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プロローグ

 それは、蛇のような生き物だった。縦横無尽に動き回るそれは、人間によって作り出されていながら、決してその意に従って動くことはない。
 否、確かにその生き物を動かしているのは人間であった。しかし、あまりに多くの人間から影響を受けるために、一人の人間はその生き物を操るにはあまりにもちっぽけな存在であったに過ぎない。
 整然と並べられた四台のディスプレイを前に、その蛇をじっと見つめる一人の少女の姿があった。
 美乃原(みのはら)未来(みらい)。日本はもとより、世界に名だたる巨大な複合企業体「美乃原財閥」総裁の愛娘だ。
 未来は来る日も来る日も、飽きることなく画面に映し出される蛇を眺めていた。蛇の番――それが、彼女の毎日の楽しみであった。
 未来のいる部屋に、一人の少女が入ってきた。未来の一つ年上の姉、綾優(あゆ)だ。静まりかえったこの部屋におよそ物音と言うべきものが生じたのは、実に数時間ぶりのことであった。
「コーヒー淹れたわよ」
 綾優は未来のテーブルにコーヒーカップを置くと、後ろから未来の見つめているディスプレイをのぞき込んだ。
「やってるわね。儲かってる?」
 未来は画面から目をそらすことなく、
「まあまあ」
 抑揚のない、無感動な声で言った。
 ディスプレイには、青と赤の線で構成されるグラフや毎瞬変化する数値がいくつも表示されているが、それが何を意味するのか綾優には理解することができなかった。上下に変動する赤青のグラフは彼女にとって、野原にいる奇怪な蛇のようなものとしてしか映っていなかった。
「どれくらい?」
「今のところ、六十万円ほど」
「ふ~ん」
 六十万円は、綾優が一ヵ月にもらう小遣いのちょうど六十倍に相当する。それは彼女がどんなに家の手伝いをしても、母親に小遣いの値上げを要求しても決して手に入らない額だ。
 未来と綾優が学校から帰宅してまだ数時間。その間にそれだけの金額を稼ぐことのできる未来に綾優は感服していた。
「いいなあ。私の小遣いも運用してよ」
 未来はコーヒーを一口飲んでから、
「姉さんの金まで運用する自信はないわ」
「まあまあそう言わずに。私は利益の半分だけもらえればいいし、万一損失が出ても怒らないから」
 未来は首を横に振った。
「私は国外のFX業者を使っているから、日本のレバレッジ規制の適用を受けないの。証拠金なら足りてるから、どうしてもやりたいなら姉さんが自分でやりなさいよ」
 FXにおいて、実際の証拠金以上の金額を取引できる仕組みをレバレッジという。日本ではFXの射倖性を抑えるため、二〇一一年以降はレバレッジの最大が二十五倍に制限されている。
「ればれっじ? …よくわからないけど、未成年だと口座開くの大変でしょ?」
「法人の名義なら問題ないわ。父上に頼んで、財閥傘下の休眠会社を譲ってもらえばいい。その方が税金の面でも都合がいいから」
「はぅぁ」
 溜息をつく綾優。
 綾優と未来は、姉妹でありながら血縁はない。綾優は、未来の父親の再婚相手の連れ子である。二人が初めて出会ったのは、綾優の父と未来の母が結婚をした一年前のことだった。
 綾優は未来と始めて会ったときのことをよく覚えていた。整った目鼻立ちに、驚くほどか細い手足。艶やかな長い黒髪に、透き通るほど白い肌を持つその少女は、ところどころほころびたみすぼらしい服装をしていた。髪を茶色に染め、化粧をし、ヒールを履いて出かける綾優とは違い、驚くほど質素な外見だった。綾優は母親から再婚相手は世界的にも有名な企業のCEOであると聞かされていただけに、その娘として紹介された少女を見たときの驚きは今でも忘れられなかった。
 未来の実の母親は、ある国の元首だった。美乃原財閥の総裁が彼女と結婚したのは、その国での事業展開を狙っての閨閥結婚だったとされている。未来という名前はあくまで日本での名前であり、本国では別の名前があった。ユリアという名の後に、国の名前であるディズラエリをつけたユリア・ディズラエリが未来の本名だった。
 母親の国で幼少から英才教育を受けた未来は、若くして士官学校を卒業すると、海外の大学を飛び回り、帰国後は政府の要職に就いた。だが、今から二年前、母親が政変によって暗殺され、祖国を追われた未来は父親のいる日本に逃れたのだった。
 ところで、今でも未来は十億円近い個人資産があるそうなのに、服装にはほとんど金をかけていない。家では着古した洋服を着ているし、学校には指定の制服ではなく、どこからか調達してきた制服のような服で通っている。いや、彼女は服装どころか、ありとあらゆるものに金をかけていなかった。稼いだ金のすべてを貯めておくだけの生活のどこが面白いのかと、綾優はいつも疑問に思っていた。
 現在、未来と綾優の小遣いは月五千円と決められているが、これは今の未来と綾優の母親が「中学生には中学生らしい小遣いの額を」と決めたことによるものであり、結婚前の未来はそれ以上の額をもらっていた。これが、現在未来と綾優の資産に著しい差がある理由となっており、そのことが両親の結婚後はしばしば未来と綾優の間での対立の火種となった。このため、譲歩した未来が三十万円を綾優に渡し、晴れて二人は互いを姉妹と認め会うことになった。しかし、実際は未来が綾優に渡したのは自分の貯蓄の一割にも満たない額であったため、現在でも二人の貯蓄は大幅に異なっていたが、綾優は今ではもうそのことはどうにもならないと諦めていた。
 そんな昔のことを思い出した綾優は、再び大きなため息をつくと、
「未来はお金がいっぱいあっていいわね。でも、そんなに稼いでどうするのよ? 老後はルクセンブルクで悠々暮らすつもり?」
 未来はディスプレイから視線を動かすことなく、
「人間がお金を求めることに理由は要らないでしょう。人間は地球上に存在する動物の中で唯一、理性を持たない動物だから」
「理性を持たない?」
「そう。人間の欲望には際限がないの。欲望が無限の一方、資源は有限。それが人間が決して幸せになれない理由よ」
 淡々と話す未来の声には、およそ感情というものが感じられない。未来はディスプレイの前にあるキーボードを操作しながら、
「古代の快楽主義者は欲望を押し殺すことによって幸福を得ようとしたそうよ。それは正しい解決だけど、人間の本性には反しているわ」
「だから未来も金を求めるの?」
「そうかもしれない」
