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 で結婚なんかしてしまったのだろう。


 最近の僕が株式投資について以外で考えることといったら、そのくらいだ。妻は僕にとってストレスの元凶でしかない。僕らは若くて健康なのに、目の前には腐ったナマコのような日々が横たわっている。

 

 今日お母さんから電話があってね、家の庭で育ててるトマトがなったから送ってくれるって。お母さんね、私が子供のころからずっと庭でトマトを育ててるんだよね。スーパーで買ったのより小さくて味もすっぱいんだけど、結構悪くないの。なつかしいな。何か喋ってると子供のころに食べたお母さんのトマトの味思い出しちゃった。

 僕は一方的に喋っている久美の正面に座って死んだ軟体動物のようなパスタをフォークの先でうろいじりしている。

 どうしようかな。奈々ちゃんはすっぱいの嫌いだろうから、トマト系のパスタの材料にしようか。ねえ、どう思う? 何かトマト料理で食べたいものってない?

 僕がその時考えていたのはトマトやパスタや目の前に座って逆噴射する掃除機のように喋りまくる久美のことではなく、明日の株価の動きのことだ。僕は毎日そうしているように、明日も朝九時にパソコンの前に座り、デイトレーダーとして株の売買を行うだろう。三時に取引が終わった後も、取引のない土日でも、僕は自分の売買する株価が上がるか下がるかということだけを考えている。

 ねえ、聞いてる?

 久美は少し怒って訊ねる。小さな鼻を膨らまし、大きな目の間にしわを寄せる。

 え、ああ。すごくいいと思うよ。

 久美の話など全く聞いていなかった僕は適当に見当をつけて返事をしてみるが、ますます怒った久美の表情に隆起する溶岩流のような色の朱がさしたので、どうやら最悪の誤答を返してしまったようだと気付く。久美は吹きさらしの石壁のように冷たい無表情になっていきなり立ち上がると、押し黙ったまま自分の食べかけの皿をつかんで残ったパスタをゴミ箱に捨ててシンクに放り、そのまま部屋を出て行く。久美が勢い良く閉めたドアは耳鳴りがするほど大きくて不快な音を立て、僕はかすかな頭痛すら覚える。風呂から上がってきた奈々と久美が何か話している声が聞こえ、それから二人が二階の寝室へと上がっていく足音が家の中に響く。

 一人残された食卓で、僕は草を食む羊のように冷たいパスタを口に押し込む。そして妻と娘が食べた後の食器が置かれた鈍色のシンクで自分の皿とフォークだけを洗ってから、僕は自分の部屋に引っ込んだ。

 

 何で結婚なんかしてしまったのだろう。

 

 僕はまたそのことについて考えてしまう。久美は株はもちろん、それに関する政治経済の情報にも関心はなくて、ひたすらに自分の身の周りの出来事だけを喋りまくる。両親や友達や近所の人、つまり僕の知らない、僕が何の興味も持っていない人々について、妻はそれが僕にとっても大事なことであるかのように薄い唇の間の空隙からひたひたすらすらと垂れ流す。それは全然知らない人がツイッターで自分の内輪ネタを三十秒に一回つぶやくのを延々と読まされ続けているような苦痛を僕にもたらす。妻は僕にとって苦役のように退屈な人間でしかなく、そして一方で妻にとっても、自分の身の周りにはいっさい無関心で世界中の政治経済ニュースとパソコンの画面の上でめまぐるしく動いていく株価にしか興味を示さない夫など苦役のように退屈な人間だろう。久美は自分を理解して欲しいのだろう、受け入れて欲しいのだろう、関心を持って欲しいのだろう。でも、僕自身は理解してもらうとか、受け入れてもらうとか、関心をもってもらうとか、そういう事に興味がない。だから僕らはすれ違う。僕が株で年間数千万円という生活に困らない金を稼いでいても、僕らの間には円満はなくて、不満とか苛立ちとかわずらわしさというようなものが臭いヘドロのように堆積するだけだ。

