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第二章

1 第二章

 人生とは面白いものです。何かひとつを手放したら、それよりずっといいものがやってくるものです。

             (ウィリアム・サマセット・モーム)

 

 

「全く、愚かな人間共め。そして、無知すぎる魔王め。ああ、イライラする。イライラして仕方が無いぞ」
 透き通るような肌が覆う細い体を、真っ白でふわふわとした布が、胸と腰の辺りだけを隠している。小さな顔にかかる、絹糸のようにキラキラとした長い髪を払いのけ、ガラスのような瞳が僕を見つめている。その背中からは、純白の翼が広がっていた。
「ば、馬鹿な……。正気か、貴様?」
「え? あ! ケ、ケイオス!」
 聞き慣れた重い声の主は、死んだと思っていたケイオスだった。ケイオスは、破壊された扉の所で、壁に背を預けて立っている。お腹を押さえている手からは、ポタポタと青い血が滴っていた。
「やはり。まだ生きていたか、ケイオス」
 天使はそう言って鼻で笑うと、
「ふん、正気か、だと? 正気であれば、私が姿など現すものか。おかしくなったからここにいる。そんな事も分からんのか? 貴様がそんな有様だから、人間などに遅れを取るのだ」
 ケイオスの生存を喜ぶ隙も与えられず、翼を持つモノが冷たい言葉を紡いでいった。
 見た目は美しいのに酷そうなヒトだ、と思う。

「なんだと? あれだけやって、まだ生きてんのかよ!」
「落ち着きなされ、ウィル殿! ケイオスなど、あの負傷では、最早戦う力などありますまい。生きているだけでありましょう。それより、あの白い女が気になります。人間では、よもあるまいが……魔族にも見えぬ」
 すぐにでもケイオスに斬りかかろうとするウィルを、白髭騎士が押し留めた。何が起こっているのか分からず、人間たちは僕とケイオス、そして白い翼を持つモノを何度も見遣り、混乱している。
 それは、僕も同じだった。
「だ、誰? 魔水晶、なの?」
 僕は素直に訊ねた。
「ん? ああ、そうだ。私は、クリス」
 そう答えると、翼を大きくはためかせ、
「私は『第一世界』の天使長、クリス・クロスという者だ」
 両手を腰に、胸を張った。
「なんだ、『第一世界』って? 天使長、だと? ここは魔王の居城だぜ。天使ってのは、神様の使いじゃねぇのかよ?」
 明らかに異質な空気を放つクリスに対しても、ウィルにはまるで臆する様子が無い。僕はそんな彼を、いつも凄いと思う。どんなに巨大な敵が現れても、彼はいつも変わらないんだ。

「勇者ウィル・ハーバーライトか。は。何が『勇者』だ。笑わせる」
 宙に浮かび、ウィルを見下ろす視線には、明らかに怒りがある。僕を叱る時のケイオスよりも、遥かに怖いと思った。
「んだと? なんなんだ、てめぇ。魔王討伐の邪魔をするってんなら、てめぇも一緒にブチ殺すぜ」
 ウィルから殺気が立ち昇る。構えた剣が煌いた。
「身の程知らずとは幸せなことだな。好きにするがいい、ウィルよ。私の姿を見た以上、貴様らに助かる道は無い。必死で抵抗することだ」
「な! ま、待て、クリス!」
 ケイオスが一歩足を踏み出した。
「待つ理由は無い」
 冷たい壁を思わせる言葉を発すると、クリスの背にある純白の翼から、無数の光り輝く羽が四散した。
「うおっ!」
「ぐあっ!」
「ぎゃあっ!」
 それらはクリスを取り囲むようにしていた人間たちを、悉く貫いていった。鉄の鎧もまるで役には立っていない。ばたばたと倒れ行く人間たちの中で、最後まで立っていたのはウィルだった。

