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目前

 酔い醒ましの薬を体内に放り込み、僕は急いで会社へと出掛ける身支度を済ませた。

 ダイニング・テーブルの上には、先ほどまでトートバッグに収まっていた弁当が、ところを変えて豪華絢爛に広げられていた。

 僕の妻は、いつだって献身的だ。余りに見事な弁当は、随分と早起きをした成果であろう。

「ごめんなさい。朝食の用意をしていなくて……車の中で、おにぎりでも、って思っていたから」

 言い寄越す妻は、いつも通りに奥床しい。

 僕は、様々な動物の形を模したウインナーを一つ指で抓み、花柄の壁掛け時計に目をやった。

 今日は、大英製作所のプロジェクト・チームが、一堂に会する緊急ミーティングだ。とにかく、招集をかけた僕自身が遅れて行くわけにはいかない。

 それでも、十時から始まるその会議に出掛けるには、幾らか時間的な余裕があった。

「結衣。パパと一緒に、公園へ行こうか?」

 結衣は、頬張っていたフライド・ポテトも草々に放り出す。

「わーい、行く、行くーっ」

 嬉々として、座っていたイスから飛び降りた。

 握り飯を手にした、恵が言う。

「康司、時間は、大丈夫なの?」

 僕は、案ずる恵の手から、一口かじられた握り飯を奪い取り、

「ああ、少しなら、なんとかなる。恵も、一緒に行こう!」

 と声を掛けた。

「わーい! 早く、行こー」

 弾丸のごとくに飛びついてきた結衣を片手で抱え上げ、僕は、食べ掛けの握り飯を頬張った。

 外は昨日同様、酷暑を予感させる快晴だ。しかるに、日はまだ低い。目下は、なんとも清々しい日和であった。

 僕らのマンションの直ぐ近くには、割と気の利いた公園がある。敷地もそこそこ広く、設備もまずまず充実している。

 芽吹き盛んな新緑の公園は、土曜日とはいえ、その早朝に未だ静寂を保っていた。

「よーし、ジャングルジムまで、競走だ!」

 僕は、走り出す。

「あっ、待ってよぉ。パパ、ずるーい」

 遅れをとった結衣も、慌てて続いた。

「結衣ちゃーん。転ばないように、気をつけてよー」

 手の拡声器で叫ぶ恵は、どうやら参戦する意思がないようだ。

 ジャングルジムに先着したときには、僕の息は、すっかり上がっていた。

「もぉう。パパ、ずるーい。今度は、先に上まで登ったほうが、勝ちよ!」

 肩で息する僕を尻目に、今度は、結衣が先行した。

 学生時代こそ、バスケットボールで鳴らした僕である。しかるに、今では、すっかり怠慢な、三十代も半ばの疲弊しきった体力だ。あまつさえ、児戯に執心する無邪気な持久力には、到底、太刀打ちできるものではない。

