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【嘉南大圳】灌漑土木工事の概要

(1)官田渓を塞き止め烏山頭にダムを造る。堤長1273m、堤高56m、給水量1.5億t。

(2)烏山頭ダムに別河川(曾文渓)から毎秒50tの水を引き込む長さ3200mのトンネルを造る。

(3)ダムから水田に送る水路を造る。灌漑面積15万町歩(15万ha香川県と同面積)。

   水路総距離16000kmは台湾10周強の距離に匹敵する(台湾1周の鉄道距離≒1230km)

(4)総工費5400万円。(当時の台湾総督府の年間予算は5000万円)

 

1895年に清国から割譲された当時の台湾は人口300万人、阿片の常習、マラリヤの蔓延、きわめて治安が乱れ近代化の遅れた土地で初代~第3代総督時代は抗日ゲリラ掃討に明け暮れていた。 第4代台湾総督児玉源太郎、後藤新平民政長官が赴任した1898年頃から、ぼちぼち台湾の開発が行なわれ その後おおいに近代化が進みます。

嘉南平原の調査活動を始めた1918年は初の文官「第8代台湾総督田健次郎」「下村海南民政長官」の時代であった。下村海南民政長官は「烏山頭ダム」の完成時には珊瑚のようになるであろうと「珊瑚潭」と命名しています。

第8代台湾総督田健次郎

田 健治郎男爵(1855~1930)

1919年文官として初めて台湾総督となり台湾における法制整備と文民統治の定着に尽力した第8代台湾総督。逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・枢密顧問官等を歴任。参議院議員・田英夫は孫にあたります。

 

下村海南民生長官(1875~1957)

1915年台湾総督府民政長官に就任。本名は下村宏、歌人としても知られ海南の名で多くの作品を著している。 ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られており、玉音放送の際の内閣情報局総裁であった。 拓殖大学第6代学長。


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最終更新日 : 2013-01-27 20:28:38

與一の死

「嘉南大圳」を完成させた與一は台湾総督府へ勅任技師として復帰し、台湾全土の産業開発計画の仕事をしていました。その與一に陸軍省よりフィリッピンの水利開発の実地調査の南方開発派遣要員として命が下ります。3人の部下と共に1942年(昭和17年)大洋丸に乗り込み広島宇品港を出航しました。5月8日、大洋丸が五島列島を過ぎたあたりでアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、八田與一は東シナ海で56歳の幕を閉じるのでした。

 

1ケ月後、遺骸は偶然にも付近で漁をしていた山口県の第2睦丸安藤晃船長の網にかかり故郷に送られ荼毘にふされます。愛する台湾で待つ 愛する家族の元へ遺骨となり帰るのです。外代樹夫人、子供達の悲しみはもちろんのこと嘉南平原が大きな悲しみに包まれます。この時、外代樹夫人は16歳で結婚以来、夫と苦楽を共にした思い出の地「烏山頭」に子供たちと共に台北から疎開をしておりました。葬儀は嘉南平原の沢山の農民が集まり珊瑚潭の畔、與一像前でしめやかに執り行なわれます。総督府でも與一の偉業を称え盛大な葬儀が行なわれております。


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最終更新日 : 2013-01-27 19:54:35

妻「外代樹」

故郷金沢の医者の娘に生まれた米山外代樹は16歳(1917年・大正6年)で八田與一に嫁ぎ、夫の赴任先台湾に渡ります。その5年後の1922年に台北から不毛の荒野「烏山頭」に夫に従い長女正子、長男彰夫を伴い転居いたします。「烏山頭」での外代樹は所長の奥さんだからといって威張るわけでもなく誰にも優しく接し、工事で働く人達と仲良く工事完成までの10年間を夫と8人の子供達に囲まれ平和な日々を送ります。

 

 工事完成後は台北幸町の官舎に一家は引っ越し、子供や孫に囲まれた平和な日々が続きます。ところが戦争はこの平和な日々を許さず太平洋戦争開戦(1941年12/7)数か月後の5/8、夫の戦死に接することになります。更に戦況の悪化は二人の息子、長男晃夫、二男泰雄を戦場に連れて行きます。戦時中は国民誰もがそうであったように外代樹も夫の死を「お国の為の名誉の戦死」、息子たちの出征を「名誉の出征」とし、悲しさ寂しさを隠し気丈に振舞っておりました。

やがて敗戦を迎え兵士達は親兄弟の待つ故郷へ帰って行きます。台北から残された子供達をつれ家族との思い出が一杯詰まった「烏山頭」へ疎開をしていた外代樹の元へも学徒動員で出征していた次男泰雄が復員してきます。その晩は精一杯の御馳走を作り家族全員で泰雄の復員を祝います。

家族の喜びも束の間、外代樹は子供たちが寝静まったのを見計らい遺書をしたため、夫が粒々辛苦築いた「烏山頭」ダムの放水口の渦巻く水中に身を投げ享年45歳で夫の後を追います。偶然にも9/1この日は与一が全精力で取り組んだ「嘉南大圳」の工事着工の日です。

 
朝方、遺書に気付いた子供たちが母をさがし、放水口に駆けつけてみると、そこにはきちんと並べられた母の草履が有ったそうです。外代樹の遺体は6km下流の水路から翌日発見されます。與一に続く外代樹の死は嘉南の人々に更なる深い悲しみをもたらしました。

3年間の「烏山頭」疎開生活を気丈に振舞っていた外代樹ですが、出征した息子たちの無事復員、敗戦により夫が愛した台湾を去らなければならなくなった事など、様々な事が胸中を駆け巡ったのでしょう。「兄弟姉妹なかよくしてください」との遺書を残し愛する夫の元へ旅発ったのです。今は愛する夫と共に珊瑚潭を見渡せる地で永遠の眠りについております。


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最終更新日 : 2013-01-27 19:16:02

中島力男技師

嘉南の人々は八田夫妻の墓を終戦翌年の1946年(昭和21年)12/15、日本式の御影石で銅像の後ろに建立いたします。毎年5月8日の与一の命日には與一の銅像、お墓の前に沢山の農民が集まり、與一と外代樹に思いを馳せ手を合わせる事が今なお途切れる事無く続けられています。

 
東京農業大学出身の中島力男技師は蓬莱米を豊かに実らせるため計画給水、計画生産に添った農業の指導を任されています。中島技師は農村を巡回し苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方などを指導します。更にダムからの水を田畑に引くための水路作りや完成し張り巡らされた水路にどれくらいの水を放出するかの管理も農民たちに指導します。水利課長中島技師の嘉南を豊かにするための活躍と苦労は八田與一が烏山頭を去った後も続きます。終戦後も中華民国台湾省の留用として1年余台湾にとどまっています。
 
嘉南の人々は中島技師の功績を忘れず、八田與一ご夫妻のお墓の横に、中島技師の生前墓(分髪)を建て、八田與一と同じように感謝の気持ちを表しています。
5/8の八田與一追悼式と同様に、工事期間中に亡くなられた従業員、作業員、134名の霊を慰める慰霊祭が「殉工碑」の前で旧暦7/15に行なわれています。

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最終更新日 : 2013-01-27 19:18:34

奥付

千葉県教育委員会、高等学校道徳読み物教材集『明日への扉』に採用されました。

烏山頭に咲く大輪の花 


http://p.booklog.jp/book/61351


著者 : martin
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/martin243/profile


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この本の内容は以上です。


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