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てきすぽどーじん5号 「初体験」
「親不孝ウエストゲイパーク」 山田佳江
親不孝ウエストゲイパーク
親不孝ウエストゲイパーク(1)
親不孝ウエストゲイパーク(2)
親不孝ウエストゲイパーク(3)
親不孝ウエストゲイパーク(4)
「原発少女・福島もんじゅ ~パイロット版~」 シゾワンぷー
原発少女・福島もんじゅ ~パイロット版~
原発少女・福島もんじゅ ~パイロット版~(全)
「穴蔵の娘」 雨森
穴蔵の娘
穴蔵の娘(1)
穴蔵の娘(2)
穴蔵の娘(3)
穴蔵の娘(4)
穴蔵の娘(5)
「パラレルワールドの僕」 香吾悠理
パラレルワールドの僕
パラレルワールドの僕(1)
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パラレルワールドの僕(5)
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「テキスポで暮らした人たち」 蟹川森子編
テキスポで暮らした人たち
テキスポで暮らした人たち(1)
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「惟任百里的初恋探偵物語」 あやまり堂
惟任百里的初恋探偵物語
惟任百里的初恋探偵物語(序)
惟任百里的初恋探偵物語(1)
惟任百里的初恋探偵物語(2)
惟任百里的初恋探偵物語(3)
惟任百里的初恋探偵物語(4)
惟任百里的初恋探偵物語(5)
惟任百里的初恋探偵物語(6)
惟任百里的初恋探偵物語(7)
惟任百里的初恋探偵物語(8)
惟任百里的初恋探偵物語(9)
誤訳捏造「OUTサイダー」 茶屋休石
誤訳捏造「OUTサイダー」
誤訳捏造「OUTサイダー」(序)
誤訳捏造「OUTサイダー」(1)
誤訳捏造「OUTサイダー」(2)
てきすとぽい広告
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「異世界のメロディ」 松浦俊郎
異世界のメロディ
異世界のメロディ(序)
異世界のメロディ(1)
異世界のメロディ(2)
異世界のメロディ(3)
異世界のメロディ(4)
異世界のメロディ(5)
異世界のメロディ(6)
異世界のメロディ(7)
異世界のメロディ(8)
異世界のメロディ(9)
異世界のメロディ(10)
異世界のメロディ(11)
異世界のメロディ(12)
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「異世界のメロディ」 松浦俊郎

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異世界のメロディ







異世界のメロディ


松 浦 徹 郎



 

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異世界のメロディ(序)

 
 
 数式について語っている、というより教科書を朗読している教員の声が遠くに聞こえる。
 高校三年で、大学受験が控えているからだろうか。どいつもこいつもめがねを光らせ板書をノートに書き写すことに集中していて空なんか見ようともしない。
 もったいない話だ。
 五十川良樹(いそかわよしき)はつくづくそう思う。
 夏を迎えようとしている青空には、飛行機が一筋の雲を引いていた。
 だからといって、五十川にはこの光景を誰かと共有したいと思うようなこともなかった。
 ほかの奴らには、それぞれのやりたいことがあるのだ。他人になにかを強要するのは好きじゃないし、強要されるのもいやだ。
 朝、遅刻して。そして劇場型のつまらない授業を受け、さっさと家に帰り結末の決まっている単調なゲームを作業のようにこなす。
 学校でも家庭でも、五十川はいわば『無』の存在だった。
 いじめに遭っているわけではないし、虐待されているわけでもない。むしろ、いじめに遭わないように、つまらないトラブルに遭わないように。そうやって生きてきた結果、社会との干渉性を喪失した。
 誰とも接点のない生活は、なれると楽だった。
 引きこもりや非行などに走らなくても、ふつうにしているだけで完全な自由を手に入れた。ずっとそう思っていた。
 だけど時々そんな気持ちにも揺らぎが訪れる。たとえば、今みたいに飛行機雲を目で追っているときだ。
 今、自分は地の底にいるのだと思う。薄暗く、じめっとした穴の中で誰にも気づかれることなく勝手な生活を送っている。だけどあの飛行機は人間の社会性が生み出したものだ。
 作る人、整備する人、操縦する人。そして利用する人。それぞれが干渉し合って鉄の塊を空高く飛ばしている。その姿は、なんとも美しい。
 永遠に続くと思っていた高校生活もじきに終わる。
 自分はどうなっていくのだろうか? こんな生活から、いつか解放される日が来るのだろうか? あの、大空をゆく飛行機のように地の底から飛び立てる日が来るのだろうか?
「ま、無理だろうな……」

 

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異世界のメロディ(1)

 
 第一章 リセットされた世界で


 消えてゆく飛行機雲を眺めていたような気がした。
 でもそれは幻で、そこにあるのは黒い架線の影だった。さらに体を揺さぶる風圧を伴って、特急電車がプラットホームに立つ五十川のすぐそばを駆け抜けてゆく。
 パンタグラフと架線の間で、青白い光が瞬くのが見えた。
 なにか大切なことを忘れているような気がする。
 別に答えが書いてあるとは期待していないが、五十川は制服の袖をめくって腕時計の針を見た。
「どこかにぶつけた、かな?」
 五十川の腕時計は、ハンマーで殴られたみたいに文字盤がぐちゃぐちゃになっていた。ただ日付だけは九月一日を指しているから、たぶんそうなんだろうと思う。
 五十川のほかには誰もいないプラットホームを見渡してため息をつく。
 残念ながら、今五十川が立っている位置からは駅の電光掲示板はみえない。しかし列車の接近を知らせるランプが点灯しているから、まもなく次の電車は来るのだろう。
 入線してきた電車に乗り込み、がらがらのシートに腰掛ける。同じ車両内には、多く見積もっても数人しか乗っていない。
 いつもこんなに乗客は少なかっただろうか。
 車窓からはのどかな田園風景がみえる。
「ん?」
 おかしい。なにがおかしいのか自分でもよくわからないが、見慣れた通学の車窓ではないようだ。下り列車と上り列車を間違えたのだろうか。
 目に入ってくる風景に疑問を覚えたとき、今どのあたりを電車は走っているのだろうかと気になり始めた。
 こういうものはたいてい芋づる式になっていて、一つわからないと次々と連鎖的に疑問がわいてくる。
 次の駅名は?
 降車するべき駅は?
 自分の名前は五十川良樹で、本当に合っているのか?
「ゲームのしすぎ、だな」
 我ながらばかばかしい妄想だ。そう切って捨てるのは簡単なことだったが、どうしても切り捨てられない理由もあった。
 しばし流れる車窓の景色をみてからつぶやく。
「やべぇな。マジでわかんねーや」
 今の五十川には、疑うべき解答すら浮かんでこないのだった。つまりは左手首の九月一日を示す腕時計と、ポケットの生徒手帳を信用するしかないことになる。
 睡眠不足は、記憶力の低下や判断力を鈍らせるだけでなく、どうやら感情も殺すらしい。
 確かな記憶もない上に、どこに向かっているのかもあやふやな電車に揺られているというのに、五十川はただぼんやりと車窓の景色から中吊り広告に視線を移しただけだった。
 深く考えることを脳が拒絶している。
 そんな感じがしていた。
 結局、終点から二つ前の駅で下車した。
 意識が覚醒したわけじゃない。相変わらず夢の中にいるようだったが、脳みそではなく体が通学路を記憶しているようだ。
 改札を抜けると、でっかい桜の木を中心にした駅前ロータリーのような場所に出た。
 ICチケットをかざしてちょうど停車していたバスに乗り込む。電車同様こちらも九割が空席だった。五十川のほかは律儀にシルバーシートに座っている年寄りだけだ。
 なんだか銀河鉄道の夜みたいだな、と五十川は思った。
 もっとも、こちらは天の川を駆ける列車ではなく真っ昼間に田舎道をすっ飛ばすバスだったし、そもそも五十川には友達はいなかったから誰かが乗車してくることもないだろう。
 途中、バスは丘の上にある療養施設で年寄りを降ろして、五十川の専用車になった。
 運転士は意味がないと思ったのか、車内アナウンスを次々と切り替えてバス停を華麗にパスし、終点で五十川を降ろすと回送表示にして走り去っていった。
 ここであっているんだよな?
 自分自身に言い聞かせ、バス停からつづくゆるい坂道を登っていく。坂道は途中からトンネルになり、トンネルを抜けると――。
 どこかのニュータウンかと思った。もしくは工業団地だ。
 トンネルの出口。つまり、五十川が立っている場所はその造成地から少し高い位置にあり、はるか先まで見渡せるのだが、団地のような建造物の列はどこまでも続いていた。
 足元だけに注意を払って頭を使わずに通路、階段、渡り廊下を進んで行くと『2014』というプレートが貼ってある扉の前にいた。
 ポケットにあった鍵を差し込み右に回す。軽い金属音がして、扉は簡単に開いた。
「寮の部屋だったのか……」
 だんだんと記憶が蘇ってくる。
 五十川はデスク上のカレンダーで日付を確認した。
 カレンダーは七月のまま。そして腕時計は九月一日に壊れたようだ。
 なんのことはない。記憶喪失とか大げさなものではなくて、たんなる夏休みボケだ。
 問題はすべて解決した。……はずだった。
 校舎はどこも静まりかえっている。すでに始業式は終っているのだろう。始業式なら、講堂に行けば何となくみたような顔がいる可能性があった。だけど、今の五十川には自分の行くべき教室がわからない。
 頭がぼんやりしているから仕方がない。夕方まで待って、寮に生徒らが帰ってくれば同じクラスのやつだって見つけることができるだろうし、夏休みの馬鹿話でも聞いていれば頭も覚醒してくるに違いない。それまでは適当に時間をつぶしていよう。
 そして彼女に出会った。女声コーラスが聞こえる音楽室の前で。


 

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異世界のメロディ(2)

