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一大プロジエクト

 枕元の時計は午前七時を少し回り、暮春の艶やかな朝陽が、寝室の黄色いカーテンを一層鮮やかに透かしている。

 いつになく爽快に目覚めた僕の隣では、娘の結衣がまだ眠っている。

 現在、五歳になる一人娘の寝顔は、何ともいえずに……瑞々しい。

 部屋中にあふれる散光が産毛の頬に跳ね返り、幼子の嫋やかな輪郭を神々しいまでにめかしている。

 慎ましく開いた鼻孔からは、奥床しくも小気味の好い寝息が漏れ聞こえ、いとけなくも懸命なる命の脈動を、僕の心にまざまざと訴えるのだ。

 額にかかった、か細い髪を、手櫛で、そっと払ってやる……。

 掛け替えのない愛娘の寝顔は、いつだって狂おしいほどの光輝を放ち、その度に、僕の心をどこまでも瑞々しく潤してくれる。

 寝室を出ると、ダイニングルームにも、お馴染みの光景が広がっていた。

 キッチンのカウンターから妻の恵が顔を出し、元から晴れやかな声を一層陽気に弾ませる。

「おはよう、康司。食事、もう直ぐできるわ」

 僕は一笑をもって応え、ダイニングのテーブルへと着いた。

 そこから一続きのリビングでは、テレビが小さめの音量で点いている。見慣れたキャスターが『今日の天気』を報じているところだ。

 僕は、それを眺めながら……むしろ、昨日の出来事を思い出していた。

〝総工費、百億円〟

 大英製作所の『新本社ビル建設工事』は、僕が勤務する帝都建設にとっても一大プロジェクトといえた。

 プロジェクト・リーダーとしての僕に課せられた使命は、取り分け重要だ。

〝特命受注を獲得すること〟

  ここのところ、まさに掛り切りで、その任へと当っている。粉骨砕身、不眠不休、僕の日常は、すなわち多忙を極めていた。

  しかして、ようやくだ。一社独占の随意契約が見込まれる希代の一大プロジェクト。その大計は、今まさにクライマックスを迎えていたのだ。

〝競合社との一騎打ち〟

 昨日、大英製作所に対する最終のプレゼンテーションが、コンペ形式にて、公然と執り行われたのである。

 ***

  大英製作所の会議室。モノトーンの室内には、上質な会議テーブルが半楕円に配されていた。

  昇降式の大型スクリーンの正面には、大英製作所の御歴々だ。さぞや堂々たる貫禄で、ことさら大上段に腕を組む。

  その下手に陣取った当社プロジェクト・チームの表情は、皆一様に硬かった。

  僕らの対面には今回の競合社である未来建設の連中だ。その居住まいは、何はともあれ鼻につく。揃いも揃って、意気揚々たるニヤけ面を、不愉快なまでに連ねていやがる。

  プレゼンは、未来建設が先に行った。

  過去、大英製作所から発注される建設工事を、ほぼ独占的に請け負ってきた未来建設。そのプレゼンは、今まで積み重ねてきた自らの実績を手前勝手に手厚く擁護するかのごとく、極めて無難な内容であった。

  未来建設の論者が席に戻る暇である。僕に、そっと耳打ちをしてきたのは、隣に座る課長の水森だ。

「まあ、未来建設のプレゼンは、予想通りの内容だったな。とにかく木島係長、後はしっかり頼んだぞっ」

 直属の上司からの激励に、僕は改めて気を引き締める。小さく頷いてから、スクリーンの前へと進み出た。

 上座へ向けて、入念に一礼。まずもっては、務めて慎重に言葉を発するのだ。

「貴社は、高い技術力で常に業界を牽引してこられました。新本社ビルは、その実績と伝統を踏襲しつつも、何より、貴社の革新的な開発力を、全世界に向けて積極的にアピールする――その〝象徴であるべき〟と、考えます」

 大手自動車部品メーカーの保守的なイメージを、見事なまでに払拭するのが狙いである。まさに、その象徴とでもいうべき斬新極まりない完成予定図を大型スクリーンへと映し出す。

  それからの僕は、終始、舌鋒鋭く捲し立て続けた。

  未来建設陣営からしてみれば、半ば当て馬的に思われていた当社であった。 しかしながら僕のプレゼンは、思い上がった未来建設の俗流は元より、大英製作所の幹部たちの度肝をも鋭く抉り抜いた。

  大英製作所の列席者の一人、取締役兼開発本部長の海藤は、今回の『新本社ビル・建設プロジェクト』においても最重要人物と目されていた。 

 僕らは、地道な訪問活動と度重なる接待で、なんとか海藤とのパイプを築いてきた。そのキーマンは、何度目かの宴席で苦々しくこぼしていた。

「未来建設の仕事は信頼に足るものがあるが、考え方が古臭くていかん。そもそも、だ。我々自動車の部品メーカーは裏方産業ではあるものの、今日の日本文化の屋台骨を担ってきた自負がある。これからは、全世界に向けて、当社の存在価値を存分にアピールしていきたいものだ」

