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CurryGirl,Heroes_1

CurryGirl,Heroes
鳥井雪
とりい ゆき (@yotii23)


(七年前)
あたしがまだ、今よりもっと小娘だった時の話だ。背が伸びるのはまだこれからで、裸足で歩いていて、胸のあたりもぺたんと平たかった。アズはそれよりもまだ、少し年下だったと思う。
夏だった。広い河の広い河原は、緑の葦と雑草が、あたしたちの背よりずっと高く伸びていた。河原にはこの世界の、要らなくなった何もかもが落ちていた。割れたパーム・フォンや、音のしないラジオや、動物の死体や、踵の取れた靴、表紙のない本。拾い集めて持ち帰って小銭に交換してもらうのがあたしたちの仕事で、だからいつも下を向いて歩く。
でも、顔を上げれば、緑の、強い茎をした葦が高くまで伸びていた。その先には金色の太陽とすごい青さの空があって、眩しくて目の奥のほうが痛んだ。あたしも上を見上げるのが好きだったけど、きっとアズはもっと好きだった。だからアズの拾う屑はいつもあんまり多くなくて、いつもお腹をすかせていた。あの日も。
アズは少し変わった子だった。小柄で、黄色人種で、黒髪で、見た目はこの街に一番多いタイプ。あまり喋らないし、ぜんぜん笑わない。お腹が減るのはみんなと同じに嫌がったけれど、同時に、おなかが減るということについて、じっと深く考えこむようなところがあった。そんな時のアズの目は、言葉のない、賢い、死ぬ前の犬や鳥に似ていた。
あつい、とアズが小さく言う。その日はとても暑くて、あたしたちの姿を隠す葦も、緑の匂いが強かった。
水飲んどきなよ、とあたしが言う。あたしたちの仕事で、夏に水を飲まずに倒れる子どもはたくさん出る。そのまま水と塩が間に合わなくて死ぬ子もいる。
アズは、腰に下げた古いペットボトルを手にとって、軽く振る。底にわずかにきらきらと光が揺れただけだった。
「もうない」
「しかたないなぁ」
その頃あたしはアズよりも少し体が大きくて、年上ぶるのが癖だった。
おいで、って呼ぶとアズが猫みたいに寄ってきて、あたしの差し出した腕の、肘の内側を舐める。汗には水と塩が混じってる。足りなかったアズが、顔を擦り寄せて首のあたりまで舐めてくる。
「ケイは、カレーのあじがする」
うそだぁと言ってから、気になってちょっと自分の腕を舐めてみた。やっぱり塩味しかしない。いろんな人種の混じったあたしの肌は、薄いコーヒー色をしていて、そのせいかな、と思う。
二人で空を見上げた。スコールを待っていた。しぶきみたいな水の粒で、あたしたちを潤し世界を洗い流し、地上のすべての緑の上に光の粒を残して去っていくスコールを、待ち望んでいた。
――いきなり強い風が吹いて、太陽がさえぎられてあたしたちに影が落ちる。嵐の前みたいに。
けれど見上げた先に、やってきたのは一台のホヴァー・ヴィークルだった。平たい底をあたしたちに向けて、ホヴァー(滞空)のための生ぬるい排気を吹き付ける。二回、あたしたちの周りの葦がなぎ倒されて波打った。土埃に目をとじる。
空飛ぶそのバイクから、男の声が降ってくる。見上げる方からは、逆光でその覗きこむ顔がうまく見えない。
「やぁすばらしい! すばらしい宝石が河原に落ちているぞ!」
あたしはびくりと怯えて身をすくめた。ホヴァー・ヴィークルに乗れる人間なんて、この街ではとんでもないお金持ちか、政府のえらい奴らだけだ。
けれどその時アズは、前に出た。あたしを背にかばって、見下ろしてくる方を睨みつけた。
「そう、そちらの君だ君、細くて小さくて茶色でない方! 見た目ふつうの方だ!  だがなんというポテンシャル、なんというLOVE&BRAVENESS。君が抱える光の総量で、このカウンター・グラスが焼け付いてしまいそうだ。さあ君、今すぐこちら側へ来たまえ。この手を取り、このヴィークルで空を駆け、英雄となって汚濁と戦うんだ。武器ならば与えよう、戦い方ならば教えよう、だが本当の力はすでに君の内にある。この世界を黴と混沌の侵略から食い止めるその前線で、君が輝ける灯台となる姿が見えるようだ! 幾百の命と幸福を君は守る、すばらしい!」
きちがいか人さらいかどっちかだ、と思った。後で分かったけどどっちもだ。
ミスターJ・M・O。その時は、名乗りすらしなかった。
けれどアズは、男の言葉の一つだけにはっきりと反応した。
「守る?」
「そう、君が守るんだ、黴に侵され奪われる人々の命を、その生命が生み出す幸福を、喜びを、君は傷つきながら、汚穢にまみれながらその手で戦って守る。 見るからに君は貧しいね? 身寄りもなく、あってもろくな親ではなく、周りにいる人間も似たり寄ったりの境遇だ。いくつもの不幸、いくつもの理不尽、いくつもの死を目にしただろう? ひとつ残らず忘れられないんじゃないのかい? ひとつ残らず細部まで思い返して、こんな晴れた日に叫びだしたくなることはないかい? 真夜中に、今を生きるすべての人々の幸福を願って、その気持が大きくて苦しくてどうにもならないことは?」
あたしは、アズの背中を見ていた。アズが、男の言葉が届くたびに、ゆっくりと深く息をする。その細い背中が、言葉に「言い当てられてゆく」。それを見ていた。
アズがそんなことを苦しんでいるなんて、あたしは一ミリも知らなかった。だけど「そう」だったんだって、アズの背中を見ていたらわかった。
「きっと君は無口だ、内圧が高すぎて言葉にうまくできないから。きっと君は慎重だ、何度も望みを裏切られてきたから。ただ君はみなの幸福を祈っただけだったのにね! だが今日いまここでこの瞬間にぼくが君を見出したからには、君はぼくの手を取らねばならなないよ、優しい少女。一秒のためらいが、君が救えるはずの悲惨を一秒長引かせる。あぁ、その間に命が奪われる、このためらいがその一秒だ。さあ」
声の主が、ホヴァー・ヴィークルをぐいと斜めに傾けて、さらに高度を落とす。あたしは一歩後ずさった、アズは一歩前に出た。
ヴィークルの乗り手はもう、斜めを維持した姿勢で、アズと目が合う高さにいた。グレイの髪と口ひげの、風采のいい男だった。上等な白いスーツを着て、胸には政府の委員会のマーク。片目を覆う銀色の、なにか精密機械を仕込んだアイ・グラス。ヴィークルの風で煽られて赤いネクタイが翻る。
さあ、と男はヴィークルから片手を離して、アズへと差し出す。
「君は、君の愛と勇気に殉じる用意があるはずだ」
――そのとき。
あたしはアズの口元が、小さく笑うのを見た。
アズが男の手を取らずに、ひとっ飛びでヴィークルの後部座席に飛び乗る。男は愉快そうに声に出して笑って、ヴィークルの傾きを元に戻そうとする。
「アズ、アズ!」
あたしは、必死になって声を上げる。アズがじっとこちらを見る。男も、ようやく存在を思い出したようにあたしを見た。男はなんの興奮もない、道端の石ころをみるような目をしていた。
あたしは、なにを言っていいのかわからずに口を動かす。何かとても言いたいことがあった。訊かなければいけないことがある気がした。ねぇアズ、あたしたち二人で、数え切れないぐらい毎日、この河原でクズ拾いをした。どっちかが体調を崩したらその分もう一人ががんばったし、寒い時は一緒に眠ったし、さっきまであんなに近くにいた。妹みたいに思ってた。
ねぇアズ。
「あたし、は?」
アズの、死んでゆく鳥のような目が、一度ゆっくりと瞬く。
「ごめん」
あたしがアズに聞きたかったのは、その時はうまく言葉にできなかったけど、今なら少しわかる。たとえば、あたしともう会えないかもしれないんだよとか、そういう。
「でも、いつかかならずケイも、守るから」
アズはそれに、仕方がないと答えた。みんなと一緒にケイも守るよ、って。
あたしの体から、すとん、と力が抜ける。その時の脱力は、あんまり顔に出なかったと思う。さっきまでの青い空が、急に色を失って見えた。
「あぁ、褐色の君、君の方はじつに中身は普通だ! カウンター・グラスの数値によると、愛はふつうより少し多くて、人より少し臆病だ。残念ながらここから連れ出すには値しないね! でもそうだな、五年も経って、春を売るかって選択を迫られたら、ウチの隊の門を叩いてみなさい。ちっぽけな光も集めれば使いようはあるというものだ」