 
 彼女。つまり音楽室の前を行ったり来たりしていた女の子は、胃痛か胸焼けかというような顔をしていたが、五十川に気づくと大きな丸に近い目をさらに見開いて、まるで着替えを覗かれたみたいな表情になった。
 小柄だけどスマートだったし、短めのスカートから伸びる足はまっすぐできれいだったから、思わず視線を向けていたのは確かだ。だから警戒されたのかな、と五十川は思った。
 他人から干渉されない方法は、一に他人をみない。
 これは鉄則だ。みるということは、相手からも等しくみられるということだから。
 そういう意味では、五十川らしくないミスを犯した。
「あ、あの……」
 空気をうまく取り込めないのか、女の子は口をパクパクさせている。
「コーラス部の先輩ですか?」
「まさか」
 返事はできるだけ素っ気なく。そして何事もなかったように立ち去るのが正解だ。
 それはわかっていた。
「そうですよ、ねぇ……」
 二つに結ってあるとても長い髪を大きく揺らして、女の子は大げさなため息をつく。
 その大きなリアクションと、ちらっと見えたうなじのせいで、無視するタイミングを逃してしまった。
 だからどうでもいいことを口にした。
「きみは?」
「わたし、初音久美(ういねく み )っていいます。一年生です。先輩はここに知り合いがいるんですか?」
「先輩?」
「だって、ネクタイの色が」
 五十川は自分のネクタイをみる。どうも色で学年がわかるようだ。
「先輩なんて呼び方はやめてくれ。俺は五十川良樹。生徒手帳が間違いなければ三年だ」
「?」
 久美は思っていることがすぐに顔に出るタイプのようだ。
 五十川のことばを聞くと、「なにをいってるんだろう?」といった様子で首をかしげた。
「あー、気にしないでくれ。ちょっと記憶が混乱気味なんだ」
「記憶喪失なんですか?」
「ちょっと違うけど、まあそんなところだ」
 高校に入ってから、ほとんど誰とも口をきいていない五十川だったが、マイペースながらも次々と質問を投げてくる久美のおかげでいきなり最長記録更新だった。
 本当はすぐにでも立ち去りたかったが、不思議と久美にみられていると離れられない。
「で。グミは音楽室の前でなにやってるんだ?」
「久美です! クミ!!」
 久美はスリムな胸の前でこぶしを作って力説する。
 すまし顔のアイドル気取りな生徒かと思ったが、話してみると面白いヤツだな。
 それが初音久美の第一印象だっだ。それ以上でもそれ以下でもない。すぐにその場所を立ち去ってしまえば、もう二度と会うこともなかっただろう。
「わたし……。コーラス部に入りたかったんです」
「え?」
 その場から歩き始めようとしていた五十川は、消え入りそうな久美の声に振り返る。
 恥ずかしそうに頬を赤らめて、久美は視線を地面に落としていた。
 それが、「なにをやっているんだ?」という五十川の問いかけに対する返答だと気づくまで、だいぶ時間がかかった。五十川は久美が本当に答えるとは思っていなかったからだ。
 それに「コーラス部に入りたかった」という答えも、唐突すぎた。
「なんで今頃?」
「わたし、変な声だから……。怖くて春に入部できなかったんです」
 いわれてみれば、たしかに久美の声はいわゆる『アニメ声』だ。でも地声で歌うわけじゃないだろうし、挑戦しないのはもったいない気がする。
「部長には会ってみたのか?」
 久美はボリュームたっぷりの髪を揺らして首をふる。
「じゃあ、直接話してみたらどうだ?」
「……それができれば、苦労はないです」
 いくら入部したいといっても、音楽室の前をうろうろしているだけじゃあ前進しない。それに五十川には別の事情もあった。
 この場からの自然な離脱である。
 どういうわけか、久美と話していると自分のペースが、つまり空気みたいな存在でいるということが貫けない。どうあっても守らなければならないポリシーとは違うが、余計なトラブルから身を守るためには気配を消して生きることが必要だ。
 だから体よく久美と別れるためには、彼女には音楽室に入っていってもらうのが賢明だと五十川は判断した。
 だから久美に、「思い切ってコーラス部を訪問してみなよ」といった。
「そんなっ――」
 久美は五十川の言葉が信じられないといった感じで、絶句している。
 なにをいっても余計なことになるのはわかっていたが、もし今第三者が現れたら話はもっと複雑になってしまう。だからとっさに思いついたことを口にした。
「いやさ、うろうろしていても始まらないだろ。向こうに怪しい生徒って思われてから話を始めるより、先手を打って交渉した方がいいと思うんだ」
「そんなもんなんでしょうか……」
「そんなもんだよ」
「それじゃ、五十川さん一緒に来てくださいっ!」
「え!?」
 今度は五十川が絶句する番だった。
 久美は、逃がすものかとでもいうように五十川の袖口をつかんでいる。
「いくらなんでもそれは不自然だろ?」
「それなら、五十川さんはわたしのお兄さんということにしてください」
 理屈も無茶苦茶だが、久美がつかんでいる手にも相当力が入っていた。
「おいおい」
 久美は五十川の背後に回り込み、背中を押しながら音楽室へと入っていく。
「先輩らしく、後輩を守ってください」
「守るって……。別に敵陣に乗り込むわけじゃないだろ?」
「それでも守ってください!」
 仕方なく、五十川は音楽室へと歩を進めた。

 

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異世界のメロディ(3)

 
 歌声が聞こえてくるのは、廊下の右手にある第三音楽室と書かれた教室だった。
 五十川は重たいハンドルを押し下げて、防音扉を開いた。
 歌声がぴたりと止まる。
「ちょっと、みんなどうしたの?」
 入り口に背を向けて指揮をしていた部長だけが、五十川の登場に気づかず怪訝な声で部員一同に問いただす。
「ん?」
 部員の一人が五十川を指さし、それにつられるようにして部長が振り返った。
「見ない顔ね。なんの用かしら? みればわかると思うけど、今練習中なのよ」
 端っこのつり上がっためがねをかけた、委員長と呼びたくなるような容貌の部長はきつい口調で五十川を追い出そうとする。
「あ、いや。用があるのは俺じゃないんだ。……ほら」
 五十川の背後に隠れている久美を引っ張り出す。
「あ、あの……」
 音になったのはそこまでだった。あとは真っ赤になって口をぱくぱくさせているだけで、言葉が続かない。五十川は、こりゃアニメ声コンプレックス以前の問題だな、と思った。
「あのさ。こいつ、コーラス部に入りたいんだって」
 固まっている久美の姿を見かねて、五十川が代わりに切り出した。
「そうなの?」
「はははは、はい!!」
「なんで今頃? 新入部員の募集なら春先にちゃんとやったわよ」
 この部長、どうやら自分の手落ちで告知が行き届かなかったとは思われたくないらしい。
「その……。あんまり歌に自信がなくて」
「困ったわね。……ちょっと各パートごとに練習していて。わたしはこの二人と話しをしてくるから」
 二人?
 久美はあいかわらず五十川のそばを離れる様子はないし、委員長めがねの部長さんは指揮棒を譜面台において、さっさと音楽室を出て行こうとしている。
 仕方なしに久美に付き添って、ついて行った先は廊下を挟んで反対側の音楽準備室という小さな部屋だった。パイプ椅子が数脚あるほかは、壁一面が楽譜で埋め尽くされていた。
「名前は?」
 部長はパイプ椅子に軽く腰掛け、足を組むと久美の方をじっと見た。
「初音久美、一年です」
「初音さん。あのね、校則では確かに部活動の入退部は生徒の自由っていうことになっているけれど、うちはそれなりに伝統もあって。まぁ、いろいろと難しいのよ」
「入れてもらえないのか?」
 思わず五十川が口を挟んだ。
「うーん」
 部長は髪をかき上げながら、しばらく考えてから経緯を説明した。
 なんでもコーラス部にはおっかないOGどもがうじゃうじゃいるらしい。共学なのに、混声ではなく、女声のコーラス部になっているのもそのあたりが理由だといった。そして毎年、新入部員歓迎合宿と称してハードな基礎トレーニングをしているということだった。
 うなだれる久美。目はかすかに潤んでいる。
 五十川がどうやってこの場を収めて退散しようか思案していると、部長は意外な提案をしてきた。
「あなたが基礎トレーニングは不要なほどの実力があるというなら、みんなも納得できると思うの。だからテストをしてあげるわ」
「テスト、ですか?」
「好きな歌でいいから一曲歌ってみて」
 久美も覚悟を決めたのか、若干落ち着いてきたようだ。
「そ、それじゃあ……」
 深呼吸をして、瞳を閉じて静かに歌い始めた。

 

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異世界のメロディ(4)

 
 久美が歌い終わったとき、五十川と部長は反応というより対処に苦慮していた。
 アニメ声なのは知っていた。でもそれは地声だけだと思っていた。問題なのは歌声もやっぱりアニメな感じだったのと、さっきから窓に張り付いている汗臭そうな連中だ。
「あの……。初音さん、お外の人たちはあなたのお友達かしら?」
 髪を大きく揺らして首を振る。
 久美は全力で否定しているが、『初音久美FC』と書かれた鉢巻きの存在は消えない。
「やっぱり、わたしなんかじゃダメですよね」
 舌を出し、自分の頭をぽかんとたたいておどけてみせるが、目には涙が浮かんでいる。
「あの、初音さん」
「いいんですっ! なにもいわないでください!!」
 久美は音楽準備室を飛び出した。
「おい、待てよ!」
 成り行きで後を追う五十川と、砂塵を巻き上げて追跡してくるオタクども。
 なんで走ってるんだろう?
 ふつうだったら、このどさくさに紛れてどこかに身を隠すべきだと思う。
 どうも久美とあってから、調子が狂いっぱなしだ。
 五十川が後ろを振り返り、舌打ちする。遙か後方で「ボーカロイドみたいでかわいいよー!」などと無遠慮に叫んでいるオタク連中との距離はなかなか広がらない。
 五十川だって足に自信があったわけじゃないが、ここはひとつ久美の手を引いてでもあの群れから離脱して、久美とコーラス部の件に決着をつけておきたいと思った。
 その矢先――。
 校舎の陰から現れた女子生徒が久美の腕を引っ張った。続いて登場したのは『新聞部』と書かれた腕章をつけた男子生徒数名。結構がたいがよいこいつらが渡り廊下のバリケードとなり、五十川とオタクどもの行く手を遮る。
 新聞部っていうのは、いつからラグビーをするようになったんだよ。
 五十川は渡り廊下に入る直前でオタクの群れをやり過ごし、新聞部バリケード部隊との激突を見守った。
 かなり、いい形のスクラムだった。
 あいつら、絶対に部活選び間違ってるよな。
 五十川は一階まで降りて、久美の連れ込まれたと思われる校舎へと進んだ。
 光あふれる噴水が前庭にある、その洋館風の校舎には人の気配がなかった。
「また振り出しに逆戻り、か……」
 無人の石畳を歩きながら、五十川はつぶやく。
 まあ、夕方まで時間をつぶすために散歩をしているだけだからどうでもよいのだが、なぜか久美の豊かな表情が次々と浮かんで消えてくれない。
 次の瞬間。目の前の扉がいきなり大きく開いて、五十川は一歩飛び退いた。
「初音さん! 最後に写真を!!」
「もう、放っておいてくださいっ!!」
 扉の前で、デジカメを持った女子生徒と久美がもみ合っている。
 なんだか知らないが、一難去ってまた一難って感じだ。
「おい」
「五十川さん……」
 涙目どころか、完全に泣いている久美と目が合った。
 放ってはおけない、よな?
 五十川は、久美の顔写真を無理矢理撮影しようとしている新聞部の女子生徒にチョップを入れた。まさかいきなりチョップされるとは思ってもみなかったのだろう。不意打ち攻撃は見事に決まり、久美をつかんでいた腕から力が抜けたようにみえた。
「いくぞ!」
「?」
「ぼんやりすんな! 逃げるんだよ」
 五十川は久美の手を握ってかけ出す。行く当てはないけれど、とにかく走った。
 こんなに本気で走ったことは今までの人生で一回もないんじゃないかと思う。
 途中、あの女子生徒が応援を呼んだのか、例の新聞部ラグビー班が行く手をさえぎったがそのたびに階段を上って逃げた。
 あいつら、バカっぽかったけど意外と組織的に動いているのかもな。
 だんだん校舎の上層階へと追い詰められているような気がする。
 どこかで、別の校舎へと続く連絡通路がないかと探したが見つからない。低層階の渡り廊下はすべて新聞部の連中が確保していた。
「五十川さん、四階より上は行き止まりです!」
「あとがなくなってきたな……。いけるところまでいくぞ」
 下層階から響いてくる追っ手の足音が勢いをなくしていく。もう、こちらに逃げ場はないと確信したのだろう。
 事実、その通りだった。
 今、目の前にあるのは最上階で終わっている階段だけだ。
 このフロアーには教室がいくつかあったが、どれも鍵がかかっていた。
「ほんとに行き止まりだったな」
 やれやれ、と思って久美の方をみると、廊下の隅で膝を抱えて泣いていた。
 新聞部らのターゲットは久美だ。だから極端な話、五十川は何食わぬ顔で階段を下りてこの場を立ち去ることもできる。だけど、それを実行できるほど無関係ではなくなってしまっていた。

 

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異世界のメロディ(5)

