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『いこまい会』四たび

 『いこまい会』四たび

 名古屋は二日続けて雨が降り続いていて、まだ九月だというのに、晩秋のような寒さだった。
 社長がどこからか持ってきた年代物のエアコンは送風モードになっていて、ときおり断末魔のような耳障りな音を出している。
 裕介は現場用のドカジャンと呼ばれる防寒服を着こんで、長机に置いた竣工図をチェックしていた。
 青焼きされた平面図に記入した施工箇所の情報に間違いがないか、現場で調べたメモと照らし合わせているのだ。
 こんなことを長時間やっていると、神経がすり減ってくる。
 脳みそのしわが、摩耗したタイヤのようにツルツルになっていくような気分になるのだ。
 裕介は気分を変えるために、インスタント珈琲を飲むことにした。ネスカフェのエクセラを裕介は愛飲している。
 現場班は岐阜県の山中で働いていて、当分は帰ってこない。
 運の悪い山田も、もちろんその一員だ。山で一週間も働けば、体重が五キロは落ちて、すっきりとした体形になるのだが、彼だけは見た目がさっぱり変わらないから不思議である。
 この会社に女子事務員はいない。忙しいときに学生のバイトを頼むくらいだ。
 砂糖を入れない濃い目の珈琲を飲むと、体中にカフェインが染み渡っていくのを感じる。裕介は体をほぐすように背伸びをしてから、一枚のファックス用紙を手に取った。
 あの『いこまい会』の季節が今年も巡ってきたのだ。
 今回の研修旅行は大坂~堺~神戸というコースである。
 堺市にある仕事上の関連会社である某工場を見学して、その後ホテルに宿泊、次の日は神戸を見学して、名古屋に帰るというものだ。
 ファックスで送られてきた旅行の予定表はいつになく真面目なものであった。神戸という観光地が入っているものの、オヤジ臭さがなく、健全すぎるような気がした。
 恒例の俗悪さはどこに行ったのだろうか、女性向けの雑誌にでも載っていそうな行程ではないか――裕介の胸に不安という名の波紋が広がっていった。


オヤジたち、冬の時代

 オヤジたち、冬の時代

 待ち合わせ場所はいつものように、名古屋駅である。集合したオヤジたちは、簡単な打ち合わせをすると、JR名古屋駅から電車で大坂へ出発するために、ホームに直行した。
 電車を待つオヤジたちは、統一性なくバラバラに、どことなくなげやりな格好で、ホームに佇んでいる。その姿からは旅行に行くという高揚感は微塵も感じられない。
 その頃は、バブリーな時代のつけを払わされ続けて、スッカラカンにされてしまった中小企業のオヤジというような時代だった。
 たとえパンチ力のない三流ボクサーのヘナチョコ・パンチだって、これだけ打たれつづければジワジワと効いてきて、思わず足もふらつこうというものだ。
 そんなわけで、いつもだったら、雑誌や新聞を買って暇つぶしをする連中が、何も買わずにただボーッとして、あるいはなにやら思いつめたような顔をして、時間が過ぎていくのを待っているのである。
 その姿は、電車を待つというよりも、病院の待合室で医者の診断結果に怯える患者に似ていた。
 かれこれ十分以上も電車を待ちつづけているのに、誰も会話をしていないのは、話といっても「景気が悪いねぇ」とか「どこどこが危ないらしい……」といった会話にしかならないことを、皆わかっているからだろう。
 北星電気のオヤジは、ひとりでベンチに腰掛けている。
 いつもなら、獲物をねらう鷹のような鋭い目付きで、誰がどんな雑誌・新聞を買ったのかチェックしているはずなのだが、冬眠から目覚めたカブトムシのような目をして、ホームの向こう側に広がるビル街を見つめている。
 現場で鍛えられた頑強な手に、何も握られていないところを見ると、誰も雑誌・新聞を買わなかったために、自分だけ買っても、交換する相手がいない、それでは自分が利用されるだけ、と彼は判断したのであろう。
 つらい決断だったのに違いない、彼の横顔にその苦悩が見て取れるようだ。
 裕介たちをおおう、貧乏くさいどよんだ雰囲気を、あざ笑うように、力強い九月の太陽がギラギラと輝いていた。
 皮肉な事に、今日は絶好の旅行日和だったのである。

