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過ぎた得心

 夢の中とはいえ、突然落下してきた岩石に、大いに魘される憂き目に遭った。が、果たして、その正体は結衣であった。

「パパぁ、起きてよー。もう、朝だよ」

 僕の腹の上へと馬乗った愛すべき小さな落石は、無邪気にして悪戯なる微笑みをもってして、渋々目を覚ました僕を、一途に覗き込んでいる。

「ねえ、パパってばー」

 僕の身に突如として降り掛かった一種の災いではあるものの、宝玉とでもいうべきこの落石を、みすみす振り払うわけにも、当然いかず……すなわち、てんで身動きの取れない無抵抗の僕は、布団の中から亀のように首を伸ばし、なんとか枕元の時計に目をやった。

 時刻は、まだ、七時前である。

「ずいぶん、早いんだなぁ、結衣……」

 僕は、重い瞼を擦りながら、往生際の悪さを見せてみる。

「そうよ。ゆい、とっても、早起きしたんだからぁ」

 五歳の娘は、そう言いながら、未だ起き上がる気配のない僕の腹の上で、ぴょこんぴょこんと飛び跳ねる。「これなら、どうだ」と言わんばかりの連続攻撃だ。

「いたたたっ」

 愛らしくもそれなりの重量感で、執拗に繰り返される落石の波状攻撃。術も術なさ、僕は、降伏するより手立てがない。

「まいった、まいった。降参だ」

 従順に、布団から這い出した僕に、結衣は、ニコッと勝利の笑顔を誇らせる。

 僕は、小さな勝利者を、ひょいと胸に抱き、そのまま、起立。愛しき宝玉を、高々と抱え上げるのだ。しかるに……。

 頭の芯から湧き上がってくる激しい鈍痛に見舞われ、敢えなく断念。愛娘を布団の上へと不時着させる格好になった。

 おまけに、食道を締め付ける、この焦熱感……まいった、二日酔いである。

 寝室の引戸を開けると、そこはリビング・ルームだ。大仰な応接セットが、我が物顔で幅を利かせている。リビングが狭いというよりは、いかんせん応接セットがデカ過ぎるのだ。なんということはない。購入する際に、サイズを計り間違えただけだ。

 僕は、覚束ない足取りで、ヨタヨタと寝室を出る。フローリングの床を、ペタペタと数歩。そのまま、大きなソファーに、ドサッと体を投げ出した。

 一続きのダイニングを挟んで、その奥がセミオープンタイプのキッチンになっている。水仕事に傾注していた恵が、すかさず手を休め、僕の元へと水を運んできてくれた。

 なみなみと注がれたコップの水を、一気に飲み干す。思わず「ううー」と、呻きを漏らす。

 昨晩は、即興で催された祝勝会の後、勢い、二件も梯子をする羽目となった。辛くも終電には飛び乗れたものの、山口らに付き合って、かなりの深酒をしてしまった。挙句、この二日酔いだ。激しい鈍痛が、ギリギリと、こめかみを締め付ける。