 
 五十川が思うに、人間関係にはブラックホールでいうところのシュワルツシルト半径に相当するものが存在する。今、五十川は完全に久美の持つ半径に踏み込んでしまった。
「お困りのようねぇ~」
 突然、頭上から間延びした声が聞こえた。
「誰だ!?」
 久美の座っているところまで後退して、全方位を見渡す。
「こっちよ、こっちぃ」
 声の主はふたりの真上にいた。
 四つある天窓の一つがきれいに外されて、女子生徒が見下ろしている。
「さ、早く上がってきなさい」
 ふたりのところまで、縄ばしごが降ろされた。
「上ってこい、だとよ」
 さっきの新聞部みたいに、こいつも新たな脅威である可能性だってある。でも現状では久美にはほかに逃げ場がない。
「五十川さん、お先にどうぞ」
「レディーファーストだ」
「スカートですから……」
「あー! もうじれったいわねっ!! どっちが先でもいいから早くしなさいよぉー」
 見下ろしている女子生徒が、ほっぺたを膨らませて文句を言い始めた。
「じゃあ、絶対にあとから来てくださいね」
 久美が縄ばしごに手足をかける。おそらく電動のウィンチにつながっているのだろう。縄ばしごはするすると引き上げられていった。
「次はあんたよぉー」
 五十川はふたたび降りてきた縄ばしごをつかんで、屋上へと上った。
 人が普段出入りすることのない屋上には転落防止のフェンスはもちろんなかったし、配管のたぐいも腰の高さで走っていて侵入者を拒んでいる感じがする。
「こっちこっち。ついてきてぇー」
 五十川と久美を、どう見ても立ち入り禁止の屋上に呼び寄せた女子生徒は平均台のような配管の上を歩いて給水塔の反対側へと進んでいく。ふたりは顔を見合わせ、それから久美は配管の下をくぐり、五十川は乗り越えて後を追った。
「なんだ、あれ?」
 給水塔の陰になっていた建物をみて、五十川が怪訝な声をだす。
 打ちっ放しのコンクリート製である真四角の建物の上に、白いドーム型のものが乗っかっている。
「天文台みたいですね」
「ご名答! ようこそ『高エネルギー研究部』へ! わたしが部長の宗宮華美(そうみやはなみ )よ。よろしくねぇ~」
 サイドポニーの黒髪を揺らして、宗宮はびしっとポーズを決めた。
 腰に手を当てて、上体を前に倒しているのはたぶん胸を強調したいんだろうと思う。グラビアなんかにありそうな姿勢だ。
「ちょっと待て! おまえ誰だよ? それより、なんでこんなところにいるんだ!?」
 君子危うきに近寄らず、他人が現れたら石ころだと思われろ。それが信条の五十川だったが、あまりに突拍子もない自己紹介に、思わず叫んでしまった。
「だからぁ、名前は宗宮華美でここは『高エネルギー研究部』の部室なんだってばぁー」
「そんなことは聞いてない。俺が知りたいのは――」
 知りたいことは別にあるのに、どれもうまく質問にならない。
「ちゃんと聞いてくれれば、なんでも答えちゃうわよぉー」
 五十川の混乱を見透かすかのように、宗宮は外見同様ふわふわした話し方でそんなことをいってきた。
「久美、なにかこうすっきり解決するような質問はないか?」
「そんな抽象的な振り方されても困ります!」
「あらあら、お手上げかしらぁ?」
 混乱の元凶である宗宮は、なんだかすごく充実した笑顔でうっとりしている。
「!」
 久美にはなにか思い当たる節があったようで、小さく息をのんだ。
「わたし、聞いたことあります。屋上を根城にしているゲリラ部があるってウワサ……」
「そうなのか?」
 五十川の記憶にはそんなものはなかったが、久美が嘘をいっているとも思えない。
「さすが、女の子はウワサに敏感ねぇー」
 宗宮が否定しないところをみると、久美のいっていることは当たっていたのだろう。
「ま、炎天下で長話もなんだしぃ。日焼けすると十年後にシミになるっていうしぃ。中にどうぞぉ~」
 宗宮は天文台の一階部分にある鉄扉を開けて、二人を部室へと入れた。
 かび臭くて、むしむしとしている部屋を想像していた。だけど屋上に取り残されたようなこの天文台にはちゃんとエアコン設備があって、中はとても快適だ。
 そして『屋上を根城にしているゲリラ部』という久美の言葉通り、冷蔵庫からビーチベッド、それに大型テレビやらオーディオやら。とにかく生活必需品はそろっていた。
 でも何より目を引くのが、部屋の隅でLEDのランプを点滅させているサーバー群だった。フルタワー型のやつが二桁あるかないか、といったところだ。
「なんなんだよ、ここは?」
「だからぁ、『高エネルギー研究部』の部室だってば。さっき説明したでしょー」
「高エネルギーっていったら、ふつうは加速器とか実験炉が必要なんじゃないか? 屋上っていうより、むしろ地下だろ?」
「部の名前は昔ここにあった科学部由来のものをそのまま使っているだけよ。わたしの研究テーマは別よぉ」
「ちゃんと部活はしてるんだな」
「でも、ゲリラ部なんですよね?」
 久美がおそるおそる質問する。
「そーよぉー。うちは自由な活動がモットーだからぁ」
「自由ったって、新聞部の連中も相当好き勝手やっていたぞ」
 五十川はここにたどり着くまでのいきさつを説明しようとした。
「知ってるわよぉ。ずっとウォッチしていたんだから」
 監視されていた、という言葉に久美が反応して五十川の背後に隠れる。
「心配しないでぇー。わたしは別に久美ちゃんの追っかけじゃないからぁ」
 そういいつつ、宗宮は五十川の胸ポケットから生徒手帳を奪ってめくっている。
「五十川良樹くん、かぁ。むしろあなたの方が興味深いのよねぇー」
 生徒手帳くらい頼まれればいくらでも見せてやるが、いきなり顔を近づけてポケットに手を突っ込むのはやめてほしい。不整脈でも出るかと思った。
「五十川くん。その手帳によれば、あなたは三年D組出席番号二番ということだけどぉ、その記憶に自信はある?」
「え!?」
 真っ先に反応したのは、久美だった。
 だけど宗宮は、久美にそれ以上考える時間を与えず、手帳をたたんで五十川に返した。
「ゲームのやり過ぎで寝不足なんだ。意識が飛んでたから、今はここの生徒なのかどうかも自信ないな」
「うん。正直でよろしい」
 宗宮はサーバー群の一角にあるコンソールを操作し始めた。
「なにか知っているのか?」
「ううん。ただ、もしかしたらわたしの研究とあなたの存在には相関関係があるのかもしれないわねぇー」
「俺が?」
「そうよぉ。確かにここは『高エネルギー研究部』だけど、わたしの研究テーマは『種の競争に関する数学モデル』だからぁ」
「わけがわからん」
「今はそうでしょうね。でも、いずれは思い出すわよ」
 宗宮は真顔で、なにか知っているようなことをいった。
「俺のことを知っているのか?」
 わずかな期待と不安で五十川もまじめに答える。
「別にぃー。まぁなんとかなるでしょ? ってことよぉ」
 宗宮は核心には触れずに、また元の調子に戻ってしまった。それは残念なようでもあったし、額ににじんだ汗が引いていくような安堵もあった。

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異世界のメロディ(6)

 
「ところで、部活っていったけど部員は?」
 数分後。宗宮がコーヒーを淹れてくれて、五十川と久美は部室の一角でくつろいでいた。
「ちゃんといるわよぉー」
「どこだよ」
 さっきから宗宮以外の人間は出てこない。
「ここに三人いるじゃない」
「は? それって俺たちのことか?」
「ほかに誰がいるのよぉ。もう認知が入っちゃったの?」
 宗宮は「やーねぇー」などといいながら、マイペースで笑顔を振りまいている。
「それじゃあこのクラブ、今まで宗宮さんしかいなかったんですか?」
 久美は意外と冷静だった。。
「まさかぁー。ちゃんとほかにもいるけど。でも、さっきもいったけど高エネルギー研究部は自由なクラブだからねぇー。だから屋上のあちこちで、それぞれの活動をしているのよぉー」
「なんで屋上限定なんだよ」
「奴らの目が届かない場所だからに決まってるじゃない」
「奴ら?」
 宗宮の口調と『奴ら』なんて単語は、相性がすこぶる悪いように聞こえる。この、ほのぼの女がそこまで敵視する存在って何だろう。
「大丈夫。そのうち教えてあ・げ・る」
 おもしろいとでも思っているのだろうか。今時、おっさんでも喜ばないような言い回しで一人ケタケタ笑っている。
「ま、とにかく今日からあなたたちも仲間よぉ。しばらくはここで生活するといいわ」
「生活?」
「そうよぉー。なにかおかしいことでもある?」
 宗宮は当たり前だ、という顔をしている。確かに大学なんかじゃ部室に泊まり込んでいる学生もいるらしいが、徹マンのために結果として泊まるのと最初から生活の場を移すのでは話が違う。
「念のために聞いておくけど、宗宮ってもしかしてここに住んでるのか?」
「当たり前じゃない。もちろん、用事のあるときは下界に降りるけどねぇー」
 それって当たり前、なのか?
 こいつ、ここでずっとひとりで生活してきたのか?
 自分とは方法が違うが、宗宮もまた社会との関係を絶って生きているのかもしれないと五十川は思った。
「とにかく一度、寮に戻らないと」
「その必要はないわよぉ。ちゃんと荷物なら取ってきてあるから」
 宗宮は、先ほど二人を通した鉄扉の方に視線を向けた。
「あ、これわたしの荷物です!」
 部室を出たところに置かれていたスポーツバッグを開けて、久美が素っ頓狂な声を出す。
「おい。なんで一番上にパンツが入れてあるんだよ」
「男は細かいこと、気にしちゃだめよぉー」
 五十川は、隣に並べてあった少し小ぶりのスポーツバッグを開けた。
「こっちは、俺のみたいだな」
「そうよぉー。ね、これで寮になんか戻らなくてもすんだでしょ?」
 宗宮は、「最高の手品が決まったぜ!」とでもいいたげな様子でニコニコしている。
 でもやっぱり五十川のバッグも、一番上にトランクスがしまってあった。
「いったい、どこのどいつの仕業だ?」
「高エネルギー研究部の部員よぉー。優秀でしょ?」
 五十川の部屋へ入ったのはともかく、仮にその部員が男だったら久美の部屋への侵入は犯罪だと思う。
「授業には、ここから教室に通っているのか?」
 宗宮がどういう生活スタイルなのかは知らないが、五十川はすべての授業を放棄してしまえるほど覚悟が固まっていなかった。
「ま、出席したければ通ってもかまわないけどぉ。でも、授業をまじめに聞いちゃうといろいろと問題があるからねぇ。聞き流すくらいにしておけばぁ?」
「問題?」
「そうよぉ。学園生活に組み込まれちゃったら、奴らの管理下から離脱するのは大変なのよぉー」
 またでた。宗宮が敵視している『奴ら』だ。
「それにね、学園の出欠管理はオンラインだから、ここの部屋からでも出席にすることはできるの。すごいでしょぉ~」
「つまり、宗宮は記録上だけ出席にしてここに引きこもっているわけだな」
 学園内にいるのだから、世間でいう『引きこもり』とは違うのかもしれないが、外出をしないという意味では同じだ。
「やぁねぇー。ちゃんと定期テストは受けてるわよぉ」
「それ、答えになってないから……」
 やっぱり、こいつもどこかおかしい。
 五十川は屋上を去ろうと思った。自分はもともと、どこにいたって関心を持たれないような存在だ。むしろ突然蒸発したら、そっちの方が目立ってしまうだろう。それに久美には所属していたコミュニティがあるはずだ。さっきの混乱が収まったところで、ちゃんと送り届けなければならない。
「なんだか知らないけど、さっきは助かったよ。ありがとな」
 宗宮華美、か。おもしろいやつだったな。
「さ、行こうぜ」
 五十川はスポーツバッグを肩にかけて出発を促すが、久美は自分の荷物をみてじっと考え込んでいる。
「わたし……。わたしここに住みます。宗宮さん、よろしくお願いします」
 そういって、久美はぺこっと頭を下げた。
「うんうん、久美ちゃん、よろしくねぇー」
 久美の頭をなでなでする宗宮。
「それでいいのかよ?」
「はい。わたし、教室にもお友達いないし……。五十川さんも一緒にいてくれますか?」
「俺は――」
 扉の外へと半歩踏み出していた五十川は足を止める。
「わたしのおすすめは、久美ちゃんと一緒にここにいることなんだけどなぁー」
 久美が、「五十川がいた方がいい」というのは宗宮の正体がはっきりしないうちは不安だからだろう。だけど、宗宮が屋上にとどまることをすすめる理由はわからない。
「俺は記憶を取り戻すのが先だから。また知ってる顔を探して歩き回る」
「もし一週間歩いても、一ヶ月歩いてもこの学園内に知っている生徒がいなかったら?」
「え?」
 宗宮の印象をひとことで表すと『ふわふわ』だが、このときの宗宮の目は鋭かった。
「五十川くん、透明人間の存在を否定する根拠って知ってる?」
「いいや、知らないよ」
「あのね、こちらから相手がみえるときには、必ず相手からもこちらがみえるものなのよ」
「どういう意味だ?」
「探すべき知り合いの顔も思いつかない今の五十川くんがいくら放浪したって、都合よく向こうから見つけ出してくれるなんてことはないっていう意味よ」
 やっぱりだ。
 宗宮は、自分の研究テーマと五十川の存在は関係しているかもしれないなんていってたが、まだまだ手の内を明かしていないだけで相当いろいろな情報をつかんでいる。
 五十川はそう確信した。
「俺の住みかも屋上にあるのか?」
 肩にかけていたスポーツバッグを下ろす。
「あいている物置とか、まだ結構あるけど。しばらくはここにいた方が快適よぉ」
「おまえ、一応女だろ? それでいいのかよ」
「あらあら、五十川くんなに期待しているのかなぁ。もう、エッチなんだからぁー」
 宗宮は、胸の前で手を組んでくねくねしている。
 さっきの鋭さはどこかに消え失せ、あのふわふわとしたノリに戻っていた。
「わっ、わたしも五十川さんがいてくれた方があんしんです」
 久美は真っ赤になっていた。
「じゃあ、自分の庵を作るまでは世話になるよ」
「今日からみんなでお泊まり会よぉー。久美ちゃん、五十川くん、よろしくねぇー」
 結局、このようないきさつで五十川は屋上の住人になった。
 

