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 先に飲んでいるから

 

 

 メールが来た。僕は足早にそれだけ確認すると、銀製のケータイを閉じた。アズミからの返信だ。彼女からのメールはいつも 『Re:』になっている。そのことに僕は、彼女の中にいる僕の不確かさと、液状の透明さを感じるのだ。

僕は決して返信しない。

 いつでも一番最初が好きなのだ。

 

 

 安物のスーツを着て、冬の街を、仕事の帰りの人ごみよりも、もう少し早く歩いても、外灯をリズミカルに横切っていく自分が好きだった。

 今夜はアズミが僕を待っている。

 彼女のクローゼットにたった一着だけのイブニングドレスを、この夜のために着ているのだろうか。艶かしい肌が浮かぶ。

 それほど綺麗な女の子ではないけれど、微かに美しいことが、彼女について――、とにかく僕を夢中にさせた。

 僕は左手でネクタイを緩めた。

 

 コートの左ポケットの中には、婚約指環が、しっかりと、核爆弾の起爆スイッチのように収められている。本当にそうなるかも知れないのだ。

 愛のための、儀式のための、内面ビロード張りでカッチリとした小さな世界だ。ただの箱だ。それが僕らの戦争を終える。この恋愛という奇妙な冷戦を…。

 主としてこの箱が、僕らの抑止理論になる。

 何よりも、愛を反応させる…。

 

 馬鹿げた冗談はこれくらいにしておこう――。

 

 

 エゴイズムは、夜の霧のように薫って消えた。

 

 

 

 六番街から地下鉄に乗り込むと、大方の人がうつむいたり、小さな声でため息を吐いている。緑色のオーバーを着てドア付近に立っている男が、窓に映る自分を眺めている。ブラウンのニット帽が気に入っているのだろうか。

 静か過ぎる。

 僕はコートを引き寄せて座った。

 正面で新聞を読んでいた男が、じっと僕を見て、また新聞へ視線を戻した。きっと、スポーツ欄でも見ていたのだろう。そういう目つきだった。何の意味だってない視線だった。

 彼女が待っている。

 

 ごとん、ごとん、

 

 その音が、『ごめん。ごめん…。』と、聴こえる。

 急がなくては…。

 

  この馬鹿な冗談をこれ以上、続けないように!

 

 

 

 地下鉄を降りて、階段を駆け上がり、九番街の通りへ昇る。僕はホテルへ向かう。それしかない。彼女がそこで、しびれを切らせている。

 あの子も今日、ようやく休みが取れたのだ。人生はいつだって仕事の合い間にやってくる。雑誌の編集者なんて、やめておけって言ったのに、僕よりも活字とばかり愛し合っているなんて、僕とはその時間さえないだなんて、なかなかに許せないことだと思った。

「ヘイ、タクシー!」

 僕は急ぐ。

 

 

 どんなときも、アズミのためならば。

 

 

 

 

 運転手のニヤついた笑顔を確認するまもなく、僕はタクシーから飛び降り、フロントから最上階へ。直通のエレベーターに乗り、息を切らす。襟をととのえる。ネクタイを締める。それで、ポケットを確認して、髪の毛を撫で付けて、息を吐いて、微笑んでみて、もう一度、微笑んでみて、言い訳をしないと、あらかじめ決めておく。

 愛している。

 愛している。

 愛しているからだ。

 

 

 さあ、ここが僕の舞台だ!

 

 エレベーターは人生最高の瞬間に到着した。

 僕は四小節分だけ、口笛を吹いて歩き出した。それが、永遠に僕の合図になる。それが人生ってものだ。

 僕の背丈で薫っている空気よりも軽い香水の匂いで彼女がそこにいることが解る。

 タキシードを着込んだマネージャーが僕に挨拶をする。

「お待ちですよ。」

「どのくらい?」

「なに、ほんのウイスキー三杯分ですよ。」

「まずいな。」

「ごゆるりと。」

「ありがとう。」

「どういたしまして。」

 僕は、そっとチップを渡した。人生を滑りやすくする魔法の紙切れだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 レストランの隅っこにいたバントは、チャイコフスキーのセレナーデを奏で始めた。いったい、どういう選曲なんだ?