 未来が言い終わった瞬間、ディスプレイの隣に置かれていたスピーカーから電子音が鳴り響いた。綾優が目をやると、ディスプレイの一つに表示されていた表の一行が点滅していた。慌ててキーボードを叩く未来。点滅する行の数値の一つが徐々に小さくなっていき、やがてマイナスに変わった。そして、行全体の色が変わり、「STOP LOSS」の文字が表示された。
 未来が言った。
「まったく。姉さんが邪魔するから、下落の兆候を察知できなかったじゃないの」
「ご、ごめんなさい…」
「どうしてくれるの? 今日の利益が一五万になってしまったじゃない」
 合計で儲かってても怒るのかよ、と思った綾優。
 頬を膨らませながら、キーボードを叩く未来。しばらくすると、ディスプレイの一つが切り替わり、ニュースと思われる画面が表示された。金髪のアナウンサーが話しているのは、おそらく英語だろうと綾優は思った。ニュースに耳を傾け、通貨が暴落した理由を調べている未来に、綾優が言った。
「何て言ってるの?」
「アメリカの財務長官が日本国政府による度重なる為替介入に不快感を表明。ドルが急落したのは、多分このせいね」
 と未来。
「ふ~ん。何でもわかるのね、未来は」
 今年で高校二年生になったばかりの綾優は、まったく英語が理解できない。にもかかわらず、ニュースの内容を瞬時に把握した妹の未来を見て、同じ姉妹でありながらどうしてこうも違うのだろう。私も最初から両家の子女に生まれたかったと思った。
 だが、そんな綾優の未来への感心を裏切るかのように、未来はもう一つのディスプレイに表示された文章を差して、
「――いや。そう日本語訳に書いてあるのよ」
 冷淡な口調で言った。

1
最終更新日 : 2012-11-04 00:33:01

九条との出逢い

 私の通う紗倉学院高校には、レストロン・カッツェという高級な食堂が入っている。価格は安くはないが、おいしいと評判で、休み時間には生徒たちの憩いの場所となっている。
 昼休み、食堂に入った私は、券売機でカッツェ一番の人気メニューであるカルボナーラとコーヒーの食券を買い、カウンターで商品を受け取った。どこに座ろうかと座席を見渡してみると、奥のテーブルに未来の姿を発見した。
 いくつものテーブルの間を縫って、未来の隣に座った私。未来はというと、テーブルに置かれたスマートフォンの画面をじっと見つめており、私が来たことに気づいていない様子だった。
 画面を覗いてみると、そこには刻一刻と変化する数値と、青と赤でできたグラフが表示されていた。
 私がコーヒーを飲んでいると、その香りで気づいたのか、不意に未来がこちらに目をやった。
「姉さん」
「珍しいね。いつも昼は食べないのに」
 未来は混雑しているからという理由で、昼間の食堂に近づくことが滅多にない。その代わり、いつもは食堂の外の自動販売機で売られている一杯七十円のココアで満足しているのだった。
「今日はちょっと空(す)いていたから」
 スマートフォンの画面から目を離さない未来。そういえば、今日の食堂はいつもよりすいているようだった。
 私はカルボナーラを食べながら、
「どうなの? 儲かってる?」
 未来は何度か画面にタッチしてから、
「評価損益が十七万」
「評価損益?」
 聞き慣れない言葉だ。
「今決済すればそれだけ儲かるという値。言うなれば、想像上の利益よ」
 なるほど。
「毎日どれくらい稼いでるの?」
「日利およそ一パーセント」
 日利一パーセント? 私の郵便局の定期預金の年利が〇〇・二パーセントだから、少なくともそれよりは高いはずだ。
「それって、年利にするとどれくらい?」
「およそ278パーセント」
 うわ。国内の銀行に預けていては到底得られない利率だ。
 私が言った。
「いいなあ。私もFXやろうかな…」
 未来は何も言わず、スマートフォンを操作していた。
「聞いてる?」
 未来は画面から目をそらすことなく、
「聞いてる」
「ねえ、取引のコツを教えてよ。そうしたら私もお父さんに口座を用意してもらって、自分で稼げるでしょ? …ねえ、いいでしょ?」
 未来はしばらく黙ってスマートフォンを操作していたが、私が執拗に話しかけるのに屈したのか、やがて口を開いた。
「いいわ。重要だからよく聞いて」
 おっ、教えてくれるのか。よかった。これで近いうちに私も億万長者。いやあ、未来のような天才FX少女が妹でよかったよ。
 未来の口に耳を近づけ、耳を澄ます私。
 未来が言った。
「大切なのは、金は金のあるところにしか集まらないということ」
 はい? それってFX取引のコツじゃないよね。というか、何でそんな夢のないことを…
 唖然とする私に、未来が言った。
「要するに、金のない人は市場に参入しない方が合理的よ」
「で、でも、レバレッジとかいうのを使えば、証拠金の何倍も取引できるんでしょ?」
 だったら問題ないじゃないと思う私。
「レバレッジによって取引できる金額を増やしても、現実に持っているお金が増えるわけじゃないでしょ? 質料を有する物体が引力を持つように、金もまた引力を持っているのよ。同じ宝くじでも、貧乏人が買うのと金持ちが買うのとでは当たる確率が違う。非科学的と思うかもしれないけれど、現実はそうよ。つまり、値上がりと値下がりの二通りの結果しか持たない相場にありながら、資産の少ない姉さんは他のプレイヤーの食い物にしかならないわ」
 だったらだめじゃない。私のような貧乏人がはい上がることはできないのか…
 未来が続けた。
「もっとも、この世には明らかに参入するのが合理的でない賭博が存在するわ。宝くじでは五割、パチンコでは二割を胴元が取る。食い物になることがお望みというなら止めないわ」
「わかったわよ…」
 肩を落とす私。
 未来は何事もなかったかのように、淡々とスマートフォンの画面をタッチし続けている。
 突然、見知らぬ声が聞こえたのはその時だった。振り返ってみると、隣の席に一人の男子生徒が座っていた。学院の制服を着ているところからして、学院の生徒であることは間違いなさそうだが、初めて見た顔だ。
「面白い話をしているね」
 ニコニコと屈託のない笑みを浮かべる男子生徒。いつから聞いていたんだろう?
 未来は彼を一瞥しただけで、すぐにスマートフォンに目を落とした。興味がないらしい。
「いえ、まあ…」
 苦笑いする私。
「FXに興味があるの? 僕はFXの部活に入ってるんだけど、よかったら見学に来ないかな?」
 えっ、FXの部活? そんなのうちの学校にあっただろうか?
