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異世界のメロディ







異世界のメロディ


松 浦 徹 郎



 

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異世界のメロディ(序)

 
 
 数式について語っている、というより教科書を朗読している教員の声が遠くに聞こえる。
 高校三年で、大学受験が控えているからだろうか。どいつもこいつもめがねを光らせ板書をノートに書き写すことに集中していて空なんか見ようともしない。
 もったいない話だ。
 五十川良樹(いそかわよしき)はつくづくそう思う。
 夏を迎えようとしている青空には、飛行機が一筋の雲を引いていた。
 だからといって、五十川にはこの光景を誰かと共有したいと思うようなこともなかった。
 ほかの奴らには、それぞれのやりたいことがあるのだ。他人になにかを強要するのは好きじゃないし、強要されるのもいやだ。
 朝、遅刻して。そして劇場型のつまらない授業を受け、さっさと家に帰り結末の決まっている単調なゲームを作業のようにこなす。
 学校でも家庭でも、五十川はいわば『無』の存在だった。
 いじめに遭っているわけではないし、虐待されているわけでもない。むしろ、いじめに遭わないように、つまらないトラブルに遭わないように。そうやって生きてきた結果、社会との干渉性を喪失した。
 誰とも接点のない生活は、なれると楽だった。
 引きこもりや非行などに走らなくても、ふつうにしているだけで完全な自由を手に入れた。ずっとそう思っていた。
 だけど時々そんな気持ちにも揺らぎが訪れる。たとえば、今みたいに飛行機雲を目で追っているときだ。
 今、自分は地の底にいるのだと思う。薄暗く、じめっとした穴の中で誰にも気づかれることなく勝手な生活を送っている。だけどあの飛行機は人間の社会性が生み出したものだ。
 作る人、整備する人、操縦する人。そして利用する人。それぞれが干渉し合って鉄の塊を空高く飛ばしている。その姿は、なんとも美しい。
 永遠に続くと思っていた高校生活もじきに終わる。
 自分はどうなっていくのだろうか? こんな生活から、いつか解放される日が来るのだろうか? あの、大空をゆく飛行機のように地の底から飛び立てる日が来るのだろうか?
「ま、無理だろうな……」

 

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異世界のメロディ(1)

