閉じる


<<最初から読む

4 / 44ページ

試し読みできます

建設課の豪傑

 横浜へと向かう首都高速道路でも、断続渋滞の憂き目に遭った。

 水森の電話では「建設課にも現地へ急行するよう、手配をしておく」との算段であった。が、何分にも急な用向きだ。おそらく、直ぐには人の手当もできないであろう。

 建設課はその名が示す通り、請負物件に対する実際の建設工程そのものを取り仕切る部署である。さらには、既設物件に発生した瑕疵や、原因の究明、その修繕においても同課の処断は欠かせない。

 何時とも分かず、得意先から仰せ付かった御下命へと急ぎ馳せ参じる――僕ら営業課の任務は苛酷だ。一方で、種々雑多なクレームに、いつだって引く手数多の建設課の使命も、すなわち多忙なのである。

 原因はなんにせよ、精密な電子回路を取り扱う神谷電気にとって水漏れは一大事だ。今のところ製品に損害を与える惨事には至っていないようだが……僕の焦燥は否応なしに募った。

 それにしても、激しく滞留する車の多さには、改めて腹が立つ。おまけに、紛らわしに嵩んだタバコも、手持ちの分を全て吸い尽くす。

 その後の僕は、シートが軋む窮屈な社有車の運転席で、絶煙、空腹、酷暑、という熾烈な三重苦に、しばらくの間、じっと耐えなくてはならなかった……。

 神谷電気の横浜工場へと到着した頃には、午後の二時を大きく回っていた。

 受付にて気を揉むこと僅か、先方の山下が現れた。同工場の総務課長殿が、ただでさえ短い腰をさらに縮ませながら、なんとも卑屈な苦笑いとともに参上だ。僕の焦心苦慮は、どうやら過分だったようである。