うるさい空気読めそんなこと訊いてない上に頼んでない。
心の底からそう思った。けれど口が勝手に尋ねていた。
「どこにいけばいいの」
いつか、十五の歳まで生き延びて、アズに会うには。
「『クリーナーズ』、公衆衛生局衛生保全課保全処理班実働隊。人類の最後の希望の名前を覚えておきたまえ」
「クリーナーズ」
ではね、と男がヴィークルのアクセルを踏み込む。再び風圧が押し寄せて、あたしは思わず腕で顔を庇った。周りの草たちが激しく波打つ。ヴィークルは一瞬、高度を確保してから方向を定め、すぐに発進して加速に乗った。見えなくなるまで、あっという間だった。
あたしは、目を庇う腕をゆっくりと下ろす。肩が必要以上に脱力して、腕がだらんと重い。ひどく汗をかいていて、自分の匂いが気になった。
立っているもの嫌になって、膝を抱えてしゃがむ。なおさら周りの草が高くあたしを囲んで、多分どこからもあたしの姿は見えない。昼過ぎの、熱された土が近くなって、さらにむっと暑かった。
太陽は眩しく、空は激しく青い。あたしは一人で河原に残されて、アズは、もういない。一滴の汗が地に落ちて、土の色を変える。
七年前の、あたしが今よりもっと小娘だったころの話だ。


(現在)
旧駅舎前の市場、通称『アーケイド』。前時代の遺物の、老朽化もはなはだしいコンクリートビルの間に、テントがひしめき合って出来た場所だ。通称の由来は、かつては通りを覆って通行人を雨から守ったルーフ。今は骨組みだけが残って、規則的な間隔で市場の上に影を落とす。
様々な香辛料の匂い、ざっくりと赤い中身を晒す果物、まだ生きている鶏や合成蛙の食材の気配。アルミの鍋釜の光の反射と、積み上がった竹細工、遠い異国の織柄の布の山。ジャンク・パーツの山。売り込みと値段交渉の張りのある声が、あちこちでひびき合う。
黴は、そこに出た。
客の訪れもとぎれて、貝細工売りの子どもが、隣りの花売りのリヤカーに積まれた赤に気を取られる。その足元だった。子どもは、行商に飽きて近くをぶらついている妹に、花の名前を教えてやろうと周囲を見回す。
もちろんその子どもになんの原因もないし、その子が広げたビニールシートの上の、顔料で彩られたスイショウガイにも、隣のリヤカーの上の、みごとに赤いゼラニュームの花にも原因はない。
黴とはそういうものだ。原因も傾向もない。ただ、人のいる場所に、初めは小さな黒い染みのように現れる。
そして、誰にも気付かれずに滲むように静かに広がり、ビーチサンダル履きの子どものかかとに触れる。その途端、黒黴は、ぼっ、と爆発的に勢いを得た。一度目の増殖で子どものふくらはぎまでを、すかさず続いた次の増殖で全身を真っ黒に覆い尽くす。子どもが声を上げる暇もなかった。
黴だ、と異常に気づいた人間から引き攣った声が起こり、周囲にざわりと動揺が走る。
――黴だって!?
――ほんとうだ、あそこ、やばいんじゃ……
――逃げろ、触るな! 生きてるものをあたりから退けろ!
じわじわと警戒と混乱が広がるその中心で、黒い塊――皮膚をびっしりと黒い黴に覆われた子どもが、助けを求めるように腕を伸ばし、よろよろと歩き出す。近くにいた通行人たたちが、悲鳴を上げてそこから遠ざかった。子どもは、すぐに隣のリヤカーにつまづき、バケツに活けられた夏の花々の間に倒れこむ。バケツがいくつもひっくり返る。子どもが触れた緑の茎から花へ、赤いゼラニュームから黄色のミニひまわりへ、そうしてバケツからこぼれ広がった水たまりへと、黒い黴は波打つように広がった。
わぁっ、と、こんどこそ人々の間にパニックが起こる。その場の人間たちは、我先に互いを押し退け、その場から逃げ出した。その動揺を追うように、黒い黴は加速度的な勢いで広がる。花の形の黴の塊がくずれ、黒い水たまりは地面の土を喰い、その地面の先に置かれた籠の中、狂ったように羽ばたく鶏を取り込み、どんどん、どんどん広がってゆく。
瞬く間に数メートルを黒黴に埋め尽くされ、もはや留めようもないまま拡大し続けるその空間から逃げながら、そのうちの一人が切羽詰まった声を上げた。
早く、誰か早く呼ぶんだ。
あの黴をどうにかできる唯一の、あの汚らわしい魔女たちを、早く。


ケイ=リー=ルー(十七歳)はその時、カレーを食べるよろこびに溺れていた、と言っていい。
安っぽい軽さのアルミスプーンの柄を握る。
プラスチックのオレンジの皿には、ジャスミンライスとグリーンカレーのルウ。スプーンいっぱいに掬いとって、ひとくちに押し込む。
屋台の軒先で食べるココナッツ・グリーンカレーは、唐辛子の辛さでケイの舌を痺れさせてゆく。ココナッツのまろやかさに少しも中和されることのない、パンチの効いた鋭い辛さ、相反する二つの味の要素がぶつかり合うことなく調和を奏でる複雑な味わい。そしてその主張の強い味わいに流されることなく、豊かに受け止めるジャスミン・ライスのホットな包容力。目覚めの一口はこれに限る。すでに朝という時間ではなかったが、ケイが起きたのはついさっきなのでこれが朝ご飯で、何も問題なかった。問題があるといえば。
暑い。
たらっと首筋の汗が流れ落ちて、Tシャツの襟首を濡らす。ケイは思わず、スプーンを噛んだまま唸った。カーゴパンツの内側の太腿も、汗ばんで逆にひんやりしている。胸の谷間に汗が集まってつたい落ち、みぞおち辺りのTシャツの色を変える。
「おばちゃーん、お水ない」
「ア、ソウ? ゴメンネ」
屋台のおばちゃんが、花柄プラスチックのポットを渡してくれる。ケイは、傷に曇ったガラスコップに中身を注いで、一息に飲み干す。ぬるい水。それでも、本場仕込みの辛さにしびれた舌には、十分優しい。
「あーこの一杯のために生きてる……」
「ハハー、ケイ、今日オヤスミネ?」
「そーオヤスミだよー。下っ端作業員にはありがたーい非番ですよ、今日は三食カレーだ!」
「仕事、ドウ? 幼ナトモダチ、話セタ?」
「アズー? ぜんっぜん、近づけもしない! 現場に出ても遠すぎるし、オフはどこで何してるかひた隠しだし。遠目には見られるんだけどなー元気そうなんだけどなー」
「アセッタラ、ダメヨー」
「ダメヨー、なんだけどさ……」
口をとがらせるケイのその脇を、真っ白いホヴァー・ヴィークルが素晴らしいコーナリングで通りがかった。設定高度は地面すれすれ。乗り手が、真っ白なロングコートを(この暑いのに)きっちりと着込んで、長いまっすぐな黒髪を翻しているのを認めた瞬間、ケイはそのヴィークルに手を伸ばした。脇から、ブレーキ・ハンドルを狙って掴みとる。
急ブレーキをかけられたヴィークルは、前のめりに、ほぼ四十五度の角度まで跳ね上がって停止する。小柄な乗り手は当然のように跳ね飛ばされ、当然のようにきれいに宙で一回転して、みごとな動作で地面に着地した。
ばっと顔を上げてケイを睨みつける当人は、いきなりの狼藉にぷるぷる震えている。腰に挿した日本刀に手が置かれていて、だいぶ物騒な怒りが伝わってきた。
「な……っ、な、なにをするんですの、というかケイまたあなたですの……! 」
「ハイ、シラネ、今日も暑そうな格好してんね」
完全な美少女顔が泡を食ってる様子は、珍しくて悪くない。この国の純血の、瓜実の白い頬に真っ黒な長い髪、真っ黒な瞳と赤い唇。人形みたいなシラネの外見が、ちょっとはまともな人間っぽくみえる。まぁ中身はまともじゃないから、残念ながらこれは、錯覚だ。
「出動?」
「! そうでした、アーケードで黴発生ですわ」
シラネはさっと黒髪の乱れを直して、ホヴァー・ヴィークルに飛び乗りなおす。
「うっわ、よりによってあんな生モノ多いところで……」
皿に残ったカレーをかつかつと掻きこみながら、ケイはヴィークルの後部座席に身を割りこませた。
「ケイあなた、非番では?」
「どうせ人出が足りなくなって、後から呼び出されるんじゃん」
「何度頼まれても、アズ=アズマにあなたごときを近づけませんわよ」
「まぁそう言わずにさ」
ケイが、綺麗に食べ終えた皿を、腕を伸ばして屋台のテーブルに戻す。それを待たずに、シラネの足がヴィークルのアクセルを踏み込んだ。推進力を溜める「ふかし」が路上のほこりを舞い上げて、屋台のおばちゃんが迷惑そうに両腕を広げる。ケイは心のなかで手を合わせた。