 
 第一章 リセットされた世界で


 消えてゆく飛行機雲を眺めていたような気がした。
 でもそれは幻で、そこにあるのは黒い架線の影だった。さらに体を揺さぶる風圧を伴って、特急電車がプラットホームに立つ五十川のすぐそばを駆け抜けてゆく。
 パンタグラフと架線の間で、青白い光が瞬くのが見えた。
 なにか大切なことを忘れているような気がする。
 別に答えが書いてあるとは期待していないが、五十川は制服の袖をめくって腕時計の針を見た。
「どこかにぶつけた、かな?」
 五十川の腕時計は、ハンマーで殴られたみたいに文字盤がぐちゃぐちゃになっていた。ただ日付だけは九月一日を指しているから、たぶんそうなんだろうと思う。
 五十川のほかには誰もいないプラットホームを見渡してため息をつく。
 残念ながら、今五十川が立っている位置からは駅の電光掲示板はみえない。しかし列車の接近を知らせるランプが点灯しているから、まもなく次の電車は来るのだろう。
 入線してきた電車に乗り込み、がらがらのシートに腰掛ける。同じ車両内には、多く見積もっても数人しか乗っていない。
 いつもこんなに乗客は少なかっただろうか。
 車窓からはのどかな田園風景がみえる。
「ん?」
 おかしい。なにがおかしいのか自分でもよくわからないが、見慣れた通学の車窓ではないようだ。下り列車と上り列車を間違えたのだろうか。
 目に入ってくる風景に疑問を覚えたとき、今どのあたりを電車は走っているのだろうかと気になり始めた。
 こういうものはたいてい芋づる式になっていて、一つわからないと次々と連鎖的に疑問がわいてくる。
 次の駅名は?
 降車するべき駅は?
 自分の名前は五十川良樹で、本当に合っているのか?
「ゲームのしすぎ、だな」
 我ながらばかばかしい妄想だ。そう切って捨てるのは簡単なことだったが、どうしても切り捨てられない理由もあった。
 しばし流れる車窓の景色をみてからつぶやく。
「やべぇな。マジでわかんねーや」
 今の五十川には、疑うべき解答すら浮かんでこないのだった。つまりは左手首の九月一日を示す腕時計と、ポケットの生徒手帳を信用するしかないことになる。
 睡眠不足は、記憶力の低下や判断力を鈍らせるだけでなく、どうやら感情も殺すらしい。
 確かな記憶もない上に、どこに向かっているのかもあやふやな電車に揺られているというのに、五十川はただぼんやりと車窓の景色から中吊り広告に視線を移しただけだった。
 深く考えることを脳が拒絶している。
 そんな感じがしていた。
 結局、終点から二つ前の駅で下車した。
 意識が覚醒したわけじゃない。相変わらず夢の中にいるようだったが、脳みそではなく体が通学路を記憶しているようだ。
 改札を抜けると、でっかい桜の木を中心にした駅前ロータリーのような場所に出た。
 ICチケットをかざしてちょうど停車していたバスに乗り込む。電車同様こちらも九割が空席だった。五十川のほかは律儀にシルバーシートに座っている年寄りだけだ。
 なんだか銀河鉄道の夜みたいだな、と五十川は思った。
 もっとも、こちらは天の川を駆ける列車ではなく真っ昼間に田舎道をすっ飛ばすバスだったし、そもそも五十川には友達はいなかったから誰かが乗車してくることもないだろう。
 途中、バスは丘の上にある療養施設で年寄りを降ろして、五十川の専用車になった。
 運転士は意味がないと思ったのか、車内アナウンスを次々と切り替えてバス停を華麗にパスし、終点で五十川を降ろすと回送表示にして走り去っていった。
 ここであっているんだよな?
 自分自身に言い聞かせ、バス停からつづくゆるい坂道を登っていく。坂道は途中からトンネルになり、トンネルを抜けると――。
 どこかのニュータウンかと思った。もしくは工業団地だ。
 トンネルの出口。つまり、五十川が立っている場所はその造成地から少し高い位置にあり、はるか先まで見渡せるのだが、団地のような建造物の列はどこまでも続いていた。
 足元だけに注意を払って頭を使わずに通路、階段、渡り廊下を進んで行くと『2014』というプレートが貼ってある扉の前にいた。
 ポケットにあった鍵を差し込み右に回す。軽い金属音がして、扉は簡単に開いた。
「寮の部屋だったのか……」
 だんだんと記憶が蘇ってくる。
 五十川はデスク上のカレンダーで日付を確認した。
 カレンダーは七月のまま。そして腕時計は九月一日に壊れたようだ。
 なんのことはない。記憶喪失とか大げさなものではなくて、たんなる夏休みボケだ。
 問題はすべて解決した。……はずだった。
 校舎はどこも静まりかえっている。すでに始業式は終っているのだろう。始業式なら、講堂に行けば何となくみたような顔がいる可能性があった。だけど、今の五十川には自分の行くべき教室がわからない。
 頭がぼんやりしているから仕方がない。夕方まで待って、寮に生徒らが帰ってくれば同じクラスのやつだって見つけることができるだろうし、夏休みの馬鹿話でも聞いていれば頭も覚醒してくるに違いない。それまでは適当に時間をつぶしていよう。
 そして彼女に出会った。女声コーラスが聞こえる音楽室の前で。


 

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異世界のメロディ(2)

