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第1章

 

 ふと目が覚めたとき、二人用のそれほど上等とは言えない寝台車に自分が眠っていることに気が付いた。列車は、音を立てながらも、静かに走り続けていた。ぼくの目に飛び込んで来たのは、朝の明かりに包まれた誰もいない車内の、向かい側の合成樹脂でできたグレーのシートと、ニスを塗った板張の壁、そして、網棚などの光景だった。ぼくは何気なく、窓の外を眺めた。静かな田舎の風景が、音もなく流れて行く。茂みの中から、沿線の古びた石造りの教会が現れたかと思うや、それはすぐ去って行く。遠方には、青い影がうっすらと見えているが、あれは山なのだろうか、それとも丘なのだろうか… 間もなくすると、列車は広い池のそばを走って行く。池には、白いボート小屋があり、いくつものボートやヨットが岸につながれているのが、沿線の茂みを通して見え隠れする。そうかと思うや、今度は、広大な畑が一望の下に開けて来たりするのだった。空は、少し曇り模様で、あまりいい天気とは言えなかった。しかし、こうして列車に揺られているうちにも、セーラのいるあのルブライラは、どれほど遠くへ去ってしまったことだろう!

 ぼくはふと、昨晩、ママの旅立ちの日の出来事を思い出しながら眠ってしまったことに気が付いた。もう何十年も前のあの日、一人の家出娘を乗せた列車は、どのように田舎の鉄道を走り、そのときの空や、沿線の風景は、どのように彼女を迎えてくれたのだろうか。それから数十年が過ぎ去った今、その日の出来事を、知るすべもぼくにはなかった。そのことを知っているのは、ただママの心の中、それだけなのだ…

 ママは、あの静かなリトイアの片田舎の村サビーノを旅立ってから、どのように、あの大きな都会メロランスに吸収されて行ったのだろうか。そのときの彼女の心の輝きが、ぼくにも分かるような気がした。恐らくママは、列車の中で周りの景色や乗り合わせた他の乗客たちの様子を見たりしながら、ただひたすらそのときが来るのを待っていたに違いないのだ。そのとき――すなわち、未だ見たこともない、ただ想像だけでしか知らない、巨大な、メロランスという都会に到着するときを。そして今、ぼくも、そのようにしてメロランスという都会を眺めるならば、そこは決して魅力のない、ただ人や車のやたらと多いだけの汚い都会というイメージではなく、魅力あふれる、ママが期待を持って眺めただけのことはある街だ、という気がして来た。そしてぼくは、もう何十年も前に、ママが都会に翻弄されながらもたどって行かなければならなかったその足跡通りに、その跡をたどって行こうとしているのだった…

 ぼくは再び、車内に目を転じた。そして、時が刻むままに、そのときの、まだメロランスに着く前の、列車内にいるママの心臓の鼓動を、耳を澄まして聞き取ろうとした。すると、ぼくには一瞬、そのときの光景が、目に見えたような気がするのだった。一人の、黄色いブラウスを着た家出娘が、狭いコンパートメントで、他の乗客たちに混じって、期待に胸躍らせながら、きちんと両足を揃えて坐り、窓の外の流れ行く景色をじっと眺めている様子が――恐らくそれが、17才になったばかりのママの様子だった。そしてその行く先には、まるで希望の塔のようにそびえ立つ都会が、彼女を待ちかまえている…


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 やがて、ぼくは部屋から出て、狭い通路に出た。通路の向うの方では、中年の紳士が立ったまま、ぼんやりと窓の景色を眺めていた。ぼくは、この列車に乗客がいるのを確認し、そこで深呼吸を行うと、再び自分の寝室に戻った。もうメロランスはそう遠くはない。そう思って、窓の外を眺めると、いつのまにか自分が、あのときのリディアになっているような気がして来るのだった。ぼくが窓の外を眺める目――それは紛れもなく、あのときのママの目そのものだ…

 ぼくはふと、ガラーンとした寝室の通路側の透明ガラスが張られたドアを見た。すると、そのガラスを通して通路上に、身を乗り出すようにして、窓外の移り行く風景を眺めているそんな少女の後ろ姿を見るような気がした。