発進直前に、うふふっ、とシラネが唐突な笑い声を聞かせる。
「ケイ、あなたのような弱い光でアズ=アズマに近づこうなんて、実に不遜、実に不敬。それほどまでに彼女が、黴を滅ぼす勇姿が見たくて? LOVE&BRAVENESS、あの大いなる光が、この世を蝕む汚穢を滅ぼしつくす光景に心震わせたいのでしょう?」
「べっつに、そういうんじゃないし」
「まぁいいでしょう。あなたの劣った、取るに足らない光でも、それが光である限り奉仕の意味はありますわ」
ケイが何か言い返す前に、ヴィークルは放たれた矢のように発進する。ケイは、シラネの腰にしがみついた。通行人を、弾き飛ばさないすれすれのハンドルさばきで回避しながら、シラネが嬉々として声を張る。
「幸いなるかなわれら浄罪の娘たち、笑いながら汚濁の戦場へと向かい、唾されながら唾の主の汚れを舐めとる。われら汝らの選ばれたるこの世の雑布なれば!」
こりゃ仕事の前で気が昂ってんだな、とケイは口をつぐむ。公衆衛生局衛生保全課保全処理班実働隊。隊長のJ・M・O以下、この隊の人間はテンションがアレな人間が多い。一般人に遠巻きにされる要因の一つだとケイは思っている。
まぁ、ネジが飛ぶのも仕方ない、とケイは知らず唇を舐めた。
黴はこわい。
一度出現して増え始めれば、あっという間に街の一区画くらいは覆い尽くす。有機物に取り付き、それを養分に黴化していつまでも増え続ける。そしてもちろん、有機物には人体が含まれる。
魔女たち――クリーナーズに属するシラネやケイやその他の少女たち――は、そこに踏み込んでいくのだ。何度でも何度でも、黴の発生範囲が浄化され尽くすか、自身が黴に取り込まれるまで。
「見えましたわ」
シラネがホヴァー・ヴィークルの高度をぐっと上げる。雑居ビルの高さを抜けて、眼下に街並みがひらけた。まだ遠い。だがはっきりと分かる。高層ビル廃墟群の間を埋め尽くすアーケードのテント、そのあいだの通路を中心として数キロメートル、すべてがびっしりと黒い黴に覆われている。
「エグい規模……」
「久々の大物ですわね」
汚染地域から来る風は、ぬるく異臭を孕む。ケイたちが乗るのと同じ型の白のヴィークルがいくつか、すでにその周りを取り囲んで滞空していた。シラネがヴィークルの無線通信マイクをオンにして、自分とケイの識別番号と到着を告げる。応答で、A―8、と担当区画が伝えられた。同時に、ヴィークルのナビゲーション・モニターに座標が点滅する。
みな、これからやることは分かっている。その上で、ここにいない一人の姿と、一言の指示を待っていた。その間にも三々五々、集まったヴィークルのスピーカーが隊員の識別番号と名前を知らせる。
遠くの空から近づいてくる一点の影を、ケイは見つけた。白のヴィークルではない。赤く塗られた唯一の、特別の機体。
「来た」
胸がぎゅっと音を立てて痛む。自分の声が、思ったよりもずっと待ち焦がれていたように響いて、慌てる。
シラネが、濡れた瞳で同じ方角を見つめ、熱い吐息を落とした。
「あぁわたしたちの、明るく燃える不滅の灯台……」
ヴィークルのスピーカーが、雑音まじりに、平坦な声を伝えてくる。
『識別番号#001、アズ=アズマ到着しました』
『よろしい』
今まで沈黙を守っていたJ・M・Oの声が、それに応える。
『クリーナーズ、第115回掃討作戦を開始する。各自、指示済みの座標に赴き、その身を賭して、総力にて汚穢を払い尽くすように』
さぁ、とスピーカーに囁かれて、シラネが興奮に目を輝かせた。その白い手が、ヴィークルのハンドルを握り直す。
『いっておいで、ぼくの自慢の娘たち』
ケイの方は、聞かなきゃよかった、と情けなく眉を下げた。あんな変態の父親は願い下げる。
ケイの苦笑を置き去りに、シラネがアクセルを踏み込む。黴に覆われ、空気まで色を変えた汚染地帯に向かって、いくつもの空中のヴィークルが向かってゆく。白い軌跡。
暗い、息苦しいその空間に突っ込む直前、ケイはいつものように泣きたい、逃げ出したい気持ちに満たされる。今度こそ、黴に食われて死んでしまうかもしれない。なんだってそんなことしなくちゃいけないんだろう。怖い。
けれど目の前のシラネの背中は、ピリピリと緊張感で痛いくらいなのに、迷わない。ヴィークルのモニターに点滅する指示座標に向かって、現在位置を示すカーソルが一直線に近づいてゆく。そして視界の端を、赤い、だれよりも真っ直ぐに速い軌跡がかすめる。
あんたたちはおかしい、とケイは少し笑う。その視界を奪うように、ヴィークルは汚染地帯へ呑み込まれた。


『LOVE&BRAVENESS。愛と勇気。お伽話じゃないの、それだけがわたしたちを黴の汚染から守る。ほかのどんな技術も防護服も役には立たない』
ケイは十五の規定年齢になって、クリーナーズに志願した。志願者は条件――十五歳以上の、健康状態の良好な女子および女子に準ずるものであること――を満たしていれば、誰でも採用される。訓練に入ってから現場に出されるまで、ケイは平均の倍以上の時間がかかった。いわゆる劣等生だ。体術の成績なら群を抜いて、でもクリーナーズの仕事をするにはそれだけでは足りない。
それでも指導教官は、飽きもせず倦みもせず、辛抱強くケイの訓練に付き合った。
部屋の中で明かりを消して、向い合って額をくっつけ、両手とも指を絡めてつなぎ合う。教官の手は温かく、指はすんなりと長い。いつもすこし、乳製品のようなやわらかい匂いがした。
『目を閉じて――ゆっくりと息をして――そう、わたしと呼吸をあわせて――あなたの目は暗闇を見ている。あなたの内側にある暗闇。それがあなたの恐れ』
『何も怖くなんかないよ』
『恐れはあるの。あなたの中にも、わたしの中にも。認めることでコントロールが始まる。手を伸ばして――暗闇に触って。やさしく、形を知って』
ヨガとかそういった、宗教ぽいやつに似ている。はじめに恐怖を認める。恐怖の暗闇を退ける勇気を知って、その奥に光るものにたどり着く。何度も間違えて、払ったと思った恐れはすぐに戻ってきて、進めなくて、苛立たしくて、もう嫌だと何度も泣いて、少し休憩して、腫れたまぶたをまたつむってやり直す。
『あなたの奥に、だれも触れないように光る――それが、あなたの愛と勇気。あなたを守る力』
初めてその光を見つけたとき、ケイは今までとまるで違う気持ちで泣いた。小さくて見えにくい、けれどそれはケイの光だった。
『せんせい、薔薇子せんせい、あたし、生きてる』
『ええ、わたしにも、見えるわ』
そっと目を開くと、部屋の暗がりの中で教官もあたたかく光っていた。光は彼女の指先からまつげの先まで溢れてこぼれるようだ。くらべて、自分は皮膚の上に、一枚ぶんの光の膜が張っている程度の薄さだ。はずかしい。
けれど教官は、口元にえくぼを作って頷いた。
『それがあなたの力、あなただけの愛と勇気。じぶんの光を見つけた人間にしか、ひとの光を目にすることが出来ないの』
とてもきれいね、とほめられて、ケイはひどく照れた。
『でも一番怖いのは、光を抱いて黴の汚染の中に踏み込んで、意識と集中を失い、その光を保てなくなること。あなたを守っていた光はほころびて、そこから黴が入ってくる。だからあなたはこれから、勇気を持ち続けること、揺るがぬことを覚えなくてはならないの。そしてそれから、汚れを拭うことを覚えるの』
『やること、たくさんだね? 先生』
『あなたを守るためだもの』
そう言ってケイの髪を撫でる教官は、おとなの女の人だった。
十数年前、黴の大繁殖によって琵琶湖以西がすべて失われ、最悪の繁殖パニックとなった『大汚染』。教官はそこで家族を失くし、クリーナーズの設立当初から隊員として参加した。何百という単位で現場の洗浄に出たという。
『仲間たちが黴に飲み込まれてゆく様子を、何度も見たわ』
『せんせいはもう現場に出ないの?』
『ええ、出ない。出ません』
教官は、ため息をつくように笑って首を横に振る。
『どうして?』
『――愛と勇気、この二つは別々のものだけど、どちらかが強まれば、もう一つも強くなり、どちらかが弱れば弱る。そういう関係なの』
『うん……?』