 僕は朝起きて、食卓で久美の顔を見てひとつため息をつき、そして九時前になるとパソコンの前に座って株式の売買を始める。各国の株の動きや先物の動き、商品市況、そういうものを横目にしながら、目の前で動き始めた日本企業の株価に対してほとんど脊髄反射のように判断を下しながら猛烈なスピードで売り買いの注文をキーボードに叩き込む。僕の日常の中に幸せがあるとすれば、それは間違いなくこの瞬間だ。他のことは何も考えなくていい。売り買いの注文が並ぶ板の上で無数の売買の成立を示す光がストロボのように点滅している。世界中のあらゆる場所から、素性も知れない人々が、ここに集まり株の取引をしているのだ。もちろん僕らはこの板の向こうにいる誰かのことを想像したりはしない。僕らは数字に埋もれ、数字だけを見て、数字とともに生き死にする。ゆりかごの上の演算装置。それが僕らだ。

 

 トレードに夢中になっていた僕がふと気づくと、奈々がいつの間にか僕の肩の真横に立ってパソコンの画面を覗き込んでいる。風邪を引いたりして幼稚園を休んだ日には、奈々はよくこんなふうに僕が株を売買しているとこを見に来ることがある。僕は奈々を膝に乗せてやると左手でその体を抱き抱えながら、右手で株の売買をする。奈々は目の前の株価の上下に反応して、上がるとはしゃぎ下がると泣きそうな顔になる。

 奈々もやりたい。

 ときどき奈々はそう言ってキーボードを触ろうとするのだが、僕はいつもその小さな手をつかんで奈々を制止して叱る。奈々は決まってすねた顔をして怒るので、僕は三時に取引が終わると近くのコンビニまで行って、アイスクリームやお菓子を買って娘の機嫌を取らなければならない。僕にとって奈々は結婚生活における戸惑いだった。もし僕と久美に娘がいなければ、僕らはとっくに離婚していただろう。僕は別に娘と一緒に暮らしていたいわけではない。けれど、もし僕が久美と離婚はもちろん別居でもしてしまえば、この子をとても深く傷つけてしまう。僕はそれを望んではいない。だから奈々は僕を複雑な気持ちにさせる。

 奈々。

 コンビニから帰ってきた僕は風邪でベッドに横たわる娘の名前を読んで、買ってきたアイスクリームの容器を熱を持ったおでこに当ててやる。奈々はその冷たい感触が心地良いのかきゃっきゃっと笑いながら、僕の手からそれを受け取り満足そうな顔をして食べ始める。

 何で結婚なんかしてしまったのだろう。

 たぶん僕と久美は遅かれ早かれ上手くいかなくなる。そのとき、僕らはこの小さくてふにゃっとして暖かく繊細なものをひどく傷つけてしまうだろう。だから僕はよけいにそのことを考えてしまうのだ。

 

 次の日、僕は元気になった奈々を幼稚園に送り出すと、いつものように株の取引を始める。十一時になって前場が終り取引が休憩になると、僕はキッチンでカップラーメンを作り、また自分の部屋に戻る。僕はそれをすすりながらこれから始まる取引のことを考えているのだ。そして、時間は十二時を二十五分過ぎて、いよいよ後場の取引が始まろうとしていたとき、突然久美が僕を呼ぶ声が聞こえてくる。僕は集中力を奪われたことに腹を立てて舌打ちをしながら返事をする。

 早く来て!

 久美はひどく取り乱した様子だった。僕はしかたなく部屋を出て久美のところへ行く。居間のテレビの前で座り込んだ久美を見て、僕は狼狽してしまう。久美は片手に携帯電話を握りしめ、顔を伏せて嗚咽を上げながら泣いていたのだ。僕はどうにか久美をなだめて何が起こったのかを聞き出す。久美は震える声でようやく、奈々が事故で死んだのだと話す。幼稚園から帰るために乗ったバスが前方不注意のトラックと衝突したのだという。久美はさっきより激しく、もうどうにも手がつけられないくらいの勢いで号泣している。でも僕はとても冷静だった。そして何より、僕はそれを聞いたその瞬間に娘が死んだことをあっさりと受け入れていた。そして、自分でも意識することなく、すでに取引が始まっている株式相場で自分の持っている株が今どれくらいの利益を出しているのかを頭のなかで見積もっていたのだ。


