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出会いの章-純恋歌-

  1.   突然の、これはお見合い?
  2.   第一印象
  3.   ため息と後悔
  4.   わたしたちが結婚?

 

婚約の章-優恋慕-

  1.   温かい手
  2.   結婚宣言
  3.   しずく
  4.   好きとキス
  5.   エンゲージリング
  6.   ホントの好き
  7.   病めるときも健やかなるときも

 

結婚の章-優恋歌-

  1.   Married Life
  2.   退屈くらべ
  3.   パシュミナにエンゲージリング
  4.   ベーゼ-接吻-
  5.   すれ違い
  6.   背中のすき間
  7.   その心が傍にあるなら

 

終章-最愛-

  1.   写真立て
  2.   修道女に恋した吸血鬼
  3.   底なしの最愛

 

extra collection

   theme-写真-

     Ⅰ.予感

     Ⅱ.蜜月の病

     Ⅲ.ローズヒップタイム

   ミル・クレープの告白

   独り占め

 

special extra

   follow you

 


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突然の、これはお見合い?

 

 承諾するなんて思わなかった。

 

「うちの娘をもらってくれないか」

 

 水辺(みずべ)家の奥にある角部屋に通されて、用意された座ぶとんに落ち着いたとたんのいきなりの申し出だったはず。

 それなのに上戸匠(うえとたくみ)は表情一つ変えず、真正面に座る父、淳介(じゅんすけ)に向けていた視線を、その隣に控えた優歌(ゆうか)へと移した。

 

 紫檀(したん)の座卓はいかにも畏(かしこ)まっていて、この和室は純和風な家に住み慣れた優歌でさえ堅苦しい。

 短大卒業式の今日、母の佐織から、夜まで着物を脱がないようにと云われ、窮屈(きゅうくつ)な恰好のままでいた。卒業祝いのちょっとした食事会で、招待している祖父母に見せるためかと思いきや、淳介が帰ってくるなりこの部屋に呼ばれたのだ。

 優歌にも突然の話で、内容が内容だけにいつにも増して部屋のなかは重苦しい。息が詰まりそうになるのは、優歌の後ろめたさ、あるいは恥ずかしさなのかもしれない。

 まるでお見合いみたいに着物を着ている自分のことを、上戸はなんと思っているだろう。

 顔が赤くなっているのか蒼くなっているのか、自分でもわからないほど優歌は内心で慌てふためいた。

「結婚、ということですか」

 不快さもなければ、歓迎もない声音(こわね)。ただ淡々と状況を確認しているにすぎない。

 部屋に面した中庭には小ぢんまりとした庭園がある。外灯が差すだけという夜の薄明かりのなか、その片隅でししおどしの添水(そうず)の音が甲高く響き、優歌はまさに鹿みたいにおののいた。

「優歌はきみも知ってのとおり、躰が弱くてな。その……きみならと……」

 淳介は云いにくそうに言葉を濁した。

 要するに、躰の弱い優歌は若さだけを武器に売られようとしているのだ。世間知らずでなんの教養も知恵もないから、躰が弱いということは、かえって若さなんてなんの武器にもならないのに。

 それを――。

「いいですよ。段取りはお任せします」

 三月の卒業式の日、まるで仕事の契約のように結婚話は成立した。

 

 最初から年の差なんてわかっていたのに、このとき、二十歳になったばかりの優歌は、やはり九つという年の差がどういうことかよくわかっていなかった。

 

 業平(なりひら)商事という日本でも、いや世界でも有数の商社で、現在、営業本部長という役職に就く淳介はよく部下を家に連れてくる。

 そのなかの一人が上戸匠だ。

 物心がついたときはすでに、家のなかに家族じゃない人がいるのはめずらしいことではなかった。

 佐織はうるさがることもなく、むしろ楽しそうに歓迎する。五つ年の離れた姉の優美(ゆうみ)は佐織に似て、積極的にもてなしを手伝っているけれど、優歌は人付き合いが苦手で敬遠しがちだ。

 躰が弱い、というのはいつも人に気を遣わせてしまって煩(わずら)わしい。ただこういうときは、疲れたとか、部屋に下がる理由にできて都合がいい。

 弱いといっても、何か薬を飲まなくてはいけないとか、入退院を繰り返しているとか、そういう大げさなものではなくて、単に風邪をひきやすかったり、熱が出やすかったりする程度で、まったく大したことはない。

 大げさにしているのは、家族をはじめとした、優歌を懇意に思っている人たちだ。心配してのことであって、やはり文句を云えるほど精神的にも体力的にも強いわけではなく、優歌はいつもその待遇を黙ってやりすごしている。

 不思議だが、優歌が上戸とはじめて会ったのは、家に連れられてきたときではなく淳介の会社でだった。

 高校二年になった春、社会勉強として職場見学という課程があった。見学先は各個人で決めてよく、家族が働く職場を訪問するのが慣例だ。教師に頼めば見学先を用意してくれるが、人見知りする優歌は、知らない職場よりも父親の会社のほうが安心できてよかった。

 その日の五、六時間め、仲のいい西尾真由(にしおまゆ)と一緒に業平商事に向かった。いざ会社訪問をしてみると、記憶にあるよりずっと立派で、優歌は引き返したいくらいに気後れしたことを憶えている。

 小さい頃、優歌は佐織に連れられて何度か淳介の会社を訪ねたことがある。遊びにでも職場見学でもなく、挨拶まわりをするためだ。

 生まれたときから、風邪をこじらせて高熱を出したり肺炎を起こしたりと、病院に入院することが多かった。成長するにつれて躰も強くなり、いまは入院するほど大事に至ることはない。当時は退院するたびに、淳介の上司へお見舞いのお礼と快気報告を兼ねて会社訪問をした。上司がなぜ毎回それだけ気にかけてくれるかというと、佐織もまた業平商事に勤めていたという由縁による。