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異世界のメロディ(7)

 
「夕日、きれいですね」
「ああ、そうだな。明日も暑くなりそうだな」
 日が沈みかけた頃。五十川と久美は、屋上天文台エリアの片隅で西日をみていた。
 宗宮は研究があるからといって,もう二時間以上天文台にこもっている。
 宗宮はいっていた。
 天文台エリアは、屋上の中でも一番最初に開拓された場所なのだと。そもそもは、とうの昔に廃部になった科学部天文班がこの場所に天文台を作ったのが始まりなのだとか。
 とにかく今日は走り回ったから風呂に入りたいといったら、給水塔のすぐ下にシャワールームが用意されていた。驚いたことに、ちゃんとお湯が出た。
「なあ、久美はここから教室に通うのか?」
 五十川は明日からのことを、ぼんやりと考えていた。
「たぶん、教室にはもう行きません」
 きまじめな久美らしくない答えだった。
「勉強は宗宮さんが教えてくれるって。それに教室に行ってもわたしの机、いつも花瓶とか置いてあるし……」
 教室に友達はいないって、そういえばいってたな。
 五十川は久美が屋上にとどまる決意をしたときに口にした言葉を思い出した。
「あのファンクラブの奴らは助けてくれないのか?」
 あんまり協力を仰ぎたいとは思えない連中だったが、久美が困っているのなら対抗勢力にはなるだろうと思った。
「あの人たちは写真とか撮るだけで……。個人的にお話したことなんてないんです」
「そっか」
「あと宗宮さんが、出席は勝手だけれど授業は聞き流した方がいいっていうんです」
「そういえば俺にも同じこといったよな。どういう意味なんだろう?」
「わからないです。でも、今はまだ説明できないけれど、屋上にいれば理解できるようになるって」
「これは俺が勝手に思ってることなんだけどさ。宗宮が屋上に住んでいる理由って、なにかの影響下から逃げるためなんじゃないかな」
「なにか?」
「ああ。宗宮が『奴ら』って呼んでた組織」
「授業と関係あるってことは、その組織って先生たちのことなんでしょうか?」
「どうだろうな。それを見極めるためにも、しばらくはここにいるしかないだろうな」
「それじゃあ五十川さんも授業にはでないんですね?」
「そりゃ、俺は自分の教室知らないんだから」
 森の中に夕日が沈んでいく。
 学園の西側には、街はみえなかった。校舎や寮の建造物が終わっているあたりから先はずっと森が続いている。
 残りの方角も、これといって高い建物や街明かりは見つからなかった。
「久美ちゃ~ん、五十川くーん。夕ご飯にしましょー」
 部活動が一段落ついたのか、天文台の鉄扉から宗宮が顔を出していた。
「自炊しているのか?」
「まっさかぁー」
 宗宮は大げさに笑う。
「学食に行くに決まってるじゃない。まぁ、宇都宮(うつのみや)くんとかは毎日自分で作っているみたいだけどねぇー」
「宇都宮?」
「高エネルギー研究部の部員よぉー。彼、シャイだからなかなか出てきてくれないけれど、そのうち紹介するわぁ」
「なかなか出てこないっていったけど、行方不明になるほど屋上は広いのか?」
「見てのとおりよぉー。ね?」
 そういって、宗宮ははるか先まで続く建物の列を指さす。
 夕日に照らされている校舎や体育館やら講堂らしきものは、数限りない印象を受ける。そして、それぞれの建物屋上にはエアコンの室外機や機械室らしきものがあって、陰になっている部分も多い。
「屋上は広大なのよぉ。とくに宇都宮くんは移動しながら生活しているみたいだしねぇー」
 移動しながら生活するなんて、なんだか密林のハンターみたいだなと五十川は思った。
「さ、グズグズしていると人気メニューがなくなっちゃうわよぉ」
「またあの天窓から降りるのか?」
「下界につながるルートはいくつもあるの。食堂まで屋上で移動しましょ」
 ひとつひとつの校舎はそれほど大きいわけじゃないが、それぞれはセントラルヒーティングのダクトや渡り廊下の屋根で結ばれていて、RPGのダンジョンみたいだった。
 雪山のクレバスじゃないが、明かり取りのための吹き抜けがあったりして、正直なところ五十川も怖いと思った。宗宮はひょうひょうと進んでいくが、久美は五十川の制服をつかんで離さない。
「宗宮って高いところ平気なんだな」
「あらぁ。五十川くん、高所恐怖症なの?」
「そうじゃない。もしそうだったら、こんなところ立っていられないだろ?」
「さあ、ついたわぁ」
 そこは、ステンレス製の換気ダクトが揚げ物のにおいをせっせと排出している、空腹の人間には耐えがたい場所だった。
「うーん、いいにおい! 夕ご飯が楽しみねぇー」
 宗宮のやつは、本当にうれしそうに胸一杯空気を吸っていた。
「どうやって降りるんですか?」
「こっちよぉー」
 三人はダクト点検用のはしごを伝って、厨房の裏手に降りた。
 食材を運び込むための通路を通り、食券の販売機に並ぶ。
「わぁ! カツカレーまだ残ってる~」
 宗宮の指先は迷うことなく、カツカレーのボタンへと直行した。
「宗宮って、黄色いキャラクターだったのか」
「そうねぇ~。色の話はともかく、カレーは好きよぉ。五十川くんはなににしたの?」
「俺は海鮮丼だ」
「わたしは月見そばです」
 それぞれのコーナーで料理を受け取り、見晴らしがいい場所に席をとる。
「特等席まで空いてるなんて、今日はラッキーねぇー」
 一階が見渡せる中二階の席を確保して、宗宮はご機嫌だった。
「それにしてもさ。授業には出ない、出席はちょろまかすで、食堂にだけ出入りしていて問題ないのか?」
「問題おおありよぉー。生徒会も新聞部とドンパチやってくれているから手が回らないみたいだけど、狙われているのは間違いないわよぉ」
 宗宮はあっけらかんと答える。屈託ないその笑顔は、何にも考えていないようにもみえるが、さりげなく状況分析が混じっていたりして判断を迷わせる。
「ま、いざとなったら宇都宮くんが動いてくれるから心配ないわよぉー」
「それもさっきから気になってたんだけど、宇都宮って誰だよ?」
「あら、知らない? 学園伝説のスナイパーなのよぉ」
「ひょっとして、バロン宇都宮さんのことですか?」
「あらぁー、ちゃんと名前まで知っているなんて、さすが女の子ねぇ」
 またしても五十川だけが知らなくて、久美が知っていたことが一つ浮上した。これだけのヒントがあるのに、この学園に関すること、自分に関することが思い出せない。
「五十川くん、そんな不機嫌そうな顔しない! 女の子はウワサには特別敏感なものなのよぉー」
「ふーん」
 五十川はわざと気のない返事をしておいた。
 バロン宇都宮、か……。屋上仲間なら、そのうち会うこともあるだろう。
 なぜ、宗宮ら高エネルギー研究部が屋上を拠点としているのか。なぜ、スナイパーなんぞが部員にいるのか。どうして、生徒会と新聞部が敵対勢力なのか。
 考えればきりがないほど疑問点だらけだった。
 でも不思議なもので、限度を超す疑問は答えを求める衝動を抑えるようだ。
 今日は柄にもなく会話をしすぎたせいで疲れているのだ。しっかり休養して記憶が戻れば、また日常に帰って行くことになるだろう。
 

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異世界のメロディ(8)