 奈々の葬式の翌日、僕はトレードを再開する。

 

 奈々の葬式を準備している時も、葬式の間も、葬式が終わった後も、僕の頭の中の大半を占めていたのは株のことだ。久美や両親や奈々のことを知っていた人たちは、あるいは涙を流し、あるいは悲しそうな顔をして、その死を受け入れる喪の共同作業を行う。僕は奈々の父親という立場なのに、何かとても場違いなような気がしていた。僕は他人よりも自分の感情を制御する能力が高くて、奈々が死んだという喪失感や悲しみをあっという間に抑えこんで霧消させてしまっている。それはもちろん株式投資という僕の仕事で培った能力だ。株式投資では感情的になった人間は確実に敗者になる。どんなに損失を抱えようと利益を抱えようと、僕はまるで陳腐なテレビ番組を見るかのようにそれを無感情と無表情で受け入れながら数字だけを基準にして売買を処理していく。僕にとって奈々の死というのは、そういうものの一つのように処理されている。僕は奈々のことをとてもかわいいと思っていたし、奈々に対して最大限の優しさを持って接していたつもりだったし、だから久美を始めとする他の人々と同じように奈々の死を大きな喪失として受け止めている。でも、僕は全くの無感情と無表情で一瞬のうちに死を過去のものとして処理してしまい、すでに現在の利害となる株のことについて考えているのだ。葬式というのは僕にとってまったく無駄な作業でしか無い。奈々の死を上手く受け入れることができずに悲しんだり泣いたりしている人々が、僕にとってはどうにも滑稽でうっとうしいものでさえある。

 

 僕はつい先日までそうしていたのと同じように朝九時前にパソコンの前に座り取引の開始を待つ。僕は心地良い空気に包まれている。全てが今までと同じで、まるで何も変わらなかったかのように、僕はそれを開始する。九時が過ぎて取引が始まる。無数の売買の成立とストロボのように点滅する画面。

 ああ、僕はとても幸せだ。

 僕はキーボードに数字を打ち込んで売買を始める。静かな部屋の中で響くその音は、僕にとってはまるで心臓の拍動ように感じられる。僕はいよいよ力を込めてキーボードを叩き、その度に気分が昂揚していく。

 ああ、ああ、僕はとても幸せだ。

 この瞬間、僕は何もかもから解放されている。目の前の売買のこと以外は何も考えなくていい。死んだ娘のことも意識にはないし、もちろん妻のことなど言うまでもない。僕は膨れ上がっていく利益に満悦している。

 十万、十一万、十二万、ああ、僕はとても幸せだ。

 しかしその時、静硬な透き通るガラスに囲まれたその幸福な世界を叩き壊すように、突然僕の背後で大きな音がする。僕が一瞬落雷かと思ったくらいに激しいその音は、久美が勢い良く開けたドアがその横の壁に衝突する音だった。

 何やってるの?

 久美はそう言う。怒鳴っているわけではなかったが明らかに感情が昂りきっており、久美の顔は紅潮して肩はかすかに震えている。

 何って、仕事だよ。

 僕はそう答える。別に何も悪いことはしていないと僕は思っているのに、夜中にこっそりゲームで遊んでいるのを親に見つけられた子供のような気分になる。

 どういう神経してるの? 何で奈々ちゃんが死んだばかりなのにそんな冷静な顔してお金儲けのことなんか考えられるの?

 お金儲けって言うなよ、これは僕の仕事だぞ。

 僕はついつい声を荒らげてしまう。久美はどこかで僕の株式投資について軽蔑の感情を持っているところがあった。久美の言葉に滲んだ軽蔑の感情を読み取った僕は次第に腹を立て始める。

 仕事? 今すぐ働かなくてもいいくらいのお金があるのに? あなたはお金に執着してるだけでしょ。あなたは自分の身の周りのことには何も関心はなくて、頭にあるのはお金のことだけ。一番身近な家族にすら興味がないくせに、今ここで生きてる私たちとは何の関係もない外国の経済のニュースとか、そんなことは熱心に見聞きしてる。