「結衣ーっ。そんなに急いじゃ危ないよ」

 仰ぎ見る僕の心配をもよそに、結衣は颯爽と胸を張る。

「平気よ。ゆい、いつも、とっても早いんだからぁ」

 と言いながら、ひょこひょこと――

「おお、凄いね」

 なるほど、器用に登っていった。

 ジャングルジムの、てっぺんまで登頂するや、結衣は、やはり颯爽と胸を張る。清新な朝陽を背に掲げ、

「ゆいの、勝ちーっ」

 えっへんと、とばかりに勝ち名乗りをあげる。同時に、恵の拍手が後方で鳴った。

 僕は、笑顔の白旗を小さな勝利者へと贈ってから、木陰のベンチに陣取った恵の側へと歩み寄り、その隣に、ゆっくりと腰を下ろした。

 その後も、結衣は、十分な敷地にちりばめられた本日一番乗りの遊具を、次から次へと制覇していく。

 五歳の娘は、滑り台を滑る度に、ブランコを漕ぐ度に、平均台から飛び降りて見せる度に――満面の笑みで、僕らに手を振った。

 清々しい陽光を一身に浴びて、結衣が煌めく。瑞々しい光の中に、掛け替えのない輝きが躍動する。神々しいまでに照り映える一人娘の笑顔は……言葉にできない。

 そんな結衣の様子を、一心に眺めていた僕へと、恵が、いささか畏まった調子で言ってくる。

「ねぇ、康司。忙しくて大変なのは、解るんだけど……もう少し、あの子のために、時間、取れるようにならない?」

 僕は、しみじみ本心から頷く。

「ああ……」

 しみじみ心肝で噛み締める。

「そのつもりだ」

 でも……。

 もう、少しだ。あと、少しなんだ。娘のためにも、妻のためにも――そう、あと、ほんの少しなんだよ。


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小指の契り

 恵とともに、木陰のベンチへと座る。公園の中を走り回る娘の無邪気な姿に、しみじみと心を奪われること、一時。ふと、我に返って、腕時計を確認する。

 そろそろ、会社へと向かうためのタイム・リミットが近付いていた。

 僕が、徐ろにベンチから立ち掛けたところに、折しも駆け寄ってきた結衣が、爛々と声を張る。

「ねえ、パパ。ゆい、逆上がりができるようになったんだよ」

「えっ、本当かい? すごいじゃないか」

 僕は、上体を大きく仰け反らせ、大いに驚いて見せた。結衣は、さらに口調を輝かせる。

「うん。それじゃあ、パパに見せてあげるっ」

 時間的な余裕も残り少なく、僕は、一瞬、躊躇する。それでも、勢い込む結衣は止らない。僕と恵の手を颯爽と掴み取る。そのまま僕らは、鉄棒が据えられた公園の一郭まで急き立てられる格好となった。

「それじゃあ、見ててね!」

 僕と恵を目の前へ立たせると、結衣は「よーし」とばかりに、鉄棒を握り締める。さらには「えいっ」とばかりに両足を跳ね上げる……も、勢いが足らず、虚しく地面へと不時着だ。

 結衣は「あれっ?」とばかりに、か細い首を傾げてから、再びチャレンジ……が、如何せん結果は同じで、それからも何度か同じ動作を繰り返した。

 結衣の奮闘を微笑ましく見守りながらも、僕の関心は次第に腕時計へと傾倒していく。それには、以心伝心の良妻だ。

 見るに見かねた恵が、結衣へと声を掛けた。

「ねえ、結衣ちゃん。また、今度にしたら? パパも、あまり時間がないみたいだから……」

 過ぎた妻譲りで、常から奥床しい五歳の幼女。

「で、でも……」

 しかるに、この時ばかりは、一歩も引かない。

「ゆい、できるんだからっ。本当よっ」

 憎っくき鉄棒を、ギリギリと握り締めながら、悲痛な声で訴える。愛娘の大きな瞳が、たちまち涙で満たされる。

「だ、大丈夫だよ、結衣。パパは、結衣ができるまで見ているから、がんばって続けてごらん」

 思わず口を衝いて出てしまった。それでも、心からの激励だ。

 結衣は、ぎゅっと歯を食いしばって頷き、か細い両腕を、再び忌々しき鉄棒へと絡めた。 慣れた幼稚園のそれよりは、いくらか高く、いささか太めの鉄棒らしたかったが、幼弱な体をして懸命にチャレンジする、結衣。

「そうそう、落ち着いて!」「もっと、勢いを付けて!」「もっと、腕に力を入れて!」

 僕と恵は、精一杯の声援を送った。

 それから暫くの時間を費やしたが、必死に挑戦し続けた結衣は、ようやく〝会心の一回〟を披露する。

 鉄棒に巻き付いた小さな体が、クルリと反回転。僕と恵の、祝福の喝采が鳴り響く。

「や、やったぁ」

 見事に着地も成功させた結衣は、照れくさそうに笑った。

 二重瞼の大きな瞳と、艶やかな長い髪。上気した頬と、額に浮かんだ大粒の汗。この上なく瑞々しい笑顔は……やはり、言葉にできない。

 僕は、無意識のうちに、結衣を高々と持ち上げていた。そのまま、胸へと抱え、取り出したハンカチで、そっと額の汗を拭ってやるのだ。途端に、火照った娘の温もりが、僕の全身へと染み渡る。

「動物園も、今度、必ず連れて行くからね」

 しみじみと発した僕の言葉に、結衣は、大きく頷きながら――

「うん。キリンさんの、いるところだよ!」

 小さな小指を、ひょこっと、突き立てた。

「ああ、約束だ」

 僕と、結衣は、指切りをしたんだ。

 静寂に包まれた新緑の公園で、清新な日差しが燦々と降り注ぐ、瑞々しいばかりの輝きの中で……。


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