 
 夢をみていた。
 最後にトイレに行ったのが、確か午前四時五十分だったから明け方のことだと思う。早朝にみる夢にふさわしく、何度も目が覚めてはまだ寝ていることに気づくという入れ子構造のやつだ。
 もう何度、目覚める夢をみただろう。もうだまされないぞ。あと、これは夢なのだから絶対にトイレにだけは行かない。
 そう自分に誓いを立てて、五十川は体を起こした。
 パーティションの向こう側では、まだ宗宮と久美が寝ているはずだ。
 五十川はふたりを起こさないように、静かにソファーを離れて天文台の外に出た。
 もうすでに日は昇っていて、屋上をぎらぎらと照らしている。今日も昼間は暑くなるかもしれないなと思った。
「おはようございます。五十川さん」
「ん?」
 振り返ると、久美が立っていた。Tシャツに短パンという出で立ちだ。
 昨晩、着替えるからといってパーティションの反対側に姿を消してから、五十川は一度も久美をみていない。さらに久美が眠るときにどういう服装なのか、全く知らない。
 そこまで考えが至ったとき、ついに覚醒する夢の無限ループから抜け出したのかな、と思った。
「ああ、おはよう……」
 浅い夢の中にいるときに、声を出すと目が覚めるというのはよくあることだ。
「わたしの顔、なにかついてますか?」
 久美が不思議そうに五十川をみている。
「あ、いや……。ちゃんと俺、起きてるよな」
「寝癖がついてますけどね」
 自分の頭に左手で触れる。久美の指摘通り、確かに後頭部がはねていた。
 そんな五十川の姿を見た久美が遠慮がちに笑い、つられて五十川も照れ笑いを浮かべる。
「朝、早いんだな」
「えーっと、なんだか緊張してるみたいで……」
 まあ、そうだろうな。
 五十川も、久美のいうことはもっともだと思う。
 いきなりこんな特殊な生活環境に引っ越してきたのだ。それでいきなり安眠できたら、そっちの方が問題ありだ。
「あのさ――」
 五十川は、さっきからずっとため込んでいたことを口にした。
「一晩寝れば、なにもかも夢物語で。それで、なんか……。うまくいえないけれど、平凡な一日が待っているような気がしてたんだ」
「五十川さんも、ですか」
「久美もそうだったのか?」
「はい。わたしの場合は、毎日ですけど」
「毎日?」
 久美は五十川から視線を外して、朝日のほうを向いて話しを続けた。
「わたし、毎日寝る前にお祈りするんです。これは全部悪い夢だから、明日の朝にはぜーんぶ消えてしまっていますようにって。それで、どこにでもいるふつうの女の子になっていて、でもちょっと歌がうまくて……」
 歌、か――。
「そういえばコーラス部のこと、まだ決着ついてなかったな」
「え?」
 久美は驚いたような声を出した。
「だってさ、委員長めがねかけた部長からテストの結果、聞いてないだろ?」
「不合格に決まってますよ」
 つぶやくような声で、静かに言い切る。
 昨日のことが思い出されてつらいのか、久美はうつむいて顔を隠した。
「昨日のテストは邪魔が入って中断しただろ? リベンジしようぜ」
 五十川は視線を久美から青空に移して続ける。
「俺は自分が何者なのかすら不明瞭なんだ。特に目的もないし、生きてる意味もない。宗宮はなにか知ってるみたいだけど、たぶんすんなりと教えてはくれない。暇なんだよ」
「五十川さん……」
「だから、手伝うよ。歌の練習」
 久美が鼻をすすって、手の甲で涙をぬぐっているところで、間の抜けたあくびが聞こえてきた。
「ふあ~ぁ。よくねたぁー」
 パジャマ姿でふらふらと天文台から出てきた宗宮だった。
「おはよぉー。久美ちゃん、五十川くん」
 宗宮はまだ半分寝ているのか、ふたりの様子を気にも留めないで給水塔の方へとのびをしながら歩いて行った。
 朝食は、レンジでチンだ。
 どうせ教室には行かないのだが、なぜか宗宮は制服に着替えていたので、五十川と久美もそれに習って制服を着てから朝食となった。
「いただきまぁーす」
 宗宮は昨晩のうちに購買部で確保していた朝食の前で手を合わせ、「ふたりとも、遠慮しないで食べてねぇー」などといいながらツナ缶を勧めてきた。
 本当にここは物資が豊富だ。屋上なんて陸の孤島かと考えがちだが、水はもちろん、ガスも電気もある。実際はアメリカみたいだ。行ったことはないけれど。
「なあ。歌の練習に使いたいんだけど、教則本なんか手に入らないかな?」
「五十川くん、歌手目指しているのぉ?」
「俺じゃない。久美がコーラス部に入るのに必要なんだ」
「ふぅーん。教則本だけでいいなら、図書館に行けばあると思うけどぉ」
「なんだか興味なさそうな返事だな」
「そうねぇ。歌もいいけれど、わたしなら世界の秘密を解析する方に注力するかなぁー」
「それって、宗宮さんの研究テーマなんですか?」
「ええそうよぉー。久美ちゃんも一緒に考えない?」
 突然のスカウトに、久美は困惑した表情を浮かべている。
「おい、自分の趣味を無理強いするなよ」
「趣味じゃなくて、ライフワークよぉ。五十川くんも一緒にどう?」
「俺は……」
 五十川はそこで言葉に詰まる。
 久美の手伝いだって、偶然に音楽室の前で出会ったから始めたことだ。それなら宗宮の研究に参加するのだって同じことのはずなのに、なぜかその気にはならない。
 いや。記憶を取り戻すためならば、むしろ宗宮に張り付いている方が得策だ。
 そこまでわかっていながら、それでもなぜか久美の手伝いをしたいと思っている。
「あらぁ、どうしたの? 研究手伝ってくれるなら、わたしが手取り足取り腰取り教えてあげるわよぉー」
「宗宮さん! そんなっ……。 腰なんて、不潔ですっ!!」
「あらぁ。久美ちゃんの顔、真っ赤になってかわいいー」
 中学生みたいな下ネタをいう宗宮のことも、突っ込んでいる久美の声も五十川には届かない。ただなにか、重要なことを忘れてしまっているような不愉快な感覚だけが残る。
「俺は、久美の手伝いをする」
 五十川は断言した。
「理由は自分でもよくわからないけど。乗りかかった船だからかもしれないし、出会った順番だけの問題なのかもしれない。ただ、何となくそれが正解のような気がするんだ」
「あらそぉ、残念ねぇー」
 宗宮は一つも残念なそぶりを見せずに軽く受け流した。

 

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異世界のメロディ(9)

 
「それじゃ行ってくる」
 朝食を終えた五十川は、例の天窓を外して下界に降りた。音楽に関する知識なんて持ち合わせていないから、教本選びには久美も同行した方がよいと思ったが、久美にはやっかいな追っかけがいる。あの汗臭い大きなお友達だ。だから一人で図書館に行くことにした。
「いってらっしゃーい。戻ってくるときは無線で連絡してねぇー」
 初めて屋上にふたりを迎え入れたときと同じように、宗宮は笑顔で手を振っていた。
「よろしくお願いします」
 と、その横では久美が頭を下げている。
 五十川はふたりに向かって肩の辺りまで手を上げて合図を送り、ほかの生徒に見つからないうちに一気に階段を駆け下りた。
 図書館の位置は、宗宮から聞いていた。
 バス停近くの寮が集まっているエリア、そして天文台もある教室が集まっているエリア、それから食堂、購買部、事務室、職員室があるエリアはすべて屋上から一度も降りることなく移動できるらしい。
 なんだか、平野に降りることなく日本中を旅する山伏みたいな話だ。
 そんな高エネルギー研究部の部員でも地上を経由しないと唯一たどり着けないのが、グラウンドの反対側にある図書館なのだそうだ。
 五十川は不審な生徒として通報されることもなく中庭まで来た。こけのむした煉瓦と、そんな滑りやすい足場の先で口を開いて生徒を待ち構えている小さな池がある。
 たぶん年に数人はこのトラップの餌食になるのではないか。あるいは、余興で自ら飛び込むやつもいるかもしれない。
 そんな気がした。
 いや、今まさに目撃者になろうとしている。
 本を読みながら、池に向かって一直線に歩いている女の子が一人。手にしている文庫本に熱中しているのか、まるで池の存在に気づく気配がない。
 胸元まである長い黒髪はつややかで、一度ぬれてしまったらあとの始末が大変そうだと思った。
 ま、よくあることだよな。別に死ぬわけじゃないし。
 五十川は図書館へ急ごうと思うが、どうにも女の子のことが気にかかる。
 周囲を見渡しても、五十川と池に向かって一直線の女の子以外はいないようだ。
「あの……」
 口から出かかった言葉に、五十川は自分で驚く。
 俺はどうかしている。
 声をかけようとしている自分に、無性に腹が立つ。どうも久美と出会ってからというもの、以前の自分らしからぬことばかりしているような気がする。
 でも、どうしても無視できない。かといって、どういう風に注意するのがいいのかもわからない。
「あなたは今から池に落ちますよ」
 などというのはどう考えても違和感がある。それに、女の子は池の存在にちゃんと気づいていて、余計なお世話という可能性だって高い。
 でもなぁ……。
 どんな本を読んでいるのか知らないが、口元に笑みを見せたりしていて外の様子に気を配っているとは思えない。
「あのさ――」
 結局、声をかけてみた。でも、相当熱中して読んでいるようで女の子は返事をするどころか、五十川の存在にすら気づいていない。
 こうなると、半分は意地もある。なんとかして女の子の進路を池から外したい。
「おーい」
 今度は進行方向正面に回り込んで声をかけた。これで避けられたら、もう意図的に無視されていることは確定だ。それは長年の経験で知り尽くしている。
 女の子の歩くスピードは変わらない。最初にみたときと同じペースでまっすぐ五十川に衝突する軌道を進んでくる。
 おい。冗談だろ? 半径一メートル圏内に入っても気づかないなんてあるのか?
 で、ふたりはぶつかった。
「きゃっ!」
 よほど驚いたのか、女の子は読んでいた本を落としてしまった。
「ごめん。なんだか放っておくと池に直行しそうだったから」
 五十川は、地面に落ちた本を拾い上げた。カバーが外れて表紙が目に入る。超弩級の恋愛小説シリーズだった。
「ああああ、あの――」
 女の子はよほど慌てたのか、五十川の手に自分の手を重ねて本の表紙を隠した。
 煉瓦敷きの、しっとりとした中庭で、手と手を取り合って超至近距離で向かい合うって、初対面でやることじゃない。
 でもそんなことを考える余裕なんてなくて。五十川は、ほおを赤くして自分の手を握ってくる女の子に見とれ、女の子は表紙を隠すのに必死の様子だった。
「え~……。ん~……」
 そんなふたりの状況をようやく把握したらしい女の子は、目を伏せて言葉に詰まった。
「ごめん。なんだか池に落ちそうだったから」
 五十川は本の表紙がみえないように裏返して、女の子に返した。
「あ、ありがとうございます……」
 受け取った本をしっかりと抱きしめて、うつむいている。もう恥ずかしくて、五十川の顔なんぞみていられない、という感じだ。
 一目みたときからストレートの長い髪だなとは思ったが、こうしてうつむいていると瞳のラインで切りそろえられた前髪ばかりが目立って、なんだか髪の毛と会話をしているみたいな気分になってくる。
「わたし落ちるんです……」
「え?」
 五十川は、なにをいわれているのかわからなかった。
「いえ、あの……。よく、ぼんやりしていて池とかに落ちるんです」
「今回も?」
「はい。あの、その……。あなたに助けてもらわなかったら、たぶん落ちてました」
 女の子は、五十川をなんて呼んでいいのかわからず、さんざん迷った上で『あなた』という言葉に行き着いたようだった。
「俺は五十川良樹っていうんだ。五十川でいいよ」
「五十川さん、ですか……。わたしは、内(うち)木(き)田(だ)優(ゆう)です」
「へえ、『ゆう』か。優等生の優?」
「はい……。みんなからは内側の内に気分の気で、内気って呼ばれていますけど」
 内気というより単なる恥ずかしがり屋さんという気もする。
「で、どこに行く途中だったんだ?」
「図書館です。わたし図書委員会だから……」
「俺も図書館に行こうと思ってたんだ。ちょっと借りたい本があって」
「本、好きなんですか?」
 なぜか優の声のトーンが少し高くなったような気がした。
「あ、いや」
「そうです、か……」
 いったん高くなったトーンが下がってしまう。
「今必要なのは音楽の教則本なんだけど、棚の位置とか知ってる?」
「図書委員ですから……。あの、よかったらご案内しますけど……」
 さっきの小説を鞄にしまった優は、あいかわらずうつむき加減で、両手も胸の前でもぞもぞと動かしていた。なんだかとっても恥ずかしそうだ。
「そうしてくれると、とっても助かる」
 五十川の返事を聞くと、いったん顔を上げてくれたが、目が合うとまた恥ずかしそうに下を向いてしまった。
「それじゃあ、いこうぜ」
「あ、そっちじゃないです」
 他人とはまともに話なんてしたことがない五十川だったが、なぜか久美といい宗宮といい、そして優もだが記憶をなくして以来、ひっきりなしに誰かしら話し相手が現れる。
 今までため込んでいたコミュニケーション貯金が、ついに満期を迎えたのだろうか。
「図書館は、グラウンドの反対側です」
「ああ。そうらしいね」
 運動場は一週四百メートルのトラックがある陸上用のものと、野球グラウンドがあった。その周囲は林になっていて、散歩に適当な小道がある。
 ふたりが林の中の小道も半ばにさしかかったときだった。
 優が爆弾発言をした。
「……好きなんです……」
「え!?」
 突然の告白に、びっくりする余裕すらなくて。五十川はただ言葉にならない音を発した。
「あ、いや。その……。わたし、この道が好きなんです」
「ああ、そうだな。なんだか文学の小道って感じだよな。優は文学少女なんだな」
「そそそ、そんなことないです。わたしなんて……」
「わたしなんて?」
 言葉の続きが知りたくて五十川はオウム返しに聞いた。
「さっき、小説の表紙みましたよね……。わたし地味だし、みんなからも内気ってからかわれているけれど……。でも、恋愛にあこがれているんです。いつか自分もって。バカみたいですよね……」
「いいんじゃないかな」
「え?」
 今度は優が驚く番だった。五十川からも、クラスメイト同様の反応が返ってくるとでも思っていたのか、五十川の肯定的な返事が信じられないといった感じだ。
「あこがれるものがあるって、いいことだと思うよ」
「そうでしょうか……」
「俺さ、ちょっと記憶が混乱しているんだ。覚えているのは惰性みたいに生きていたってことだけでさ。そんなの生きてる意味ないよな。だから優みたいな気持ちになれるって、ちょっとうらやましいくらいだよ」
「惰性で生きてたって……。とてもそんな風にはみえませんけど」
 五十川は、昨日この学園に足を踏み入れる前のかすかな記憶の話をした。参加するでもなく、ボイコットするでもなく、ただ座っていただけの授業のこと。それから、明け方までモニタに向かって一人ゲームをしては、遅刻を繰り返していたこと。
「今の俺には、そんな記憶しかないんだ。たぶん夏休み中、ずっとゲームで不規則な生活を送ってたんだろうな。ちょっと脳みその調子が悪くなっているみたいなんだ」
「そんなこともあるんですね」
「そうみたいだな」
 それっきり会話は途切れたが、木漏れ日の差す散歩道もすぐに終点となった。
 今、目の前にあるのはちょっとした体育館ほどもある大きな図書館の正面入り口だ。
 その大きさに感心している五十川の先を、優は先導するように歩いて行く。ここで迷子になったら出てこられないかも、と思う五十川はその後を追う。
 