 不思議がる私に、男子生徒が言った。
「表向きはコンピューター研究部ってことになってるけど、実際にはFXと株をしているんだ。通称『投資部』。FXと株の取引について学べるとともに、収益を上げることができる理想の部活だよ。初心者でも大歓迎。特に君のような美少女はね」
 び、美少女? そんな言葉、面と向かって言われたことはない。顔を赤らめる私。
 とはいえ、ちょうどFXを始めようと思っていたときに声をかけてくれるなんてありがたい。未来は私がFXをやるのに賛成でないみたいだし、この人に教えてもらうのも悪くないか。とりあえず見学だけでもしてみよう。
「では、ぜひ見学させてください」
「じゃあ今日の放課後、部室棟三階のコンピューター部で待ってるね。僕は部長の九条(くじよう)大勝(まさかつ)。よろしくね」
「美乃原綾優です。よろしくお願いします」
 続いて、九条は未来に声をかけた。
「そこのお嬢さん」
 未来は何も言わずに、九条の方を見た。
「よかったら君も見学に来ないかな? 見たところ、すでにFXをしているみたいだけど、うちの部ならもっと活躍できるかもしれないよ。証拠金なら大量に用意してあるから」
 私は未来がこの提案を断ると思った。なぜなら、未来は常に独りで行動するタイプだ。他人の言うことを聞くような人間ではない。
 だが、未来は無言でうなずいた。そして、スマートフォンに視線を落とした。
 あらら。これは意外。
 未来にしては珍しいこともあるものだ。まさかこの九条とやらと協力してさらに稼ぐつもりなのか。かわいい顔して、未来の欲深さは計り知れないな。
2
最終更新日 : 2012-11-04 00:36:34

「投資部」入部

 六限目の授業が終わり、放課後になった。私は「食堂で一緒に夕ご飯を食べよう」などという女子たちの誘いを断り、真っ先にコンピューター研究部に向かっていた。
 中庭を抜け、キャンパスの端にある部室棟の三階に行くと、コンピューター研究部というプレートのついた部室の前には、独り未来がたたずんでいた。床に置かれた鞄の脇に立ち、部員がやって来るのを待っているようだった。
「あれ、まだ誰も来てないの?」
 コンピューター研究部をはじめとする多くの部室が軒を連ねるここ部室棟は、授業の行われる建物からはかなり遠かった。授業が終わってからすぐにここに向かった私はともかく、他の生徒たちがまだ到着していないのは不思議ではなかった。
 未来は首を振ると、
「人はいるわ。私は姉さんを待っていただけ」
「何だ。中で待っててもよかったのに」
「誘われたのは主に姉さんだから」
 そうかい。
 投資部のドアをノックする私。中から「どうぞ」のこをが聞こえたのを確認し、ドアを開けた。
 次の瞬間、ひんやりとした冷房の空気が頬に触れた。そこは十畳ほどの部屋だった。中央にはロの字型に並べられたデスクがあり、その上にはいくつものディスプレイが所狭しと並べられていた。
 デスクには九条と一人の女子生徒が座っていたが、入ってきた私たちの方を見たのは、九条だけだった。
「いらっしゃい。待ってたよ」
 九条はもう一人の部員に、「ちょっと僕のポジションを見ててくれ」と言って、立ち上がった。六限を終えてすぐここに向かった私や未来より先に来ていたということは、ひとつ前の時間は休講だったのだろうか。
 私が言った。
「お早いお着きですね。六限目は休講だったんですか?」
「いや、取引中は相場から目が離せないからね。授業中でも交代で誰かがここに残ることになっているんだ」
 授業を休んでまでやっているとは驚きだ。そこまで徹底しているとは。
 九条は、壁に立てかけられていた折りたたみ式の椅子を二つ、自分のデスクの前に並べた。
「まあ座ってよ。今、お茶を淹れるから」
 勧められた椅子に座る私と未来。九条のデスクにある三つのディスプレイには、いくつものグラフが表示されていた。いち、にい、さん…。全部で六つだった。為替の取引をするには、これだけのグラフを同時に読み取る能力が必要とされるのか。私にできるかな?
 不安になる私。未来はというと、無表情な顔で同じくディスプレイの表示を眺めていた。
 紅茶の注がれたカップの乗った盆を持ってやってきた九条は、私と未来の前にカップを置くと、私の隣に座った。
「よく来てくれたね。まずは部活の説明をしよう。ここコンピューター研究部、通称『投資部』の部員は部長の僕を含め三名。ここでは部員が持ち寄ったお金や、生徒から集めたお金をFXや株で運用しているんだ」
 生徒からも出資を募っているのか。
「活動時間は原則、朝の八時からその日の完全下校時刻まで。朝と放課後に部員全員がここに集まることになっていて、授業中は交代で一部が残る。部員は毎月、部長である僕の采配により、運用益の一部を受け取れることになっているんだ」
 お金が受け取れるのか。これは面白い。
「基本的な説明はこれくらいだね。何か質問はあるかい?」
 私は勢いよく手を上げた。
「はいっ。毎月どれくらい稼げるんですか?」
 九条は笑みを浮かべると、
「いい質問だね。どれくらい稼げるかは、努力と運次第だ。だが、そうだね――」
 九条は向かいでディスプレイを見つめている女子生徒を指さした。
「彼女はこの部活の稼ぎ頭、歌舞谷(かぶや)紊富(ぶんふ)。株式投資が専門の彼女の先月の配当は三十五万円だ」
「ええっ、すごい!」
 目を輝かせる私。私もそんなにお金が稼げたらいいな。そうすれば、いつも莫大な金を稼いでいる未来を見返してやることができるのだから。
 心を躍らせる私とは対照的に、九条は落ち着いた口調で、
「うちでは特別なことじゃないさ。万単位の配当をもらってる部員は少なくない。他にもすさまじい利益を上げているやつは――」
 そう言いかけたとき、ドアが開き、一人の女子生徒が入ってきた。金色に染めた髪に、露出狂もびっくりの超ミニスカート。日焼けした小麦色の肌と、濃い化粧の彼女は、
「すみませんっ。遅れました~」
 私たちに目をくれることなく、部室の隅にある学校机に荷物を放り投げると、すぐに机に着席した。
 九条が言った。
「噂をすれば影か。彼女は高金利通貨の女王、篠崎(しのざき)奈々(なな)だ。彼女は長期投資により、スワップポイントの高い通貨で利益を上げることを得意としている。彼女の先月の配当は二十七万円だ」
 二十七万円だって? 月一万円の小遣いの私から見れば目がくらみそうな金額だ。
 ところで、スワップポイントって何だろう? 家電量販店とかでよくある、商品を買うともらえるポイントかな?
「あの、スワップポイントって何ですか?」
「ああ、ごめんね。スワップポイントとは、金利の高い通貨を保有することによって得られる利息のこと。我が国では実質的にゼロ金利政策がとられているから、基本的に外国の通貨を購入するとスワップポイントがもらえるね」
 ふむ。何だかよくわかならいけど、とにかく金になるものらしい。
「どうだい? 投資部の魅力はわかってもらえたかな?」
「は、はい」
「よかったら君たちも投資部に入らないかな? もちろん、取引の方法は僕が一から教えてあげるよ」
 ぜひお願いしますと言おうとした私。だがそれよりも早く、未来が口を開いていた。
「いくつか訊きたいのですが…」
 おっ。未来が興味を持ったようだ。
「どうぞ」
「口座の名義はどうなっているのですか?」
「学院の許可を受けて設立した投資部の株式会社さ。登記上の住所はここ。学生がおおっぴらに為替の取引をやるわけにもいかないから、表向きは学内フリーペーパーの広告収入で利益を上げているってことになってるよ」
 ちなみに、うちの学校は学生の起業を促進することを売りにしていて、学内の一室を会社の所在地として登記することを認めている。
「証拠金の額は?」
「二千万円くらいかな。うち一千万は僕の出資で、あとは部員と他の生徒から募ったもの」
 矢継ぎ早に質問していく未来。十個ほど質問をした未来は納得したのか、それきり口を閉ざした。
 私が言った。
「私、投資部に入りたいです。ぜひ入れて下さい!」
 九条は頷くと、未来に向かって、
「君はどうする?」
「入ります」
「じゃあ手続をするから、ちょっと待ってて」
 九条は机の引き出しから、部員の氏名、学年、学籍番号が書かれた一枚の紙を取り出した。そして、懐から取り出したペンとともに私に渡した。ボールペンだと思ってペンの上の部分を押してみると、出てきたのは万年筆の先だった。
 ノック式の万年筆なんて洒落たものを持っているじゃないか。私もこれくらい買えるようになりたいな。
 必要事項を記入した私は、用紙を未来に渡した。そして、未来が記入を終え、用紙を九条に返した。
 内容を確認した九条が言った。
「よし。これで今日から君たちは投資部の部員だ」
 紙をしまった九条は、私と未来に向き直った。
「お昼のお二人の会話から察するに、綾優さんはまだFXの取引をしたことがなくて、未来さんはすでにしているんだよね?」
「そうです」
「じゃあ、未来さんには申し訳ないけど、最初に綾優さんにFXの基礎知識を説明するね」
「お願いします」と言う私。未来は無言で頷いた。
「今、デモ口座を作るからちょっと待ってて」
「デモ口座?」
 ゲームのデモみたいに、勝手に動く口座のことかな?