 裕介たちの身に何も面白いことが起こらないうちに、電車はあっという間に大阪に到着した。車内で缶ビールさえも配られなかったのだ。オヤジにしらふで盛り上がれといっても無理な注文だ。
 ここから先は、宿泊する予定のホテルから出迎えの車が来るはずである。
 出迎えの車というのは、なんとリムジンであった。
 アカデミー賞授賞式に映画スターが乗り付けてくるような、バカみたいに車体が長い、あの車だ。
 車内に乗り込むと、豪華なシャンデリアが目に付く、座席もゆったりとしている。
 これで、ハバナ製の葉巻でも燻らせば、気分はもうマフィアのボスである。
 豪華な演出のおかげで、オヤジたちの気持ちを縛り上げていた「景気悪いねぇ……」という重苦しい雰囲気が薄らぎ、そこかしこで、会話が始まり、笑い声も聞こえてくる。
 まわりの人間が豪華さに感激しているのをよそに、裕介はすこし気になる事がある。
 それはこんな所で、お金を使っていいのだろうか? ということだ。
 旅行の予算は決まっているのだから、当然どこかで出費したものは、どこからか削られてしまうというのが、世の中の定めではないだろうか。
 裕介の脳裏に、お下劣なサービスのために犠牲になった貧相な宴会の料理がよみがえる。
「どうなんだ、景気の方は?」
 北星電気の社長が、こんなことを言いながら、裕介の横に座った。
 いつもは、体をぶつけてくるのだが、今日はそんなことをする元気もないらしく、大人しい。
 彼はいつになく、仕事や従業員、元請などの愚痴を言いはじめた。
「元請けは、俺たちを見殺しにする気じゃないのか。これだけ仕事がないというのは今までなかったぞ。うちの若いやつらだが、仕事がないときくらいは勉強するとか、仕事を取りに外に出るとか……そうしたことでもすればいいのに、なんにもしないで事務所でゴロゴロしているんだよな。そりゃあ、半端な赤字覚悟の仕事を取ってくることは簡単だ。だけどわざと俺は、仕事がないときのつらさをあいつらに味わってもらおうと思っているんだ。それが、なかなかわかってもらえないんだよな。それに○○電気なんかは、うちの元請けを裏切って、ライバル会社の仕事をこっそりとやっているらしいんだ。今まで育ててもらった恩義を忘れているんじゃないか。そりゃうちだって、『北星さん、こっちの仕事もやってみないか』なんて、言われているけど、元請けに悪いと思って我慢しているんだ。おまえのところだってそうだろ」
 声にいつのもような力強さがなく、沈んだような口調で、彼の横顔も淋しそうだ、飼い主に見捨てられた犬のような眼をしていた。
 旅行に来たときには、現実を忘れて他の人格を演技するのを常としている北星電気にしては、珍しかった。
 化粧を落としたすっぴんの状態になっている。
 彼は、しばらく一方的に愚痴をこぼしていた。そのあと、少しは気が晴れたのだろうか、いつものように横柄な態度に戻って、顔見知りの人間を見つけると、そちらの方に移動していった。
 彼も弱気になる時があるのだ、多分裕介のような人間だから、愚痴をこぼせたのであろう。
 しばらく裕介は、北星電気のうしろ姿を見ていたが、同業者とバカ話をしているようで、いつもの彼に戻ったようだった。
 そうして、関西人が「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」という挨拶を交わしている中、裕介たちは堺市へと到着した。
 着いたのは、やたらと豪華なホテルであった。そう、裕介たちにはふさわしくないというか、あまりに場違いというか、これは何かの間違いなのではないのだろうか――と思ったほどだ。
 オヤジたちには、ど派手で俗悪な旅館がお似合いなのだが……。
 しかし、裕介たちの車はそのホテルの駐車場に吸い込まれていったのである。やはり、裕介たちはここで宿泊するらしい。
 そうして裕介たちは、礼儀正しい、映画やテレビの中に出てきそうなホテルマンといったボーイに迎えられたのである。
 ここはいつものように「いかにもスケベそうなおやじが、背中にネギを背負っていっぱい来たわね」という気持ちを厚化粧の下に隠して出迎える旅館の仲居やバニーガールという光景こそが、裕介たちにはふさわしいのではないだろうか。
 昼の食事も、中華料理とはいいながらも、ずいぶんと手の込んだ立派なものであった。
 ここでも、例の疑問が思い出されてくるのだ、それはこんな所でお金を使っていいのか、もう少し別なところで使うべきではないだろうかということなのである。
 そんな疑問を感じつつ、裕介たちは次の目的地である「仁徳天皇陵古墳」へと向かった。


