目次
1
2
3
4
5
6

閉じる


<<最初から読む

3 / 6ページ

3

 気の強そうな甲斐は意外に素直で性格はわかりやすかったりする。
 そのクールそうな外見に騙されやすいが、案外そっけないところもたんに不器用なだけだった。
 彼はしたたかで老成した性格を持つ瑞樹などよりずっとかわいい性格だったし、直情型というか、たまに後先考えずに突っ走るのが困ったものだと思うくらいで、玲にはそれも魅力としてうつっていた。
 自慢じゃないが、この世界で男はいろいろみてきている。その玲から見ても甲斐は十分魅力的だった。
 ためしに玲は甲斐にモデルの仕事を奨めてみた。
 モデルから芸能人に転身する人間は大勢いるが、その逆を取るのも面白いと思い、ファッション誌はもとより、それこそコネを使ってショーにも出してみた。
 甲斐の身長は百八十センチほど、モデルの世界では長身ではないが、それでも充分な高さである。外見のクールさも手伝って玲の狙い通り、また違う意味で人気をよんだ。

 いい男のランキングなどというものがある。女の地位も向上し、女が男を選ぶ時代である。
 徹や玲がアイドルだった時代とはまた求められるものが違う。愛想などというものを持ち合わせていない甲斐が女達に崇められているのもまた時代である。
 だが当の本人はなにが不服なのか、機嫌が悪い。
「なんて顔してるのよ」
「べつに……」
「べつにって感じじゃないわね、おもしろくなさそう」
「じゃ、なんだよ。これ!」
 甲斐が指さしたテーブルには何冊かの雑誌、すべてが甲斐の特集を組んでいる。
「取材が嫌なわけ?」
 本当は何が嫌で拗ねているのか怜にはわかっているがわざと聞いてみる。
「嫌じゃねーけど、なんでどれもこれも同じようなことばっか聞きやがって。アイツらは脳がねーのか?着せ替え人形じゃあるまいし、何着も着替えさせられたあげくに同じ事ばっか聞かれるこっちの身にもなれよ」
「ばかねぇ。同じ事聞かれても同じ雑誌じゃないんだから仕方ないでしょ?みんな知りたいことは一緒だし」
「わかってるよ」
「慶ちゃんなんか羨ましがってたわよ。あの子ももう少し成長するとねぇ。まだ瑞紀より背はちっちゃいし、中身はお子さまだしね。ま、それはそれであんた達と違って可愛いし、他の役割があるけど。それを考えたら贅沢言わないのよ」
「わかってる」
「それにとにかくあなただけでも注目されてるってことは、宣伝のためにもやらなくちゃでしょ?『vision』のこともあるし」
「わかってるって言ってンだろっ!」
 玲はクスッと笑って背を向けた。甲斐にはこういう子供っぽいところがある。自分の仕事も自分の役割も充分わかっているのに反抗的なことを言う。
 つまりはこういうところが子供っぽいと玲に思わせる所以だった。
 また違う言い方をすれば、何年この世界にいても、この世界のやり方に染まっていないということでもあった。ピュアだと言うことだ。
 玲自身がとっくに無くしたものを持っているという点では、初めて甲斐と話しをしたあの日に感じた『興味を持つ』という感情を刺激していた。
「なぁ……」
 背を向けて書類に目を通していた玲に甲斐が話しかける。
 意味もなく無視していると、
「なぁ、無視すんなよ」
 怒ったような声で問いかける。
「なんなの?」
 声だけで答えると後ろまでやって来る。
「俺達、どこへ行くの?」
「さぁ……」
「さぁ?って……」
「それは自分たちで決めるのね。私はそこまで指図しないわよ。目標を決めるのもいいし、このままなるように流されるのも構わない。やりたいことが見つかるまではね。求められるとおりに行くのか、逆らってまで我が道を行くのか」
「どうなんだろ?」
「だから自分たちで決めなさい、今すぐじゃなくていいでしょ?もしかしたら考える必要もないかも知れないし」
「どうして?」
