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てきすぽどーじん5号 「初体験」
「親不孝ウエストゲイパーク」 山田佳江
親不孝ウエストゲイパーク
親不孝ウエストゲイパーク(1)
親不孝ウエストゲイパーク(2)
親不孝ウエストゲイパーク(3)
親不孝ウエストゲイパーク(4)
「原発少女・福島もんじゅ ~パイロット版~」 シゾワンぷー
原発少女・福島もんじゅ ~パイロット版~
原発少女・福島もんじゅ ~パイロット版~(全)
「穴蔵の娘」 雨森
穴蔵の娘
穴蔵の娘(1)
穴蔵の娘(2)
穴蔵の娘(3)
穴蔵の娘(4)
穴蔵の娘(5)
「パラレルワールドの僕」 香吾悠理
パラレルワールドの僕
パラレルワールドの僕(1)
パラレルワールドの僕(2)
パラレルワールドの僕(3)
パラレルワールドの僕(4)
パラレルワールドの僕(5)
パラレルワールドの僕(6)
パラレルワールドの僕(7)
パラレルワールドの僕(8)
「テキスポで暮らした人たち」 蟹川森子編
テキスポで暮らした人たち
テキスポで暮らした人たち(1)
テキスポで暮らした人たち(2)
「惟任百里的初恋探偵物語」 あやまり堂
惟任百里的初恋探偵物語
惟任百里的初恋探偵物語(序)
惟任百里的初恋探偵物語(1)
惟任百里的初恋探偵物語(2)
惟任百里的初恋探偵物語(3)
惟任百里的初恋探偵物語(4)
惟任百里的初恋探偵物語(5)
惟任百里的初恋探偵物語(6)
惟任百里的初恋探偵物語(7)
惟任百里的初恋探偵物語(8)
惟任百里的初恋探偵物語(9)
誤訳捏造「OUTサイダー」 茶屋休石
誤訳捏造「OUTサイダー」
誤訳捏造「OUTサイダー」(序)
誤訳捏造「OUTサイダー」(1)
誤訳捏造「OUTサイダー」(2)
てきすとぽい広告
てきすとぽい
「異世界のメロディ」 松浦俊郎
異世界のメロディ
異世界のメロディ(序)
異世界のメロディ(1)
異世界のメロディ(2)
異世界のメロディ(3)
異世界のメロディ(4)
異世界のメロディ(5)
異世界のメロディ(6)
異世界のメロディ(7)
異世界のメロディ(8)
異世界のメロディ(9)
異世界のメロディ(10)
異世界のメロディ(11)
異世界のメロディ(12)
巻末の随筆
巻末容赦
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穴蔵の娘







穴 蔵 の 娘


雨 森





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穴蔵の娘(1)

 

 夜陰のなか、絶えず雨が地面を打つ音が続く。
 屋根伝いに庇から零れ落ちる雨だれは、すでに男の全身をしとどに濡らしていた。男の足元には鉢に植えられた朝顔の小さな蕾が雨に打たれてしなだれている。
 男は息を潜め、じっと頃合が訪れるのを待っていた。四谷伊賀町の辻を裏手に入った密集する長屋では一度騒ぎが起これば、無事に逃げおおせる事は難しかった。
 目当ての長屋は間口が狭く音も洩れやすい、誰にも見咎められずに事を成就させるのは至難の業といえた。しかし、少なくとも確実を期すためにはこの激しい雨が止まぬうちに仕掛けなければならない。
 だが男の胸中には、かつての懊悩の残り滓がまだ燻り続けていた。それは、男自身の正気を確かめる最後のよすがとも言えた。
 腰の佩刀の鯉口を切り、ぬらりと刀身を抜き出す。木鞘と柄糸が雨水を吸ってずしりと重い。この重さこそおれの最後の良心だ、と男は思った。それをこそ男は金繰り捨てて行かねばならなかった。
 あの女を斬らねばならぬ。男は頭の中で胸中の残り滓を説得した。
 あの女を殺す事でしか、おれは救われぬ。狂ってしまえ。狂って、斬り捨てねばならない。男はかちかちと歯を鳴らしながら切っ先まで抜き放った刀をだらりと右手にぶら下げると、深く息を吸い込んだ。