 
 彼女。つまり音楽室の前を行ったり来たりしていた女の子は、胃痛か胸焼けかというような顔をしていたが、五十川に気づくと大きな丸に近い目をさらに見開いて、まるで着替えを覗かれたみたいな表情になった。
 小柄だけどスマートだったし、短めのスカートから伸びる足はまっすぐできれいだったから、思わず視線を向けていたのは確かだ。だから警戒されたのかな、と五十川は思った。
 他人から干渉されない方法は、一に他人をみない。
 これは鉄則だ。みるということは、相手からも等しくみられるということだから。
 そういう意味では、五十川らしくないミスを犯した。
「あ、あの……」
 空気をうまく取り込めないのか、女の子は口をパクパクさせている。
「コーラス部の先輩ですか?」
「まさか」
 返事はできるだけ素っ気なく。そして何事もなかったように立ち去るのが正解だ。
 それはわかっていた。
「そうですよ、ねぇ……」
 二つに結ってあるとても長い髪を大きく揺らして、女の子は大げさなため息をつく。
 その大きなリアクションと、ちらっと見えたうなじのせいで、無視するタイミングを逃してしまった。
 だからどうでもいいことを口にした。
「きみは?」
「わたし、初音久美(ういねく み )っていいます。一年生です。先輩はここに知り合いがいるんですか?」
「先輩?」
「だって、ネクタイの色が」
 五十川は自分のネクタイをみる。どうも色で学年がわかるようだ。
「先輩なんて呼び方はやめてくれ。俺は五十川良樹。生徒手帳が間違いなければ三年だ」
「?」
 久美は思っていることがすぐに顔に出るタイプのようだ。
 五十川のことばを聞くと、「なにをいってるんだろう?」といった様子で首をかしげた。
「あー、気にしないでくれ。ちょっと記憶が混乱気味なんだ」
「記憶喪失なんですか?」
「ちょっと違うけど、まあそんなところだ」
 高校に入ってから、ほとんど誰とも口をきいていない五十川だったが、マイペースながらも次々と質問を投げてくる久美のおかげでいきなり最長記録更新だった。
 本当はすぐにでも立ち去りたかったが、不思議と久美にみられていると離れられない。
「で。グミは音楽室の前でなにやってるんだ?」
「久美です! クミ!!」
 久美はスリムな胸の前でこぶしを作って力説する。
 すまし顔のアイドル気取りな生徒かと思ったが、話してみると面白いヤツだな。
 それが初音久美の第一印象だっだ。それ以上でもそれ以下でもない。すぐにその場所を立ち去ってしまえば、もう二度と会うこともなかっただろう。
「わたし……。コーラス部に入りたかったんです」
「え?」
 その場から歩き始めようとしていた五十川は、消え入りそうな久美の声に振り返る。
 恥ずかしそうに頬を赤らめて、久美は視線を地面に落としていた。
 それが、「なにをやっているんだ?」という五十川の問いかけに対する返答だと気づくまで、だいぶ時間がかかった。五十川は久美が本当に答えるとは思っていなかったからだ。
 それに「コーラス部に入りたかった」という答えも、唐突すぎた。
「なんで今頃?」
「わたし、変な声だから……。怖くて春に入部できなかったんです」
 いわれてみれば、たしかに久美の声はいわゆる『アニメ声』だ。でも地声で歌うわけじゃないだろうし、挑戦しないのはもったいない気がする。
「部長には会ってみたのか?」
 久美はボリュームたっぷりの髪を揺らして首をふる。
「じゃあ、直接話してみたらどうだ?」
「……それができれば、苦労はないです」
 いくら入部したいといっても、音楽室の前をうろうろしているだけじゃあ前進しない。それに五十川には別の事情もあった。
 この場からの自然な離脱である。
 どういうわけか、久美と話していると自分のペースが、つまり空気みたいな存在でいるということが貫けない。どうあっても守らなければならないポリシーとは違うが、余計なトラブルから身を守るためには気配を消して生きることが必要だ。
 だから体よく久美と別れるためには、彼女には音楽室に入っていってもらうのが賢明だと五十川は判断した。
 だから久美に、「思い切ってコーラス部を訪問してみなよ」といった。
「そんなっ――」
 久美は五十川の言葉が信じられないといった感じで、絶句している。
 なにをいっても余計なことになるのはわかっていたが、もし今第三者が現れたら話はもっと複雑になってしまう。だからとっさに思いついたことを口にした。
「いやさ、うろうろしていても始まらないだろ。向こうに怪しい生徒って思われてから話を始めるより、先手を打って交渉した方がいいと思うんだ」
「そんなもんなんでしょうか……」
「そんなもんだよ」
「それじゃ、五十川さん一緒に来てくださいっ!」
「え!?」
 今度は五十川が絶句する番だった。
 久美は、逃がすものかとでもいうように五十川の袖口をつかんでいる。
「いくらなんでもそれは不自然だろ?」
「それなら、五十川さんはわたしのお兄さんということにしてください」
 理屈も無茶苦茶だが、久美がつかんでいる手にも相当力が入っていた。
「おいおい」
 久美は五十川の背後に回り込み、背中を押しながら音楽室へと入っていく。
「先輩らしく、後輩を守ってください」
「守るって……。別に敵陣に乗り込むわけじゃないだろ?」
「それでも守ってください!」
 仕方なく、五十川は音楽室へと歩を進めた。

