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アメリカは変わったのか

アメリカは変わったのか

Seibun Satow

Nov, 08. 2012

 

"I'm tired of Bronco Bamma and Mitt Romney".

Abigael Evans

 

 2012年の大統領選挙に限らず、10年頃から、アメリカの議会運営が変わったのかと思える事態が続いている。従来は与野党が衝突しても、最後は落ち着くところに落ち着いたものだ。ところが、今では民主・共和の両党が激しくぶつかり合い、妥協を探ろうとする動きが鈍い。

 

 これには民主党と言うよりも、共和党の右傾化が大きい。コリン・S・パウエル元国務長官は、121024日にCBS This Morningに出演した際、自分のような共和党穏健派が絶滅しつつあると嘆き、妥協を拒む保守派の拡大に懸念を示している。ティーパーティーと呼ばれる勢力は自らの価値観を政治を通じて実現しようとする。それを優先して、熟議によって価値を協創する試みを拒絶している。彼らの票は固いし、寄付も見込める。保守派は当選のために、華々しく、攻撃的な口調で彼らに迎合的な時代離れした主張を行う。

 

 しかし、こうした非妥協的な態度はアメリカの政治を停滞察せる。アメリカはイギリスから独立した際、その政治制度を批判的に採用している。大統領制が一例である。それは三権分立を明確にし、責任内閣制の下での首相の強力なリーダーシップを弱体化させる狙いがある。議会の多数派が行政も握って統治するのだから、首相の権限は強い。

 

 アメリカは、こうした突出した権力者が登場しないように立法と行政を切り離した大統領制を採用する。今日のアメリカの大統領の権限が強く見えるのは、戦争の度に議会がそれを移譲したからである。議会の多数派から選出されたリーダーではないので、少数与党に立脚する場合もあり、大統領は責任内閣制の首相よりも権限が強くない。

 

 アメリカの議会は、イギリスのそれが「アリーナ型」であるのに対し、「変換型」と呼ばれている。

 

 アリーナは闘技場のことである。本会議場で与野党が激突する模様を譬えている。野党は与党に協力する気はなく、次の選挙で勝つために、法案の問題点を徹底的に追及する。与党は多数派であるので、最後は数で押し切る。法案可決率は非常に高い。与野党の決闘であるから、所属議員への党議拘束は絶対である。内閣は議会の信任によって成り立っているので、政府と与党の区別は原則的にない。議員はこうした政党を背景にしているため、国民全体の代表である。英国は二院制であるが、実権は公選制の庶民院にのみあり、貴族院は名目的存在である。

 

 一方。アメリカはいずれも公選制の二院制を採用している。上下院で多数派が異なる事態があるので、議会のダイナミズムを対決に求めることができない。変換型の舞台は委員会である。原理から言って、アメリカの議会は、妥協なしで、与野党が衝突すると、動かなくなる。建国の父たちは寛容さを重んじる啓蒙主義者である。政治は有徳の士によって穏やかに行われるべきであり、政治家は徒党を組むことなく、個人で活動するものだ。各専門委員会において、与野党が協議を繰り返す。三権分立が明確なので、法案提出は立法府にのみ原則的に認められている。大統領はあくまで行政の長である。政府がどうしてもそれを提案したい場合、議員に働きかけて代行してもらう。議員は地元の有権者の代表であり、個人として活動するのだから、党議拘束が弱い。

 

 諸外国の政治制度を日本に採り入れる際、それが基づく発想を認識していなければならない。しかし、しばしば断片的な理解のまま、それらが語られたり、導入されたりしている。日本の政治論議には国際比較が欠落したままの場合も多いが、その視点を入れても、理解が発想にまで及んでいないため、まったく見当外れのものも少なくない。夏目漱石が日本の近代化を「皮相上滑り」と酷評した頃からさほど進歩していない。なぜいまだにそうなのか理解に苦しむ。

 