『あの頃、わたしが最後に現場に出ていた頃は、クリーナーズの最悪の時期だった。設立当初からいた人間がひとり、ふたりと黴にのまれ、それがさらに不安を呼んだ。死亡率が高まって志願者が減り、少ない人数で何度も現場に出されるうちに疲弊していってさらに追い詰められた』
勇気はどうしたら出ると思う? と囁かれて、ケイは困って眉を下げる。『それ』がまさに、ケイが訓練に手こずっている理由だからだ。
『いろんな方法がある、でも一番簡単なのは、何かを信じること。こうすれば大丈夫、あの人がいれば大丈夫、生き残れる。そう信じれば揺らがずにいられる』
わたしの最後の現場は、と教官は静かに話す。
『それまでで最悪の汚染現場だった。黴は見たこともないほど濃くて強固で、一日に浄化しても浄化しても少しずつしか進まなかった。そうして、わたしを含めた隊員五名を、黴溜りが飲み込んだの。とても大きな――黴の塊。粘度が高く、飲み込まれたら動けない、浄化しなければ腕一つ動かせない、けれど呼吸を維持して黴の感染を拒絶するだけで精一杯で、一歩歩くごとに、体力が削られてゆく』
黴溜まり。それは雪崩のようなものだという。大規模な汚染地帯で起こる、黴の凝集が大きくなりすぎて崩れ落ちる現象だ。
『二度とこの黴の暗闇から出られないかもしれない。現場にその恐れがじわりと広まった。あのとき、わたしたちはほんとうに全滅の縁にいて、でもその瞬間に――あの光が、来たの。黴の厚みを切り裂き、流星のように軌跡を引いて、まっすぐ、最奥まで。その光を信じるのになんの言葉もいらなかった。わたしたちは生きて帰れるのだと、分かった。まばゆいあたたかいあの――あの子の、光』
ケイは、自分の脈拍がどんどん上がっていくのを感じる。クリーナーズに入ってからというもの、だれの口からでも語られるその名前。
『それは――五年前のこと?』
『そうよ。わたしたちの暗闇の灯火、赤く燃えて、わたしたちを導く不滅の光、あれがわたしたちのアズ=アズマの初陣だった』
『でも』
ケイは横に首を振る。アズの名前を聞くたびに、いつも思っていた。
『あの子はそのとき、すごく子どもだったのに』
『そうね。――ええ、そうね』
教官は、そっと眉根を寄せて泣きそうな顔で微笑む。
『だからわたしはもう、現場に立たないの。わたしは、自分をあの子にに背負わせたくなかった。でもね、どれだけ自分の中を探しても、あの子が残した光よりも強い光は、なかった。わたしの内側はあの子の光に塗り替えられていたの』
『――そんなに?』
目を閉じて、と教官が囁く。訓練再開の合図だ。ケイは言われるままにまぶたを落として、また自分の内側の暗闇に沈む。どうか、と教官の声が耳元にそっと滑り込んだ。
あなたの心が、あの光のしもべになってしまいせんように。
それだけはないよ、とケイは答えた。


「ケイ!」
シラネのするどい声に、ケイは自分が一瞬自失していたことに気づく。夢のようなものをみていた。訓練時代の記憶だ。
「大丈夫。えーと、なんか、集中してた……?」
「ならいいのですけど」
光量の小さい人って好不調が分かりにくいですわ、とシラネが小憎らしい口を利く。
シラネの担当範囲は、汚染地帯のかなり深い場所だ。頑丈なブーツの靴底に、厚い黒黴がねとねととまとわりつく。前後左右上まで見ても、黒い黴の胞子が空間を満たして、物影が見分けられない。上空の太陽の形は、辛うじてうっすらと白い円に見えた。
その中でシラネの姿は、眩しい、真っ白な光を纏って見える。ケイの、淡く自分の体の輪郭を浮かび上がらせる程度とは違う。周囲の胞子を払い、その場のテントの店先を露わにし、足元の黴をじりじりと乾燥させて殺してゆく。
だから、シラネが目を眇めてケイを探すのは、仕方なのないことだ。自分の強い光が邪魔をして、ケイの弱い光を見分けられないのだ。
「ケイ、あなた、わたしの領域の内側にいてくれませんこと? 安全が保証できませんわ」
「やだよ。内側にいたら、あたしが浄化作業できないじゃん」
「まぁ」
にっこりと赤い唇の端を吊り上げて、シラネが上品に首を傾げる。
「ではそのまま、後ろの野犬に喰われるつもりですの?」
「――ッ!!」
振り返った、そのタイミングが間一髪だった。右腕と左腕に、ケイはぎゅっと光を集める。腕を振りぬく。運良く、当たりをつけた方向から野犬――正確には、元野犬の黴の塊は、飛びかかってきていた。腕が当たり、その黒い塊は跳ね飛ばされる。その姿は瘴気の向こうに見えなくなったが、ごぶごぶと喉のあたりから溢れる唸りで、だいたいの位置はわかった。
「群れごと黴に呑まれたみたいですわね。それとも食材扱いだったのかしら」
笑みを消したシラネが、地面を蹴って、ケイを襲った野犬の方角とは違う方へ駆け出す。シラネの光が移動して、闇の先に、跳びかかる直前の姿勢でうずくまる獣の影がちらりと見えた。複数だ。
シラネが走りながら、腰からすらりと抜刀する。その後ろ姿に舌打ちして、ケイは、自分が野犬を跳ね飛ばした方向へと走った。加勢は無用、後方の安全を確保しろということだ。
やってやろうじゃん、とケイは力を溜める。自分の貧弱な愛と勇気、それを補うだめに打ち込んだ体術だ。初めからなんでもできるシラネに、体術だけなら遅れは取らない。
距離を詰めれば、獣のただれた唸りが迎え撃つ。野犬で危険なのはその牙と爪、けれど黴の塊は柔らかい。牙と爪が残っても、それを支える強靭で俊敏な筋組織はすでにないのだ。
ケイは、野犬の首筋を片腕で抱え込んで、その体を固定する。鼻の奥を、間近の黴のすえた匂いが刺激した。頭を抱え込む腕と胸に、べったりと黒い汚れが貼り付く。
できるだけ息を詰めて、ケイは野犬の柔らかい、黴に侵された肉に、指を差し入れる。肋骨の間、心臓のあたり。野犬だったものが暴れるのをもう片腕で必死に抑えこむ。肋骨をつなぐものも脆くなっていて、ケイの手は簡単に黴を掻き分けて内側に届く。心臓、の形をした黴。
ぐっと掴んで握りつぶす。
その瞬間、腕の中で野犬の形の黴は輪郭を失い、どろりとしたタール状となって地に落ちた。
「……っ、は、はぁ……っ」
詰めていた息を吐きだし、ケイはしばらくそこで大きく呼吸する。全身に汗をかいていた。そして黴まみれだ。あたりからも、自分からも黴の匂いがつよく立ち込めて、うっすらと吐き気がする。
「実に汚らしい有り様ですわね、ケイ。とても良い眺めですわ」
そばにやってきたシラネの声は、少し恍惚を含んで甘い。本当にこの子は変態だなぁ、とケイは座り込んだまま思った。見上げたシラネの白いロングコートには染み一つない。ケイの相手にした何倍かの野犬を消滅させてきて、この様子だ。
「最後の浄化はやってあげてもよろしくてよ?」
微笑むシラネの手には、まだ抜き身の太刀がある。片刃にシラネの光を纏って、曇りも汚れもないその太刀ならば、一瞬でこの黴のヘドロを焼きつくしてしまうのだろう。
「自分でやる」
「お好きに」
シラネに一礼されて、ケイは地面に――黴の溜まった泥濘に両手をつく。
命あるままに黴に侵されても、しばらくの間は、「生きている」。本能もあるし、進行が浅ければ意識もある。でも黴が心臓に届いたらだめだ。それはただの生き物の形をした黴で、心臓を握り潰せば、生き物としての形も失う。
どこまでを命というのかは、わからない。けれどこの手を浸すのは、確かに自分が握りつぶしたその残骸だ。
ごめん、と思う。仕方がない、とも思う。ゆるされたい、という願いはあって、けれど誰にゆるされてもケイは信じないだろう。
目をつむる。光のことを――考える。ちっぽけな自分のからだ、鼓動と、脈打つ血のめぐり、体温のことを考える。自分の膚を覆う光の膜――それと、外側の、黒い黴の液体。まるで違うものだ。その、汚らしい、おそろしい、わけの分からないものと、自分を生かす光の膜を、慎重に、ゆっくりと、表面から、混ぜ合わせる。皮膚にまでは触れないように。でもぎりぎりまで。
ああ、とても、こわい。
でも野犬、一匹の犬、できることならこんな暗い場所で心臓を握りつぶすんじゃなく、明るい乾いた道端ですれ違ってみたかった。おとなしい犬なら骨とかやって構ってみたかった。それが無理でも、屋台の端っこであたしはカレーを食べてて、犬はどこかの残飯を漁っていて、そういうふうに、別々に命をまっとうしていたかった。
