんじゃない?
 だって、悪魔が女の子に叶えてあげられるお願い事って、いっこだけじゃないんでしょう?」

「そうなの?」「そうでしょう?」と、双子が旅人に視線を向ける。

「そうだね。叶えてあげる願い事はお互いにひとつずつ、なんて約束はしていないし、この後実際に、悪魔は少女のお願い事を、たくさん叶えてあげることになるよ」

 どんな願いなのかと知りたがる双子に、旅人は語りを続けた。

***

 悪魔は、初めて少女の元にやって来た時と同じ事を言いました。
 嬉しそうに、ニヤニヤと笑いながら。

「ここは、ひどい街ですね。実にひどい」

 何がどうひどかったのか、少女はたずねます。
 悪魔は楽しそうに答えました。

「今日は、貧しい親子をみましたよ。
 あなたよりももっと幼いお子さんが、病を抱えてふせってらっしゃいました。
 お母さんは一生懸命に働いていましたが、お子さんが食べたがっていた小さなオレンジひとつ、買ってあげることができないのです」

 少女の表情が曇りました。

「オレンジって、あのオレンジ?」

「もちろんです。他に何のオレンジがありますか。
 大して食べることもできないあなたの食卓に、毎朝並べられている、あのオレンジですよ。
 食べるものさえ食べられれば、あの子もお母さんも、随分と助かることでしょうに」

 楽しげに話す悪魔に、少女は言います。

「……それでは悪魔さん。
 明日から、私の食卓に並んだオレンジをその子に届けてもらえませんか。
 街を見てまわってもらう以外にも、私の願いを叶えてもらうことはできますか」

 少しだけ驚いた顔で悪魔はこたえます。

「死後に魂さえもらえるのであれば、どんな願いだって、いくつだって叶えて差し上げますよ。
 けれどお嬢さん、よろしいのですか。
 元々食の細いあなたです。肉を噛むことも、穀物を嚥下することも、野菜を消化することも困難なあなたにとって、果物は大切な食料だったでしょう。
 それを与えてしまったら、あなたの寿命は予定よりも早く尽きてしまいますよ」

 少女は笑って言いました。

「どうせ、わずかな命です。それがまた短くなったところで、私も、誰も困りはしないでしょう」

 迷いのない様子に、戸惑いながらも悪魔は頷きました。

「それでは、そのようにいたしましょう」

 こうして悪魔は翌日から、街をみてまわる際には、嘴にオレンジを銜えることになったのでした。

 悪魔と少女の日々は続きました。

 オレンジのことがあった、数日後です。
 今日の街はどんな様子だったかとたずねる少女に、悪魔はまたニヤリと笑って言いました。

「今日もこの街は、ひどい様子でした」

 何がどうひどかったのか、少女はたずねます。
 悪魔は楽しそうに答えました。

「今日は、画家をめざす青年を見かけました。
 なかなかに筋のよい青年で、数日前に見かけたときは楽しそうに絵を描いていたのですが、どうやら先日、事故か事件にあってしまったようでしてね。
 利き腕の肘から先の部分に、ひどい怪我をしておりました。
 あの怪我は、おそらくもう治ることはないでしょう。命を落とすか腕を落とすか、決断は早晩に求められるはずですよ」

 楽しげに話す悪魔に、少女は言います。

「それでは悪魔さん。私の腕を、その青年に差し上げてくださいな。
 こんな願い事でも、叶えてもらうことはできますか」

 悪魔は驚いて言いました。

「できますとも、お安い御用です。
 しかしお嬢さん、よろしいのですか。そんなことをしたらお嬢さんは、もう僅かに身体を起こすことさえできなくなってしまいますよ。
 今だって、両手で支えてやっとできるのではないですか」

 少女は笑ってこたえます。

「いいのです。
 半身を起こすことができたとしても、それで何が変わるわけでもなし。取り立てて困ることはありません」

 驚き、戸惑ったまま、悪魔は頷きました。
 パタパタと羽ばたいて、嘴で器用に少女にかけられた布団を剥がすと、少女の右側の二の腕に、悪魔はちょこんと立ちました。
 そうして嘴で数回、少女の肘を突き刺しました。

「!」

 突き刺されたその後も、少女の肘から先に腕はくっついたままでした。
 しかし、どれだけ力を入れようとしてもそれは叶わず、その後は悪魔がどれほど肘の先を突いても、痛みも、かゆみも、感じることはありませんでした。

「これであなたの腕はもう、無いも同然の飾りとなりました。
 変わりにあの青年には、腕を失うことのないよう、はからっておきましょう」

 少女は重ねて尋ねます。

「その青年以外にも、腕を失いそうになって困っている人はいますか?」

 いるでしょうねと、悪魔は答えました。

「では、その人たちの腕も、同じ様に治してあげてはもらえませんか。
 こんなお願い事でも、きいてもらうことはできますか?」

 悪魔はしかし、小さな首を振って言いました。

「残念ながら、それは難しいお願いです。
 誰かの一本の腕を治すには、差し出す一本の腕が必要です。
 一本につき、一本。それがルールです。
 けれどあなたにはもう、左の腕しか残っていない。あなたに助けられる腕は、もうあと一本分しかないのです。
 そしてあなたが、残ったもう一本の腕すらも失ってしまったら、少し困ったことになってしまいます」

「なんとも不便なルールですね。私が左腕を失ったら、誰が、どう困るのですか?」

「わたくしが困るのでございます。
 何せ私は、小鳥の姿をしております。お嬢さんが両腕をなくせば、誰が窓を開けてくれますか。
 そうなればわたくしは、この部屋から出られなくなってしまいます。もしくは、お嬢さんの命が尽きる時、この部屋に入ることができなくなってしまいます。
 街をまわって見て来て伝える、という約束を違えてしまうわけにはまいりませんし、お嬢さんの死の時に傍にいられないのであれば、約束の魂を喰らうこともできなくなってしまいます」

 なるほど、と頷いて少女は言いました。

「それでは、私の腕がなくともあなたが自由に部屋を出入りできるよう、はじめから窓を開けておけばよいのですね」

 悪魔は再び驚いて言いました。

「それはそうです、その通りでしょう。
 しかしお嬢さん。そんなことをしてしまったら、冷たい空気が部屋の中に入り込んでしまいますよ。
 ただでさえ少なくなってしまったお嬢さんの寿命は、きっともっと、削られることになるでしょう」

 少女は笑って言いました。

「どうせ、わずかな命です。それがまた短くなったところで、私も、誰も困りはしないでしょう」

 迷いのない様子に、戸惑いながらも、悪魔は頷きました。

「それでは、そのようにいたしましょう。
 助けるもう1本の腕は、誰のものにいたしますか?」

「それは悪魔さんにお任せします」

「……」

 言いながら、少女は窓を開けました。
 完全に開け放ってしまったのでは、日に数度部屋を訪れる使用人たちにバレて、閉められてしまうかもしれません。鍵を開け、こっそりと小さな隙間をあけておく程度におさえました。しかしこれだけのことさえしておけば、悪魔は自分で隙間を広げて出入りできるでしょう。
 それはほんの僅かな隙間でしたが、吹き込んでくる風は氷のように冷たく、鋭く、少女の肌を刺しました。

 少女の言葉を聞き、そこまでの様子を見届けた後に悪魔は、もう一度先ほどと同じようにして少女の左腕を奪いました。
 やがて少女は、痛みもかゆみも、吹き込む風の冷たさも、何も感じない腕をもつばかりになりました。
 そうなってからそっと身を横たえると、困った様に悪魔を見つめます。

「……」

 少女の視線の意味に気づいた悪魔は、仕方がないな、といった風に小さなため息をついて、少女に布団をかけてあげました。
 両腕を失った少女には、自分で布団をかけなおすこともできなかったのです。

「ありがとう」とお礼を言って、少女は微笑みました。
 笑顔を見せる少女に、悪魔は戸惑いを隠せませんでした。

 悪魔と少女の日々は続きました。

 摂取できる貴重な食料を失い、両腕を失い、冷たい風に身を冷やすことになった少女は、みるみるうちに体調を悪化させていきました。
 もともと骨と皮だけであったような身体はますます衰え、醜さの象徴であったような顔は血色の悪さのせいで見るに耐えないほどのものになりました。

 いつものように街を飛び回っていた悪魔は、ある日部屋に戻ってくると、少し考えた様にしながら言いました。

「……ここは、本当にひどい街ですね」

 悪魔の言葉は出会った時とほとんど同じようなものでしたが、その口調には変化がありました。
 少女はそのことに気がつきましたが、その変化がどこから生まれて来たものなのかなど想像することもできず、だからいつものようにたずね返しました。
 今日は何があったの、と。

