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 夜─────
 深夜に近い時間になると、このあたりは更に静かになる。
 まだ茶色い液体が残るグラスを置いて玲はテラスの窓を開けた。
 遠くに街の灯りが見えるものの、ここの周りは茂った緑と同じようなマンションや住宅が続く。高級住宅街なので低層の建物ばかり。周りから覗かれる心配もなく、むやみな人通りもない。
 残念なのはいくら静かでも都会の真ん中なので星空が見えないことだろうか。せいぜい向こうに見える街の灯りを楽しむくらいだ。
 でも都会育ちの玲はそんな人工の光も嫌いじゃなかった。
 日付が代わったこの時刻でもなかなか眠れない。今日は遅い時間にアルコールを飲んだ為に常用の睡眠薬は使えなかった。寝付けなくても全然平気な夜もあったし、眠れないことでイライラして精神状態が乱れることもあった。
 仕事をしていないときは、常にアンバランスな精神状態になっている。逆を返せば、昼間のストレスが夜に現れると言うことでもあるが、玲の場合はそればかりでないことが厄介だった。
 甲斐や瑞紀が居るときは心配するといけないので、こんな時でも眠った振りで絶対に自分の部屋からでないようにするが、居ないときはこうやってぼんやり過ごす。
空を見ていたりするとそのうちに色が変わって夜が明けてきたりする。その色を眺めるのも好きだった。
 ただそんな日は結局ほとんど眠らずに仕事へ行く羽目になる。
 瑞紀達が居ると、早めに薬を飲んで寝てしまうこともあった。眠れないのだと思われるのが嫌で。その分、一人の時は薬に頼りたくなかった。
 無いと眠れないと知っているが、どんどん依存する自分が恐い。一時はそんなこともお構いなしに飲んでいたが、瑞紀達に会ってから考えが少し変わった。
 いかにも心身共に健康そうな彼らの傍にいると、健康に眠れない自分を嫌悪したくなる。彼らと楽しいお酒を飲んだときはすんなり普通に眠ることもできる日があった。
 ドクターが言うにはそういう日は精神がリラックスしているのだという。いつも緊張状態だから眠れないのだそうだ。
 ちなみに脳はそうやってずっと起きているから、薬ででも眠らせないとまずいことになるらしい。
 だからむしろドクターは常用者になることよりも、眠れないことで精神が壊れることの方を心配している。精神安定剤と最低でも睡眠導入剤は強制的に飲むように言われていた。それを拒むと、ドクターは直接玲のところに面会に来る。それは何気ない会話をしながら玲の精神状態を探っているのだ。
 医者だから。
 玲はドクターに十代の頃から世話になっていた。


 さっき徹からメールが来た。徹はここを知らない。
 玲も徹の住まいを知らない。
 仕事場で会う以外はメールだけが唯一の繋がりだった。そのメールですら、仕事の話しに限られた。
 今の玲と徹の中はそういう仲だ。
 さっき受け取ったメールも仕事のメールだが最後に一言珍しく添えてあったのだ、
「珍しく綺麗な夜空だよ」
 玲は見上げた。
 確かに肌寒い夜空に珍しく数えようかと思うくらいの星が見えていた。いつもなら数個、数えるまでもなく一目でわかる程度なのに。
 なぜ徹がそんな事を言ったのかわからない。
 「星空」は特別だった。
 昔、それを見るためだけに夜中に出かけた。人目のない場所を探して、夜が明けるまで寄り添って見上げた。そんな時間(とき)も二人には確かに存在したのだけれど。
 不意に夜空が曇った。玲は目線を下げる。
 泣くなんて可笑しい。
 今更である。
 そんなこともあったが、今は違う。
 たとえ隣に立っていても今はあの頃とは違う。「あの頃」には帰れない。
 その場に立っていることもできないで、玲はズルズルと座り込んだ。
 そのとたん、涙は止まらなくなった。
 誰もいないのにそれでも声を出して泣くことが出来ない。
 たった一人の時は、たまに身体が震えるほど泣くのに、そんなときでも声を上げて泣くことが出来ない。
 小さな時からそうだったが、昔その話を聞いたドクターが苦い顔をした。
 何かに抑圧されているからだと。声を出しなさいと言われたが、玲には出そうとしても出すことが出来ないのだ。
 そういうときはまるで声を失ったようになってしまう。そして時々息もできなくなったように苦しくなってパニックになることがある。
 だから自分でそうなる前に泣きたくなっても泣かないようにコントロールするのだけれど。今日はそれが上手く出来なかったらしい。
 それでもどこかで冷静さが残っていたのか、三十分もしたら落ち着いた。
 部屋に入ろうと立ち上がり、部屋着の裾を引きずりながら室内へ入り、後ろ手に窓を閉めたとたん人影に気づいた。
 驚いたが、相手も同じだったらしく影が固まった。
「なにしてんだ?」
 瑞紀の言葉に応えずに玲は自分の部屋に入ろうとした。
 だが瑞紀の脇をすり抜けようとしたときに腕を掴まれた。
「離して」
 振り切ろうとして今度は手首を掴まれ瑞紀の方を向かされた。部屋に電気はついていない。
 薄闇の中で瑞紀が玲の顔を見る。
 見られるはずがないのに玲は顔を背けた。
 すると、
「泣いてたのか?」
 瑞紀の言葉に玲は固まった。
 それだけで、瑞紀には知られた気がする。瑞紀にはそういうところがあった。
 一瞬、玲には瑞紀に心の中まで見透かされたような錯覚があった。徹のことで泣いていたのを見られたような気がしたのだ。
 急に息苦しくなる。
 いつものアレだ。泣いていてひとりで苦しくなるあの症状に似ていた。鼓動が早くなり呼吸が浅くなる。
 だがいつもは出ないはずの声がちゃんと出た。そして叫んでいた。
「放っておいてっ!」
 叫んですり抜けようとした身体は瑞紀の胸に抱え込まれた。
 思いもかけない状態に玲の思考は麻痺していた。





