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第二回 信仰の形 ~聖☆おにいさん考~

 先日姉が電話で、「聖☆おにいさん」がアニメ映画になると教えてくれた。

 というのも二月に私が一時帰国するからなのだが、残念ながら映画公開の五月にはブラジルに戻っている予定なので、見ることはできない。
 どうしても見たかったかと言われると微妙だが、もし日本にいたらもしかしてもしかすると見ちゃっていたかも知れない。
 一巻~五巻までは日本に置いてある。六、七巻は姉がわざわざ送ってくれた。著者の中村光さんが出産の為休載と聞いた時には、この人は女性だったのかと軽い衝撃を受けたのを覚えている。
 中身を見る前、勝手に中村光さんは中村元さん(インド・仏教哲学界のすごい人)の親類なのかと思ったが、その関係性は今も定かではない。
 さて、本題である。
 私はこの「聖☆おにいさん」ほど「現代日本人」をよく現している本はないように思う。
 聖☆おにいさんを楽しむには、まず以下の要素が必須となる。
 ①仏陀、イエスが何であるか知っていること。
 ②仏陀、イエスがしたことを僅かなりとも知っていること。
 と、この二点さえ押さえていれば大抵の日本人は「笑える」のではないだろうか。(「大抵の」というのは「映画化される程度の」という意味だが。)
 そう、この「笑える」がポイントだ。
 仏陀とイエスをとっ捕まえてその行為に突っ込みを入れ、それを笑い飛ばせる国民なんて日本人以外にはない気がする。
 ちなみに私が聖☆おにいさんで笑えるかというと、そりゃもう思い出し笑いをするくらいに笑い飛ばせる。
 が、はっきり言って怖いもの知らずだと思わなくもない。少なくともクリスチャンに「面白い本があるから読んでみて! え? ギャグなんだからかるーく流そうよ! ははは!」と私は薦めることができない。
 私は生家である母の実家が天台宗であったが、夫の実家が浄土真宗であった為、ブラジルの真宗の寺で結婚式を挙げ、家に仏壇を置き、唱える念仏も真宗のものとなった。余談だが、後に父の実家が同じ浄土真宗東本願寺派であったことを知った時は、奇縁を感じずにはいられなかった。
 誤解なきよう申し上げると、私は在家信者ではない。ごきぶりは瞬殺する。
 阿弥陀仏によってはいるが、イエスに限らず世界のあらゆる信仰の対象は善だと信じている。付け加えるなら、他者や自身に危害を加えることを前提とした信仰は、本来の意味の信仰ですらないと思う。
 だからこそ、どちらの神や仏が正しいかということを元とした争いは、神仏の意思ではなくて人間のエゴだと私は思っている。神という後ろ盾があり、それによって許されているのだと大義名分を得た感情は、時に間違った方向に暴発し、とどまるところを知らない。
 そういうと国規模の宗教戦争をしたことのない日本人は、他人事のように思うかも知れない。しかし、神仏という名の下にマインドコントロールをされていたのは日本人とて例外ではなく、それは世界大戦において顕著である。
 第二次世界大戦終結後、日本から「現人神」はいなくなった。
 廃仏毀釈の末、日本人に神仏の美を訴えたのはアメリカ人のフェノロサだった。
 オウム真理教の一件から、日本の「宗教」に対するイメージは悪化の一途を辿り続けた。
 クリスマス、盆暮れ正月は通例行事となり、あなたの宗教は何ですかと訊かれ、「多分仏教です」とか「多分神道です」と答える日本人が殆どなのではないだろうか。
 何も私は「日本人よ、確固たる宗教を持て」と呼びかけているわけではない。
 しかし今、一体日本人は何を拠り所に明日を生きているのだろうかと思うことが時折ある。
 一概に、日本人は外国にいって自己主張ができないと言われる。控えめだとか遠慮だとかは勿論美点としてよろしいのだが、食うか食われるかの大陸で生きてきた人間の遺伝子はそうそう謙虚にはできていない。
 特に、神という「名」に存在を許されていると信じている人々には、迷いがない。何故自分は生きているのかなどと迷わないし、自分は生きていて許されるのかなどと「問い直す」ことは殆どない。何故なら、「彼らの神」が彼らを必要とし、彼らの存在を愛したのだから。
 愛されている人間は強い。そして、愛を与えてくれるものが不動の存在であればあるほど、その強さは綻びのないものとなってゆく。
 果たして、そういう強さを持っている人間を相手に、「私たち」は主張できる何かを持っているのか、ということだ。