 悪魔は話しました。
 悪魔はその日、ひとりの老人を見かけました。老人には家族がありました。しかし伴侶には先立たれ、子や孫たちは遠く離れた別の場所に暮らしています。
 老人も家族たちもともに暮らすことを望んでいましたが、様々な事情でそれは叶わず、ひとりで暮らす老人の支えは、家族たちからの手紙を読むことでした。
 しかし老人は、目に病を持っていました。それで最近は時折届くその手紙に目を通すことが困難になっていたのです。

 この話を聞いた少女がどんなことを言いだすのか、悪魔にはもう想像ができていました。
 そして悪魔の想像通り、少女は言いました。

「それでは悪魔さん。私の目を、その方に差し上げてくださいな」

「……よいのですか、お嬢さん。
 目を差し上げてしまったら、お嬢さんはもう、窓の外を眺めることもできなくなってしまいますよ。
 お嬢さんが自分でできることなど、窓の外を眺めることしかなかったではありませんか。
 本当に、それでよいのですか」

 少女の答えもわかっていました。

「いいのです。
 窓の外を眺める目がなくなったとしても、私にはいま、あなたがいます。あなたが飛び、私にそれを聞かせてくれるのであれば、窓から見える景色よりももっと多くのものを私は知ることができます。取り立てて困ることはありません」

 その言葉に頷いてから悪魔は、ベッドに寝転ぶ少女の鼻先にちょこんと止まりました。

「おやすい、御用です」

 そうしてその嘴で、少女の両目を突きました。

「っ、」

 少女は一瞬だけ身を固くしましたが、痛みに声をあげることはありませんでした。
 悪魔が両目を数回ずつつくと、少女は闇に包まれて、瞼を開いてみても閉じてみても、もう、景色は何も変わりませんでした。

***

 旅人の語りに、双子は無言で聞き入っていた。
 唾を飲み込み両腕を抱きしめ、ぎゅっと目を押さえる様にして、けれど一言一句逃さぬように、耳をしっかりとすませて。

「……」

 そんな双子の様子を確かめながら、旅人は語りを続けた。

***

 いろいろなものを失い、光も色も景色も失った少女には、死の瞬間が近づいていました。
 それでも悪魔と少女の日々は続きました。

「本当にここはひどい街です。わたくしは今日も、ひどいものを見かけました」

 悪魔の声は、少女の耳に甘く響きます。

「どんなものを、見たのですか」

 もうすぐ失われる少女の声もまた、悪魔に優しく届きました。

 悪魔はこの日、失われていく命をみました。
 それはまるでゴミのようで、埃にまみれ、踏みつけにされて来た命でした。
 街に暮らす多くの人間はその命に目を向けることもなく、失われていくそれの声をきこうともせず、そもそもそれが声を持っていることや意志や感情があることに、少しの感心を払おうともしませんでした。
 その命は、誰に顧みられることもなく、惜しまれることもなく、ただ流れて消えようとしていました。

 けれどそれについて悪魔はもう、少女に聞かせることはありませんでした。
 かわりに言いました。

「お別れです、お嬢さん」

「え?」

 悪魔が告げたのは別れでした。突然のその言葉に、少女は驚きました。

「時が来ました。お嬢さんの命は、もうあと数刻の後に途切れるでしょう。
 ……しかしわたくし、あなたの魂は食らわないことにいたしました」

 戸惑ったのは、この日は悪魔ではなく、少女の方でした。
 嬉しそうに、楽しそうに、歌うように悪魔は続けます。

「死後の魂を頂く約束で、わたくしたちは取引をいたしました。
 けれどお嬢さん、あなたの魂は、まったく、少しもおいしそうでない。
 わたくしは期待していたのです。
 あなたが誰かに、あなたの痛みや不幸であったことの辛さをぶつけることを。好き勝手自由に動き回り、その後に訪れる命の終わりを思い出し、絶望に胸をつぶすことを。凍え乾いた心があたたまり解きほぐれて、それが粉々に割れる瞬間を。
 けれどお嬢さんは一向に、そんなそぶりを見せてはくれませんでしたね。
 なんとつまらない、味気ないことか!
 そんな魂を食らったところで、わたくしの力になるとは思えません。何の利益もないのです。
 ですから、お嬢さん。今この瞬間に、取引は中止にさせて頂きます」

 そんな、と少女は悲しみました。

「悪魔さん、困ります。
 ……私はこれまで生きて来た間、迷惑や心配や手間をかけるばかりで、誰の役に立つこともできずにいました。悪いこともしないかわりに、そうでないことも、なにもできずにいたのです。ですから死の瞬間までは、何かをこの世界に残したかったのです。
 死した時は、魂を食らって欲しかったのです。だってそうでなければ、あまりに虚しいではありませんか。
 お願いです、悪魔さん。せめて、私の魂を食べてください」

「そうでなければ無駄死にだ、とおっしゃりたいのですか」

「そうです、その通りなのです、悪魔さん」

 けれど悪魔は、笑って首を振りました。
 その様子は少女には見えません。

「死に、無駄も無駄でないもないのではないですか。
 無駄死には虚しいでしょう。
 しかし、死ぬことに意味のある生など、それはそれで虚しいものではありませんか。
 死ぬこと自体に、意味はございません。その点についてのみ、死は平等なのでございます」

「そんなことはない、そんなはずはない」と縋る少女に、けれど悪魔は告げました。

「さようならです、お嬢さん」

 そうして後は、少女の声も聞かず、開けられたままの窓の隙間から、風のようになって飛び立って行きました。
 音と空気の動きとでそれを悟った少女は、悲しみに涙を零しました。失われた眼球から流すその涙を見た者も、少女の泣き声を聞いた者もありませんでした。

 悪魔が去って行って、この日、ひとつのいのちが繋がりました。
 一方でこの日、ふたつのいのちが消えました。

 少女と悪魔のやり取りを静かに眺めていた、この街の鳥や虫や動物や、花や樹木や草木の類は、この日に何が起きたのか、最期まで見守って知っていました。
 けれどそれを人間に伝える術を、彼らは持ってはおりません。
 ですからこの日、ひとつの命でひとつの命が繋がれたのですが、それを知る人間は誰もいないのでした。

***

「これで、おしまい」

 旅人が語り終えると少しして、小さなため息がふたつ聞こえて来た。
 それから双子は、乗り出す様にしていた身を布団に沈めてからたずねる。

「女の子は、死んじゃったの?」

「そうだね」

「死んじゃったもうひとりは、悪魔さん?」

「そうだね。僕は、そう聞いているよ」

 もう一度、ふたつのため息が小さく響いた。“旅人が誰からその話を聞いたのか”を双子が尋ねることはなかった。

 旅人が言った。

「この話には、教訓があるんだよ」

「きょうくん?」と首を傾げる弟に「なにかタメになる言葉、みたいなヤツだよ」と姉が教えている。
 姉の言葉に頷いてから旅人は告げる。

「“行き過ぎた自己犠牲は誰のためにもならない”ってことだ」

「じこぎせい?」と再び弟が首を傾げたが、今度は姉の方も一緒になって首を傾げた。
 少し難しかっただろうかと、旅人は苦笑する。

 首を傾げたまま、双子は黙り込んでしまっていた。

 双子も旅人も何も話さず、無言の時間がいくらかすぎると、小さなあくびが聞こえて来た。姉のものなのか弟のものなのかはわからなかったが、気がつけば随分と遅い時間になってしまっている。

「さぁ、もうおやすみ」

 旅人が声をかけると、いかにも眠たそうな様子で双子が頷いた。

「また明日も、お話しきかせてくれる?」

 うつらうつらとした声で弟がたずねて来るのに、旅人は笑顔で頷いた。
 それを見て双子は、安心したように瞼を落とす。

「おやすみ、また明日」

 旅人がそう言った数秒後には、ふたり分の健やかな寝息が聞こえて来た。

 ズレかかっていた毛布をかけなおしてやってから、外套を綺麗に畳み直し、旅人も寝具に身を沈めた。


 そうして夜が更けていった。


美女と獣の話


 旅人がその家に来た三日目も、雨は降り続いた。
 しかし前日までと比べ雨足は随分と弱まって、家の外から聞こえる音も、静かな雫の音ばかりになっていた。

 父親が言った。

「この分なら、明日には雨もあがるだろう」

 母親も言った。

「もともとこの季節は雨の少ない時期ですしね。
 もうあと一週間もすれば今度は雪も振ってくるでしょうが、となりの集落までの数日くらいの間であれば、濡れる心配もなく辿り着けるでしょう」

 雨上がり待ちの宿を許してくれた夫婦の言葉に旅人は頭を下げるが、その間も冬越しのための作業を手伝う手は休めない。
 ほんの短い間にすっかり手慣れた様子になった旅人に、夫婦は笑顔でこたえた。