「いやいや、木島さん、すみませんねぇ。実は、全く大したことないんだよ」

 山下は、そう言いながら、白髪優勢の頭を掻いた。

「でも、水が漏れたとか……」

「水漏れ、とは言っても、休憩室の床に、そのぉ、ほんの少し、染み出た程度でねぇ。どうも、大袈裟に伝わっちゃったみたいで……面目ない」

 いささか拍子抜けした僕ではあったが、取り敢えず自重した態度を保ち続ける。

「誠に申し訳ございません。大事に至らなくて何よりです。ただ、水漏れしている事実に変わりはありません。至急、担当部署に調査させますので……」

「ああ、その方なら、既に来てくれているよ」

 えっ、もう? 珍しく、手回しが良いな

  山下は、再びの苦笑とともに白髪頭を一掻き、そのまま僕を現場まで案内してくれた。

 当社の請負により、半年前に全面的な改築が施された神谷電気の横浜工場。先方の総務課長である山下の後に続き、僕は場内を歩いていく。

 さすがは目下〝売り出し中〟の神谷電気である。フル稼働する壮大な生産ラインを、すっぽりと収める工場のスケールには、改めて目を見張る。

 その築造の一役を担った者として、感慨深げに、あちらこちらを見渡しているうちに、問題の〝水漏れ現場〟へと到着した。

『休憩室』のプレートが、さも仰々しく貼られた無味な木製扉。その向こう側には、握り締めた携帯電話に向かって烈々と声を尖らせている一人の男がいた。

 豪放磊落を地で行く男――

「いやいや、違うって、そうじゃあないっ。だからぁ……な、なんだと、ふざけんな!」

 当社、建設課の西岡である。

 僕と山下の姿を認知した、西岡。一瞬、申し訳程度の目礼を配するも、その激高は全く遠慮を知らない。

「この野郎っ、いい加減にしやがれっ。誰に向って言ってんだっ!」

 携帯電話を相手取っての、荒ぶる豪傑。その有様に当てられて、山下は、しばらく唖然としていた。

 やがて山下は、お得意の苦笑いを浮かべながら、ここでも、白髪頭を一掻きだ。

「お帰りの際に、受付へ声を掛けて下さい。せめて、粗茶でも……」

 僕に耳打ちをしてから、いそいそと退散していった。

 部屋の中には複数の長机と、大量のパイプ椅子が整然と並べられている。それでも全体的にガランとした印象の、いかにも広々とした休憩室だ。

 その部屋中をまさに縦横無尽である。西岡のどすの利いた濁声が所狭しと響き渡っている。

 業界屈指のスケールを誇る神谷電気の横浜工場。そこの庶務全般を取り仕切る総務課長の山下をして、恐々と退散せしめる、当社、西岡の猛威……

  しかしながら、少なからず西岡の人となりを承知している僕にとっては、さして珍しい光景ではない。

「それじゃあ駄目だっ」「そうそう、明日だよ」「はあ? 休みなんて、関係ないだろうが。そもそも、お宅らが、施行した箇所なんだっ」

 西岡は一頻り捲し立てると、舌打ちを一つ。

「じゃあ、そういうことで……」

 携帯電話を、バチンッと畳んだ。さらには、大きな溜息に険を溶き、ようやく僕に向かって片手を上げる。

「西岡課長、自らのご出陣ですか?」 「ああ、人手不足でな。増員要求も、ままならん。まったく、うちの会社の人使いの荒さは、天下一品だよ。まあ、オレも人のことは言えんが、な」

 そう言いながら、引く手あまたの建設課を率いる豪傑は、大きな体を豪快に揺らした。

「先程の電話は、下請ですか?」

「ああ、細野工務店の社長だ」

 細野工務店は、当社の下請業者である。当該工場の改築工事においても、仕上げ工程を担当したはずだ。

「明日にでも直せ、と言ったんだよ」

 そう言いながら、顰めっ面の西岡は、部屋の隅のほうを指差した。

 西岡が指し示したのは、壁際の床面だ。そこに敷き詰められたグレーのカーペット・タイルに、僕は、よくよく目を凝らす。言われてみれば、なるほどだ。そこには、確かに水が染み出たのであろう形跡だ。

 ただし、なんとも些細なシミである。まったく、先方の山下が、僕らの緊急対応に対して、酷く恐縮するわけだ……。

「自分たちの杜撰な仕事を棚に上げて、人工の都合が付かない、なんて言いやがる。それじゃあ、自分でやれ、と言ってやったんだよ。そしたら、細野工務店の、あの狸オヤジ……やれ体の調子が悪いだの、やれ野暮用があるだの、下らない御託を並べ立てやがるっ」

 気色ばむ西岡は、舌打ちを挟んで、さらに続ける。

「まったく〝帝友会〟にも困ったもんだ。加盟さえしてりゃあ、その身も安泰だと思っていやがる」

 帝友会とは、当社の主だった下請業者や協力会社からなる、いわゆる親睦組織だ。大手ゼネコンの下には、その育成や結束を目的とした同種の組織が、大抵の場合で設けられている。

「日曜日には、その帝友会の、ゴルフ・コンペもありますしね」

 僕の言葉に、西岡は、一層、顔を顰める。

「そうか、あの〝ゴルフきちがい〟めぇ。練習ラウンドにでも出掛けるつもりでいやがったんだなっ」

 明後日の日曜日に大々的に催される帝友会の『親睦ゴルフ・コンペ』は、年に一度の恒例行事だ。それには、僕も参加させられる羽目となっていた。得意先の婚儀に駆り出された水森の名代である。

「細野工務店の社長は、ディフェンディング・チャンピオンですからね。でも、結局は、明日の修復作業を承諾させたんでしょ? 毎度のことながら、西岡課長の仕事の速さには敬服します」