 最後に訪問したのは十年ちょっとまえで、幼稚園の年長のときだ。

 淳介に抱っこされて、専用デスクの上で落書きした憶えがある。家族四人がそろった写真も飾ってあった。

 その頃は会社の大きさや価値などもわからず興味の対象外であり、ビジネス街と縁がない優歌は、それ以来、久しぶりに淳介の会社を訪れたのだ。

 


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第一印象

 

「真由、どうしよう。こんなにおっきいって思わなかった」

「う、うん。なんだか場違いな感じ」

 会社の玄関先で、おのぼりさんみたいに背高のっぽのビルを見上げた優歌は、視線を下げて真由と顔を見合わせた。

 目が大きめで童顔に見える優歌と逆に、同じ目の大きさでもきりっとして見える真由は、いつもはきはきしているくせに、いまはめずらしく戸惑っている。

 ビジネスマンやかちっとした身なりのOLたちは、教師という身近な大人たちとはどこか違って堂々としている。高校自慢のデザイナーズブランドも無価値なくらい、制服姿の優歌たちはいかにも幼くて、すれ違いざまじろじろと眺められた。

「とりあえず……優歌のお父さんに、来たよって連絡してみたら?」

「うん、そうだよね」

 そんな簡単なことも思いつかずに怖がった自分をばかみたいに思いながら、優歌は携帯電話を取りだした。電話は二回のコールで通じた。

「お父さん? いま下に来たんだけど――」

『ああ、悪いけどいま――』

 優歌をさえぎった電話の声は、淳介と似ても似つかない。ここに来てからの不安と驚きのあまり、番号を間違ったのかとパニックに陥(おちい)った優歌は、相手の云っていることを最後まで聞かずに切ってしまった。

「優歌?」

「……お父さんの声じゃなかった」

 泣きそうに云うと、真由は優歌の手から携帯電話を取りあげた。

「〝お父さん〟てなってるし、番号は間違ってないみたいだよ。んーっと……」

 履歴を確認したあと、眉間にしわを寄せた真由はちょっと黙りこみ、「お父さんが出られなくて、だれかかわりの人が出てくれたんじゃない?」と冷静に指摘した。

 ちょっと考えれば察せることなのに。優歌は情けなくなった。

「……どうしよう。切っちゃった」

「優歌、いいかげん人見知りは克服しないと、これからたいへんだよ?」

 真由は呆れたように忠告した。

「わかってる。……またかけてみる」

 携帯電話を戻してもらい、真由から催促の眼差しを受けながらリダイヤルをした。どきどきして通じるのを待ったけれど、今度はコールを五回超えても繋がる気配がない。

 どうしよう……。

 仕事中ならよけいに長引くコールはまずい。優歌だってそれくらいは判断できる。

 携帯電話を耳から離して切ろうとしたところで、淳介の携帯電話と同じ着信音が聞こえた。顔を上げると一人の男の人が目についた。業平ビルのエントランスまえにある、短い階段をおりてくる。

 その人だと直感的に確信したのは、瞳がぶれもせずにこっちを見ているからだろうか。呼びだす携帯電話には出る気配もなく、右手に持ったままだ。すれ違う人に訝(いぶか)しく見られようがおかまいなく、一直線に優歌たちのほうへやってきた。

 優歌の視線を追った真由が小さく歓声をあげる横で、優歌はすくんでしまい、おののいた拍子に指先がボタンに触れた。とたん、男の人が持った携帯電話の音がやんだ。

「驚かせて悪い。優歌ちゃん?」

 本当に悪いと思っているのか、男の人は素っ気なく謝ったあと、確認するように優歌の名を呼んだ。その瞳は真由ではなく、まっすぐ優歌の瞳を向いてくる。視線は少し横にずれ、耳のすぐ後ろで二つに結んだ場所から長い髪を伝いおりたと思うと、色白の、ともすれば蒼白な顔にまた戻ってきた。その視線の動きでさらにどぎまぎした。

「……はい」

 真由ではなく、わたしが優歌だと当てられたのは、父がこの人を家に連れてきたことがあるということだろうか。

 優歌の呼び方も家に来る人たちと同じように砕けている。記憶と照らし合わせようとして、優歌は知らぬうちに目のまえの立ち姿に見入った。

 近くに立たれると首を反らさないといけないくらいに背が高くて、顔立ちからスタイルまで全体的な雰囲気がシャープだ。瞳も鋭さが目立っている。見た目から判断すれば、よく家に来る金城(かねしろ)と同じ年くらいで、そうだとしたら二十代の半ばだ。一度会ったら忘れられないような存在感があるのに、どう記憶をたどっても優歌は会った憶えを見いだせない。

「水辺本部長は急な来客でいま接待中だ。その間、おれが案内するように頼まれてる。営業部企画課の上戸匠だ」

 上戸は安心させるためなのか、証拠だといわんばかりに淳介の携帯電話をかざした。優歌がうなずいたのを確認すると上戸は真由を向いた。

「きみは西尾さん?」

「はいっ、西尾真由です!」

 返事一つするにもためらいだらけの優歌と違って、真由は元気よく、若干うわずった声で名乗った。

 上戸は表情を少しやわらげて、可笑しそうに真由を見ると、また優歌に視線を戻した。たったいまの、真由に見せた表情は気のせいだったのかと思うくらい、優歌を見た上戸の気配は無になった。

 細めた目で見下ろす眼差しが、上戸を冷たいと優歌に印象づけた。

「じゃ、行こう」

 上戸が呼びかけ、「はい」と元気に答えたのはまたもや真由で、優歌はうなずくだけの返事しかできなかった。

 社屋内に入ると、正面奥には二階までのエスカレーターがある。そこへ向かう人の流れには沿わず、上戸は左側の壁際に設けられた受付を通りすぎて、その向こうにあるエレベーターへと行った。

