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それなら、私モーニング担当しましょうか?

「それなら、私モーニング担当しましょうか?」

その発言は、本当にただの会話の流れからだった。
時々顔を出す喫茶店のマスターが、今日も渋い顔をして世の不景気について嘆いた時のこと。

マスターは54歳でバツイチ、現在彼女無し。
気がついた時には世の中不況が当たり前のそば子と違い、バブルを経験している世代である。

当時は証券会社の正社員として仕事も遊びも派手に行っていたそうだ。
あそこの珈琲が飲みたくなった、という理由で海外へも気軽に行っていたらしい。
(私もそんな理由で旅に出てみたいものだ。)

しかし、あれよあれよという間にバブルは崩壊。
勤めていた証券会社は業績が悪化、蜘蛛の子を散らすように次々と社員達は転職して行った。
マスターは当時から瞬発力というか決断力に乏しく、うじうじ考えている間に会社は倒産。
幸いまとまった額の蓄えがあり、マスターは故郷に戻り自分の理想の珈琲屋を開業しようと決めたそうだ。

「でもな、それは幸いなんかじゃなかったんだよ。」
「そうなんですか?」
「貯金が無ければ開業しようなんて、馬鹿なこと考えなくて済んだんだ。」
そこでマスターは、ぷはぁ、とタバコの煙を換気扇に向って吹きつけた。

「不幸中の幸いじゃなくて、不幸中の不幸だったんだな。」
(ねえ、どう思います?こんな54歳の独身男。)

マスターは地元で最もネガティブな飲食店マスターと呼ばれている。
ここ2年位は特に売上が減少し、そのネガティブさに勢いが増しているようだ。

気力も無くなっているのか、飲食店なのに最近店の掃除もいい加減。
ホコリなのか、どんよりした空気のせいなのか、何か澱のような物が床上に漂っている感すらある。

最近この店に来なくなった知人からは「あそこは空気が淀んでいる。」と指摘される始末だ。

カウンターの椅子はがたついており、まるでロデオ状態。
子供は喜ぶかもしれないが、この店の稀少な常連達は中年男性が多い。
つまり大半が腰痛持ちだ。
再三苦情が寄せられているにも関わらず、未だ椅子を直す様子は見受けられない。

居心地が悪いから客足が遠ざかる。
客足が遠ざかるから、椅子を直すための予算を用意できず、いつまでも居心地は良くならない。
そして客が来ないとマスターがネガティブになり、居心地が悪いから客足が遠ざかる・・・。
(何という見事なデフレスパイラル!)

今の日本ではこんな小さな渦が、各地でクルクルクルクル回っているに違い無い。
マスターのネガティブさに辟易した知人も多い。
しかし、そば子は同じ個人事業主として完全に距離を置くことはしなかった。

そう、そば子も個人事業主である。

彼女の名前は曽鳥羽 亜子。読み方はそとばあこ。
それが省略されて「そばあこ」となり、今は「そば子」と3文字だけが残っている。

2年前にマンションの1室を利用してフットマッサージサロンを開業した。
そば子だって決して羽振りが良いわけではない。
月の売上金額だけであれば、マスターの方がよっぽど金額は高いようだ。

そば子の場合、フットマッサージサロンだけでは食べていける程売上は無く、コールセンターでバイトをしている。
他にも単発で声がかかれば試験官だろうが、イラストだろうが、弁当の売り子だろうが何でもやっている。

思いつくこと、自分で出来ること、時間や体力が間に合う限りは試しに何でもやっておこうと考えていた。
それで廃業するしか方法が無かったとしても、納得が出来ると思うから。

「あの時あれをしていれば、今頃うまくいってたはずなんだ。」

とは言いたくない、と考えていたら同じ言葉がマスターの口から発せられた。
先ほどからずっとネガティブな話が続いていたようだった。
(おっといけない、時々合いの手を入れないといい年して拗ねるからなあ。)

「あれって何ですか?」
「ほらあれよ、この前出たムック本見てない?」

そう言ってマスターは背後から厚めの雑誌を取り出して、そば子へ手渡した。

「ああ、市内の喫茶店やカフェを紹介した本ですね。」
「うちも載せませんか、って声がかかったんだけどさあ。」

目次に目を通したがここ「自家焙煎珈琲 喫茶エジンバラ」は掲載されていないようだった。

「俺断ったのよ。」
「これ有料掲載ですか?」

そば子もサロンを営業してから知ったが、情報誌の飲食店や美容室情報は大半が取材依頼されるのではない。
殆どが取材をして「頂くため」に店側がお金をウン万円単位で「お支払い」するものなのだ。