「こういうことは、とにかくスピードが肝心だ。後回しにすると、ろくなことがないからな」

 豪傑の粗暴な言動は、ある意味、巧妙だ。一癖も二癖もある下請業者の手綱をしっかりと握り、自由自在に操るために体得した、西岡流のやり口なのだ。

 その実、謙虚な仕事ぶりと、それに対して人一倍の情熱を注ぐ西岡のことは、大いに信頼できる。その豪傑によると……。

 今回の瑕疵は「壁面に取付けられた空気口のシーリングが甘く、そこから、ここ数日の雨水が侵入。壁を伝って、床から滲み出した」との釈明であった。

 さらに、巧妙な西岡は「同室内に設置されていた〝簡易流し〟や、隣接する〝大層な従業員用のトイレ〟の配管も、入念に踏査した結果である」旨を付け加えた。

 とにかく、大事には至らず、何よりであった

 帰り際に状況の報告を兼ねて、再び、先方の山下を訪ねた。 山下は、先ほどとは打って変わって平身低頭な西岡の豹変ぶりに、またしても唖然とさせられていたが、

「帝都建設さんの、迅速かつ誠意ある対応を、当社の上層部にも、きちんと報告させてもらうよ」

 との言葉を添え、満面の笑みにて応じてくれた。

  山下には、粗茶ならぬ落としたてのコーヒーと高級クッキーで手厚く持て成され、しばし雑談。その後、僕と西岡は、神谷電気の横浜工場を後にした。


試し読みできます

エースの〝間〟

 神谷電気の横浜工場から会社へと戻る車には「電車で来た」と言う、西岡が便乗した。

 だいぶ傾いたとはいえ、盛夏もどきの強烈な日差しに曝されていた商用ライトバン。その車内は、サウナ風呂さながらに蒸し返っていた。

 西岡は、助手席に座るや否や、エアコンの操作スイッチやら送風口やらを慌ただしく弄くり回す。発車して早々、分厚い顔面を汗まみれにしていた。

 別に僕が詫びる筋合いの問題でもないのだが、なんとなく心苦しく、取り敢えずは、丁重に頭を下げてみる。

「すみません。この社有車、どうも、エアコンの調子が悪くて……」

「当社のエースに、こんなオンボロ車を宛がっているようじゃあ、水森の野郎っ、どうしようもねぇなあっ」

 建設課の課長であるこの豪傑と、我が営業一課を率いる優男は、外でもない同期生である。見てくれも中身も、火と氷ほどに正反対な二人である。が、僕の上司である水森に向けられた西岡の悪態めいた物言いは、その実、気心の知れた同輩に対する、日頃からの〝親交の深さ〟を感じさせる言い草でもあった。

「エースだなんて、とんでもありません」

 僕はハンドルを握りながらも、控え目に肩をすぼめてみせた。

「何を言ってやがる。さっきの神谷電気に続き〝大英製作所の特命受注〟も、既に当確らしいじゃないか。おまけに、二件とも他社からの奪取とくりゃあ、そんな離れ業をやって退けらるヤツは、社内広しといえど、お前の他にいやしないだろう」

「え! 大英製作所の件は、まだ、何も……」

「あれぇ、そうだったかぁ?」

 果たして、この人は、僕を茶化しているのだろうか?

「まったくもう、西岡課長。へんなプレッシャーをかけるのは、やめてくださいよぉ」

 僕のムクれた様子が笑壷に入ったのか――

「そんな弱気で、どうするよ!」

 と言い放ち、西岡は高らかに笑った。

「はあ……」

 僕は、控え目に畏まる。そこに、豪傑の次なる〝口撃〟だ。

「まあ、なんにしても、君は良くやっているよ。水森も、出る幕がない、ってボヤいていたぞ」

「えっ、水森課長が、ですか?」

〝ボヤく〟という言葉の真意を見出せず、僕は、思わず眉を顰めてしまった。

 西岡は、そんな僕の心中を察したかのように――

「まあ、ヤツは滅多なことでは、人を誉めたりしないからな。キザなアイツらしい、最高の賞賛だよ」

 と、今度は朗らかに笑った。

「はあ……」

 西岡は、全くもって豪放磊落だ。

「とにかく、そんなに、シケた面、すんな、よっ!」

 畏まる僕の肩を、いきなり、ドカンと叩き付ける。走行中の車が折しもカーブへと差し掛かった途端だったから、堪らない。

「うわぁ! ちょ、ちょっと、危ないじゃないですかぁ」

 僕は、大いにフラついた車体を、懸命に立て直す。その焦りようが、よっぽど笑壷を刺激したのか、西岡は、肉厚の巨体にシートベルトを食い込ませながら、しばらく大笑していた。