 僕のプレゼンは、鋭気に富んだ重鎮をも十二分に満足させる出来であった。

  コンペ終了後だ。颯爽と歩み寄ってきた海藤は、僕の背中を、ボンッと叩き付け、

「いやぁー、木島くん、本当に素晴らしかったよ。まさに、私の理想とする構想だった。ガッハッハ」

 会心の高笑いとともに、頑健な体躯を大いに揺すってみせた。

  加えて、当社内での評価も上々であった。営業課からの無理難題を見事に具現化し、斬新かつ洗練された完成予想図に仕立て上げた設計課の偉功もさることながら――大英製作所の首脳陣を唸らせた僕のプレゼンは、頗る付きに高い評価を得たのだ。

  常は泰然自若な直属の上司、課長の水森も、今回ばかりは切れ長の目をさらに細め、大いに快哉を叫んでいた。   部下の山口に至っては、とにかく大袈裟だ。

「さっすが、木島係長っスねー。あんなに、すンごいプレゼンは、係長にしかできないっスよー。憧れちゃうなー。僕、一生付いていきますっ」

 などと、しばらくは興奮冷めやらぬ、といった浮かれようであった。

  それらはさておき、今回の一大プロジェクトは、僕個人にとっても余りに重且つ大な意味を持つ希代の大計だ。そのクライマックスにおいて、何より当の僕自身が、それなりの手応えを感じていたのだ……。

***

「なんだか、ご機嫌ね」

 恵がテーブルへと朝食を並べながら、声に微笑みを含ませる。

「そうか?」

「うん。顔が、とっても、ニヤけているわよ」

 山口が演じた『予想外の苦戦を強いられ青褪める未来建設の担当者の顔真似』が、思い出しただけでも可笑しかった。

 できたてのハムエッグ。トーストには僕の好みで、濃厚なバターがたっぷりと溶けている。

「ねえ、康司。明日は、結衣と動物園に行けそう? 日曜日は、また、ゴルフでしょ」

 恵が、いくらか自重した声色で訊いてきた。

 そう言えば、しばらく前だ。確かに、結衣とそんな約束を交わしていた。娘にとっては、それこそ一大プロジェクトとでもいうべき希代の大計だ。

 しかしながら、僕の日常は余りに忙しない。掛け替えのない一人娘と交わした重且つ大な約束にして、如何せん、見事なまでに、すっかりと忘れていた。

 そこで、すかさず一計だ。いささか眉を曇らした妻には悟られぬよう、僕は慌てて思案する。

 本日は金曜日だ。大英製作所のプロジェクトが、よもやの〝特命受注〟ともなると、しばらくは完全に休日を返上しなくてはならない……が、一日二日で、そう簡単に結果が出るとも思えない。

「ああ、大丈夫だよ」

 僕の宣誓に、恵は、至って事々しく愁眉を開く。

「ふぅー、良かったぁ。久しぶりのお出掛けで、結衣が、とっても楽しみにしているのよ」

 大袈裟に胸を撫で下ろす仕草を見せると、妻は、再びキッチンへと戻っていった。

 朝食を済ませてから、改めて寝室を覗き込む。娘の結衣は、未だ穏やかな寝息を立てて、ぐっすりと眠っている。   神々しいまでに生彩な尊容も、よくよく見れば、やはり、まだ五歳の幼子だ。掛け替えのない一人娘の寝顔は、なんともいえずに……いじらしい。

 枕元に動物の絵本が置かれていた事実には、その時、気付かされた。慎ましやかに開かれたキリンのページを目にしながら、僕はくれぐれも思い入るのだ。

 今回のプロジェクトに携わってから、実に半年あまりだ。深夜に及ぶ残業が、従来にも増して恒常化していた。休日も打ち合せや接待ゴルフなどに駆り出され、家族――特に、結衣と過ごす時間は、めっきり少なくなっていた。

  今回の仕事は、まずもって一段落だ。人事を尽くして、なんとやら、である。

 〝明日は久々に仕事を忘れて、瑞々しくも、いじらしき、我が愛娘の笑顔に、たっぷりと癒されよう!〟

 僕は、自らの忙しなき心頭に、くれぐれも入念に宣するのだ。


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花形部署の精鋭たち

 東京都の狛江市は、首都圏でも屈指の住宅密集地である。

 多摩地区の入口に位置し、東は世田谷区に隣接する。市域の南端には多摩川が悠々と流れ、一方で、狭小な寸土には、雑然とした街並が忙しなく群生している。

 通勤にも至便なこの地へは、結衣の誕生と同時に越してきた。

 最新の設備を施し、立地にも恵まれた新築の分譲マンション。その競争倍率は高かったものの、運良く、六階の角部屋『六〇八号室』を購入することができた。三LDKの間取りも、家族三人が暮らす用向きには十分な広さといえた。