オヤジたち、虚しく時を過ごす

 オヤジたち、虚しく時を過ごす

 資料によると「仁徳天皇陵古墳」は、世界最大の規模を誇る墳墓ということだ、場所は堺市にある。
 裕介たちが着いた時には、金曜日ということもあるかもしれないが、やけに閑散としていた。
 それにどういうわけか、入口に柵が置かれていて、中に入れない。
 裕介たちは、立ったまま柵の外から仁徳天皇陵古墳とかいうものを、ガイドの説明を聞きながら勝手に想像するしかないのである。
 ガイド嬢の説明によると、今この場所は改築作業中で、中に入れないという。
 しかし、そんなことは事前に分かっていたはずなのに、どうして裕介たちはこんな所に連れてこられてしまったのだ――という不条理な気持ちで、裕介たちは虚ろな目をして、目の前の何の変哲もない、仁徳天皇陵古墳の入り口の風景を見詰めるのであった。
 「仁徳天皇陵古墳」見学というよりも、「仁徳天皇陵古墳入り口」見学というわけである。
 入り口だけを見物して帰るのは、きっと裕介たちが初めてだろう。
 いかにも由緒ありそうな堺市なのだから、他にもっと面白そうな所があるだろうに、とこんな事を思ってしまうのも無理はない。

 旅行会社が企画したときのことである。
「工場見学の前にちょっと時間が空いていますから、このあたりにちょっと面白そうなところを突っ込みましょうか」と、有能そうな若手社員がやる気をみなぎらせて、上司に相談をした。
「オヤジなんか古墳でも見せときゃいいんだよ。どうせあいつら、夜の宴会のことしか頭にないんだからさ……」と、上司はやる気のない口調で答えた。
 年功序列と、世渡り上手な処世術で今の地位にいるだけの無能な上司である。頭の中にあるのは今晩はどこに接待で飲みに行くかということだけだ。
「今、調べたら、あそこはちょうど改装作業をしていて、中に入れないんですけど、どうします?」
「えっ、そうなの。いまから変更するのも面倒だからさ、オヤジたちには入り口でも見せておけばいいって。どうせあいつら、コンパニオンのことしか考えていないんだからさ。そのへん、ガイドにおまかせ――ってことで」
「じゃ、そういうことですすめておきます」と若手社員は返事をしながら、こんな会社じゃ将来ろくなことはないな、と考えるのであった。

 もちろん、これは裕介の個人的な妄想にすぎない。
 入口しか見えない「古墳」ではあるが、本当は凄く歴史的に意味のあるものなのだろう、といっても裕介はたいして興味が湧かないのである。外から眺めるかぎりでは、ただの広い公園にしか見えないのだから。
 それよりも裕介が興味をそそられるというか、気になってしょうがないのは、近くにいるアベックである。
 制服からして高校生だと思われるのに、さっきからなにやらコソコソ、イチャイチャしているのだ。
 裕介の推測に過ぎないのだが、きっと家の人間には「歴史の勉強をしてくるから……」とか言って出てきたのではないだろうか。
 なのに彼らのやっていることは、歴史とはなんの関係もないことなのである。
 彼らの頭の中には、今から千数百年も前の古代のロマンに思いをはせる、というよりも、今現在のなんといえばいいのだろうか、心理的な駆け引きというか、生理学的な煩悩というか、保健体育的な運動しただけでは解消し得ないある種の衝動というか、どうもそっちのほうに思いをはせているような気がするのだ。
 この広い場所にいるのは裕介をふくむオヤジたちと、そのアベックだけなのである。
 裕介が千数百年も昔の出来事よりも、今現在の身近な存在へと関心が向いている間に、ガイドのなげやりな、どうでもいいようなあたかもテープレコーダーを再生しているような説明が、事務的に終了した。
 それを合図に、裕介たちは次のところに強制連行されてしまうのだ。
 あまり興味が持てない仁徳天皇陵古墳はどうでもいいのだが、それよりも、気になるのは、あのアベックである。
 そうなのだ、裕介たちがいなくなってしまうと、あのアベックだけになってしまうではないか。
 裕介たちが唯一の「青春のリビドーの暴走」の歯止めだったのに、その歯止めがなくなったらどうするのだろう。
 そんなことを考えていた裕介は、あることに気がついた。あのアベックはここが現在閉鎖されていることをよく知っていて、来たのではないのだろうか。
 閉鎖されている→観光客がいない→自分達二人っきり→煩悩の開放、といったような図式を考えて、わざと来たのではなかろうか。
 それなのに、何にも知らないオヤジたちが観光に来ていて、非常に迷惑だった……というような状況だったのではなかろうか。
 裕介はアベックを監視しながら、彼らの将来を心配するのであった。が、バスは動き出し、次の目的地に向かって走り出した。
 裕介がしつこくアベックのほうを見ていると、男の腕が伸びて女性の肩にかかった。
 バスは走り、アベックはもはやゴマ粒のようにしか見えない。しかし、裕介の心の目には、さっきよりもいちだんとあのアベックが密着していく姿がハッキリと見えたのである。