 ようやく笑いを静めた豪傑は、性懲りもなく、気任せな大口をたたく。

「ハァ、可笑しい。まあ、そんなに心配するな。大英製作所の件も、そのうち〝吉報〟が届くさ」

 僕は、溜息混じりに返答だ。

「また、そんな気休めを」

 やはり、豪放磊落を地で行く男――

「気休めなもんかっ。これは、オレ様のカンだ。と言うより〝間〟の問題だよ〝マ〟の」

 今度は、自儘な講釈をとうとうと垂れ始めた。

「なんですか、それ?」

「いいかぁ。好調なとき、ってのは、すなわち〝間が良い〟ときなんだよ」

「〝マ〟……ですか?」

「そうだ〝マ〟だ。間が良いとき、ってのは、何をやっても、うまくいくものさ」

 まったく、この人は、僕をからかっているんだか、バカにしているんだか……。

「西岡課長、それって、ただ単に、運が良い、ってことですか?」

「それは、違うぞ、木島。うーん、なんというか〝巡り合わせ〟というのか、あるいは〝タイミング〟というのか、それとも〝バランス〟とでもいうのか……」

 言葉に詰まること、瞬刻。西岡は、何かをひらめいたかのように、メラメラと口調を輝かせる。

「いいかぁ、木島っ。まずは〝ハードル〟を、思い浮かべてみろ」

「ハードル、って陸上の〝ハードル競技〟のことですか?」

「そうだ。いいかぁ、ハードル競技ってのはなぁ、タイミングこそが肝心なんだよ。それこそ〝マ〟が命なんだ。〝マ〟を外したんじゃあ、決して良い記録は期待できん」

 この人は、一体、何を言い出したんだ?

「万が一、ハードルに躓いてバランスを崩したら、その後、レース中に態勢を立て直すのは容易じゃない。あるいは、順調に幾つかのハードルを越えられたとしても、途中で躊躇したり、集中力を欠いてしまったら、結果は、やはり散々だ」

 このオジさんは、一体全体、何が言いたいんだ?

「要するに、だ。次から次へと、巡ってくるハードルを、着実なリズムをもってして、バランス良く飛び越え、とにかく、だ。ゴールだけを見据えて脇目を振らず、積極果敢に邁進するんだ」

 このオヤジ……。

「それでこそ、仕事上の〝障壁〟も、行く手に立ちはだかる〝ハードル〟も、タイミング良く、無事に越えていける、ってことだ」

 結局、なんということはない。仕事上の〝障壁〟と、陸上競技の〝ハードル〟を掛けた、単なるダジャレだ。

 会心のオヤジ・ギャグを炸裂させた助手席の豪傑は、殊の外ご満悦の様子である。

「どうだね、木島係長。ご理解、いただけたかね?」

 オッホン、と態とがましい咳払いまで添えて見せる西岡であった。

 ただでさえ蒸し返った車内で、西岡の言動に、いささかの暑苦しさを覚えた僕は、

「は、はあ……」

 煮詰まった、半笑いを浮かべるしかない。それでも西岡は、やはり、豪放磊落だ。

「だからぁ。そのシケた面がいけないんだ。それじゃあ〝運〟も逃げちまうぞ!」

「なぁんだ。結局は、運じゃないですかぁ」

「あっ、と。い、いや、今のは、違う……バ、バカ野郎!」

 豪傑による、照れ隠しの逆ギレだ。今度は、頭でも小突かれそうな勢いだったので、咄嗟に身構える。ハンドルを握り締めながら、大袈裟な警戒態勢に入った、僕。

 その有様が、笑壷どころか、全身のありとあらゆるツボを刺激したらしい。西岡は、でっかい図体を右に左にくねらせる。オンボロ社有車のシートが潰れるほどに、いつまでも笑い転げていた。

