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八田與一像

日本統治時代(1895~1945)に建てられた沢山の日本の軍人、政治家の銅像は戦後、国民党政府により当然の如く撤去されてしまいました。現在、児玉源太郎・後藤新平の銅像が国立台湾博物館に保存・展示されておりますが、人々に愛されたが故に台湾に今も残っている銅像は、八田與一像以外にないでしょう。

 

この銅像は、ダム完成後「烏山頭交友会」が八田與一の許可を得て作ったものです。ただし、すんなりと事が運んだわけではありません。特別な存在になる事を嫌った八田與一は銅像作りを固辞しています。仕事に関して八田與一に心服し命令に服従してきた面々も、この件に関しては引き下がらず「あなたの為ではなく働いていた全員の為に作りたいのです」と頑張ったようです。八田與一も、この一言には逆らえず一つの条件を付け許可をいたします。

 

銅像を作る条件とは、「立派な恰好で、高い台の上で威張っているようなものにはしないで欲しい」「台座の上ではなくダムが見下ろせる場所の地面じかに置いてほしい」、これが八田與一の条件でした。いかに労働者との仲間意識を大事にしてきたかがうかがえます。

 

「烏山頭交友会」とは、1920年9月1日の起工式から数え10年後の工事が終わろうとする日に工事仲間が工事後も絆を確かめる目的で八田與一を会長として作った会です。1918年・大正7年の測量開始から12年の歳月が流れています。


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最終更新日 : 2014-01-09 23:20:15

八田與一像のエピソード

許可を得た交友会の人々は與一の生まれ故郷金沢の彫刻家「吉田三郎」氏に製作を依頼します。銅像は與一が考え事をしている時の姿を復元しております。地面に腰をおろし、作業着、ゲートル巻き、左足を投げ出し、立てた右膝の上に右肘を置き、右指は髪の毛をさわっている姿です。

この右指は、ゆっくり、ある時は気ぜわしく髪の毛をさわったと言われております。ゆっくりは機嫌良し、気ぜわしく右手が動くときは機嫌悪し、髪の毛を引き抜くときは最悪。気ぜわしく右手が動き出すと、現場職員は與一のそばから逃げだしたというエピソードが有ったようです。
 

銅像らしくない銅像ですが、與一と作業員・工夫達との関係が反映されている何とも言えない暖かいほのぼのとした雰囲気を漂よわせております。銅像はダム完成1年後の1931年(昭和6年)に、與一の願い通り、湖面を見降ろす地面に置かれました。この年は満州事変が勃発した年で終戦の1945年まで、日本はボロボロズタズタになる戦争への道を進んでいきます。戦争末期には八田與一像も例外ではなく金属供出の対称となり烏山頭ダムから姿を消しました。

 

「吉田三郎 明治22年~昭和37年」 金沢に生まれた吉田三郎は、石川県立工業学校で板谷波山に学び、東京美術学校に進んで北村西望らと席を同じくした。卒業後は朝倉文夫のもとで朝倉塾の中心として活躍、徹底した写実を貫き、ロダンやムニエなどの西洋彫刻の影響を受けつつも、東洋的な静寂をたたえた独自の作風を確立し、確固たる地位を築いていきました。芸術院会員、日展常務理事、日本彫塑家倶楽部委員長などを歴任し、日本彫刻界の中枢をなす作家でした。

同時代に活躍し、経歴が似通っている「都賀田勇馬 明治24年~昭和56年」が銅像製作者との説もありますが間違いでしょう。 金沢市に生まれ、石川県立工業学校を経て東京美術学校に入学、朝倉文夫に師事、ここで両者の交流が有ります。 大正3年大正博覧会に入選。大正10年第3回帝展に初入選、以後連続して入選。昭和22・23年日展で特選受賞。金沢市文化賞、小松市文化賞受賞。昭和27年ハニベ巌窟院を創設。


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最終更新日 : 2014-01-09 23:20:15

八田與一像の運命

戦争末期(1944年・昭和19年)金属供出命令で烏山頭ダムを見降ろす場所から與一像は姿を消します。嘉南平原60万人の命を守ることに男の情熱を注ぎ大事業を成し遂げた男の像が、人命を奪う武器に使われるというのだ。

 

ところが、溶融されたはずの銅像が、終戦を迎えた1945年の或る日、とある場所で発見されました。そして戦後35年経た1981年(昭和56)1月1日、地元有志の手により湖面を見降ろす元の位置に戻されます。しかし、嘉南の人々は與一像を以前のように、じかに地面に置く事はせず台座の上に設置いたしました。

1944年に取り外され再び元の位置に設置される1981年(昭和56年)までの37年間は台湾人にとっては暗い時代でした。戦争末期の日本軍国主義、その後は大陸から来た国民党の「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治、そして1992年迄つづく「国家安全法」による言論統制などのつらい時代を経験します。

