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1 「私がかれを見たのは……

 

 

 

 私がかれを見たのは、大戦が終わって二年ほど後のことだった。
 私の営む街道沿いの宿屋に、かれが食事をとりに立ち寄ったのだ。
 かれは私に気づかなかった。
 うつくしかった目は閉じられたまま、瞼には傷痕がある。
 かれの向かいに座った友人らしき男が、さりげない仕草でかれの手をフォークに導いた。
 飲み食いする間、かれらは二言か三言しか言葉を交わさなかった。
 まだ若い男が二人、ひっそりとしているのはかえって目立ったが、他の客はかれらの足元に置かれた軍用のトランクに気づくと、戦地帰りの兵士に対する気遣いとでもいわんばかりに目を反らした。
 時間をかけて食事を終えると二人は何事か囁き交わし、やがてかれの友人が皿を運んでいた女中に声をかけた。女中が私を指し、男が席を立つ。カウンターの後ろで仕入れの帳面を広げていた私は、今気づいたふりをしてやってきた男に目を向けた。
 部屋は空いてないか、と尋ねられ、私はおもわず言葉につまった。
 断られるとおもったのか、男はテーブルで静かに待っているかれのほうを指し、連れが疲れてる、早く休ませたい、と言った。
 空いているのは一人用の部屋だけだと私は答えた。嘘ではない。既に日は落ちかけていて、三階の小さな一間しか残っていなかった。
 予備の寝台も出払っているが、と言うと、それで構わない、と男が言った。黙って見返すと男は一瞬黙り込み、目を反らした。それからどこか言い訳めいた口調で、今から歩き回るよりはましだ、と言い、窓の外を指した。
 いつのまにか、雨が降り出していた。
 私は気づいてもいなかったのだ。

 

 

 


2 「上へ続く階段を……

 

 

 

 上へ続く階段を、かれは友人に付き添われてゆっくりと昇った。
 部屋の案内は女中に任せてあるので、私が世話を焼くことは無い。私はカウンターの上に開かれた宿帳に目を落した。
 書かれたばかりのインクの痕が、奇妙に鮮やかだ。
 二人分の名前。
 かれの名前は友人の名に少しかかっていたが、筆跡は優雅に整っている。
 綴られた文字の上を、私は指先でそっとなぞり、かれの名前を口の中で呟いた。その名は、今となっては遥か昔のことにおもえる日々へと私を引き戻した。
 六年、いや、もう七年にもなるだろうか。
 その頃、私はある屋敷の執事だった。
 屋敷のあるじは、いわゆる「新しい貴族」だった。
 植民地との貿易で財を成した商人で教養もあったが、英国の田舎で大きな屋敷を構えて暮らすことには慣れていなかった。
 あるじにとって、私は掘り出し物だったはずだ。私は少年時代に父母を亡くし、叔父が執事を勤めていた格式ある屋敷で上級の使用人として知っておかねばならぬことをひととおり叩き込まれていたからだ。
 馴染んだ屋敷でいずれ叔父の後を継ぎたいというのが私の望みだったが、おまえは上背がないから無理だと叔父からはっきり言い渡された。その屋敷では代々、背が高く威厳ある容姿の執事が雇われていたのだ。
 母に似た小柄な体格を恨めしくおもいながら、私は叔父の命に従った。すでに三十半ばを過ぎていた私を手元に置いておくより、執事として勤めあげることができる屋敷へ移るよう手配してくれたのが、叔父の私に対する愛情だということはわかっていたので、不服を言うわけにもいかなかった。
 幸い、あるじの人柄は悪くはなかった。知らぬことは私に尋ねる慎重さもあったので、私はあるじ一家が称号にふさわしい体面を保つことができるように力を尽くすことができた。
 雇い入れた使用人たちも、まずまず満足のゆく働きぶりだった。無論、小さな揉め事や諍いはあるが、使用人の世界のことを上から下まで知り尽くしていた私はそうしたことに鼻が利いたし、厳しく締めつけるだけでなく時にはいくらか手綱を緩めて加減することもできた。
 屋敷のすべてが、自分の采配で整然と動く。執事にとっては、ごく理想的な日々だった。

 

 

 


3 「かれは、幼い子息の教師として……

 

 

 