 案内されたのは三階の営業部フロアだ。エレベーターを降りた場所から左右と正面に廊下が交差している。廊下の両脇にはたくさんのブースがあって、あちこちから活気に満ちた声が聞こえた。見える範囲内では、専属名を記したプレートごとに間仕切りがあるだけで、完全に孤立した部屋はない。

 普段とまったく違う世界に優歌は圧倒された。同じように感じたらしい真由が、「すごーい」と漏らし、ふたりはびっくり眼(まなこ)で顔を見合わせる。

「社会勉強っていうんであれば、営業部がいちばん学べるだろう。企業が企業として成り立つには営業と、なんであれ、扱う商品がどれだけ信用を得るかにかかっている。営業に限っては人間関係が絡んでくるから、電話の応対とか観ていればこれからさきに役立つと思う。学生を卒業したら働くだろうし、普通の生活のなかでも接するのは親しい人ばかりじゃない」

 上戸は廊下を歩きながらアドバイスした。

「上戸、中国から電話があった。新商品の件で、趙(ちょう)さんがデザインをちょっと変更できないかって」

 上戸を呼びとめたのは、聞いたことのある声だと気づいたとおり、金城だった。椅子に座ったまま、物流班というプレートがある仕切りからのけ反るように顔を出している。「わかった」という上戸の返事にうなずき返すと、眼鏡越しの視線は背後に控えた優歌たちに移った。

「お、優歌ちゃん、いらっしゃい。上戸ははじめてだろ? 素っ気ない奴だし、苛(いじ)めるようだったらおれんとこ逃げてきていいからな」

 金城はいつものヴィブラートの効いた魅惑の声でふざけた。家に来る人のなかで、金城は苦手じゃない人の一人だ。からかわれて、少しだけ優歌の肩から力が抜けた。

「金城、脅すなよ」

 優歌が答えるまえに上戸が口を挟む。シャットアウトされた金城は笑いながら肩をすくめると、軽く手を上げて引っこんだ。

 上戸は、「こっち」と云いながら奥に進んで、通販事業班というブースに入った。デスクが片側十台くらいで向かい合わせにあり、半分くらいの席が空いている。営業というからには外回りもあるだろう。

「職場見学に来た水辺さんと西尾さんだ」

 上戸からほかの社員たちに紹介されて、優歌と真由は一礼した。

「よろしくお願いします!」

「お、よろしく」

「わお、可愛いわね」

 居合わせた人たちから、それぞれに気さくな声が返ってきた。

「気ぃ抜くなよ。学校に報告されるらしいし、業平の評判を落とすような仕事ぶりは控えることだ」

「ラジャ。鬼班長の仰せのままに!」

 おちゃらけた返事が返ってくると、忠告した上戸は呆れたため息を漏らした。かすかに肩をすくめてから優歌たちに向かった。

「さきに電話するから、ちょっと待ってて」

「あ、大丈夫です。もともと仕事の邪魔はしないように云われてます。お仕事ぶりを見せてもらうだけでいいんです」

 真由がすかさず答えると、上戸はうなずいてデスクに着いた。デスクの上はノートパソコンが一台あって、その周りは見分けがつくのかと思うくらいに資料で溢(あふ)れている。

 受話器を取りあげた上戸は日本語ではなく、おそらくは中国語で呼びかけた。ちょっと間があって、今度は日本語に切り替わった。上戸は電話しながらパソコンを弄(いじ)りだした。

 パソコンの画面を覗いてみると、家具らしい立体画像が角度を変えつつ、くるくるとまわっている。それをデザイン画に変えたりパーツに変えたりしながら、きびきびした声のやりとりが続いた。時折、中国語が出てきたものの、概ね、相手とは日本語で通じるようだ。

「なんだかすごい。あんまり関心なかったけど、こんなところで働けたら仕事してるって実感あるかも」

 真由の声は、電話の邪魔にならないよう抑制されながらも、高揚感が滲みでている。

 上戸をはじめとして、電話の相手と話す声や、内部間で飛び交う声は途切れることがなく、営業部のフロアは覇気がある。

 真由とは逆に、自分にはできそうもないと優歌はおののいてしまう一方で、自信に溢れた彼らには憧れを抱いた。

 電話してから十分くらいたっただろうか、上戸は受話器を置いた。

「どう? 何か質問ある?」

 上戸は振り返ると、優歌を見上げて訊ねた。

 明らかに上戸は優歌を指名したわけで、ここでないと云ったら優歌の評価がますます下がりそうな雰囲気だ。それを気にするまでもなく、出だしから優歌の評価はマイナスで、自分では這いあがれそうにない。

「……中国との電話……日本語でいいんですね?」

 やっと出た優歌の質問は安易なものだった。

 ばかにするふうでもなく上戸がうなずいているうちに、その正面にいる女性がくすっと笑みを漏らした。胸にかかる髪はくるくると巻かれていて、どこか可愛いという雰囲気を持ったきれいな人だ。

「高校生ってさすがに質問も可愛いわね。ていうか、本部長のお嬢さんだから、なのかな。なんだか世間知らずっぽく見え――」

「立花(たちばな)」

 上戸が制した。

 女性の声に蔑視は見えなかったけれど、冷や汗が出るくらいに優歌は恥ずかしくなった。

「ごめん。嫌味じゃなくて、純粋でうらやましいって思っただけ。ごめんね」

 立花と呼ばれた女性は、最初に上戸に謝ったと思ったら、あとには優歌に対して率直に謝った。

 上戸が呼び捨てであれば、立花が敬語を使うこともなく、ということはふたりともおそらく同じ年なのだろう。上戸がそうであるように、立花もまた颯爽(さっそう)としている。