4

 玲の腕を瑞紀が掴んだとたん、玲はパニックになった。
 つい数分前まで自分を襲っていた感情がそのまま蘇ってきた。目の前にいるのは瑞紀なのに徹のことで乱れていた精神状態に逆戻りをする。
 一度振りほどこうとして失敗した腕をもう一回振り払って寝室に逃げ込んだ。
 だが瑞紀は追ってきた。
 玲は目の前にいる瑞紀に対して強迫観念に見舞われる。
「なぜ?なんで放っておいてくれないの」
「れい……どうしたの?」
「なんで今更……優しくしたりするのよ」
「玲!わかる?俺のことわかる?」
 パニックを起こした玲を見て今度は瑞紀がパニックを起こす。
 様子が変だから部屋まで付いてきたが、こんな玲は見たことがない。だいたい目の前の瑞紀を認識していない気がする。
 そして、以前彼女が泣いていた事を思い出す。今日も泣いていたらしい。
 でも様子が……以前とは全然違う。
「玲、俺のこと見て、ねぇ見てよ」
 自分でも何を言ったらいいのか、何をしたらいいのかわからない。焦る気持ちばかりで普段の冷静さはどこへやら、泣きたいほどに戸惑っていた。
 それくらい玲の状態は異常だった。
「私になぜかまうの?」
「え?」
 それが自分に向けられた言葉とはとうてい思えなかった。会話はかみ合っているようでかみ合っていなかった。
 なぜなら、暗闇で見据える玲の目は瑞紀を見ては居なかった。なぜかわからないが、ここにいない誰かと話しているのだと瑞紀には感じられた。
「玲、誰に……」
「もうかまわないで!もう待つのも期待するのも嫌!」
 いきなりそう叫んだ玲の身体を支えようとする瑞紀と、振り払おうとする玲がぶつかって縺れたままベッドに倒れた。
 瑞紀はほっとする。あの勢いのまま床にでも二人で倒れたら怪我をするところだったからだ。
 だがその瞬間、違った意味で瑞紀は後悔する。
 横向きだった身体を入れ替えるように玲が上から覗き込んでいた。
 暗闇の中で瑞紀はぞっとする。暗闇に慣れた目に映る玲の表情は凍り付いたように無表情だったからだ。はっきり見えないだけに、それは瑞紀の不安を煽り恐怖さえ呼んだ。
 初めて確信する。
 玲がおかしい。
 まともな精神状態とは思えなかった。
 だいいちこんな彼女は知らない、見たこともない。けれどそう認識したとたんに、瑞紀は恐くなって何も考えられなくなった。
 どうすればいい?
 誰かに連絡を……いったい誰に?
 そんなことを考えているとき、不意に唇を塞がれた。冷たい唇だった。
 パニックになっている瑞紀には状況が飲み込めない。
「ちょ……ちょっと待てよ……待って……!?」
 引き離そうとする瑞紀に向かって
「あなたが悪いのよ、あなたのせいだから……」
 あなた……というのが瑞紀のことを言うのか?それとも?
 瑞紀の中で知ってる男の顔が浮かぶ。
 また泣き出した玲の背中をとりあえず抱いた。
 どうすればいいんだよ。
 頭の隅で桐野の顔がよぎった。この間のことを早くに相談しておくのだった。
 こんな時の対処法も。
 今更遅い。
 瑞紀にはどうすることが一番いいのか判らない。でも今は玲が一番望んでることをしてあげるしかなかった。
「淋しかったんだね……」
 気づくと瑞紀も泣いていた。こんなに哀しい人だったのかと思う。
 普段自分の気持ちを見せない分、ひとりでこんなに苦しんで。
 瑞紀は恐かった。
 彼女が壊れてしまうことが恐かった。
 まるで違う世界に居るみたいに彼女には瑞紀の言葉が届かない。痙攣したように震える身体は何を言っても泣きやむことはない。まるで理性を持たない人間を、目の当たりにしたのは初めてだった。
 今はもう瑞紀の方が追いつめられてしまっている。今の瑞紀に出来ることは玲を包んであげることだけだった。彼女が淋しくないように。ひとりぼっちだと思わないように。
 たとえ一時でも彼女の心が安まるのなら。
 あとはどうでもいいことだと思った。