していたかったのにね。
黴、こわかったね。あんなふうに暴れるくらいに。
ごめんね、今、きれいにする。
あたしにはそれだけしかできないけど。
両腕で抱きしめるみたいに、きれいにするから。
すぅ、と鼻をつく黴の匂いが遠ざかり、代わりにきれいな水の匂いがして、ケイは目を開ける。
少し明るかった。直径一メートル、くらいだろうか。範囲内の地面と店先を覆っていた黴は全部ただの水に変わって、雨に降られたあとみたいだ。膝をついたあたりには、犬の真っ白い骨が転がっている。それも濡れていた。
頬が濡れていたので、手の甲で拭い取る。涙なのか、ついていた黴だったのかよく分からない。
この、数キロメートルにわたる汚染地域の中で、たったの一メートル。
「ちっちゃいなぁ……」
「どれだけ取るにならなくても、それが光である限り奉仕の意味はあります」
すこし固い声で割り込んで、シラネがふいと背を向ける。
「ケイ、あなたは店を中心に浄化作業をお願いしますわ。わたしは通りを中心に、開けた場所の黴を焼却します」
「いいけど……なんで怒ってんの?」
「わたしでは、そんなふうに何もかも無傷で浄化はできません」
そりゃそうだ、と、ケイは立ち上がりながらシラネの背後、その浄化の跡をみやる。太刀を突き立てた跡を中心に、ゆうに直径五メートル。きれいサッパリ黴の痕跡は消えて、からからに乾き、ついでに蒸発しそうなものは大体蒸発している。シラネの光は、ほぼ炎だ。店先に出ていた木の椅子が乾いて塗装がひび割れ、足のほうがわずかに焦げている。
「嫉妬?」
「デリカシーのないひとって、ほんっと、消滅してくださらないかしら……」
シラネが深く深くため息をつく。さらりと髪を後ろに払って、ほんとうに気に入らないように告げた。
「あなたの浄化、アズマの、いちばん厄介なところに似ています」
「――どういう」
ところが、と問おうとしたケイの言葉は、ヴィークルのスピーカーからの入電によって遮られた。
『識別番号#012、シラネ=マコト、応答可能かい? 現状は?』
隊長、J・M・O.の声だ。シラネがヴィークルに駆け寄って、マイクをONにする。
「#012、シラネ=マコト、現在#153、 ケイ=リー=ルーとともにA―8において浄化作業中です。黴化した野犬の群れに遭遇しましたが撃退に問題はなく、担当地域の作業障害はクリアした認識」
『ハハッ、なんでそんなに番号後ろの子と作業しているんだ、シラネ。いいや、まぁ好都合だ。その子と一緒に B―5エリアに向かってくれ。座標は今送った』
「J・M・O。何が?」
『アズが、黴化した生体と遭遇した。人間の子どもだ。フォローに回ってくれ。アズがダメになったところで一時撤退だ』
シラネが一瞬鋭くこちらを伺う。先程より格段に厳しい顔をしていた。
「J・M・O、#153はここに置いていっても? 彼女への影響が測れません。最悪今後の作戦参加が不可能になるかも」
『駄目だろう。ヴィークル回収は一人ではできないし、他のエリアも作業から手が離せない。三ケタNo.メンバーの将来よりアズの確保が急務だ」
「……了解しました」
マイクのスイッチを切って、シラネがヴィークルに飛び乗る。何か言われる前に、ケイは後部座席に滑り込んだ。事情は何一つ飲み込めなかったけれど、一つだけ分かった。これがチャンスだ。行く先には、アズがいる。
「出発しちゃって行っちゃって。置いてくなよ絶対!」
シラネの腰にぎゅっとしがみついて、意志に反した震えを止める。本当に、事情は何一つ飲み込めてないが、さりげなくJ・M・Oから使い捨てっぽい宣告を受けたのはわかる。
絶対に離さない、という意志が伝わったのか、シラネが忌々しげに小さく舌打ちをした。珍しく行儀が悪い。
「ケイ、あなたの愛と勇気の源はなんです」
唐突な問いかけだ。ふざけている様子ではなかった。重ねて聞かれる。
「アズ=アズマへの憧憬、アズ=アズマへの盲目の信頼でしたら、命令違反でも、わたしはあなたをここに置いていきます」
「ちがう。ぜんぜんちがう」
思わず強く言い返す。そういやシラネに(というか誰にも)ちゃんとその話をしたことないな、と思う。でも「それ」は、ケイが一番嫌いなものだ。
「それだけは違う」
「後悔なさいませんように」
それだけ言って、シラネがアクセルを蹴っ飛ばした。



赤いヴィークルは、B―5エリア上空に滞空していた。
A―8エリアから、B―8、B―7、B―6と移動して、途中の様子にケイは圧倒される。B―7からがアズ=アズマの担当だと、説明されなくてもわかった。黴の暗さに閉ざされた空間で、アズ=アズマが処理した痕跡だけが、真円の形に「現実の色」を取り戻していくつも続いている。乾いたアスファルトと、無人の平和な店先と、露出した土。まるで何も起こらなかったみたいだ。そしてその円はゆうに、アーケードとそれを囲むビルをカバーできる。
ケイとシラネがあれだけの区画に手間取っている間に、二エリアを大雑把に浄化しきったのだ。
B―5エリアに入ると、まだ黴の瘴気は濃く残っていた。
赤いヴィークルの上には、当たり前だけれどアズがいる。
――黒髪のショートカットで細っこい体つきの、それなりに背が伸びた、Tシャツとサファリパンツ姿の、ただの少女だ。あまり甘さのない横顔をして、小さな頭の顎のラインが固い。
アズだ、と思ったら急に顔が熱くなって、心臓がドキドキしはじめた。
アズだ。
とりあえずケイは、ぎゅっとシラネの背中に額を押し付ける。
「ケイ?」
「いい、いいから、あたし今空気だから」
「空気というより不審者ですわ……?」
シラネがそばにヴィークルを寄せると、停止を待たずにアズは口を開いた。
「あれを」
アズの指が、地上を指さす。まだ未浄化の地域。まっ黒く粘ついた地面の一部が、確かに動いて見える。
「助けに行く」
「分かりまし――」
「たのみます」
シラネの言葉を最後まで聞かずに、アズがヴィークルの高度を落とす。シラネがその後を追った。


濃い黴だ。空気も、胞子というより黴そのものの密度に近い。それをアズのまとう光はやすやすと切り裂き、後に続くシラネのヴィークルに道を開く。
十分に高度を下げてから、アズが地面に降り立つ。着地をしただけで、ブーツの触れたところから、丸く音もなく黴が消滅した。アスファルトが覗く。次の一歩も同じことが起こった。
黒くべったりと塗り込められた地面に、アズの歩いた跡だけ、「通常」が戻ってくる。現実の色が、闇に星が灯るように、星座をひとつずつ結ぶように、繋がってゆく。
なんだかそれは、むやみに胸がぎゅっとなる光景だ。
「すごくきれいだ」
「わたしたちの、アズ=アズマですもの……」
小さくささやき合うあいだに、アズの歩みが止まった。
アズがその場にしゃがみ込み、手を伸ばす。そこには、黴の塊があった。確かに子どもくらいの大きさの塊だ。けれどすでに目鼻を失い、辛うじて頭部と手足の区別が付く程度。
「あれ、まだ間に合うの」
「心臓が残っていれば、アズマなら。でも、たやすくはありませんわ」
アズの手がその黒い塊の頭部に触れて、ぐいと拭う。ごっそりと黴が落ちて、皮膚が見えた。頬、耳、顎から首。黴化して変色し、ぶよぶよと弾力を失った皮膚だ。アズはためらいなく、外側についた黴を無造作にはたき落として、子どもひとり分の輪郭を取り戻させてゆく。
子どもの、紫と黒の色をした瞼が、うっすらと開いた。まだ黴に侵されきってはいない、どろりと青黒い眼球をのぞかせる。唇が小さく動いた。
「……ご、けな……」
「うごきたい?」
アズが、表情もないまま問いかける。それから、自分の言葉に疑問を覚えたように軽く首を傾げて、もう一度問いなおす。
「生きていたい?」
「…………」
黴に侵されてゆく子どもは、かすかに、だが確実にうなずいた。
「いいよ」
アズが子どもの片手をとって、両手で包み込む。アズの両手は、内側に明かりがあるかのようにあたたかく光る。
ヴィークルを空中にホヴァーさせたまま、その光景を見下ろして、シラネがきゅっと赤い唇を噛んだ。やはりこうなりますのね、と小さく呟く。
ケイがその意味を問う前に、眼下のアズが、やさしい穏やかな声で告げた。アズが口を開いてから、初めて抑揚のある声だった。