 ――遡ること半年前。三浦彦四郎は心の底にぐつぐつと沸き立つ、言い表せぬ焦燥に身を焼いていた。
 恋だった。それは朴念仁の彦四郎にも分かる。だがその恋は今までの味わったどの恋慕よりも彦三郎の心を傷め付けるものだった。
 幕府直属である先手鉄砲組の同心としての彦四郎は、よく言えば謹厳実直だが悪く言えば洒脱さとは無縁のいたって面白みのない男であり、彦四郎自身もそれを自覚していた。武芸達者や腕自慢の多い先手組の中では直心影流の目録添状を修めた事は目立つ経歴ではなく。役目にひたむきではあったが同心たちの間での彦四郎の評価はせいぜい中の上といった所で、誰からも恨みを買う事はないがその生活は穏やかで、反面無味としたものでもあった。
 だが彦四郎の日常はそれまでとは一変してしまった。彦四郎は目前に投げ出された四本の足を凝視した。そのうちの二本の足の生白さが恐れとなって彦四郎の胸に迫った。
 新富町の舟宿で、その日も彦四郎はるいと会い、一見細身にして豊満な肢体を充分にまさぐった。
(なぜ、こんなばかな事を繰り返すのか)
 それは彦四郎がいつも思う事だったが、そう思うのは決まって逢瀬の後の事だ。
(やはりおれは取り憑かれたのかもしれぬ)
 もぞ、と敷布の上で彦四郎のものと交わっていた白い足が動いた。その足先から手前へとたどってゆくと、生白い太股と尻が彦四郎の躯の上に吸い付いている。
 るいはゆっくりと身を起こすと二つのゆたかな乳房が彦四郎の眼に露わになった。女はその事に恥らいも見せず「帰ります」と告げた。彦四郎が無言で頷くと、るいは衝立に隠れて身を整え始める。
 襦袢と小袖を手際よく身にまとう音を彦四郎は呆然といった態で聴いていた。まるで、辺りに乱れ散らばっていた小物がみるみる内に用箪笥に仕舞われてゆくようだった。このるいという女の本性とはどこにあるのか彦四郎には未だにして分からない。行為の後の余韻を少しも見せる事のない所作で衝立から離れ、きっちりと襟を正したるいを彦四郎は見上げた。るいはその頬からうなじをほのかに赤く染めていた。何度肌を合わせても気の馴染む様子のないこの女から、隠しようのない秘事の証を認めた彦四郎に得体の知れぬ充足がこみ上げた。
「次はいつ会えようか……」そう開きかけた唇を慌てて彦四郎は噛み締めた。その言葉はるいにかけるべき種のものではない。一拍の間が空いて、るいの瞳に初めて微かな動揺が見えた。
「帰ります」
 目を伏せて同じ言葉をもう一度繰り返すと、るいは襖を開けて部屋を出て行った。彦四郎は自らに去来する衝動を抑え煙管に火を点けた。
 これは決してるいへの恋慕ではなかった。少なくとも彦四郎には別段の情はない。これも全てつやのためなのだ。改めて彦四郎は、るいへと延びてゆこうとする己の欲を断ち、つやの美しい声を思い浮かべた。

 

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穴蔵の娘(2)