 

 すべては流れて行く。ぼくのママが旅立ったその日の出来事も、そしてその追想の旅をしているこのぼくの時間も…

 

 そんな日の思い出にひたりながら、快く眠りに陥り、再び目が覚めたときには、車窓の風景も、だいぶ変わっていることに気が付いた。もう、あののんびりした田舎の風景とは打って変わって、周りは街らしく様変わりをしているのだった。木の茂った庭つきの白い家が沿線に並んで見え、反対側には、少し土を盛った高い所に、別の線路が平行して走っている。前方には幾棟かの白い高層団地が群れて見え、平行して走っていた線路が土手を下がって合流する頃には、沿線のふもとの方では車道も並んで走り、多くの車が列を成して駐車している光景が目に飛び込んで来た。その数も、高層住宅のそばの少し広場となったところでは、一段と増えている。その頃、向う側からやって来る列車に、続け様2台、あっという間にすれ違って行くのだった。その辺まで来ると、個人の住宅も石の塀に囲まれるようになり、高層住宅も再び姿を現すようになる。やがて列車は、貨物列車が止まっている、古ぼけたアーチ状の窓が見える駅舎のある小さな駅を通過して行った。薄汚い物干しもちらほら見える一見して貧しそうな4~5階建てのアパートを通り過ぎて行く頃には、あちこちからやって来る鉄道のせいか、線路の数も増え、それらが互いに複雑に入り組んでいるのだった。再び向うからやって来る列車とすれ違い、鉄道の上を跨ぐように走っているコンクリートでできた橋の下を、ぼくたちを乗せた列車は通過して行った。

 

 列車は、朝の8時過ぎ、ようやくメロランスのA駅に到着した。この時刻は、恐らくママが到着したその時刻と、そう変わらないだろう。ぼくは鞄を手に下げて、ママが見たその目で、メロランスのA駅を見渡そうとした。しかし、すべての様子は、当時と今とでは全く違っていたに違いない。駅の様子も、現在のようにモダンで、清潔なものではなく、きっともっと薄暗くて、人々で混雑していたのかも知れなかった。しかし、ぼくが今降り立った駅は、柱も天井も清潔な色をしており、十分に明るくて、どういうわけか、人々の姿もそう多くはなかった。


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ポーターに荷物を頼み、一歩外に出たときも、ガラス張りの駅のモダンさは、当時の面影すら感じられるものではなかった。この前ぼくが降り立ったM駅のときには、そう、リサがこのぼくを迎えに来てくれていたのだ。しかし今回は誰も、ぼくを迎えてくれる者はいなかった。ぼくは、とりあえずタクシーを呼び、駅の案内所で聞いたホテルに向かった。

 ホテルは、メロランスのはずれの、少し森が広がる落ち着いた所にあった。ぼくはわざと、そのホテルを選んだのだ。たとい都会にあっても緑を失わないこと。その条件にかなうのがこのホテルだった。部屋に案内されたとき、ぼくは、このホテルに決めてよかったと感じた。落ち着いたクリーム色の壁や天井に、窓が二つ。それぞれが、レースのカーテンで仕切られており、テラスの向うには、緑いっぱいの樹木が見える。それを通して、遠く、メロランスの街並を眺めることができるのだった。一方、室内に目を転ずれば、シックな深緑色のベッドの他に、壁と同じ色をした丸テーブルと、事務机が一つ、それに花柄模様のソファーやフロアースタンド、テレビ、サイドテーブルにスタンド、などがあるのだった。少々宿泊料は高かったが、ぼくはこの部屋が気に入った。ここでなら、都会の喧騒から離れて、落ち着いて、思索を練ることも、物思いに耽ることもできる。またいずれ、リサだって、ここへ招待することも出来るだろう。ぼくは、荷物を床の脇に置くと、まずは心地良さそうに、ベッドの上に身を投げた。窓から流れ込む風が、レースのカーテンを揺らし、さわやかで、快かった。