 笑顔でないのは双子だけだった。
 せっかく、外のいろいろな話を聞かせてくれる人がやって来たのに。
 せっかく、外の人間がやって来たのに。

 双子は夜の訪れを待ちわびていた。
 今夜聞かせてもらうものが、最後の話になるだろう。
 それを思えば夜が来てしまうのがもったいないような気もしたが、子ども達は物語に飢えていたのだ。

 だからこの夜も双子は、両親に言われるより先に眠りにつく準備を整え、両親が寝静まった後、また旅人が話を聞かせてくれることを布団の中で待った。

 両親の寝息と、もうほとんど雫の音も聞こえない静寂の夜中、双子は小声で旅人を呼んだ。

 呼ばれた旅人は前日までの夜と同じように、畳んでおいてあった外套を着込み、寝具におさまる双子の枕元に座った。
 そうして、これもまた前夜までと同じように、二人のズレた毛布を肩までかけなおしてやってから、語り始めたのだった。

 いつもと同じように、けれど旅人にとって、少しだけ特別な物語を。

***

 とある不思議な深い森の中程に、体の大きな一匹の恐ろしい姿の獣が住んでいました。
 獣が生まれた場所はその森から遠く離れた地でしたが、いくつもの山を越え、いくつもの川を渡った先でたどり着いたその森を獣は気に入って、ひとり静かに暮らしていたのでした。

 獣が昔住んでいたのは、遥か北の荒れ地でした。
 近くには人間たちの集落がありましたが、荒れ地と集落との間にもまた深い森がありました。獣と人とは互いの存在を知ってはおりましたが、森を挟んであちらとこちら、森を越えず、互いに大きく干渉することなしに暮らしていました。

 獣はたくさんの言葉を理解することができました。動物の言葉、人間の言葉、草木の言葉、鳥の言葉を聞くことができました。けれど獣には、人間と語らうための発声器官がありませんでした。
 獣はまた、火や、水や、大地や、風の言葉を聞くことができました。動物や鳥や草木や、それらの存在と話をするのに、発声器官は必要ではありませんでした。しかし、大きな力を持ったそれらは気まぐれで、獣が話しかけても応えてくれるとは限らなかったし、逆に獣が望んでいないのにひっきりなしに語りかけてくることもありましたので、それらと仲良くするのは難しそうだと獣は考え、あまり近づくことはありませんでした。
 草木や動物、鳥達が、獣の仲間でした。

 獣がその荒れ地を離れたのは、随分と遠い昔のことです。
 ある年、ひどい飢饉が森向こうの集落を襲いました。人間たちは飢えに苦しみ、ついに、森に足を踏み入れたのです。
 初めの頃、獣はただ、それを見守っていました。人間が森に足を踏み入れても、森の草木や茸や木の実を取って行く様になっても黙っていました。
 しかし気候は荒れ、飢饉は続き、人は森に足を運ぶ回数を増やしました。

 人間たちにとっても仕方の無いことなのだと、獣にはわかっていました。
 けれど人間たちが森から奪っていくものは日に日にその量を増し、今度はそのせいで、森の草木や鳥や動物たちが困るようになったのです。
 そこである日、獣は森に入り、人間の前に姿をあらわしました。
「取り過ぎだ、人間たち。このままでは森が壊れてしまう」
 そう、言いたくて。

 しかし獣は、言葉を話せません。
 獣の恐ろしい姿を見た人間たちは、一目散に森を出て、集落へと逃げ帰りました。

 獣は悲しくなりました。
 決して人間たちを怖がらせたかったわけではないのです。しかし獣をおそれた人間たちは、森へ近づくことを控えるようになりました。
 悲しくはありましたが、これなら森はおそらく回復をみせるだろうと考え、獣は荒れ地に帰りました。

 しかし、人間は慣れる動物です。
 獣が最初に姿をあらわしてから数週間後、再び人間たちは森に足を運ぶ様になりました。獣にとっては嬉しくもありましたが、人間たちはやはり、奪いすぎました。そうでなければ獣はもう人間たちの前に姿をあらわすつもりはありませんでしたが、森が壊れる程に奪われることを放っておく訳にはいきません。
「いつか出会って、会話ができたら楽しいだろう」……そう考えることも何度もありましたが、それが難しいことだということは、獣自身にもよくわかっています。
 友達になることが難しくとも、せめて怖がらせるようなことはしたくない。
 獣は、そう考えていたのです。

 しかし獣が二度目に姿をあらわした時も、人間たちは獣を恐れ、集落へと逃げ帰ったのでした。獣はまた、悲しくなりました。

 そうして人間が寄り付かなくなって、しかしまたしばらく経つと、懲りずに人間たちは森にやってきました。
 それで獣はいやいやながら、再び森を訪れたのです。

 しかしこの時は、それまでとは様子が違いました。
 獣が姿をあらわした、その瞬間です。

 空気を裂くような音がして、その次には肩が燃えるような感覚を味わっていました。
 驚いて自分の肩を見ると、そこに炎はなく、しかし、一本の矢が突き刺さっていました。それから目の前の人間を眺めて見れば、数人いた人間たちは確かに、弓矢をつがえています。

 射られたのだ、と気づくと同時に、人間たちは再び矢を放ちました。
 獣は再び燃えるような痛みを感じました。今度は脚に刺さっていました。人間の放った細い矢など、体の大きな獣にはどれほどのダメージも与えられはしませんでしたが、再び加えられた痛みに驚き、悲しくて、獣は走って荒れ地に逃げ帰りました。

「不吉な獣! お前のようなものが存在するから、神は怒ってこの地に罰を与えられた!」
「この地から出て行け! でなければ退治してやる!」
 逃げる背中から聞こえてくる人間たちの言葉の意味が、獣にはわかりませんでした。
 獣は不思議な獣で、いろいろなものの声を聞き理解することができましたが、ただの獣でした。天候を操り、人間たちを不幸にする力など、持っているはずがありません。

 住処に戻って、一人きり、悲しい気持ちで獣は考えました。どうしたら人間にわかってもらえるでしょう。人間たちが苦しむことを獣は望んでいませんでした。ですから彼らが森に入る事自体にも、反対ではなかったのです。
 しかしこのままでは、森が壊れてしまいます。森が壊れてしまえば、獣はもちろん、森に住む生き物たちも、人間たちだって困ってしまうはずです。だから姿をあらわしたのだというのに。

 その夜、どうすればいいのか、どうすれば伝えられるのかと獣は頭を悩ませました。
 しかし獣は、それが全くの無駄だったとすぐに知ることになります。

 夜明け前のことでした。
 うとうととしていた獣の耳に、たくさんの声と、たくさんの音が聞こえてきました。全てあの森からのものです。何があったのかと飛び起きて、急いで森へと向かいました。

 けれどそこにはもう、獣の見知った森はありませんでした。

 深く、多くの水や木の実や食料を蓄え、たくさんの生き物たちの住処になっていた森が、ごうごうという音とともに燃えていました。
 太陽ののぼる前の夜空をこうこうと照らし、あらゆるものを飲み込んで燃えていました。動物も、鳥も、草木も、全てを逃がさず燃えていました。

 炎の向こう側から人間たちの声が聞こえました。

「森を燃やせ!」「獣を殺せ!」と叫んでいます。

(なんということを……)

 胸の抉られるような痛みを覚えました。悲しかったのです。
 何もしていないのに、自分のせいで、森のたくさんの命が死にました。あまりにも悲しくて、動けなくなって、そのまま巡って来た炎にまかれて自分も燃えてしまうのではないかと思う程でした。
 けれど獣のもとに炎がやってくるよりも先に、獣は体が熱くなるのを感じました。炎のせいではなく、それは怒りでした。

(……なんということを!)

