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非暴力

非暴力

 非暴力を主張する人は、自分を傷つけた人に対して怒らないだろう。非暴力を主張する人は、自分を傷つけた人が危害を受けることさえも望まないし、その人の幸福を願うものだ。非暴力を主張する者は、自分を傷つけた人を罵倒しないし、傷つけもしない。非暴力を主張する者は、悪事を働く者の全ての害悪を堪え忍ぶだろう。このように、非暴力は完全に無害である。完全な非暴力は、全ての生物に対して、まったく悪意を持たないことだ。だから、非暴力は、人間以外の生物さえも愛し、人間に有害な虫や動物でさえも駆除したりしない。これらの生物は、人間の破壊的欲望を満たすために作られたのではない。もし、人間が神の考えを知ることができるならば、神が有害な生物たちを創造した意味を理解できるだろう。つまり、非暴力の実質上の形は、全ての生物に対する善意である。非暴力は、純粋な愛のことである。インド仏教の様々な聖典やバイブル、コーランの中に説かれている愛そのもののことである。
 非暴力は、完全な状態であり、全人類が自然に、そして、無意識的に行うべき目標である。人は、罪のない人間になることはできても、神になれはしない。まったく罪のない人間になった場合でも、その人間は、ただ真の人間になるだけのことだ。現在の状態では、私たち人間は、半人半獣の状態である。つまり、人間は、無知傲慢にも人類の目的を完全に果たしていると勘違いして、暴力に対して暴力をもって対抗することで、憎悪を増している。私たちは、復讐こそが、さも人類の規範であるかのように信じて行動するが、どの経典にも、復讐が義務であるとは書いていない。復讐は、許容されるべきものであると書いているにすぎない。むしろ、義務と明示されているのは、抑制の方である。復讐は、十分に吟味して行うわがままであり、抑制こそが、人間の規範である。なぜならば、真の人間へは、たゆみない抑制がなくては、達せられないからだ。したがって、抑制こそが、人間が人間である所以なのだ。
 非暴力であろうとする目標は、いつでも私たちから逃げて行く。目標へ進めば進むほど、私たちの無価値が浮き彫りになる。満足は、目的達成にあるのではなく、努力の過程にある。十分な努力は、十分な勝利なのだ。
 よって、私が目的達成から遠ざかっていることを認めてはいるが、私が言及する完全なる愛の規範とは、すなわち、人間の規範でもあるのだ。私は、非暴力に挑戦する度に失敗しているが、その失敗によって、私の努力は、より一層決然たるものになる。
 しかし、私は、国民会議やキラーファットを利用して、愛の法則を説こうとしてはいない。私は、自分自身の限界を知っている。私は、自分の考えが、失敗の運命を辿っていることも知っている。老若男女すべての人々に、同時に愛の規範を遵守させようとするのは、この規範の持つ作用というものを知らないからだ。しかしながら、私はあえて国民会議の演壇から、この愛の規範の結論である非暴力を説く。国民会議やキラーファットに採用されている非暴力は、愛の規範が包括しているうちのごくごく断片に過ぎないのだ。真に愛の規範を実行する者がいれば、すぐに非暴力を適用することができる。非暴力は、愛の規範と同様の性質でなければならない。湖のうちの一滴の水の分析は、湖全部の水と同様の分析結果を与えるはずである。私が、抱いている同胞に対する非暴力の性質は、宇宙すべてに対する非暴力の性質と相違があってはならない。私が自分の同胞達に与える愛を宇宙全体に捧げるとき、その性質は同様のものでなければならない。
 非暴力が限られた時間と場所のみに適用されるとき、それは策略という。だから、完璧な策略は、十分な非暴力の実行である。策略として誠実になることは、それが続く間は、信条としての誠実と変わりはない。誠実を策略としている商人は、誠実を信条としている商人と同じ尺度、同じ品質の商品を客に売るだろう。策略的な商人は、支払いを受けない時に誠実を放擲する一方で、誠実を信条としている商人は、たとえすべてを失おうとも、誠実を続ける、その点がこの二人の商人の違いである。
 反イギリス者の策略的非暴力は、多くの場合において、この種の試練に耐えられない。そこで、闘争が長引くのである。だれも強情なイギリス人の性質を非難しない方が良い。彼らの強情な力は、愛の火の中で溶解してあげなければならない。私はこのことを知っているから、自分の思想から逃げ出すことはできない。イギリス人、あるいは、他の人たちを変えることができないのは、愛の火があるにしても、それが十分強くないからなのだ。
 非暴力は、強くある必要はないが、真なものでなければならない。私たちが非暴力を主張する限りは、イギリス人や彼らに賛同する者に害を与えようと思ってはならない。ところが、多くの者が、今まで加害の意志を持ってきた。しかし、私たちが加害を実行に移さなかった理由は、単純に私たちが弱かったためなのか、それとも、単に物理的な加害を抑制することこそが、私たちの非暴力の宣誓の成就にあたるという、無自覚な信念からであった。非暴力の宣誓は、将来の復讐の可能性も排除するものである。残念ながら、私たちの中には、復讐の日を延期しているだけのように見える者もいる。
