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人間力

「良い仕事は安心して働ける環境から生まれる」という考えを與一は持っていました。工事関連施設はもとより、家族が一緒に住める宿舎、共同浴場、病院、学校、店舗、娯楽クラブ、テニスコート、弓道場、公園などの地域整備・街づくりをしています。この街で2,000名余の工事関係者・家族が生活をし仕事に励んでおります。與一の子供たちが通った小学校は現在存続しています。

 

更に與一の素晴らしいところは、施設の運用に於いても職員や家族の生活を大事に考え、映画上映、運動会、芝居観劇、盆踊り、祭り、などを催しております。自分自身も倶楽部で毎日のように職員に交じり麻雀・碁・将棋などに興じ、職員からはオヤジと呼ばれ慕われておりました。

 

物を造り、それに命を吹き込み魂を入れる、台湾で活躍した明治大正人の典型といえる人でしょう。大型機械導入、地域整備など、八田與一の独断で出来る事ではありません。與一を使いこなした直属の上司山形土木課長、最高責任者の下村海南民政長官の高い見識があったからこそできた事でしょう。


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最終更新日 : 2013-01-27 18:55:19

人間愛

「嘉南大圳」の大事業には「烏山頭ダム工事」をはじめとする関連工事が沢山あります。毎秒50tの水をダムに送り込む直径5m、長さ3200mのトンネル工事もそうちの一つでダム工事と並行して行なわれております

この烏山頭ダムの大きな器を満たすには別河川からも水を引き込む必要が有り山を越したところの水量豊富な曾文渓(川)から水を引き込む工事が行なわれました。 

工事初期、トンネルを90mほど掘り進んだところでガスが噴き出し、機械からの引火でガス爆発が起こり思わぬ惨事が発生します。人間の命の尊さを第一に考える八田與一には相当この惨事は堪えたようです。與一は犠牲者の家を一軒一軒、訪れ丁寧にお詫びをされております。その際 うちひしがれた與一を見た遺族は逆に與一を励まし工事の続行を懇願したと伝えられております。

この「嘉南大圳」工事の10年間で、134名(台湾人92人、日本人41人)もの人が犠牲になっております。完成後に建てられた殉工碑には、台湾人、日本人の区別なく死亡順に名前が刻まれております。

 

工事期間中、内地で東京大震災が発生します。その影響はこの工事も例外ではなく大幅な予算削減に迫られ作業員の大幅削減をするのですが、なんと與一は優秀だと評価されている職員から辞めさせるのです。「優秀な者は再就職が簡単である。しかし他の者はここを去ると仕事がなく生活ができなくなる。実務には優秀な少数の人間より、平凡な多数の者が必要である」という理屈です。そして、辞めていく人達の就職先を自分が率先し台湾中を駆け回り探したそうです。

更に辞めていった人達を烏山頭に呼び戻すチャンスを待ち、沢山の人を呼び戻しています。銅像からみる鬼瓦の様な顔の内面には自分と関わりの有った人達全員を大事にする優しさが秘められているのです。


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最終更新日 : 2013-01-27 18:59:07

【嘉南大圳】灌漑土木工事の概要

(1)官田渓を塞き止め烏山頭にダムを造る。堤長1273m、堤高56m、給水量1.5億t。

(2)烏山頭ダムに別河川(曾文渓)から毎秒50tの水を引き込む長さ3200mのトンネルを造る。

(3)ダムから水田に送る水路を造る。灌漑面積15万町歩(15万ha香川県と同面積)。

   水路総距離16000kmは台湾10周強の距離に匹敵する(台湾1周の鉄道距離≒1230km)

(4)総工費5400万円。(当時の台湾総督府の年間予算は5000万円)

 

1895年に清国から割譲された当時の台湾は人口300万人、阿片の常習、マラリヤの蔓延、きわめて治安が乱れ近代化の遅れた土地で初代~第3代総督時代は抗日ゲリラ掃討に明け暮れていた。 第4代台湾総督児玉源太郎、後藤新平民政長官が赴任した1898年頃から、ぼちぼち台湾の開発が行なわれ その後おおいに近代化が進みます。

嘉南平原の調査活動を始めた1918年は初の文官「第8代台湾総督田健次郎」「下村海南民政長官」の時代であった。下村海南民政長官は「烏山頭ダム」の完成時には珊瑚のようになるであろうと「珊瑚潭」と命名しています。

第8代台湾総督田健次郎

田 健治郎男爵(1855~1930)