 
 すべての切欠は声だった。
 この頃、彦四郎は四谷本塩町に居を構える上田孫兵衛の道場で通い稽古をしていた。
 上田孫兵衛はかつて品川台町にあった直心影流細木道場の同門で彦四郎にとっては兄弟子にあたる男だったが、その歳の差は親子ほど離れており、実直な性分に似た粘り強い剣を遣うこの弟弟子に孫兵衛はなにかと眼をかけてきた。孫兵衛たち直系の師である細木甚左衛門が病没してから、目録添状を修めたきり三年ほど道場稽古を離れていた彦四郎を孫兵衛は惜しみ、自らの手で極意傳位を取らせるため彦四郎を道場に引っ張りこんで稽古をつけさせた。
 この孫兵衛の世話焼きは、彦四郎にとって辟易する類のものだった。先手組の平同心は俸給が薄く、非番の日は傘張りなどの内職をして日々のたつきとするのが専らで、剣術稽古などに割く金も時間も惜しかった。そして彦四郎にとって厄介なのは、孫兵衛という兄弟子が拒絶や金の無心が気安くできるような男でもない事だ。けっきょく、兄弟子の誘いを無碍にはできない彦四郎は自らの暮らし向きを犠牲にして渋々と道場稽古に精を出すほかなかった。
 その日も彦四郎の組は非番で、組子の同心たちはそれぞれが内職に勤しんでいたが、一方の彦四郎は本塩町の道場に日の昇りきらぬ朝から篭りきりで孫兵衛のもと稽古をし、帰る頃には日が沈みかけている有様だった。
 春にしてはやけに暑い日で、井戸水で汗を流した体に丁度風が心地よかった。そこで、彦四郎は初めてつやの声を聴いた。
『――つれづれと、そらぞみらるるおもうひと――』
 四谷坂町から伊賀町へと下ったあたりで、町人長屋から聴こえる若い娘の声に彦四郎はふと足を止め、長屋の木戸の前で声に耳を澄ませた。
『――あまくだりこむものならなくに――』
 どうやら和歌のようだ。声は悲しみの籠もったものであり、武芸一筋で和歌の造詣など無きに等しい彦四郎には意味までは分からなかったが、なにやら胸に訴えるものを感じさせた。既に閉められた木戸の傍で声を待ったが、その歌ひとつきりで声は途絶えてしまった。消えそうに小さいが、心に強く名残をとどめる美しい声だった。
 それ以来、彦四郎は道場稽古の帰り道に長屋の前を通り耳を澄ませるようになった。長屋の隅から聞こえる声は、和歌であったり、話し声であったり、他愛ない童歌であったりした。そして一切声のない夕もあり、そのような日はなぜか彦四郎をひどく落胆させた。
 時折、彦四郎は長屋から女が出てくる場面に出くわした。すらりと背の高い細身の女で、最初彦四郎はこの女が声の主かと思ったが、住人と挨拶を交わす声を聞いて娘とは別人だと分かった。おそらくは娘の母なのだろうと思った。

「おつやちゃんに御執心かい?」
 顔を覚えられたのか、人馴れした風の丸髷の女房から話しかけられたのは初めて娘の声を耳にしてから十日ほどが過ぎた日の事だ。
「おつや?」
「とぼけたって無駄さね。おつやちゃん目当てで木戸の前で棒切れみたいに立ってる男が時々いるんだ。丁度あんたみたいなね」
 いたって気安い口調だった。この時の彦四郎は黄八丈の小袖を緩く着流した太平楽な格好で、女房は彦四郎が町人から恐れられている番方の先手組同心とは気付きもしなかったのであろう。観念した彦四郎は、
「あの声の娘はつやと言う名前なのかえ」
 と決まりの悪い思いで自らの目当てを明かすと、女房は木柵の向こうで満足気に笑った。
「でもまあ、おつやちゃんの顔は誰も見たこたないんだけどねェ」
 誰も顔を見た事がない。その返答に彦四郎は眉をひそめた。
「そいつはどういう意味だい」
「そのままさ。おるいさん達がこの長屋に越して、もう一年になるんだけど娘のおつやちゃんの顔を見た奴は一人もいないんだよ」
 眉根をしかめて話を聞く彦四郎に女房の舌が回る。
「うちの長屋でもおかしいって騒ぐ人がいたよ。ゆうれい長屋なんて噂が立った事もあったっけ。でもね、あんな可愛い声の幽霊なんているもんかね」
 女房の話では、つやという娘は浪人者とその妻の間の娘だという。だが誰にも姿を知られぬとは、いったいどういう娘なのか。彦四郎の興味は嫌が応にも深まった。
 堪えかねた彦四郎は長屋のある伊賀町近くに住む上田孫兵衛門下で、普段から昵懇にしている徳之介に話を聞くため酒に誘う事に決めた。