「この世界って、コントロールきかないときがあるのよ。スポーツとかと違って基準だとか目に見える数字があるわけじゃない。でもバロメーターが無いワケじゃない。ただ見えにくいからね。見逃すこともあれば、見間違うこともあるわけよ。見えない壁があるみたいにこちら側と見ているあちら側にギャップがあるときがあるのよね。それを見誤るとね……失敗する。タレントもスタッフもその辺を冷静に掴まないとダメなのよ」
「それって経験談?」
「経験談って程じゃないわね。まぁうちのスタッフは経験してるかも知れないけど。私自身はそんなもの感じる暇もないうちに辞めちゃったしね」
 玲は自嘲的に呟いた。
「ふ~ん」
「甲斐はしばらく望まれてるままやっていたら?その間に瑞紀が考えるでしょ?」
「アイツに今の話ししたの?」
「普段一通りは話してるけど。あの子は話さなくてもちゃんと理解してるわよ。そういうこと肌で理解する方だから。いちいち話さなくてもわかってるけど一応ね」
「ふ~ん」
「なに?」
「瑞紀は話さなくてもわかって、俺はどうせ説明されてもよくわかんないよ」
 玲は再び笑った。
「なんだよ」
「性格違うもの、役割も違うし。しょうがないじゃない?」
「似てるとか言ったくせに」
「だから言ったでしょ?根本は似てるけど表面が正反対なのよ。だからいいんじゃないの。さっきも言ったとおり甲斐には甲斐の役割があるでしょ?今は雑誌の取材受けておきなさい。面倒でもあとで何かの役に立つから」
「そのたびに『vision』の宣伝しろって?」
「別にそんなこと話さなくていいわよ」
「なんで?その為じゃないの?」
「『vision』の為じゃないわよ、あなたのために言ってるの。甲斐自身がこれから注目を集めるのよ」
「俺だけじゃ仕方ないじゃん」
「『俺』が注目されれば、『vision』が注目されるのよ。あなたがメンバーだと言わなくても雑誌はその事を書くでしょ?または見てる人が興味を示すから。天野甲斐に人気が出ればその甲斐自身が『vision』にファンを連れてくることになる。甲斐が『vision』のメンバーである限り、甲斐のファンは『vision』のファンだと言うことにも繋がるの」
「なるほどね」
「『vision』のためなどと思わない方がいいわよ、自分のためにやるべき事をやりなさい。その辺勘違いしないようにね」
「そうか……」
「もしかして気にしてたの?」
 聞こえないフリをした甲斐の横顔を見て、玲は想像通りの答えを出した。自分だけが注目されることに甲斐は不満だったのだろう。
 この辺がグループと個人になると難しいところだが、玲にも覚えがないわけじゃない。
 徹の足だけは引っ張らないように、そればかり気にしていた昔を思えば。
 だがこればかりはコントロールがきかないのだ。明確な答えがないこの世界では、やりにくいことこの上ない。
 玲は甲斐や瑞紀達を売り出すのに、自らは一番嫌いな手を打って出た。いわゆるコネというヤツである。
 玲や徹、その周りのスタッフはこの世界に長く、様々な方面での知人や友人が多い。それらを総動員する形で『vision』のプロモ-ションやマーケティングに利用している。
 玲自身が今までやらない仕事まで現在引き受けるのは、『vision』のプロモのためである。玲が彼らのプロデュースをしているのは周知の事実で、テレビや雑誌で話題になれば同じように彼ら三人にも注目が行く。
 このほかにも少々荒っぽいことを玲は考えていた。
「甲斐、デートしよっか」
「え?」
「ご飯食べにいこ、洋服も買ったげる」
 突然の申し出に驚く甲斐だが、この男は瑞紀と違ってものの裏側と言うものを疑ったりしない。その点は非常に扱いやすい相手なのだ。
「瑞紀じゃこうはいかないわよね」
「なんかいった?」
「ううん、なんでもないよ」
 デートと聞いてすぐに浮かれ出した甲斐は、逆に玲の腕を取り、自分が先に立って歩き出した。