 彼女は、こちらに気付いた。

 完全はデキあがっている…、香水とともに、危険な香りが漂っている。

 彼女が何か言葉を発する前に、僕は、席に着く。

 

 そして、料理は待ちかねたように、運ばれて来る。

 

 

 どういうこと?

 

 

 彼女の視線がそう言っている。アップにした髪が美しい。イヤリングに、僕らの思い出がきらめいて、瞳に批難のまなざしがあまりにも…、それだって悪くない。もちろん、僕は言い訳なんてしない。

「遅れたね。」

「待ったわ。」

「道が混んでたんだ。」

「へえローマ法皇でもやって来たって言うの?」

「いや。僕が地下鉄に乗っていただけさ。」

「それは、言い訳にしても笑えないわね。」

「笑わせる気なんてないよ。まじめな話をしに来たんだ。」

「あなたの口から、まじめな話なんて一度だって、聞いたことがなかったわ。」

「聞いた方がいいと思うよ。」

 彼女は席を立った。僕は、勢い彼女の手を引いて、彼女を座らせた。その拍子に、彼女の体中の何処かの骨がグキッと鳴った。ホール中に響き渡るすごい音だった。

「いったい何処の骨が鳴ったんだ?」

「腰よ!」

 彼女は明らかに怒っていた。それは誰の目にも明らかだった。バンドはセレナーデをほんの少し間違ってしまった。

「君の運動不足を解消するためなら、僕はどんなことだってするよ。」

 彼女は何も言わなかった。

「君の同僚にも、そう言いふらして来たんだ。」

 彼女は吹き出した。

「それが遅刻の言い訳なの。」

 僕はおどけてみせた。

 本当は違うが、それでもいいと思えた。

「悪かった。」

 僕は言った。

「いいのよ。気にしないで。」

 彼女は言った。

「本当にまじめな話なの?」

 彼女は興味津々に訊いた。彼女のほうが、なんとなくもったいぶっていただけだと思った。

 僕は頷いた。

 そうしながら、いま一番マシな冗談を即座に考え出そうとしているあたり、僕は性格が悪かった。相手が構えてしまうと何一つとして言いたくはなかった。

 僕は仕方なく、言葉をポツリと呟いてみた。

「……して欲しい。」

「なんて言ったの?」

「だから、」

「何?」

「…やっぱり、いいや…。」

「何よ。最後まで言ってよ。もう、今しかないんだから…。」

「目を閉じていて欲しい。」

「いいわ。」

 僕はこのまま逃げ出してしまおうかとも思った。

「顎を上げて。」

 彼女は唇を突き出した。いつもよりも、丁寧にリップを引いている。それほど美しくないことが、美しい。僕は女性には詳しかった。絶対に彼女には言えはしないが…。

「そのまま…。」

 僕はキスすると同時に、彼女の手に箱を握らせた。

 彼女が驚いて箱を開けようとする刹那に、彼女の頬を押さえ、右手で、指環を取り出し彼女の左手の薬指に嵌めた。どうしてそんな器用なことができるのか、自分でもよく分からなかった。