「ほう。さすがは『カイロスの盾』だな。私の羽を受け、傷一つ無いとは」
 ウィルは左腕に嵌っている小さな丸い盾で、クリスの攻撃を防いでいた。
 でも。
「が、その盾の弱点は、小さすぎる所だ。今のような広範囲、そして同時に迫る脅威は、完全に防ぐ事が出来ない」
「うぐ……」
 ウィルは両膝を折ると、床に這い蹲った。盾に守られていた頭や胸には大きな怪我が無いけれど、それ以外の足や肩から、沢山の血が流れ出ている。
 凄い。あんなに強いウィルを、一瞬で。このヒト、何者なんだろう?
「苦しかろう? だがな、この馬鹿が感じた痛みは、その程度ではない。体の痛みだけでは無い。心の痛みにしても、だ」
 クリスはそう言いながら僕に視線を送った。
 馬鹿って、僕のことなの?
「な、なん、なん、だ? お前は、一体……?」
「知る必要は無い」
 苦しげに床から顔を上げるウィルに向け、また翼が煽られようとしている。
 またあの羽を飛ばす気だ!
「むっ。なんの真似だ、馬鹿者め」
 気付けば、僕はウィルの上に覆いかぶさっていた。
「や、やめてあげてよ……」
 僕は恐怖に耐えながら、言葉を搾り出した。

 

 


「なんだと?」

 クリスの高く美しい声が、僕の鼓膜を揺らした。その声は、きれいなのに怖かった。

「ウ、ウィルは、ここまで、凄く頑張って辿り着いたんだ。友達もたくさん亡くしたし、いっぱい泣いたりしてた。キミは、それを知ってるの?」

「無論だ」

 無感情な声だ。やっぱり、怖い。

「勿論、理由だって知っている。貴様こそ、ソイツが何をしに来たか、本当に分かっているのか?」

 僕は無言で頷いた。

「ならば、なぜ庇う? 貴様はソイツに殺されてもいいというのか?」

 僕はぷるぷると首を振った。

「では、そこをどけ。大体、貴様が本気で戦えば、そんな人間など一ひねりなのだ。が、そうする気がなさそうなので私が出た。私は、貴様を助けてやろうとしているのだ。それくらいは分かるだろう?」

 僕はぶるんぶるんと縦と横に首を振り、ウィルをきつく抱き締めた。ウィルの荒い息遣いが耳元で聞える。

「どっちだ、その反応は?」

「ど、どくのはイヤ。キミが僕を助けてくれているのは、分かるよ」

 クリスはしばらく僕を無言で見つめ、

「はぁ」

 と大きなため息をついた。

「ま、魔王……?」

 横顔に、ウィルの視線を感じる。

「では、好きにするがいい。その傷では、どうせもう長くはない。ケイオス」

 クリスに呼びつけられ、ケイオスが足を引き摺りながら近付いて来た。

「私はここから、この馬鹿を連れ出す」

「本気か? 何をしようとしているのか、分かっているのだろうな、クリス?」

 ケイオスの頬に汗が伝う。その血走った目に、僕は言い知れない不安を覚えた。

「はっはっは! 当然だ! 私はな、もうあのクソジジイ……と、言っても通じんか。あの“神”には従えん。このやり方は、間違っている。もー、我慢できんのだ! 貴様とて、そう思っているのだろう? ケイオス」

「クリス……」

 ケイオスの赤い瞳が潤んでいる。

 なんの話をしているんだろう? 僕を、連れ出す? この城から?

「ふ。ははは。よし。お前に任せよう。どうせ私も直に死ぬ。魔王様に仕えて二百年。お前が魔王様を解き放ってくれるのであれば、もう、思い残すこともない。すっきりとした気分で旅立てるというものだ。ははははは」

 ケイオスは口から溢れる血を拭おうともせず、愉快そうに笑う。そして、 「魔王様。不肖ケイオス、勝手ながら先立たせて頂きます。長い間、お世話になりました」

 と、ウィルを抱えたままの僕に、笑顔を向けた。

 初めて目にするケイオスの笑顔。

 それは、凄く優しいものだった。

「ケ、ケイオス」

 僕はケイオスへと手を伸ばした。

「勇者よ」

 ケイオスは、なんと言っていいか分からずに伸ばした僕の手をしっかりと握ると、ウィルへと声をかけた。

「魔軍参謀、ケイオス……が、そんな、優しい、声を、出せる、なんて、な。てめぇの操る魔王軍にゃ、散々な目に遭わされてきたって、いう、のに、よ」

 強がっているのか、にやりと笑みを浮かべるウィルの声は、途切れ途切れだ。

「ここまで辿り着いたのは、お前が初めてであり……私を倒したのも、そうだ。お前は、良くやった。胸を張って逝くがいい」

「ち。あの世で自慢したって仕方ねぇ、ぜ。俺には……」

「あ! し、知ってるよ、ウィル! 妹でしょう? 妹に、凱旋した姿を見せたかったんでしょう?」

 この辺りのウィルの気持ちについては、以前ケイオスに説明してもらっている。

 ウィルにはたった一人の肉親である妹がいる。その子は、アーク公国の辺境『アルクデスタ』で、ウィルの帰りを待っているはずだ。ウィルは驚いた表情を浮かべ、僕を睨み付けた。