「いえ」

 優歌は精いっぱいの笑みを浮かべながら答えた。自分でも情けないくらい小さな声だ。

「優歌ちゃん、じゃ、答えだ。向こうが日本語を使うのはこっちが客という立場だから。まあ、英語圏になると、どっちの立場でも英語ってことになる場合が多い」

 上戸はごく真剣に答えてくれて、優歌の張りつめた気持ちが少し落ち着いた。

「上戸さん、英語も話せるんですか?」

「ああ」

 上戸は当然のように答え、今度は真由を向いて「どう?」と促した。

「こういう家具のデザインまで上戸さんが考えるんですか?」

 真由がした質問は優歌より質問らしい質問だ。上戸はかすかに笑みを見せた。

 それを目にしただけでまた気がふさぐ。だれのせいでもないのになんとなく惨(みじ)めになってしまう。優歌の悪い癖だ。

「おれの感性ってわけじゃない。市場調査をやって、相応の意見を収集してそれに見合ったものを考慮した結果だ」

「どれくらいで商品になるんですか?」

「発案から時間かかっても半年内。流行を追うとなれば、もっと短期間でやらなければ意味がない。因みに、いま西尾さんと優歌ちゃんが見たのは新商品で、企業秘密の段階だから口外しないこと。四カ月後のカタログに載ったら問題ない」

「わぁ。そういうのってうれしいかも。カタログ見るのが楽しみ」

 上戸の生真面目な警告のなかにおどけたような声音を聞きとった真由は、親しくなれるチャンスとばかりにすかさずはしゃいで応じた。

 こういう真由を見習おうという気持ちはあるのに、優歌は実行できたためしがない。もし反応してもらえなかったらと考えるほど打たれ弱く、自分には到底できないとあきらめてしまう。

「楽しみにしてくれるんなら、カタログ送るよ。ここ、座って」

 上戸はそう云いながら、空いたデスクから椅子を持ってきてくれて、ふたりは勧められるままに座った。

 それからは専(もっぱ)ら上戸を中心に業平社員の仕事ぶりを見学した。

 眺めているなかで、上戸の斜め向かいに位置する男性社員が、電話の相手に向かってひたすら謝罪しているのが目に留まる。しかめ面になって言葉に詰まる彼を見ていると、係わりたくないと思うほどトラブル処理の応対はたいへんそうだ。それでも根気強い説得がやがて客を軟化させたらしく、電話を切ったときはほっとした表情とともになんらかの感情がよぎる。やりきったという達成感だろうか。

 上戸が云ったように基本は人と人で、心底からの誠意という努力如何(いかん)でアクシデントはどうとでもいい方向へと変えられるのかもしれない。

 優歌は上戸へ視線を戻した。さっきから、周りを見回しながらもつい上戸へ視線を戻すということを繰り返している。

 なめらかにパソコンのキーボードを打つ手は、男っぽく骨張って大きいけれど、なんだろう、月並みに表現するときれいだ。優歌の手が意思とは関係ないところでぴくりと動いた。

 その手から上にたどっていくと、ふと上戸の目が優歌に向く。優歌は慌てふためいてそっぽを向いた。火照(ほて)った耳を隠しそうになるのをやっとのことで堪(こら)えた。上戸からどう思われただろうかと考えたのはもう少しあとで、優歌は独り顔を赤らめた。

 一時間という社会勉強が短いのか長いのか、すべてを知るにはまったく不足した時間でも、優歌には長く感じられる。たぶん周りからは、ぼんやりしていると思われているだろう。どうしよう、というのがいつも気持ちの大半を占めていて、ちゃんと考えているわけでもなく、ぼんやりに見られても文句は云えない。

 それに比べて真由は積極的に立ちまわり、上戸がコピーしようと立ちあがれば、「わたしがやります」と率先して手伝っている。先生から手伝えとは云われていないけれど、いいところなしで優歌はずっとぐずぐずしていた。

 おまけに、伝言ゲームみたいに〝本部長の娘さん〟を訪ねて、ひっきりなしにだれかがやってくる。優歌はその都度、しどろもどろになって挨拶を返した。顔を上げることすら苦痛な優歌は、相手の名どころか顔さえもまったく憶えられない。

 上戸がそのたびに追い払ってくれるというなか、途中で気づいた。

 挨拶さえろくにできていない自分は、父親である淳介の顔を潰しているのかもしれないということ。

 その淳介は終わる頃にようやくやってきた。ほっとして泣きそうになったのを笑ってごまかす。

「優歌、どうだ?」

「うん。ちゃんとしてもらったよ。先生にいい報告ができそう。ね?」

 優歌は真由を向いて首をかしげた。真由はしっかりうなずくのと一緒に、「ありがとうございました」と淳介へ向かってお礼を伝えた。

「相変わらず、真由ちゃんは元気だな。役に立てたのならよかった。優歌、顔色があまりよくないな」

「……なんともないよ。人より顔色が悪いのはいつものことだから」

 情けなくて、なぜかいたたまれなくて、笑い返す顔が引きつった。自分でもそれがわかって淳介から目を逸らす。

 その視線のさきで、上戸の目と合ってしまった。それは見透かすような眼差しで、優歌はばつの悪さに躰がかっとした。

「上戸くん、ありがとう、助かったよ」

「いえ。これといって何をしたわけでもありませんから」

 上戸は淡々と淳介に答えた。直後、真由が優歌の腕をつついて合図した。

「上戸さん、ありがとうございました。わたしたちはこれで」

「ありがとうございました」

 真由のあとに続いて優歌が会釈すると、上戸から「お疲れ」と労(ねぎら)われた。新鮮な響きに浮かれ、反面、疲れがリアルに感じられていく。

「みんな、邪魔したな。ありがとう」

 淳介が居合わせた社員たちに向かって声をかけ、重ねて優歌たちもお礼を云って通販事業班のブースをあとにした。淳介は下まで送ると申しでたが、大丈夫だからと断ってエレベーターまえで別れた。これ以上に〝本部長の娘さん〟というプレッシャーは不要だ。