 ずいぶんひどい言い方だな。僕が稼いだお金のおかげで僕らは何の不安もなく生活できるんじゃないのか。

 別に。もしお金がなかったとしたら、私はパートにでも何でも行く。ちょっとくらい貧乏だったとしても、私は娘が死んだ時に一緒に悲しんでくれる人間的な感情を持った夫がいたほうが幸せだと思う。

 僕だって悲しんでるよ。悲しいけど、泣いたり落ち込んだりすることよりも奈々が死んだことを少しでも早く受け入れる事のほうが大事だ。だから僕はできるだけ冷静でいようとしているんだよ。

 本当にそうなの? 全然そうは見えない。あなたにとっては奈々ちゃんが死んだことより株で損することのほうが悲しんじゃない?

 久美はこれ以上無いくらいに嫌味な言い方で僕にその言葉を投げつける。

 じゃあ僕が奈々が死んだことに対して泣いたりわめいたりすればいいのか? いつまでも落ち込んで仕事もせずに、奈々のことばかり考えてこれからずっとめそめそしてればいいのかよ?

 少なくとも金に目がくらんで人間らしい感情を失ってるよりずっとまし。できるならそうしてよ。今すぐ奈々のために泣いてみせてよ。

 馬鹿にしてんのか?

 僕は声を大きくする。いつの間にか感情のコントロールを失い始めていることに僕自身気付いていなかった。

 馬鹿にしてない。本心からそう言ってる。だっておかしいでしょ? 自分の娘の葬式の翌日に、父親が嬉しそうにお金儲けに精を出すなんて。正直気持ち悪い。何で私こんな人と一緒にいるんだろうとさえ思えてくる。

 そうかよ。じゃあいっそ僕らは結婚しないほうが良かったのかもな。

 僕はうかつにもその言葉を口に出してしまう。久美の顔が青ざめる。しかし怒りを浮かべた表情は締固して、乾いた目が僕の顔をまっすぐ見つめている。久美は黙ったままその場でじっとして動かない。そしてそのまま時間が経つほどに僕は苛立ちどうしようもない気分になっていく。

 出ていってくれ。

 僕は久美から目を逸らして言う。久美は全く動かない。動かずに僕の顔を見つめている。

 出て行け!

 僕はとうとう怒鳴ってしまう。久美はその言葉を聞いた瞬間に一歩前へ進み出ると、僕の頬を思い切りびんたする。僕は驚いて頬を押さえ、久美を見つめる。頬が熱くなり、まるで燃えた風船が口の中で膨らんでいるかのように鈍くて強い痛みが僕を圧迫している。久美はずっと僕をにらみつけていたが、とうとう何も言わずに部屋を出て行ってしまった。

 僕はどうにも苛立ちが収まらなくなってしまう。部屋をうろつき、思い出したかのようにパソコンの画面を見ると、いつの間にかさっきまで利益を出していた株の価格がひどく下落している。僕はすっかり損をしてしまったようだった。僕は舌打ちをしてマウスをつかむと、それをパソコンの画面に投げつけてしまう。画面は砕けて亀裂が入り、マウスは粉々に破散する。どうしても怒りがおさまらず、それがいったい何に対しての怒りなのか分からないほど混乱しており、マウスだけでなくキーボードもつかみ上げると叫び声とともにそれを壁に叩きつける。壁には穴が開き、キーボードは砕け散って床に破片が散乱する。僕はどうしていいか分からず、部屋の真ん中に座り込む。僕はすっかり取り乱していた。僕の目には理由の不明な涙が浮かび、僕は必死でそれを抑えようとする。でもその涙は僕の制御など全く受け付けないかのようにじわっと溢れ出してしまい、熱くなった頬の上をゆっくりゆっくりと伝っていく。

 

 