「この細胞を食べればいい」
変化は、すぐに起こった。
アズの、内側に火を灯したような手が、その光を失う。失うだけでなく、突然に、黒紫の死んだ皮膚に変わった。黴の侵入にしても早すぎる。普通なら数時間かけて進行するような黴化だ。
しかもその皮膚の死変は、アズの手から腕、首から顎へとどんどん広がってゆく。服の下もそうなのだろう、闇にやさしい灯火のようだった、アズの光がどんどん失われてゆく。
「アズ……ッ」
思わず、ヴィークルの後部座席から身を乗り出しかける。それをシラネに片手で制された。
「アズ=アズマの邪魔をしてはなりません。一歩間違えるとどちらも共倒れになりますわ」
子どもをご覧なさい、と言われてようやく、ケイは、もう一つの変化に気づく。鏡のようだった。アズの、子どもと触れ合っった手から先が変色してゆく分だけ、子どもの肌色が健常に戻ってゆく。生まれたての、柔らかそうな、傷一つない細胞が、子どもの死滅した細胞と入れ替わってゆく。
腐った子どもが、生きた子どもになってゆく。
「治してる、の」
「やり方はわかりません。アズ=アズマにしかできない」
「わからない?」
ケイは、指先にそわそわしたものを感じて、拳を握ってみる。やり方は、見たままのように思える。入れ替えるイメージだ、自分の細胞と、相手の黴を。自分の細胞ひとつずつに光が満ちていて、黴を受け入れることへの恐れを退けたなら、きっと出来る。あぁ、でも、それは。
「怖い。あたしにはできない」
アズはすごい、と口にしたら、右目から涙が落ちた。
アズのLOVE&BRAVENESS。ケイは初めて理解する。誰もがアズを遠くから見つけ、アズを特別だという理由。
いったいどれだけの量の愛と勇気があれば、こんなことができるんだろう。
「あれ、アズのほうは治るの」
「治らないのならこんなことをさせません。けれど」
シラネの声はずっと固い。どんな顔をして、とアズからシラネに視線を移して、ケイはすこし虚を突かれる。
シラネもなぜか、泣きそうにぐすっとすすりあげて、悔しげに赤い唇を噛んでいた。美少女顔が台無しだ。
「代償はありますし、平気なわけはありあせん」
「#012。シラネ=マコト」
地上から、アズの呼びかけが届いた。見上げてくるその顔の、口元あたりまでが青黒く色を変えている。
「ごめん、ちょっと」
「はい」
シラネはすぐに、呼ばれた方にヴィークルの高度を下げる。アズは、少しだけ申し訳なさそうに、短く用件を告げた。
「ここが限界」
直後、アズの瞼がすっと降りて、糸が切れたようにその場に倒れ込む。シラネが息を呑んで腕を伸ばし、その体を抱きとめた。
「ケイ、子どものほうを保護! また黴に侵されてしまわないうちに」
「わかった」
慌ててヴィークルを降り、子どもを抱える。迷ってからアズの赤いヴィークルのほうに乗った。シラネがアズを、白いコートで包み隠すように抱え、自分のヴィークルに戻ったからだ。
「一旦離脱します」
「うん」
「他言無用に」
「……うん」
暗い胞子の中を、シラネが走行し始める。本部とマイクごしに状況を報告する、その後を追いながら、ケイは腕の中の子どもを抱きなおした。
あたたかい、生まれたてのような細胞の塊だ。どこも損なわれずに、血の気のある頬をして、ゆっくりと呼吸する。意識はない。
アズがやったことだ、と思うとそれだけで泣きそうだ。
爪までまだ柔らかい。
(あ、でも)
すっと血の気が引いた。
子どもの完全な、生き物としての体。その左手の、薬指だけがおかしかった。爪と第一関節分だけ、黒ずんで張りがない。
「シラネ。この子の指、黴が残ってる」
「――――そうですか」
ちらりとこちらに視線をやって、シラネが固い横顔をまた見せる。
「浄化を、広がらないうちに」
「うん」
ヴィークルを、シラネ機の後についてゆくようオートモードに設定して、ケイは子どもの手を開かせる。ほんとうに、指の先だけの、関節一つぶんの黴だ。ケイも指先の血の巡りを意識して、小さな光を集める。指同士を近づける。
アズなら、と思う。
アズならこの光と黴を交換して、小さな子どものこの指を、健康で何一つ損なわれないものに戻してあげられる。
震えながらさらに指を近づける。光、光の宿る自分の指先。守る皮膜としてのそれを、開いて、自分の内側に黴を受け入れることができれば、この子どもの指はきっと救える。救えるはずだ。
(でも、それで、自分が黴に侵されたら? 取り返しがつかなかったら?)
心臓が強く打っているのがわかる。つばが上手く飲み込めなくて、喉が音を立てる。冷たい汗で体温が下がる。
だめだ。
こわい。
――できない。
「急いで。黴が広がります」
シラネが、こちらを見ないまま厳しい声をかけるのは、優しさだ。シラネは優しい。性格悪いしちょっとあぶないやつだけど。
じわりとわずかに、すぐには分からないほど、子どもの指先の変色範囲が広がった。ケイは、息を呑んで自分の指をそれに触れさせる。指を包んで守る光、それと黴の部分を混ぜ合わせて――きれいな、水にする。
子どもの爪と指先が、水になって、流れる。
「……っ」
ぐ、とこみ上げるものを唇を噛んで耐えた。感情はまだ余って、自分の腿を拳で強く殴りつけて、無理やり声を出す。
「浄化、完了っ」
はい、とだけシラネが答えた。
その声を聞いたらだめだった。ケイは、うぅ、とうなる。うなるだけのはずが、ひくっと喉が鳴った。そのまま、声を上げて泣きだしても、シラネは振り返らないでいてくれる。ケイは大声で泣きながら、何度も何度も、ひとつの言葉を胸に繰り返した。
あぁ、あたしは、臆病者だ。
あたしはアズみたいには、なれないんだ。



とりあえず、カレーを、食べる。
屋台と違って、現場の野営地には缶詰しか詰まれてないけれど、その中でおすすめって言ったらタイカレーだ。本場タイで製造される嘘偽りなしのタイ・カレー。スパイシーにして栄養たっぷり、ライスに合うのはもちろん、乾パンで食べてもなんとかなる奇跡の食材、野営地向き。
一日に、クリーナーズが現場に入るのは四時間が上限という規則がある。クリーナーズが経験上導き出した、それ以上続けると危ないという数字だから、誰も文句は言わない。その時間内に片付けられない大規模汚染の時は、現場の周囲を厳重封鎖して、野営地を張って警戒しながら明日を待つ。
夕方の、日の落ちかけたビルの間、テントを張って夕餉の匂いがする空間が、ケイは好きだ。食事のプレートを持って行き来する、たくさんの班員たちの足音と話し声。何種類もの食べ物の匂い。暮れてゆく空と、灯り始める野営のガスランプ。どんな最悪の気分の時も、片隅で一人でカレーを食べていると、少し落ち着いてくる。でなければ昂ってくる。落ち着くのも昂ぶるのも無理でも、まだ持ちこたえられる、と思う。
いくら自己嫌悪が痛くて痛くて、食べてる間に、また涙が出てきて鼻みずっぽくなっても、そうとう辛いこのカレーみたいな顔してティッシュで拭ける。
いくらケイがこの世でゴミみたいな臆病者でもだ。
ちーん、と鼻をかんむその横に、こつりとブーツの踵を鳴らして白いコート姿が立った。
「ケイ、あなた、そのカレー以外のもの食べてることありますの」
「食べるよ。レッドカレーもキーマも」
これはグリーン、とわざわざ注釈を入れてやると、シラネは嘆かわしげに首を横に振った。
「やっぱり、脳までカレーで出来ている方とは言葉が通じないのかしら……」
「うっせ」
「食べてしまって、おいでなさいな」
シラネが、身をかがめて、髪がカレーにつかないように黒髪を押さえて、耳元で囁く。他に聞こえないように、潜めた声で。
「アズ=アズマが目を覚ましましたわ」




古びた空きビルの一階が臨時の司令室、そのさらに上の階に、アズの運び込まれた部屋はあった。
横壁に亀裂の入った、リノリウム張りの階段を上がる。手すりは木製、段ごとに張られた滑り止めがいちいちブーツの靴底に引っかかる。このあたりになると、さりげなく見張りが立っていて普通の隊員では近づけない。班員番号#012、シラネがいるからの顔パスだ。
#002から#010までが研究職で後方支援にいることを考えると、シラネはアズ以下、三本の指に入る実力を認められていることになる。