 向井徳之介は御家人の次男坊で今も部屋住の身である。家禄も育った境遇も彦四郎とよく似ており、上田道場では彦四郎が叔父弟子であり徳之介とは長幼の間柄にはなるが齢は徳之介の方が二つほど上、更に剣の腕が伯仲している事もあり、道場の外では互いに彦さん徳さんと呼び交わすほど、何かにつけ彦四郎と馬の合う男でもあった。
「――彦さんの方から私を誘うなんて珍しいが、何事かあったのかい」
 麹町七丁目にある四谷見附に程近い酒屋で、まず一献を飲み干してから徳之介は彦四郎の用向きを聞いてきた。
「つうと言えばかあ、だな徳さん。しかし、まずはもう一杯飲んでくれ」
 そう言って彦四郎は銚子を傾け徳之介の杯を素早く満たした。
 ほっほ、と妙な笑い声を立てて徳之介は杯に唇を寄せる。徳之介は裏表のない好青年だが大の酒好きという欠点があり、師である上田孫兵衛からも常々注意される程だった。彦四郎が酒に誘ったと孫兵衛が知ればおそらくきつい叱責を受けるだろう事は目に見えている。彦四郎の思いはついに切迫したと言える。
「徳さん、あんたは確か在所は伊賀町近くだったね」
「おうとも」 徳之介は手酌で銚子を注ぐと五杯目の酒を飲み干す。
「じゃあ、伊賀町の裏手の『ゆうれい長屋』の噂を聞いた事はないかえ?」
「ゆうれい長屋。いや……」酔いが回り始めた徳之介の顔が赤くなってゆく。
 徳之介は曖昧にうなづくと、暫くして前言を打ち消すように「おう」と言った。もどかしくなった彦四郎は「どっちだい」と板間の床を拳固で叩いた。
「いや、知ってる。その話は聞いた事がある」
「本当かい」徳之介の酒が回り切らぬうちに話を聞きだそうと彦四郎は組み付くように徳之介へ顔を寄せた。
「確か去年だったかなァ、長屋に移り住んだ一家のうち声はするけど姿が見えねえ、なんていう娘がいたそうでね。ちょっとした騒ぎになったんだよ」
 長屋の女房から聞いた話とそのまま重なる内容に彦三郎は小さく二度頷いた。
「その話、もっと詳しく教えちゃくれないか」
 串焼きにした川魚を薦めて彦四郎は徳之介を促すと徳之介は太眉をゆがめた。
「……ひょっとして彦さん、取り憑かれたか」 
「なんだい取り憑かれたって?」彦四郎は思わず瞠目した。徳之介の顔は既に今夜酒に誘った目的に気付いている様子だ。
「その長屋に移った娘ってのは、幽霊、物の怪なんて呼ばれていたが、姿が見えない事が怖いんじゃないのさ。彦さんには分かるかね」 串焼きを手で弄びながら徳之介は上目遣いで彦四郎を見た。
「声だ」間髪を入れず彦四郎が答えると徳之介は深く頷いた。
「うん、あの声さ。聴く者の心を蕩かせちまうような、良い声だった」
「徳さんも聴いたのか……」思わぬ所で同士を得た気分になった彦四郎は羞恥も忘れて語り始めた。声を聴いた夜の事から、るいという女の事、長屋の女房との話。話が進むにつれ、彦四郎自身も信じられない程の興奮に襲われた。
「……なんと言うべきか、私には言い表すのが難しいが、あのつやって娘の声は普通の娘の声とは違うんだ。春に鳴く小鳥をこう、こしょこしょと擽って笑わせたような……。私はもう堪らない所まで来てしまっているんだよ徳さん」
熱を入れて語る彦四郎に、徳之助はまぶしいものでも見るかのように目を細めた。その顔からはすっかりと酒気が消えている。
「そうだね。……だが彦さん、ありゃあいけないよ。ありゃあ、正真正銘物の怪だ。それ以上あの長屋に足を向けるのはよした方がいい」
 彦四郎は口を開いたまま何も言えなくなった。辛うじて、「何があったんだ」とだけ声を引き絞ると、途端に徳之介の顔が険しくなった。
「悪いが楽しい酒にはなりそうにないからね、今夜は帰らせて貰うよ。彦さん、あの長屋にゃあ金輪際行っちゃならないよ」
 いいね、と念を押して徳之介は自分の飲み代を床に叩きつけ屋の暖簾を潜り足早に去っていった。
 友の背中を見送った彦四郎の胸中に止む事のない嵐が訪れた。