 僕はこういうことだけは、自信があった。

 思わず、彼女を盗んでしまうこと…。

「え…。」

 彼女の首の骨が微かに鳴ったが気にしない。

 瞳が潤んで、ワインのような色になっていた。ねっとりとしたキスだった。

「本気?」

「本気。」

「嘘じゃなくて?」

「マジだよ。」

「いつものくだらない冗談じゃなくて?」

「その方がいいか?」

「いいえ。」

 僕は視線を外した。

「こっちを観て。」

 僕は斜めに目を細めて彼女を見た。年下の癖に偉そうだ、と思った。だが、付き合い始めてからはだいたいこんな調子だった。そのことを、何故だか思い出した。

「怖がらないで…。」

「怖がってない。」

「イエスよ。」

「じゃあ、冗談なのか…。」

「違うって!」

「解ってるよ。」

「馬鹿じゃないの?」

「馬鹿って言うな。」

「馬鹿じゃないわ。」

「知ってるよ。」

「いつまでも、イエスよ。」

 彼女は言った。

 僕はうつむいて、笑った。そして、すぐに笑みを消して、ひどい頭痛を抱え込んだような気持ちになった。何かを言わなければならないと思った。彼女の言葉を待っていた。

「君が生理痛のときも、僕は逃げずに傍にいるよ。」

 僕はまじめに言った。それが、まじめな話だった。

「最低…。」

 彼女は言った。

「ヴァスコ=ダ=ガマよりも勇気を持って…。」

 彼女は複雑な表情をした。ヴァスコ=ダ=ガマを知らないわけでもなさそうだった。

「世界中、逃げ場なんてないのよ。」

 彼女は言った。僕もそう思った。

 それでいい。

 そう、思うから、僕は今日、ここにいるんだ。もう、君から逃げなくてもいいんだ。

「だが…、ところで…。」

「なに?」

「今の台詞は、ハネムーンのときに取っときゃ良かった。」

「その通りね。」

 意味の解らない笑いが、夕食を飾った。

 

 僕にしては、上出来だ。

 

 とにもかくにも、僕はそう思った。彼女は今ひとつ不服そうだったが、それは、何よりも彼女が飲みすぎているせいだった。

 僕らは、僕らの時を過ごしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、メールが届いた。

 

 

 

 親愛なるヴァスコ=ダ=ガマへ。

 私はハネムーンに行くわ。

  何処までも、あなたと共に…。

 

                        アズミ

 

 

 

  僕は銀製のケータイを閉じた。

   返信まで、しばらくの間、待っていようと思っていた。

   裸のまま、隣で眠ったふりをしている彼女に、そっと答えを囁こうと思っていた。

 

 

 

 

                                          《ささやかな通り過ぎた想い出に…。

 

 

                                                       

 

 

 

 

 

 

 

                                                                  end.


 

 

 

 

                                          ☆

 

 

 

 こんばんは。

 朝森です。みなさまお久しぶりでございますm(__)m

 今回は、ちょっと思うところがあって、僕が23歳の冬に書き上げた作品をアップしてみました。

 この作品を書き上げた時のことは、なぜだか読み返すたびに綺麗に思い出すことができて、僕はお客さんの少ないちょっとお洒落な喫茶店で、ルーズリーフを広げてセコセコと青いペンで食い入るように原稿を書いていました。

 そのときの何だか楽しい、心躍る感じがほんのわずかにもお伝えできれば嬉しいなあと思います。

 そういうものがきちんと紙の上(?)、電子書籍としてでお伝えできればなあと思っております。

 

 表紙の画につきましては、こちらが本業なのですが、水墨画で描いています^^

 ものすごい青ですが、これは別にPCで加工した色とかではなくて、実際の生の原画の色合いです。藍墨というこういう色の出る墨で描いています。

 表紙も含めて、作品を楽しんでいただければ、幸甚です。

 あっ、後、表紙や作品についての感想・コメントお待ちしております。

 

 

 では、いよいよ寒くなって参りました。

 ここまで読んで下さった皆様のご多幸とご健勝をお祈りしつつ、筆を置きたいと思います。

 重ね重ね、拙い小説をお読みいただき誠にありがとうございましたm(__)m

 これを読んで下さった方に何か善いことが起こりますようにお祈り申し上げます。 

 

 またいつか、どこかで。

 

 

 

 

                                          2012年10月20日 明け方自室にて

                                                

 

                                                         朝森顕 拝

 

 

 

 

 


この本の内容は以上です。


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