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第一章

 旧運河の西側、ビンネンワーテルスロート地区の小高い丘の上に、広大な敷地を持つ一軒の屋敷がある。三角形の切妻屋根を持つ伝統的なネーデルラント様式の屋敷で、丈高の窓に、東洋の織物を惜しみなく使ったカーテンが揺れている。

  この日、クラース・デ・フリースは、対岸の菩提樹の木陰に腰をおろして、この屋敷の様子を窺っていた。デルフトの冬には珍しい晴れた朝で、眩しいほど真っ白な日差しが斜めに差し込んでいた。

  クラースは、右脇に抱えたキャンバスを、左側に持ち返ると、手袋をはめなおした。立ち上がって、タバールトのイタチの毛皮のふち取りをなでつけ、ベレー帽を被りなおした。

  そして一度は、屋敷へ続く太鼓橋のほうへ歩き始めたが、結局、次第次第に歩が緩んで、またその場にぐずぐずとすると、戻って再び菩提樹の根元に座り込んでしまった。腰をおろしたとき、霜柱の崩れる音がした。クラースは膝を抱えると、深くため息をついた。

  新教会の鐘が鳴る。約束の時間――孔雀の羽飾り九時を告げる鐘である。

  しかし、それでもクラースはキャンバスを抱えたまま、菩提樹の木陰から出ることができずにいた。どうにか立ち上がるものの、ベレー帽をかぶりなおし、マントを羽織りなおし、そういうことばかりを繰り返して、一向に足が進まない。 ――工房の連中め。こんな用件をよくも私に押しつけてくれたな。

  クラースは心の内にそう悪態をついた。

  ポケットから懐中時計を取り出した。何度見ても針が同じ場所を指しているような気がする。首の後ろに汗をかいていた。

  意を決してようやく橋を渡る。今にも落ちそうなほどに橋板がきしむので、嫌な思いをした。最後の方は思い切って走った。そしてその勢いのまま、屋敷の正面へと回ると、ノックをして、金の獅子頭の飾りのついた重いオークの扉を開いた。蝶番がきしんで、想像以上に大きな音が鳴った。

 「おはようございます」クラースは言った、「バーグ工房の者です」

   それに気付いてクラースを出迎えたのは、老いた禿頭の使用人で、クラースが用件を告げると、主人に取り次ぐから、と愛想笑いさえもなく、そっけなくそう言って、すぐに踵を返して奥へと戻っていった。足音が甲高く、規則的に、響き渡る。クラースは、ほんの半歩だけ、前に進み出てみた。それだけで、たわむような、透明な足音が響いた。

  ここまで来て、クラースはようやく一息ついた。

  玄関ホールには、大理石の赤と黒のタイルが敷き詰められていた。壁面は金箔で唐草模様の施された革製。正面にはデルフト焼のタイルで縁取った暖炉――無論これは飾り用だろう――マントルピースには純金製と思しきクピドの像と、燭台が並んでいる。そして、その上には、金色の額縁に納められた、大きな肖像画が掛かっていた。  クラースは思わずキャンバスを取り落とした。拾うのも忘れて、正面の絵へと駆け寄った。

  等身大――もしくはそれ以上の――軍人の肖像画であった。その人物は、銀色の甲冑に身を包み、ネーデルラントの旗を右手に掲げ、暗い荒涼とした大地に両の足で立っている。金色の巻き毛が、赤銅色の風に吹き上げられて、黒い雲の合間から注ぐ一条の日の光を浴びていた。額に流れる血は聖瘡のようだ。その赤い絵の具には何の迷いもない。分厚い、ためらいのない筆勢に目を奪われた。思わず額縁に手をかけた。ほとばしるような絵の具の熱を感じる。クラースの胸は高鳴った。

 ――ルーベンスだ!

  手のひらに汗が浮かんで、思わず手袋をはずした。指先で額の縁をなでながら、巨匠の豪胆な筆跡を目で追いかけた。吸い込まれるような深い黒、その絵の具の一筋一筋が重なり合って、赤銅色の絵の具に溶け合い、焼けただれた戦場の土を描いている。まるでそれは錬金術だ。

 「気に入ったかね?」

  背後からそう声をかけられて、クラースは仰天した。慌てて手袋をはめなおして、背筋をこれでもかとばかりに伸ばすと、ゆっくりと振り向いた。すると、階段の手すりに寄りかかるようにして、一人の男がこちらを見ている。

  古風な黒いサテンの上下を着ていた。だが房飾りのついた白いリネンの襟は伊達者風で、つばの広い帽子には駝鳥の羽飾りがついている。銀色の剣帯に手を置いて、背筋を伸ばした様子はいかにも軍人らしかった。長い黒髪の、狼のような大男だ。その瞳は、狙いを定めた銃口のようで、視線の先は少しもぶれない。

  クラースは、咳払いをして喉の調子を整えつつ、答えた。

 「見事な絵です。最近ではルーベンスはあまりの人気で、注文してもなかなか描いてもらえないと聞きます」

  それを聞いた男は、満足げに頷く。クラースは慌てて帽子を取った。両手でもみ込むように、胸のあたりで握りしめた。意を決して、言葉を続けた。

 「クラース・デ・フリースです。九時に約束した――」

 すると、男の細い眉が、片方だけつり上がった。慌ててクラースはさらに言葉を継ぐ。

 「工房の徒弟なんです。バーグ工房の。ご注文の肖像画の下絵を届けに参りました。確認いただければ、すぐに戻って、親方に伝えます。気に入っていただけた、と――、いえ、それはもちろん、気に入っていただけたらの話ですが――」

 すると、男は口の端をあげた。笑っているらしかった。彼はゆっくりと首を振ると、「出直してくれ」と言った。クラースは、ただその男の顔を見上げる。彼は言った。

 「この屋敷の主人なら、今日はご機嫌斜めだ。殺されたくなかったら、日を改めたほうがいい」

  思わずクラースは眉根を寄せて、聞き返した。「なんですって?」と、目深に帽子をかぶったその男の顔をのぞき込むようにした。そのとき、気の触れた猫のような金切り声が、屋敷の中に響き渡った。同時に、硝子の割れる音が、一度、二度と聞こえ、また悲鳴があがった。その声は階段の先の二階から聞こえてくるらしい。クラースが驚いてその方向を見ていると、黒い服の男は、大仰に肩をすくめて言った。

 「アメルスフォールト総督はあの通りの人だよ」

  彼はため息をついた。

 「機嫌の悪いときには、誰彼かまわずあの調子。私も今日は会社の案件があったのだけれど、あの様子では無理そうだ。撃ち殺されないうちに退散するよ」

  彼は帽子をかぶりなおすと、女中を呼んだ。奥から出てきたのは立ち枯れを起こしたような痩せた老婆で、彼女は腰の青いエプロンで手を拭うと、一旦戻って、黒いビロードのマントを持ってきた。彼女はそれを男の肩にかけると、 「ごきげんよう、リンデンさん」

 と、言った。男はクラースのほうを振り向いて、

 「ごきげんよう、若い画家さん」

  と、言って外へと出て行った。クラースは呆然とその後ろ姿を見送るしかない。階段の上からは相変わらず、金切り声が聞こえてくる。


この本の内容は以上です。


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