「なんで、てめぇは、俺の事を、そんなに知って、いやがる? なんで、俺、を、庇う?」

「えっ? あ、ぼ、僕は……」

「その馬鹿は、貴様と友達になりたかったのだ。貴様の事が、大好きなのだ」

 しどろもどろになる僕の代わりに、クリスが答えてくれた。

「なんだって?」

「笑わせるだろう? 自分を殺そうとしている貴様を、その馬鹿は心待ちにしていたのだ。水晶珠であった私を通じ、いつも貴様らの行動を観ていたのだ。貴様らの事で、毎日毎日、一喜一憂してな。それを間近で見ていた私は、その都度呆れていたのだが」


 ウィルはクリスの話を聞き終え、「そうか。だから、抵抗しなかったのか」と、呆然として呟いた。 

 そして、
「俺は、ひどい事をしたんだな……」
 そう言って、項垂れた。
「知らなかったんだから、仕方ないよ」
「え?」
 僕は俯いたウィルを覗き込むようにして言葉をかけた。ウィルの見開いた目が、僕を映す。巨大な角と、大きな口から飛び出す牙を持つ僕が、そこにいた。散々斬られて出来た傷も、いつの間にか、すっかりきれいに治っている。
 これが、僕?
「はぁ。それがその愚かな人間を庇う理由か」
 クリスは僕の思いを理解してくれているようだ。でも。
「ふん。姿が禍々しいからと、一方的に『悪』とするのが、貴様らだ。例え事前に教えられたとて、容易には信じまい。それが“人間”なのだからな」
 衝撃に脳が痺れて、クリスの言葉もよく聞き取れない。
 ナニコレ? こんな姿じゃ、怖がられて当然だよ!
 僕は、怪物だったんだ!
 自分の姿を映せる鏡という物の存在は、魔水晶で見て知っていた。興味を持った僕は、今まで何度と無くケイオスにおねだりしていたんだ。でも、ケイオスはそれを絶対にくれなかった。
 ケイオスは、自分の姿を見た僕がショックを受けるって、分かっていたんだ!

「この馬鹿をこんな姿にしたのも貴様らだ。そんな事も知らず、『魔王を倒せば平和になる』、か?  馬鹿がっ! どいつもこいつも馬鹿ばかりだ! もう、こんな『第二世界』など、どうなっても知るものか!  私はこの馬鹿を連れ出す! この馬鹿を、“幸せ”にせねば気が済まぬ!」
 クリスは動揺する僕に気付いた様子も無く、ただただ気持ちを吐き出している。僕の為に怒ってくれているのは、なんとなく分かった。でも、僕がこんな姿になったのは「人間のせい」って、どういう事?
「がはっ!」
「あっ! ウィル!」
 疑問が渦巻き始める僕の頭を、ウィルの吐血が遮った。
「大丈夫、ウィル! しっかりして! 妹が待っているんでしょう? 死んじゃあダメだっ!」
 僕はウィルの背中をさすった。他にするべき事を知らないんだ。

 でも、鎧が邪魔だ。外さなくちゃ!
「ああ。どうやったら外せるの、これ? まずい、まずいよ!」
 慌てる手がただ彷徨う。僕はケイオスに助けを求めた。
「助けて、ケイオス。ウィルを、助けて」

「無理でございます、魔王様……。申し訳ございませんが、その者の怪我を治せるならば、まず自分の治療をしております」
 そうか。僕は馬鹿だっ。
 あ。じゃあ、クリスは?
 もしクリスに治療する力があれば、二人とも助かる!
「クリス?」
「誰が名で呼ぶ事を許した? 私に助けを求めても無駄だ」
 冷たい視線に絶対的な“拒否”を悟った。
「ううっ。どうしたらいいんだ。どうしたらっ……」
 僕は自分の無力を痛感し、絶望に身を捩った。
「はっ。はは……。まさか、倒しに来た魔王に介抱されるたぁな。いいんだ、魔王。もう、いいのさ」
 ウィルは僕の腕を握ると、血に汚れた口を歪め、笑おうとしているようだ。
「何がいいんだよ! 死んだら終わりでしょ?」
「まぁな。でもよ、もう助からないって分かれば、それでも終わり、さ。最後まで生きようとするのも悪くない。が、俺には今より数分、命を延ばすことよりも、大事なことがあるからさ」
 呼吸の音が少し高くなってきた。ヒューヒューと鳴る喉が、僕を切迫した気持ちにさせる。覚悟を宿したウィルの瞳に、僕はもう、何も言えなかった。ウィルは、僕に何かを伝えようとしている。そう感じた僕は、ただゆっくりと頷いた。

