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4

 御台所が嫁いできてから三月以上たったある日、猿楽の一座が駿府にやってきた。城内に舞台をしつらえて、君臣一同観覧することになった。もちろん、今川氏親夫妻が上席に座ることになっている。早雲は事前に北川殿から、ある事を耳打ちされていた。氏親夫婦の仲が心配な北川殿は、この日のために御台所に桜色の打掛を与えたそうだ。桜の花びらの文様がついた美しい打掛で、北川殿苦心の物だという。
「これで、心を動かされぬ男はいないはずじゃ。見ておれ」
 息子を色気づかせるのに「見ておれ」もあるまい。若い頃の北川殿のじゃじゃ馬振りを思いだして、早雲は苦笑いしていた。氏親も席に着き、みな揃っているのに御台所は姿を見せない。気分がすぐれないらしい。心配になった北川殿が、侍女を呼びに行かせようとしたとき、御台所がはいってきた。
 その瞬間、誰もが息をのんだ。今まで見知っている御台所とは違う。桜色の打掛の下には淡い藤色の小袖をまとい、すみれ色の帯を太めに結んだ姿は春風のようだ。早雲のそばを通り過ぎたときに甘い追風がただよった。春の香りという「梅花」に相違ない。髪型も変わっていた。これまで、ひとすじ垂れ髪といって、後でひとつに束ねていただけだったものが、今日は違う。頬の両側に短い髪をたらす「鬢そぎ」という髪型になっているのだ。そのためか御台所の顔が細く見える。張った顎がまったく目立たない。別人のような美しさだった。清水幸政が、ささやいた。
「殿、紅の差し方に気づかれましたか。今日は、紅を口のまん中にだけ小さく差している。口が小さく見える仕掛けじゃ。これは大変な女性にございますよ」
 女に疎い早雲にも分かった。自分をよく見せる方法など、御台所は初めから知っていたのだ。今までそれを隠していたに違いない。だが夫である氏親は、妻の姿にすっかり見とれている。始まった猿楽など、ほとんど見ようともしない。口をあけて、妻の横顔を見つめていた。そんな氏親を見て、北川殿もうれしそうだ。自分が仕立てた打掛が効を奏して、夫婦仲がよくなった。やっと氏親が、新妻の良いところに気づいてくれたのだ。酒肴を用意して控えている、下働きの者たちの表情も明るい。自分たちが贔屓する御台所が、お屋形さまに認められた。お互いに頷きあって「よかった、よかった」とはしゃいでいる。料理が褒められる以上の喜びを感じていたのだ。


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5

 それから十日ほどたって、多目殿が早雲のところへやってきた。
「殿、じつはお屋形さまから呼ばれましてな。相談を受けてまいりました」
「ほう、多目殿にジカにか。わしを通さぬのは珍しい」
「いや、くれぐれも内密にとの仰せでしたが、事が事だけにお耳にいれておこうと思いましてな」
 早雲も身構えた。よほどの重大事にちがいない。何だろう。
「お屋形さまは、御台さまと閨を別にされているらしゅうございます」
「なんだと、以前からそうなのは知っていたが、あの猿楽の日からは仲良くなったと思っていた。違うのか」
 多目殿は頭をぽりぽり掻きながら、ぶつぶつ言っている。
「お屋形さまが寝所に行かれると、御台さまは具合が悪いとか、気分がすぐれぬとか申されて、拒まれるよしにございます」
「なんと、病になられたか。折角仲良くなられたのに、なんたることじゃ」
 深くため息をついて多目殿は、早雲の顔をのぞき込んだ。
「本当に殿は、男女のことに疎いのう。この公家くずれですら、察しがついているのに」
 早雲はムッとした。それが顔に出ている。
「それでは、はじめからご説明しよう。そもそも御台所が、美しさを隠していたのは二つ理由があるとにらんでおります。ひとつは『都からの姫』の前評判が、高すぎたことでござる。前評判が高ければ、期待も大きい。はじめから今のお姿で来られたとしても、高すぎる期待には沿わなかったでありましょう」
「なるほど」
「そもそも男女が一緒にくらす時、『女の美しさ』など、さほどの問題ではない」
 早雲はあきれてしまった。風采のあがらない多目殿の口から、美しさなどどうでもいいなどという言葉が出るとは思わなかったのだ。
「傾国の美女と呼ばれた楊貴妃も虞美人も、それぞれ容姿に一つずつ欠点があったと聞いています。絶世の美女ですら欠点があるのなら、世に欠点のないオナゴなどおりません。三月もすれば、欠点が目につきだすのでござる。ひるがえって、いかに不器量なオナゴでも愛嬌のひとつぐらいはある。三月一緒にくらせば、愛嬌がいとおしくなるものでございます。要は、その三月が過ぎてからどうするか、それが肝心なのでござる。それを御台さまは知っておられた。これが第一でござる」
「もうひとつは?」
「北川殿と御付の者どもでござる。これまで嫁をお取りになっても、うまく行かなかったのは、北川殿と御付の者どものいずれかに原因がある。御台さまは、そう睨んだのでございましょう。だから、北川殿と御付の者どもを先に味方につけた。その方々が、夫婦仲を取り持つように仕向けたのです。猿楽の宴で、すべてうまく運んだ。お屋形さま、北川殿、御付の者、すべての心をつかんだのでございます」
「ではなぜ、お屋形さまと仲良くせぬのだ」
 多目殿はニヤリと笑って、ふところから短冊をとりだした。
「これは御台さまが、お屋形さまに贈った歌でござる。夜お会いにならない代わりに、その歌をさしあげたらしい」

 

 春のみを 待つらむ人に 山里の
   雪間の花の 春を見せばや

 

「これは?」
「歌人で名高い、藤原家隆卿の歌にござる。お屋形さまは、その歌を受け取られてお困りになった。歌などもらって、どう返事したらよいのか。返歌をおくるとしたら、どうしたら気にいってもらえるのか。それを、それがしに相談されたのでござる」
「なるほど」
 年老いた元公家とはいえ、多目殿の博識は比類がない。お屋形さまが内密に多目殿に相談したのは、そういうことだったのだ。
「まあ、返歌のことは適当にお答えしておきました。簡単に言えば御台さまは、お屋形さまをジラしておいでなのでしょう。人情は難きを重んじて、易きを軽んずると言います。会うのが難しければ、ますます会いたくなる。お屋形さまは、生まれてはじめて恋をされているのでござる。恋して恋こがれて結ばれてこそ、キズナは深まる。まあ、そんなところでしょうな」
 自分の鈍感なことは、死ぬまで直らないだろう。早雲はそう感じていた。御台所の深謀遠慮にも、舌を巻く思いだ。自分が氏親でも、手玉にとられていたに違いなかった。
 結局、今川氏親と中御門の方の間には、男子三人をはじめ多くの子が生まれた。今川家の跡継ぎ問題は、解消したのだった。

 

 

 


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