 

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異世界のメロディ(3)

 
 歌声が聞こえてくるのは、廊下の右手にある第三音楽室と書かれた教室だった。
 五十川は重たいハンドルを押し下げて、防音扉を開いた。
 歌声がぴたりと止まる。
「ちょっと、みんなどうしたの?」
 入り口に背を向けて指揮をしていた部長だけが、五十川の登場に気づかず怪訝な声で部員一同に問いただす。
「ん?」
 部員の一人が五十川を指さし、それにつられるようにして部長が振り返った。
「見ない顔ね。なんの用かしら? みればわかると思うけど、今練習中なのよ」
 端っこのつり上がっためがねをかけた、委員長と呼びたくなるような容貌の部長はきつい口調で五十川を追い出そうとする。
「あ、いや。用があるのは俺じゃないんだ。……ほら」
 五十川の背後に隠れている久美を引っ張り出す。
「あ、あの……」
 音になったのはそこまでだった。あとは真っ赤になって口をぱくぱくさせているだけで、言葉が続かない。五十川は、こりゃアニメ声コンプレックス以前の問題だな、と思った。
「あのさ。こいつ、コーラス部に入りたいんだって」
 固まっている久美の姿を見かねて、五十川が代わりに切り出した。
「そうなの?」
「はははは、はい!!」
「なんで今頃? 新入部員の募集なら春先にちゃんとやったわよ」
 この部長、どうやら自分の手落ちで告知が行き届かなかったとは思われたくないらしい。
「その……。あんまり歌に自信がなくて」
「困ったわね。……ちょっと各パートごとに練習していて。わたしはこの二人と話しをしてくるから」
 二人?
 久美はあいかわらず五十川のそばを離れる様子はないし、委員長めがねの部長さんは指揮棒を譜面台において、さっさと音楽室を出て行こうとしている。
 仕方なしに久美に付き添って、ついて行った先は廊下を挟んで反対側の音楽準備室という小さな部屋だった。パイプ椅子が数脚あるほかは、壁一面が楽譜で埋め尽くされていた。
「名前は?」
 部長はパイプ椅子に軽く腰掛け、足を組むと久美の方をじっと見た。
「初音久美、一年です」
「初音さん。あのね、校則では確かに部活動の入退部は生徒の自由っていうことになっているけれど、うちはそれなりに伝統もあって。まぁ、いろいろと難しいのよ」
「入れてもらえないのか?」
 思わず五十川が口を挟んだ。
「うーん」
 部長は髪をかき上げながら、しばらく考えてから経緯を説明した。
 なんでもコーラス部にはおっかないOGどもがうじゃうじゃいるらしい。共学なのに、混声ではなく、女声のコーラス部になっているのもそのあたりが理由だといった。そして毎年、新入部員歓迎合宿と称してハードな基礎トレーニングをしているということだった。
 うなだれる久美。目はかすかに潤んでいる。
 五十川がどうやってこの場を収めて退散しようか思案していると、部長は意外な提案をしてきた。
「あなたが基礎トレーニングは不要なほどの実力があるというなら、みんなも納得できると思うの。だからテストをしてあげるわ」
「テスト、ですか?」
「好きな歌でいいから一曲歌ってみて」
 久美も覚悟を決めたのか、若干落ち着いてきたようだ。
「そ、それじゃあ……」
 深呼吸をして、瞳を閉じて静かに歌い始めた。

 


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