「うんにゃ、無料掲載。地域活性とかで市から予算が降りたんだと。」
「えーっ!無料?じゃあ何で断ったんですかっ!?」

信じられないという表情で思わず大声をあげてカウンターに身を乗り出した。
そんなそば子から、マスターは視線を逸らせて拗ねる様な表情でつぶやいた。

「だってさあー、知る人ぞ知る珈琲屋なのに恥ずかしいじゃない。そういうのって。」

(お前はアホか。)
そば子が思ったのが伝わったのだろうか、マスターは付け加えた。

「いや、だから俺もあの時格好つけなければ、今頃うまくいってたはずだって後悔してんのよ。」
「後悔先に立たずってやつですね。」

白けた表情を隠しもせず、そば子はそのムック本をパラパラとめくった。

「そうやって見ると他の店の情報も参考になるよな。喫茶店のモーニングが人気らしいじゃん。」
「あー、そうですね。私も好きです。」

「ここでもモーニング始めたらいいじゃないですか。」
マスターはギョッとした表情をして、手を激しく左右に振った。

「無理無理無理っ!!だって俺一人で昼の12時から夜中0時過ぎまでやってんのよ?」
「じゃあ営業時間をずらすとか・・・。」

今度は胸の前で両手を交差させ、バツの形を作ってマスターは言った。

「だって俺、朝弱いもん。絶対無理。」
「はあ。」

さすが市内一のネガティブマスターの異名を取る男。
そば子も面倒くさくなり、返事もおざなりになる。

しかし、次の一言でそば子の感情に火が点いた。

「あーあ、あの時格好つけなければ、今頃この雑誌を見て客が来てたかもしれないのになー。」

(それって「あの時モーニングを始めていれば、今頃客が来てたかもしれないのになー。」とか言うんじゃないの?
あああ、面倒くさいっ!)

そう思った瞬間、「それなら、私モーニング担当しましょうか?」と言ってしまった。
そば子も自分の口から発せられた言葉に驚いた、という訳である。


 


モーニングの値段をいくらにしよう?

「いいよー。どうせ家賃は営業時間が長くても短くても同じ値段だし。」
マスターはのほほんと言った。

自分でも「器用貧乏」「何でも屋」と言っているそば子だが、まさかこんなノリで始めることになるとは思っていなかった。モーニングは好きで色々な店に行っているとはいえ、飲食を仕事とするのは相当久しぶりだった。

(ええと、まずは何から決めれば良いの?)

そば子は自分のサロンを開業した時のことを思い出した。

どんなお客様がいらっしゃるのかを設定し、そこから店の地域や具体的な場所を考える。
もしくは店の場所を決めてから、そこであればどんなお客様がいらっしゃるのかを考える。

そのお客様に合わせた店の内装は?色は?家具は?小物は?
マッサージのコースはどんなものを用意する?

近郊の同じようなサロンの価格はいくら?
それをふまえて、私はいくらに設定するの?

お客様に使用するタオルの色、質感は勿論のこと。
大量に洗濯することも考えて乾きが早い薄手の物で、ギリギリ安っぽくないような物はどれだと探し回った。

ソファはネット通販で購入したが、脳内で3Dに変換して部屋に置いたバランスを想像しながら選んだ。
実際に見たことも無い物が一斉に揃っている状況をイメージするのは、本当に大変な作業だった。
終わった後は脳が搾り取られたようで、そば子はぐったりしたものだ。

(エスパーの戦いってこんな感じなのかしら、と思ったのよね。)

その時に比べれば、今回は楽である。
すでにハコである店はある。調理器具や食器などの什器も揃っている。
まず最初に決めることは、いつ営業するかと何をいくらで出すかである。

「えー、別にいつからでもいいよ。俺が起きるわけじゃないんだし。」
いつから営業するかに関しては問題無し。つまりそば子のやる気次第だ。

「決まったらそれに合わせて珈琲焙煎しておくよ。」
「え?日中と同じ豆使わないんですか?」

「朝に昼と同じ価格帯の珈琲は出せないでしょ。」
「まあ確かにそうですね・・・ここ、1杯500円だし。」

「本当はうちのブランドイメージを考えると朝でも安くはしたくないんだけどねえ。」
マスターは軽くアゴをあげ軽く眉間に皴を寄せて、苦悩しているような顔をした。
(この店にそんなブランドイメージなんてあったのか。)

「原価の抑えた豆を使って朝専用の珈琲を作るよ。単品では最低350円で出してね。」
「モーニングセットに出せる価格ってせいぜい500円ですよね。」
「そうね。喫茶店だと500円から600円ってところでしょう。」