「……ハァ、可笑しい。まあ、とにかく、だ。せっかく、良いリズムで仕事ができているんだ。細かいことは気にせずに、ガンガン、目の前のハードルを越えて行けぃ!」

 まったく、なんとも〝間の抜けた〟西岡の激励であった。が、帰りの道中は、それこそ〝間が良かった〟のか、目立った渋滞には遭わずに済んだ。

 何より、絶妙の〝間〟といえたのは、その日の夕刻だ。

 会社に戻った僕の元へと、まさに〝間髪を容れず〟である。ジャストのタイミングで、西岡のいうところの「吉報」が届けられたのだ。

『大英製作所、新本社ビル建設プロジェクト――特命受注、獲得!』

 僕は、また一つ、耀かしいハードルを飛び越えたようだ。


試し読みできます

殊勲

「えーっ、皆も既に承知の通り、木島係長が中心となって進めてくれていた〝大英製作所の新本社ビル建設工事 〟を、この度っ、見事っ、当社がっ、特命でっ、受注することができたっ」

 上座から一同を見渡し、声も高らかに宣する、直属の上司。

「これも、ひとえに、木島係長の活躍――」

 課長の水森は、座敷の末席から、ひしひしと注がれる山口の視線に気付き、コホンッと咳払いを挟む。

「な、並びに、それを支えた〝山口〟くん、さらには、協力をしてくれた課員全員の殊勲です」

 山口のこれ見よがしな得意顔に、皆、吹き出しそうであった。水森が失笑を堪えて、一段と声を張る

 「それでは、カンパーイ!」

 その音頭に、総勢十名がビール・ジョッキを掲げると、一気に場が和む。それを制するのは、やはり、水森の大音声だ。

「えーっ、何分にも急な開催で、残念ながら、北原部長の都合がつかなかった。が、部長からは、大変、有り難いことに、手厚い心付けを頂戴したっ」

 プレゼンを終えた翌日だ。大英製作所から、思わぬ早さで勝報が届けられたその晩である。即興の祝勝会が催されたのだ。

 そこに、部長の北原から飲み代が給された、という更なる吉報が重なった。金曜日の夜に活況を呈する居酒屋にあって、参加者一同による一際の喝采が轟いた。

 皆の歓喜が一段落するのを待ってから、水森は、さらに続ける。

「えーっ、あとの足りない分は……私が、持つ! みんな、今夜は遠慮なくやってくれっ」

 喝采は、絶叫を伴って狂気と化した。各々が勝手次第に注文の声を張り上げる。我先にと殺気立つ一団に、半被姿の定員は、しばらく悪戦苦闘を余儀なくされていた。

 仕事上、酒の席には事欠かない。それでも、身内だけで、しかも、営業一課の全員で座を囲むのは、随分と久しぶりだ。決して酒に弱いほうではなかったが、この日は、格段に酔いの回りが早かった。

 日中から続いた蒸し暑さも手伝って、冷えたビールが空きっ腹に染み入った。さらには、当然の仕打ちとして、献杯の集中砲火を浴びた。

 僕個人としては、粒々辛苦で勝ち得た今回の成果は元より、仲間からの労いが、とにかく嬉しかった。また、何よりも、ホッとした。

 自らは無意識を装ってはいたが『過剰な期待』や『大袈裟な羨望』、果ては『先走った賞賛』などといった無類の重圧から、取り敢えずは開放されたのだ。今の僕の心境は『喜び』というよりは、やはり『安堵』と表したほうが的確である。

 ビールから焼酎、あるいは日本酒に場の趣が変わる頃には『体育会系、佐々木』と『意外の芸達者、山口』が、一段と祝宴を盛り上げた。中でも、山口が披露した極々限られた身内を対象とする『局地的なモノマネ』は、盛会に殊更の勲を立てた。

 演目にして『山口自身を叱る、事務員さん』では、指を使って極限まで眉を吊り上げた。的にされた田所美香は、酒で上気した頬をさらに真っ赤に染めていた。持ち前の童顔を、やはり極限まで吊り上げて、まさに本気の猛抗議であった。

 角張った動きで見事に特徴を捉えた『水森課長流、電話の受け方』は、皆に共感の笑いを得る。当の水森も、珍しく溜飲を下げきった様子で、爆笑していた。

 勇気を振り絞って披露した『クールな大滝主任が、思ったよりも熱かったコーヒーを飲んだときの慌て方』には、それこそ、一同が抱腹絶倒だ。まさかの標的とされた大滝自身は、仕方なく、といった感じで苦笑していた。