そしてその序列を認め、定めるのは、この隊で唯一の男だ。
シラネが近づいたドアが、内側から開かれた。出てきた男にすかさずシラネが呼びかける。
「J・M・O、どうですの?」
J・M・Oは、ケイの見たことのない格好と様子をしていた。カウンター・グラスを装着して目元が見えないのは同じだが、いつもの白スーツの上に、着古した白衣を羽織って、全身が何とはなしにくたびれている。赤いネクタイも緩めてぶら下げているだけだ。
「あらかたの細胞は取り替えた。馴染むまで二、三日だろう。少しぼくは失礼するよ。今朝の汚染発生から休みなしでね……腹がへった……」
いつものハイテンションを遠くへ捨てて、最高司令官はふらふらと階下へとおりてゆく。薔薇子さーん、と階下に呼びかける声もどこか芯が抜けていた。
シラネについて入った部屋は、簡易の医務室のようだった。蛍光灯がいやに明るいのは、このために新しく電球を変えたのかもしれない。外に面した窓はぴったりと閉められて、外のぬるい空気や隊員たちのざわめきは遠ざけられている。
折りたたみの医療用ベッドが二つ、手前にアズ。周囲には、これも移動式の医療器具ワゴン一式と、散乱するいくつもの空の密封ビニールパック。点滴ラックにはオレンジ色の中身の液体パックが吊り下げられ、透明な管で、アズの腕に刺された針につながっている。
ベッドの上のアズは、幾つかの枕を背もたれにして、体半分を起こしていた。うとうとと斜めになりかけている。目を覚ました、とシラネは言っていたけれど、まだ半分以上は夢の中らしかった。
ケイはまず、アズの体に黴の黒ずみが見えないことに、ほっと息をつく。それから、入院患者のような簡易着のあちこちから覗く包帯の痛々しさに、うすく唇を噛んだ。細い喉元のあたり、外に出た手の指先、薄い胸のあたり。包帯と、ガーゼを貼って押さえたその下に、まだ濡れて光る、柔らかい、外気に触れるには傷つきやすい皮膚組織がわずかに見える。
「アズマのために培養した組織を、アズマの光がつないで血肉にする……らしいですわ」
J・M・Oの言うことなので、とシラネが首を振る。ケイにももちろん分からなかった。J・M・Oがすごい化学者だという話は聞くけれど、実際どれくらいのものかケイにはさっぱりだ。なんとなく胡散臭い印象はある。
「アズマ」
シラネがアズの近くに寄って、優しく、壊れ物にするように呼びかける。アズがすっと目を開く。不思議と、それまでの眠りの気配をまるで引きずらない目覚めだった。
アズはシラネをひたと見て、それから、一言ずつを確かめるように発音する。
「#012。シラネ=マコト」
「はい、そうですわ」
「うん――」
ほっと、アズが口元を緩める。
「よかった。どんどん、わすれてゆくから、わたしは」
「あなたのせいではありませんわ」
「うん。細胞が、無理やり、入れ替わるから」
どうしても、と言い訳するように語る声は、すこしかすれている。きっと喉の内側まで黴に侵され、そして新しい細胞に入れ替わったのだ。
「だから――もし、隊で会ったことが、あったら、ごめん」
ふとアズの声が、まっすぐにケイに届く。アズが、いつの間にか正面を向いてケイを見ていた。
頭上の明るすぎる蛍光灯が、ジジ、と音を立てる。ああ、この目を知っている、とケイは思う。言葉のない、賢い、死んでゆく犬や鳥に似ている静けさ。
アズの目だ。
「あなたの名前は?」
「――ケイ。ケイ=リー=ルー」
実際のところケイは、覚悟はしていたのだ。七年。それがアズにとってどれくらいの時間なのか分からない。けれど、アズはケイを忘れているかもしれないと、どこかで思っていた。
でもまさか、こんな理由で忘れられているなんて思わなかったけれど。
ケイは、こみ上げるものをぐっと抑えこんで口を開く。
「それで、そっちの名前は?」
もしアズがケイの名前を聞くのなら、ケイは問い返さなければならない。それがどんなに嘘でも、虚勢でもだ。
ぱちり、とアズが目を瞬かせる。その様子を見るだけで、ケイは少し溜飲が下がった。見ている間に、アズの驚きは、ゆっくりと安心した表情にほどけてゆく。
「アズ。アズ=アズマ」
「アズ」
「うん、そう」
名乗るのはとても久しぶりな気がする、とアズが小さく付け加える。
「それも忘れたのかもしれないけど、でも」
ありがとう、と言ってから、アズの声がケイの名を呼ぶ。自分の名前よりもずっと丁寧に。
「ケイ」
七年ぶりのその響きが、ケイの限界だった。
体の奥から震えて体温が上がって、思わず体が動く。距離を詰めたくて、膝立ちでベッドに乗り上げて、頬に触れたくて、指を伸ばして、傷つけたくなくて、無事な皮膚のある目の下あたりを、親指でなぞる。
追っかけて追っかけて五年間、考え続けた想いの丈だ。置いていかれた恨み言がないとは言わないが却下。まとめたら三文一行。でもずっとアズにこれを言いたくて、ケイはここまで来たのだ。
「アズ、大好き。愛してる。ケイはいつでも、アズの味方だからね」
盲目の信頼なんてしない。守られるんじゃない。アズを好きで、守りたいんだ。
ついでにそこに、アズのかわいい唇があったので、軽く歯で噛んでから、内側を舐めておく。濡れていてなめらかで甘かった。
そして、その一部始終を目撃したシラネが我に返り、腰の太刀に手を掛ける直前に、ケイは脱兎のごとくその場を逃げ出した。


ブーツが石ころを蹴飛ばして、躓いた後ケイは二三歩たたらを踏んで、持ちこたえた。
全力疾走も限界だ。そこが野営地の、ひと目の届かないテント裏であることを確かめて、ケイはしゃがみこむ。心臓がすごい勢いで打っていた。指の先までどくどくと血の流れを感じる。息が苦しい。こめかみを、汗が伝って落ちてゆく。
砂利の隙間から雑草が茂るそこで、しばらくじっとしていても、顔に上った熱は全然引かなかった。うん、さっき自分は、衝動的すぎた。
(やばい。あたし変態だ)
嫌われたか、少なくとも完全に引かれたとは思う。後悔はないとはとても言えない。でも何度思い返しても、あそこで我慢できる気がまったくしない。なるほどこれが変態だ。
ケイの闖入に驚いていた夏の虫たちが、だんだんと慣れて雑草の間から鳴き始める。ケイはゆっくりと深呼吸する。落ち着こう。まだ汗は引かないで、どんどん背中を濡らしてゆく。それをわずかに夜風が冷やした。
ケイが隠れているテントの表側を、隊員たちが笑いながら歩きすぎる。
「シラネさまがこのへん走り回ってらっしゃるって、聞いた? 誰か探してるらしいよ」
「えー誰を? 代わりに見つけたらお礼とか言ってもらえるかなー」
「でもすっごい怒ってて、もう半分くらい抜刀しかけてるって」
「やだ、そんなシラネさまもかっこいい」
うわーお、と思わず声を出しそうになって、手で口をふさぐ。こっちも結構深刻だ。
もう少し人の少ない場所に移動しよう、とケイはそろそろと中腰でその場を離れる。
ふと、さっきまであんなに落ち込んでたのにね、と思い出して、苦笑する。
最低だった。自分の臆病で、できたかもしれないことをしなかった。命を救うという名分で、自分の安全を優先して子どもを損なった。
あの無力を忘れてない。
でも、それでもアズがこの名前を呼んだ瞬間に、強く胸に感じた幸福が確かすぎた。
(目が眩んだ、んだ)
また顔が火照ってくるのを、振り払おうとケイは頭をふる。
ああでも、アズ、可愛かった。
ケイ、と口にしたときのちょっと神妙な、生真面目な呼び方。短い襟足から伸びる、ガーゼを貼った細いうなじ。笑い方がうまくない感じの、固い口元。変わってないにも程がある。しかも七年、目を離した隙に、自主的にあんなにボロボロだ。
(優しい、可愛い、それですごく、かわいそうだ)
アズのためなら何だってしてあげられる気がする。馬鹿な、勝手な気持ちだけど、本物だ。正真正銘の。
(この気持)
人気のない、ひらけた場所に出て歩みを止める。立ち止まってから、その場所が性懲りもなく、アズの病室の真下だと気づく。
夜に明るい、二階の窓。カーテンが閉められて中の様子は分からない。ぼんやりと人影はひとつ見えて、それだけでぎゅっと胸がせつなくなった。
腕を伸ばして、自分の手のひらをその窓からの明かりに透かしてみる。
(この気持ちは、あたしの力かなぁ?)