そば子が一人でまわす以上価格設定もシンプルにしたい。
何をいくらで出すか、の値段はこれで決まった。
今度は何を出すかだ。ここが一番難しい。

ファーストフードやパン屋併設のモーニングセットは300円から400円位だったはず。
それよりも100円以上多く頂くのだから、その分の価値が無いとダメだ。

メニューそのものに限らず、例えば店内の音楽、窓からの眺め、利便性などもそれにあたるだろう。
それから店の雰囲気。そば子はマスターのいるカウンターの棚から、誰もいない店内全体を見渡した。

(・・・まずは掃除をしなくちゃ。)
ため息をついたら埃が舞ってしまうんではないかと思い、そば子は横を向いてそっとため息を吐いたのだった。

そば子、まずは店内の清掃に入る予定。

「よっ、こらせー。」
そう掛け声をかけ、そば子は重量挙げの選手のように、ビルのシャッターを上げている最中だ。
腰を深く落とし、膝を曲げて足全体はひし形の状態となっている。
何とかシャッターの真下に潜れる位置まで上げ、そば子は両手を頭の上に並べた状態で押し上げた。

(周囲から見たらあれだ、私ってば車のジャッキみたいよね。)

一応そば子とて女性の端くれ、出来ればこんな格好はしたくない。
しかしこのオンボロ雑居ビルの入り口のシャッターは、こうでもしないと持ち上げることが出来ないようなのだ。

余りの動かなさに電動式かと思いスイッチを探してみた。
そんな話は聞いていなかった通り、やはり壁面にはそれらしい物は見当たらなかった。
立った状態でぶつからない程度まで上げれば、後は専用の棒で押し上げられるとは聞いていたけれど。

(そもそも、その高さまで上げるのがこんなに大変だとは聞いてなかったわよ!)

普段はビルのオーナーである老人が、シャッターだけは開けに来ているらしい。
一度だけ見かけたことはあるが、大家は小柄で細身の体力は無さそうな老人だったと記憶している。
今度コツを聞いておこうと考えながらなんとかシャッターを上げ、階段の脇にある郵便受けへ近寄った。

喫茶エジンバラはピッキング対策で鍵全体を交換してから、スペアキーという物が無いそうだ。
(大家さんとマスターの分だけという意味だとは思うが。)
そのためマスターが退店する際、一本しか無い鍵を郵便受けに入れて帰ることに決めた。

郵便受けの扉には南京錠がつけられており、そのスペアキーをそば子は預かっている。
そば子としても店のスペアキーを預かりたくは無かったのでとても良い方法だと思った。
何故なら何かが起こった時に、あらぬ疑いをかけられるのはゴメンだからだ。

そもそも1日の売上は勿論、つり銭まで毎日持ち帰っているにも関わらず、ピッキング対策に鍵を付け替えるという時点で、どれだけマスターが猜疑心に満ちているか想像できる。

お金以外でこの店にある物といえば、CDの山と仕入れた酒と焙煎した珈琲位だ。
壊れているも同然のイスや、テーブルは居抜き物件なのでマスター個人の財産ではない。
強いていえば価値がありそうなのはオーディオセットだろうか。
ただ、これを運び出すとしたら相当大掛かりな作業になるはずである。
バスターミナル目の前のこの店で、そんなリスクを犯すほどの価値はあるとは思えない。
(などと言ったらマスターにクドクドとオーディオセットの希少性について語られるだろうが。)

郵便受けに付けられた南京錠を開け、そば子は扉を開いた。
「封筒に鍵を入れておくから。」そうマスターは言っていた。しかしそこには…。

「封筒ないんだけど。」

掃除をするために普段より早起きをしたそば子は、体に疲れが沸いてきたのを感じた。
そこには封筒は見当たらず、何故か丸めたティッシュが1つコロンと転がっていただけだった。

(まさか…。このティッシュに入っているなんてことは…ないよね…?)

オンボロの雑居ビルの誰でも通れる一角にある郵便受け。
上階には小中学生向けの塾が、地下にはバンドマン達が練習するスタジオがある。
男の子達が通路にたむろしたり、騒いだり、悪戯したりするとはマスターから聞いていた。

そもそも喫茶エジンバラの常連もクセがある人達が多い。
マスターのネガティブさは、ある種の「何をしてもいい」という相手の攻撃性を引き出すことがある。

(嫌がらせに鼻をかんだティッシュを入れたとか?)

ふとそば子は、常連客が持ち込んだと思われるエログロ雑誌やDVDを思い出した。
マスターへの屈折した親愛の表現として、使用済みのティッシュを郵便受けに入れる悪戯なんて…。

(無くはない!この店なら無くは無い!!)

「本日は鍵は無かった。以上!」
そば子はそう声に出し、郵便受けの南京錠の鍵を元に戻した。
苦労して開けたシャッターをそのままに雑居ビルの前から立ち去ったのだった。














この本の内容は以上です。


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