 

八田記念館でいただいた資料によると、「終戦早々に職員が偶然に隆田の倉庫で発見し買い戻した。そして安置する前に盗まれたり傷つけられたりの万一を考え、鋳型を新たに造り保管した」と書かれている。隆田の倉庫とは現在の台鉄隆田駅の倉庫の事で金属回収で高雄に運ばれる予定のものが何かの理由で倉庫に残されていたという意味なのでしょう。余談ですが隆田には前総統陳水偏氏の生家があります。

 

「與一の銅像が終戦の年の或る日、嘉南大圳を管理している水利組合の倉庫の中から発見された」「終戦後 偶然にも水利組合の職員によって烏山頭ダム近くの駅倉庫で発見され、八田家がかって住んでいた家のベランダに隠し置いた。この家の前を通る嘉南の農民は手を合わせ拝んだ」などと記述されている文章もある。

「白色テロ」を経験した人々にとって 真実を語っても身の危険が及ばない時代となった今も真実を明かす事を憚る何かが心の中にあるのでしょう。意図された事か偶然か、いずれにせよ八田與一像は無事、嘉南の地に戻ってきました。


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最終更新日 : 2013-02-14 22:06:39

嘉南大圳の竣工

1930年(昭和5年)4/29日、昭和天皇誕生日に嘉南大圳の竣工式がとりおこなわれた。

 事業は半額を国が賄い、受益者が「嘉南大圳組合」を創設し事業施工者となる形態を採った。與一はこの事業を遂行するにあたり総督府技師を辞任(1920年・大正9年)、嘉南大圳組合技師となる。 そして若干34歳の若者が嘉南大圳組合監督課長兼工事課長烏山頭出張所長として、この大工事の責任を一身に背負い工事完遂に邁進するのでした。そして見事やりとげた竣工時には44歳の白髪まじりの中年になっていました。

 

竣工後の1931年(昭和6年)には心血を注いだ嘉南の地を離れ台北市幸町(現在の中山南路、二二八和平記念公園付近)の官舎に転居し総督府内務局土木課水利係長(高等官三等一級)を拝命し、一旦脱いだ官服を再び着る身になります。

 

しかし烏山頭ダムとは組合技師解職後も組合技術顧問となり、その後も関わりあってゆく事になります。

組合技術顧問として建設当時の技術者幹部と共に、毎年一度は、この地に戻り重要地点視察後、維持管理の注意事項を指導しています。
 八田與一の仕事はダムの完成で終わりません。嘉南平原の農民に「水の恩恵は嘉南平原60万人、全ての農民で平等に分かち合う」という崇高な理念を理解させ「3年輪作灌漑法」という耕作方法を普及させなければなりませんでした。これは言うは易し行うは難しで、八田與一が人々の信望を集めていなければ出来ない事でした。

 

八田與一の人間像には勲章は似合わないのですが、1934年(昭和9年)に勲六等瑞宝章、1938年(昭和13年)に勲五等瑞宝章、1939年(昭和14年)に勲四等瑞宝章を授与されております。又、当時の官制では技術者は課長職には就けませんので1939年には「勅任官技師」と厚遇され1941年(昭和16年)には高等官二等三級となっております。


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最終更新日 : 2013-01-27 18:37:57

独創力

「桃園埤圳」での手腕を認められた與一は、嘉南平原の調査活動(1918年・大正7年)を精力的に行い嘉南平原灌漑事業計画を推進していくことになります。この頃、日本国内では米が不足し米騒動なども起きており、土地のある台湾での米の増産を考えています。嘉南平原灌漑事業計画は「工業は日本内地 農業は台湾」という国策に立脚する計画だった。

 

烏山頭ダムと濁水渓からの取水量で嘉南平原15万町歩全域を水で潤すには物理的に問題があり嘉南平原灌漑事業計画の推進に支障となった。しかし與一は「水の不足分を3年輪作灌漑法というもので補えば嘉南平原全域に水を送る事ができる。嘉南平原の農民全てが豊かになる事が台湾の将来に必要である。」との信念で嘉南平原灌漑事業計画を推進していくのでした。この理念には総督府の役人も反論できず與一の事業計画は承認されます。

 

嘉南平原全域60万人の全農民を豊かにするにはダムや水路を作るだけではなく土木技術者の権限枠を飛び越える必要があった。貯水量に合わせ給水面積を決める水の運用・3年輪作灌漑法という独創的な考え方、このハードとソフトを結合さす発想力が嘉南平原全域60万人の全農民を豊かにしたのです。

 

ps.「桃園埤圳」 台北近郊の桃園地区に上流から水を引き込み、溜池をつくり、ここより水路を張りめぐらせ22,000haの水田をつくる工事。


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最終更新日 : 2013-01-27 18:41:18


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