「なぁ、魔王。殺しに来といて勝手なのは承知なんだが、頼みたい事がある」
「何? いいよ。なんでも言って、ウィル」
「安請け合いを」と言いたそうなクリスの苦い顔が、視界の端に入った。
「妹を、シャルルを、頼む」
「……へ?」
 僕はたじろいだ。確かに「なんでも言って」とは言ったけど。
 それは頼まれても、どうしたらいいのか分からないよ!
「任せておけ。魔王様なら、きっとなんとかしてくださる」
「え?」
 力強く言い放つのは、ケイオスだった。
「そうだな。この馬鹿ならば、きっとどうにかするだろう。とりあえずは、この城から出るところまで、私が間違いなく見届ける。安心して死ぬがいい」
 追い討ちするかのような言葉は、クリスだった。
 なに? そのサディスティックな笑み。
 顔に「ざまあみろ」って書いてあるよ!

 


「ち。てめぇに言われても素直に安心できねぇが……。仲間も全員逝っちまったしな。託せるのが魔王だけとは、笑える、ぜ。うぐっ」
「ウィル!」
 ウィルの口から、大量の血が吐き出された。目も虚ろだし、体が冷たくなってきたみたいだ。
 どうしよう、どうしよう! 僕に今、出来ることは?

「しっかり、ウィル! うん。うん! 妹は、僕に任せて! シャルル、だよね? きっと、きっと僕が、なんとかするから! 伝えることがあれば言って!」
 やっぱりこれしかないよ!
 助けられないなら……。せめて、せめてこれぐらいはしてあげたいよ!
「は、はは。これが、魔王? こんなに優しい魔王なんて、あるのかよ? 俺は、俺は一体、なんのために、ここまで……」
 ウィルは自虐気味に笑うと、腕に嵌っていた丸い盾を外し、僕に渡した。装飾の美しい、銀色に輝く小さな丸い盾だ。
「これ? カイロスの盾、だっけ?」
 僕はこの行動に対するウィルの真意を訊ねた。

「ああ。それは親父から受け継いだモンだ。シャルルにそれを見せれば、きっとお前の言う事を信じてくれるだろ」
 小刻みに震えながら話すウィルを、クリスもケイオスも身じろぎもせず見つめている。
「シャルルに、こう伝えてくれ。『ごめん。先に逝く。お前は、元気で……』、がは、げふ」
「ウィル!」
「……幸せ、に、なって……くれ……」
 そこまで話し、ウィルの瞳が静かに閉じた。
 握っていた手の力が抜けて、僕の手をすり抜ける。
 僕の腕の中でウィルの顔が力なく横を向き、だらりと下がった。

 

「ウィル?」
 僕は呼びかけた。
「ウィル」
 僕はウィルを揺すってみた。
「ウィルーーーーー!」
 僕は大声でその名を叫んだ。
 ずしり、と腕に重みがかかった。
 瞬間、僕は理解した。
 この重さが、“死”なのだ、と。

 

 ぼとぼととウィルの顔に落ちているのは、僕の涙なのだろう。
 僕はウィルを濡らすのが嫌で、彼を胸に掻き抱いた。
 辛い。
 苦しい。
 これも、“悲しい”?
 こんなに嫌な気持ちがあるなんて。
「立て、魔王。悲しんでいる暇などない」
「えっ?」
 唐突な声に顔を上げると、腕を組んで僕たちを見下ろすクリスがいた。
「悲しんでいる、暇が、無い? そんな。ひ、ひどいよ、クリス。暇だから悲しむわけじゃあ、ないでしょう?」
 クリスの言葉に、余計に涙が溢れた。