 九条が言った。
「取引の練習に使うヴァーチャルな口座のことだよ。FXの会社なら、大抵はどこでも無料で作らせてくれるんだ」
 まずは練習なのね。だけど、ある程度お金を賭けないと熱くならないような気がする。架空の取引なら、損失が出ても気にならないし、利益が出ても嬉しくないし…
「あの、いきなり本物の取引じゃだめですか? なんか、架空のお金だと真剣になれないような気がするのですが…」
 言うなれば、子ども銀行発行の紙幣でお店屋さんごっこをするような感じだ。
 その言葉を聞いた九条は少し笑って、
「君がその気なら構わないよ。だけど、FXの取引では一瞬のうちに計り知れない損失が生じることもある。この人間世界において、金は命と同じかそれ以上に重要なものだろう? そんなに重要なものを練習もなしに賭けてしまっていいのかい?」
 うう…。確かにそれは一理ある。困って未来の顔を見る私。
「練習しなさい」
 と未来。
 そうか。やっぱりそうだよね。というか、なぜ命令口調? 私は姉だからね、一応。
 私が言った。
「じゃあ、デモで練習します」
「わかった」
 ディスプレイに向かい、マウスを動かす九条。二分ほどして、九条はディスプレイを私の側に向けた。
「できたよ。これが取引画面だ」
 画面には、めくるめく変化する数値の並んだ表と、グラフのようなものが表示されていた。
「項目が多いから初めのうちは戸惑うかもしれないけれど、そのうち慣れてくるよ」
 画面上の複数のウィンドウに目がくらんでいる私。これでもわかりやすい方なのか?
 九条は画面の端にある、目盛りのような部分を指さして言った。
「ここが証拠金の残額を示すメーターだ。今はまだ入金していないから、ゼロを指しているね。これから入金してみるよ」
 九条はマウスを動かし、メニューのボタンをクリックした。すると、入金金額を指定する画面が出てきた。九条は百万JPYと入力し、確定ボタンを押した。
「本来、入出金にはクレジットカードや銀行口座を使うんだけど、今回はデモ口座だからこれで完了だ」
 メーターの指し示す金額が増加しており、その下には百万JPYと表示されていた。
 ところで、JPYって何だろう? 
「あの、JPYって何ですか?」
「日本円のことだよ。通貨を示す略号は他にもあるから、この機会に覚えておくといい」
 九条は表のアルファベットを順に指さして、
「USDはアメリカドル。EURはユーロ。GBPはイギリスポンド。AUDはオーストラリアドル。他にも色々あるんだけど、今のところ覚えておいてほしいのはこれくらいかな」
 むむっ。一度にこんなにたくさん覚えられないよ。険しい顔で画面を見つめる私に、九条が言った。
「じゃあ、とりあえずUSDは覚えておいて。うちでFXをやる部員はみな自分が得意な通貨ペアを持っているんだけど、僕はUSD/JPYなんだ。僕は基本、これしか取引しないんだ」
 えっ、いくつも通貨ペアがあるのに一つしか扱わないの? 不思議がる私に未来が言った。
「分散投資は必ずしもリスクの分散にならないから」
「そういうこと」
 と九条。
 どういうこと? あくまで一般には、分散投資ってリスクを減らす手段とされているような気がするんだけど…?
 九条が言った。
「リスクを下げるとは、すなわち期待利益を上げるということだ。なら計算上、複数の投資先に金をつぎ込むよりも、最も期待利益の高い特定の投資先に全額をつぎ込んだ方が、投資額全体に対する期待収益は上がるじゃないか。それに現実的にも、いたずらに複数の投資先に投資しようとすると、その分手数料や調査の手間がかかったり、何かとコストがかかってしまうからね」
 ふ~ん。そうなんだ。
 未来が言った。
「だけどこの考えには、完全に合理的ではない人間がそこまで確実に期待利益を求められるかという反論が成り立ちうるわ」
「そうだね。だからこそ、この部活ではそれぞれの部員に担当の通貨が割り当てられ、基本的に各人はその通貨の取引に専念することになっているんだ。僕がUSD/JPY、篠崎が高金利通貨全般というようにね。まあ、君の担当通貨は今後決めるとして、とりあえずUSD/JPYを例に説明を続けるよ」
「はい」
「FXの取引は現実の物の売買と同じく、安く買って高く売ることと、高く売って安く買うことによって利益を上げる」
「えっ、どういうことですか? 今持ってないものを売る…? そんなことできるんですか?」
「もちろん。現実においても、後でその所有権を取得する予定で、他人の所有物を第三者に売却する契約をすることは可能だよね? それと同じことさ。…とはいえ、売りには売りの代償がある。それがスワップポイントだ。スワップポイントは金利の高い通貨を買ったときにはもらえるけど、逆に売ったときには支払わなければならないんだ。USD/JPYの場合はここのところ一万通貨につき数円程度だからあまり気を遣う必要はないけど、豪ドルや南アフリカランドの場合はもっと高いから、売る場合は気をつけないとね」
 九条は私にマウスを渡した。
「じゃあ、実際に取引をしてみよう。注文するには、気配値ウィンドウで注文したい通貨の名前をクリックし、出てきたウィンドウで数量を入れ、買いか売りかを押す。やってみて」
 私は表のUSD/JPYと書かれたところをクリックした。すると、数量を入れる欄と「売り」と「買い」のボタンのあるポップアップウィンドウが出てきた。
「FXの取引は基本的に一万通貨単位で行うから、一万ドルを取引したいときは『1』と入力すればいいんだ」
 私は数量に「100」と入力し、買いボタンを押した。どうせ架空の口座だし、思い切って多めに注文してみよう。
 私が確定ボタンを押すと、苦笑いの九条が言った。
「思い切ったことをしたね」
「ええ、まあ…」
 微笑み返す私。
「見てごらん。ポジションが取れたよ。FXでは保有する通貨のことをポジションと言うんだ」
 九条は今取引を行った隣のディスプレイを指さした。「ポジション情報」と書かれたウィンドウには、今購入した通貨のものと思われる情報が表示されていた。項目は通貨名、数量、売りか買いか、約定価格、評価損益となっている。
 よく見てみると、おかしなことに気がついた。買ったばかりなのに、評価損益の値が赤字でマイナス四千円となっていた。
「あれ? これはもしかして、もう損失が出てるってことですか?」
 一回目の取引から失敗か。幸先悪すぎるよ、私…
 九条が言った。
「いや、これはスプレッドなんだ」
 すぷれっど? また訳のわからない言葉が…
「スプレッドとは、FXにおける手数料のこと。この業者の場合、USD/JPYだと、一万通貨あたり通常四十円かかるんだ。時間によっては高くなる場合があるから、注文の時は気配値ウィンドウのASKとBIDの値を確認しようね。この二つの差であるスプレッドに、取引数量を掛けた値が手数料なんだ」
 ASKとBIDの値を見る私。それぞれの値は数秒ごとに変化しており、差を確認するのは容易ではない。
「み、見にくい…」
 強いてい言うならば、縦横無尽に動き回る無数の動物の数を数えようとする感じか。
「はは。はじめから差額を表示してくれればもっと便利なんだけど、あいにく今のところは目視で確認するほかないんだ。困ったものだよね」
 私は未来に言った。
「あんたも取引の時はいつもこうやって差を見てるわけ?」
 そうだとすれば大変だ。一日に何度も行う取引の度に、こうやって差額を確認し手数料を求めるなんて。
「まあこれは慣れだから。それに、実際にはスリッページといって、手数料が表示されている値とかけ離れることもあるから、確認しても当てにならない場合が少なくないわ」
 紅茶に口をつける未来。
 ふ~ん。そういうものか。
 画面を眺めていると、評価損益の値がみるみる上昇してきた。最初はマイナス四千円だった値が、ゼロになり、やがてはプラス五千円になった。
 おおっ、これはすごい。ものの数秒で五千円を稼いでしまうなんて、才能あるじゃないか、私。五千円といえば、学院の食堂で売られているケーキのすべてを食べられる額だ。
 九条が言った。
「決済の時は、同じように発注したウィンドウで反対に売りのボタンを押せばいいんだ」
 表示された評価損益の値は一万円に達しようとしていた。とりあえず、一万円になったところで決済しようと、マウスのポインタをウィンドウの売りボタンに持って行こうとした私。そのとき、突然評価損益が赤字に染まった。マイナス一千二百円。――それが新たな値だった。
 えっ? 頭の中が真っ白になる。順調に上昇してきていたのに、いきなりこんな損失が出るとは、どうなっているんだろう?