 五月晴れの煌めく日差しを全身に受ける。住宅街の小道を足早に抜け、駅前へと到着する頃には、額にうっすらと汗が浮いた。

 小田急線の和泉多摩川駅。大都会の一端にあって、その周辺の風情は、取り分け忙しない。昔ながらの総菜屋から、最先端を謳う小粋なブティックまで、新旧入り乱れての雑多な趣が、せせこましき狭小な目抜き通りを、さても紛々と飾り立てている。

 さらに、この時間帯は一段と始末が悪い。四方八方から湧いてくる人波が、いわゆる高架型の駅舎を目指し、狂瀾怒濤に押し寄せる。

 構内入口を潜り、自動改札機を抜ける。階段を人波に揉まれながらも足早に駆け上がり、高架式のホームへと懸命に列を成す。末は、慌ただしく車輪をきしませて滑り込んでくる電車に、我先にとばかり、一気に雪崩れ込むのだ。

 大学を卒業後、帝都建設に入社してから、早、十三年が経つ。かつては、地方への転勤も経験した。それでも、大半が首都圏、特に、本社への勤務が主である。

 果たして、救い難いほどに紛々とした通勤ラッシュも、今では僕の忙しなき生活の一風物として、すっかりと溶け込んでいる。

 飽和状態の車両に、漫然と身を委ねること、およそ半時。会社のある『新宿』へと到着する。

 東京の心臓部である新宿に、本店や総合支店を配する建設会社は多い。

 当社を含め建設業界にとって、官公庁から発注される公共工事は、まさに生命線といえる。会社の業績を大きく左右するのだ。

 都政の中心――新宿。主戦場に、それなりの拠点を構えることが、総合建設会社――いわゆる〝ゼネコン〟にとっての、プライドともいえた。

 中でも、僕の勤務する帝都建設は〝スーパーゼネコン〟と称され、常にその五指に数えられている。 新宿駅から程近いオフィスビル群。その一郭に敢然とそびえ立つ帝都建設の本社ビル。その佇まいは、まさに、自らの隆盛をまざまざと誇っているやに見える。

 十階にある営業部のフロアには、既に数名の社員が出社していた。

 最奥の両袖デスクで新聞を広げているのは、課長の水森だ。僕の出社に気付いた水森は、ゆったりと顔を持ち上げる。

「やあ、木島係長。昨日は、お疲れさん」

 答礼する僕に、水森が言葉を継ぐ。

「それにしても、本当に良く準備をしてくれたね。素晴らしいプレゼンだったよ。私も、安心して見ていられた」

「いえ。課長の御指導が、あったからこそです」

 水森は、僕の聊か社交辞令とも取れる言葉にも、柔らかな微笑みを浮かべ、

「先方の海藤重役には、午前中のうちに、礼の電話を入れておくよ。まあ、やるべきことはやったんだ。果報は寝て待て、だ」

 この上なく柔らかく言い寄越すと、再び経済新聞に視線を落とした。

 スマートな容姿に反して、営業一筋。『本店営業一部一課・課長』の重席に座った実力者の言葉には、いつだって含蓄がある。

 自席に着いた僕に、早速、落としたてのコーヒーを運んでくれたのは、事務社員の田所美香だ。

 楚々と微笑みながら、砂糖とミルクを添える手慣れた所作は、すなわち、田所の行き届いた仕事ぶりを容易に窺わせる。

 島型に組まれた課員のデスクにて、僕の対面に座っているのは、主任の大滝である。毎朝、誰よりも早く出社してくる大滝は、外見に違わぬ実直な性格だ。どんな仕事でも、恙なく熟す。

 目下も、得意先と思われる朝駈けの電話に、淡々と心血を注いでいる。受話器越しの相手へと、律儀なまでに姿勢を正している姿は、いかにも彼らしい。

 斜向かいの席で早くも外出の準備に倉皇しているのは、中堅社員の佐々木だ。訪問先に持参するのであろう資料を一通り鞄に詰め込むと、挨拶もそこそこ、慌ただしく出掛けて行った。

 佐々木は、多少大雑把なところがあるものの、見るからに体育会系の風貌をして、フットワークも軽い。加えて物怖じしない性格は、得意先からの信望を集めた。

 ほどなく、他の課員も続々と出社を遂げて――午前九時が差し迫った当該フロアは、一段と活気付いていく。

 公共工事の安定的な受注は、間違いなく会社業績の根幹を成す。ただし、だ。成果に至るプロセスは、余りに融通が利かない。その多くには、形式張った『入札方式』が採用されるのだ。

 そこでは、発注元への接待や過度な営業活動、果ては業者間での談合などが厳しく規制されている。原則として、一社員の能力というよりは、むしろ会社そのものの〝体力勝負〟といった色が濃い。

 それに比べ、民間工事の舞台は、あまりに露骨だ。『特命受注』を糧とし、常に競合社とのつぶし合いが繰り広げられる。強固な組織と個人の能力、総じて〝営業力〟がものをいう。