 

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穴蔵の娘(3)

 
 徳之介から止められた事は、結果として彦四郎のつやへの恋慕をいや増すだけだった。そもそも、一度駆け始めてしまった道を急に曲がる事などできる訳がないのだ。
(とことん、その物の怪とやらの正体を付き止めてやろうじゃないか)
 そこまで思い至ると、彦四郎の気持ちは定まってしまった。元が粘り強い性分なだけ、一度こうと決めると梃子でも動かない強情な所が彦四郎にはあった。
 それ以来、彦四郎は非番の日を孫兵衛の道場で過ごす事が多くなった。だが、これは全ておつやの声が聴こえる長屋を訪れるための口実でしかない。本当を言えば毎日長屋に入り浸りつやの事を調べたかったが、怪しまれて彦四郎の身元が調べられるような不手際に陥る事だけは避けねばならない。彦四郎は臍をかむようなもどかしい思いで、それまで道場に置きっぱなしにしていた竹刀まで袋に包んでわざわざ持ち歩き、日暮れ前にいかにも道場帰りであるといった風情でゆうれい長屋の前を『通りがかった』。そんな彦四郎の思いなど露知らぬ孫兵衛は、一見それまで以上に稽古に励むようになった彦四郎を我が事のように喜んだ。しかし当の彦四郎はひとえにつやのためだけに竹刀を振っていたのである。
 やはりつやの声には聴こえる日と聴こえない日があったが、先日話を聞いた長屋の女房であるおしまと顔馴染みになると彦四郎は中庭の井戸端で色々な話を聞く事ができた。
 つやの母親だというるいは彦四郎の予想通り、あの細身の女で間違いないようだった。つやの声が聴こえる住戸はつやにるい、そしてるいの亭主である藤村才蔵という四十がらみの浪人者の二人住まいで、才蔵は長屋の住民も碌に顔を見た事がないらしい。彦四郎は興味のない顔でおしまの話に頷いた。
 所帯の話など彦四郎にはどうでもよい事だった。彦四郎はつやに会いたかった。そして心にそっと忍び込むようなあの声と言葉を交わしたかった。この時の彦四郎の頭にはそれしかなかったのだ。
 つやの長屋に足しげく通いだすと、彦四郎はつやの声よりむしろその母であるるいと顔を会わせる事が多くなる。この辺りで彦四郎は改めてるいが器量のよい新造である事に気付いた。しかし、るいの表情や言葉端には人を寄せ付けない屈託のようなものが常にあり、それがるいの美貌の邪魔しているようにも感じられた。
「お前様はつやにご関心がありまして」
 何度目か顔を合わせた折、るいはそんな事を言ってきた。三月二十日の暮六ッ刻の事である。
 内心、彦四郎は怯んでいた。母親と話をする事でつやという姿のない娘が彦四郎の内に急速に現実味を帯びてきたからだ。おしまから話を聞いているのかもしれないが、どう返事するべきか考えあぐねて黙り込むと
「そうですか」と人の顔色でも読んだのか、納得したようにるいは顔を伏せた。身嗜みや言葉遣いに人品の良さを窺わせるが、同時にどこかちぐはぐな印象も与える女だった。
「つやさんは、ご新造とお暮らしかえ」 明け透けな言い回しを避けつつ彦四郎は話をつやに向けた。るいは目尻を少し下げ、「今も一緒に」と答える。
「ここはゆうれい長屋なんて噂されている様子だが、つやさんの姿を誰も見た事がないってえのは本当かい?」
 すると、るいは妖しげな笑みを彦四郎へ見せた。
「それは物事を大げさにした噂に過ぎません。それに、会おうと思えば、いつだって会えるのです」
「……本当かい?」 思わず彦四郎は目を細めた。不思議な静けさが夕暮れの中庭に沈む。
「――つやに会いたいのですか」
 るいの眼が彦四郎の眼を捉える。急速な口の乾きを覚えた彦四郎は喉仏を動かした。
「……会えるのなら」
 枯れかけの声を搾り出すと、ではこちらへ、と障子戸を開けてるいが住戸へと招いた。障子戸は開いたが雨戸が半分まで閉められており、中の様子まで窺い知る事はできない。暫く迷った末に彦四郎はちらりと他の長屋から大木戸の方まで見回すと、るいに応じて引き戸を潜っていった。