 かれは、幼い子息の教師として屋敷にやってきた。
 あの日のことを、私はよく覚えている。
 扉を開くと、そこには近隣の村では目にしたことのないような、うつくしい若者が立っていた。
 白い額にやわらかくかかる、ブルネットの巻き毛。
 若い鹿をおもわせる伸びやかな体つき。
 目鼻立ちは彫刻のようにくっきりと整っていた。
 髪と同じ色の大きな目が私を見つめ、かれは明るく張りのある声で名乗った。なんともいえぬあどけない、無心な微笑を浮かべて。
 かれに対して、私は初めの日からあくまでも威厳ある執事として振舞った。慇懃な態度にかれは戸惑っていたが、じきに距離を置かねばならぬ相手なのだということを理解したようだった。
 かれは学校を出たばかりで、形のよい頭には世界の知識が詰まっていたかもしれないが、世間のことはよく知らず子ども同然だった。そして私は、かれの愛すべき無邪気さをそのまま受け入れることができるほど老いてはいなかった。
 元はよい家柄の出であるかれは、末子ゆえに受け継ぐ爵位も地所も持たなかったが、輝くような若さに加えて出自にふさわしい品のある物腰が身についていた。
 あるじは若者と顔を合わせてすぐに、そのような紳士を使用人として扱うのは間違っていると感じたらしく、主人一家と同様にかれを遇するよう私に命じた。それはまったく、浅はかな親切心だった。教師は雇われ人であって、決して主人の家族ではない。だがあるじは、その点については私に口を挟ませず、自身の考えを押し通した。
 無論のことながら、教師の特別扱いは使用人の反感を招いた。
 もともと人懐こい性分なのだろう。かれは形式ばった会話しか交わせぬ暮らしが苦痛であるらしく、ささいな用事をこしらえて使用人を部屋に呼んではうちとけた会話をしようと試みた。かれが欲しがっていたのはただ単に人間味のある言葉のやりとりだったが、忙しく立ち働いている時に上の階まで呼びつけられて余計な用をさせられるほうはたまったものではない。部屋の呼び鈴が鳴るごとに、使用人のかれに対する敵意は強まっていった。
 日がたつにつれ、屋敷の中で難しい立場に置かれた若者が笑顔を失ってゆくのを、私は残酷な興味を持って眺めていた。
 孤独に耐えかねたかれは時折り、私にさえも他愛の無いことを話しかけようとした。救いを求めるようなかれの目を私は平然と無視し、話しかける隙を与えなかった。哀しげに長い睫毛を伏せる彼を視界の端にとらえて、私は奇妙な満足感をおぼえていた。
 世慣れぬ若者に、立場というものを教えてやっているのだ、と私は思っていた。本来あるべき立場以上の厚遇を与えられているのに、他の使用人からの好意まで望むのは欲が深すぎる。思い上がった若者への、これは罰なのだ、と。
 だが、思い上がっていたのはかれではなく、この私だった。

 

 


4 「どこの屋敷にも、癖のある使用人は……

 

 

 

 どこの屋敷にも、癖のある使用人はいる。
 あるじが屋敷に連れてきた下男のひとりが、そうした男だった。元は商船に乗っていたとかで、船乗りの例にもれず何でも器用にこなしたが、何を考えているのか得体の知れない目つきをしていた。饒舌なほうではなく、私が用を言いつけても押黙ったまま聞いていて簡単な返事をするだけだった。
 それでも大柄で屈強な元船乗りというやつは女を魅きつけるものらしい。表向き、使用人どうしの関係は許されておらず、知れればクビになるのは女のほうだということをメイド達は充分に心得ているはずだったが、どの娘も男の気を引きたがっていた。
 男のほうは田舎娘では食いたりないのか、色めいた冗談を言って笑わせたり尻を撫でてからかう程度のことしかなかったようだが、使いに出すと酒の匂いをさせて帰ってくることがしばしばあった。屋敷づとめで、一応はまともな身なりをさせているのに、どこか野生馬のような荒々しさがある男だった。
 この男だけは、若い教師に呼びつけられてもさほど渋る様子を見せなかった。皆の嫌がる仕事を引き受ける代わりに、村の酒場に立ち寄るようなちょっとした悪事について口をつぐんでもらえるという役得もあったのだろう。いつのまにやら、教師の呼び鈴には男が応えるのが当然のようになっていた。
 下級の使用人と話し込むなど紳士の振る舞いとは言えなかったが、若者はよほど寂しかったのか。下男のほうも、かれの無邪気さにほだされたのかもしれない。
 教師の部屋の前で、私は幾度か明るい笑い声を耳にした。親しげに下男の名を呼ぶ若者の声には甘えさえ潜んでいた。若者はまだ二十半ばにもなっておらず下男とは十かそこらは離れていたが、世慣れた兄を慕う弟のような具合だった。
 私は、若者と下男とのあいだに奇妙な友情めいたものが育ってゆくのを黙って見ているしかなかった。かれらはどちらも人目のあるところでは親しげな素振りはしなかったので、私以外の誰も二人が仲のよい兄弟のような会話を交わしていることを知らなかった。
 そして、私でさえ気づかぬうちに彼らの関係は変化していたのだった。