 熾烈な民間工事の世界を主戦場とする『営業一部』の中でも、僕の所属する『営業一課』は、主に大手のメーカーを担当する。すなわち、一回の請負金額も巨額に上るのだ。

 会社の営業力が、まさに問われる花形部署には、当然のことながら、それ相応の精鋭が配される。

 ただし――若干一名の〝例外〟を除いてではあるが……。

 午前九時の始業を伝えるチャイムと、ほぼ同時であった。くだんの例外が、大慌てでフロアへと滑り込んできた。

「フゥー、間に合った。お、おはようございますっ」

 大袈裟に肩で息をする例外へ、水森の叱声が飛ぶ。

「おい、山口っ。お前、ネクタイは、どうした!」

「あっ、しまった。すンません」

 山口は、鞄の中に詰め込まれていた皺くちゃのネクタイを、大童で取り出した。

「うんしょ、こらしょ」などと掛け声だけは勇ましく、悠々と首根っこに括り付ける。後は、悪びれた様子なんぞ、微塵も見せない。

「さあ、仕事、仕事ー。がんばるぞーっ」 と、お調子者千万であった。

 水森は呆れ返った調子で溜息をこぼし、他の課員も、お馴染みの光景に苦笑していた。

 山口は、入社三年目の若手だ。恐いもの知らずの言動に、冷汗をかかせられる応報もしばしばだった。が、意外にも芸達者であり、おまけに人懐っこく、何より嫌味のない性格には、時として好感が持てた。

 また、なんの因果か、僕を崇拝しているご様子で……このお調子者には、多少なりとも目を掛けてやっていた。

 山口が、いかにも慇懃ぶった態度で訊いてくる。

「木島係長! 本日は、いかがいたしましょうか? ご下命をお願いいたします」

「そうだなあ……オレは、久しぶりに他の得意先を回ってくる。お前は、大英製作所のプロジェクト・チームの面々のところへ顔を出し、何か変わったことがないか、聞いておいてくれ」

 昨日の労いも忘れずに、と僕が言い添えると――

「はいっ。了解しました!」

 花形部署の例外社員は、おどけた調子で、敬礼をして見せた。


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ルーチンワーク

 大英製作所のプロジェクトに掛かりきりで、ここのところ、他の得意先への表敬訪問が疎かになっていた。

 顔を出したい先は山ほどあったが、月末の金曜日ともなると、都内の道路はどこも混んでいる。激しい渋滞に苛まれ、仕事は思い通りに捗らなかった。しかも……。

「本日の関東地方は太平洋高気圧に覆われ、さながら真夏を思わせる陽気……」

 社有車のAMラジオから流れる女性パーソナリティーの美声には、大いに頷けた。その上、積年の刻苦に耐えてきた商用ライトバンは、エアコンの効きが頗る悪い。吹き出し口からは、およそ冷気とは呼べない生ぬるい送風が、やたらと大袈裟な轟音を伴って、さぞや虚しく吹き荒れている。

「電車にすれば良かった……」

 僕は全開にした車窓から身を乗り出し、遙に続く車の列を遠望しながら、つくづく後悔した。

『昭和銀行』は、コマーシャル市場に抜群の強みを発揮する都銀の雄である。その得意先には、大手の有力メーカーが、わんさと名を連ねる。

 大手町にある同行へは、なんとか午前中のうちにの訪問が叶った。

応接室で待つこと暫し。軽快な足取りで現れたのは、部長の小田である。昭和銀行のコマーシャル市場を一手に束ねる、法人営業部の切れ者だ。

「やあ、木島さん。お久しぶり」

 細身の体躯に、濃紺のスーツ。精悍な黒縁眼鏡が〝いかにも〟の切れ者は、当社の水森と極めて親交が深い。水森にとっての小田は、同じ大学出身の〝頼れる先輩〟という由縁だ。同時に、当社シンパの小田は、僕にとっても〝頼れる切れ者〟といえる存在なのである。

 革張りのソファーに颯爽と腰を下ろした切れ者は、満面の笑みをこさえて、取り分け精悍に言い寄越す。

「大英製作所のプレゼンは、大成功だったらしいねぇ。木島さん」

「ありがとうございます。なんとか、ここまで漕ぎ着けました。小田部長に色々とご尽力をいただいた御陰です」

 僕は、深々と礼を添える。

「いやいや。推薦させてもらった我々も鼻が高いよ。ちょうど先程まで、大英製作所の海藤さんと、電話で話しをしていたところだよ」

 なるほど、その電話は〝水森の企て〟であろうと察しが付く。

 昭和銀行は、大英製作所のメイン・バンクである。今回の『新本社ビル・建設工事』の資金をも、一手に担っている。

 水森は、さすがの策士だ。融資元の、しかも、その担当責任者である〝頼れる先輩〟に、絶妙のタイミングでの効果的な援護射撃を巧みに願い出たに違いない。我が直属の上司の水森も、負けず劣らずの切れ者なのだ。