 うっとりした頭で、目は天井を見つめながら、ぼくは考えた。これから、先づは何をすべきなのか? そう、何よりもまずは、ママの足跡をたどるべきなのだ。しかしぼくは、ママがメロランスに着いたその第一歩の日から、どのような生活を送って行ったかについて、断片的な知識は持ち合わせてはいたが、ほとんど何も知らなかった。その知識は乏しく、彼女が交際したのがどのような人で、どのような職業につき、どのようにして階段を一つ一つ登って行ったのかについて、ほとんど何も知らなかった。そんな乏しい知識の中で、メロランス時代のママの生活を知る為の手がかりのある人物としては、ただミロンひとりしかいなかった。しかしこれは、ぼくにとっては、とてつもない宝物というべきものだった。幸い、ミロンは現在、メロランスに住んでおり、リトイアヘマホル夫人を訪ねて行ったときに、夫人が書いてくれた住所のメモ書きを、ぼくは大切に内ポケットにしまっていた。そこへ訪ねて行けば、ぼくはミロンに会えるし、そのミロンを突破口として、それこそ当時のけんらんたるママと交友関係にあった人物たちの糸を、たぐり寄せることができるようになるかも知れないのだ。そのことを思うと、ベッドに横たわるぼくの目は輝いた。ミロンこそは、ママへとつながって行く、細い細い糸なのかも知れないのだ。なにはともあれ、ミロンに会いに行こう。もはや一刻の猶予も許されないのだ。ぼくはそう思って、ベッドから体を起こした。そして、内ポケットから、マホル夫人の書いてくれた住所のメモ書きを取り出すと、しっかりと見つめた。


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 この住所から推察すると、ミロンは、メロランス郊外の住宅地に住んでいるように思われた。そこへ行く為には、またしばらく電車に乗って尋ねて行かねばならないだろう。ぼくは今、セーラの人捜しを買って出たあのアレックスと同じようなことをしようとしている自分自身を見い出すのだった。

 

 やがてぼくはさき程から気になっていた外の景色を眺める為にテラスに出た。少し高台にあるこのホテルの前にはモミや、松の木などが茂っているが、それら樹木のあいだから今やはっきりと、メロランスの市街を見渡すことができた。数々の歴史的な建造物や、その中心を流れるS…川も眺めることができた。数々のドラマを生んだこの街、そして今も生みつつあるこの街。そこについにぼくはやって来たのだし、リサも、この街のどこかで今も呼吸しているに違いないのだ。そう思うと、この街は、グッと身近なものに思えて来た。――さあ、それでは、ぼくは、この街での生活の第一歩を歩み始めよう。ぼくは再び室内に戻り、テラスとの仕切り戸を閉め、レースのカーテンで覆うと、さっそく部屋を出ることにした。

 

 30分後、ぼくは、メロランスのS駅にいた。石造りの駅の前には、たくさんの車が駐車してあり、駅から出て来る人々が、低い石段を降りて広場に出るなりすぐそばの地下鉄の入口へと吸い込まれて行った。通勤時間帯は過ぎたとは言え、それでもかなりの数の人々と車がこの駅前広場を往来していた。駅の中に入ると、薄暗い駅を覆うかのような三角形の天井と、それを支える為の幾本もの鉄柱と、それから、乗客を迎える為に各ホームごとに静かに停車している、ステンレス製の列車の列などが、目に飛び込んで来た。ホームの数は十は数えるだろうか、かなり広い駅ではあった。そして、今も到着したばかりの列車から、人々がこの大都会へ送り込まれていた。

 ぼくは迷わず目的の電車が発着するホームを見つけることができた。そこには、到着したばかりの列車が止まっており、中に入って、6人掛けの座席の一つに着席した。向かいの座席では、しばらく道中を共にする老婆が、一生懸命編物に励んでいた。ぼくは何気なく、目を窓から外に向けた。最初はすいていた車内も、徐々に人々が増えて来て、やがて静かに電車は発車した。