「……魔王様。お気持ちお察ししますが、今はクリスに従ってください。こやつとて、こんな事を、言いたくて言っているわけでは、ありません……」
 ケイオスが荒い呼吸を繰り返しながら、僕の側へと膝を付いた。
「ケイオス。でも。だって」
「だってではない。直にクソジジイもここの異変に気付くだろう。そうなれば、貴様はこの城から出られなくなる。シャルルにも会いには行けんぞ。いいのか? ウィルと約束したのだろう?」
 う。そうなんだ。
 でも、なんでだろう?
 なぜ僕は、ここから出られないんだろう?
 扉の取っ手にも拒絶されているようだった。

「ああ。そんなに不思議そうな顔をするな。ここから出たら説明してやる。今は、一刻も早くここから脱出することだ」
 そう言うと、クリスは白くて大きな翼を一振りし、僕の腕を掴んだ。拍子にウィルが僕の腕から零れ落ち、床に転がる。
「ま、待て、クリス。外の世界に行くのに、魔王様がその姿のままでは都合が悪かろう?」
 今にも飛び立たんとしているクリスを、ケイオスが腕を伸ばして引き止めた。
「む? なるほど、そうかも知れん。私としたことが、迂闊だった。しかし、だからどうする?」
「私に任せてくれ。どうせ死ぬ身だ。魔王様が溜めた《穢れ》は、このケイオスが引き受けよう」
「なんだと?」
 ケイオスの発言に相当驚いたのか、クリスの目が大きく見開かれた。
 なんだろう?《穢れ》って?

「では参る。『過去より現在、人世に渦巻きし《穢れ》たち。寄り代離れて我に寄れ。全ての《穢れ》よ、ケイオスに来たれ』!」
「うわぁっ!」
 次の瞬間、ケイオスの手が僕に翳されると、辺りに真っ黒な闇が飛び出した。
 なんだ、これ!
 ぼ、僕の体から、沢山の《闇》が流れ出て行く!
 うわ、わ。引っ張られる。ケイオスに、引っ張られる!
「わあぁぁぁぁぁぁ!」
 自分の体の中身を引きずり出されるような感覚に、僕は思わず声を上げた。


「ケイオスッ! 馬鹿がっ!」
 クリスは白い翼で身を包み、《闇》を弾いているようだ。
 その腕はしっかり僕を掴んでいる。
 でも、足は床を離れて、ケイオスの不思議な力に引かれている。
 倒れていたウィルや騎士たちが宙に浮き、回りながらケイオスに吸い寄せられていく。
「ぐお、あ、うぁ、あぁぁぁぁ!」
「ケイオスーーーーーー!」
 ケイオスはみるみる体を膨らまし、巨大な風船のようになってゆく。
 ケイオスはそのままあっと言う間にこの部屋を満たし、そして、
「がっ」
 短い断末魔の声を上げた後、小さな黒い点となって消滅した。

 

「ケイオスッ……」
 クリスは苦しそうにその名を呟いた。
 ケイオスはどうなったんだろう? 一体、どこに行ってしまったんだろう? クリスは、ケイオスの何なんだろう?
 歪むクリスの表情を、僕はそう考えながら見つめていた。
 それにしても、部屋の雰囲気がかなり変わったように思う。外の光が真っ直ぐに入ってきているのか、今まで薄暗かったこの部屋は、相当明るくなっている。今までここが暗かったのは、僕から飛び出した、あの《闇》のせいだったんだろうか?

「あれ?」
 ふと、体が揺れているような感覚がして、僕は辺りに配っていた視線を床に投げた。耳を澄ませば、低く重い音が小さく聞こえる。
「まずいな。もう気付かれたか」
 クリスにもそれが分かったらしい。さっきより更に怖い顔になっている。
「急ごう。手をよこせ、魔王……っ!」
「ん?」
 クリスの差し伸べられた手が、ピタリと止まった。
 ど、どうしたんだろ、クリス? そんなに大きくなった目で見られたら、僕、どうしたらいいのか分からないよ。
「……ディアッ……!」
「わ? わ、わわっ?」
 戸惑っている間に、僕の体はクリスに抱き締められていた。

 真っ白な翼が僕を包む。
 すべすべとしたクリスの頬が、僕の頬に擦り寄ってきた。
 あれ? 僕はクリスよりかなり大きかったはずだけど……?
 僕、すっぽりとクリスの胸の中に収まっているような気がする。
 おかしいな?
「ディア。ディア。会いたかった。私は、ずっとお前を見ていた。変わりゆくお前を……」
 え? え? どういう意味?
 な、泣いてる、の? クリス?
 こうしている間にも、床に伝わる振動とお腹に響いてくるような音は、刻一刻と大きくなっている。