 獣は吠えました。
 低く、大きく、長く吠えました。
 森中を包む炎が震え、その勢いが一瞬弱まるほどの強さで。

 息が続く限りに吠え、しかしそうしてみても、森は元には戻りません。炎は留まることなく勢いを増し、近づいてきます。

 獣は森に背中を向けると、その場を走り去りました。
 深い深い悲しみと、その悲しみよりも大きな人間への怒りを抱え、森と荒れ地を後にしたのです。

 それから獣は旅をしました。
 たくさんの山を越え、たくさんの川を渡りました。
 人間たちの集落の近くを通ることもありましたが、決して姿はあらわさず、話しかけてみたいと思うことも、もうありませんでした。
 そうして何年もの時が経った後、たどり着いたのがその不思議な森でした。

 その森の奥には、森の主が住んでいました。最奥にたたえられた大きな湖の妖精です。
 森は大きく、深く、暗くてじめじめとしていたので、人間は滅多に自分たちから足を踏み入れることはありませんでした。それどころか時折森は、主である妖精を筆頭に人間を攫って来ては、騙し、からかい、なぶりました。そのためますます、人間たちはその森に近づかず、森に人の手は入らず、平和を保てていたのでした。

 人間に負けない強さを持った森と森の主を、獣は気に入りました。
 人間に深い恨みをもった獣を、森の主もおもしろがり、気に入りました。獣は普通の動物でもなく、妖精でもなく、異物でありましたが、その獣が願い出ると快く、森に棲みつくことを受け入れたのです。
 こうして、獣は森に住処を得ることになりました。

 主は気まぐれで、人間に対する好奇心が旺盛であり、しかし寡黙な存在でした。森に棲みついた獣にはそれ以後話しかけてくることはなく、森の生き物たちも主に似て、獣に語りかけることはありませんでした。
 獣から彼らに話しかけることもありませんでした。彼らと語り合うための言葉は持っていましたが、それが今まで、一体何の役に立ったでしょう。
 言葉など自分には必要ないと、獣は考えるようになっていたのです。

 森の生き物たちは、飽きれば人を攫ってきました。
 攫われた人間は運が良ければ命を奪われ、運が悪ければそれよりもひどい目にあわされました。
 最も運のよい人間であれば五体の満足なまま森を出られることもありましたが、そんなケースはひどく稀で、そうした場合でも、その人間は二度と、森に近づこうとは思いませんでした。

 時折森のするそうした行為にあげられる悲鳴は、人間を恨んでいる獣にとってさえ心地よいものではありませんでしたが、止めることもしないかわりに、自らそうした行為に加担することもありませんでした。
 もう、人間とは一切関わりを持ちたくない。獣はそう考えていたのです。

 そんなある日、一人の男と、一人の少女が迷い込みました。
 男は旅人で、いろいろな国をめぐっていました。少女はその男の娘で、生まれてから10年ほどに見えました。
 母親はいないようですが、二人はとてもしあわせそうでした。

 森は父娘にも牙を剥きました。
 父娘は稀なケースで、ただ道を曲げられ、木の根に足をとられ、口にできるような食べ物や飲み物を隠されただけでしたが、日を追うごとに父娘は衰弱していきました。

 森の主や生き物達がそうするのを、獣は黙って見ていました。
 父に対しても娘に対しても、何の感情も湧きません。
 森たちの行為が正しいことだとも思いませんでしたが、父も娘も、人間です。そうされても当然の存在なのだと考えました。

 そんな日が続いたある日、しかし森の主は獣に言いました。

「あの娘を、おまえにやろう」

 楽しそうな声でしたが、獣には主が楽しげにする意味も、言葉の意味もわかりませんでした。
 主は言葉を続けます。

「弱り切った男が、言ったのだ。何でもするから助けてくれと。
 だからわたしは応えた。
 娘を贄として、この森で一番恐ろしい獣に差し出すというのなら、お前だけは助けてやろうと。
 どう答えるのか、興味があった。
 男は言ったよ。“わかった”と。
 そうして男はひとり、先ほど森を出て行った。あれほど可愛がっていた娘を置いて」

 だからお前は娘を受け取れと、主は言ったのでした。
 獣は何も答えませんでした。了承したわけではなく、話すのが億劫だったのです。
 けれど獣が何も言わずにいたのをいいことに、主は娘を連れて来ました。何をどうやってそうしたのか、獣にはわかりませんでしたが、寝転ぶように伏せっていた獣の大きな背中の上に、唐突に娘を落としたのです。

「……」

 獣はそれでも何も言いませんでしたが、気を失って眠るようにしている娘を見て、眉をしかめました。
 面倒でしたし、触れることはおろか、近づくことさえしたくないと思いました。人間にはもう、一切関わりたくなかったのですから。
 森の主は獣のそんな気持ちも知っていたはずでしたが、気まぐれな存在だったので、考慮などされることはありませんでした。

「喰い殺すなり、気の向くままになぶるなり、好きにするがいい。
 その人間はお前のための贄なのだから」

 そう言い残して主が姿を消すと、獣は振り落とすように乱暴に娘を背中からどかしました。それでも目覚めない足下の娘を眺めながら、獣は小さくため息をつきます。
 放っておこう。獣は、そう決めたのです。

 人間を受け入れない森に放り込まれた人間など、放っておけばすぐに死ぬだろう。
 自分が手を下す必要などない。
 自分が関わるまでもない。
 そんな風に考えていましたが、事態は獣の思った通りには進みませんでした。

 獣は振り落とした娘をその場に置いて、森のさらに奥にうつり、無視を決め込むつもりでした。
 しかし下手に気を利かせた森の動物たちは、翌朝娘が目覚め、森の中を彷徨いだすと「これは獣の贄だから」と、娘を獣のもとへと運ぶことにしたのでした。
 立派な角を持った鹿の背に運ばれ、娘は楽しそうに笑いました。
 何日も飲まず食わずであった娘がふらりとすれば「獣が楽しむ前に死んでしまってはまずいのではないか」と、動物たちは娘の前に、食べ物や飲み物を運び与えました。娘は不思議がりながらも笑顔になり、動物たちにお礼を言いました。

 動物達は、次第に楽しくなりました。
 今までたくさんの人間たちをおとしめ、泣き叫ぶ様を幾度も眺めてきましたが、こんな風に微笑みかけられたりお礼を言われたりすることなど、経験したことがなかったのです。
 新鮮で、少しくすぐったいその感覚を求めて、たくさんの動物たちが娘に親切にし始めました。その度に娘の見せる反応は真新しく、また幼い娘は大層可愛らしく見えて、動物たちは嬉しくなりました。

 そうして娘が獣の前に連れてこられたのは、娘が獣の背に落とされてからわずか半日と僅かの後のことでしたが、その時には、娘はすっかり様変わりしておりました。
 十分に食料と水分とを与えられ、刺のある蔦に傷つけられていたはずの肌には薬になる葉が張られ、引っぱられところどころ破れていた洋服は草の筋で繕われ、頭に花まで乗せられています。
 また、娘を背に乗せて来た若い鹿は誇らしげでさえあり、鹿の後に続く様について来た動物たちは、みな目をキラキラとさせて、楽しそうに娘と獣とを眺めています。

「この子、とってもおもしろいんだ」
「笑うととても可愛らしいんだよ」
「こんな人間、はじめてみたよ」

 次はどんなことをしてやろうか、何をしてこの娘と遊ぼうか、と動物達の瞳は言っています。
 獣は混乱しました。こんな風に娘を連れてこられて、一体自分にどうしろと言うのでしょう。

 すっかり困って固まってしまった獣を見ると、
「鹿さん、どうもありがとう」
と言って、娘が地面に降り立ちました。
 獣の半分ほどの背丈もなく、人間の中でも随分と小さな部類だろうと思われました。
 大きくおそろしい外見をした獣の前に立ち、しっかりと獣の瞳を見つめてから瞼を落とし、娘はその場に膝を折りました。

「父を助けてくれて、ありがとうございました。
 約束通り、私はあなたの贄です。
 煮るなり焼くなり、気の向くまま、どうぞお好きになさってください」

 娘の言葉を聞いて、動物たちの間に緊張が走ったのがわかりました。
 娘は獣の贄です。それは動物たちも知っていました。しかしこの娘で遊ぶのはとても楽しく、娘の反応を見るのはとてもおもしろかったのです。
  獣の鋭い爪で引き裂かれて悲鳴を上げる様も、大きな牙で噛み砕かれて息絶えて行く様も、「まだもうちょっと見たくない」と動物たちの瞳は語っていました。

 獣はやはり、迷いました。
 娘に対する感情は何も湧きません。だと言うのに、人間には触れたくもないし姿も見たくないと言うのに、こうしてこの娘は、自分の目の前に戻って来たのです。
 一時触れてしまうことを我慢して、ここで一思いにちぎってしまえば、もうこんな風にして気を患わされることもなくなるでしょう。そう考えました。
 しかし何の恨みもない、自分を受け入れてくれた森の眷属である動物達の気持ちを無下にするわけにもいかないし、何より、やはり一時でさえ、人間に触れることには嫌悪を覚えました。

 迷いましたが、獣は結局、娘に背を向けました。
 娘は獣に与えられた贄でした。であれば、この娘をどうしようと、どうもしなかろうと、それも獣の自由のはずでした。獣は「娘には一切関わらない」ことを選びました。
 動物たちの気まぐれも、おそらくじきに静まるでしょう。
 そうすれば動物たちは再び、人間であるこの娘に牙を剥く筈で、そうなれば獣が自ら手を下すまでもなく、動物達の手によって、娘の命は綺麗に消されることになるはずです。

 獣が手を下さないことに、動物たちはひとまず喜び、娘は不思議がりました。不思議がって考え込んでしばらくすると、何をどう考えたためなのか獣にはわかりませんでしたが、娘は獣に言いました。