 最大限の緊張から解放されて優歌が安心したのはつかの間、エレベーターはさほど振動もなく、加えてたった二階分の移動なのに、下降する感覚が気分を悪くさせた。

「真由、ごめん。ちょっと休んでっていい?」

 生汗(なまあせ)を掻(か)きながら、優歌は人目につかないところを素早く探した。真由の返事を待たずに、エレベーターのすぐ横に階段を見つけると、二段めに座りこんで壁にもたれた。

「優歌、大丈夫?」

「平気。ちょっとした貧血みたいなもの。慣れないとこだったから……ごめんね」

 優歌は目をつむってうつむいたまま、覗きこむ真由に謝った。

「謝んなくてもいいよ。良くなるまで休んでいいから。何かジュース買ってくるよ。わたしも緊張してたのかな。のどがからからになってる」

 返事をするのも億劫(おっくう)で優歌はうなずいた。エレベーターの反対側にある待合ブースへと向かう真由をちょっとだけ見送り、優歌はうずくまるように顔を膝に伏せた。

 今日は何かと落ちこむ日だ。人見知りが激しくて、臆病で、弱くて。人並み以下も以下。なんの取り柄もない。

 いつもと同じだよ。

 優歌はなぐさめになっていないなぐさめを内心でつぶやいた――その時。

「大丈夫か」

 低くてよく通る声がいきなり頭上から降ってきた。びっくりしたあまり、うさぎが跳ねるように優歌は立ちあがった。とたんに、くらっとして躰が揺れる。

「座って」

 命令するような声音とともに、優歌は腕をつかまれて座らせられた。

「頭、伏せたほうがいい」

 自分でするより早く、上戸の手のひらが優歌の頬をくるんでうつむけた。

 同級生の男の子だったら絶対にしないこと。

 気分が悪いことより、見惚(みと)れた手に触れられたことにどきどきした。心なしかひんやりした頬が熱を持ったように熱くなる。上戸に気づかれないかと焦ったあまり、隠したい気持ちとは逆行して鼓動が激しくなった。

「医務室、連れていこうか」

「いえ――!」

 慌てて顔を起こしたとたん、優歌は言葉を切らした。あまりに近くにあった上戸の顔をびっくり眼で見つめた。

 核家族四人という生活のなか、男といえば淳介のみだ。同級生の男の子と話すのでさえ戸惑いがちなのに、こんな大人の人を、しかもこんなに間近で見つめるなんて論外のこと。家に来る淳介の部下ともこれほど近づくことはない。

 思わず顔を引けば、上戸の手が離れる。上戸が優歌の急ぎ足の鼓動に気づいたのかどうかはわからない。

 優歌は気分が悪いのも忘れて、とにかくこの場をしのげる言葉を探した。

「……大丈夫です。いつものことで……すぐ治ります。緊張しすぎたから……」

 優歌が断り文句を並べているうちに、上戸の表情が少しこわばった気がした。何かまずいことを云ったのか自分の発言を思い返していると、真由が戻ってきた。

「上戸さん!」

 驚いた声を受け、真由へと向いた上戸の横顔が緩んだように感じた。

「社内に医務室あるけど、優歌ちゃんは大丈夫って云ってる。西尾さん、どうかな」

「あ、いつものことだから大丈夫ですよ。ね、優歌。あ、これ、オレンジジュースでいい?」

 真由はパックに入ったオレンジジュースを差しだした。

「うん、ありがとう」

 パックを受けとりながら、優歌はプラスティック・スマイル――作り笑いを浮かべた。

 いつものこと。自分で云うのと人が云うのではまったく違う。もちろん、真由は侮蔑しているわけでもなく、嫌味を投げつけたわけでもない。優歌はただ勝手に、ばかみたいに自分をお粗末に感じた。

 早く帰りたい。都合が悪いときの、逃げることへの疾(やま)しさはとっくになくしている。伴ってプライドなんてないはずなのに、いまはとてつもなく惨めだ。

 皮肉にも落ちこんだことが、優歌の気分の悪さを払拭した。

「もう大丈夫みたい」

「そう?」

「うん」

「それ飲むついでに、待合ブースでもうちょっと休んでいけばいい」

 上戸は優歌が持ったジュースを指差した。

「はい」

 立ちあがりかけたところで、上戸が優歌の肘を軽く支えてくれた。やはり鼓動は落ち着かない。

 三人は人の流れを横切って待合ブースに入った。そこは当然ながらビジネスマンが多く、女子高生の優歌たちには好奇の目が向く。普通なら尻込みしてしまうところでも、上戸が案内してくれたぶん、心置きなく一つのテーブルを占領できた。

「これから学校へ戻る?」

「いいえ。このまま帰っていいことになってます」

 真由が答えると上戸はうなずいた。

「じゃあ、ゆっくりしていけばいい。また具合が悪くなったら遠慮しないで電話してくれ」

 上戸はシャツの胸ポケットからカードケースを取り、そのなかから小さな紙を出して優歌に差しだした。『班長』という肩書きのついた上戸の名刺で、そこには直通の電話番号が載っている。

 もしものときでも、ここにはお父さんがいるのに。

 疑問に思うのと同時にさよならだと実感すると、何かしないではいられないという、めったにない――どころか記憶にないポジティブ精神が優歌のなかに現れる。

「じゃ、気をつけて」

 優歌と真由を交互に見て上戸は背を向けた。自分の心底(しんてい)から追われるように、そして、広い背中を追うように優歌は考えなしで立ちあがった。

「あ、上戸さん!」

 自分で呼びとめておいて優歌は驚く。焦るあまり、声が大きくなってしまった。目の端で周囲から注目されていることを捉えた。その視線を受けとめるのが怖くて、優歌は目を逸らすことなく、立ち止まった上戸をまっすぐに見つめる。