 無論、主張して経済的に世界のトップに躍り出よと言うことではなく、私は日本という国が、日本人という民族が矜持を失い世界の中で淘汰されてゆくことが心配なのである。
 書名を覚えていないので出典として書けないのが申し訳ないが、日本が終戦の折に隷属国にならなかったのは、当時の日本人の高い教育水準と倫理観を見た相手が、それをするのを自ら許さなかった、と読んだことがある。
 私の祖父は健在だが、戦争経験者で実際に戦地にも行ったことがあると聞いた。だいぶ大きくなるまで祖父母の間で寝ていた私は、祖父が何度もうなされているのを見たことがある。私は戦争経験者ではないが、そういった体験から戦争を強く否定するし、今も戦火の下にいる人々を思うと激しく身がつまされる。
 しかし、戦争は否定するものの、戦時中も戦後も日本人には明確に向かう先があったのではないだろうかと思う。日本という国に、日本人という民族に、今よりも誇りを抱いてはいなかっただろうか。
 全体から見れば恐らくは一部であろうが、ブラジルにいる日系人の中には、未だに「日本系」であることに誇りを持っている人々がいる。
 それが他民族排除に繋がっては本末転倒だが、自分の民族に誇りを持つのは決して悪いことではない。
 民族は、風土、文化、言葉諸々の集大成に違いなく、自身が豊かな世界の一片を担っていると実感できるものである。
 長い長い時間をかけて、多民族であったろう土地は単一民族国家と呼ばれるようになり、その文化を熟成させてきた。そして現代、「聖☆おにいさん」を生み出すまでになったのである。
 この本の真髄は、実に仏陀とイエスを同じ皿に載せて味わっているところにあると思う。
 世界の宗教が相反するのはおかしいのではないか。
 宗教に触れて笑顔になるのが一番正しい形ではないか。
 仏陀とイエスを一緒に丼に盛れる日本人ならば、世界に新しい信仰の形を見せることもできるのではないか。
 どこぞの哲学者ではないが、私は今こそ日本人よ「自然に還れ」と声を上げたい。(注:ルソーは未読なので突っ込まないように)
 特定の神仏を拝するのは抵抗があるという人も、たとえば木がなければ人間は一秒も生きていけないということには同意頂けると思う。
 ではその木は誰が作ったのか。
 私たち人間は木の命を奪い、植樹することはできても、「木そのもの」を生み出すことは決してできない。木を育てるのは地球である。私たち人間が人間の母体であるのと同じように、地球は全ての母体であり、それがどこから来たのか私たちに今知ることはできない。
 そういった人知の及ばぬものに対し、礼や感謝や自分の生きる拠り所を見つけられたならば、その時こそ私は正しく強くあれるのではないかと思っている。
 強さとは、他者を征服することではない。
 強さとは、他者に自分の正しさを武力や権力で認めさせることではない。
 強さとは、自分と他者の命の尊さを認めて受け入れ、限られた命を懸命に生きていくことである。
 日本人にそれができるか、という問いに、私は力強く頷きたい。
 いや、自然と共に生きてきた日本人だからこそ、その気質を今こそ生かせるのではないかと思う。
 付け加えるなら、日本人でなくともそれは当然できるのである。しかし、私は今日本語を遣って、それを理解する人々(多くは日本人かと思われる)に伝えたいと思ってこの文章を書いているので、意識して主語を日本人に限定している。他民族のことは他言語で書いてくれる人がいるかと思う。
 私は時に「どうしてそんなに強いんですか」と言われることがあるのだが、(十六歳の少女から見ればそりゃ三十六歳の女は図太いだろう)そう言われる言動の原因を突き詰めてゆくと、私はやはり「生かされている自分」を自覚しているのだなと思い当たる。
 私は自然に生かされている。それは事実であり、何者にも曲げられはしない。
 そして世界のどの人も、自然によって、生かされている。
 あなたの心の拠り所は何か、と私は問いかける。
 それに即座に答えられる人は、この文章から、こんな人間もいるのだと笑って頂ければ幸いに思う。
 けれど、少しでもそこに迷いを感じるならば、窓の外にある、一本の木に目を向けて欲しいと私は強く願う。
 最後に、詳しくは別の機会に譲るが、自分を育んだ土地というのは、やはりその人の人生に大きな影響を持っていると私は思う。
 だからこそ、産まれた土地を流され、汚染された人々のことを思うと、私は日本人として、苦しくてならない。
 