4

 瑞紀は甲斐の低気圧を持て余していた。
 慶が瑞紀を突っつく。
「ね、どうにかなんない?あれ?」
「ほっとけよ」
「でもさぁ」
そこへ不機嫌な甲斐の声が飛んでくる。
「慶!おまえさっきフリ違ってたぞ。ちゃんとうつしとけって言ったのに。もう一回ビデオ見て振り移ししとけっ!こんど間違ったら承知しないからな!」
「ひぇっ!」
 慶が首をすくめて瑞紀にしがみつく。ただでさえ、感情が一直線の甲斐を慶は苦手にしている。それがこの荒れようでは……
「甲斐。いい加減にしとけよ、慶に当たること無いだろ?」
「当たってないさ、何を当たるんだよ」
「おまえが誤魔化そうなんて十年早いんだよ。おまえの考えてることは見てりゃばればれなんだから」
「なんだと?」
 二人の雲行きが怪しくなってきて慶は更に恐くなってきた。
「瑞紀……みずき……もういいよ。やめてよ」
「うるせぇ!黙ってろ!!」
「!!!」
 瑞紀のらしくない剣幕に慶は息を呑んだ。
 いつも恐いのは機嫌がころころ変わる甲斐なのだが、瑞紀が怒った怖さは甲斐のそれどころじゃないことを長い付き合いで知っている。特にこの二人がケンカしたりしたら誰にも止められない。
「やだよぉ」
 半べそをかきながら、慶は玲のところへ行くしかなかった。
 十七歳にもなって三つ年上だからとあの二人に逆らえないのは恥ずかしい限りだが、小さな頃から刷り込まれている兄と弟の位置はそうそう変えられない。
「れいー、れい!何とかしてよ。やだよ僕……」
 隣の部屋から打ち合わせが終わって出てきた玲は、スタッフの目がある場所で慶に抱きつかれた。慶は十七歳にしては小柄だし、童顔だからまだ中学生か大柄な小学生でも通るようなタイプだが、いかにせん十七歳は十七歳である。
 玲は溜息をついた。
「慶……少し考えなさい」
 周りに目線をやって玲はたしなめる。
「ごめんなさい」
 よせばいいのに、その言葉で玲もつい、慶の頭に手を置いたりするから慶はますます甘える。
 慶には母親がいなかった。なので普段、慶は玲に異常に甘えていた。
「とうとう、瑞紀まで切れちゃった?」
「なんでわかるの?」
「あんたが逃げるならそうでしょ?そうでなきゃ瑞紀の陰に隠れてるくせに」
 ははっと慶は照れ笑いをする。
 その表情が子供じみていて可愛いと玲の母性本能を刺激したが。
「いいわよ、放っておきなさい。瑞紀に任せればいいから、少し離れてたら?」
「だって甲斐が……」
「なに?」
「振り移し、仕上げないと許さないって」
「じゃ、それはやんないとダメね、お仕事でしょ?やりなさい。この部屋にテープ持ってきていいから」
 玲は自分が出てきた会議室を指した。
 慶がテープを取りに楽屋へ向かったすきに、玲は瑞紀と甲斐の方へ向かった。スタジオは不気味なくらい静かだった。
 別々の取材撮りでスタンバイしている瑞紀と甲斐は無言でそっぽを向いている。どうやら喧嘩は冷戦状態に入ったらしい。スタッフがピリピリしながら準備を整えていた。
 それを見て玲はそっとそこから離れた。仕事に差し支えるほど二人はプライベートを持ち込んだりはしない。
 慶とは違ってこの二人は見事なくらいにプロである。この年齢では珍しいと思えるほどに。自分が出ていく程じゃないと玲は判断した。どのみち甲斐に怒鳴り込まれるのは覚悟の上である。
 今日あたりマンションへ来るだろう事は知れていた。





5

 その日の仕事は珍しく早い時間に終わって、玲はまだ陽があるうちに家へと戻った。
 夕食をどうしようかと少し迷う。
 玲自身は食べることに興味を持てない質で、何食も平気で抜いてしまうような人間だった。
 そんな玲に徹や周りの人間は凄く気にかけ世話を焼いていたが、結婚生活の間は相手も居たことで普通に日常生活を送った。
 今は瑞紀たち三人が居るので、自分以上に彼らに気を使う。
 自然と食事を摂るのがマシになってきたが、それでも一人でこうやっていると億劫でしょうがない。出来れば食事と睡眠は抜いて生活したい玲だったが、性欲同様それらをどうでもいいとなれば、人間の基本的な欲求がいらない事になる。
 だから人間離れしてるなどと周りから揶揄されるのだが、こればかりはどうしようもない。
 いまは少し待ってみようかと思う。
 今日あたりは来るような気がするから。