 ミロンの家。それは、このS駅から30分ほど電車に乗って、さらにその駅から30分ほどバスに揺られたところにある住宅街の一角にあった。地図を書いてもらったわけではないので、正確な場所は分からなかったが、住所と、郊外の地図を持って歩けば必ず見つかるはずだった。もっとも恐らくミロンは勤めに出て家にいないだろうから、彼の妻に会うことになるかも知れない。そのときには、事情を話さずに、単に連絡先のメモを伝えるだけにとどめるだろう。目的の駅に近付くにつれ、ぼくは、自分の胸が高鳴るのを感じた。やがて到着したバスへの乗り換え駅は、小さな駅ながら、こざっぱりとコンクリートでできた割と新しい駅のようにも思えた。明るいガラス窓を張った出口を出ると、駅前にはちょっとしたストアーがあり、広い駐車場には、車がぎっしりと詰まっていた。


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駅のすぐ周りは、森の多いもう静かな一戸建の住宅街ではあったが、ミロンの家は、この近辺にはなく、ここから、白と赤の二色に塗られたバスで行かねばならなかった。その二色のバスは、駅を出たすぐそこのところに止まっていた。

 この時間帯バスの乗客は少なかったが、定刻が来るとバスは発車した。駅前のストアーで新聞を買う人の姿を見たりしながら、バスは、車の往き交う車道をしばらく走った後、やがて静かな郊外を走り始めた。森があったり、両側に静かな野菜畑が広がっていたりで、しばらくぼくの目を楽しませてくれた。

 そうしているうちにも、やがて、森におおわれた静かな住宅街の中へ、バスは入るようになって来た。車道の周りにはきれいに芝生が敷き詰められ、そこに出来た歩道を、子供が元気よく自転車で駆けて行った。森の切れ目には、急に、広い広い駐車場と、立派な高層住宅街が現れるといった、まさにここは一大団地だった。森の中をカーブを描きながら交差するよく整備された車道を、バスは間違わずに、ゆっくりと走って行った。ところどころ、屋根付きの簡素な停留所があり、そこでバスは、何人かの乗客を降ろした。そしてとうとう、ぼくの目ざしていた停留場にバスは着いた。すぐそばまで森が迫っている静かなバス停留場だった。そこで降りたのは、このぼく、ただひとりだけだった…

 窓より下半分が赤い色をしたバスが去って行くのを目にしながら、いよいよ着いたのだという気がした。このメロランスでの第一歩の目標地点が、もうすぐそばにあるのだ。ぼくは、この閑静な住宅街の森を目にしながら、まるでママに会いに行くかのような興奮を覚えた。

 そして今、ぼくはミロンの家の前に立とうとしていた。ここを見つけ出すのにさほど苦労はいらなかった。同じような小さな庭つきの古い住宅が並ぶ通りで、ある家に飛び込んで尋ねるとここを教えてくれたのだ。

 その家は、背の低い、古い煉瓦塀に囲まれた、小さな庭つきの、出窓のある二軒長屋の右端の家だった。ベージュの屋根、二階の壁は白かったが、一階の壁はすべて煉瓦におおわれ、窓枠やドアは、同じ柿色の板で出来ていた。門は形だけの鉄柵でできており、かんぬきがはずれていたので、それは古いきしむ音をたてながら、すぐ押しあけることができた。もう一度、二階建の小さなこの家を見上げ、ここがミロンの家だと思うと、ぼくの胸は高鳴った。玄関のドアにたどるまでのほんの少しの間、脇には、あじさいなど、形だけの庭の木が茂っていた。ぼくは深呼吸をし、思い切って、玄関のドアを叩いた。

 息をひそめて耳を澄ますと、中では確かに人の気配が感じられた。とまもなく、ドアのガラス窓をおおっていた白いカーテンが開けられ、中から婦人が顔を覗かせた。年の頃、四十は過ぎているその婦人の顔を見て、「ミロンの妻だ!」と、ぼくは直観した。

 “どなたですか?”と、彼女は、ぼくの顔を不安そうな面持で見つめながら、ドア越しに尋ねた。

 “済みません。ちょっと話しがあって、ミロンさんに会いに来たんですが”ぼくはそう言った。



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