2013年1月21日

第一回 言霊

 今朝、散歩をしていたら、言霊についての思いが纏まって手の平におちてきた。
 
 私は何よりも強く言葉に興味を持っている。
 故に、言葉の力、言霊を強く信じて疑わない。
 例えば、私は書道を習っているが、うまい人の作品を見てもすごいなあと思うばかりで、そこに嫉妬は生まれない。
 自分の下手さがよく分かるし、人前に出すなどというと全く恥ずかしくてたまらない。
 私は基本的に、文筆以外のことに関しては、全てこういった調子である。
 ルールとして決めているわけではなく、それが私にとってごく自然なことだからだ。
 だから、これらの私のみを知る人は、私のことを何と控えめな欲のない人間なんだろうと思っている。
 自分に心から満足し、誰に嫉妬することもなく、悠々自適に悩みなく毎日を送っていると思っている。
 しかし、もう皆さんが察せられている通りに、私に悩みや苦しみがないわけではない。
 私の痛みは、執筆に集中している。
 想えばこそ、小説に関わった途端、私は業と欲にまみれた人間となる。
 もっといいものが書きたい、もっと広く読まれたい。
 もっと言葉が欲しい。言葉で、世界を、変えたい……。

 そう、私は言葉で人々を、世界を動かしたいと思っている。
 今一度、自然と平和の溢れる、成熟した世界の構築に携わりたいと思っている。
 自然の中にいると、その強さと熱さに胸が震えるが、仮に飢えているとすれば、仮に戦いの最中にあれば、そんな恵みに目をやることはできないのだろうと思う。
 どうすれば貧困がなくなるか。どうすれば諍いがなくなるのか。
 それらの答えを、私は本の中に、執筆の中に探している。

 言霊から話が逸れたが、机に座って仕事をしている作家は安穏としていて、どれだけ危険から遠いのだろうと思っている人は、執筆をしたことがないのだろうと思う。
 言葉の力を強く信じる作家たちは、当然自分が放ったコトバの言霊も強く受け取る。
(ただ最近では、自分が多少なりとも興味、関心のある出来事から作品は生まれてくることが多いので、それに関連する出来事が現実に発生するのは当然のような気もしている)
 しかし、矛盾するようであるが、小説家は文章を操る仕事でありながらも、言霊の影響をダイレクトには受けず、避ける道も残されている。
 何故かといえば、小説家というのは、執筆中もどこかで常に第三者の目を持っていなければならないからだ。
 作中の人物に自己を投影しすぎると、作中の人物が生きず、どころか殺してしまう可能性が高い。
 作中の人物の言葉はその人物の言葉として、「作中で言霊となる」と思えば、作家は何を恐れることがあろう。
 また、裏を返せば、作中で言霊が生きていないのであれば、その作品の中に命が吹き込まれていないということにもなる。
 無論、「書いたことは現実になるのか。だったらこんな恐ろしいことが起こるのは怖いから書かずにいよう」と思うようでは、真の意味で作家ではないように思う。
 何があろうとも書かずには、伝えずにはいられない思いがあり、そして、そのコトバの影響を被る覚悟を持つことが、作家の使命、責任であるように思う。
 だからこそ作家は他の人々と同様、まさしく命がけで働いているのだ。
 また先ほど、小説家は言霊の影響を避ける道も残されている、と書いた。
 しかし私は、詩人は違う、とも思っている。
 詩人は、発する言葉そのものが、その人の心身の破片に違いない。
 そこに第三者は介在しない。
 ワタクシから発せられるコトバは、すなわち世界と大気、宇宙と繋がる。
 発するコトバの振動が、大気を震わせ、世界を動かすのだ。
 そして勿論、詩人も世界に動かされる。
 そう思うと、やはりヘッセは小説家よりも詩人というにふさわしいように思う。

 最後になるが、私は何も、文筆に携わる全ての人間はこんな心意気を持たなければいけない、と言っているわけではない。
 私も書道に対しては語れることなど何もなく、同様に軽い趣味程度の気持ちで文筆にあたる人がいてもそれは良いことに思う。
 ただ、趣味程度の気持ちであればあるほど、安易に乱暴な言葉を遣って、実生活にその言霊の影響を受けてしまっているケースは少なくないように思う。
 インターネットの普及により、昨今は誰でも簡単に発言ができるようになったが、わざと自分で自分を貶める言葉や、他人への不平不満が蔓延していることに、私は少なからぬ恐怖を覚える。
 どんな形であれ文章と共に生きようという思いがないのであれば、良い言葉のみを選んで遣うに越したことはない。
 思うよりも強く、放った言葉はその人の日々、人格を作り、それが積み重なって人生の方向を決める。
 前向きに、などとは言わない。
 それでも私が執筆を通して言い続けたいことは、人間には尊厳があり、それを守り、高める為に、言葉は遣われなくてはいけないということである。

2012年12月5日

この本の内容は以上です。


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