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大工たちの遊び心

 五重は下から地・水・火・風・空を表現し、塔の芯柱に描かれた絵模様が約40センチ下方にずれた様子から建築後、それだけ沈下したことが読み取れます。明治の廃仏棄釈で塔内の柱絵が削り取られた様子も見られます。 
 五重塔は仏陀の遺骨を安置するストゥーパーが起源とされ、東寺のものも、空海が唐より持ち帰った仏舎利を安置しています。

 初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を大日如来に見立て中心としています。だからここに大日如来の姿はありません。周りに金剛界四如来と八大菩薩像を安置しています。

 「真言八祖像」とは、真言密教の開祖龍猛から龍智・善無畏・一行・金剛智・丈空・恵果と我が国に真言密教を伝えた空海までの八祖を八幅(8枚)一組の画像としたもので、真言の教えが空海に伝わるまでの歴史を表しています。


                          

 大工さんたちの遊び心かな?

 軒下に目をやると尾垂木の上に邪鬼(じゃき)の彫刻があります。初重の四隅に、ちょうど尾垂木の上で軒を支えるような格好で置かれています。

 邪鬼とは仏教では「押さえ込まれる存在」としてあらわされます。よく四天王が踏みつけているのも邪鬼ですね。身近な邪鬼では天邪鬼(あまのじゃく)があります。「人に反発する、反対のことをする」といった意味で使われています。

 大工たちは邪鬼のこの性格を利用して、屋根を支える束の代わりにこれを置きました。反発する邪鬼の力を利用して屋根を支えようとしたのです。邪鬼達は必死の形相で軒を支えています。

 京都で平安時代から、そのままの地表が残っているのはここ東寺だけと云われています。また京都にある国宝の3分の2は東寺にあると云われています。


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「呂律が回らない」の語源

大原三千院を挟んで涼やかに流れる二つの川は呂川(ろせん)と律川(りっせん)といいます。下から上がっていくと、三千院の手前が「呂川」、三千院を右に見ながら、さらに進み右に「大原陵」「大原法華堂」を通り過ぎたところに「律川」があります。 朱色の橋越し真正面には、勝林院が見えます。

 呂と律は、音階、あるいはわかりやすく言うと曲調のことで、同じお経でも、短調の呂調で唱えるか、それとも長調の律調で節を回すかで、まったく異なる音楽となるんです。声明の音階を上手に取れない修行者の様子を 「呂律が回らない」といったんですね。

 大原の二つの川にこの名を冠していることからも、この地が声明の本拠地であるといえます。

 三千院は、また梶井門跡と呼ばれ、古くは東坂本に里坊があったんですが、中世以降、大原魚山の来迎院、勝林院、往生極楽院などの各僧坊を監督するために大原に政所を設けたのが前身となります。明治になって三千院と公称するようになりました。

 比叡山延暦寺を開いた伝教大師(最澄)が、東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、その後寺地は時代の流れの中で、京都市中を幾たびか移転し、その都度呼び名も円融房、梨本房、円徳院、梨本門跡、梶井宮と変遷してきました。


        


 応仁の乱後、梶井宮の政所であった現在の地を一時仮御殿とした時期以外は、明治維新まで、御所の東、今の府立病院の場所ですが、御殿を構えていました。

 堀川天皇第二皇子・最雲法親王が梶井宮に入室して以来、皇族出身者が住持する宮門跡となりました。

 妙法院、青蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室門跡のひとつとして歴代の天台座主を輩出してきた格式の高い寺院です。

ところで、政所としての歴史を有する三千院の御殿門は、城郭を思わせる大きな石垣の上にあるのが分かります。三千院門跡の看板が掲げられています。


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