 一時間もしないうちにドアが開く音がする。
 長くて薄暗い廊下の先にある玄関の様子はここからは見えないが、玲には誰が来たのかわかっていた。
 部屋のドアを開けた影は何も言わずに玲の座っているソファーの横に立ち見下ろす。
「なんだよ、あれ……」
「あれ?」
「とぼけんなよ!」
「自分から話しを振ったら、ちゃんと説明してから答えて貰うのが筋じゃないの?だからあんたは子供だって言うのよ」
 甲斐が顔色を変えたのは見なくてもわかったが、そんなことでびくつくような玲じではない。
 怒らせたら恐いのはこちらは瑞紀以上である。果たして彼らがそこまで玲を見抜いているかは知らないが。
「わざと撮らせたのかよ」
 甲斐が言っているのは、この間デートしようとふざけて誘った食事の帰りに写真誌に撮られたことである。
 レストランの帰り、通りに出たところとそのあと行った会員制のクラブの入り口付近で撮られた。
 数枚の写真は隠し撮りのために鮮明ではなかったが甲斐が嬉しそうに玲の肩を抱いているのがはっきりと認識できた。
「わざと……じゃないけどね」
 玲は表情だけで笑った。
 最近、自分たちが張られていることはわかっていた。マスコミは当然、徹と玲のことも追っていたが同時に『vision』のメンバーと玲の関係についてもしつこくかぎ回り始めていた。
 年齢が離れているとはいえ、男と女である。
 最近は年の離れたカップルも女の方がかなり年上なのも全く珍しくない時代になった。格好のエサなんだろうと玲は認識している。
 多少うるさいと思い始めたところへ、せっかく撮ってくれるなら協力する代わりに宣伝に活用させて貰おうと思ったのだ。
 甲斐は今、三人の中で飛び抜けて注目の的だった。立っているだけで「絵」になる男である。それは玲も認める。
 だが問題はそこからだ。そういう男ならこの世界いくらでもいるのだ。このまま単に騒がれて終わるか、時代に残っていくのか。
 玲は勝負に出ようと思った。
 十年前なら絶対にタブーだっただろう。だが時代は変わった。
 最近はマスコミ攻勢の激しさで、世間には次々起こる芸能人の恋愛問題が軽んじられている。めまぐるしく話題が変わるからだ。
 まるでクラスメートの噂をするように自分たちと同じ目線で見るのだということを玲は感じ取っていた。芸能人の恋愛は今の時代、場合によってはダメージにならない。
 それなら……
 これでも玲自身、お相手はいくらでもいる。ほとんどはボーイフレンドの域を出ないが、噂だけでもアーティストや俳優といった「いい男」と呼ばれる男達と付き合いがあった。振りまく話題はいつも華やかだ。
 別れた夫も人気俳優であった。
 玲は世間では男の趣味がいいと噂されている。
 それは当然だ。ランキングを作ったら上位を占めるような男ばかりと付き合っているのだから。
 そして玲は自分がそういう意味も含めて女性ファンから信望があることも知っている。玲のファンは半分以上が女性なのだ。
 だから……そこで策を練った。
 自分のそのファンを『vision』のファンに引っ張り込めないのかと思案したのだ。
 もちろん、テレビで競演を多く入れているから最近はセットのようなものだが、甲斐たちの魅力を手っ取り早くPRする方法を思いついたのだった。
 結果はもう少し立たないと分からないだろうが、玲はけっこういけるんじゃないのかと踏んでいる。
 甲斐に説明しなかったのは、そんなことを言ったらこの男、絶対に玲の言うことなど聞かないのがわかっていたからだった。
「初めからそのつもりかよ」
「私が呼んだワケじゃないわよ。あんた全然気づいてなかったの?」
 甲斐が無言になる。
「まったく……少しは気づいてるのかと思ったら。次から気をつけなさいよ、私じゃなかったらどうするのよ」
「嘘だったの?」
「なにが?」
「デート」
「嘘って?別に嘘じゃないでしょ。食事したしお酒飲んだし。楽しかったでしょ?つまんなかったの?」
「そうじゃなくて。俺と行きたいからじゃなかったの?」
 甲斐の不遜な態度が影を潜めて、必死の構えになってきた。
 ちょっとまずいかな……玲は真面目な顔になる。
「甲斐をからかったワケじゃないわよ。ただマスコミが張ってたのは知ってた。撮られてたのも。あとはせっかくだから宣伝に使わせて貰うけど」
 甲斐は押し黙っている。
「甲斐……あんたにあの時言ったら記者につかみかかるくらいはしたでしょ?」
「─────俺の気持ちは?」
「ぇ?」
「俺言ったじゃん!」
 玲の中にこの問題とは別の苦さが広がった。
 ここ数週間、甲斐はことあるごとに玲に向かって「好きだ」と言い続けている。  元々知り合った直後から甲斐の視線の熱さには気づいていた。でも玲にはそれを無視するだけの余裕があったし、甲斐自身もそれどころではなかったはずなのだ。
 だがあの日も飲んだ勢いなのかかなりしつこく玲に言い続けていた。もちろん玲は軽くかわしていたのだが。
「甲斐の気持ち……ね」
「バカにしてんのか?それとも本気じゃないとでも」
「バカにはしてないけど、本気には出来ないわね」
「なんで!?」
「私と甲斐じゃ、いくつ違うと思ってるの?」
「そんなの理由にならない」
「甲斐に対してそう言う目で見られないわ」
「俺、待ってる」
「待ってるって、それは私に迷惑な話じゃないの?」
 甲斐が少し怯む。
「だって俺は好きなんだもの」
「じゃ、私が誰を好きか知ってるわよね」
 止(とど)めだった。
 甲斐は男の顔を思い浮かべたが、名前は出せなかった。誰もが気づいていたとしても、それを言うのは禁句だった。
 付き合いの時間が浅くても、いつも一緒に居る甲斐たちにはそれがわかる。
 だがその事が甲斐の苛立ちを煽る。そんなことを言い訳にして。理由にはならない。
 少なくともその時の甲斐にはそう思えた。
 なぜなら、
「言えない癖に!どんなに思ったって言葉にも出来ないんだったら無駄じゃないかっ!」
 瞬間、平手打ちが飛んできた。叩かれる相手は一人しか居ない。甲斐の中のどこかで何かが切れた。
 理性が切れて興奮しているせいか、熱いのか冷たいのかわからない。感情が沸騰しているようで、妙に冷えてるような気もする。
 だがこういうときに人間は自分の欲望にだけ忠実になるらしい。気づいたときには甲斐は玲を押し倒していた。
 玲の方は甲斐を叩いた瞬間、しまった!と思ったが自分が立ち直る前に思わぬ行動に出られてしまい、パニックになる。
「ちょっと待って、なにっ……?」
 玲の問いに甲斐はもう何も言わなかった。何も聞こえないのかも知れない。
 甲斐に押さえつけられた腕の痛みに、もう何を言っても無駄なのだと玲は悟った。種をまいたのは自分だ。甲斐に火を付けたのは自分なのだ。
 まいた種は自分で刈り取らなければならない。どうせ誰と寝ても同じなのだ。
 いつものように、身体が多少熱くなることはあっても気持ちが熱くなることはない。だったら甲斐と寝ても悪いと言うことにはならない。
 遙か昔から、玲にはいつも簡単に「諦める」という習性が付いていた。
 甲斐の想いを軽く見ていたのは誤算だった。子供だと……軽く見ていたのかも知れない。その結果がこれだ。甲斐(身体)の重さに彼の想いの重さが伝わる。
 陽が落ちて部屋が夕闇に包まれていた。