「助けてくれて、ありがとうございます。
 私はあなたのために、約束を果たし、精一杯つとめます」

 約束など、娘と交わした覚えはありません。
 獣は人間のそういったところも嫌いでした。
 何も言っていないのに、何もしていないのに、勝手に考え、勝手に理解した気になり、勝手に意味付けをして。勝手にこうして礼を言ったり、かつてのように、勝手に脅威の対象とみなし、矢を射ったり森に火を放ったりするです。
 人間のそうした行為にはもう、辟易しています。

 笑顔で礼を言って来た娘はよく見れば、足も肩も震えていて、瞳には恐れが滲んでいました。それでも必死でつくられたらしい笑顔を、獣はひどく滑稽で、卑小な姿だと思いました。
 獣にはわかっています。娘の笑顔も、明るくハッキリとした声で話すことも、いちいち動物たちに礼を言ってみせるのも、ただの娘の知恵なのです。本心から笑っているのでも礼を言っているのでもなく、少しでもたくさんのものに気に入られ、可愛がられ、長く命を繋げるようにするための、ただの見せかけのものなのです。
 卑小で、汚らわしく、忌むべき姿だと思いました。そうした人間の弱さも、獣は大嫌いなのですから。

 背を向けたきり、獣は娘を視界に入れようとはしませんでした。
 しかしこうして、たしかに、獣と娘との生活ははじまったのです。

 娘は背を向けた獣の傍に、自らの寝床を作りました。草や木の葉を集めてまわって、ふかふかのベッドができました。用を足すための区画や食事のためのスペースまで作っています。一年中葉の茂った木の根元にそれらはつくられたので、雪や雨に濡れることもありませんでした。
 森の鳥や動物たちは娘をよく手伝いました。娘は笑顔で礼を言い、鳥と歌い、動物の背を撫で、毛を繕いました。
 獣の予想に反して、娘は森にとけ込みました。人間ではありましたが、鳥も動物も娘を慈しみ、主もまた、何の手助けもしませんでしたが、娘に害を為すこともありませんでした。

 獣は徹底して、娘に関わろうとはしませんでした。

 季節はめぐりました。
 春に娘は、寝床を花で飾りました。
 夏にはたくさんの木の実で飲み物をつくり、鳥や動物達にも振る舞いました。
 秋にはとりどりの木の葉を集め頭飾りや胸の飾りをつくって、鳥に冠をかぶせ、動物の胸を彩りました。
 冬になると、鳥は栄養のある木の実を運び、動物は自らの毛を与え娘に暖をとらせました。

 獣は徹底して、娘に関わろうとはしませんでした。
 しかし娘は、飽きずに獣に話しかけ、めげずに語りかけました。

 獣は自らの身を別の場所にうつそうとはしませんでした。
 娘は獣の隣で、獣の長い尾の毛に触れるようにして眠りにつきました。
 獣は朝になると、泉で顔をあらい、喉を潤しました。
 娘は足の速い獣に置いて行かれないようについていって、ともに顔をあらい、水を飲みました。

 獣は腹がすけば、森のルールに則って鳥や動物を殺め、食らいました。
 娘は前日自分の与えた花冠や胸飾りをした鳥や動物たちがそうされても、ぎゅっと口を結んで何も言いませんでした。

 ある日食事に際し、娘は火をおこそうとしたことがありました。
 獣は徹底して娘に関わろうとはしませんでしたが、その時だけは激しく怒りました。
 人間が生活のために火を使う動物だということは知っていました。けれど森の中でそれをすることを、獣は決して許すつもりはなかったのです。
 娘の行動の意図をさとるや、娘の集めた木の葉や木の枝を踏み散らかし、娘の体を遠慮なく突き飛ばしました。
 突き飛ばし、やはりこのまま食いちぎってやろうかと娘の腹に前足を乗せ、獣は娘を見下ろしました。
 娘は何も言わず、ただ、獣の目を見つめました。
 獣も何も言わず、娘の目を見つめ返しました。

「……」

 その時なぜ、娘の喉に食らいつかずにいたのか、獣自身にもわかりませんでした。
 けれど結局、獣にそれ以上は何もするつもりがないらしいことを悟った娘は、ゆっくりと獣の足の重みから抜け出し、身を起こしました。
 それから蹴り散らかされた枝葉を眺め、獣に視線を寄越した後、悟ったように、火を使った調理を諦めて、食材を探しに森へ消えて行きました。

 森に入って行った娘は、片足を引きずるようにしていました。突き飛ばしたときの感触で、獣は自分がおそらく娘の足の骨を折ってしまったのだろうことに気づいています。
 このまま娘は、自分の傍からは去って行くかもしれないなと思いました。それでもいいと思いましたし、その方がいいとも思いました。
 けれど両手いっぱいに木の実を抱え、娘は再び、獣の元に帰ってきました。

 そうして夜が来れば、娘はまた、獣の長い尾に触れるようにして眠りにつくのでした。

 獣は徹底して娘に関わろうとはしませんでした。
 しかし娘は獣に話しかけ、語りかけ続けました。
 勝ち負けの話ではありません。けれどもし、そうした視点で語るのであれば、勝負は娘の勝ちでした。

 娘は諦めませんでした。
 獣は娘の言葉を理解することができましたが、娘はそんな事、知る由もありません。それでも話しかけ、語りかけてくる娘に、ある時獣はつい、頷いてみせてしまったのです。
 獣の首の動きは、体に似合わず、随分と小さなものでした。けれど娘がその僅かな動きを見逃すことはありませんでした。

 娘は何かに打たれたような瞳で獣を見つめました。
 獣も仕方がなく、諦めて、期待と緊張とをこめて、娘を見つめ返しました。
 森での暮らしが始まってから数年が経ち、髪や体毛は伸びるにまかせたままでしたが、言葉も心も失わずに育った娘は、理性と野生の知性を宿した、美しい少女に成長していました。

 自分の言葉がわかるのかと、少女は獣にたずねました。
 わかる、と獣は頷きました。

 それならなぜ今まで何も答えてくれなかったのかと、少女は尋ねました。
 獣は黙ったままでした。

 言葉がわかると教えてくれたのに、なぜ今また何も話してくれないのかと、少女は尋ねました。
 獣はやはり黙ったままでした。

 少し考えてから、話せないのか、と少女は尋ねました。
 獣は黙ったまま、頷きました。

 弾かれたように少女は獣に背を向け、森の奥へと駆け出しました。骨はもうすっかりくっついたはずですが、クセになってしまったのか、僅かに足を引きずっています。
 少女が何をしに駈けて行ったのか、獣には想像もつきませんでした。何もわからず、考えもつかず、ただ、少女がもう戻って来てくれないのではないかということを恐れました。
 それでいいと思いました。その方がいいとも思いました。……けれど獣は、孤独でした。
 戻って来て欲しいと願い、会話を交わすことはできずともまた少女の歌を聴き、語りかけてくれる声を聞きたいと祈る様に思いました。
 それでも孤独に慣れた獣は、少女を追いかけて探しに行くことができませんでした。失うことを恐れるのと同時に、追いついた先で少女に拒絶されることに、より大きな恐怖を感じたのです。
 肩と脚の古傷が痛みました。
 焼かれたような感触を思い出し、焼かれた森を思い出しました。
 人間への恨みと憎しみを思い出しました。

 けれど獣は、ずっと孤独だったのです。
 人間と語り合いわかり合う機会を持てなかった悲しみをも思い出しました。今また少女を失おうとしていることを想い、恐れ、だというのに巨大な自分の身はすくんでしまって全く動かすことができず、それを恥じてまた悲しくなりました。

 数分が経ち、数十分が経ち、獣はその場を動くことができず、
 けれど娘はこの時も、獣のもとに帰ってきました。

 帰って来た娘は、大きく切り開いた木の皮と、色とりどりの木の実を両腕いっぱいに抱えていました。そして立ち尽くしたままの獣の足下にそれらを広げると、指の腹で木の実を潰し、それを木の皮になすり付け始めました。
 娘が何をしているのか、獣にはわかりません。

 やがて何かを書き終えた娘は、書き終えた何かを指し示し、言いました。

「ベル」

 ベル。
 人間と触れ合うことの多い動物たちから聞いて知っていました。金属で出来ていて、振ると音が出るという、人間の道具です。そのベルが、どうしたというのでしょう。

 娘は娘自身を指し示し、木の皮に書いた何かを指し、それから再び自分を指して「ベル」と重ねて言いました。

「私の名前は、ベル。文字はわかる? 獣さん、あなたのお名前は? 私はあなたの名前が知りたい」

 娘の言葉を聞いて、やっと獣にもわかりました。
 ベル。それは娘の名前だったのです。
 木の皮になすりつけられた、線の様な絵のような何かは、きっと人間の使う文字とかいうものなのです。