 誤解しないで欲しいのは、私が非暴力の政策を放棄する時に、復讐の可能性を排除するとは言っていないことだ。しかし、非暴力の政策は、私たちの闘争が首尾よく終結を告げた後には、将来の復讐の可能性を完全に排除する。だから、私たちが非暴力の政策を掲げている間は、イギリス人やその賛同者に積極的な親善を保つ義務があるのだ。インドのある地方では、イギリス人やその賛同者が、街中を歩くのが危険であったという話を聞いた。このとき、私はひどく恥ずかしく思った。最近のマドラスでの集会で起こった不名誉な光景は、非暴力の完全な否定であった。議長が、私のことを侮辱したと思って、議長席から彼を引きずり下ろした人々は、自分自身でその政策に泥を塗ったのだ。彼らは、友人であり援助者であるアンドリュース議長の心体を傷つけたのである。そして、同時に自分たちの主義主張をも傷つけたのである。もし、議長が、私をならず者だと信じているとすれば、彼はそう言及する権利があったのだ。暴力を行使した人たちの怒りは無知から生じた。反イギリス者は、もっと強い怒りをも耐え忍ぶことを誓っている。私が、ならず者らしく振舞うならば、その場で議長に激怒していただろう。そうすれば、あらゆる反イギリス者を非暴力の誓いから解放するのに十分であっただろう。また、反イギリス者すべての人を私が誤った人生へ導きつつあるのだと考えても、仕方がなかっただろう。
 このように、不完全な非暴力を養成することさえも、多くの場合、不可能かもしれない。人民が、自己の利益を無視して、敵に危害を加えないようにしようと思わなくなることを、期待してはいけないのかもしれない。もし、そうだとしたら、私たちは、闘争において「非暴力」という言葉を、棄て去らなければならないだろう。しかし、だからといって、すぐに暴力に頼ってはいけない。それでは、人民が非暴力の教育を受けたとは言えない。その場合には、私は、チョーリ・チョーラでの流血事件*24の責任を負う義務を感じないだろう。不完全な非暴力をとなえる流派が訳も分からず繁栄して、この種の責任を負う者はいなくなるだろう。
 しかしながら、もし非暴力が、公正と人道の名のために、国民の政策として持続するならば、私たちは文字通り、または、その愛の精神までも汲んで、非暴力を実行する義務がある。
 そして、もし、私たちが非暴力を遂行しようと思い、信じるならば、ただちにイギリス人やその賛同者と和解しなければならない。彼らが、私たちの中にいても絶対に安全と感じ、たとえ、思想や政策の上で私たちの方が前衛的な派閥に属していても、彼らが私たちを友人と見なすことができるように、責任を果たさなければならない。私たちの政治的演壇へ、栄誉ある賓客として、彼らを迎え入れなければならない。私たちは、その方法を捻出しなくてはならない。
 私たちインド人は、インド人以外の人たちを彼らの行為によって、判断するべきである。スワラジを達成するのに必要な非暴力の効果の要点とは、すなわち、非暴力により多くの問題をうまく解決することができるということである。それには、服従の精神をこんこんと説くことが必要である。暴力の福音だけしかしらないチャーチル氏も、アイルランドとインドの問題とは性質が違うと言ったが、まさにその通りである。チャーチル氏の言葉の意味するところは、暴力によって自治への道を勝ち取ってきたアイルランドは、自治を維持するにも、必要によっては暴力で自治を良くしなくてはならないという意味である。一方、インドは、もし実際に非暴力によって、自治を獲得したとしても、非暴力では自治を維持できないので、暴力的手段で自治を維持しなければならないだろうというのである。チャーチルの見解に対して、インドが非暴力主義を示すことで実証しなければ、チャーチル氏は、非暴力による自治の達成を信じないだろう。非暴力主義の達成は、非暴力が社会に浸透した状態の時に成されるものであり、人々が非暴力に共感しない状態である、現在のような武官が支配し、文官が劣勢である状態ならば、不可能である。
 非暴力的手段によるスワラジを完遂した後は、混沌や無政府状態を意味しない。非暴力による自治は、革新的な平和革命であり、一部の政治家から人民の代表者へ、権力が自然と移行する状態で、言うならば、よく発育した樹木から成熟した果実が落ちるように移行しなければならない。さらに言わせてもらうと、このようなことを達成することは、全く不可能であるかもしれない。しかし、私は、非暴力の意味は、何にも勝っていることを知っている。そして、もし現在非暴力を実践している者が、非暴力による統治を作れると信じていないならば、彼らは非暴力を捨てて、性質の異なった他の方法を支持するべきだ。もし、私たちが、武力によってイギリスから権力をもぎ取ることになるだろうと考えて、非暴力に近づいているならば、それは非暴力の宣誓に不誠実であるのだ。
 もし、私たちが非暴力を信じるなら、イギリス人が武力に従順であるように、愛情にも従順であることを信じなければならない。これを信じていない者にとっては、国民会議は数世紀にわたり屈辱を学ぶ学校となるか、もしくは、いまだかつて世界が経験したことのない未曾有な流血革命を学ぶ学校となるだろう。私は、このような類の革命には、加担しない。私は、流血革命を促進する道具には絶対になりたくない。非暴力によるイギリスへの非協同路線か、もしくは妥協的な協同路線、つまり屈辱にまみれた協同への回帰かのどちらか一つを選ぶべきならば、当然答えは決まっている。
192239日「ヤング・インディア」紙掲載)
 
*24  チョーリ・チョーラでの流血事件:インド北部にあるチョーリ・チョーラで、デモを弾圧しようとして警官が発砲したことを発端に、農民たちが警官22人の焼討ちと殺戮を行った事件のこと。