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1

      【東風】
 東海道を駿河に向かって、新九郎は歩いていた。今川龍王丸も、今年で十五才になる。元服の打ち合わせをするとともに、小鹿範満に守護代を退くよう勧告しなければならない。小鹿範満との交渉も難物だったが、新九郎の足どりを重くしていたのは北川殿との再会だった。嫁をもらって以来、北川殿には会わないようにしていた。なんと言われるだろう。もともと「じゃじゃ馬な姫」で鳴らした北川殿だ。いくさに出る以上の不安が、心にのしかかっていた。
 丸子城に北川殿母子はいた。龍王丸の勢力がようやく小鹿範満と対抗できるまでになってきたので、そばに仕える家臣も多くなった。上座に北川殿母子が座り、群臣が居並ぶなかに新九郎は入って行った。
「いよいよでございますぞ。龍王丸さまには、まず元服をしていただきます。その上で小鹿範満に守護代を退くよう、話を持ってゆくつもりでございます」
 龍王丸は背丈も伸び、凛々しい若者に育っていた。
「叔父上、わたしが駿河守護になれるのか。大丈夫なのか」
 新九郎は、居ずまいを正して答えた。
「血筋や家柄だけで、守護職が転がり込んでくるわけではありません。仁政を布く者にこそ、天命が下るのでございます。それを決してお忘れなきように、お願いいたします」
「うむ、分かった。決して忘れぬ」
 龍王丸は深く頷いた。そしてかたわらの北川殿を見てから、新九郎に話しかけた。
「叔父上は先年、奥方を娶られたそうな。母上から、祝いの品を差し上げたいとのことじゃ。遅くなって申し訳ないが」
 新九郎はぎくっとした。北川殿はにっこり笑って、侍女から贈り物の布帛を受け取り立ち上がった。新九郎も前に進み出て平伏する。北川殿は少し前に出てきたが、それ以上は進もうとしない。やむなく新九郎は更に前に出る。北川殿はニコニコした顔で、立ち上がれと合図している。いやな予感がしたが、新九郎は立って布帛を受け取った。
 受け取ってすぐ、新九郎は手の甲に痛みを感じた。布帛の下で、北川殿がつねっているのだ。北川殿は相変わらず笑顔のままだ。だが、いつまでたっても立てた爪を放そうとしない。二人の手は、布帛に隠れてまわりの人々からは見えない。あまりの激痛に新九郎の目には涙があふれてきた。北川殿もニコニコ笑っているが、目が潤んでいる。
 祝いの品をはさんで立ちつくす二人に、居並ぶ群臣や侍女は不審な顔をしていた。だが涙をたたえた二人の瞳をみて、みな合点した。ふたりは長年の苦労が報われつつあることで、感極まっていると思ったのだ。侍女の中にはもらい泣きする者も出る始末だった。ようやく放してもらい、席に戻るまで長い時間だったような気がする。まだズキズキする。新九郎は袖の中で手をさすっていた。だが、涙をたたえた眼で笑顔を絶やさなかった北川殿の姿は、新九郎の心にも痛みを与えていた。


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2

 数日後、新九郎は駿府城にいた。小鹿範満は駿河守護代として、仕置きを行っている。新九郎は朝から登城しているが、小鹿範満は会う様子がない。そんな事だろうと覚悟していたので、新九郎はのんびり構えていた。夕刻になって、ようやく広間に案内された。駿河申次の代理として来ているので、上座にすわる。だが、下座に控えるべき小鹿範満はいなかった。弟の小鹿孫五郎、今川一族の蒲原播磨守が控え、後に範満の老臣である興津木工助が座っていた。小鹿孫五郎が口を開く。
「兄、今川範満は突然の腹痛にて、伏せっております。失礼ながら御諚を承っておくようにとのことでございます」
 ふん、下座には座りたくないということだな。
「『今川範満』と聞こえたが、聞き違いか。それがしがお会いするよう命じられておるのは小鹿範満じゃ」
 今川家は、足利家が絶えたときに、将軍の位を継ぐ特別な家柄だ。今川範政の代に副将軍に任じられ、『今川』の姓は天下一苗字として、当主しか名乗れないことになっている。小鹿範満が、ごく近い一族でありながら小鹿の姓を名乗っていたのは、こんな事情があった。だが、守護代になって以来、範満は『今川』を僭称していた。
「控えよ伊勢の者。範満さまは源氏の名流であらせられるぞ。伊勢など、どこの馬の骨かも分からぬような家柄ではないのじゃ。早々に立ち去れ」
 興津木工助だった。この老人は範満に嫌われながらも、べたべたとすり寄っている。しかし、目下の者や素性の卑しい者には冷淡だった。蒲原播磨守がたしなめる。
「ご老人、お静かに。いずれにしろ、公方さまの仰せを伺いましょう」
「では、申しましょう。今川龍王丸に駿河の仕置きを任せるゆえ、小鹿範満は守護代を退き、龍王丸に駿府城を明け渡すようにとのことでござる」
 蒲原播磨守は、あざ笑った。
「はは、何かの間違いでござろう。駿河は一族も国人もこぞって、今川範満さまを主君と仰いでおります。いまさら龍王丸など、どこにいるか分からぬような子供に、駿河を任せるわけには参りません。ご再考いただきますよう、伊勢どのからお口添えをお願いいたします。」
 新九郎は、強く出てみた。
「公方さまのご命令がきけぬというのか。小鹿範満も同心なのだな。それは幕府に対する反逆にも等しいことぞ」
 蒲原播磨守は耳に手をあてて、小鹿孫五郎に言った。
「はて、よく聞こえぬ。孫五郎どのは、申次さまのお言葉が聞こえるか」
「うむ、なんと申されているのか聞き取れぬ。都の言葉は、アズマエビスにはちと難しいのでなあ」
 新九郎は静かに立ち上がった。思った通りだった。
「あくまで幕府の意向に逆らうというのであれば、それでよい。首を洗って待て」
「関東の上杉家も当家のお味方じゃ。久方ぶりに槍をふるうことができれば、それも一興じゃ」
 蒲原播磨守もうそぶいた。交渉は決裂したのである。



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