「いいんだ。私を覚えていなくても、忘れ去られていたとしても。それでも、私はお前を……、お前だけを……」
「ク、クリス? あの、なんだか良く分からないんだけど……。ごめんね。でも、何か、まずそうな雰囲気だよ? いいの、かなぁ?」
 勇気を出してそう言うと、クリスの体が一瞬ビクリと波打った。
 そして、
「そうだ。こうしている場合では無い。……何を動揺しているのだ、私は……。行くぞ、ディア」
「あ、れ? あれれれれぇ?」
 僕はふわりと小脇に抱えられ、クリスと共にバルコニーへと踏み出していた。
 前はいつだったか思い出せないほど久しぶりに感じる爽やかな風が、僕の髪をさらさらと靡かせる。
 なんか、髪が短くなっているような気がする。

「飛ぶぞ。しっかりつかまれ」
 髪のことなどすぐにどうでも良くなった。
 クリスは僕を抱えたまま、真っ黒な石造りのバルコニーの、胸の辺りまである柵に足をかけ、
「わ、わあぁっ」
 真っ白な翼を大きく開くと、そのまま外に飛び出した。
 眼下には不自然にうねった木々の生い茂る城の庭。遠くにはなだらかな山が連なっている。その手前には、人間の街。白い壁と青い屋根が密集しているのが、アーク公国の城下街だ。
 青い屋根の集まりがだんだんと盛り上がる中心には、沢山の青い尖塔が聳える、石灰岩で造られたお城が建っている。
 緑の山々をバックにした白と青のその世界は、僕の憧れだ。羽ばたくクリスの翼越しに見上げると、真っ青な空に白い雲が、ゆっくりと流れている。
 僕は初めて浴びる日の光の眩しさに目を細めた。風の匂いと太陽の匂い、そしてわずかに緑の匂いも混ざっている空気を、僕は胸一杯に吸い込んだ。

 


「ち。ケイオスがあれだけ頑張ったというのに、もうこれか」
「え?」
 クリスは振り向いて舌打ちしていた。
 僕も後ろを振り返る。
「あっ! な、なに、あれ?」
 そして、思わず訊ねていた。
 今飛び出した僕のお城が、真っ黒な《闇》に飲まれていこうとしている。地面から湧き出ているのか、空気から滲み出ているのかも分からないけど、それは大量に、そして急速に増えている。
「スピードを上げるぞ。このままでは、我われまであの《闇》に飲まれてしまう。そうなれば、ケイオスの犠牲が無駄になる!」
 ぐん、と後ろに引っ張られる感じがした。速度が上がったんだ。
 僕は後ろから目が離せないでいた。《闇》が、どんどんこっちに迫っていたからだ。

「あの城の《結界》は、敷地内までだ。城壁の上空さえ抜けられれば!」
 クリスの飛ぶスピードがまた上がる。翼の羽ばたきが激しくなる。《闇》の広がりも速くなった。
 《闇》は、もうすぐ後ろに迫っている。
 怖い。あれに飲まれたら、どうなるの?
 おかしいよ。あのお城は、今までずっと、僕が住んでいた所のはずなのに。
 一番上にある僕のお部屋は、お気に入りの場所だったはずなのに。
 一度光に溢れた外の世界に出てみたら、もう帰りたくなくなっているなんて。
 いやだ。
 もう、《闇》は、いやだ。
 助けて、クリス。
 僕、もう、あそこには帰りたくない。
 帰りたく、ないんだ。

「クリスぅ。後ろ、後ろに」
「分かっている。心配するな」
 クリスの不敵な笑顔に安心した。
 でも、僕の足が。
 今、《闇》に、捕まった!
 僕の足に、《闇》が纏わり付いている。
 クリスの足や翼にも、染み込むように《闇》がある。
 クリスのスピードが落ちた。
 がくん、と僕の足を引く力が強くなった。
 途端に、僕は泣きたいような衝動にかられた。
「クリスッ!」
「心配するな、と、言った、だ、ろお、おぉぉぉぉっ!」
 叫ぶ僕に、クリスも吼えるように応えた。
 クリスから、凄い力を感じる。クリスは、全力を振り絞っているみたいだ。
「抜けた!」
「わっ!」
 急に体が軽くなった。
 激しい風が吹き付けて、僕は思わず目を閉じた。

