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八田與一像の運命

戦争末期(1944年・昭和19年)金属供出命令で烏山頭ダムを見降ろす場所から與一像は姿を消します。嘉南平原60万人の命を守ることに男の情熱を注ぎ大事業を成し遂げた男の像が、人命を奪う武器に使われるというのだ。

 

ところが、溶融されたはずの銅像が、終戦を迎えた1945年の或る日、とある場所で発見されました。そして戦後35年経た1981年(昭和56)1月1日、地元有志の手により湖面を見降ろす元の位置に戻されます。しかし、嘉南の人々は與一像を以前のように、じかに地面に置く事はせず台座の上に設置いたしました。

1944年に取り外され再び元の位置に設置される1981年(昭和56年)までの37年間は台湾人にとっては暗い時代でした。戦争末期の日本軍国主義、その後は大陸から来た国民党の「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治、そして1992年迄つづく「国家安全法」による言論統制などのつらい時代を経験します。

 

八田記念館でいただいた資料によると、「終戦早々に職員が偶然に隆田の倉庫で発見し買い戻した。そして安置する前に盗まれたり傷つけられたりの万一を考え、鋳型を新たに造り保管した」と書かれている。隆田の倉庫とは現在の台鉄隆田駅の倉庫の事で金属回収で高雄に運ばれる予定のものが何かの理由で倉庫に残されていたという意味なのでしょう。余談ですが隆田には前総統陳水偏氏の生家があります。

 

「與一の銅像が終戦の年の或る日、嘉南大圳を管理している水利組合の倉庫の中から発見された」「終戦後 偶然にも水利組合の職員によって烏山頭ダム近くの駅倉庫で発見され、八田家がかって住んでいた家のベランダに隠し置いた。この家の前を通る嘉南の農民は手を合わせ拝んだ」などと記述されている文章もある。

「白色テロ」を経験した人々にとって 真実を語っても身の危険が及ばない時代となった今も真実を明かす事を憚る何かが心の中にあるのでしょう。意図された事か偶然か、いずれにせよ八田與一像は無事、嘉南の地に戻ってきました。


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最終更新日 : 2013-02-14 22:06:39

嘉南大圳の竣工

1930年(昭和5年)4/29日、昭和天皇誕生日に嘉南大圳の竣工式がとりおこなわれた。

 事業は半額を国が賄い、受益者が「嘉南大圳組合」を創設し事業施工者となる形態を採った。與一はこの事業を遂行するにあたり総督府技師を辞任(1920年・大正9年)、嘉南大圳組合技師となる。 そして若干34歳の若者が嘉南大圳組合監督課長兼工事課長烏山頭出張所長として、この大工事の責任を一身に背負い工事完遂に邁進するのでした。そして見事やりとげた竣工時には44歳の白髪まじりの中年になっていました。

 

竣工後の1931年(昭和6年)には心血を注いだ嘉南の地を離れ台北市幸町(現在の中山南路、二二八和平記念公園付近)の官舎に転居し総督府内務局土木課水利係長(高等官三等一級)を拝命し、一旦脱いだ官服を再び着る身になります。

 

しかし烏山頭ダムとは組合技師解職後も組合技術顧問となり、その後も関わりあってゆく事になります。

組合技術顧問として建設当時の技術者幹部と共に、毎年一度は、この地に戻り重要地点視察後、維持管理の注意事項を指導しています。
 八田與一の仕事はダムの完成で終わりません。嘉南平原の農民に「水の恩恵は嘉南平原60万人、全ての農民で平等に分かち合う」という崇高な理念を理解させ「3年輪作灌漑法」という耕作方法を普及させなければなりませんでした。これは言うは易し行うは難しで、八田與一が人々の信望を集めていなければ出来ない事でした。

 

八田與一の人間像には勲章は似合わないのですが、1934年(昭和9年)に勲六等瑞宝章、1938年(昭和13年)に勲五等瑞宝章、1939年(昭和14年)に勲四等瑞宝章を授与されております。又、当時の官制では技術者は課長職には就けませんので1939年には「勅任官技師」と厚遇され1941年(昭和16年)には高等官二等三級となっております。


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最終更新日 : 2013-01-27 18:37:57

独創力

「桃園埤圳」での手腕を認められた與一は、嘉南平原の調査活動(1918年・大正7年)を精力的に行い嘉南平原灌漑事業計画を推進していくことになります。この頃、日本国内では米が不足し米騒動なども起きており、土地のある台湾での米の増産を考えています。嘉南平原灌漑事業計画は「工業は日本内地 農業は台湾」という国策に立脚する計画だった。