 ィズニーランドへ行こう。

 久美が突然そんなことを言い出した。それは僕と久美が結婚する前に初めてデートした場所であり、僕と久美と奈々が家族で一緒に出かけた最後の場所だった。

 ケンカしたその日からずっと僕らは話をしていなかった。すれ違っても目を合わさず、食事も自分で勝手に取り、お互いに自分の部屋にこもって、僕らは同じ家の住人というよりはまるで同じアパートの住人のようだ。僕は相変わらず規則正しく朝九時前にパソコンの前に座りトレードを行い午後三時にそれを終えるという生活を続けていたが、どうもこのところ調子が悪い。毎日毎日が負け続きで、とうとう一週間で百万円を損してしまった。明らかに集中力を欠いている。僕はまだ原因不明の混乱の中にいたのだ。僕は自由に感情を抑制できるつもりでいたのに、どうやらそれは結構な危ういバランスの上に行われていたことらしい。僕は既に崩壊していた僕の日常のグロテスクな姿について受け止めなければならなくなり、一気に噴き出したそれは、僕の感情のバランスを失わせた。奈々が死んで、久美との溝が決定的になった今、この家庭はすでに瓦礫の中に沈んだようなもので、それは重苦しさを持った鉛の霧のように僕の頭にのしかかる。

 孤独になりたい、と僕は思う。全てが面倒くさくなってしまって、僕は何もかもを放り出してしまいたい。それなのに前にも後ろにも行けずここに踏みとどまり、呆けたような顔でパソコンの画面に表示されている株価の下落を見つめている僕は、きっと本物の馬鹿だろう。僕の箱庭だった株式投資の世界がひとたび崩れてしまえば、そこには虚しい日常の世界が広がっており、それは僕の幸せな箱庭さえ浸潤してしまう。僕はとうとう何も手に付かなくなり、その日、僕の生活の全てと言っても過言ではなかった株式投資さえできなくなってしまっていた。

 いつものように僕の部屋からキーボードを叩く音が聞こえてこないせいだったのだろうか、気がつくと久美が僕の部屋にやって来て、パソコンの前に座って何もせずにマイナスが並んだ株価を見つめている廃人のような僕を見ていた。僕らの間にはいたたまれないくらいに居心地の悪い雰囲気が漂っていて僕は逃げ出したいような気分になるが、それは久美も同じなのかもしれない。僕を見つめるその表情はとても固く、緊張しているのが明らかだ。僕らはしばらく何も言わずにじっとしていたが、とうとう久美が口を開く。

 ディズニーランドに行かない?

 そのあまりにも突拍子も無い提案に、僕は文字通りぽかんとしてしまう。会話をすることさえためらう僕らが、一緒に外に出かけるなんてどう考えてもおかしい。しかもそれがディズニーランドだなんて。あれはお互いに楽しい時間を過ごせるという確信を持った人々が詰めかける夢の国だろう。僕らが一緒にいるというのは、互いを冷たい鉄格子の中に閉じ込め汚れた灰色の床を見つめているしかできない囚人にするようなもので、すなわちそれは悪夢だ。僕はすぐさまそれを断る理由を考えながら久美を見ていたが、しかし久美の表情は真剣で、何か大きな賭けに出ているような決心すら秘めているように見える。そこで僕は踏みとどまる。もし僕がこれを断れば、僕らの溝は決定的になるような気がした。久美がそう思っているように、これは何か最後の可能性を丁寧に、おそるおそる、震える手で、凍りつくような水の底に沈んだ繊細なガラス細工をすくい上げているようなものなのかもしれない。それを壊すのはあまりに簡単だ。でも、僕は本当にそれを望んでいるのだろうか。僕は僕自身の気持ちがはっきりと読み取れなかったが、でも取りあえずは、久美の震える手に自分の手を添えて、その今にも崩れそうなガラス細工を拾いあげることにする。

 後から考えれば笑ってしまうような話なのだが、僕らはディズニーランドにいる間ひとことも言葉を交わさなかった。全くの無表情で、お互いに目を合わせようともせず、次に行くアトラクションを決めるときにはマップを指さして頷いたり首を振ったりするだけの夫婦を、周囲の人間はどれだけ奇妙に思ったことだろう。確かに、僕らは会話をすることはなかったけど、僕はひとつだけ今まで自分が全然やらなくなってしまっていたことをほとんど無意識にやっていた。二人で出かけている間、僕は隣でじっと黙ったままでいる久美が何を考えているのかを、一生懸命に想像していたのだ。僕はもうずいぶん長い間、久美が何を考えているか、何を感じているか、何を求めているか、そういうことを考えたこともなかった。互いが鉄格子の中にいたとしても、それが隣り合っているせいなのか、それともここで僕が昔のデートや家族で出かけたことを思い出すからなのか、僕はここいる間ずっと久美の気持ちや考えについて、あれこれと想像を巡らせていたのだ。