考えても分からない。でも、LOVE&BRAVENESS。これが愛かと問われれば、必ず愛だと答えるだろう。そして愛と勇気はあたしたちの力だ。
(アズ)
声に出さずに呼びかけたら、ケイの手のひらの先で、からり、と二階の窓が開いた。なんか今超能力まで使えてるのかな、と思う。窓からあたりを見回すアズは、先ほどの簡易着から、Tシャツとチノパンに着替えていた。
「不審者じゃないよ」
先に声をかけると、アズが目を瞬かせて、こちらを見下ろす。意外なことに、ちょっと恨みがましそうな表情で、言われた。
「さっき何か、辛いもの、食べてた?」
「うん、カレー。なんで?」
「……ちょっと、ヒリヒリした」
唇が、と、言いにくそうにして、アズが顔を伏せてしまう。暗くて逆光だけれど、首まで赤くなってるのはわかった。
ケイは思わず、口元をだらしなく緩める。あぁ可愛いなぁ、アズのためなら死んでもいいな(迷惑だろうけどな)。
口の中まで黴に侵されて、それから再生したんだな。
「ねぇ痛い? あの、細胞を入れ替えるやつ」
「……ケイは、他の人が聞かないことばっかり聞く」
「真剣だから」
あたし余裕ない、とケイは自覚する。アズに信じて欲しい。頼って欲しい。
好きだって伝えて、アズの大切な人になりたいな。
「じゃあ別のことから聞く。アズは今朝なに食べた?」
「今朝?」
問いが面白かったのか、ふ、アズが口元を緩める。
「あんパンと牛乳」
「カレーパンと牛乳の次に最強の組み合わせっすね。じゃあねー、一番好きな食べ物は?」
「……あんパン?」
「なんなのもしかしてあんパン主食なの。じゃあ二番目は?」
「食パン……」
「もう回答にパン禁止で! じゃあ、趣味は? お休みのとき何してる?」
「……静養……なかなか定着しない細胞くっつけたり、繋がりのわるい神経調整したり。あと訓練」
「ツッコみ待ちだと言って欲しい」
「あとビデオグラム。『トムとジェリー』と『サザエさん』、いいよ」
「うわー意外な趣味だった。いいよそれ、可愛い」
「そう?」
アズがちょっと下を向いて、照れたようにはにかむ。ケイは心臓を撃ち抜かれて死ぬかと思った。可愛い。
「え、えっと、じゃあさ、好きな人いる?」
「……うん……」
真面目な顔をして、アズが首を傾げる。
「生きてる人、みんな……」
「だよねー……」
「苦しいくらい好き」
「アズも変な子なんだよね、知ってた……」
知ってたの? とアズが不思議そうな顔をする。ケイはそれについては何も言わないことにした。
「苦しい?」
「けっこう……いつでもみんなは、助けられない」
「痛い?」
「痛い。黴化するときは神経も駄目になるからいいんだけど、再生は、さすがに」
アズがちら、と部屋の奥を振り返る。ハイ、います、と誰かに向けて返事した。
「何? 誰かいる?」
「あ……見周りの人が確認にきた。でもこれで、あと一時間は誰も来ない」
だからじゃあね、とアズが窓辺から身を引こうとする。何が『だから』なんだろう、と訝しむより、惜しい気持ちが先立った。
「助けなくてもいいよ」
かわいそうだな、と思う。痛いおもいなんてひとつもして欲しくない。アズを好きだからあたりまえだ、とケイは思う。
「そんなにしなくても、いいよ。あたしはアズの味方でいるよ」
――けれどアズは、そのとき、はっきりと傷ついた顔をした。固い、小さな声が返ってくる。
「でも、わたしは、守りたい」
おやすみ、と早口でアズが告げる。すっと窓辺からアズの、白い腕と、小さな頭が見えなくなる。
窓が静かに閉まって、部屋の明かりが落ちるのを、ケイはじっとそこに立って、見上げていた。窓の先に、動く気配はもうない。窓がもう一度開く気配はない。足元から、リー…と虫の声がわきあがる、生温い夜の静寂。
失敗した、と思う。
アズの近くに行くのに、失敗した。
窓を見上げたまま、ぐるぐるとひどい気持ちで考え続ける。アズの隣に行きたい。でも、アズを傷つけた。
(あれは、言っちゃだめだった。でもほんとうにそう思ったんだ。百万人よりアズが大事だって)
分からない。
それの何が悪いんだろう、アズ。



夜の空気を切って、鋭い回し蹴りが背後から襲ってきたのは、その一時間後ぐらいだった。ケイが野営地の人気のない一角に落ち着いて、今日はここで夜を明かそうかと考え始めたところだ。
「うわっ」
ギリギリで避けて、前にたたらを踏む。振り返りざまに腕で頭をガードしたら、もろにそこに拳が当たった。逆らわずに後ろにちょっと飛ばされて、衝撃を殺す。
続けざまに打撃が来るのを、身を躱して避けて、そのまま無理やり間合いをとった。
反撃する気はない。この場所で、ケイにこれだけのキレの攻撃ができる相手なんて、たった一人だけだ。隊の体術訓練で、互角に組手ができるのがお互いだけで、もう飽きるくらいこの打撃と蹴りは受けてきた。
「ハイ、シラネ……」
闇の中に白いコートと白い顔が浮かび上がる。向かい合うシラネの目は、完全に据わって、鬼気迫るものがあった。
「大人しく白状すれば刀は抜かずに済ませますわ」
「せ、先刻の狼藉については弁解の余地もなくあの若気の至りってゆうか熱情の暴走っていうか誠にすみませんでした土下座くらいで許してまじで……」
「とぼけるのならば斬ります」
すらりと、シラネが腰から太刀を抜き放つ。抜かないって言ってから早いよ! と戦慄したものの、シラネの次の言葉でケイも顔色を変えた。
「アズ=アズマはどこです?」
「なにそれ」
「アズ=アズマが部屋にいません。アズマのヴィークルもない。そして最後の見回りのころに、あなたがアズマの部屋の周辺にいたと、目撃証言がありました」
「なにそれ……ぜんぜん違う、何やってんのシラネ、見当違いだ!」
頭が追いつかないまま、焦りに駆られて大声を出す。シラネは切れ長の目を見事に据わらせて、白刃の切っ先をひたりとケイの喉元に突きつけた。
「誓えますか?」
「誓うちかう、何にでも」
「あなたのLOVE&BRAVENESSに?」
「誓う、あたしの、愛と、勇気――」
言いかけて、ケイは、それは何のことだと思う。子どもの爪先ほども救えない、自分を守るのに精一杯な、こんなに好きだって思ってるアズにも何も届かない、これが何だって?
あの後すぐにアズはいなくなったはずだ。多分自主的に。だって見張りを気にしてた。Tシャツに着替えてた。
(あの時アズはもう何かを決めてたのに、それをあたしに言わなかったんだ)
(あたしも何一つ、気づかなかった)
愛と勇気が力なら、こんなに無力なこれは、この気持は何だ。
なんの役にも立たない。
情けなくて、ちょっと涙が出た。ぐすぐすしながら、ケイは白刃の前に両手をホールドアップする。
「分かんない、でも、あたし、違う……」
「もぅ……ぐっだぐだですわね、ケイ=リー=ルゥ」
はぁ、とため息を落として、シラネが刀を引き、鞘に収める。
「いいでしょう。愛と勇気を言葉にもできない人間に、アズ=アズマがそそのかされるとも思えませんわ」
「シラネ冷たい……」
「えぇいめんどくさいですわね! そんなことよりさっさと探しますわよ、なんにせよ最後に話したのはあなたですわ、何か心当たりはありませんの!?」
だん、と癇症に足を踏み鳴らして、シラネが声を尖らせる。そこに、やわらかい、落ち着いた女性の声が割り込んだ。
「喧嘩しないの、ふたりとも」
その方向をみやって、シラネは居住まいを正し、ケイは少し肩から力を抜く。
「畑教官」
「薔薇子せんせい」
「ケイ、シラネ、こちらにいらっしゃい」
有事には後方で隊長補佐を務める指導教官は、仮本部の建物を示してそっと手招いた。
「アズ=アズマの行く先が分かりました」


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