「お世話かけてすみません。ありがとうございました」

 ちゃんと云わなくちゃ、と思った言葉は意外にもすんなり優歌の口から出た。

 上戸が片方だけくちびるを吊りあげた。それは優歌に向けられたはじめての笑顔で、具合が悪くなりそうなくらいに鼓動がざわつく。

 上戸はちょっとうなずいて背中を向けた。

 優歌は力尽きたように椅子にすとんと座った。

 恥ずかしい、よりも。云ってよかった。

 いつもおどおどしている優歌が、はじめて勇気を出せた瞬間かもしれない。

「なんだか大人の世界だよね」

「うん」

「上戸さん見てたら、そこらへんの男子じゃ物足りないよ」

「うん」

「あの落ち着いてる感じがたまんない」

「うん」

「優歌、『うん』のほかに云うことないの?」

「うん」

「優歌、聞いてないでしょ」

「うん」

 たったいまの出来事にぼんやりしていた優歌は、真由から頬をつねられるまで自分が空返事をしていたことさえ気づかなかった。

「もう、優歌! 全然わたしの話、聞いてないんだから!」

「あ……ごめん」

 優歌が手を合わせて謝ると、真由は「もういいよ」と肩をすくめた。

「上戸さん、何しにおりてきたんだろうね」

 真由は不思議そうに、上戸が帰った方向に目をやった。

「え?」

「だって。出かけるんじゃなくて、また上に戻ってたし」

 そう云われれば、上戸はさっき突然に現れたのだった。理由を考えても優歌にわかるわけがない。

 真由は、優歌が手に持った名刺を指差して、「いいな」とつぶやいた。

「いいなって、きっと電話することないよ」

「じゃ、ちょうだい」

「だめ!」

 即答で拒絶した優歌を、真由は目を丸くして見つめる。驚いたのは優歌自身も同じで、なお且つ、真由が冗談で云ったらしいと気づくと取り繕(つくろ)う言葉を探した。

「あ、記念だよ。わたし、さっきみたいに云えたの、はじめてだから、持ってたらまた勇気出せるかなって……」

「ふーん、そっか」

 真由はにやついている。

「何?」

「なぁんでも」

 真由の返事は明らかに何か云い含んでいたけれど、優歌がまた訊き返したところで答えてはくれなかった。

 

 その日の夜、帰ってきた淳介に、営業本部長という立場をはじめて訊ねてみた。優歌が興味を持ったことをうれしそうにして淳介は説明してくれた。

 興味があるのは、おそらく淳介が思っているだろうところとずれている。知りたいのは上戸匠のこと。淳介にはちょっと悪い気がしながら熱心に聞いた。

 優歌はアルバイトもしたことがなく、会社の組織構図はまったく見当もつかない。大まかにいえば、業平商事の営業部は企画課と営業課に分かれていて、淳介はその先頭に立っているとわかった。企画課は開発を手がけ、営業課はそれを売りこむ。それぞれに部門、その下に班と組織化されている。

 つまりは上戸も金城も、専属は違えど班長という同じ役職を持ち、同等の立場のはずだ。それなのに金城と違って上戸は家に来たことがない。そのことは、会社での出来事を反すうしているうちに、金城に『上戸ははじめてだろ?』と聞かれたことを思いだしてから、優歌は確信した。

「上戸さんと金城さんて、年は同じくらい?」

「彼らは同期だ。大学を出てから四年めに入った。班長という辞令も出て、これからが力の発揮どころという時期だな。どっちも優秀な社員だ。期待に応えてくれるだろう」

 淳介は満足げだ。

 淳介が声をかけていないのか、上戸が断っているのか、家に来ない理由はなんだろう。淳介の口調から差別は窺(うかが)えない。

 訊くのもへんに思われそうで、結局、優歌は訊ねなかった。

「優歌、今日はどうだった?」

 姉の優美がリビングに入ってきた。

 大学生の優美は毎日のように、サークルだの友だちと約束だのと云っては夜遅くに帰ってくる。早いのは淳介が部下を連れてくる日だ。当日でも佐織から連絡を受けると、その時間までには帰宅している。つまりはどうとでもなる遊び事が多いということで、独りでいても平気な――いや、独りでいるのが好きな優歌とは正反対に優美は社交的だ。

「うん、ちゃんと終わったよ」

「そっか。がんばったね」

 優美はたまに優歌を幼い子供みたいに扱う。いまの云い方はまさにそうで、それでも抗議できないほど、いつまでたっても頼りないことは優歌も自覚している。

 優美はその名のとおり、やさしくてきれいだ。そのうえ、知的で行動力もあり、余すところなくメリットを備えている。優美が早い者勝ちでほとんどいいところを持って生まれて、優歌はその残り物で生まれてきたんじゃないかと疑うこともある。躰も弱ければ意志も弱く、怖がりで卑屈な気持ちだけが一人前だ。

 比べられていることに気づくたびに、孤軍奮闘する気にもなれなくて、まず落ちこむ。かといって、優美を妬(ねた)んでいるわけではない。かえって、こんないじけた妹の面倒をうるさがることもなくみてくれるような優美が大好きだし、自慢でもある。

 いま、優美は四回生で、就職を決める時期に入っているというのに、あたふた走りまわることはない。この就職難の時世に苦労するまでもなく、すでに淳介の会社での採用が有望なようだ。

 そのせいで、業平商事の様子を根掘り葉掘り訊かれたけれど、優歌が答えられることは少ない。

「お父さんの会社ってホントに世界と繋がってた。上戸さん、中国語が喋れてすごいなって思ってたら、英語までスラスラだった。メールも英文だったし。中国語は片言って云ってたけど、それでもすごいよね?」