 

「見ろ、ディア」
 しかしクリスに顔をぱしぱしと叩かれて、後ろを見るよう急かされた。
「う、うわぁ!」
 煤けた蔦がびっしりと外壁に絡んでいるお城が、真っ黒に染まっていた。槍のように尖った屋根を持つ塔が三棟あるけど、どの塔のどの窓からも《闇》が勢い良く噴き出していた。越えた城壁を境に、城を中心として、《闇》が内側で渦を巻いている。
 暗い。そして、黒い。
 あれが今まで僕のいた所。
 《ギルトサバスの城》と呼ばれる、僕の城だ。
「どうだ、ディア。自分の城を、外から眺めるのは初めてだろう?」
「う、うん」
 僕は頷いた。
「信じられないよ……。あんな怖そうなところに、今まで僕がいたなんて……」
 そして、素直な感想を口にしていた。

「だろうな。だが、事実だ」
 クリスは柔らかく微笑むと、僕を小川のほとりにそっと降ろしてくれた。
 足の裏にひんやりと、それでいて優しい感触がある。
 飛んでいるとき靴を落としちゃったんだ、と僕は思った。
 見下ろせば、小さな白い花を咲かせた草が、沢山生えている。それは小川に沿って広がっていた。
 空からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
 腕を開いて顔を上げると、太陽の光がぽかぽかと僕を照らしている。
 気持ちいい。
 これが、外の世界。


「嬉しそうだな、ディア」
 クリスが僕の頭を撫でた。
 最初見た時は凄く冷たい感じがしたのに、今は別人みたいだ。
 それに。
「ねぇ、クリス。なんで僕を『ディア』って呼ぶの?」
「ん? ああ。はは。それがお前の本当の名前なのだ、ディア。そしてその姿は、私の知る、昔のディアだ。 私は、もうお前を『ディアボロ』とは呼べない。その姿に戻ったなら、な」
「僕の、姿?」
「気付いてないのか? お前は、相変わらず、のんびりしているな。ほら、そこの小川で自分の姿を見てみるがいい。鏡ほどではないが、水も自分の姿を映してくれる」
「えっ? そうなんだ!」
 僕の心は浮き上がった。ずっと欲しかった鏡の代わりが、すぐそこにあるんだ。
 でも。
「……やめとくよ、クリス。だって、僕、凄く怖い顔、してるし……」
 もうあんな自分は見たくない。

「なに? あっはっは。心配するなったら」
「あ! や、やめてよ、クリス!」
 クリスは僕をまたしても抱きかかえ、小川の中に足を入れた。
 自分の姿を見るのがいやで、目をぎゅっとつむる。でも、つむる直前、ちらりと白い翼が見えた。
 これは、クリスが映っていたんだね。やっぱり僕も映ってるんだ。
「大丈夫だったら。ほら、見てみろ」
「うー」
 クリスにぺしぺしと頬を打たれ、僕は恐る恐る目を開けた。
「……え?」
 緩やかに流れる小川の水面には、自分で言うのも気が引けるけど、愛くるしい顔をした《人間》が映っていた。

 着ているのは、確かに僕が身に付けていたものだ。
 後頭部から肩、胸まで覆う紫色に染められた革の外套から、ケイオスの着用していたローブに似た漆黒のマントが広がっている。グレーのシャツに光沢あるマフラーもそのままだ。でも、それらは全てだぶだぶで、全然サイズが合ってない。いつの間にか、ズボンなんてなくなってる。細くて白い足が、シャツの裾から伸びている。
 これが、僕? まるっきり《人間》じゃないか。

 揺れる水面をよくよく覗いてみる。
 すると、やっぱり僕は《人間》ではないことがすぐに分かった。
 短めの金髪を掻き分けて、頭から二本の角が生えていた。
 くるりとカーブした、茶色くて短い角だ。
「ふむ。角は消せなかった、か。ケイオスの《許容量》では、そこまでが限界だったようだ」
 耳元で僕と一緒に水面を覗き込むクリスの、残念そうな呟きが聞こえた。
「しかし、それ以外は昔のままだ。……昔のまま、女の子のように……かわいい……」
 次の言葉は嬉しそうに聞こえたけど、耳には妙に熱い吐息がかかった。
 僕はなんとなく、少しだけ体を震わせたのだった。