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構成的グループエンカウンターは開放の窓の領域を広げる活動である

はてしなき議論の後

Seibun Satow

Nov, 28. 2012

 

「議論の目的は勝利ではなく、改善であるべきだ」。

ジョセフ・ジュベール『思索・箴言・随想』

 

 財政逼迫などの理由から選択し得る政策の幅が狭まり、先進諸国では政治的議論が停滞する光景がしばしば見られる。いわゆる決められない政治は日本だけの現象ではない。アメリカでも、EUでも起きている。統治の担当者への世論の不満は高まり、既成政党を批判し、短絡的な極論を主張する勢力も勢いを増している。

 

 暮らしたり、働いたりしていれば、結論がすぐに見通せる問題ばかりではないことくらい承知している。交渉したり、調整したりして何とか折り合いをつけているのが実情だ。ただ、それは自分自身として行っているのであって、相対化して捉えることはあまりない。性急な結論を求める前に、本当に議論が停滞するほかないのかを自分を相対化して体験してみることをしてもよいだろう。

 

 その方法論が「構成的グループエンカウンター(Structured Group Encounter)」である。これは「構成的」と「グループエンカウンター」の二つの概念から成り立っている。前者は時間やエクササイズの内容が構造化・形式化されているという意味である。言い換えると、過程に時間の制限があるとか、取り扱う話題が決められているとかといった条件があるということである。後者は集団での出会いを指す。

 

 なお、無制限で自由放任な非構成的グループエンカウンターもあるが、感情的衝突になることが多いと経験的に知られている。これは、『朝まで生テレビ』を始め民放の討論番組を見ていれば、想像がつくだろう。

 

 出会いが示しているように、構成的グループエンカウンターは必ずしも議論だけではない。調整を通じた交感体験も重要である。目隠しをしたまま、他の参加者に先導してもらって歩く「トラスト・ウォーク」なども含まれる。ただ、今回は討議のケースに限定する。

 

 結論のない議論はマイケル・サンデルのおかげでモラル・ジレンマが日本でも知られるようになっている。しかし、モラル・ジレンマと構成的グループエンカウンターには違いがある。前者は道徳的葛藤を扱うため、第三者としての立場で資料を考えさせる。一方、後者は当事者として課題にとり組まなければならず、道徳性よりも社会性=社交性に関心がある。

 

 構成的グループエンカウンターはインストラクション=エクササイズ=シェアリングの三つの手順で進む。インストラクションは説明のフェイズである。参加者に課題や役割、コンテクストを説明する。エクササイズは活動のフェイズである。実際に調整を議論してもらう。シェアリングはエクササイズを振り返って、意見交換をする。このプログラム全体が構成的グループエンカウンターである。

 

 人が集まって議論した場合、当人たちが意識しているかどうかはさておき、リーダーや追随者、反対者などそれぞれが一定の役割を果たしている。討議の人間関係にも暗黙知があるというわけだ。構成的グループエンカウンターは人間関係の暗黙知を明示化する試みである。決められた役を演じることで、自分や他の参加者を相対化して、相互理解が深まることが期待される。

 

 調整を必要とする課題を提示し、それぞれには特定のコンテクストを与え、さらに、役割を与えて議論してもらう。その際、誰かが妥協しなければ、解決しないように工夫しておく。

 

 例えば、マンションを建て替えることになり、その際、多摩ニュータウンのように、部屋の入れ替えを提案したとしよう。司会進行する人、自己主張ばかりする人、誰かの意見に追随するだけの人、話を蒸し返す人などの役割を割り当てておく。しかも、それぞれに、うちは年寄りがいるから下の階がいいとか、うちだって子どもがまだ小さいから上の階では困るとか、車椅子なので1階にして欲しいとかなどの個別コンテクストも決めておく。与えられた条件に沿って議論してもらうが、譲る人が出なければ、いつまで経ってもまとまらないように工夫する。タイム・リミットを設定して、さあ、ロックンロール!

 

 コミュニケーション内容は、インストラクションから逸脱しない範囲で、裁量権が認められている。議論を経てある結論が出たとしよう。でも、役割を入れ替えても、結論が同じになると限らない。一般のロールプレイングとは、あくまで交渉・調整をして一定の結論を導き出す点で異なっている。また、その過程から論理を駆使して勝敗を競うディベートでもない。妥協は負けではない。感情的な交流があって、初めて他人に譲る気持ちになれるというものだ。

 

 自分ではない人間を演じることで自己が見えてくる。また、他者も違う人に扮することによって別の自己が見えてくる。構成的グループエンカウンターは、実は、心理面の発達を促す課題として海外の教育現場で採用されている。残念ながら、日本では学習指導要領が道徳的価値の教えこみを前提にしているため、実験的段階にとどまっている。ただ、それに束縛されない領域では結構活用されている。

 

 エクササイズの課題には、自己理解や他者理解、自己受容、自己表現、感受性の促進、信頼体験などが挙げられる。それは、1955年にアメリカの心理学者のジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリー・インガム (Harry Ingham)が提案したグラフモデル「ジョハリの窓(Johari Window)」を参照すると、わかりやすい。ジョハリはジョセフとハリーを合わせてもじった造語である。

 

 正直、アメリカの心理学者はネーミングがうまい。米国心理学における必読の基本文献にウィリアム・ジェームズの『心理学の諸原理(Principles of Psychology)』がある。ただ、完全願は長いので、縮約版も刊行されている。そこで両者を区別するために、前者が「ジェームズ(the James)」、後者は「ジミー(The Jimmy)」と呼ばれている。

 

 ルフトとインガムによれば、自己に関する認識には自分にとっての既知・未知と他者にとっての既知・未知の基軸から四つの領域がある。それを彼らはジョハリの窓として次のような図で表わしている。

 

 

自分が知っている

自分が知らない

他人が知っている

開放の窓

盲点の窓

他人が知らない

隠された窓

未知の窓

 

 

Known to self

Not known to self

Known to others

Open self

Blind self

Not known to others

Hidden self

Unknown self

 

 構成的グループエンカウンターは開放の窓の領域を広げる活動である。自分を客観視できないと、盲点の窓は大きくなる。また、他者と感情的交流が乏しければ、隠された窓も大きいままだ。開放の窓が広くなるなら、相互理解が進む。

 

 相互不信があれば、開放の窓が狭まり、議論は停滞する。最初に戻ると、決められない政治にはこうした傾向が認められる。世界の政治は開放の窓を広げる努力が必要だということになる。

 

 実は、文芸批評家の佐藤清文によれば、構成的グループエンカウンターには別の可能性もある。それは歴史上の意思決定の場の再現である。歴史的出来事であれば、参加者の個別コンテクストもそこでの役割も研究等によって明らかになっている。それを演じてみて、本当にその結論に達するかどうかを確認してみる。歴史の事実と違った結果に到達することもあるに違いない。エクササイズを反省的に考察し、それをシェアリングするとき、歴史の決定的な出来事への理解が深まる。これを何回か繰り返して得られた結論を照らし合わせて、意思決定の際の暗黙知を明示化させる。しばしば言い訳に使われるその場の雰囲気も確認できるだろう。歴史の暗黙知を明示化するというわけだ。歴史を蘇らせ、本当にこうでしかあり得なかったのかを検証することは今後のためにも意義深い。

〈了〉

参照文献

林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009


この本の内容は以上です。


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