 九条が笑みを浮かべ、
「短期のトレードはある意味、反射神経が要求されるフットワークの勝負なんだ。ある程度利益が出たところですぐに反対売買をして決済しないと、いずれ損失に変わってしまう」
 今や評価損益の値はマイナス二万円に達しようとしていた。ここで決済したらこの損失を認めることになる。いくらデモ口座とはいえ、そんなことはしたくない。ここはプラスに転じるのを待った方がいいのだろうか?
「ど、どうすればいいですか? このままもう少し待てば、回復しますか?」
「さあどうかな。あいにく為替の世界に正解はなくてね。何が正解だったかは、終わってみないとわからないんだ」
 むむっ。困った。
 九条は未来を見て、
「君はどう思う?」
「あくまで経験論ですが、一度損失を出す方向に取ったポジションは、その後も損失を拡大させる傾向があると思います」
 九条は笑って、
「はは。面白いことを言うね。確かに実際はそうなることが多いんだよね。皮肉なことに」
 ということは、すぐに決済した方がいいのだろうか。ディスプレイの評価損益とにらめっこしながら、考える私。すると、評価損益はさらに下がっていき、やがてマイナス十万円を下回ってしまった。
 やばい。と、ボタンをクリックして決済した私。利益はマイナス十万三千円で確定していた。
 うわっ。やってしまった。十万円なんて私の小遣いのほぼ二年分じゃない。やっぱり私って才能ないのかな。未来は最初からやめておけって言っていたし、どうしよう…。
 すると、私の肩を九条がぽんと叩いた。
「まあ、最初はこんなものさ。気にすることはないよ。僕を始め、この部のトレーダーたちも最初はみんな失敗ばかりだったんだ」
 なんだ、そうなのか。実際に十万円を超える損失が生じたわけじゃないし、まあいいか。
 そう思ったものもつかの間、向かいの机でキーボードを叩いていた女子生徒が突如、声を上げた。
「ちょっとお。私を一緒にしないでくださいよぅ」
 見ると、後から部室にやってきた高金利通貨の女王とかいう生徒が不満そうな顔でこちらを見ていた。
 九条が言った。
「そうだったね。君はこの部活に来たときから利益を上げていた異色のトレーダーだった」
「そうですよお。私の開発したコスト平均法を使えば、理論上負けなしなんですから」
 負けなしだって? そのコスト平均法とかいうのを教えてほしいな。
 私が訊こうとした瞬間、九条が言った。
「取引方法には他にも色々あるんだけど、今日はとりあえずここまでにしておこう。新入部員の歓迎をしなければならないからね。君たちはこの後、時間があるかな?」
 腕時計に目をやった私。時刻は五時ちょうどだった。
「ええ、十時くらいまでなら大丈夫ですけど…」
 未来を見ると、未来は無言で頷いてくれた。
 九条が篠崎に向かって、
「新入部員の歓迎会、十時までつきあえるか?」
「いいですよ。先輩のおごりなら」
 と篠崎。
 九条はため息をついて、
「あのな、篠崎。後輩のお前はむしろ新入部員におごる側じゃないのか? 普通は」
「まあいいじゃないですか。この部活で一番の金持ちは九条先輩じゃないですか」ディスプレイから目を離さずに言う篠崎。「九条銀行頭取のご子息なんですから、たかだか数万円くらいいいじゃないですかぁ」
 その言葉に、私は思わず耳を疑った。九条銀行といえば、日本を代表するメガバンクのひとつで、傘下に複数の企業を抱える一大企業群だ。その頭取の息子が、今私の目の前にいる九条だというのか?
 まじまじと九条を見つめる私に、九条が言った。
「ん、どうしたの?」
「九条さんって、あの九条銀行の…?」
 九条は少し照れくさそうな顔をして、
「はは。篠崎のおしゃべりには困るね。その通りさ」
 へえ、これはすごい。上流階級のご子息とお近づきになれるとは、さすが未来の父の勧めで名門と言われる高校に入学した価値があったというものだ。
「紊富も行けるか?」
 ディスプレイの向こう側に向かって九条が言った。
「ええ。九条さんのおごりなら」
 と声。
「おいおい。よしてくれよ。君は十分に稼いでるだろう」
「冗談ですよ」
 九条たちは部室のパソコンをすべてシャットダウンさせ、部屋の電気を消した。全員で部室を出ると、九条は部室の鍵を篠崎に差し出した。
「はい、これ」
 部室の鍵を管理している警備室まで返却に行ってほしいという意味だろう。
 篠崎は見るからに嫌そうな顔で、
「はぅわ。私ですか」
「しょうがないだろ。僕は新入部員を案内しないと行けないから。駐車場で待ってるよ」
 鍵を受け取った篠崎は肩を落として、廊下を歩いて行った。篠崎とは反対側の方向に歩き出す私たち。
「駐車場ってことは、車で行くんですか?」
 てっきり学校の食堂に向かうのだと思っていた私。
 九条は歩きながら、
「食堂は貧乏人のたまり場になっているからね。もう少し静かなところに案内するよ」
 うわっ。私が高級だと思っていたうちの学食を貧乏人のたまり場と表現するとは、恐るべし九条銀頭取の息子。
 廊下の窓からは、校庭を走る野球部員と思われる複数の人影が見えていた。校舎の端まで来た私たちは、駐車場に最も近い階段から地上に降りた。
3
最終更新日 : 2012-11-04 00:37:04

メイドさんと一緒

 駐車場の中を進んでいく私たち。電車通学の私が駐車場に足を踏み入れたのは初めてのことだった。この地域では最も学費が高く、名門の高校と言われるだけあってか、駐車場に並ぶ車はほとんどが高級車だった。何台もの車を通り抜けてたどり着いた先には、普通の車の三倍くらいの長さのある黒塗りの乗用車が止まっていた。
 うわ。これがリムジンとかいうやつか。初めて見た。
 九条が車に近づくと、後ろのドアが開き、メイド服に身を包んだ少女が降りてきた。整った目鼻立ちと、透き通るように白い肌。細身でありながら、長い手足のその少女は九条に一礼し、
「お疲れ様でした」
 と言った。
 その華麗なる容姿と、厳かな立ち居振る舞いに目を奪われていた私は、九条の言葉で我に返った。