 部屋は薄暗かった。彦四郎は小さな土間に足を踏み入れると奥の様子に眼を凝らしたが、既に日が沈みかけでよく見えない。
 だが、確かに人の気配がある。彦四郎は息を呑んだ。胸に込み上げてくる「とうとう、つやに逢える」 という感慨は彦四郎の足運びを鈍らせた。しゅ、と奥の間から衣擦れの音がたつ。つやの音だ、そう思うだけで彦四郎の脳髄は幸福な痺れに見舞われた。障子戸を閉めたるいが、土間で棒立ちになったままでいる彦四郎の背後に、立った。
「つや」
 彦四郎が聞いた声は細く消え入りそうな程小さかった。だが、るいのその囁くような声に応えるかのように障子の奥から衣擦れの音が返ってくる。そこにつやが。彦四郎は覚悟を決め暗がりに向けて一歩を踏み出した。心の臓が暴れ、手には汗をかき、吐く息は乱れた。声を、あの声を私にもっと聴かせておくれ。だが彦四郎の言葉はむなしく唇を動かすだけで声にはならない。更に一歩を踏むと土間から上がった二帖の板間の向こうに障子が見えた。彦四郎は手を伸ばした。
「――つやはそこには居りません」 
 悪戯を窘められた心地で慌てて背後へ振り向くと、すぐそこにるいの顔があった。
「では一体どこに……」 彦四郎が声を搾り出すと、るいはふとその顔を右へと逸らした。暗がりの中にありながら彦四郎はるいのうなじの白さに息を呑んだ。
「覗いて御覧なさい」
 るいの言葉を一旦訝しんだむ彦四郎だったが、すぐにその意味する所を理解した。るいの耳の穴の、その奥の闇に一瞬、小さな眼が瞬いたのだ。吐く息の震えを彦四郎は感じた。いつの間には彦四郎の手はるいの肩へと置かれている。
 るいの耳穴から見えるつやはまるで人形のように可憐な娘だった。それまで彦四郎が思い描いてきたつやと少しも変わる事のない姿かたちに彦四郎は我を疑った。
「つや、三浦様にご挨拶なさい」
 肩に手を置かれ、荒い吐息を頬に受けている事など少しも気にならないような声でるいがつやを呼ぶ。耳穴の奥にいるつやは彦四郎の顔を一度だけ見ると、
『厭』とだけ言った。
 たちまち彦四郎は背骨に雷が落ちるような衝撃を受けた。その声は短かったが、それが散々焦がれたつやのものと分かったからだ。堪らず彦四郎はるいの耳へ話しかけた。
「おつやちゃん、私と話をしないか。私は、ずっとずっと、おつやちゃんに会いたかったんだよ」
手を置いただけだった彦四郎の手は、次第にるいの肩を抱くように力が込められてゆく。彦四郎はるいの耳穴に向かって話し続けた。
「ある春の夜に私はおつやちゃんの声を聴いたのだ。三十一文字の歌だったね、あれはどういった歌なんだい?」
 耳穴にいる娘は彦四郎に応えたくないのか、いやいやと身をよじる。だがその仕草でさえ彦四郎の心を焦がすものだった。
「頼むよ、おつやちゃん」 
先手同心の顔も剣客の顔も捨て、猫を撫でるような声で彦四郎はつやを呼んだ。
『厭』
 つやは彦四郎に応えようとしない。拒まれた、と彦四郎は思った。だが普段の彦四郎ならそれで引き下がる所であったが、つやの声は彦四郎に情欲の炎を上げさせた。
「おつや」
 俄然、彦四郎のるいを抱く力が強まり、次第にるいを板間へと押し倒す格好になる。
「三浦様……」
 るいは僅かに抵抗するような仕草を見せたものの、襟を寛げられると白い腕を彦四郎の首へと絡ませてきた。彦四郎はるいの耳穴に舌を突っ込み舐ぶり回し、やがて満たされぬ思いをるいの肢体へと傾け、注ぎ込んでいった。そしてそれがつやへのものであると言い聞かせるように、「つや」 と何度もその名を呼んだ。しかし、つやから返事が返ってくる事はない。るいは細身のように見えてししおきの豊かな女だった。堕して行こうとする己を拒もうとしてか、彦四郎は縋り付くように何度もつやの名を呼んだ。
 しかし、息を荒げせわしく身体を動かしながら……ふと、彦四郎は思い起こした。彦四郎の恋焦がれるつやはるいの中にいる。では、最初に彦四郎が聴いたあの衣擦れの音はいったい何だったのか。ちらりと気になった彦四郎は、先刻開けようとした障子の隙間に眼を凝らし、そして思わず腰を浮かした。
 ――障子の隙間からは、痩せ細り月代を乱した中年の侍が白く輝く眼で彦四郎とるいの行いを見守っていたのだった。
 