「ぷっ。優歌ってば上戸さんのことばっかりだね。お父さんもやってることだよ」

 優美は可笑しそうにして、優歌が意識していなかったことを指摘した。何を思ったのか、にこにこして聞いていた淳介から、特異なものを目にしたような妙な顔つきで見つめられると当惑した。

 淳介と話しているときは何かと金城を引き合いに出して紛らせていたのに、いつも相談にのってもらっている優美にはつい油断したようだ。

「あ……だって上戸さんにいろいろ教えてもらったから」

 優歌は急いで弁明した。

 焦る理由なんて自分でもわからない。

 はっきりしているのは上戸を知りたいということ。

 


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ため息と後悔

 

 その後、もらった名刺は優歌のお守りになった。勇気を出せる機会を活(い)かせられなくても心強さがある。

 そして、ふと気づけば、優歌は上戸のことを考えている。

 淳介が仕事の話をすれば聞き耳を立て、部下たちを連れてくれば苦手な接待をがんばってみた。何が知りたいのか、自分でもよくわからない。淳介が連れてくることのないかぎり、上戸とはもう会うことはなくて、意味のない衝動だ。どうしてこんなに気になるのだろう。

 あれから一カ月、五月の終わりは暖かいというよりは暑くなってきた。

「ただいま」

 優歌は靴を脱ぎながら学校から帰ったことを知らせた。が、今日は佐織の返事がない。

「お母さん?」

「あ、こっちよ。おかえりなさい」

 少し声を大きくしてみると、いつもいるリビングからではなく、佐織たちの部屋のほうからこもった声が応えた。

 奥に行って、和室の戸と向かい合わせにあるドアを開けた。すると、口の開いたトランクケースが目につく。佐織はその横で、しわが寄らないよう手際よくシャツを畳んでいる。

「どうしたの?」

「お父さんが急な出張なの。家に戻る時間もないらしくって。病院までおばあちゃんを迎えにいかなくちゃならないんだけど、優美はまだ帰ってこないし、おばあちゃんにはちょっと待ってもらわなくちゃ……」

 二カ月まえ、隣町に住んでいる父方の祖母は、自宅の玄関先にある階段で転んだすえ足を骨折した。いまは週二回のペースでリハビリの病院に通っていて、佐織が送迎をしているのだ。

「タクシーでいいんだったら、わたしがお父さんのとこに持ってってもいいよ?」

 佐織がため息混じりでつぶやくのを見て、つい優歌の口が出しゃばった。佐織は驚いた顔をしながらも期待に満ちた眼差しを向ける。

「ほんと?」

「うん、それくらい大丈夫」

「助かるわ」

 ちょっぴり後悔しないでもなかったけれど、佐織がほっと喜んでいるのを見るとめったに味わえない、役に立てることへの充足感があって、優歌は取り消さなかった。

 一時間後の夕方六時、優歌は一カ月ぶりに業平商事のまえに来た。タクシーを降りると運転手がトランクケースをおろしてくれた。

 淳介に到着したことを知らせようと連絡をしてみると、携帯電話はすぐに留守番電話に切り替わった。そこではたと気づいた。緊急である以上、淳介は慌ただしくしているに違いなく、電話を取る暇もないかもしれない。

 どうしよう。

 長めのふわふわしたチュニックとトレンカレギンスという恰好に、ばかでかいアルミのトランクケースでは極めて不釣り合いで、そのアンバランスさが人目を引いている。だんだんと勇気がしぼんだ。いまさら、帰るわけにもいかない。

 だめ! こんなときこそ勇気出さなくちゃ……。

 自分を叱咤(しった)していると、「あ」と声に出るほどいきなりで優歌は思いついた。

 でも……。

 思いつきは即実行とはいかず、携帯電話を持った手がためらいに揺れる。迷いながらも優歌は電話帳マークのボタンを押した。電話をかけることはないと思ってもお守りがわりにと、登録していた上戸の番号を画面に呼びだした。

 いったんやめようと閉じかけたとき、上戸の笑った顔を思いだした。気づいたら画面に『呼出中』の表示が出ている。

 頭より親指のほうが勇気あるんだ。優歌はそんなばかみたいなことを思った。

 画面はすぐに『通話中』に変わり、優歌は慌てて携帯電話を耳に当てた。

『……上戸です』

 一カ月ぶりに聞いた声は、優歌を必要以上にどきどきさせた。電話となると低い声は温かく聞こえる。

 はじめてのときはそれどころじゃなくて、せっかくの電話で話すという機会を逃してもったいなかった、などという、いまの状況にそぐわない不埒(ふらち)なことを思う。それで優歌はまた慌て、携帯電話を耳から離すと、あのときみたいにぷっつり切りそうになった。

『……もしもし?』

 かすかに上戸の声が漏れてきて、優歌は同じ失態をしてはいけないと自分を諌めた。

「もしもし……あの……」

『優歌ちゃん?』

 どう切りだしたらいいのか、優歌がためらっているうちに上戸は云い当てた。

「……はい」

 どうしてわかったのだろう、と、ふと考えてしまって、たった一言の返事をするのにも一瞬だけ言葉に詰まった。

『どうした?』

「あの……父が出張しなくちゃいけなくて、その……母のかわりに――」

『ああ、出張のことは聞いてる。どこにいる?』

 優歌のしどろもどろな説明はさえぎられた。上戸は事情を素早く察したようだ。

「会社のまえにいます」

『すぐ行くよ。待ってて』

 優歌の返事も待たずに電話は切れた。

 やさしい声とはいえないまでも、刺々(とげとげ)しい冷たさはなくて、耳のなかから余韻が去らない。待っている間、優歌の心臓は破裂しそうなくらいに激しく収縮と拡張を繰り返している。