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異世界のメロディ(10)

  
「音楽の教則本なら、このあたりです」
 到着したのは、地下一階の隅っこだった。
 確かに音楽関係の書籍が並んでいる。この様子なら歌の教則本も見つかるだろう。
「サンキューな」
「いえ……。あの~……」
 案内を終えた優は、なにかいいたげに五十川の背後でもじもじしている。
「ん?」
 五十川は書架をあさりながら、続きを促すように返事だけ返した。
「五十川さんは、その~……、どちらのクラスなんですか?」
「生徒手帳が偽造じゃなければ、たぶん三年D組の出席番号二番だよ。でも、どうして?」
「ああああ、あの。本の貸し出しに生徒手帳が必要なんですっ!」
「じゃあ、この本とこっちのやつ借りるよ。生徒手帳ってこれでいいんだろ?」
 五十川は胸のポケットから手帳を出して、優に手渡した。
「はい……」
 優は両手で受け取った生徒手帳をまじまじと見つめている。
「その写真、犯罪者みたいだよな」
「えっ!?」
 我に返った優が驚く。
「いや、生徒手帳の写真が連続爆弾犯みたいだって話」
「そそそ、そんなことないと思います。その……、あの……。すてき、な……」
「え?」
「えええええええええええっと。とてもすてきな写真だと、……思います」
 優は、やかんを載せたらお湯が沸かせるのではないかと思うほど赤くなっていた。
「それじゃあ、貸し出しカウンターに行きましょう」
「うん」
 優はカウンターの内側に入って、改めて五十川の生徒手帳を開いた。
「あれ?」
「どうかしたのか?」
「あの~……。五十川さん、生徒手帳はこれだけですか?」
「なにか足りないのか?」
「いえ、足りないんじゃなくて。この手帳、よく似ていますけどこの学園の生徒手帳じゃないみたいなんです」
「そんなバカな――」
 五十川はカウンターに身を乗り出して、優が開いている手帳をのぞき込む。
「これ、わたしの手帳なんですけど……」
 優がポケットから自分の生徒手帳を取り出して並べた。
「たとえばクラスの欄をみてください。わたしは二年四組です。でも五十川さんは三年D組って書いてあります」
「それって……」
「はい。この学園の高等部は、クラス分けにアルファベットは使ってません」
 信じられないことだが、図書委員として数多くの生徒手帳をみてきたはずの優がいうのだから本当なのだろう。
「どういうことだ!?」
「なにかの間違え、……でしょうか」
「Dじゃなくて、0組の間違いとか?」
「いいえ。クラスは1から順番に数字を振ってます」
 俺は、この学園の生徒じゃないのか?
 じゃあ、なんでここにいるんだろう?
「あ、あの~。五十川さんさえよければなんですけど。この本、わたしの名前で借りておきましょうか?」
 そんな提案を優はしてくれた。
 ありがたいことではあるが、今発生している問題の解決にはならない。
「いや。コピーを取らせてもらうからいいよ。ありがとうな」
「いえ……。コピー機は右手奥にあります」
 そういって、優は少しだけ違う五十川の生徒手帳を返した。
「あの、五十川さん――」
 立ち去ろうとする五十川に、優が声をかける。
「生徒手帳、たぶんなにかの間違いです。ミスプリントとか……。だから、学務課にいってみるのがいいと思います」
「ああ、そうだな。いろいろありがとう」
 クラスは番号でなければおかしい、か……。
 そういえば最初に生徒手帳をみせたのは宗宮だったな。
 五十川は、天文台での宗宮とのやりとりを思い出した。
「あのさ」
「は、はい」
 歩き始めてから、急に振り向いた五十川に優が驚く。
「ついでなんだけど、『数学モデル』とか、そんな感じの本ってある?」
「ええっと。科学ですね? ちょっと待ってください」
 優はカウンターに備え付けのPCを操作して、検索してくれているようだ。
「こっちです」
 ふたたびカウンターから出てきて、優は棚まで案内してくれた。
 宗宮の研究テーマである「種の競争」を数学で扱うような本はなかった。その代わり五十川は「進化シミュレーション」の本を選んでコピーすることにした。ぱらぱらとめくった感じでは、どうも遺伝的アルゴリズムを数学に落とし込む方法が書いてある本のようだ。
「五十川さんは難しい本を読むんですね」
「あ、いや。もしかしたら、なくしている記憶と関係あるかもしれないんだ」
「そうですか……。あの、また資料が必要なときはいつでも来てくださいね」
「ああ。今日はありがとう」
 優とは図書館のコピー機のところで別れて、五十川は屋上へと戻った。
「おかえりなさぁーい。待ちくたびれちゃったわよぉ」
 五十川を屋上へと引き上げたウインチのコントローラを定位置に戻した宗宮は、あいかわらずの調子で、ほっぺたを膨らませて笑顔で不満を述べる。
「別に外で待ってろなんて頼んだ覚えはない」
「いえ、宗宮さんじゃなくて。わたしが待ちましょうっていったんです」
 久美が申し訳なさそうに頭を下げる。長いツインテールが大きく揺れた。
「さ。三人そろったことだし、お茶にしましょー」
「早弁か」
「変な言い方しないでぇー。十時のお茶よぉ」
「おんなじことだろ」
 天文台の脇にはパラソルが出ていて、ティータイムの準備はすでに整っていた。
「ほら。教則本っぽいのもってきたぜ」
 五十川は小脇に抱えていたコピーを二束、久美の前に差し出した。
「あらぁ、わざわざコピーしたのぉ?」
「せざるを得なかった、という方が正しいな」
「?」
「宗宮、なんか知ってるんじゃないか?」
「なにかって、何のことぉ?」
 一番最初に五十川の生徒手帳を確認したのは宗宮だ。そしてなにか自分の研究と関係があるようなことをいっていた。黙っていただけで、優が指摘したような相違に気づいていた可能性は高い。
「俺の生徒手帳、この学園のじゃないかもしれないんだ」
「やぁーねぇー。そんなはずないじゃない。校章が同じよぉ」
 そういって、宗宮は自分の生徒手帳にプリントされているマークと五十川のものを並べてみせる。
 確かに校章のデザインは同じだった。
 まだだ。
 宗宮が口を割るには、突きつける証拠が足りない。今これ以上追求しても、のらりくらりとかわされるだけだろう。
「あの、五十川さん。コピーしてまで持ってきてくださって、ありがとうございます」
 それまで黙ってふたりのやりとりを聞いていた久美は、教則本のページをめくった。
 五十川も、自分用にコピーしてきた例の「進化シミュレーション」の本を読み進める。
「あらぁ。五十川くん、わたしと共同研究する気になったのぉ?」
「いや、別に。ただ同じ土俵に立てなきゃ、話し合いにもならないだろ」
 五十川としては、こっちもおまえの正体を探っているんだぞ、という意味を込めたつもりだったが、宗宮はまるで意に介していないようだった。
「ねえ、久美ちゃん。読んでない方の、貸してもらえるぅ?」
「はい、もちろんです」
 手持ちぶさたの宗宮は、テーブルの上で遊んでいた教則本のコピー束に手を出した。
「ふーん」
 宗宮は速読でもできるのか、それとも適当に眺めているだけなのか、あっという間に一冊読み終えて、「なーんだ」とでもいうような声を出した。
「なにか新しい発見でもあったのか?」
「そうねぇ。まずは音階練習が基本みたいだけれど、音合わせのためのチューナーとか楽器がここにはないのよねぇー」
「安めのキーボードでも買ってくればいいだろ?」
「それは無理よぉー」
 宗宮の言葉に、久美もうなずく。
「なんでだよ?」
「この学校、出入りには厳しいのよねぇー」
「そうなのか……」
 いわれてみれば、バス停とトンネルの間にはゲートがあったし、そのほかに外界と出入りできるような場所があるとは思えない立地だ。
「なんとかならないか?」
「学園内で調達してくればいいのよぉ」
 簡単でしょ? と宗宮はうれしそうに話す。
「そんなに簡単にいくのか?」
「いくわよぉ。だって、この天文台にあるものは全部、学園内から調達してきたものなのよぉ?」
 五十川の脳裏に、エアコンから冷蔵庫、テレビ、オーディオ、そしてあのサーバー群が浮かぶ。あれらは全部、学園内にあったものを勝手に拝借してきたということだろうか。
「それってドロボーじゃね?」
「外に出るなっていうんだから、仕方ないじゃない。ねぇー」
 宗宮は久美に、無理矢理同意を求める。
 久美も改めて屋上の膨大な備品を思い出しているのか、戸惑った表情をしていた。
「ひとりでやったのか?」
「まさかぁー。備品の調達は、部員一同で一致団結してやるのよぉー」
「じゃあ、キーボードの調達も協力してくれるのか?」
「いいわよぉー。かわいい久美ちゃんのためだものぉ。お姉さんも一肌脱いじゃうわぁ」
「ほんとに服に手をかけるな!」
 いきなりスカートのジッパーに手を伸ばそうとした宗宮の頭をはたく。
「いったーい! もう、五十川くんは冗談が通じないんだからぁー」
 ぶー! と宗宮は、ほおを膨らませている。
「ほんとはちょっとうれしかったくせにぃー。ねぇー、久美ちゃんもそう思うでしょー?」
 ふたたび久美に同意を求める宗宮。
「わっ、わたしはちゃんと服を着ていてほしいです!」
 無理に話を振られた久美は、真っ赤になりながら空を仰ぎ、そういったのだった。
「それじゃ、さっそく部員に号令をかけるわよぉ」
 宗宮はアタッシュケースを持ち出すと、パラソルの下でアンテナを立ててモールス符号を打ち始めた。片手には使い込まれた乱数表があり、暗号通信をしているのだということが傍目にもわかった。
 よく晴れた九月の空のした、屋上にたてられたテーブルとパラソル。そこには状況について行けず、ぽかんと口を開けている久美と腕組みして推移を見守っている五十川。それにヘッドセットを手に持って耳に当てながら打電する宗宮がいた。