 黒縁眼鏡を精悍に持ち上げながらの、頼れる小田。

「先方さん、君のことを、随分と誉めていたよ」

「ありがとうございます。それで、海藤重役は、結果であるとか、今後について、そのぉ……何か、仰っていましたか?」

「なんせ、相手は難攻不落の大英製作所だ。はっきりしたことは、言えないが……」

  うーんと首を捻り、黒縁眼鏡を散漫にずらしながらの、頼れる小田。

「まあ、なんとか、なるんじゃないの」

 頼れる切れ者の、なんとも頼りない所感ではあったが、僕は辞を低くし、改めて礼を述べる。

 自今、一時の雑談に歓を尽くし、僕は昭和銀行を後にした。

 昼を過ぎると、都心の渋滞はより激しさを増した。照りつける日差しも、ここ暫く続いていた悪天候を一気に挽回するかのごとく、燦々と輝いている。

 紫色の暖簾が目を引いた。僕は昼食を取るために、いささか古びた沿道の蕎麦屋へと入る。

 エアコンが沈黙する店内には、少々面食った。人いきれも手伝って、惨たらしいまでに蒸しているのだ。おまけに、注文を取りにきた女性店員のぞんざいな態度に、僕の食欲はこの上なく削がれる格好と相成った。

 窮屈なカウンター席に止むなく陣を取る。額の汗を拭いながら、注文した品を漫然と待ち受ける。そんな折に、携帯電話が鳴った。

 慌ててディスプレイの着信表示を確認する。相手は、課長の水森だった。僕は、携帯電話を耳に当てながら、一旦、店の外へと出た。

「木島係長、今はどこだ? 直ぐに、横浜まで飛べるか?」

 受話器越しの水森は、いささか切迫した調子であった。

「今は、品川の辺りです。ただ、渋滞が酷くて……」

 僕には皆まで言わせず、水森が早々と言葉を重ねてくる。

「悪いが、直ぐに〝神谷電気〟に向かってくれ」

 神谷電気は、半導体を主力とする電機メーカーだ。半年前に竣工した横浜工場も、当社が特命で請け負った。メイン担当者は、外でもない、僕である。

「神谷電気で、何か……」

 今度も、慌ただしく言葉を被せてくる、水森。

「工場の床から、水が湧いているらしい」

 それには、仰天だ。

「えっ、水が?」

 しばらく悪天候が続いていたとは言え、ちょっとした雨漏れなどで、床から水が湧くなんて事態は、そうそう考えにくい。危ぶむべきは、配管からの水漏れだ。繋ぎ目の接合が甘かったか、最悪の場合は、強度不足などによる、破裂!

 案じる水森は、さらに会話を急ぐ。

「私も出先で、又聞きだ。詳しいことは判らんが、水道管だと、厄介だ!」

 僕が現地に急行する旨を告げると、そこで電話は切れた。

 カウンター席に届いていた〝ざる蕎麦〟は、どうやら諦めるしかなさそうだ。

 激しい渋滞であろうが、厳しい暑さであろうが、数ある得意先への表敬訪問は、僕にとっての日常だ。決して、欠かせないルーチン・ワークなのである。

 その得意先が、次から次へと巻き起こす突発的なトラブルも、僕に取ってはこれまた然りである。何を置いても馳せ参じるのが、ルーチンだ。

「天ぷらを付けなかっただけ、マシだ……」

 そう考えると、食欲を削いでくれた蒸し暑さと、いけぞんざいな女性定員の態度にも、少しは寛容になれるのだ。


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建設課の豪傑

 横浜へと向かう首都高速道路でも、断続渋滞の憂き目に遭った。

 水森の電話では「建設課にも現地へ急行するよう、手配をしておく」との算段であった。が、何分にも急な用向きだ。おそらく、直ぐには人の手当もできないであろう。

 建設課はその名が示す通り、請負物件に対する実際の建設工程そのものを取り仕切る部署である。さらには、既設物件に発生した瑕疵や、原因の究明、その修繕においても同課の処断は欠かせない。

 何時とも分かず、得意先から仰せ付かった御下命へと急ぎ馳せ参じる――僕ら営業課の任務は苛酷だ。一方で、種々雑多なクレームに、いつだって引く手数多の建設課の使命も、すなわち多忙なのである。

 原因はなんにせよ、精密な電子回路を取り扱う神谷電気にとって水漏れは一大事だ。今のところ製品に損害を与える惨事には至っていないようだが……僕の焦燥は否応なしに募った。

 それにしても、激しく滞留する車の多さには、改めて腹が立つ。おまけに、紛らわしに嵩んだタバコも、手持ちの分を全て吸い尽くす。

 その後の僕は、シートが軋む窮屈な社有車の運転席で、絶煙、空腹、酷暑、という熾烈な三重苦に、しばらくの間、じっと耐えなくてはならなかった……。

 神谷電気の横浜工場へと到着した頃には、午後の二時を大きく回っていた。

 受付にて気を揉むこと僅か、先方の山下が現れた。同工場の総務課長殿が、ただでさえ短い腰をさらに縮ませながら、なんとも卑屈な苦笑いとともに参上だ。僕の焦心苦慮は、どうやら過分だったようである。