 裕介が自分とは何の関係もない、若き二人の行く末を案じているうちに、バスは同じ堺市にある某工場へと向かう。
 某工場というのは、元請けの土木工事で使う鋼管を作っているのである。
 工場見学なんていうのは、たいして面白いわけではないのである。直接関係しているのであれば、興味もわくだろうが、裕介のようにまったくの部外者となるとなおさらだ。
 同じ経験をした人ならば、ウン、ウンとうなずきながら「君の言いたいことは、よくわかる」と言って、親しげに肩をたたいてくれるであろう。
 裕介たちは、親鴨の後をついて行く子鴨のように頼りなく、工場の担当者の後ろを歩いて行く。
 時々、裕介は立ち止まって、担当者の説明に「なるほど……」とか「そうでしたか!」というような表情を無理に浮かべる。
 さらに、アゴに手をやり、深くうなずくという演技も加えたりした。こんなことをやっていると、北星電気の気持ちがなんとなくわるような気がするのだ。
 自分とは別の架空の人格を演じてみるのも新鮮な気分になる。
「何か、ご質問はありますか」
 という担当者のお決まりの言葉に、手を上げる人間がいた。
 ポロシャツを着た四十代前半の、技術屋ふうの男性だ。
 彼は、裕介には理解出来ないような技術的な質問をするのだが、工場担当者は、うれしそうな表情で、その質問に答えている。
 二人のやり取りは、専門的過ぎて、ここで再現することは出来ないのだが、担当者の顔には、出来の良い生徒を見る教師のような、そんな温かい表情が浮かんでいた。
 ともかく、工場見学を楽しんでいる人もいたのだ。裕介たちの研修会も、けっして無駄なことではなかったのである。
 次の見学場所へと移動している途中に、社員食堂らしい建物の前を通りかかった。
「オッ」という声が、裕介の後ろから聞こえた。
 三十代後半のスーツを着た営業マンが、社員食堂の入り口にある、メニューの前で足を止めて、値段とサンプルを見ている。
 しばらく見た後、彼は小走りになって、裕介たちの後を追いかけてきた。
 社員食堂のメニューに、気になるようなことがあったのだろうか。
 食堂を過ぎると、事務室が見えてくる。
 さきほどの彼は、事務室に目をやると、誰に言うでもなく、こう言った。
「結構、かわいい事務服だな……」
 その声にすかさず反応した裕介は、事務室の方をチラッと見てみた。たしかに殺風景な工場の中で見れば、体のラインを強調したような女性の事務服は、かわいいのかもしれない。
 彼の様子をなにげなく、注意していると、工場の掲示板を見ては「うーん」と唸ったり、自販機にどんな銘柄の飲み物が入っているか、値段はいくらなのか、等々、彼の興味はつきないようだった。
 面白いとも思えない、工場見学でも、その中にささやかな楽しみを見出していくという、彼の前向きな姿勢は見習うべきかも知れない。
 工場見学は、会議室でパンフレットをもらって、お開きになった。パンフレットと一緒に、テレホンカードも入っている。
 そのテレホンカードは、某外人女子プロゴルファーの絵柄であった。
 工場見学というのは、研修会のお題目、後の楽しみである宴会への通過儀式みたいなものだから、終わるとなんだか一仕事終えたような安堵感がある。
 なにか肩の荷を下ろしたような気分だ。
 こうして、通過儀式は無事終了して、裕介たちはホテルへと向かうことになった。