 

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異世界のメロディ(11)

 
 キーボード調達作戦は、午前三時半に行われることになった。
 宗宮曰く、「明け方は、一番警備が手薄なのよぉー」ということだった。
 ほんとか嘘かは知らない。ただ、治安部隊がデモ隊などに突入するのはたいてい明け方だから、その時間帯は一日の中で一番疲れが出やすいのは確かなのだろうと思う。
 ソファに横になって天井を見つめ、そんなことを考えていると眠気も飛んでしまう。
 五十川は屋上に出た。
「あらぁ。久美ちゃんとふたりっきりだと興奮して眠れないのかしらぁー」
 昼間っから出したままのパラソルの下で、宗宮は一人ヘッドセットに耳を澄ませていた。
「俺は夜型なんだよ」
「作戦に支障が出るから、今のうちに寝ておいてほしいんだけどなぁー」
 ふわふわとした話し方でそんなことをいいつつも、宗宮はなにか受信したようだ。ヘッドセットを持つ手に力が入ったかと思うと、乱数表を見ながらメモを取っていた。
「宗宮は寝ないのか?」
「五十川くんってば、添い寝してあげないと眠れないのぉ? もぅ、おこちゃまなんだからぁー」
「おまえ、ほんとにオヤジ発言好きだな」
 こういうことをいう時の宗宮は、本当にいきいきしている。
 五十川は折りたたみ式のいすを広げて、宗宮の隣に座った。
 宗宮はなにも答えず、打電している。
 夏の星空に、ツツー、ツーツーとヘッドセットから漏れる音が吸い込まれていく。
 五十川は背もたれに寄りかかって、かすかに見える天の川を追っていた。
「なあ」
 通信の切れ目を見計らって、話しかける。
「なぁに?」
「作戦に協力してくれる部員一同は、いつになったら集まるんだ?」
「あらやだぁ」
 クスッと宗宮は笑って、それから真顔で「もうみんな配置について、それぞれの任務に当たってるわ」と言い切った。
 昼間、備品調達作戦には戦闘がつきもの、といっていた宗宮の言葉が思い出される。
「ちょっと聞くけどさ。宗宮たちって、なにと闘ってるんだ?」
「そうねぇ。わかりやすくいうと、生徒会とあとは新聞部かしらぁー」
 宗宮は、無線をしながらだったが、適当に答えたという感じはなかった。
「なんでそんなのと闘わなきゃならないんだ? ただ学校の備品をぱくるだけなら、相手は教員か警備員だろ?」
「あらぁ。五十川くん、怖くなっちゃったのぉ?」
「そうじゃない。ただ、わけもわからずに装備だけ渡されても、誰かと闘うなんて気にはなれない。俺は事なかれ主義なんだ」
「個人の思想に意見するつもりはないけれどぉ、真実を知ることができるのは自ら行動を起こした人だけよぉー」
「それって前にいってた、世界の秘密を解析するっていう研究と関係しているのか?」
「うーん……」
 無線通信が一区切りついたのか、宗宮はヘッドセットをテーブルにおいて五十川と向き合った。
「五十川くんは、自分が納得できないと行動しない主義みたいね」
「ふつうそうだろ?」
「たしかにね。五十川くんのいうとおり、備品を調達するためだけに生徒会や新聞部と抗争しているわけじゃないの。わたしの研究、というより高エネルギー研究部の存在意義が関係するんだけど、その話はまた今度ってことでいい?」
 宗宮は話を一方的に打ち切って、ふたたびヘッドセットを手に打電を始めた。
 適当な言葉でごまかされるよりはマシか……。
 今回の作戦は久美の使うキーボードを拝借するのが目的だが、宗宮にとっては副産物もあるらしい。五十川はそう理解した。
 まあ理由は何であれ、明け方に校内を走り回らなければならない。それも高エネルギー研究部の部員と連携して。今までの生活みたいに、明け方に眠たくなるようでは無用のトラブルを起こしかねない。
 そもそも記憶が混乱するほど生活のリズムを崩したのだって、極端な睡眠不足が原因だ。今はたとえ眠れなくても、体力を温存するために静かに休んでおくべきだと思った。
「少し横になってる」
 五十川は天文台へと引き返した。
「今回の作戦の主役は五十川くんたちなんだから。ちゃんと休んでおいてねぇ」
 またあのふわふわした声が、なにを考えているのか読めないあの声が聞こえていた。
 絶対に眠れないと思った。
 ただでさえ、五十川は夜型人間なのだ。ましてやこんな日常からはみ出した生活に放り込まれて、安眠なんてできるはずがない。
 ソファに横になった五十川は、デジタルオーディオのイヤホンを耳に突っ込み、八十年代の洋楽を適当にピックアップしたプレイリストを流していた。
 久美はいっていた。
 今までの生活は悪い夢で、起きたらすべてが変わっていると念じて眠りにつくのだと。
 今、パーティションの向こう側に寝ているはずの久美はやっぱり同じような儀式をして眠りについたのだろうか。それとも屋上での生活を受け入れたのは、その願望が叶ったからなのだろうか。
 俺はどうなんだろう?
 かすかに残っている記憶で、今いる場所から逃げ出したいと願っていたような気もする。
 ここで衣食住の担保された生活を送っていくことは、俺の理想なのだろうか……。
 そんなことを考えていたら、いつの間にかうつつを抜かしていた。
「五十川さん、起きてください」
 誰かが腕を揺さぶる。薄く目を開けると、久美の顔がすぐそばにあった。
「あ? ああ。寝ていたのか……」
 五十川は上半身を起こして頭を振る。
「今何時だ?」
「二時十五分です」
 久美は市街迷彩の戦闘服に身を包み、準備万端だった。
「大げさだな」
「宗宮さんが、たぶん戦闘になるって」
 そういって差し出されたのは、五十川の分の戦闘服だった。
「戦闘?」
 寝起きの頭にはぴんと来ない単語だ。
「五十川さん、昼間の作戦説明ちゃんと聞いてなかったんですか?」
 久美は、不満そうだ。
 ああそうだ。生徒会のおっかない連中と戦闘になるかもしれないっていう話だったな。
「顔だけ洗ったら、すぐに着替えて準備するよ」
「はい。わたし、宗宮さんのところで装備の使い方を復習しておきます」
 まじめなやつだな、と思いながら五十川はタオルをひっさげて給水塔下にある洗面所に向かった。
 懐中電灯の使用は禁止だった。星明かりに目が慣れるまで、しばし給水塔の下で待つ。
「こんな山の中で意味あるのかな……」
 顔を洗い、屋上からの夜景を見渡すと、わずかに高い校舎には航空標識灯がともっていた。あとはどこまでも続く黒い森だけだ。
「準備はいーい? 五十川くん」
 振り返ると、あいかわらず制服のままで、のほほんとした宗宮がスターライトスコープを持って立っていた。
「宗宮は戦闘服着ないのか?」
「いいのよぉ。わたしは部長だからぁー。ここから指揮するのが仕事なのぉ」
「五十川さん、行きましょう」
「そうだな、そろそろだな」
 久美から渡された暗視ゴーグル、無線など装備一式を身につけ、天窓から下界に降りた。
 ふたりは階段室で待機し、作戦開始の指示が出るのを待つ。
 そして午前三時半。一秒の狂いもなく、無線からのほほ~んとした声が聞こえた。
「通信規制解除。ミッションスタートよぉー」
 五十川と久美は階段を駆け下りる。目指すは音楽室だ。
 ふたりが校舎の外に出ると同時に、遠くで閃光がみえて小さな爆発音がした。あの方角は、教員室や教職員の寮があるあたりだと聞いた。たぶん今の爆発で消防設備が機能して、学園職員の足を止めてくれるのだろう。
 ふたりは走る。中庭を抜け、新聞部に久美が嫌がらせを受けた部室棟の脇を通り、音楽室を目指す。夜間は電源が落ちているのか、噴水は止まっていた。星空を映している、凪いだ水面に五十川と久美の影が見える。
 最初に異常に気づいたのは、五十川だった。
「どうしたんですか?」
 立ち止まった五十川の方を振り向く久美に、静かにするように合図を送る。
 ついで久美の手を引いて噴水の陰に隠れ、前方の扉を指さす。
「あの部屋、覚えているか?」
「新聞部の――」
 久美が無理矢理写真を撮られそうになった部屋から、わずかに明かりが漏れている。
「こちら五十川。宗宮、聞こえるか?」
 無線で屋上の宗宮に呼びかける。
『はいはぁーい。五十川くん、どうしたのぉ?』
「今、部室棟の前庭だ。新聞部の連中は活動中みたいだぞ」
『事務棟で陽動をしているからぁ。たぶん、かぎつけたのよぉー。今は手薄でしょうから、五十川くん久美ちゃん、懲らしめちゃってぇー』
 宗宮のやつは、なんだか水戸黄門みたいなことをしれっという。
 五十川にとってはどっちでもいい話だったが、久美は新聞部の被害者だ。いつぞやの仕返しをするにはいい機会かもしれない。
 それに宗宮にとっても、新聞部は敵対組織のひとつのようだ。
「了解した」
 五十川は足音を殺して、新聞部の部室に近づく。ちょうどよいことに、エアコンの室外機が動いていたから足音には気づかれなかったと思う。
「久美、配電盤の破壊を頼む」
 小声で指示を伝え、頭上のプラケースを指す。
 うなずく久美。
 五十川は暗視ゴーグルをセットし腰のハンドガンを抜き、突入に備えた。
 久美は配電盤のふたを開け、五十川の方をみた。うなずく五十川。それを合図に、宗宮から託された手榴弾のピンを抜いて放り込み、ふたを閉じた。
 きっちり二秒半後、破裂音とともに配電盤のふたが吹っ飛んだ。ふたは内部の部品と一緒に噴水に落ち、凪いでいた水面に幾重もの波を起こした。
 部室の内部では、なにか叫び声がしたのかもしれない。だが、ドアを蹴破っていた五十川の耳には入らなかった。
 照明の落ちた内部には、久美の写真を無理矢理撮ろうとした女子生徒と、その他二人の部員がいた。女子生徒はデスクについていて、電源の落ちたPCのキーボードに手を置いたまま固まっていた。ほかの二人は立ち上がりこちらを向いている。輪郭からして、例の新聞部ラグビー班だろう。
 五十川は、両手に構えたハンドガンでラグビーバカの二人に銃撃を加える。
『ゴム弾だから、当たっても死なないわよぉー。ばんばん撃っちゃっていいからねぇー』
 出発前に聞いた宗宮の言葉は本当だろうか。ゴムなのは弾じゃなくて、標的か?
 銃撃を食らった新聞部ラグビー班の二人は、プロボクサーが殴るサンドバッグのように跳ね回っている。
「やっ――。なに? なんなの!?」
 デスクにしがみついて伏せていた女子生徒は、ハンドガンの放つ閃光をみて腰を抜かしていた。
 五十川はへたり込んでいる新聞部女子生徒のタイをつかんで立たせた。腕を決めて逃げられないようにし、久美の前に連れて行く。
 五十川が蹴破った扉から、月光が差して女子生徒を照らし出した。入り口に立っている久美からは、忘れるはずもないそいつの顔がよく見えるだろう。
 久美はハンドガンをホルダーにしまい、そいつに歩み寄る。
「し、新聞部の力を甘く見ないでよね! どうなっても知らないわよ」
 女子生徒は精一杯の虚勢を張るが、久美には通用しなかった。
 左手でタイをつかむと、右手で一発鮮やかな平手打ちを食らわした。
 ふだんおとなしい分、怒ると怖いタイプなのかもな。
 そんな久美の高倉健みたいな一面に感心していると、屋上の宗宮から無線が入った。
『時間が近づいてるわぁ。ふたりとも新聞部の相手はそのくらいにして、移動してちょうだいねぇー』
 久美とふたり、うなずきあって部室棟をあとにした。

