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十月に入ってから朝晩は冷える日が続いている。扇風機は押入れ奥に追いやられ、箪笥の中から半そでの服が消え、布団はすこし厚みを増す。
せっかく厚くした布団ではあるけれど、昨夜に限って、僕はその布団の外で寝入っていたようだ。
この時期、何もかぶらずに寝ているのは寒い。
「……寒い」
と、つぶやく意味はまったく無いけど、思わずそんな言葉が出た。
とりあえず布団の中へともぐり込み、さてもう一眠り。
そう思ったところで、
「おはよう! ああ、よかった……」
と、聞き覚えの無い声が近くから聞こえた。
「!」
僕は反射的に飛びのいた。
飛びのいた拍子に、背中を思い切り壁にぶつけてしまった。
「いった……」
痛む背中をさすりつつ顔を上げると――。
机の上に、女の子が座っていた。

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黒いコートに赤茶色の長いマフラー、それに細いジーンズとブーツ。コートの中はニットだろうか――なんにせよ真冬のような装いで、いくら朝夕寒いにしても重装備過ぎやしないだろうか。
「君、ちょっと聞いてる? おはよう!」
「ああ、お、おはよう」
とりあえず挨拶返しはしてみたものの――。
しかし僕は、彼女に見覚えがなかった。

彼女は僕が喋るのを待っているみたいだけど……僕は何も喋れない。
その場には重苦しい沈黙が充満していくばかり。
彼女は満面の笑みである。その笑顔がなんだか恐ろしくも感じた。
心を落ち着けて昨日の晩の出来事を思い出してみる。
昨日は、確か。
せっかく月がキレイなんだからって思って、ベランダに出て酒を飲んでいた。慣れないし柄じゃないしかなり寂しいけれど、でも中々おいしく酒が飲めていた。
で、ちょっと風が出てきて。
横で干してた洗濯物がバタバタ暴れ出したもんだから、僕はそれを部屋の中へ引っ込めはじめた。足元がふらついていた。けっこう酔ってたのかもしれない。
ひときわ強い風が吹いて、大きなバスタオルが宙に放り出された。
それを身を乗り出して掴みにいった。
上半身が低めの柵の外へ出ちゃって、そのまま体が外へと引きずり込まれていって。
これは終わったかも、と思った。

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「なに? 何か顔についてるかしら?」
「いえ、何も……」
彼女の顔を眺めながら、そういったことを思い出した。
それまでしか、思い出せなかった。
「これは終わったかも」と思ってから起床するまでの間のことは何一つ覚えていないのだ。
まさか死んだわけでもあるまい。
こうやって生きているのだから。
夢でもないはずだ。
冷える朝にあってしっかり寒気も感じるし、布団をつかむ感覚もバッチリある。
いまだに少し呼吸が荒れているのだってこの現在を生きている証拠だ。
よっぽど気が動転して、記憶がどこかへ飛んじゃったのだろうか。
そして一番重要なことだが、一番目の前のこの女の子にまったく見覚えがなかった。思い出せる限りの知り合いに、似た奴すらいない。
一人で酒盛りを始めてから一歩も外へ出ていないし、行きずり云々といったこともあるはずがない。鍵も閉めているから不法侵入もできないはずだ。
「ふうん。そっか、そうだよね。分かんないよね」
意味不明の言葉を並べて、彼女は苦笑する。
なぜ苦笑するのか。
苦笑したいのはこちらのほうだ。
布団を抱えて怯える僕のほうへ、彼女が近づいてくる。
「く、来るな!」
「まあまあ、そう怯えなさんな」
怯える以外にどんな選択肢があるのだろう。
「ほら、こうすれば分かるから……」
彼女は音も無くベッドのヘリに両膝を乗せる。
そして矢庭に、僕の腕を掴もうとした。
僕は全力でそれを避ける。
「君、大人しくしなさい!」
「ひッ!」
「情けないなー、ほら、これでどうだ!」
狭い布団の上で逃げる僕の右足が、彼女にむんずと掴まれた。

……掴まれたような気がしただけで、実際にはなんの感覚もなかった。
思い切り瞑った瞼がぷるぷる震える。
僕は恐る恐る目を開いた。
彼女の手は、僕の左脛に貫通していた。
継ぎ目無く、キレイに足へと埋まっている。
僕はそれを凝視することしか出来なかった。
そして非常に情けないことに――。
そのまま、気絶した。

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気が付けば、部屋はすでに薄暗い。
いやはや時間が流れるのは早いものだ。さっき朝起きたと思ったらもう夜なのだから。腹も減ったし、とりあえず米を炊くことにしよう。
「おーい、ちょっと! 無視するつもり?」
僕は粛々と米を研いでいる。しゃかしゃかと気持ち良い音が、薄暗いキッチンに響いている。ぬかで濁った水が、銀色のシンクをぐるぐると回って流れ落ちていく。
「あ、お米こぼれたでしょ、いま」
「……」
僕はこぼれた米を拾い上げて内釜へと戻した。
もう一度米を研ぎなおしながら、僕は考える。
今日は一日中寝てしまっていたわけで、当然授業には出れていない。無断欠席である。幸い試験はまだ遠いし、一日くらい問題ないだろう。そもそも今日の授業、出席点は割合低かったはず。大丈夫、大丈夫。
「せっかくなんだからお話しましょうよー。ねー」
のんきな声が、相変わらず僕の頭の中で響いている。
「……」
見てはいけないと思いつつ部屋に視線を移すと、女の子が椅子に座っていた。机の上に座るよりは遥かにマシだが、土足なのでまだまだお行儀は悪い。
「ついに僕もオシマイか……」
「どうしてそんなこと言うのよー!」
彼女はマフラーに首をひっこめて、ぶうと唇を尖らせた。そのしぐさが妙に人間臭く、かわいらしい。
「どうしてもなにも、君がいるからじゃないか……あー、だめだ、話かけちゃだめだな、うん」
僕はシンク横の炊飯器に内釜をセットした。ぱちんとフタを閉め、早炊きボタンを押す。
「ねえねえ、君、名前は?」
「……」
僕はベッドの縁に腰をかけ、読みかけの漫画を開いた。
「おーい。君の名前。ないの?」
「……」
漫画の内容は頭に入ってこないけど、それでもぱらぱらとページを捲る。
「じゃあね、こっちで勝手につけていいかしら? そうね、無口だから、うん、無口君でいきましょ」
「そのままじゃないか……」
「お! しゃべった! 無口君は撤回ね。有口君、でいいかしら」
僕は観念して、漫画を布団の上に放り投げた。
「要だ。中津要」
「よしよし! カナメ君ね。カナメ君、カナメ君……」
いくらか満足したようである。彼女は腕組みをして、唸るように僕の名前を繰り返していた。

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こうなったら、とことんいってしまえ。
「君のほうは? 君の名前はなんていうの?」
「んーー」と、彼女は組んでいた両腕を解いて少し思案し、そして口を開いた。
「わたしは、アカネ。名字はちょっと思い出せないんだけど、アカネよ。よろしく」
そして手を差し出した。
握手のつもりらしい。
僕はおそるおそる握手に応じたが、幽霊の手は掴めなかった。
何か温かな空気を掴むような感触だけが僕の手の周りにまとわりついた。


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