「いやいや、木島さん、すみませんねぇ。実は、全く大したことないんだよ」

 山下は、そう言いながら、白髪優勢の頭を掻いた。

「でも、水が漏れたとか……」

「水漏れ、とは言っても、休憩室の床に、そのぉ、ほんの少し、染み出た程度でねぇ。どうも、大袈裟に伝わっちゃったみたいで……面目ない」

 いささか拍子抜けした僕ではあったが、取り敢えず自重した態度を保ち続ける。

「誠に申し訳ございません。大事に至らなくて何よりです。ただ、水漏れしている事実に変わりはありません。至急、担当部署に調査させますので……」

「ああ、その方なら、既に来てくれているよ」

 えっ、もう? 珍しく、手回しが良いな

  山下は、再びの苦笑とともに白髪頭を一掻き、そのまま僕を現場まで案内してくれた。

 当社の請負により、半年前に全面的な改築が施された神谷電気の横浜工場。先方の総務課長である山下の後に続き、僕は場内を歩いていく。

 さすがは目下〝売り出し中〟の神谷電気である。フル稼働する壮大な生産ラインを、すっぽりと収める工場のスケールには、改めて目を見張る。

 その築造の一役を担った者として、感慨深げに、あちらこちらを見渡しているうちに、問題の〝水漏れ現場〟へと到着した。

『休憩室』のプレートが、さも仰々しく貼られた無味な木製扉。その向こう側には、握り締めた携帯電話に向かって烈々と声を尖らせている一人の男がいた。

 豪放磊落を地で行く男――

「いやいや、違うって、そうじゃあないっ。だからぁ……な、なんだと、ふざけんな!」

 当社、建設課の西岡である。

 僕と山下の姿を認知した、西岡。一瞬、申し訳程度の目礼を配するも、その激高は全く遠慮を知らない。

「この野郎っ、いい加減にしやがれっ。誰に向って言ってんだっ!」

 携帯電話を相手取っての、荒ぶる豪傑。その有様に当てられて、山下は、しばらく唖然としていた。

 やがて山下は、お得意の苦笑いを浮かべながら、ここでも、白髪頭を一掻きだ。

「お帰りの際に、受付へ声を掛けて下さい。せめて、粗茶でも……」

 僕に耳打ちをしてから、いそいそと退散していった。

 部屋の中には複数の長机と、大量のパイプ椅子が整然と並べられている。それでも全体的にガランとした印象の、いかにも広々とした休憩室だ。

 その部屋中をまさに縦横無尽である。西岡のどすの利いた濁声が所狭しと響き渡っている。

 業界屈指のスケールを誇る神谷電気の横浜工場。そこの庶務全般を取り仕切る総務課長の山下をして、恐々と退散せしめる、当社、西岡の猛威……

  しかしながら、少なからず西岡の人となりを承知している僕にとっては、さして珍しい光景ではない。

「それじゃあ駄目だっ」「そうそう、明日だよ」「はあ? 休みなんて、関係ないだろうが。そもそも、お宅らが、施行した箇所なんだっ」

 西岡は一頻り捲し立てると、舌打ちを一つ。

「じゃあ、そういうことで……」

 携帯電話を、バチンッと畳んだ。さらには、大きな溜息に険を溶き、ようやく僕に向かって片手を上げる。

「西岡課長、自らのご出陣ですか?」 「ああ、人手不足でな。増員要求も、ままならん。まったく、うちの会社の人使いの荒さは、天下一品だよ。まあ、オレも人のことは言えんが、な」

 そう言いながら、引く手あまたの建設課を率いる豪傑は、大きな体を豪快に揺らした。

「先程の電話は、下請ですか?」

「ああ、細野工務店の社長だ」

 細野工務店は、当社の下請業者である。当該工場の改築工事においても、仕上げ工程を担当したはずだ。

「明日にでも直せ、と言ったんだよ」

 そう言いながら、顰めっ面の西岡は、部屋の隅のほうを指差した。

 西岡が指し示したのは、壁際の床面だ。そこに敷き詰められたグレーのカーペット・タイルに、僕は、よくよく目を凝らす。言われてみれば、なるほどだ。そこには、確かに水が染み出たのであろう形跡だ。

 ただし、なんとも些細なシミである。まったく、先方の山下が、僕らの緊急対応に対して、酷く恐縮するわけだ……。

「自分たちの杜撰な仕事を棚に上げて、人工の都合が付かない、なんて言いやがる。それじゃあ、自分でやれ、と言ってやったんだよ。そしたら、細野工務店の、あの狸オヤジ……やれ体の調子が悪いだの、やれ野暮用があるだの、下らない御託を並べ立てやがるっ」

 気色ばむ西岡は、舌打ちを挟んで、さらに続ける。

「まったく〝帝友会〟にも困ったもんだ。加盟さえしてりゃあ、その身も安泰だと思っていやがる」

 帝友会とは、当社の主だった下請業者や協力会社からなる、いわゆる親睦組織だ。大手ゼネコンの下には、その育成や結束を目的とした同種の組織が、大抵の場合で設けられている。