 空気が冴えて、星が綺麗な真夜中。
 瑞紀は暗闇の中で白い身体を抱きしめた。
 彼女の身体は瑞紀の腕の中でも、精神(こころ)はどこかを彷徨っていた。
 瑞紀は泣いた。
 その身体を抱きしめて泣きながら願った。
「お願いだから、ひとりでどこかへ行かないで。帰ってきて……」
 不安に押しつぶされそうな長い夜は、瑞紀が初めて玲を抱いた夜でもあった。




5

 朝─────
 鈍い頭痛と共に玲は目覚めた。まだ早いと見えて、日差しは弱い。
 やっと夜明けが来たというところか。
 自分を抱きしめている腕を外して上体を起こす。
 瑞紀もまた疲れた顔で眠っていた。乱れて落ちた衣服に目をやって玲は顔をしかめる。
 瑞紀の頬に涙のあとがあった。乱れた髪を指でなおしてやる。
 バスルームに向かいながら、これ以上はない自己嫌悪を覚える。
 全てを覚えているわけではなかった。瑞紀に会ったそのあとの記憶がおぼろげになっているが、取り乱したことはわかっている。
 叫んだ言葉まではわからないが、夜中の自分の状態を考えれば想像はつく。
 そして結果を見れば明らかだった。
 抱かれていた実感は具体的にはないが、誰かの腕を求めたのは記憶にある。
 とんだ失態だった。
 今までにこれほど乱れたことが全くなかったというわけではないが、玲がこういう状態になるのは限られた人間の前だけだった。誰でもというわけではない。
 熱いシャワーを浴びながら、玲は瑞紀へのフォローを考えていた。言い訳なんてものではすまされない。瑞紀を傷つけたことは取り消せない事実だった。



 カーテンの隙間の眩しい光で瑞紀は目覚めた。あまり気分のいい目覚めでないことに気づく。
 数時間前のことが蘇ると同時に、そこに玲が居ないことに気づく。瑞紀は凍り付いた。
 急いで起きあがり、部屋を出た。
 玲はキッチンで朝食の準備をしていた。
 いつもここにいるときと変わらない朝の情景。一瞬、瑞紀は寝ぼけていたのかと思った。
 だがいくつかのことを思い出し、やはり夢ではないことを確信する。
 その時気配に気づいたのか玲が振り向いて言った。
「おはよう」
「ぉ……おは……ょぅ」
 拍子抜けするくらいにいつもと変わらない玲の声と表情に瑞紀はがっくりと椅子に腰を下ろした。
 そうだ。彼女はそういう人なのだ。いつでも自分を崩さない。どんなときだって同じなのだから。
 安心すると同時に不安になる。だとしたら昨夜のあれはかなりの非常時だったということだ。
「ぁ、あのさ」
「ごめんね」
 真顔で玲が振り返る。
「瑞紀に迷惑かけちゃってゴメン……」
「いや……。ぁ、そうじゃなくて……ね」
 ふぅっと溜息をついて瑞紀は言葉を飲んだ。
 今はどう言葉にしたらいいのかわからない。
 だめだ。自分で整理しなきゃまともに向き合えない。落ち着いた玲とは裏腹に瑞紀は落ち着きをなくした。
 寝てしまった……玲を抱いてしまった。
 奇妙な非現実感が襲う。
 昨夜までそんなことは考えてもいなかったのに。
 たった一晩で自分と玲の関係が変わってしまったような気がする。
 瑞紀はそれまで自分を子供っぽいと思ったことはなかった。甲斐や慶を引っ張ってきたために、いつでも自分が一番先に大人にならなければならなかったし、実際もう自分は年齢的にも子供ではない。
 それでも今回のことは瑞紀の許容範囲を超えていた。落ち着いて考えなければいけない気がする。
 玲は一言も余計なことは言わなかった。理由も言ってはくれなかった。
 それなら自分で考えるしかない。
 自分で答えを出すしかないのだと瑞紀は悟った。





この本の内容は以上です。


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