 まいったな……。 重々しく頭を振りながら、ふと、ダイニングに目をやる。小振りのダイニング・テーブルを見て、さらに困窮だ。僕は、一際の頭痛に苛まれることとなった。

 小さなリュックと、赤い水筒、おそらくは三人分の弁当で膨らんだトートバッグ。それらが、テーブルの上に、清々と支度されていた。

 ま、まいったな……。

 窮する僕に、恵は、憂い顔だ。

「康司、大丈夫? 夕べは、随分と遅かったみたいだけど……」

 恵の背後から、ひょっこりと顔を覗かせている結衣も、全身全霊で憂色を漂わせている。

 本当に、参った。強烈な二日酔いも、さることながら……

「あ、ああ……」

〝動物園〟だ。生憎、今日は大英製作所の受注獲得で、急遽、会社に出なくてはならない。

「実は、そのぉ……」

 言い淀む、僕。結衣の声は、消え入りそうだ。

「パパぁ、動物園、行けないの?」

「そ、それが……」

 言い倦む、僕。恵が、一段と眉を曇らせる。

「康司、もしかして、また、仕事?」

「す、すまん。昨日、大きな仕事が決まって、そのぉ、打ち合せが……」

 結衣の大きな瞳からは、今にも大量の涙が溢れ出しそうだった。

 恵は、いささか本気の渋面だ。

「昨日のうちに、電話してくれれば良かったのに」

 およそ部屋着とは思えない鮮やかなピンク色のカーディガンでめかした妻と、お気に入りの赤いリボンを髪に飾った娘に対して「忘れていた」とは、口が裂けても言えなかった。

「すまない。急に決まったもんだから……本当に大きな仕事で、そのぉ……とにかく、どうにもならないんだ」

 恵は、小さく溜息を吐くと、細身の体を翻す。肩をガックリと落として項垂れる結衣に、そっと、声を掛けた。

「結衣ちゃん。パパねぇ、大切なお仕事ができちゃったんだって」

「で、でも……」

 涙ぐむ娘の頬に、優しく手を当てて、さらに諭す。

「結衣ちゃん。いつも言っているでしょ。パパはねぇ、結衣ちゃんのために、一生懸命、お仕事をしているのよ。動物園は、また今度、連れて行ってもらおう、ね」

 結衣の瞳からは、大きな雫が、一粒だ。嫋やかな頬から、ポトリと滑り落ちた。

 僕も慌てて、娘の眼前へと膝をつく。

「ごめんよ、結衣。動物園は、今度、必ずっ、連れて行くから」

 結衣は、ゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳を大きく開く。

「キリンさんの、いるところだよ。必ず、だよ。絶対、だよ。約束、だよ!」

 と、小さな唇を、ぎゅっと結んだ。

 僕は、できる限り大きく頷き、できる限り切々と宣誓する。

「ああ。約束、だ!」

 懸命に涙を呑み込む、結衣。何分にも、ぎこちなくではあったが、それでも、精一杯の笑顔を見せてくれた。

 こめかみを締め付ける強烈な鈍痛は相変わらずだ。ただ、それにもまして……。

「わたった。許してあげる」

 まだ五歳の、まだ稚い娘の、それには過ぎた得心と、結衣が着ていたキリンのキャラクターが微笑むトレーナーに、この上なく胸が締め付けられた。


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目前

 酔い醒ましの薬を体内に放り込み、僕は急いで会社へと出掛ける身支度を済ませた。

 ダイニング・テーブルの上には、先ほどまでトートバッグに収まっていた弁当が、ところを変えて豪華絢爛に広げられていた。

 僕の妻は、いつだって献身的だ。余りに見事な弁当は、随分と早起きをした成果であろう。

「ごめんなさい。朝食の用意をしていなくて……車の中で、おにぎりでも、って思っていたから」

 言い寄越す妻は、いつも通りに奥床しい。

 僕は、様々な動物の形を模したウインナーを一つ指で抓み、花柄の壁掛け時計に目をやった。

 今日は、大英製作所のプロジェクト・チームが、一堂に会する緊急ミーティングだ。とにかく、招集をかけた僕自身が遅れて行くわけにはいかない。

 それでも、十時から始まるその会議に出掛けるには、幾らか時間的な余裕があった。

「結衣。パパと一緒に、公園へ行こうか?」

 結衣は、頬張っていたフライド・ポテトも草々に放り出す。

「わーい、行く、行くーっ」

 嬉々として、座っていたイスから飛び降りた。

 握り飯を手にした、恵が言う。

「康司、時間は、大丈夫なの?」

 僕は、案ずる恵の手から、一口かじられた握り飯を奪い取り、

「ああ、少しなら、なんとかなる。恵も、一緒に行こう!」

 と声を掛けた。

「わーい! 早く、行こー」

 弾丸のごとくに飛びついてきた結衣を片手で抱え上げ、僕は、食べ掛けの握り飯を頬張った。

 外は昨日同様、酷暑を予感させる快晴だ。しかるに、日はまだ低い。目下は、なんとも清々しい日和であった。

 僕らのマンションの直ぐ近くには、割と気の利いた公園がある。敷地もそこそこ広く、設備もまずまず充実している。

 芽吹き盛んな新緑の公園は、土曜日とはいえ、その早朝に未だ静寂を保っていた。

「よーし、ジャングルジムまで、競走だ!」

 僕は、走り出す。

「あっ、待ってよぉ。パパ、ずるーい」

 遅れをとった結衣も、慌てて続いた。

「結衣ちゃーん。転ばないように、気をつけてよー」

 手の拡声器で叫ぶ恵は、どうやら参戦する意思がないようだ。

 ジャングルジムに先着したときには、僕の息は、すっかり上がっていた。

「もぉう。パパ、ずるーい。今度は、先に上まで登ったほうが、勝ちよ!」

 肩で息する僕を尻目に、今度は、結衣が先行した。

 学生時代こそ、バスケットボールで鳴らした僕である。しかるに、今では、すっかり怠慢な、三十代も半ばの疲弊しきった体力だ。あまつさえ、児戯に執心する無邪気な持久力には、到底、太刀打ちできるものではない。