「さあ、どうぞ」
 開けられたドアを指さす九条。
 そこは、車の中と言うよりも、むしろ高級ホテルの一室に近い雰囲気だった。床には赤絨毯が敷かれ、天井にはシャンデリアを模した照明がつり下げられていた。電車のように向かい合うように並べられた左右の座席は、ベッドのようにふかふかだった。
 座席に座ったまま、豪華絢爛な内装に見とれていた私。私の隣に未来が座り、その隣に紊富が座った。
 全員が乗り込むと、座席の端に座った九条がメイドらしき人に言った。
「いつものところに客人を連れて行く。もう一人来るから、それまで待って」
「かしこまりました」
 私はメイドに視線をやりながら、九条に耳打ちした。
「あの方は誰なんですか?」
「ああ、うちの女中だよ。もともとは屋敷の炊事洗濯係だったんだけど、僕が気に入ってしまってね。自分つきの女中にしたんだ。この車で移動するときはいつも連れて行くよ。ああみえて空手の有段者だから、ボディーガードにもなるだろうし」
 女中とやらを見つめる私。車窓から差し入る夕日が、彼女の白い肌を赤く染めていた。その華奢な体つきからは、とても武芸に通じているとは思いもよらなかった。
 やがて車のドアがノックされ、篠崎が入ってきた。九条の横に座るなり、
「まったく。九条さんは人遣いが荒いですよぅ。駐車場と警備室ってキャンパスの端と端じゃないですか」
 息を切らしながら言う篠崎。
 どういうわけか、うちの高校はキャンパスがやたらと長い。この点については、敷地がもともとベルトコンベアーによる家電製品の組み立て工場だったという説や、創立者が土地の買収に失敗したという説が提起されているが、真相は定かでない。
「まあまあ。何か飲むか?」
 と九条。
 ん? 何か飲むかと言うことは、飲み物があるのだろうか。
「じゃあ、ビールを」
 と篠崎。
「おいおい。せめてオレンジジュースにしてくれ」
 篠崎は頬を膨らませてから、
「じゃあそれで」
 すると、女中が車内の端にあった箱を開けた。すると、それは冷蔵庫だったらしく、中には液体の入ったボトルがいくつか並んでいた。彼女はグラスにオレンジ色の液体を注ぐと、篠崎に渡した。そして、私は紅茶、未来と紊富はコーヒーを受け取った。
 九条が女中に言った。
「それでは発車してくれ」
「かしこまりました」
 女中は壁に備え付けられていたマイクに何か言うと、しばらくしてゆっくりと外の景色が動き始めた。この部屋とは仕切られた前方の空間に、運転手がいるようだ。駐車場を出た車は、やがて大通りに出た。
 私はさっき篠崎が言っていた、負けなしという「コスト平均法」とは何か、篠崎に訊いてみた。
「ああ。あれね」
 オレンジジュースのグラスを傾けながら、篠崎が話し始めた。
「私のコスト平均法は、株におけるドルコスト平均法の応用よ。株のドルコスト平均法は、特定の会社の株式を毎月一定金額ずつ買い続ける方法のこと。一定数量ではなく、一定金額ずつ買うから、株価が高いときも安いときも金額的に同じ量を購入することになる。だから、長期的に見ると、株の取得に費やした費用が均(なら)され、インフレや経済成長の恩恵を受けることができるというわけ」 
 ふむ。何を言っているかさっぱりわからない。
 未来の方を見ると、未来が私に言った。
「ドルコスト平均法は、株価の長期的な上昇を前提としているのよ。長期的に株価が上昇することがわかっていれば、ある時点で予算のすべてを費やしてその株を買っておけばいいと思うかもしれないけど、それでは短期的な高値を掴んでしまう可能性があるわ。だけど、一度にすべての株式を購入せず、毎月一定金額ずつ購入すれば、金融危機のような株価が安いときも、好景気の株価が高いときも株を買うことになるから、高値だけを掴んでしまう可能性が下がる。こうして長期的なコストを平均化しながら買っていけば、後はその企業の成長や貨幣のインフレによって、やがて取得した株が値上がりしてくるというわけ」
 なるほど。じゃあその手法を使って株を買っていけば必ず儲かるのね。
 未来が続けた。
「だけど、日本ではバブル崩壊以来デフレが続いている上、経済成長にも陰りが見えていることから、日本の株に対するドルコスト平均法の適用は意味をなさないと考えられるわ」
 篠崎が言った。
「そういうこと。そこで私の考えたのが、高金利通貨でのコスト平均法。高金利通貨は長期的に下落することが知られているから、ドルコスト平均法と同じ要領で継続的に高金利通貨を売っていけば、利益が出るってわけ」
 ほう。面白そうじゃないか。私もその方法を使ってみよう。
 すると、黙って話を聞いていた紊富がふと口を開いた。
「どうして高金利通貨が長期的に下落すると言えるのですか? 株派の私にはには理解できません。株では通常、配当が高い方が株価が高くなる傾向があるように思いますが…」
 篠崎は頭をかきながら、
「えーと、それは……ある経済学者の本に書いてあったのよね。結論を覚えているだけで、そうなる詳しい理由は知らないわ」
「そうですか」
 と紊富。
 私は未来を見て言った。
「未来は分かる?」
 未来は無言で頷いてから、
「貨幣の価値が減少することを『減価』と言うけれど、金利とは本来、運用益ではなく貨幣供給量の増加による貨幣の減価の補償として与えられるもの。つまり、インフレ補償よ。だから、スワップ金利が高いということは、貨幣の価値が時々刻々と失われているということになるけれど、貨幣の減価率よりも利率を低くするのが通常だから、スワップ金利を考慮しても高金利通貨は長期的に減価すると考えられるわ」
 篠崎が言った。
「ああ~。確かにそんなこと書いてあったわね。あんたもユリア・ディズラエリ著の『貨幣論』を読んだの?」
 その名前に聞き覚えのあった私。
 未来は首を横に振った。
「読んだというか、私が書きました」
 目を丸くする篠崎。そういえば、未来はアメリカ留学時代にいくつか論文を発表し、その一部は今でも世界中の研究機関で経済学の教科書として利用されているという話を聞いたことがある。