 

 ディズニーランドからの帰り、僕と久美は奈々の墓参りをする。真新しい小さい墓の前に座った久美は、つい今しがたディズニーランドで買ってきたキャラクターのぬいぐるみを取り出して墓前に供える。

 奈々ちゃん、このキャラクター大好きだったな。

 久美は独り言を呟く。そして僕はその言葉に戸惑う。僕は奈々がそのキャラクターが大好きだということを知らなかったからだ。奈々はいったいどういうものが好きで、どんな子供だったのだろう。僕は決して子供に冷淡な父親というわけではなかったと思う。でも、僕は基本的にあまり強い関心を持って娘のことを 考えたことはない。今さらながら、僕は奈々がいったいどんなことが好きだったのか無性に知りたい気分になってしまう。今さら。僕の過ごす日々というのはいったい何なのだろう。じっとパソコンの前に座り、目の前の数字の上下に一喜一憂するだけの日々が、これからも続いていくのだろうか。それを気に入っているのも事実だが、でも僕はこれからもずっとそれを続けていくのだろうか。奈々の過ごす日々というのはいったい何だったのだろう。どんなものだったのだろう。奈々が何を感じていたのか、僕は急に聞いてみたくなる。

 奈々、君はいったい何を感じて日々を過ごしていたんだい? 楽しかった? それとも辛かった?

 果たして僕が今これから死ぬとしたら、僕はいったい何を感じるのだろうか。そう思えば思うほど、奈々がいったい何を感じていたのか知りたくなる。僕の中に、またこの前と似たような感覚が押し寄せてくる。目頭が熱くなり、僕はいつの間にか涙を流していた。ふと気がつくと、久美もまた同じように涙を流している。僕らは互いに近づいたり、互いに触れ合ったりしようとはしなかったが、たぶん同じようなことを思って涙を流していたのだろう。

 

 

 は久しぶりにトレードで利益を出す。

 少しは気が晴れたのだろうか。最近は全く駄目だったデイトレードでうまい具合に買った株が価格を上げて、僕はちょっと懐かしい感じすらするその勝利の快感を思い出している。僕と久美は相も変わらずほとんど会話を交わさない。でも、痺れた指先に温かい血がめぐるように少しだけわだかまりが溶解したのは確かだ。僕は正直驚いてしまったのだが、なんと久美は前場の終わった休憩の時間に僕がいつもそうするように、カップラーメンを作って僕のところに持ってきてくれたのだ。僕は全く予想していなかった久美の行動に戸惑いながらも、ありがとう、とお礼を言う。久美は僕だけでなく自分の分のカップラーメンも作っており、僕らは向い合って座ると、それを何も言わずに食べ始める。平日の昼間、とても静かな部屋の中、僕と久美が麺をすする音がやたらと大きく響く。お互い何の言葉も交わさないので妙に気まずい感じで、僕はまさにわらにもすがるといったことわざと同じ要領でラーメンの湯気にでも隠れたかったが、実は二人で向かい合ってラーメンを食べているのはそんなに悪い気分ではない。

 ねえ。

 後場が始まってパソコンの前に座り取引をやっていた僕に久美が話しかける。

 ん?

 僕は取引に集中していたので、別に悪気はないのだがついつい生返事をする。

 私にも何か手伝えることってないの?

 何が?

