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       どんな女性を美しく感じる?

 

 

 

別に高度な哲学を有している必要はないし、それに類する書籍が読める必要もない。

 

あるいは、美貌かどうかもそれほど関係がない。

 

どんな女性を本当に愛しく美しく感じるのか。

ただ単に、子供の頃の優しい素朴な世界をその世界からしか発せられない微笑みを有しているか、どうか、だ。

 

絵本を読んで、その美しさに哀しさに優しさに気付けるかどうか。

 

奪い取られて、いつの間にか捨て去った世界の感覚をもう一度話してくれるかどうか。

 

 

本当に価値のある人、守るに値するものを持っている人に、出逢いたいと想う。

 

 

たくさんの物語を語れる女性に会いたいと想う。

 

そんな女性、絶対にいないことを分かっていてこんな話をしているのだけれど…。

 

 

ただ単に美しいだけでは神秘的ではない。

饒舌なだけでは揺さぶられることはない。

言葉を話すように、沈黙を使って語れるようなそんな人がいたらどれほど美しい時間を共有できるだろう。

 

 

もちろんそんな人はいない。

僕の周りの女性は皆、例外なくウォーリアーだった。

母も妹も猫様も友人も皆ウォーリアーだった。僕はなんだかんだでそんな女性の皆様方が好きだったし、たくさん、大変、とんでもなくお世話になった。

 

 

ただ何処かにはいてもいいと思うのだ!

そんな空想の中から飛び出して来たような素晴らしくも奇異な魂を持った女性が…。

 

で、そんな人はいないから、僕は今日も甲斐もない様々な妄想に耽り、線を引き、立ち止まり続ける。

いつかそんな人に出逢った時のために、まさしく『絵空事』から嘘と言い訳を引いていく。

 

いつかそんな人に見つめられたとき、僕は恥ずかしくて一秒だって一緒にいられないだろうけど、少なくとも溜め息一つ分くらいは僕のクリアな主張を受け止めて欲しいと思う。

 

 

僕はたぶん正気をなくしているからこういう綺麗事をペラペラと話せるのだろう。

このことには最近気付いた。

美しい人とたまにはゆっくり話してみたいな、と思った(僕は最近、猫とばかり話をしている)。

 

 

 

それはいったい誰なんだろう?

 

 

……。

 

 

夏の暑さに頭がイカれたのかもしれない。

 

 

 

 

 


 

 

 

          『ultorah』

 

 

 

 繰り返し見る夢は、『女性の夢』ではなくて、昔、仲違いした親友のギタリストのこと。

 今では、仲違いした理由さえ忘れてしまったのだけれど、それが、自分のせいだったことだけはよく覚えている。いや、もしかしたら、やつのせいなのかも知れない。どちらにしても、避けようのない出来事が起こって、僕は未熟で、奴もまだ未熟だった。

 彼はまぎれもなく、才気に溢れたミュージシャンで、それに溺れることのない克己心も持ち合わせていた。他人に心を開くことがそれほど巧くはなかったにせよ、彼は彼なりのユーモラスな部分を持っていて、彼はそれを時々僕に見せてくれた。僕は彼のそういうところに好感を持っていた。


 こういうことをうまく伝えることは出来ないのだけれど、僕は、同じ時期に育った友人に対してどこか血よりも濃い確かな絆を感じている。
 そういうのはなんというか、本当にうまく言葉に出来ない。
 そうした絆も、僕の過失と、なんらかの偶然のせいで、あっという間に僕の世界から消えてしまった。
 僕が、未だにギターをいじり倒して、時々、路上で下手くそな歌を唄うのも半ば以上、彼と過ごした時代への報復や賛歌であり、僕の音楽的な才能のほとんどを涵養してくれたのも彼だった。彼がくれた自分の中にある資質が、まだ、僕の存在の一部としてあることを確かめたくて、何処に向かうこともないみみっちい才能を未だに行使しているというわけ…。僕は明確に過去に生きている。


 それで、つい先日、その彼の夢を観た。
 彼と僕は武道館のような大きなライブホールで、コンサートのラスト二曲を演奏することになった。
 彼は僕に、楽譜を渡し、その極のタイトルは『ultorah』だった(僕は夢の中では現実と違って異様に記憶力がいい。まるで現実の代替行為のように僕の夢はある。たぶん多くの人にとってもそうだ。)。スペルまでしっかりと覚えている。
 僕は、即座に楽譜を読み込み、彼の弾くメロディに合わせてバッキングを行った。
 その旋律やハーモニーは、ずいぶん沈んでいた僕の心を激しく揺さぶり癒してくれた。
 夢の中ではあるのだけれど『ultorah』という曲は確かに存在していて、架空のものではあるのだが、僕の中で大きな意味を持っている。
 あと、もう一つ演奏するはずだった曲は、ソロの小品だった。

 僕には彼のように鮮やかにギターを弾くことはできない。僕には、ただ、こうした自分でもその意義を測りかねるような駄文を書き散らすことだけが唯一の方法で、実をいうとそれが精一杯の僕自身の表現なのだ。