 けれど獣には文字が読めませんでした。残念な気持ちになって、獣は首を振りました。

「獣さんは、文字は読めないのですか?」

 頷きました。
 獣の首が動くのを見て、娘も頷きました。

「もし、私がワガママにも、あなたに文字を覚えて欲しいとお願いしたら、
 ……それであなたとお話しがしたいと言ったら、あなたは文字を覚えようとしてくれますか?」

 獣は何度も頷きました。夢の様にステキなアイデアだと思いました。娘も笑って頷き返しました。

 娘の持って来た木の実を一つ、つまみ上げ、太く大きな指先で、獣もそれを潰しました。
 そして娘にとっては大きな、獣にとっては小さな広げられた木の皮の上に、……それは細かい作業だったので苦労しながら、獣も汁をなすりつけました。
 少し不格好でしたが、なんとか「ベル」と書き終えて、それから娘の顔を見て、深く頷いてみせました。
 自分はあなたの名前を覚えた。
 自分はあなたの名前を忘れない。
 そう、伝えたくて。

 娘の笑顔が深くなって、獣は嬉しくなりました。
 笑顔というものを、獣はつくったことがありません。自分にその表情が上手くつくれているのか不安ではありましたが、娘が笑顔のままだったので、獣は安心することができました。

 獣と娘との生活がはじまったのは、もう数年前のことでした。けれどこの日初めて、獣は「誰かと暮らす」ことを覚えました。

 春に娘が花を摘めば、獣はもっとたくさんの花を集めました。
 夏に娘が木の実を集めれば、獣はもっと甘い木の実を集めて娘に渡しました。
 秋に娘が獣を飾れば、獣はもっととりどりの葉を集めて、娘も、娘の寝床や生活空間をも彩りました。
 冬に娘が凍えそうになれば、動物たちの毛の上から、さらに自分のしっぽでくるんでやって、娘の体をあたためました。

 獣は言葉を発せませんでした。
 けれど娘は文字を教え、獣は文字を覚えました。

 娘の名を覚えました。
 森、動物、鳥、湖、木の葉、木の実、草木の名前を覚えました。
 挨拶を覚えました。
 喜ぶこと、怒ること、悲しむこと、楽しむことを覚え、それをどう文字で書き表すのかを覚えました。
 獣には名がありませんでしたが、娘がつけてくれました。
 その名には「強さ」と「優しさ」と「気高さ」の意味がこもっているのだと娘が教えてくれたので、獣は与えられたそれを大層気に入りました。
 自分の名を覚えました。
 自分の名を呼ぶ、娘の声の軽やかさを覚えました。

 獣は娘の優しさを知りました。
 娘の強さを知りました。
 娘の肌の柔らかさ、声の細さ・高さ、あたたかさ、腕の細さ、指の小ささを知り、それで撫でられる時のくすぐったさも、それで抱きしめられるときの泣きたくなるような気持ちも知りました。

 獣は孤独でした。
 娘との生活の中で、獣はかつての自分が孤独であったことを知りました。
 今はそうではないのだということを知り、これを守りたいと思いました。
 深く、強く、思いました。


 獣と娘との日々は続きました。
 娘はいつしか成長し、手足はすらりと伸び、体にはふくらみが実りはじめました。
 獣と娘とは、いつも寄り添って暮らしていました。

 そんなある年の、ある日のことです。もう何年も姿を見せていなかった森の主が獣のもとを訪れ、言ったのです。

「その娘の父親が来ているよ」

 獣も娘も驚きました。娘と父親とが別れたのは、もう10年近くも昔のことです。

(自分の身を助けるために娘を捨てておいて行ったくせに、なぜ今になって)

 そう考えて、獣は怒り、喉を唸らせました。
 娘もきっと自分を捨てた父親を恨んでいるだろうと思い、振り返ります。

(!)

 けれど振り返った先のベルの表情は、怒りとは別のものでした。
 娘は主にたずねます。

「なぜ父は今になって、またこの森にやって来たのでしょう」

 主は笑って答えました。

「今になって、ではないよ。娘、お前は森の中程よりも奥近くでずっと暮らしていたから、知らないのだろうけれどね。
 お前の父は、お前を捨てて逃げたあの年から、毎年、この森を訪れているのだよ。大きな荷物を背負って、毎年、何日も何日も、お前を探して彷徨っていたのだよ。
 そんなことをもう10年近く。お前が生きているとも知れないというのに、あの男は懲りずに続けていたのだよ」

 獣にも娘にも、そんな話は初耳でした。
 何かを考え込むような表情になった娘を獣が見やりますが、口を開いたのは主でした。

「娘。お前にそうする権利はないよ」

 主に言われた娘は、はっとしたように顔を上げ、それから泣きそうな顔をして俯きました。主は獣に向かって話しかけます。

「あの父親は今、どうやら深刻な病に蝕まれているらしい。この森にやってくることが出来るのも、今年が最後かもしれない。
 お前はその娘の持ち主となったのだから、持ち物の父親にだって何か心残りがあってはいけないと思い、こうして知らせに来てやったのだ」

「お前はどうしたい」と主は、獣に尋ねます。
 獣は隣で俯く娘を見やりました。娘の顔色は今にも倒れてしまいそうな程にひどく悪いものになり、伏せた瞳には涙が浮かんでいました。

「……」

 獣はたまらない気持ちになって、長く太いしっぽで、そっと娘の背を撫でました。そうしてから、主の瞳をしっかりと見据えます。

 何も言葉は発しませんでした。
 けれど主には、獣の考えが正確に伝わったようでした。

「お前はそれで、いいのだね?」

 言葉のないまま、獣はしっかりと頷きました。

 獣は人間の言葉を理解できます。けれど人間の言葉を発することはできず、人間には獣の言葉を理解することができませんでした。
 だから獣と人間とは、これまでどれだけ望んでも、対話を試みることができなかったのです。

(でも、いまはちがう)

 獣は思いました。今ならきっと、できるはずです。言葉を覚え、挨拶を覚え、文字を覚えたのですから。
 今なら、これなら、人間である娘の父親とも会話ができるかもしれません。娘と会話ができたのですから、父親とできないわけがありません。

 獣は娘を見て、娘が父親を心配していることを知り、父親と会わせてやりたいと思いました。
 獣にとって娘は大切な存在でした。かけがえのない、唯一の存在です。ですから娘の心配や悲しみは出来る限り取り除いてやりたいと思ったし、娘が望むのであれば、父親の病気がよくなるまで、父親の元に返してやっても良いとさえ思いました。
 娘を一度捨てた父親です。もう10年も会っていない父親です。
 けれど彼はたしかに、娘を探しに来ていたようだし、娘は父親をひどく心配していました。大切だからこそ、娘の望みを叶えてやりたいと思ったのです。

 ともかくは一目、会わせてやりたい。それが一番でした。
 父親と顔を合わせ、二人で話しをさせ、そうしてから、獣もこの父親と“会話”を試みるつもりでした。
 娘を大切に想っていること、娘もおそらく自分を大切に想ってくれていることを伝え、自分に向けて捨てられた娘ではあるが、病が治るまでは、娘が望むのであれば返してやってもいいと考えていると教えてやるつもりでした。

 父親は、森のごく浅い部分、入り口の近くを彷徨っていました。主が獣と娘とをその場所まで案内します。獣は両手に、たくさんの木の実と木の皮を広げたものとを持って、主の後に続きました。

 深く、暗い森ですが、入り口に近づくにつれ、太陽の当たる場所が増えてきました。辺りの明るさが増し、ぽかっとひらけた日だまりのような場所が見えてくると、
「父さん……!」
 その場所の中心に、娘の父親がおりました。

 娘が父を呼び、父は娘の名を呼びました。
 そうして互いに走りよって行って、強く、しっかりと抱き合いました。
 すまない、すまないと詫びる父に、娘はただ首を振って答え、涙を流すばかりです。

(……)

 それはとても美しい光景でした。
 父と娘とが確かに愛し合い、心から再会を望みあっていたのだと、一目でわかる光景でした。
「ずっと会いたかった」と娘は言いました。
「寂しくて仕方がなかった」とも言いました。
 そして小さな、嗚咽する呼吸にのせるような声で言いました。
「帰りたい」と。

 獣は悟りました。
 
 獣は孤独でした。怒りと悲しみと空虚さだけの生き物でした。
 そこに違う、何かあたたかいものを注ぎ込んでくれたのが娘でした。だから娘が大切で、大好きで、娘といられてしあわせでした。
 娘はいつも笑顔でしたので、娘もきっと同じ気持ちなのだろうと、獣は考えていたのです。
 けれどそれはおそらく、獣の勘違いでした。娘はこんなにも父親に会いたがっており、恋しがっており、寂しがっており、泣きじゃくるほど「帰りたい」と願っていたのです。

 知っていたはずでした。
 娘に出会ってすぐのころ、獣は確かに感じたはずです。娘の様子は全て虚構であり、偽物なのだと。笑顔も明るさも礼儀正しさも、森で一人残された娘が他者の力に依存して生き残るための知恵であるだけなのだと。
 知っていたはずでしたのに、「そうではない」と今この瞬間まで思っていたのは、忘れたかっただけで、思い出したくなかっただけで、獣が「そうではない」と思いたかったからなのでした。