 僕には久美の言った意味がその瞬間にはよく分からない。

 株のこと。私にはよく分からないけど、何か手伝えることってないのかなって。

 急に協力的な態度になった久美の言葉に、僕はお腹を内側から鳥の羽でくすぐられているかのような気分になる。

 いや、特にないよ。株の取引というのは基本的に全部自分で考えて自分で判断しないといけないものだから。

 そう。

 でも、ありがとう。

 その会話は本当に妙な感じだった。だって今までの僕らの関係からしたら、まずこんな風にお互いを思いやるような言葉をかけることなんてあり得ないんだから。

 その日以来、久美は昼になると毎日僕にカップラーメンを作ってくれるようになった。それも自分の分も合わせて二人分。僕らは毎日黙って向かい合いラーメンをすする。久美は後場の取引の様子を見ていることもあったが、たいていは居間に戻ってテレビを見たりしている。とてもこそばゆい関係だった。互いにぎこちなく、歩み寄るきっかけも見出せない。

 僕らは関係を修復させるべきなのだろうか、それともやっぱり離婚するべきなのだろうか。

 僕は株の取引に集中している時以外はずっとそのことについて考えている。僕らは修復に向かっているように見えて、実はとてもぎこちなく危うい関係の中にいる。仮に関係を修復させたとしても、僕らは向かうべき道を失っている。奈々の存在だけが僕らが一緒にいる根拠だったし、この奇妙な歩み寄りは僕らの溝を埋めるのには決して充分ではない。あるいは久美もまた僕らがこれからどうするべきなのかを探っているのかもしれない。

 次の日、僕はトレードを休んで車を走らせる。僕はずっと考える。どうしたらいいのだろう? どうしたいのだろう? 一度この関係を壊してしまえば、それはおそらく二度とは元に戻らないだろう。僕は久美と一緒にいたいのだろうか? もしそうだとしても、この行き場のない関係を続けるっていうのか? 僕は行く当てもなく車を走らせる。何も変化のない、日常に埋もれた国道をずっとずっと走り続ける。そして僕はずっと考える。

 とうとう僕がたどり着いたのは、灰色の壁に囲まれた退屈なデザインの市役所だった。僕は窓口に行って離婚届の様式を取ってくると、そそくさとそこを出て車に乗り込む。僕は僕がこれからするべきことについて、全く迷いを持たなくなっていた。僕は見慣れた道を走り、そして自分の家庭へと帰って行く。

 これ、書いてくれないか?

 僕は戻ってくるなり久美の前に離婚届を差し出して言う。久美は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに冷静な態度になり、黙ってそれを受け取って見つめる。

 結局これが一番いいのかもね。

 久美はうつむいたままで独り言のように呟く。その目には少し涙が滲んでいるようだったが、声の調子はとても落ち着いており、僕の提案を素直に受け止めているように見える。

 きっと、僕らはこうするしかないんだよ。

 久美はうなずく。そしてテーブルに座り、離婚届に必要事項を記入し始める。その横では、久美が支度をしていた晩ご飯のカレーがことことと煮えている。久美は自分の記入すべき空欄を全て埋めてから、離婚届を僕の方へと差し出す。僕はそれを自分の目の前に手繰り寄せると、久美と同じように必要事項を記入していく。僕らはとても安らいだ気分になっている。これまであんなに張り詰めていた重く緑がかった瘴気のように嫌な雰囲気がいつのまにかすっかり晴れて、僕も久美も、かすかな笑みさえ浮かべている。

 あ。ハンコ、取ってこないとね。

 久美は立ち上がり、ハンコを取って来ようとする。

 待って。

 僕はその久美を呼び止める。久美は振り返り、不思議そうな顔で僕を見つめている。

 その前に、旅行へ行かないか?

 え?

 久美は僕の言葉に面食らってぽかんとした表情になる。

 今ここで生きてる僕らとは関係のないかもしれない、外国へ行こう。それは僕がいつもニュースでしか見ていない場所で、君が想像もできないような、こことは別の日常が広がっている場所だ。

 久美は僕の真意を測りかねるとでも言うように、まだ言葉を失っている。

 そこへ行こう。そして帰ってきたら、この紙きれをどうするか決めよう。

 久美はその言葉を聞いて笑い出す。

 びっくりした。ほんとに突拍子もないんだから。そう、あなたは昔からそういうところあったよね。

 そうだね。

 そう、相変わらずだね。

 僕も自分の提案があまりに突拍子もないことに今さら気付いて笑ってしまう。そしてリラックスした僕はおなかがすいてきて、漂ってくるカレーのにおいを急に思い出す。いいにおいだと僕は思う。僕はこのにおいがとても好きだ。

 


この本の内容は以上です。


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