オヤジたちの熱くなれない夜

 オヤジたちの熱くなれない夜

 さて、細かいところははしょって、宴会の場面である。
 悲しいことに、この宴会は何にもなかった。
 それこそ、立食パーティーでコンパニオンがいて、ただそれだけなのである。
 コンパニオンの服は、過去の例のようにスケスケで過激なものではなく、いたって普通のドレスである。
 裕介は、あの男の目だけを楽しませるためだけにある、特殊なドレスを懐かしく思った。
 いつものような、お下劣なオヤジの大騒ぎを期待していた皆さんにはとても申し訳ないと思っている。
「どうなっているの!!」という罵声が聞こえてきそうである。
 さらに「バカ騒ぎあっての【オヤジたちの熱い夜】でしょ」という激しい怒りの声も、遠くの方から聞こえてくるような気もする。
 たしかにそうだなと思う。
 これでは、犯人のいない推理小説、印篭を見せない水戸黄門みたいなものである。
 思いつめたような表情をして、裕介の前に立つと、裕介の肩に手を置いて「嘘だよね、本当はそんなことを言って、実はやはりバカ騒ぎという展開なんでしょ」と言う人がいるかもしれない。
 しかし、裕介は彼の手をそっと、肩から取り除くと「実は本当の事なのだ、本当に何もなかったのだよ」と言うだろう。
 彼は、フッと軽いため息をつくと、うらめしそうに裕介の方を見てから退職寸前のサラリーマンのように足取りも重く、裕介から離れていくだろう、そうして十歩ほど進むと、振り返って裕介を見るのだが、裕介の表情に何も変化がないのを見てから、また歩き出すだろう。
 そう、世の中には『どうしようもないこと』ということが確かに存在するのである。
 ともあれ、裕介たちはいつになく上品にお酒を飲み、食事をして、解散をしたのであった。
 部屋に帰ってからも、何をしていたのかも、誰と一緒だったのかも思い出せないほど、何の出来事も起きなかったのだ。
 窓を開けて、外を見ると、少し離れたところに、平屋の家が乱雑に密集しているのが見えた。月明かりの中で、家の灯りが淋しげに点っている。
 裕介は、子供の頃に東京の下町で見たのと同じような光景だな、と懐かしさを感じた。
 裕介の体からオヤジ化の呪いが消えていくようだった。