「日曜日には、その帝友会の、ゴルフ・コンペもありますしね」

 僕の言葉に、西岡は、一層、顔を顰める。

「そうか、あの〝ゴルフきちがい〟めぇ。練習ラウンドにでも出掛けるつもりでいやがったんだなっ」

 明後日の日曜日に大々的に催される帝友会の『親睦ゴルフ・コンペ』は、年に一度の恒例行事だ。それには、僕も参加させられる羽目となっていた。得意先の婚儀に駆り出された水森の名代である。

「細野工務店の社長は、ディフェンディング・チャンピオンですからね。でも、結局は、明日の修復作業を承諾させたんでしょ? 毎度のことながら、西岡課長の仕事の速さには敬服します」

「こういうことは、とにかくスピードが肝心だ。後回しにすると、ろくなことがないからな」

 豪傑の粗暴な言動は、ある意味、巧妙だ。一癖も二癖もある下請業者の手綱をしっかりと握り、自由自在に操るために体得した、西岡流のやり口なのだ。

 その実、謙虚な仕事ぶりと、それに対して人一倍の情熱を注ぐ西岡のことは、大いに信頼できる。その豪傑によると……。

 今回の瑕疵は「壁面に取付けられた空気口のシーリングが甘く、そこから、ここ数日の雨水が侵入。壁を伝って、床から滲み出した」との釈明であった。

 さらに、巧妙な西岡は「同室内に設置されていた〝簡易流し〟や、隣接する〝大層な従業員用のトイレ〟の配管も、入念に踏査した結果である」旨を付け加えた。

 とにかく、大事には至らず、何よりであった

 帰り際に状況の報告を兼ねて、再び、先方の山下を訪ねた。 山下は、先ほどとは打って変わって平身低頭な西岡の豹変ぶりに、またしても唖然とさせられていたが、

「帝都建設さんの、迅速かつ誠意ある対応を、当社の上層部にも、きちんと報告させてもらうよ」

 との言葉を添え、満面の笑みにて応じてくれた。

  山下には、粗茶ならぬ落としたてのコーヒーと高級クッキーで手厚く持て成され、しばし雑談。その後、僕と西岡は、神谷電気の横浜工場を後にした。


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エースの〝間〟

 神谷電気の横浜工場から会社へと戻る車には「電車で来た」と言う、西岡が便乗した。

 だいぶ傾いたとはいえ、盛夏もどきの強烈な日差しに曝されていた商用ライトバン。その車内は、サウナ風呂さながらに蒸し返っていた。

 西岡は、助手席に座るや否や、エアコンの操作スイッチやら送風口やらを慌ただしく弄くり回す。発車して早々、分厚い顔面を汗まみれにしていた。

 別に僕が詫びる筋合いの問題でもないのだが、なんとなく心苦しく、取り敢えずは、丁重に頭を下げてみる。

「すみません。この社有車、どうも、エアコンの調子が悪くて……」

「当社のエースに、こんなオンボロ車を宛がっているようじゃあ、水森の野郎っ、どうしようもねぇなあっ」

 建設課の課長であるこの豪傑と、我が営業一課を率いる優男は、外でもない同期生である。見てくれも中身も、火と氷ほどに正反対な二人である。が、僕の上司である水森に向けられた西岡の悪態めいた物言いは、その実、気心の知れた同輩に対する、日頃からの〝親交の深さ〟を感じさせる言い草でもあった。

「エースだなんて、とんでもありません」

 僕はハンドルを握りながらも、控え目に肩をすぼめてみせた。

「何を言ってやがる。さっきの神谷電気に続き〝大英製作所の特命受注〟も、既に当確らしいじゃないか。おまけに、二件とも他社からの奪取とくりゃあ、そんな離れ業をやって退けらるヤツは、社内広しといえど、お前の他にいやしないだろう」

「え! 大英製作所の件は、まだ、何も……」

「あれぇ、そうだったかぁ?」

 果たして、この人は、僕を茶化しているのだろうか?

「まったくもう、西岡課長。へんなプレッシャーをかけるのは、やめてくださいよぉ」

 僕のムクれた様子が笑壷に入ったのか――

「そんな弱気で、どうするよ!」

 と言い放ち、西岡は高らかに笑った。

「はあ……」

 僕は、控え目に畏まる。そこに、豪傑の次なる〝口撃〟だ。

「まあ、なんにしても、君は良くやっているよ。水森も、出る幕がない、ってボヤいていたぞ」

「えっ、水森課長が、ですか?」

〝ボヤく〟という言葉の真意を見出せず、僕は、思わず眉を顰めてしまった。

 西岡は、そんな僕の心中を察したかのように――

「まあ、ヤツは滅多なことでは、人を誉めたりしないからな。キザなアイツらしい、最高の賞賛だよ」

 と、今度は朗らかに笑った。

「はあ……」

 西岡は、全くもって豪放磊落だ。

「とにかく、そんなに、シケた面、すんな、よっ!」

 畏まる僕の肩を、いきなり、ドカンと叩き付ける。走行中の車が折しもカーブへと差し掛かった途端だったから、堪らない。

「うわぁ! ちょ、ちょっと、危ないじゃないですかぁ」

 僕は、大いにフラついた車体を、懸命に立て直す。その焦りようが、よっぽど笑壷を刺激したのか、西岡は、肉厚の巨体にシートベルトを食い込ませながら、しばらく大笑していた。