 まもなく上戸は会社の玄関口に現れ、初対面のときと変わらず、モデルに負けていないスマートな歩き方で近づいてきた。

「こ、こんにちは」

 うわずった声に優歌は恥ずかしくなる。上戸は気にしていないようで、無表情に近い顔のままうなずいた。

「優歌ちゃん、顔色が悪くないか?」

「あ……いえ、緊張してて……」

 そう答えると、上戸の表情が少し硬くなった気がした。

「あ……心配かけてすみません。大したことないんです。……慣れないことすると、ひどく緊張してしまうから……」

「おれだから、ってわけじゃ……」

 上戸は最後まで云わずに言葉を濁した。

「え?」

 優歌の問い返しには肩をすくめて聞き流し、上戸は「これ?」とトランクを指差して軽々と持ちあげた。

「帰りはどうする?」

 上戸は辺りをちらりと見回す。まもなく太陽が沈み、通りは外灯のともる時間帯に入っている。

「あ、電車で――」

「送っていくよ。とりあえず、こっち来て」

 断る間もなく、上戸はトランクを持って会社の玄関に向かった。コンパスの差のせいか、歩くのが早くて優歌は小走りであとをついていった。

 待合ブースに入った上戸は自動販売機のまえに立ち、コインを入れてオレンジジュースを取りだすと優歌に渡した。このまえのことを憶えているのだろうか。同じものだ。

「仕事を片づけてくるから、ここでちょっと待ってて」

 有無を云わさず、上戸は強引に云い残して背中を向けた。

 優歌は混乱したまま、とりあえず云われたとおりに空いた席に座った。一方的すぎてしばらく頭がまわらなかったものの、周囲を眺めているとだんだんと平静に戻った。

 いまの時間帯は、会社のなかに入っていく人よりは出ていく人のほうが多い。だれもと親しいのかと思うくらい、「お疲れさまです」という言葉がにぎやかに飛び交っている。

 淳介が、業平商事のことをフレンドリーな会社だと云っていたことを思いだす。仕事についてはそれなりにベストを要求されるが、〝社員は家族〟というのがモットーらしい。

 金曜日ともあって、これからお楽しみの予定があるのか、OLたちの表情は華やかだ。

 優美のことを大人っぽいと思っていたけれど、OLたちはもう一歩さきを進んでいる感じだ。単に見た目ではなくて、内部から滲みでている、自分への自信の表れだろう。

 それに比べてわたしは……。

 上戸からすれば手のかかる高校生にしか見えなくて――そのとおり高校生だけれど、優歌がそれ以上に厄介な性格をしていることは間違いない。

 送っていくって……。

 挨拶さえまともにできないのに、またいらない面倒をかけそうな気がしてきた。

 優歌はバッグから手帳とボールペンを取りだした。

 自動販売機のまえでしばらく迷い、無難に微糖の缶コーヒーを選んだ。それを手帳から切りとったメモの重石(おもし)にして、優歌は業平商事をあとにした。

 

       *

 

 予定外の電話に時間をとられ、匠が一階の待合ブースに行ったのは三十分後だった。

 優歌の姿はなく、かわりに缶コーヒーとその下にあるメモを見つけた。

『上戸さんへ。さきに帰ります。ありがとうございました。お疲れさまです。優歌』

 汗を掻いた缶コーヒーと少し滲んだ文字が、あれからすぐに優歌が帰ったことを示している。

 匠はため息をつき、顔をしかめて立ち尽くした。

「上戸、めずらしく早く出たと思えば、まだこんなとこにいたのか」

 匠は声のしたほうを振り向いた。悠長に呼びかけたのは、大学から一緒という同期の金城だ。

「息抜きだ。仕事に戻る」

「はっ。なんでも適当にやってたおまえが、ここまで仕事好きになるとは思わなかったな」

「どういう意味だ。肝心なことを適当にやってきたつもりはない」

「まあな。それより、これから営業部の飲み会だし、どうせなら来ないか? おまえ誘えっていう女、多いぜ?」

「面倒だ」

「〝タラシの上戸くん〟とは思えない発言だな」

 大学時代の匠を知っている金城は、事あるごとに昔の肩書きを持ちだして匠をからかう。

「そういつまでもバカやってるわけにはいかないし、まず、おまえに云われたくないね。早く行けよ」

 匠は目を細めて往(い)なした。

「はいはい。じゃな」

 金城は軽く手を上げて立ち去った。

 やっぱ……。

 匠は内心で迷うようにつぶやき、もう一度ため息をついてから待合ブースを出た。

 

       *

 

「ただいま」

 優歌は玄関の戸を開けて、家のなかに声をかけながら靴を脱いだ。リビングに入ると、佐織は電話中だった。優歌を見やった顔は何かを訴えているように見えた。

「あ、いま帰ってきました。……はい、ちょっとお待ちくださいね」

 佐織は送話口を手でふさいで、そのまま優歌に受話器を差し向けた。

「え?」

 優歌はふとした予感にどきりとして目を丸くした。

「上戸さんよ。優歌が帰り着いたか心配してくださってるの」

 電話を取るのをためらっていると、佐織が「早く」とせっついた。

 正直にいえば、業平ビルを出てくるときは迷惑をかけないようにこれでいいと思っていたのに、電車に乗ってからは黙って出てきたことをちょっと後悔している。

「はい……優歌です」

『無事に帰り着いてよかった。コーヒー、ありがとう』

 上戸はどう思っているのか、声を聞くかぎりでは怒っているふうでもなく、ただ無表情に聞こえた。

「いえ。あ、あの……すみませんでした。黙って帰っちゃ――」

『もういい。怖がらせたとしたら悪かった。じゃ』

 上戸は優歌に最後まで云わせなかった。そのうえで上戸の云ったことは、愛想を尽かしたようなセリフに聞こえた。

「いえ――」

 優歌が違うと訂正できないうちに電話はぷっつりと切られた。

 その瞬間、心底から後悔した。

 



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