オヤジたちに神戸は似合わない

 オヤジたちに神戸は似合わない

 さて、虚しい一晩を過ごしたあと、驚くべきことに、裕介たちオヤジたちの向かうところは、なんとあの『異人館』なのである。
「まあ、神戸だったら『異人館』はハズせないでしょう」としたり顔でいう評論家風の意見もあるだろう。
「いいねぇ、若い女の子がいっぱいで、わしも行ってみたいね」と呼びもしないのに向こうの方からやってきて、裕介の方をうらやましそうに見る中年男性もいるだろう。
「いいわね、『異人館』って、なんとなくロマンテックで」ときれいな瞳にハートマークを浮かべて、心をときめかす女性もいるかもしれない。
 とにかく、これだけは言える。
『異人館』にオヤジは絶対に似合わない。『異人館』とオヤジというのは、水と油みたいなものなのだ。
 インターネットをやり始めたオヤジが「こうした新しいものをやっていかないと時代に遅れるからね」と自慢げに語っていても、実はエロいホームページ目当てだったりするのと同じで、これはもう、絶対の真実なのである。
 それにしても不思議なのは、どうして若い女の子が好みそうな『異人館』なんてところが、裕介たちの観光コースに組み込まれてしまったのか――という事だ。
「神戸だったら、何がなんでも『異人館』なの、うちは!」というこだわりの旅行業者だったのであろうか。
 それともそそっかしい新米社員が「神戸のエスプリが香る街『異人館』めぐりツアー」と「オヤジも楽しめるかもしれない 六甲山ヨレヨレ・ヨボヨボツアー」を間違えてしまったのであろうか。
 多分あのやる気のない世渡り上手な上司がバイトに適当に作らせたのだろう、と裕介は投げやりに思った。ともあれ、今となっては、真相はわからない。
 裕介たちのバスは、オヤジたちの意思とは関わりなく『異人館』の近くで駐まった。
「じゃあ、十一時迄にここに集まってくださいね、遅刻した人は容赦なく置いていきますからね」という、女囚映画に出てくる女看守を思わせるようなガイドの冷たい言葉を最後に、バスはいずこともなく姿を消した。
 数十名のオヤジが野放しにされ、この瞬間に『異人館』近辺の平均年齢はグッと上昇した。
 裕介はあと二時間をどうやって過ごせばいいのか、真剣に考えなければいけないのである。
 すると、誰からともなく、北のほうにある坂に向かって歩きはじめた。どうやらこの坂の方向に『異人館』とやらはあるらしい。
『異人館』のほうへ、トボトボと難民のように移動していくあやしげな集団の後を、裕介も自分は関係ないといったふうを装ってついて行くことにする。
 この坂は勾配がキツイ。坂の名前は「北野坂」というらしい。
 今日も晴天で、九月の暑い日差しが降り注いでいる。
 裕介たちは、オヤジに対するいやらがせとも思えるような急な坂を、汗を流しながら上っていくのである。
 坂の途中には観光客相手のやたらとこぎれいな、まるで砂糖菓子で出来ているような店が、ズラリと並んでいる。
 若い女の子と一緒に来たりしたら「こりゃいくら金があっても足りんなぁ」とオヤジなら、そんな感想を抱くだろう。
 坂の途中で立ち止まって荒い息をしているオヤジがいる。雰囲気のまるで合わない喫茶店に遭難者のように疲れきった姿で入っていくオヤジもいる。
 裕介は脱落せずに、なんとか坂を上り、一息ついた。すぐそばには、どこにでもありそうな小さな公園がある。北野町広場というらしい。
 そこから『異人館』を見て回るというシステムになっているらしい。
 しばらく、その公園で、うろうろしていた裕介たちは、二時間を消費するために、それぞれの思いを秘め、悲しげな表情を浮かべて、各方面へ散っていった。
 裕介は、近くに「観光案内所」があるという看板を発見したので、そこへ向かった。
 案内所でパンフレットを入手したので、公園に戻って検討をしてみる。
 しかし、裕介の目論みとは違って、無料の「異人館」は見あたらない。
 無料の『異人館』があったら、見てみようと思っていたのである。正直な話、お金を払ってまで、見る気はなかったということなのだ。
「風見鶏の家」「うろこの家」「展望塔の家」なんていう所があるのだが、料金は五○○円~ということなのだ、しかも共通チケットとかいうものもあるらしい、さすが神戸、商売上手である。
 結局、貧乏人には『異人館』なんぞは関係のない話なのであった。
 さて、問題はどうやって暇をつぶすかということである。
 ということで、裕介は無料の『異人館(外見)』見物となってしまったのである。とにかく『異人館』をお金のかからない外から見物しようというわけなのだ。
 しかも、運がよければ、窓から中の様子も見られると言う特典付きである。
 思えば、古墳も入り口だけを見物しただけだった。入り口・外見ばかり見ているな、と裕介は自嘲気味に考えた。
 なんとか十一時近くまでねばってから、集合場所にたどり着くと、バスはまだ来ていない。
 周辺にたむろする、オヤジたちの話を聞いていると「パチンコで暇をつぶしていたよ」派や「喫茶店で粘ってたぜ」派や「とにかくその辺をうろうろしていた」派などに分かれていたようだ。
 そして、バスは集合時間の五分前に到着した。
 ガイドは囚人が脱走していないかどうか調べるように、裕介たちをてきぱきとチェックすると、そのまま神戸駅へと向かう。
 次は神戸駅で、昼食をとることになっている。
 食事は、神戸牛のステーキだ。
 お上品に皆でステーキを味わう。神戸牛だろうが、松坂牛だろうが、裕介みたいな牛肉というか肉関係を、めったに食べられない人間にとっては、どちらにしても素晴らしいご馳走なのである。
 囚人らしからぬ豪華な食事を与えられた裕介たちは、最終目的の大阪駅へと向かった。



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