「結衣ーっ。そんなに急いじゃ危ないよ」

 仰ぎ見る僕の心配をもよそに、結衣は颯爽と胸を張る。

「平気よ。ゆい、いつも、とっても早いんだからぁ」

 と言いながら、ひょこひょこと――

「おお、凄いね」

 なるほど、器用に登っていった。

 ジャングルジムの、てっぺんまで登頂するや、結衣は、やはり颯爽と胸を張る。清新な朝陽を背に掲げ、

「ゆいの、勝ちーっ」

 えっへんと、とばかりに勝ち名乗りをあげる。同時に、恵の拍手が後方で鳴った。

 僕は、笑顔の白旗を小さな勝利者へと贈ってから、木陰のベンチに陣取った恵の側へと歩み寄り、その隣に、ゆっくりと腰を下ろした。

 その後も、結衣は、十分な敷地にちりばめられた本日一番乗りの遊具を、次から次へと制覇していく。

 五歳の娘は、滑り台を滑る度に、ブランコを漕ぐ度に、平均台から飛び降りて見せる度に――満面の笑みで、僕らに手を振った。

 清々しい陽光を一身に浴びて、結衣が煌めく。瑞々しい光の中に、掛け替えのない輝きが躍動する。神々しいまでに照り映える一人娘の笑顔は……言葉にできない。

 そんな結衣の様子を、一心に眺めていた僕へと、恵が、いささか畏まった調子で言ってくる。

「ねぇ、康司。忙しくて大変なのは、解るんだけど……もう少し、あの子のために、時間、取れるようにならない?」

 僕は、しみじみ本心から頷く。

「ああ……」

 しみじみ心肝で噛み締める。

「そのつもりだ」

 でも……。

 もう、少しだ。あと、少しなんだ。娘のためにも、妻のためにも――そう、あと、ほんの少しなんだよ。


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小指の契り

 恵とともに、木陰のベンチへと座る。公園の中を走り回る娘の無邪気な姿に、しみじみと心を奪われること、一時。ふと、我に返って、腕時計を確認する。

 そろそろ、会社へと向かうためのタイム・リミットが近付いていた。

 僕が、徐ろにベンチから立ち掛けたところに、折しも駆け寄ってきた結衣が、爛々と声を張る。

「ねえ、パパ。ゆい、逆上がりができるようになったんだよ」

「えっ、本当かい? すごいじゃないか」

 僕は、上体を大きく仰け反らせ、大いに驚いて見せた。結衣は、さらに口調を輝かせる。

「うん。それじゃあ、パパに見せてあげるっ」

 時間的な余裕も残り少なく、僕は、一瞬、躊躇する。それでも、勢い込む結衣は止らない。僕と恵の手を颯爽と掴み取る。そのまま僕らは、鉄棒が据えられた公園の一郭まで急き立てられる格好となった。

「それじゃあ、見ててね!」

 僕と恵を目の前へ立たせると、結衣は「よーし」とばかりに、鉄棒を握り締める。さらには「えいっ」とばかりに両足を跳ね上げる……も、勢いが足らず、虚しく地面へと不時着だ。

 結衣は「あれっ?」とばかりに、か細い首を傾げてから、再びチャレンジ……が、如何せん結果は同じで、それからも何度か同じ動作を繰り返した。

 結衣の奮闘を微笑ましく見守りながらも、僕の関心は次第に腕時計へと傾倒していく。それには、以心伝心の良妻だ。

 見るに見かねた恵が、結衣へと声を掛けた。

「ねえ、結衣ちゃん。また、今度にしたら? パパも、あまり時間がないみたいだから……」

 過ぎた妻譲りで、常から奥床しい五歳の幼女。

「で、でも……」

 しかるに、この時ばかりは、一歩も引かない。

「ゆい、できるんだからっ。本当よっ」

 憎っくき鉄棒を、ギリギリと握り締めながら、悲痛な声で訴える。愛娘の大きな瞳が、たちまち涙で満たされる。

「だ、大丈夫だよ、結衣。パパは、結衣ができるまで見ているから、がんばって続けてごらん」

 思わず口を衝いて出てしまった。それでも、心からの激励だ。

 結衣は、ぎゅっと歯を食いしばって頷き、か細い両腕を、再び忌々しき鉄棒へと絡めた。 慣れた幼稚園のそれよりは、いくらか高く、いささか太めの鉄棒らしたかったが、幼弱な体をして懸命にチャレンジする、結衣。

「そうそう、落ち着いて!」「もっと、勢いを付けて!」「もっと、腕に力を入れて!」

 僕と恵は、精一杯の声援を送った。

 それから暫くの時間を費やしたが、必死に挑戦し続けた結衣は、ようやく〝会心の一回〟を披露する。

 鉄棒に巻き付いた小さな体が、クルリと反回転。僕と恵の、祝福の喝采が鳴り響く。

「や、やったぁ」

 見事に着地も成功させた結衣は、照れくさそうに笑った。

 二重瞼の大きな瞳と、艶やかな長い髪。上気した頬と、額に浮かんだ大粒の汗。この上なく瑞々しい笑顔は……やはり、言葉にできない。

 僕は、無意識のうちに、結衣を高々と持ち上げていた。そのまま、胸へと抱え、取り出したハンカチで、そっと額の汗を拭ってやるのだ。途端に、火照った娘の温もりが、僕の全身へと染み渡る。

「動物園も、今度、必ず連れて行くからね」

 しみじみと発した僕の言葉に、結衣は、大きく頷きながら――

「うん。キリンさんの、いるところだよ!」

 小さな小指を、ひょこっと、突き立てた。

「ああ、約束だ」

 僕と、結衣は、指切りをしたんだ。

 静寂に包まれた新緑の公園で、清新な日差しが燦々と降り注ぐ、瑞々しいばかりの輝きの中で……。


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