 日本の中央・地方の政治家は失政を制度のせいにしすぎるきらいがある。財政上の限界もあるのだから、すべての支持者を満足させることはできない。それをある程度制度のせいにすることも方便である。制度は「良い警官・悪い警官」の交渉に利用できる。けれども、それを進めて、制度を変更すれば、事態が好転するという論理展開は短絡的である。制度の縛りがあると、その下で何とかしないと考えるので、知恵や工夫を絞り出そうとする。こうした努力の放棄が制度変更の動機であると、それが失敗した場合、責任を取らず、また他に転嫁する。衆議院の選挙制度改正が好例である。こういった政治家は憲法改正を口にすべきではない。

 

 英米共に二大政党制で、小選挙区制を採用しているけれども、議会の様子は異なる。ワシントンの政治は超党派で妥協しないと、停滞する仕組みになっている。ウェストミンスター流はあり得ない。大統領制をやめるわけにもいかないから、価値観の政治を改めるほかない。権力を分立させれば、お互いに牽制する。突出した権力が生まれにくい反面、相互対立すると動きが鈍ってしまう。

 

 アメリカは、信教の自由を求めた移民も多いように、「自由」を尊ぶ。しかし、選択の自由は極論を増幅しやすい。コミュニケーションの相手を選べるから、思想信条や嗜好、相性などが合う者同士が固まりやすい。自分を相対化する眼を持ちにくい。さまざまな背景の人とコミュニケーションする機会が乏しく、またあってもやりすごせばよいので、極端な考えが生まれると、修正のフィードバックがされない。それどころか、その集団内で偏った信念が強化されていく。これが近代以降の社会の特徴の一つである。こうした状況では極論が衝突し、議論が弁証法的に発展しない。選択の自由は極論の増幅という危険性がある。そのため、自由には熟議が不可欠である。変換型にはこういった発想がある。

 

 これは自動車の運転を譬えにするとわかりやすい。傍から見れば危なっかしい運転でも、免許取得して10年間無事故のカーキチは、運転技術に過信してしまうものだ。事故を起こしていないのは運がいいだけなのだが、当人はそう思わない。自分の運転を見る機会もないし、他人から指摘されても軽く聞き流すからだ。運転に関する自己認知にフィードバックがかからないので、偏りが修正されない。

 

 『ニューヨーク・タイムズ』の選挙予測専門家ネイト・シルバー(Nate Silver)が数理モデルを用いて今回の大統領選の勝敗を全50州で的中させた一方で、政治専門家たちの予想はほとんどが外れている。シルバーが優れていると言うよりも、政治評論家たちには自分の信念を相対視する機会が貧弱だったと考えるべきだろう。しかも、これまでは予想しても、みんな似たり寄ったりの結果で、外れるのが当たり前である。方法に改善を加えるインセンティブもない。

 

 今、国際社会は多極化しつつある。東西冷戦はアリーナ型であったが、変換型の舞台へと移行している。他国がどう思ってもかまわないと自国の利益を声高に主張するとしたら、アナクロニズム以外の何物でもない。ところが、そういう大言壮語を売り物にする政治家は国内では人気が高いものだ。石原慎太郎や安倍晋三などが政治指導者面していられる日本も然り。この手の日本の政治家は職を途中で投げ出した経歴を持っていることが興味深い。彼らときたら、熟議を通じて価値協創するのではなく、価値観を共有する者同士で政治勢力をつくり、それを実現しようとしている。けれども、世界は、辛抱してやりくりせざるを得ない政治の時代を迎えている。希望的観測に基づく過信したドライバーは危険この上ない。

 

 今後のアメリカの変化は世界のそれを物語る。

〈了〉

参照文献

Gregory Ferenstein, ‘Pundit Forecasts All Wrong, Silver Perfectly Right. Is Punditry Dead?’ “TechCruch”, Nov, 7th, 2012

http://techcrunch.com/2012/11/07/pundit-forecasts-all-wrong-silver-perfectly-right-is-punditry-dead/


この本の内容は以上です。


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