 

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異世界のメロディ(12)

 
 教室の集まっているエリアは、夜間は人が通行しないためか至る所で防火扉が閉じられていて移動に苦戦した。いちいち破壊していては、こちらの工具が先にダメになってしまう。それに警報器だって鳴るだろう。何のための陽動作戦かわからなくなってしまう。
 ふたりは大きく建物を迂回したり、渡り廊下の手すりを乗り越えて横切ったり。とにかく忍者にでもなったつもりで音楽室のある校舎を目指した。
「久美から本部へ。ポイント2に到着しました」
 音楽室の入り口まで来たときには、久美の息は切れていた。
『あらぁ、思ったより早かったわねぇー。ほかのみんなも準備できたみたいだから、作戦を第二段階に進めるわよぉー』
 第二段階開始の合図は、すぐにわかった。
 炸裂音、というより圧縮されていた気体が解放されるような音が、四方八方から同時に聞こえてきた。暗視ゴーグルでみると、建物の影が煙りに消えていく。音楽室のある校舎を中心に煙幕が張られたのだ。
「久美、そっちはどうだ?」
「もうちょっとです」
 音楽室の鍵と、久美は格闘していた。防音扉だけあって、簡単には破壊できないようだ。
「ちょっと交代しよう」
「五十川さん、こういうの得意なんですか?」
 昼間、鍵破りに関する宗宮のレクチャーをまじめに聞いていた久美が、心配そうに聞いてくる。
「人をドロボーみたいにいうなよ。でも、なんだかできるような気がするんだ」
「わたし、最終手段の爆薬も持ってきてます」
「もう少し試させてくれ」
 わずかな量ではあったが、久美はプラスチック爆弾も託されていた。これを鍵穴に押し込み爆破するという手もある。でもその前に、今つかみかけている手がかりを引き寄せたいという気が五十川にあった。
「そいつに頼らなくてもなんとかなりそうだ」
 鍵穴に無理矢理セットした工具を持つ手に、確かな手応えがあった。その手応えを逃がさないように、慎重に右に回す。
「よし、うまくいったぞ」
 ドアハンドルに体重をかけると、ロックが外れて扉は静かに奥へと開いていった。
 と、同時に消防か、防犯か、とにかくどでかい音のベルが廊下に鳴り響いた。
「どどど、どうしよう……」
 久美が、会話も困難なほどのベルの音に動揺する。
 高価な楽器もある音楽室だけあって、正規の手順を踏まずにドアを開けるとベルが鳴るのだろう。
 五十川は防犯ベルなどの機器を信用していない。大きな音や声を出せば、誰かが助けてくれるなどというのは幻想だと思っていた。だけどここまで音量が大きいと、人の行動力をそぐ力があるようだ。
「びびるなって。早く備品を頂戴して、さっさとずらかろう」
 五十川は久美の手を引いて音楽室に突入した。
『五十川くん、そっちの首尾はどぉ?』
 無線で宗宮が呼びかけてきた。
「今、音楽室内に入った。久美と適当なキーボードを物色している」
『部室棟付近で戦闘が始まったわぁ。敵の教室棟への侵攻は宇都宮くんが阻止してくれているけど、なるべく急いでねぇー』
「戦闘? 敵??」
 さっきの仕返しに、新聞部ラグビー班の残党でも来たのだろうか?
『そうよぉー。生徒会直属の自治部隊が出てきたのよぉ。新聞部なんかとは比べものにならないくらい強いのよぉ。できるだけ遭遇しないように注意してねぇー』
 そういえば作戦説明でそんな話もあったな、と五十川は昼間のことを思い出した。なんでも催涙弾やゴム弾を発砲したり、放水などをしてくるかなり危険な連中だそうだ。
「久美、これなんかどうだ?」
 五十川は、専用のケースに入っていて持ち出しが楽そうなキーボードを棚から出した。
「念のために、中身を確認します」
 テーブルの上にソフトケースを置いて、ファスナーを開く。
「付属品とかそろってるか?」
「大丈夫です。でもこれ、かなり高級品ですよ」
「なら余計にいいじゃないか。それにもうタイムリミットだ」
 さっきから気になっていたが、銃声がだんだんと近づいている。
 二人分の装備を久美が背負い、五十川はキーボード一式を背負って音楽室を出た。
「宗宮? こちら五十川。今、音楽室を出た」
『了解よぉー。主戦場は部室棟に移ったからぁ。ふたりとも、そのまま寮エリアの方へ進んでちょうだいねぇー』
「了解した」
 通信を終えて駆け出そうとした五十川の袖を、久美が引く。
「どうした?」
 久美は黙って五十川の背後を指さした。その大きく見開かれた瞳には、信じられないものをみたてしまったとでもいいたげな色が浮かんでいた。
 いやな予感がした。
 それでも五十川はゆっくりと久美の指す方を振り向く。
「!」
 黒い人影と、暗く赤く光る目がそこにあった。
 洋館などに出没する、甲冑を着た騎士の亡霊かと思った。
 これが生徒会の自治部隊ってやつか――。
 五十川は腰のハンドガンを抜こうとした。
 その動作が合図のように、プロテクトアーマーを装備した自治部隊のやつは、腰で構えていた機関砲を五十川らに向けて構え直した。一つ一つの動作はゆっくりのようにみえたが、止まることはなく確実に照準が五十川の体幹に移動するのがわかった。
 やばいな――。
 目の前の化け物が火を噴く前に、ハンドガンで急所を狙い撃ちできるとは五十川には思えなかった。
 五十川は身を固くして目を閉じた。
 機関砲が至近距離で火を噴くのだ。それがたとえゴム弾だろうとしても、大けがは免れないと思った。だが銃声は一発だけで、おそるおそる目を開くと黒い影が崩れ落ちる映像が目に入ってきた。
「……」
 倒れた自治部隊の背後から現れたのは、立派なもみあげと短髪、そして射貫くような目が印象に残るスーツ姿の男だった。手にしているM16の銃口からは煙が上がっている。
 ゴルゴか!?
 五十川の横で、久美が息をのむのがわかった。
「もしかして、バロン宇都宮さんですか?」
「……」
 久美の質問には答えず、そいつはふたりに背を向けて立ち去っていった。
 銃声はまだ続いている。
「とにかく、回収ポイントまで行こう」
 五十川は呆然としている久美の手を引いて走る。
 あいつがバロン宇都宮か。渋い高校生だな。
 いろいろなことが思い浮かぶが、今はここから逃げるだけだ。五十川は先ほどと同様に、防火扉を避けて遠回りしつつ回収ポイントを目指した。
「こちら五十川。寮のあるエリアまで来た」
 無線で宗宮に呼びかける。
『サイリュームを投下するからぁ、そこまで来てちょうだいねぇー』
 どこだよ?
 久美とふたり、視野を狭くする暗視ゴーグルを外して全方位を見渡す。
「ありました! 五十川さん、あそこです」
 久美の指す方には焼却炉があって、そのすぐそばには黄色く光るサイリュームが転がっていた。
「またあのごつい連中と出くわさないうちに、さっさと屋上に戻ろう」
 焼却炉の煙突に沿って、縄ばしごが降ろされていた。見上げると、屋上には宗宮の白い制服が月光に照らされてはためいている。
「久美を先に上げてくれ」
『わかったわぁー』
 縄ばしごでつり上げられている最中は無防備だ。
 五十川は、ハンドガンを構えて臨戦態勢で久美が回収されるのを待つ。プロテクトアーマー相手に、こんな小口径の銃でどの程度効果があるのかわからないが、またあの化け物が来たらとにかく撃つしかない。
 あんな重装備のやつが相手だなんて、聞いてなかった。いやそれ以前に、なんで夜の学校内であんなのが闊歩しているのかがわからない。
 昼間、宗宮がいっていた『やつら』『生徒会直属の自治部隊』などの単語が頭を駆け巡る。自分は記憶を失ったまま、セクトにでも取り込まれたのだろうか?
『ほらぁー。次は五十川くんの番よぉ』
「OK、引き上げてくれ」
 手足をかけた縄ばしごが、ウインチで巻き上げられていく。
 焼却炉付近に敵の姿は見えない。だんだんと遠くなる地上をみながら五十川は、これで一息付けるな、と胸をなで下ろした。
「ふたりともお帰りなさぁーい!」
「おい、こら! いきなり抱きついてくるな」
 作戦終了の打電をした宗宮は、駆け寄ってきたかと思ったらふたりまとめて抱きしめた。
 久美は自治部隊との遭遇がよほど怖かったのか、宗宮の胸で泣いている。
 一方、宗宮の腕からするりと抜け出した五十川は、教室棟の方をみていた。
 もう今は静けさを取り戻していて、先ほどまでの騒動が嘘のようだ。煙幕も、火薬のにおいも、風に流されたのか残ってはいない。
「なあ、宗宮。あの連中のことなんだけど――」
「なぁに? 自治部隊のことぉ?」
 振り向くと、宗宮はあくびをかみ殺していた。考えてみれば、宗宮はずっと寝ていない。高エネルギー研究部の部長として、全体の指揮を執るために昨晩からパラソルの下で無線と格闘していたのだ。
「それなんだけど、一眠りしてからゆっくり聞かせてもらうから今はいいや」
「そうしてもらえると、たすかるわぁー。もうわたし、クタクタなのぉー」
 九月とはいえ、まだ明るくなるまでには少し時間がある。天文台に入っていった宗宮と久美の後ろ姿を見送って、五十川も仮眠することにした。
 ついさっきまでドンパチやってたのだ。興奮して眠れないと思った。それでも押し寄せる疲れにはかなわないらしい。わずか二時間足らずの仮眠だったが、深く深く夢もみずに五十川は寝た。
 睡眠時間が少ない割には、目覚めはすばらしくよかった。
 うなされていたわけでもないのに、ぱっと目が覚めてすぐに起き上がれた。壁の時計で意外なほど短かった睡眠を知り、そのくせ体が軽くなっていることが不思議だった。
 顔を洗いに表に出る。
「あの……、五十川さん」
「ん?」
 タオルで顔をぬぐっていると、久美が背中越しに声をかけてきた。
「静かに出てきたつもりだったんだけど、起こしちまったかな」
「いえ。そうじゃなくて、昨日はありがとうございました」
 振り向くと、久美はぺこっと頭を下げていた。
「まだ感謝されるのは早いよ」
「え?」
 きょとんとする久美。
「目的はコーラス部だろ? 無事に入部できたら、そのときは思いっきり感謝してくれ」
「はい」
 五十川は思っていることをそのまま口にしただけだったが、涙もろい久美は手の甲で目頭を押さえていた。
「あのキーボード、すぐに使えるように組み立ててみようぜ」
 ソフトケースを開け、本体と足を出す。それからACアダプタをつないで完成だ。
 と、そこまでは順調だった。
 だけど、教則本をみて戸惑う。五十川はキーボードなんて弾けない。
「五十川さん、最後の方のページを見てもダメですよ。最初は音を取る練習みたいです」
「そっか。音色はピアノでいいか?」
「はい」
「それじゃあ――」
 五十川は、ドミソを上がったり下がったりしながら繰り返し弾く。それに合わせて、久美は一生懸命アーアーと、音を取ろうとした。
「もう少し、ゆっくりお願いします」
「わかった」
 これは思ったより前途は明るいな、と五十川は思う。
 久美はやることが丁寧だ。音を外したまま先に進むことはしない。一音一音、ちゃんと修正しながら練習していた。
「いい調子だよ」
「はい!」
 今までで一番打ち解けた表情で、久美は大きくうなずいた。



(第一章・おわり)