 目の前の美しい光景の中に、獣の立ち入る隙間はありませんでした。
 二人が再会したその瞬間以来、父親はもとより、娘でさえ、一度も獣に目をくれず、存在を気にする素振りさえ見せませんでした。

 獣は主に視線を向けて、森へ帰ろうと告げました。
 主は再び、しかし今度は目線だけで「本当にいいのか」と確認してきましたが、獣は今度も頷くだけでした。「お前の望む通りにしよう」と、主も頷き返しました。
 あの美しい光景が繰り広げられているのは、森の入り口のすぐ傍です。ですから出口に迷う心配もないでしょうし、主が認めた二人ですので、森の他の存在たちも、父娘を邪魔することや、父娘が森を出て帰って行くことを邪魔したりはしないでしょう。

 獣はひとり、しっかりと用意して両手いっぱいに抱えていた木の実も木の皮も抱えたまま、森の奥へと引き返しました。

 その日の朝まで娘のいた、娘の作った、娘のにおいのする寝床で、一人きりしっぽをくるりとまるめて、それに縋るようにして眠りにつきました。
 しっぽにはまだ娘の香りが残っていて、それでまた、しあわせな気持ちになることができました。

 獣は再びひとりになりましたが、もう、孤独ではないと思えました。


 娘は去って行きました。娘の顔を見ることも、声を聞くことも、名前を呼んでもらうことももう二度とないでしょうが、それでもいいと思いました。娘がしあわせに生きているのであればそれでいい、と。

 しかし翌朝、泉で顔を洗い、喉を潤していた獣の元に、再び主がやってきました。にこにこと笑って、楽しそうに獣に言います。

「お前、よく娘を返したね。
 わたしはてっきり、お前は娘のことが好きで、娘のことが大切なのだと思っていたよ」

 獣は視線だけで返します。「その通りだ。だから娘を、人の世界に返したのだ」と。
 主は目を見開くようにして驚き、それから大声で笑い始めました。その様子はいかにもおかしげで楽しそうで、そしてどこか、獣をバカにしたもののようにも見えます。

「何がおかしい」と言いたげな獣の視線に気づき、主は目尻にたまった涙を拭いながら言いました。

「笑ってしまって悪かった、獣よ。バカにしたわけではないのだ。
 ふふ、ははは!
 しかし獣よ、お前はこの森の外から来た異物であるというのに、この森を出ることのできないわたし以上に、人間のことがわかっていないようだね」

 人間に近づかず、関わらず、少しも知ろうともしなかったのだからそれも当然だと、主はなおも笑い続けます。

 笑われる理由がわからず、少し不機嫌になって獣は主に視線を送りました。主はしばらく笑い続け、やっとおさまってきたころ、ニヤリと笑って言いました。

「遠くないうちに、きっとあの娘は死ぬよ。殺されるんだ、父親に」

 獣の思考が固まりました。

「信じられない、と言った顔だね。
 あの父親は娘を愛していたはずだ、大切にするはずだ、って? そんなことをする理由がわからないって?
 あぁ、同感だ。わたしにもまったくわからないよ。……けれどね、人間というのは、どうやらそういうもののようなのだよ」

 黙ったままの獣に主は続けます。

「人間の、特に夫や父親といった役目を持った者たちは、自分の妻や娘が汚され、傷物にされることをひどく恐れ、嫌うのさ。
 清浄に保ち、純粋さを命と同じ程大事に守るくせに、いざそれが叶わなかっただとか、かなっていないかもしれないだとかの事態がうまれた途端に、今度は、そうなった妻や娘の存在が許せなくなるのさ。
 嫌いになる、というわけではないよ。
 本人たちはそれで愛しているつもりなんだ。
 心底悲しみ、心を痛め、妻やら娘やらを想った結果として、汚れ傷ついてしまった不幸から解放するために、思いやりの結果として、その者達を手にかけるのさ。
 おかしいだろう?
 不幸だとか可哀想だとか、それが悪いことだとかもう一生取り戻せない傷であるとかと勝手に決めて、そうして、勝手に殺すのさ」

 獣にはわかりませんでした。
 まったくもって、少しもわかりませんでした。
「誤解だ」とも思いました。自分は娘を慈しみ、大切にし、……一度突き飛ばして骨を折ってしまったことがありましたが、それ以降は、傷をつけぬよう心を配り、この数年はむしろ、大切に守って来たつもりでした。
 鼻先で娘の髪をくすぐったことはありました。
 爪の先で娘の指に触れたこともありました。
 しっぽで娘をくるんだこともありました。
 けれど、それだけです。それだけで、娘は汚れたのでしょうか。傷ついたというのでしょうか。

 混乱する獣の思考を正確に読み取ったように「関係ないのさ」と主は言います。

「可能性が生まれてしまっている、それだけでもう、理由は十分なんだ。汚れてしまったかもしれない、傷物になってしまったかもしれない、ってね。
 真実がどうかなんて、殺す側にとっては、最終的には関係ないんだ。そんな不名誉な噂で大事な妻や娘が傷つき苦しむくらいなら、いっそ自分の手で安らかに……って。
 愚かだよねぇ。そうした自分たちの思考こそが、誰かの妻や娘を追いつめ命を奪う結果に繋がっているというのに。
 第一に、少しくらい汚れても傷ついていたとしても、それはそれ。
 それをどれほど不名誉や汚点と思うかも、もしくは全く思わないかも、そんなことは当人だけが決められることなのだろうに。
 そうだねぇ、あの父親、もうさして先は長くないようだったから……あぁ、もう間に合わないかもしれないねぇ」

 主はおかしそうに笑いますが、獣には少しも笑えませんでした。
 そして思い出しました。だって人間は、そういう動物だったではないか、と。
 勝手な解釈。勝手な意味付け。時には勝手に忌まわしいものだと考え、そうして牙を剥いてきたではないか、と。
 前日のことを後悔しました。
 どうして父と会わせてしまったのか。どうしてその後、二人きりにしてしまったのか。帰してしまったのか。
 会わせなければよかった。帰さなければよかった。
 あのとき父親に話しかけていれば。
 主は「可能性だけ」で十分なのだと言っていたけれど、娘が汚れても傷ついてもいないことをちゃんと伝えられていれば。
 そうできるための道具なら、両手いっぱいに抱えていたのに。

 固まったままになってしまった獣に、主は言います。

「知りたいかい?
 獣よ、あの娘がどうしているのか、どうなっているのか、どうなったのか、知りたいかい?
 会えるのであれば会いに行きたいと、そう思うかい?」

 獣はぎこちなく頷きました。知りたいに決まっています。会いたいに決まっています。
 けれど、獣は獣でした。
 人間とわかりあうことなど限りなく困難な外見をしていて、その上道具がなければ、言葉を紡ぐことさえできなのです。こんななりで、こんな状態で、娘の元へ向かうことなどできるわけがないと思いました。

 主が、にぃっと、口を耳まで裂いて笑って言います。

「獣よ、わたしならばお前の望みを叶えてやることができるかもしれぬ」

 驚いて、獣は主を見つめました。

「お前があの娘の元に行けぬのは、その外見のせいであろう。言葉を紡げぬせいであろう。
 獣よ、わたしの力であれば、お前に人型の容れ物を与えてやることができる。お前の体を、人型につくりかえてやることができるよ。
 一度それをしてしまったら、もう二度と、今の姿に戻ることはできないけれどねぇ。
 どうする? どうしたい?
 お前がその、立派な筋肉も、豊かな毛並みも、よく聞こえる大きな耳も、太く長いしっぽも全て失い、不便で柔らかいだけの人間の体になることを望むのであれば、私と契約さえ結んでくれれば、それを与えてやってもよいよ」

 契約、という言葉が耳に残りました。自慢の体躯を、毛並みを、機能を失うことよりも、その言葉の方が恐ろしく響きました。
 簡単なことだよ、と主は言います。

「私は人間に興味がある。あの生き物は、とても不思議で、とても無様で、とても醜く、とても面白い。
 けれど私はこの森の主だ。最奥の湖を司り、森を守るのが仕事だ。よってこの森から外に出ることができない。
 ……だから、ねぇ、獣よ。お前、私が人型の体を与えたら、お前には私のかわりに人間の世界に入り込んで欲しいんだ。
 人間を見て、人間を知って、そうして私に教えておくれよ。人間とは何を考え、何を想い、何をして生き、死ぬのか。たくさんの人生の形をあつめて、それを私に伝えておくれ。
 お前のこの先の時間を、命の続く限り、私のそれのために使ってくれるのであれば、お前の望みを叶えてあげる。
 ……どうだい、してみるかい?」