 そこには技なんてものは何もなくて(そもそも、文章を書くのに技なんか要らない)、ただ書き続けていくのだというしぶとい意志さえあれば後のことはどうにでもなってしまう。

 そういう気持ちがあれば、文章を書くことは、他の人が考えるほど、難しい作業ではないってことだ。それが全てで、その他にはたぶん何もない。

 他に必要なのは、ほんのわずかな体力と時間だけだ。

 少なくとも、何か意味のあるものを書くということじゃなくて、何かを書くこというだけならそれで十分に足りている。そう今の僕のように…とりあえず、何かよくわからないけれど『書く』ということ…。
 僕はいまひどく、とてもひどく疲れている。


 

 たぶん、僕に必要なものは本当は休息なのだろう。もしくは、休息と名指された『沈黙』そのものだ。
 そんな風に過ごすことも、そういうことを許してくれる環境にも僕は今いないのだけれど…。
 誰だって生きていれば忙しくなってしまう。忙しくなければ見捨てられたような気持ちになってしまう。

 

 無意味に思えることに何とか意味を見出し、どうにもならないたくさんのろくでもない出来事に向かい合って、ベッドにもぐりこめば、なんとか眠るために自分でも陳腐だと思える幸福な想い出を反芻し続けている。そう僕は、ちゃんと生活して、ちゃんと頑張っているのだ。たぶん。そこには僕なりの主張がほんのちょっとだけある。

 友人との別れをこんな風に悔いていても僕には僕なりの言い訳も幾つかはある。

 
 でも、僕は、出来るなら、それを口にせず、『沈黙』していたいと思っている。そういうことがとても難しいことはよく分かっているけれど、沈黙は沈黙でとても大切なのだということを、僕は時間をかけてやっと学ぶことが出来たような気がする。
 どんな出来事も喋れば、喋るほどに、取り返しのつかないほどに悪くなっていく。そういう種類の出来事があるし、そういうときが、人生にはきっと幾つかあるのだと思う。友情に関しては、そういうことはきっと多いのだと思う。
 本当に、本当に大切なことは言葉にできない。
 


 言葉に出来ないものをなくしたときに、本当に、何かをなくしたのだと、言葉を超えて気付いてしまう時がきっと誰にだってある。たとえば、年をとることや、分かれた奥さんとの想い出をうまく語ることが出来ないみたいに、本当に大切なことは、言葉の表現を超えてしまっている。
 その限界を越えようと思えば、ただのやる気だけではなくて、きっと特別な才能を持った人だけ許されている力があるのだろう。その力だけが到達できる特別な場所がきっと他の誰かにはあるのだろう(僕はたぶん、そこにはずっといけないと思う。)


 僕みたいな語る力の乏しい人間は、その言葉の輪郭をトンボのように飛びながらも、こんなふうに、黙り込んでしまうしかない。

 

 

 ………。

 

 

 

 

 それで、また、僕は哀しい夢をみる。

 『ultorah』を聴く。

 存在しない幾つかの出来事に出逢う。


 『沈黙』と『休息』。

 

 

 そういうもの以外、こういう説明不能な疲れ…というのだろうか……痺れを回復させてくれるものはないような気がしている。
 夢を見たことで、なんだか、とんでもなく疲れている。ここ三日くらい、微熱が引かないが、微妙に元気なのでうまく眠れない。

 『ultorah』が、耳元で鳴り続けている。

 それでまた、哀しい夢をみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

   どんなふうに死にたいのだろう?

 

 

 

 22歳の頃、僕はなんだか、とても『死』にとりつかれていた。

 とても繊細で観念的で救い難い青年だった。(いまもそうだけれど。)

 死についてとても、興味があったのだ。

 

 それで、その他の観念的で独りよがりの青年と変わらず、やたらめったに、たくさんの人に『死』について質問をして回った。

 

 或る日、自分が死んだら?とか。

 自分のかけがえのない人が亡くなったら?とか。

 友人が亡くなったら?とか。

 

 朝でも昼でも夜でも、そんな話をたくさんの人にして回った時期がある。

 それは、自殺したいとか、したくないとか、そういう話ではなかった。

 

 たぶんあれは、自分が生きているということをなんとか実感して、その先の人生を強く生きていくためにとても大事な季節で、とても大切な疑問だったのだと思う。

 

 何のために生きるのか?とか。

 なぜ生きなければならないのか?

