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小指の契り

 恵とともに、木陰のベンチへと座る。公園の中を走り回る娘の無邪気な姿に、しみじみと心を奪われること、一時。ふと、我に返って、腕時計を確認する。

 そろそろ、会社へと向かうためのタイム・リミットが近付いていた。

 僕が、徐ろにベンチから立ち掛けたところに、折しも駆け寄ってきた結衣が、爛々と声を張る。

「ねえ、パパ。ゆい、逆上がりができるようになったんだよ」

「えっ、本当かい? すごいじゃないか」

 僕は、上体を大きく仰け反らせ、大いに驚いて見せた。結衣は、さらに口調を輝かせる。

「うん。それじゃあ、パパに見せてあげるっ」

 時間的な余裕も残り少なく、僕は、一瞬、躊躇する。それでも、勢い込む結衣は止らない。僕と恵の手を颯爽と掴み取る。そのまま僕らは、鉄棒が据えられた公園の一郭まで急き立てられる格好となった。

「それじゃあ、見ててね!」

 僕と恵を目の前へ立たせると、結衣は「よーし」とばかりに、鉄棒を握り締める。さらには「えいっ」とばかりに両足を跳ね上げる……も、勢いが足らず、虚しく地面へと不時着だ。

 結衣は「あれっ?」とばかりに、か細い首を傾げてから、再びチャレンジ……が、如何せん結果は同じで、それからも何度か同じ動作を繰り返した。

 結衣の奮闘を微笑ましく見守りながらも、僕の関心は次第に腕時計へと傾倒していく。それには、以心伝心の良妻だ。

 見るに見かねた恵が、結衣へと声を掛けた。

「ねえ、結衣ちゃん。また、今度にしたら? パパも、あまり時間がないみたいだから……」

 過ぎた妻譲りで、常から奥床しい五歳の幼女。

「で、でも……」

 しかるに、この時ばかりは、一歩も引かない。

「ゆい、できるんだからっ。本当よっ」

 憎っくき鉄棒を、ギリギリと握り締めながら、悲痛な声で訴える。愛娘の大きな瞳が、たちまち涙で満たされる。

「だ、大丈夫だよ、結衣。パパは、結衣ができるまで見ているから、がんばって続けてごらん」

 思わず口を衝いて出てしまった。それでも、心からの激励だ。

 結衣は、ぎゅっと歯を食いしばって頷き、か細い両腕を、再び忌々しき鉄棒へと絡めた。 慣れた幼稚園のそれよりは、いくらか高く、いささか太めの鉄棒らしたかったが、幼弱な体をして懸命にチャレンジする、結衣。

「そうそう、落ち着いて!」「もっと、勢いを付けて!」「もっと、腕に力を入れて!」

 僕と恵は、精一杯の声援を送った。

 それから暫くの時間を費やしたが、必死に挑戦し続けた結衣は、ようやく〝会心の一回〟を披露する。

 鉄棒に巻き付いた小さな体が、クルリと反回転。僕と恵の、祝福の喝采が鳴り響く。

「や、やったぁ」

 見事に着地も成功させた結衣は、照れくさそうに笑った。

 二重瞼の大きな瞳と、艶やかな長い髪。上気した頬と、額に浮かんだ大粒の汗。この上なく瑞々しい笑顔は……やはり、言葉にできない。

 僕は、無意識のうちに、結衣を高々と持ち上げていた。そのまま、胸へと抱え、取り出したハンカチで、そっと額の汗を拭ってやるのだ。途端に、火照った娘の温もりが、僕の全身へと染み渡る。

「動物園も、今度、必ず連れて行くからね」

 しみじみと発した僕の言葉に、結衣は、大きく頷きながら――

「うん。キリンさんの、いるところだよ!」

 小さな小指を、ひょこっと、突き立てた。

「ああ、約束だ」

 僕と、結衣は、指切りをしたんだ。

 静寂に包まれた新緑の公園で、清新な日差しが燦々と降り注ぐ、瑞々しいばかりの輝きの中で……。


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