 

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穴蔵の娘(4)

 
 夏に差し掛かろうとしていた。梅雨の到来とともに藤の花の見ごろも過ぎ、そろそろ朝顔売りが町々の辻を売歩く時節である。
 四谷本塩町の上田孫兵衛の道場では日ごろの打込み稽古による激しい竹刀の音はなく、妙に緊張の漲った静けさがあった。孫兵衛による彦四郎の稽古は撃込みから真剣を使った型に入っており、仕太刀と受太刀の静かな応酬を四名の高弟が見守っている。
 孫兵衛は吝嗇家で一見風采の上がらない小男だが、その剣筋の確かさは疑念の余地のないものだった。直心影流の極意傳授のためには竹刀や木太刀ではなく、真剣を巧みに遣えなければ稽古すら許されない。剣の道から三年離れていた彦四郎は、孫兵衛の太刀ゆきの速さに就いてゆくのがやっと、といった様子だった。
 彦四郎はやつれていた。頬の肉はそれまでよりも削げ、眼は落ち窪み、手足は細くなったが、瞳だけが異様な光を放っていた。第二の師である孫兵衛は早くから彦四郎の異変に気付いてはいたが、真剣稽古に入って改めて得心が行った。彦四郎の太刀筋には、それまで持ち味だった粘り強さを欠片も見る事ができないのだ。それは竹刀が真剣に変わったから、というだけの話ではない。盆を引っ繰り返すように、彦四郎の中で何かが決定的に覆ったのだ。
(彦四郎め、どこか患うておるのか)
 初め孫兵衛はそう思ったが、痩せ細った躯の割に瞳の輝きだけが尋常ではない。ふつう病を得ると人の眼は輝きを曇らせるものだが、彦四郎に限っては逆に爛々としているのだ。心配になった孫兵衛はある夜、道場の離れにある居室に向井徳之介を呼び付け、彦四郎の様子を探らせるよう頼んだのだった。