 篠崎が言った。
「えっ、じゃああんた、あの経済学者のユリア・ディズラエリなわけ?」
 無言でうなずく未来。
 篠崎はまじまじと未来を見つめながら、
「へぇ~、そうなんだ。お目にかかれて光栄ね。確かに先生は日本人とのハーフで、まだ若いって聞いてたけど、まさか同じ学校とは驚いたわ。でも、どうして未来って名前を名乗ってるの? それに、先生は確かディズラエリ王国の貴族か何かじゃなかった? どうして日本にいるの?」
 立て続けに質問をする篠崎。あこがれのユリア先生に出会えて興奮しているようだ。
「未来は日本での名前。今は政変のせいで国に帰れないから、日本にいます」
「政変って、二年くらい前に起こったクーデターのこと?」
「そう」
「あれってどういう事件だったの? ディズラエリと関わりの薄い日本じゃあまり報じられていないのよね」
「簡単に言えば、私の兄が私の母親と妹を殺し、政権を奪取した事件です」
「えっ!? どうしてそんなことを?」
「ディズラエリは日本と違い、今も昔も世襲制をとっています。ディズラエリ女王の子供であった私と兄は幼少のころは仲がよく、将来はともに国を治めようと誓い合うほどでした。もっとも、当時の私に権力に対する興味はなく、どちらかと言えば貴族として政治を行うよりも、花屋になりたいと思っていました。しかし、敬愛する兄が政治に対する情熱を燃やしていたので、将来国王となった兄を側近として支えたいと考えた私は、士官学校卒業後、各国の大学で勉強をしていました」
「兄貴思いのいい妹じゃない」
「しかし、私が帰国すると、母親は私を兄より優秀であるという理由で政府の要職に任命しました。その職は次期国王となる人物が就任するポストであり、私は実質的に次の国王に任命されたも同然でした。私と兄は反対し、代わりに兄を任命するよう進言しました。しかし、女王の命令には逆らえませんでした。そこで、私は次期女王に就任したら、すぐ王の位を譲ると秘密裏に兄と約束し、その地位に就きました。しかし、それからすぐに悲劇は起こりました。兄は私が信用できなかったのでしょうか。当時女王が行っていた政策に反対していた貴族たちを煽動し、私が外遊している間にクーデターを起こしました。騒ぎを聞きつけて国に戻った私が見たのは、頭から血を流し倒れていた母親の姿でした」
「うわっ。ひどい…」
「私は兄のところに行き、問い詰めました。すると、怒り狂っていた兄は私に銃を向け、引き金を引こうとしました。しかし、そばにいた妹が私を突き飛ばし、身代わりになってくれました。今私がこうして生きているのは、愛する妹が身を挺して守ってくれたからなんです」
 未来は涙があふれそうだった。
 篠崎が言った。
「そ、そうなんだ。なんか悪いこと聞いちゃったかな。――と、ところで、私はあなたの『貨幣論』だけじゃなく、『福祉国家は税収が少ない』や『這い寄る! 共産主義』とかも持ってるわ。中でも『マネーの憂鬱』は最高だったわね」
「感想を聞かせてほしいです」
 未来の著書の話で盛り上がる二人。話しについて行けない私は車窓から風景を眺めていると、紊富が話しかけてきた。
「妹さん、有名なようですね」
 見れば、紊富の肌は雪のように白く、目鼻立ちはきわめて端正だった。その優雅な容姿と立ち居振る舞いは、彼女が上流階級の出自であることを感じさせた。
「えへへ。まあ、私と血のつながりはないんですけどね…。紊富さんも知ってました?」
「はい。名前くらいは」
 そこまで有名人だったとは。
「ところで、紊富さんは株専門って言ってましたけど、為替はしないんですか?」
「ええ、為替と株の難易度は全然違いますから。私には為替はとても難しく思えます」
「どうしてですか?」
 どちらも安く買って高く売れば利益が出るという、同じルールのように思えるけど。
「綾優さんはゼロサムゲームという言葉を知っていますか?」
 ぜろさむげーむ? 何それ。
「ゼロサムゲームとは、市場参加者の利益と損失の合計がゼロになるゲームのことです。いわば、参加者同士での利益の奪い合い。全参加者の利益と損失の和が常にゼロになるため、競馬やパチンコのように何の生産性もありません」
 なるほど。純粋な賭博ってことね。
 紊富が続けた。
「ですが、株は違います。未来さんのおっしゃっていたように、長期的に貨幣供給量が増加したり、経済成長が生じると考えるなら、株はゼロサムゲームにはなりません。優良企業の株を買って放置しておけば、自然と利益が出る場合も少なくありません」
 へえ。じゃあ株の方が楽じゃない。
「それなら、どうして為替をやっている人がいるんですか? 株の方が簡単なら、株だけでいいと思いますが…」
「私もそう思います。特に近年の為替相場の動きは奇妙ですし、何者かによって意図的に操作されているような印象さえ受けます。ですが、為替をする人たちの主張も色々あると思います。まず、日経平均や輸出企業の株価が円ドル相場に左右されがちなこと。それならば、最初から為替相場に賭けた方が早いと考える人がいても不思議ではないでしょう。また、株は為替と違って売りに制約があります。さらに、ストップ安・ストップ高があるなど為替よりも少しルールが複雑なところも、初心者の参入を阻む原因になっているのだと思います」
 そういうことか。為替も面白そうだけど、株も悪くなさそうだな。
「株と為替、どっちがいいと思いますか?」
 紊富は少し考えてから、
「そうですね。どちらがより良いということはないと思います。どちらにも勝っている人と負けている人がいますから。ただ、私に言わせれば株は初心者向きではないかもしれません。単元株といって、まとまった一定の数量でしか購入できないですから。その点、ルールが単純で、レバレッジにより少額で売買できる為替はとっつきやすいかもしれないですね」
 なるほど。じゃあやっぱり為替の方がいいのか。
「ただ綾優さん、株や為替をやるにしても、インサイダー取引をしている人には気をつけてくださいね」
 イン・サイダー? 中にサイダーを入れるということ?