 

烏山頭ダムと濁水渓からの取水量で嘉南平原15万町歩全域を水で潤すには物理的に問題があり嘉南平原灌漑事業計画の推進に支障となった。しかし與一は「水の不足分を3年輪作灌漑法というもので補えば嘉南平原全域に水を送る事ができる。嘉南平原の農民全てが豊かになる事が台湾の将来に必要である。」との信念で嘉南平原灌漑事業計画を推進していくのでした。この理念には総督府の役人も反論できず與一の事業計画は承認されます。

 

嘉南平原全域60万人の全農民を豊かにするにはダムや水路を作るだけではなく土木技術者の権限枠を飛び越える必要があった。貯水量に合わせ給水面積を決める水の運用・3年輪作灌漑法という独創的な考え方、このハードとソフトを結合さす発想力が嘉南平原全域60万人の全農民を豊かにしたのです。

 

ps.「桃園埤圳」 台北近郊の桃園地区に上流から水を引き込み、溜池をつくり、ここより水路を張りめぐらせ22,000haの水田をつくる工事。


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最終更新日 : 2013-01-27 18:41:18

未知への挑戦

嘉南大圳事業の中心をなす「烏山頭ダム」がどれぐらいの規模だったか、「黒部ダム」は発電用、「烏山頭ダム」は灌漑用と目的は違うのですが、あえて比較をしてみます。

ダムの高さ:「烏山頭ダム」56m、「黒部ダム」186m。

堤頂長:「烏山頭ダム」1273m、「黒部ダム」492m。

貯水容量:「烏山頭ダム」1.5億t、「黒部ダム」2億t。

工事期間:「烏山頭ダム」10年、「黒部ダム」7年。

総工費:「烏山頭ダム」5400万円(台湾総督府年予算5000万)、「黒部ダム」513億円。

完成:「烏山頭ダム」1930年(昭和5年)、「黒部ダム」1963年(昭和38年)。

 

八田與一の独創性は、この巨大ダム工事に東洋では例の無い「セミ・ハイドロリック」工法を採用した事です。この工法の先進国アメリカでさえも、このような大規模の工事には採用されておりませんでした。

しかし八田與一は研究を重ね長さ1273m、高さ56m、幅300mの堤防をこの工法で築ずく決断をいたします。「烏山頭ダム」の業績はアメリカ土木学会が「八田ダム」と命名し学会誌上で世界に紹介したほどの偉業だったのです。

 

「セミ・ハイドロリック」工法とは簡単にいえば、自然の堤防が玉石、栗石、砂利、小砂、粘土などで創られているのと同様にコンクリートは中心部の一部分に使うだけ、あとは自然と同様の構造体を造る工法です。この工法の評価は、他のダムが土砂の堆積などで50年で寿命が終わる中、烏頭山ダムは築造80年後の今なお嘉南平野を潤すに充分な働きをしています。


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最終更新日 : 2013-01-27 18:45:51

先見性・決断力

與一は現場作業を前近代的な人海戦術から、機械を導入した近代的な作業に改めます。機械の導入は労働力のあまっている当時としては常識はずれのことです。多くの反対を以下のように説得します。「これだけの工事は人力だけでは20年たってもできない。工事が長引けば15万haの土地は不毛のままで金を生まない。早ければ、それだけ早く金を生む。機械は、その後も別の工事で使える、そして機械を使える人間が育ち日本にも機械を作る会社が生まれる」

 

與一の先見眼の通り、ここで育まれた「人」「物」「金」は、その後のインフラ整備や港湾開発などの台湾開発で大きな威力を発揮いたします。與一がアメリカから買い付けた土木機械は、パワーショベル7台、エアーダンプカー100台、ジャイアントポンプ5台、機関車12台、コンクリートミキサー車4台、等です。この機械導入にダム工事・トンネル工事予算部分の25%に当たる金額使います。これは大変な決断です。

 

80年を越す今も現役で嘉南平原を潤す「烏山頭ダム」を造り、それに留まらず「烏山頭ダム」の限界を考え次の曾文渓ダム計画構想を與一は持っていました。現在の曾文渓には與一が設定したダム築造地点に1973年(昭和48年)曾文渓ダムが完成しております


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最終更新日 : 2013-01-27 18:49:06


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