 ようやく笑いを静めた豪傑は、性懲りもなく、気任せな大口をたたく。

「ハァ、可笑しい。まあ、そんなに心配するな。大英製作所の件も、そのうち〝吉報〟が届くさ」

 僕は、溜息混じりに返答だ。

「また、そんな気休めを」

 やはり、豪放磊落を地で行く男――

「気休めなもんかっ。これは、オレ様のカンだ。と言うより〝間〟の問題だよ〝マ〟の」

 今度は、自儘な講釈をとうとうと垂れ始めた。

「なんですか、それ?」

「いいかぁ。好調なとき、ってのは、すなわち〝間が良い〟ときなんだよ」

「〝マ〟……ですか?」

「そうだ〝マ〟だ。間が良いとき、ってのは、何をやっても、うまくいくものさ」

 まったく、この人は、僕をからかっているんだか、バカにしているんだか……。

「西岡課長、それって、ただ単に、運が良い、ってことですか?」

「それは、違うぞ、木島。うーん、なんというか〝巡り合わせ〟というのか、あるいは〝タイミング〟というのか、それとも〝バランス〟とでもいうのか……」

 言葉に詰まること、瞬刻。西岡は、何かをひらめいたかのように、メラメラと口調を輝かせる。

「いいかぁ、木島っ。まずは〝ハードル〟を、思い浮かべてみろ」

「ハードル、って陸上の〝ハードル競技〟のことですか?」

「そうだ。いいかぁ、ハードル競技ってのはなぁ、タイミングこそが肝心なんだよ。それこそ〝マ〟が命なんだ。〝マ〟を外したんじゃあ、決して良い記録は期待できん」

 この人は、一体、何を言い出したんだ?

「万が一、ハードルに躓いてバランスを崩したら、その後、レース中に態勢を立て直すのは容易じゃない。あるいは、順調に幾つかのハードルを越えられたとしても、途中で躊躇したり、集中力を欠いてしまったら、結果は、やはり散々だ」

 このオジさんは、一体全体、何が言いたいんだ?

「要するに、だ。次から次へと、巡ってくるハードルを、着実なリズムをもってして、バランス良く飛び越え、とにかく、だ。ゴールだけを見据えて脇目を振らず、積極果敢に邁進するんだ」

 このオヤジ……。

「それでこそ、仕事上の〝障壁〟も、行く手に立ちはだかる〝ハードル〟も、タイミング良く、無事に越えていける、ってことだ」

 結局、なんということはない。仕事上の〝障壁〟と、陸上競技の〝ハードル〟を掛けた、単なるダジャレだ。

 会心のオヤジ・ギャグを炸裂させた助手席の豪傑は、殊の外ご満悦の様子である。

「どうだね、木島係長。ご理解、いただけたかね?」

 オッホン、と態とがましい咳払いまで添えて見せる西岡であった。

 ただでさえ蒸し返った車内で、西岡の言動に、いささかの暑苦しさを覚えた僕は、

「は、はあ……」

 煮詰まった、半笑いを浮かべるしかない。それでも西岡は、やはり、豪放磊落だ。

「だからぁ。そのシケた面がいけないんだ。それじゃあ〝運〟も逃げちまうぞ!」

「なぁんだ。結局は、運じゃないですかぁ」

「あっ、と。い、いや、今のは、違う……バ、バカ野郎!」

 豪傑による、照れ隠しの逆ギレだ。今度は、頭でも小突かれそうな勢いだったので、咄嗟に身構える。ハンドルを握り締めながら、大袈裟な警戒態勢に入った、僕。

 その有様が、笑壷どころか、全身のありとあらゆるツボを刺激したらしい。西岡は、でっかい図体を右に左にくねらせる。オンボロ社有車のシートが潰れるほどに、いつまでも笑い転げていた。

「……ハァ、可笑しい。まあ、とにかく、だ。せっかく、良いリズムで仕事ができているんだ。細かいことは気にせずに、ガンガン、目の前のハードルを越えて行けぃ!」

 まったく、なんとも〝間の抜けた〟西岡の激励であった。が、帰りの道中は、それこそ〝間が良かった〟のか、目立った渋滞には遭わずに済んだ。

 何より、絶妙の〝間〟といえたのは、その日の夕刻だ。

 会社に戻った僕の元へと、まさに〝間髪を容れず〟である。ジャストのタイミングで、西岡のいうところの「吉報」が届けられたのだ。

『大英製作所、新本社ビル建設プロジェクト――特命受注、獲得!』

 僕は、また一つ、耀かしいハードルを飛び越えたようだ。



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