 

 という基本的なことに真正面から向き合って、少なくともその土台を見出さなければ、ほんの僅かにでも前に進めないような気がしていた。

 そうした疑問を方々に持って回るうちに、どんな青年でもある時に、とても大切なヒントに出くわす。

 もちろん僕も、あるとき、ある瞬間に、とても大切な『言葉』に出くわした。

 それは、

 

『あのね、死ぬことは哀しいことじゃないよ。お葬式は、お祭りよ。』

 

 という、物凄くシンプルな言葉だった。

 お葬式=お祭りというちょっと矛盾するような感覚や考え方がなんだか、そのとき僕には、とても、しっくり来たのだ。

 死や人が忌避する哀しみを、むしろ、歓びとして、祝福されるものとして考えるというのは、その時の僕にはとても魅力的なことだった。

 逆転や、矛盾や、アンチビバレントな関係は、どんなときも僕の大好物だった。

 

 そのときの僕の結論は、『葬式をお祭りにするくらいに必死になって生きればいいのだ』という、さらにシンプルなものだった。

 観念的なくせに、まるで何も考えていない、という僕の特質は、今より若い頃から遺憾なく発揮されていたといえる。

 

 

 だからたぶん、僕が求めていたのは、『死』そのものじゃなくて、『どんな風に死にたいか』ということだったのだろうと思う。

 

 

 一昨日、親類の訃報を聞いて(かなり年の人だったのだけれど)、なんだかひどく透明な気持ちになった。

 ほんの少し何かが、心から晴れていったような気持ちにもなった。

 今日はお葬式の朝。

 奇妙な明るさを自分の中に感じている。

 

 がんばって、がんばって、生き切った人がまた、一人。

 そういうふうに思っていたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

         不可能性について。

 

 

 

 

 あるとき、ある瞬間、もしかすると、僕が持っている潜在的な可能性のほんの1%も僕は充たしていないんじゃないか、という気がする。

 夏の香り、空の動き、夜の静けさ、結局何もかも、まだ、本当は自分の感覚で、自分自身の目で肌で触れたものを何も見出してはいないのではないか、という気持ちになるときがある。

 

 一方で、これ以上、自分にどんな可能性が残されているのかと、愕然とするときもある。自分にできること、出来ないことの頼りなさに愕然としたりする。

 

 そういう可能性と不可能性の間に、いつもいつも揺らめいて生きている自分を感じている。

 僕はそういう中途半端で、どうしようもなく弱く頼りない自分の姿によく自分自身を感じる。飲んで酔っ払っているときなんかとくにそう思う。

 

 強くなることじゃない。

 びっくりするけれど、弱くなることで、たぶん僕は生きてきた。。

 身体も心も年々脆く崩れやすくなってきた。

 幾つもの心の障壁を打ち壊して、内側と外側が一つになるように(たぶんそれは僕以外誰も歓迎しない反社会的な営みだったけれど…)、大方の人たちの流れから言えばマイナス方向に自分を推し進めてきた。

 結果は決して好ましいものではなかったんだけど、僕は、ある一面ではそれで大いに救われてきた。生きる楽しさをほんの少しだけ回復できたような気がする。

 強い意志、思考力、合理性、精神力、根性・・・そんなものは僕にはない。

 意志の力を捨て去って、惑い続ける心を捨てて、判断力をあやふやにし、がまんすることを忘れて、耐えることを辞める。

 もちろんとても弱くなる。

 一方、とてもしたたかになる。

 大げさに言うと、不可能性の見地から、可能性を見つめている自分に気付く。

 真夜中に原っぱで星を見上げているような感じだ。そういう感覚やそういう姿にとってもよく似ている。

 現実は、僕らが生きるべき次の瞬間は、きっと、不可能でも可能でもない。誰にも何も分からない。その連続だ。ルールはなくて、ルールがないというルールしかない。

 そうしたごく当たり前のことに不思議な安らぎを感じている。

 不可能性の可能性への侵食、可能性の不可能性への流出、そういうことが生きることなのかなあとぼんやりと考えていた。

 

 怠惰でだらしのない人間にとって、不可能性という言葉はとてもとても楽しい響きを持っている。

 

 暇つぶしには…なるよね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 『誤作動』

 

 

 

 

 

 

 ウォークマンの誤作動で突然、クラシックが流れ始めた…。クラシック音楽なんていう音楽があることをずっと忘れていた。曲名がすぐには出てこなくて、でも、それがなんだか良かった。音楽は音楽だ。聴きながらなんだか言葉にならないくらい悲しくなった。でもそういう悲しさにももう何年も出逢っていなかった。終わり際、ようやく曲名に気付いた。

 

 ショパン『別れのワルツ』。

 

 こんな簡単な曲の名前ももう出てこない。いつの間にか人生からクラシックが消えていたんだね。

 

 僕の生き方やこれまで生きていた人生とクラシックはまったく重ならないしああいう世界観に僕はもう二度と馴染めないと思うけど、こうして、時々、ただ悲しいものとかただ儚いだけのものを感じてみるのも悪くないのかも知れない。

 その後の『革命』はちょっとタッチが強すぎるなあって思ってたんだけど、よく見ると誤作動で流れていたのはホロヴィッツだった。なら仕方ない。

 自分が誰で何処で息をしているのかも忘れて『別れのワルツ』を聴いていた。クラシックの話なんて…とても僕らしくない話なんだけど。

 

 でもね、今日は、僕と瓜二つだった祖父の命日…。

 

 僕はこういう不思議な偶然や感動を信じていたいと思う。

 

 

 

 今日は、クラシックと『誤作動』の話…。

 

 

 

 

 

 

 

 



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