 主の話は、まるで途方のないもののように聞こえました。
 人間と話したことも、娘以外の者に触れたこともなく、娘と出会うまではむしろ出来る限り関わらぬようにして生きて来たというのに。
 けれど、獣は頷きました。
 どれほど無謀に聞こえようと、気が進まなかろうと、途方もないものであろうと、人の世界の中に入っていくという嫌悪に吐き気を覚え、古傷に燃えるような痛みを感じようと。
 それらのどれも、主の誘いを断る理由にはならならなかったのです。

 娘と自分とは、同じ想いだと思っていました。
 それは自分の“勝手な”勘違いだったと、思いなおしたところでした。
 けれどそれがなんだというのでしょう。
 娘の見せる表情や言動の全てが虚構であり、偽物であり、生き残るための知恵であったとして、それがどれほどのことだというのでしょう。生き物である娘が自分の命をつなげようと努力することの、どこに悪点があったでしょう。

 娘はかつて獣を救いました。
 だから今度は自分の番だと思いました。
 もう手遅れかもしれません。けれどそうではないかもしれません。まだ、間に合うかもしれません。
 獣にとってこそ、可能性だけで十分でした。
 可能性だけでも残されているのであれば、それに賭けてみる価値があると思いました。

「よろしい、獣よ。
 それでは今より、お前の命の時間は私のものだ! かわりに人型をあげる!」

 主は言うと、
「!」
 体を、おそらく本体なのであろう水の姿に変え、獣をすっかり包み込みました。
 水は刺すように冷たく感じられましたが、全身には焼かれたような痛みが走りました。身体中の毛がむしりとられ、目も耳も鼻も抉られ、しっぽは引きちぎられた様に感じます。
 巨大な水の中では呼吸もできず、息苦しさと堪え難い痛みとで、獣はとうとう、気を失いました。


 どれだけの時が経ったのかはわかりませんでした。
 吹く風に体を冷やされて目覚めた時、獣はもう、獣ではありませんでした。


 背は縮み、毛は抜けて気味の悪い肌色が表面に露出し、爪は丸く柔らかくなり、脚も腕も手指も細くなっていました。
 自分の体から絶えずにおっていたはずの乾いた太陽のような匂いはもう僅かもしなくて、泉のような湖のような雨の雫のような、水のような匂いばかりが漂っていました。
 見えていたもの、聞こえていたもの、におっていたにおいはそのまま知覚することができましたが、それらに対する意味付けは大きく変わっていました。今までとはまるきり別の世界に放り落とされたような心地です。
 立ち上がろうとした時には、尾がないせいでバランスを取るのに苦労しました。

 這う様にして近づいて、傍の泉に自身をうつしてみました。獣だったときと色の同じ長めの毛髪を持った、冷たい程白い肌の人間の男がそこにいました。

「……」

 信じられない気持ちでしたが、自らの体を出来る限り隅々まで知覚し、うつした姿をしげしげと眺めてから、かつて獣であった男は、震える指先で喉に触れました。
 そして、「****」と口にしました。
 娘に与えられた名前でした。

 声が出ました。人間の言葉を、確かに発することができました。
 これでやっと、これならきっと、娘を探しに出掛けられます。名前を名乗ることもできます。
 姿はすっかり変わってしまったけれど、自分は体毛と同じ色の髪の毛をしているし、それに自分には、娘の与えてくれた名があります。
「きっと自分だとわかってくれるだろう」
 そう考えれば緊張も不安も、少しだけ和らげることができたのでした。


 こうして獣だった男は人間となり、人間の世界へと旅立って行きました。

 その後男と娘がどうなったのか、それを知る人間はどこにもおりませんでした。

***

「これで、おしまい」

 旅人が語り終えると少しして、小さなため息がふたつ聞こえて来た。

 常であれば、旅人は語りの途中で聞いている者たちの反応を確かめるようにしているのだが、この夜は違った。
 今夜はこの双子と過ごす最後の夜で、だから語ったのは取り立てて特別な物語で。
 語ること自体に懸命すぎて、反応をみる余裕が持てなかったのだ。

 乗り出す様にしていた身を布団に沈めてから、双子が語りはじめた。

「そのあと獣は、男は、どうなったの?」

「それを知る人間はどこにもいなかった、って、今言ってたじゃん!」

「えー、……じゃあさじゃあさ、人間じゃなかったら知ってる人、いるかな?」

「なに? どういうこと?」

「だから、青い鳥みたいな不思議な鳥とか、悪魔さんとか、森の主の人みたいな!」

 弟の思いつきに姉も「なるほど」と思ったらしく、揃って瞳を向けられた。
 今夜は特別だから、いいかな、と判断した。

「そうだね、続きを知っている人間はいないけれど、僕はこの続きを知っているよ」

「聞きたい!」と双子がユニゾンしたので、旅人は語りの続きを話し始めた。

「……その後獣だった男は、無事に、娘の元にたどり着きました。
 感じ取れる匂いの意味は変わってしまっていましたが、獣だった男は、娘の匂いをしっかりと覚えていたのです。
 聞いた話によれば、娘と父親とは無事に森を出ることができ、しかし娘に手をかけるより先に父親は、道の途中で病に倒れ、そのまま息をひきとったのだということです」

「よかった、会えたんだね!」
「女の子は、生きていたんだね!」

「……けれど娘と再会した獣だった男は、娘に名乗り出ることはできませんでした。
 獣だった男が娘を探し出し、再会できるまで、人間にとっては幾分か長い年月が経っていたのです。
 5年でした。
 その5年の間に、娘はさらに成長し、大人の女性になって、既に伴侶を得ていました。まだ幼いながらも、立って歩ける程の年齢の子どもをもこしらえています。
 人型を手に入れた自分以上に、娘は変わってしまったのではないかと獣だった男は考え、わずかに怯えました。
 獣だった男は、それでも一度、通りすがりの旅人だと名乗って娘だった女の前に姿をあらわしました。
 姿形はすっかり変わってしまっても、かつての体毛と同じ色の毛髪を持っています。
 気づいてはくれるだろうか、どうか気づいて欲しいと願いながら、人間として、獣だった男は彼女の前に立ったのです。
 彼女は、男の正体に気づいてはくれませんでした。
 娘だった女は、長く離れていた父親と再会してすぐ死に別れたことや、その後棲みついた村でどのようにして伴侶である夫と出会い、関係を育み、子を得、育てて来たのかなど、時には悲しそうに、時には楽しそうに詳しく聞かせてくれましたが、かつて森で暮らしていたことやそこでの出来事、そこで出会った生き物のことは、彼女の話には一度も出ては来ませんでした」

「……そうなの? どうして?」

「その人は、森のことはもう忘れてしまったの?」

「獣だった男は悟りました。
 娘だった女はすでに、新しい生活を始めているのだということを。
 たくさんの話を聞かせてくれたのにも関わらず、不自然な程に一度も森での話題が出て来なかったのは、娘だった女が森のことを忘れてしまったからではなく森でのことを忘れたがっているからなのだ、ということを。
 そうすることを彼女は選んだのだ、ということを。
 娘だった女はしあわせそうでした。
 それならばいいと思いました。娘の与えてくれた名を告げ、正体をあかし、再びともに暮らすことなどはできそうにもありませんでしたが、それがいい、と思いました。
 娘は生きていました。
 もう一度傍に立ち、同じくらいの目線で物を見、話し、笑顔を見ることが出来ました。それだけでも人型を得た価値があったと思いました。
 女との話を終えると、男は旅立ち、その後女に会うことは二度とありませんでした。
 獣だった男は今も、人間の形をして、森の主との約束を守るための旅を続けているということです。
 ……さぁ、これで本当におしまいだよ」

 語りを終えた旅人を見つめたまま、双子は黙り込んでしまった。
 それから時折ふたりで顔を見合わせ、すんすんと旅人の匂いをかごうともした。
 双子がそれをしてどう感じ、考え、理解したのかしなかったのか、旅人にはわからなかった。

 そのまま双子も旅人も何も話さず、無言の時間がいくらかすぎると、双子のもとからは小さなあくびが聞こえて来た。
 姉のものなのか弟のものなのかはわからなかったが、気がつけば、随分と遅い時間になってしまっている。

「さぁ、もうおやすみ」

 旅人が声をかけると、いかにも眠たそうな様子で双子が頷いた。

「ねぇ、明日、ちゃんといてね」

「わたしたちがおはようって言って、一緒にご飯を食べるまでは、ちゃんといてね。
 勝手に旅立って行ってしまってはダメだよ」

 旅人は笑顔になって頷き、言った。

「おやすみ、また明日」

 旅人がそう言った数秒後には、ふたり分の健やかな寝息が聞こえて来ることになった。

 ズレかかっていた毛布をかけなおしてやってから、外套を綺麗に畳み直し、旅人も寝具に身を沈めた。


 そうして夜が更けていった。




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