1919年文官として初めて台湾総督となり台湾における法制整備と文民統治の定着に尽力した第8代台湾総督。逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・枢密顧問官等を歴任。参議院議員・田英夫は孫にあたります。

 

下村海南民生長官(1875~1957)

1915年台湾総督府民政長官に就任。本名は下村宏、歌人としても知られ海南の名で多くの作品を著している。 ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られており、玉音放送の際の内閣情報局総裁であった。 拓殖大学第6代学長。


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最終更新日 : 2013-01-27 20:28:38

與一の死

「嘉南大圳」を完成させた與一は台湾総督府へ勅任技師として復帰し、台湾全土の産業開発計画の仕事をしていました。その與一に陸軍省よりフィリッピンの水利開発の実地調査の南方開発派遣要員として命が下ります。3人の部下と共に1942年(昭和17年)大洋丸に乗り込み広島宇品港を出航しました。5月8日、大洋丸が五島列島を過ぎたあたりでアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、八田與一は東シナ海で56歳の幕を閉じるのでした。

 

1ケ月後、遺骸は偶然にも付近で漁をしていた山口県の第2睦丸安藤晃船長の網にかかり故郷に送られ荼毘にふされます。愛する台湾で待つ 愛する家族の元へ遺骨となり帰るのです。外代樹夫人、子供達の悲しみはもちろんのこと嘉南平原が大きな悲しみに包まれます。この時、外代樹夫人は16歳で結婚以来、夫と苦楽を共にした思い出の地「烏山頭」に子供たちと共に台北から疎開をしておりました。葬儀は嘉南平原の沢山の農民が集まり珊瑚潭の畔、與一像前でしめやかに執り行なわれます。総督府でも與一の偉業を称え盛大な葬儀が行なわれております。


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最終更新日 : 2013-01-27 19:54:35

妻「外代樹」

故郷金沢の医者の娘に生まれた米山外代樹は16歳(1917年・大正6年)で八田與一に嫁ぎ、夫の赴任先台湾に渡ります。その5年後の1922年に台北から不毛の荒野「烏山頭」に夫に従い長女正子、長男彰夫を伴い転居いたします。「烏山頭」での外代樹は所長の奥さんだからといって威張るわけでもなく誰にも優しく接し、工事で働く人達と仲良く工事完成までの10年間を夫と8人の子供達に囲まれ平和な日々を送ります。

 

 工事完成後は台北幸町の官舎に一家は引っ越し、子供や孫に囲まれた平和な日々が続きます。ところが戦争はこの平和な日々を許さず太平洋戦争開戦(1941年12/7)数か月後の5/8、夫の戦死に接することになります。更に戦況の悪化は二人の息子、長男晃夫、二男泰雄を戦場に連れて行きます。戦時中は国民誰もがそうであったように外代樹も夫の死を「お国の為の名誉の戦死」、息子たちの出征を「名誉の出征」とし、悲しさ寂しさを隠し気丈に振舞っておりました。

やがて敗戦を迎え兵士達は親兄弟の待つ故郷へ帰って行きます。台北から残された子供達をつれ家族との思い出が一杯詰まった「烏山頭」へ疎開をしていた外代樹の元へも学徒動員で出征していた次男泰雄が復員してきます。その晩は精一杯の御馳走を作り家族全員で泰雄の復員を祝います。

家族の喜びも束の間、外代樹は子供たちが寝静まったのを見計らい遺書をしたため、夫が粒々辛苦築いた「烏山頭」ダムの放水口の渦巻く水中に身を投げ享年45歳で夫の後を追います。偶然にも9/1この日は与一が全精力で取り組んだ「嘉南大圳」の工事着工の日です。

 
朝方、遺書に気付いた子供たちが母をさがし、放水口に駆けつけてみると、そこにはきちんと並べられた母の草履が有ったそうです。外代樹の遺体は6km下流の水路から翌日発見されます。與一に続く外代樹の死は嘉南の人々に更なる深い悲しみをもたらしました。

3年間の「烏山頭」疎開生活を気丈に振舞っていた外代樹ですが、出征した息子たちの無事復員、敗戦により夫が愛した台湾を去らなければならなくなった事など、様々な事が胸中を駆け巡ったのでしょう。「兄弟姉妹なかよくしてください」との遺書を残し愛する夫の元へ旅発ったのです。今は愛する夫と共に珊瑚潭を見渡せる地で永遠の眠りについております。


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最終更新日 : 2013-01-27 19:16:02


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