6

「ごめん……」
 玲に伏せたままの状態で甲斐が言う。玲は黙って甲斐の長めの髪を梳いてやった。
「でも……好きなんだ」
 相変わらず甲斐の答えは一貫している。思わず玲は微笑んだ。
「ゴメンとか言いながら、それでもまだそんな事言うんだ」
 からかうようにそう言うと、
「だって、本当なんだ」
 いつもの子供っぽい拗ねた口調で言い換えす。こういう部分に騙されたと、玲は思い返す。
 だが子供じゃない。二十歳を過ぎた大人、男なのだと悟った。
「私の気持ちは永遠に手に入らないよ。それでも抱きたい?」
 ビクッとしたあと、甲斐が顔を上げる。
「欲しい」
 甲斐にしたところで自分がこの女性(ひと)と釣り合いがとれないことくらい承知している。でも自分でもどうにもならないのだ。いまは。
「なら、甲斐がそれを承知なら構わないよ。その代わり私は甲斐の彼女でも何でもないことだけは肝に命じて置いてね」
「身体だけって事?」
「もちろん甲斐のことは好きよ、嫌いな男とこんな事出来ない。でも私は誰のものにもなれない。それはわかってるよね」
「うん」
 今度は素直に頷いた。
「それがわかってくれてるならいいよ、それだけ……」
 玲には付き合う男もいる、セックスする相手もいる。でも、それ以上にはなれない。
 甲斐もしばらくすれば気づくだろう。玲が男とどういう付き合いをしているのか。
「お腹空いたなぁ。あたし作るのヤダよ、こんな状態で」
 玲は笑った。
 甲斐は呆気にとられる。
 ほんとにドライな女性なのだ。ある意味、色気なんて無いに等しい。
 はっとするほど色っぽくて、どうしたらいいのかわからないときもあるのに。
「甲斐、シャワー浴びたら食事を作りなさいよ。それくらいやるわよね、こんなことしたんだから」
「わかってるよ」
 シャワーに立った甲斐の気配が消えて、玲はほっと息を付く。この先どうなるのかなんて考えたくもなかった。
 薄闇の中、このまま眠りたくなる。食事が出来たら甲斐に起こして貰おう。
 自分が食べたくなくても甲斐には食べさせなければならない。
 食欲など初めから無いに等しかったが甲斐のために食卓には付こうと、けだるさの中で玲は思った。





この本の内容は以上です。


読者登録

蒼月さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について