 心の乾きが常にあった。何をしても、何を考えても満たされない。常に彦四郎の躯はおつやを求め、狂奔に喘いでいた。彦四郎を拒絶するつやの声が今も耳に生々しく残る。袖を振られたのならば潔く引き下がるのが恋の道だという事は彦四郎にも分かっていたが、その拒絶の声でさえ胸を焦がす程の色香がある。そして煽られた彦四郎の情欲を注ぐ先はその母であるるいの身体なのだ。自らの堕落によって彦四郎の精神は荒廃していた。だが非番になると彦四郎は決まり決まったように道場へと通い、その帰り道にるいの長屋の前を通るのだ。
 莫迦か、と彦四郎は自分でも思うのだが、離れる事ができなかった。例えそこにあの藤村才蔵がいたとしても。
 際の際にあったこの彦四郎が、塩町の外れにある蕎麦屋へ徳之介に引っ張り込まれたのは四月三十日の夜の事だ。散々言い訳を並べて誘いを断った彦四郎を徳之介がなかば無理やりに連れ出したのだ。
「――随分とやつれてしまったようだが、ちゃんと食べているのかい」
 徳之介と道場の外で話すのは久方ぶりだった。あの春の夜以来、徳之介との交際が途絶えていただけに随分と時間が過ぎたように彦四郎には思われた。
「今年からうちの組頭が手厳しいお方に代わったからね、ちょっと疲れているだけさ」
 咄嗟にそうは言ってみたが、その嘘は徳之介には通じなかった。
「……とうとう、あの娘に逢いなすったのだね?」
 さっと眼を伏せた彦四郎を見て納得いった様子で徳之介は何度も頷いた。
「私が念を押しただろう、あの娘には近づくなと。その様ァ見りゃ分かるよ」
「そうか……」途端に彦四郎は崩れるように肩を落とした。つっかえ棒が外れたようだった。
「……まるで地獄にでもいるようだよ徳さん」
 食台に突っ伏しながらぽつぽつと彦四郎は三月二十日、つまり初めてつやと出逢った日の事を話し始めた。徳之介はその始終をしかめ面で聞いていたが最後に一言だけ、「莫迦な男だよ」 と呟いた。彦四郎は顔を上げると、徳之介の表情には自らの恥を噛み締めているような苦渋が見て取れた。
「……私も彦さんと同じさ。私も一時期あのおつやの虜になっちまっていた」
 やはり、と彦四郎はそう思った。こびりついている迷いを振り払うように徳之介は何度も首を振る。
「だが、私は剣で身を立てなきゃいけないんだ。女のために一生を棒に振るのは厭だ。それは彦さんだってそうだろう?」
「それはそうだが、私にはどうにも……」歯切れの悪い彦四郎の言葉に徳之介が食台を叩いた。
「あれは化生だ! よく考えろ彦さん。声だけの娘なんて怪しげなもの抱えた一家を、なぜ長屋の住人は追い出そうとしないんだ。なぜ長屋に居続ける事ができる?」
「……それは、つやの声が可愛いからだろう」
 気の抜けたような彦四郎の返答に徳之介は切歯するように言った。
「みな取り憑かれてるからだよ。彦さんも含めてみんなだ。もう引き際だ、彦さん。もうこれ以上はいけねぇ、二度とこっちには戻れなくなる」
 彦四郎は暫く押し黙ると、つやの声やるいの身体を味わえない日々を思った。またお役目と内職だけに専念する毎日に戻るのか。それは彦四郎にとって大した値打を持つとは思えなかった。やがて彦四郎は白く光る眼で徳之介を見た。
「徳さんはこの歌を知ってるかい? つれづれにそらぞみらるるおもいびと――」
「……天下りこむものならなくに。和泉式部だが、なぜそんな事を」
「知っているのか。一体どういう意味の歌なんだい? あの夜つやが詠んでいたんだ……」
 彦四郎の茫漠とした言葉に一拍、徳之介が鼻白んだ。それから深いため息が洩れ出る。
「いい加減にしろ!」 
 怒鳴りつけると、徳之介はやりきれない様子で席を蹴った。彦四郎は最後まで友を失った事に気付かなかった。


 ――四谷伊賀町裏の長屋で斬り合いが起こったのはそれから五日が過ぎての事だ。激しい雨の降る夜だったという。
 死者は先手鉄砲組同心・三浦彦四郎。並びに上州浪人・藤村才蔵が妻るい。るいの夫である藤村才蔵は右肩から背中を袈裟懸けに斬られる深手を負い、結局意識の戻らぬまま翌朝に死亡した。
 評定所の調べでは、事の起こる二月ほど前より三浦彦四郎が長屋の足しげく通っていたとある。そして新富町の舟宿でも何度か二人で居たところから、三浦は藤村の妻と密通の関係にあり、それを悟った藤村は妻るいを斬り、居合わせた三浦も続けざまに斬り伏せようとしたが直心影流の遣い手である三浦は藤村に逆撃を加え、自らは死するも藤村に致命の深手を負わせたのだろうと推測される。
 ――以上をもって評定所は事件に関与した三人全員の死亡を認め一切の罪状を不問としたが、御家人である三浦家は時の若年寄により御取り潰しを命じられた。

 


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