「インサイダー取引とは、未公開の内部情報を利用した不正な取引のことです。このような行為は市場の公平性をゆがめるため許されませんが、残念なことに今の市場にはこのような取引がはびこっています。しかも、株にはインサイダー取引を規制する法律がありますが、為替にはないのでインサイダー取引の温床になり得ます」
 それは困る。
 私と紊富がさらに話を続けていると、やがて車のエンジンが止まった。外を見てみると、どこかの地下駐車場に着いたようだった。
4
最終更新日 : 2012-11-04 00:41:55

カジノでの夕食

「到着しました」
 女中がドアを開け、外に降りた。
 九条に続き、車から降りた私たち。目に入ってきたのは、駐車場に所狭しと並ぶ高級車の数々。そのほとんどが、九条の乗っている車に負けず劣らぬの車だった。よほどの金持ちが来るところに来てしまったのだなと思った私。
 呆然としながら九条たちの後についていった私は、エレベーターに乗った。周囲はガラス張りになっており、見下ろしてみると、地上の人や車がみるみる小さくなっていった。上昇がなかなか止まらないので、私は鼓膜が痛くなった。
 階の表示は百に達しようとしていた。エレベーターは途中で止まることなく、最終的に最上階と思われる百二十階でドアが開いた。だが、そのフロアは真っ暗だった。エレベーターから漏れる光が数メートル先を照らしているだけで、それより先は暗闇に包まれていた。
 停電なのか。あるいは、今日のこのフロアの営業はすでに終了してしまったのか。戸惑う私をよそに、九条は暗闇へと足を踏み出した。何事もないような顔で、その後についていく女中、篠崎、紊富の三人。私は未来とともにその後を追った。
  暗闇の中を歩くこと数メートル。後ろのエレベーターの扉が閉まり、フロアが完全に真っ暗になった。だが、それもしばらく前進していると、突然、頭上から光 が降り注いだ。見上げてみると、天井の小さなライトが点灯していた。どうやら私たちの人影に反応して作動したらしかった。そして、前方には厚い鉄のドアが あった。
 九条はドアの横に備え付けられていた、指紋認証システムのような装置に手を重ねた。すると、数秒後、ピーという電子音がしたかと思うと、ドアが自動で開いた。
 その先にあったのは、
「えっ、カジノ?」
 思わず声を上げた私。
 見渡す限り広がる空間。そこには、賭博に使われるようないくつもの台や、その周りを取り囲む無数の人々の姿があった。さらに、部屋の端にはテーブルが並べられ、食事をしている人の姿もあった。
「そう。ここはカジノとレストランが融合した富裕層向けの遊興施設。綾優さんと未来さんの料金は僕が負担するから、思う存分楽しんで行ってよ」
 しかし、カジノってまずくないの? 賭博って禁止されてない? 心配する私の気持ちを汲んだのか、九条が言った。
「大丈夫。ここは会員とその招待客しか入れないところだから、情報が外部に漏洩する可能性はほとんどないよ。それに何より、ここは正解との強力なコネクションを有する我が九条銀行の関連会社が経営しているところだから、そう簡単にガサが入ることはないはずさ」
 本当に大丈夫なのか? だが、心配する私をよそに、篠崎は「わーい。今日も稼ぐぞー」などと叫びながら、人だかりへと走っていってしまった。
「あの、篠崎さんは常連なのですか?」
「そうさ。紊富は二回目だったかな」
 無言でうなずく紊富。未来はというと、無言で賭博に興じる人たちを眺めていた。
「腹が減っては戦はできぬと言うからね。とりあえずは食事にしよう」
 九条とともに、部屋の端っこにある食事用のテーブルに移動した私たち。私と未来が並んで座り、向かいに九条と紊富が座った。置いてあったメニューを開いた私は、その料金の高さに驚愕した。
「…ちょっとこれ、間違ってない?」
 ワインのボトルが一本十万円単位なのはともかく、フルーツ盛り合わせ二万円とか、いちごパフェ三万円とか言うのはもはや理解不能だ。横からメニューをのぞき込んでいた未来が言った。
「まあ九条さんの関連のお店なら、払ったお金の一部が売上として戻ってくるのでしょう」
 九条が言った。
「そういうこと。だから、遠慮しないで食べていいよ」
 そ、そうですか。おそるおそるメニューをめくりながら、私はカルボナーラとフルーツ盛り合わせを選んだ。卓上のボタンを押し、やってきたボーイに全員が注文を伝え終えると、ちょうど次のようなアナウンスが流れた。
「六番テーブルではチェスの対局者を受け付けています」
 ん? 対戦者の募集?
 九条が言った。
「た ぶん篠崎だね。あいつはここじゃチェスが専門だからね。ここでは全六十七種類の賭博ができ、中にはチェスや将棋のように客同士が一対一で戦うものもある。 そういうのはテーブルに行っても相手が見つからなかった場合、募集するアナウンスをしてくれることになっているんだ」
 へ~、そうなんだ。
 しばらくしすると、チェスの対局の受付を締め切ったというアナウンスが流れた。
「篠崎さん強いんですか?」
「どうかな。この前なかなか対戦相手が見つからず、しかたなく紊富とやったときはボコボコにされていたけどね」
 見ると、紊富が苦笑いしていた。
「一度にどれくらい賭けるんですか?」
「チェスのように客同士が一対一で争うのは、基本的に互いの交渉次第だよ。金を賭けるのが普通だけど、それ以外でもかまわない。バカラのように対戦相手が複数の場合や、ルーレットのように相手がカジノの場合は、掛け金があらかじめ設定されている場合もあるけどね」
 なるほど。私もやってみたいけれど、あいにくお金がない。こんなところで数百円を賭けさせてほしいと言ったら怒られそうだ。
 すると、九条が女中に言った。
「ちょっと百万円を下ろしてきてくれ」
 女中は「かしこまりました」と言うと、どこかへ行ってしまった。
 九条が言った。
「他 人の賭博を指をくわえて見ていることほど、つまらないことはないからね。お近づきのしるしとして、君たち二人には僕から特別に百万円を貸してあげよう。今 日、帰るときまでに返してくれればいい。利息は要らないし、失った分は返さなくていい。もちろん利益はそっくりそのまま君たちの取り分だ。金は二人で分け て使ってもいいし、どちらか一人だけが使ってもかまわないよ」
 未来と顔を見合わせる私。未来は何も言わなかった。
 思うに、人並み外れた頭脳の未来がいるかぎり、そう簡単に負けることはないはずだ。それに、もし損失を出してもこちらの負担分はゼロ。こんなおいしい提案は滅多にない。そうと来れば借りないわけにはいかないだろう。
「ではお言葉に甘えて」
 やがてどこからか戻ってきた女中は、鞄から帯封に包まれた真新しい一万円札の束を取り出した。それを受け取った九条は、私に渡した。
「ありがとうございます」
 一連のやりとりを見ていた紊富がくすりと笑って、九条に言った。
「よろしいのですか? ここを出るときには、すべて私のポケットに入っているかもしれませんよ」
「はは。冗談がきついな、紊富は」
 面白いことを言うじゃない。暗に私たちと勝負をしたいと誘っているのか。ここに来る途中で未来が著名な研究者であることは聞いているはずなのに、それでもなお戦いを挑んでくるとはいい度胸じゃないか。見たところお金持ちそうだし、未来の力で返り討ちにしてもらおう。
 それからしばらくして、注文した料理が運ばれてきた。食べながら歓談していると、向かいの賭博ゾーンから篠崎が歩いてくるのが見えた。
「ふーっ、危なかった」
 私の隣に座るなり、篠崎は向かいに置いてあった紊富のフルーツジュースに口をつけた。
「なっ、何をするのですか」
 と紊富。
 だが、篠崎はコップを片手に、
「まあまあ堅いこと言わないの。激戦で疲れたんだから。ここ、注文しても来るの遅いのよ」
 不満そうな顔の紊富をよそに、ジュースを飲み続ける篠崎。
 九条が言った。
「勝ったのか?」
 篠崎は飲み干したコップをテーブルに置き、首を横に振った。
「ううん。ステイルメイト」
 ステイルメイト? スチール製の友達?
 私が勝手な妄想をしていると、未来が耳打ちしてきた。
「いや、とどめは刺せないのに相手のキングの動きを封じた状態のこと。引き分け」
 ふ~ん。そうだったのか。将棋にはない概念だから知らなかった。というか、私の心の声を勝手に聞かないでくれ、未来よ。
「あ~あ、賭場代損しちゃったよお~」
 料理を注文することもなく、延々と不満を述べ続ける篠崎。
 やがて注文した料理を食べ終えた私が他の人に目をやると、紊富もすでに食べ終わっていたが、未来はゆっくりとデザートのアイスを口に運んでいた。早く遊びに行きたい私は未来の背中をなでながら、
「早く早く」
 それを見ていた篠崎が言った。
「あはは。そんなに急(せ)かさなくても、案内なら私がしてあげようか? 私はもう何回も来ているから」
「そ、そう?」
 未来のアイスはまだ八割ほど残っているし、未来のあまりに遅い食べる速度からは、完食にはまだ時間がかかると考えられた。ならば、とりあえず未来にやってもらいたいゲームに目星をつけておいて、後で未来を連れてくるとしよう。
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
 そう言い残して、私と篠崎はテーブルを後にした。
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最終更新日 : 2012-11-04 00:38:10


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