 

 

 


5 「珍しく、よく晴れた午後だった……

 

 

 

 珍しく、よく晴れた午後だった。
 あるじ一家は他家を訪問中で、普段よりもひっそりとした屋敷の中で、私は急ぎの使いをさせるために下男を探していた。だが階下には見当たらず、誰も居場所を知らない。また酒場ででも飲んでいるのだろうかと私は思い、しかたなく居合わせた者に用を言いつけた。
 そういえば、つい数日前にも同じようなことがあった。今日こそはきつく注意を与えねばと考えながら上階へ行った私は、若者の部屋の前で足を止めた。
 短い、悲鳴のような声。
 低い笑い声は、下男のものだった。
 仕事を放り出してこんなところに、と腹を立てて私は扉に手をかけた。普段ならノックをしたはずだが、そのときの私は理由のわからぬ怒りに駆られていたのだ。
 扉には、鍵がかかっていなかった。
 部屋へ足を踏み入れた私は、ありえぬ光景に立ち尽くした。
 最初に私に気づいたのは、若者だった。
 日の射し込む明るい部屋の中で、かれの若々しい裸身は窓のそばの壁に押し付けられていた。両足を抱え上げられた姿勢で揺さぶられているからか、あるいは別の理由からか、かれの手は下男の首にしがみつくようにまわされていた。
 やめろ。
 若者は叫び、もがいたが、下男は止めようとしなかった。
 男は荒々しく若者を突き上げながら振り返り、私を見て口元に嘲るような笑いを浮かべた。
 狂気じみた振る舞いに、私は言葉を失った。
 若者は泣きながら喘ぎ、私の目から逃れたいような素振りで男の肩に顔を伏せた。
 やがて、事を終えた下男は若者から体を離し悠々と身づくろいをした。
 ようやく気を取り直した私は、下男に部屋を出て行けと命じた。お前への話は後だと告げると、男は平然と私を見下ろして言った。
(どんな話だか知りませんがね。誘ったのはむこうだ。毎度生娘みたいに嫌がってみせてるが、本当は尻に突っ込まれるのが好きでたまらないんだ。なあ、先生? 俺のように卑しい男に無理やりされるのが、あんた一番感じるんだろう?)
 浴びせかけられた卑猥な言葉に、床に座りこんでいた若者は私をひたと見上げ 、違う、と首を振った。
 フン、と鼻先で笑って、下男は部屋を出て行った。
 涙を流しながら私を見つめる若者のからだには、おぞましい情交の痕がまざまざと残っていた。
 私は、努めて冷静な顔をしようとした。
 目の前には傷ついて震える若者がいたが、私の耳には下男の言葉がはっきりと残っていた。男に貫かれているときの若者の声や表情も……。
 下男のけしからぬ振る舞いが嫌ならば、なぜ拒まなかったのか。力の差はあれど一人前の男だ。かよわい娘のように手篭めにされて抗えなかったなどということがあるはずはない。それも、紳士であるべき若者が、下男ごときに幾度も意のままにされるなど。
 若者の姿を見ていられず踵を返した私に、彼はすがるように声をかけた。
(誰にも、……誰にも、言わないでください)
(……私が? 口にできると思うのですか。貴方が下男にさせていたことを?)
(違う)
 否定をした若者を、私は黙って見つめることで非難した。
(……違うんです。でも信じてもらえないでしょう)
 若者は、新たに溢れ出した涙を隠すようにうつむいた。
(僕にもわからない。どう言えばいいのか。どうして、こんなことになったのか……)
 言い訳など、聞いていられる気分ではなかった。
 私は若者に早く服を着るよう言い、廊下に出て扉をしっかりと閉めた。
 屋敷の誰にも、部屋の中で起きたことを悟られたくなかった。一人でも知る者がいれば秘密にしておくことなどできない。醜聞というものは広まるものだ。
 若者を庇ったわけではない。
 私は、自分が保ってきた穏やかな日常を壊したくなかったのだ。

 

 

 



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