 そこまでは、完全に場の主役へと君臨した、山口。しかるに、殊勲の芸達者も、いつの間にやら、酒豪との誉れ高き佐々木の『体育会系、イッキ飲み』の餌食と成り果てていった。

 その擾乱ぶりを横目に、我関せず、といった感じで、淡々と手酌の日本酒を啜っていた、クールな大滝。僕は、自らの盃を差し出しながら、懇ろに声を掛けた。

「どうだ、大滝、そっちの仕事は?」

「まあ、今のところは、切羽詰まる案件もありませんし、どうってことはないですよ。それより、木島係長。今回も、まったく見事なお手並みですね。敬服しますよ。こんな僕でも、何かお役に立てることがあったら、遠慮なく言って下さい」

 いつでも実直にことを成す、俊士なるかな当課の主任。独特の淡々とした口調は、酒の席でも一向に変わらない。

「ありがとう。君が、そう言ってくれると、本当に頼もしいよ」

 本音で返した僕の愛想にも、大滝は表情一つ変えず、淡々と酌を取る。

「いいえ、後輩社員として、当然です」

 そういえば、大滝が本気で笑った顔って、一度も見たことがないな……。

 宴も酣といった頃合いに、僕の隣へと割り込んできたのは、ぐでんぐでんに失墜した芸達者である。

 両手に徳利をブラ提げながらの山口は、既に異次元の人と化している。呂律の回らぬ猫撫で声で、理解不能な、くだを巻く。

「木島係長っ。オレ、いや、ボク、あ、ワタクシは、本当に、うれしいです。ホントに、ホントに、ありがとう、ごじゃいます、ですっ」

 山口は携えていた片方の徳利で、無理矢理、僕の盃へと酒を注ぐ。

「未来建設のヤツらめぇ、ざまあ見ろっ、てんだぁーっ」

 異次元の彼方にまで届かんばかりの雄叫びだ。次いで、もう一方の徳利へとかぶりつき、そのまま天を仰いで、一気に飲み干した。

「オレ、いや、ボク、ホントに、悔しかったんです。アイツらだけには、絶対に、負けたくなったんです」

 以前、大英製作所へと、単身で書類を届けさせた際である。半人前の山口は、偶々鉢合わせた未来建設の連中に、どうやら中傷めいた当て付けを食わされたらしく――当時「それも、ヤツらの手の内だから、気にするな」と慰めてはやったが、やはり、当の山口は、相当、腹に据えかねていたようだ。

「お前も、本当に良くやってくれたよ。未来建設に勝てたのも、お前が頑張ってくれたお陰だ。お疲れさん!」

 との、僕が返した立前での御愛想に、山口は、本当に泣き出してしまった。

 肩をすぼめて啜り泣く、とってもしおらしい新米社員。僕が本音で同情を寄せたのも束の間だ。

「おいおい、山口。しっかりしろよ。うれし涙を流すのは、まだ早いだろ。これからが、本当の勝負なんだぞ」

 と、僕が励ますと――

「は、はいっ。解っておりますっ」

 半人前のお調子者は、勢いよく顔を上げ、直ぐさま、一転である。大層に肩を怒らせ、清々と鼻息を荒くした。

「オレ、いや、不肖、山口上等兵。命ある限り、全力で尽くします。木島大佐、なんなりと、お命じください!」

「おいおい、大佐は、言い過ぎだろう」

 しかも、お前はどう考えても、上等兵ではなく二等兵、いや、場合によっては、それ以下の……。

「でも、木島係長。本当に、オレ、がんばります。係長のように、なりたいんです。任せて下さい。オレ、なんでも、やりますからっ」

 さらには、再び、異次元の彼方に向けての、大音声。

「よーしぃ、いいもの、造るぞーっ!」

 山口の、渾身の決意表明であった。

 が、ネクタイを頭に巻いた雑兵の言葉には、説得力の欠片もなかった。


試し読みできます

過ぎた得心

 夢の中とはいえ、突然落下してきた岩石に、大いに魘される憂き目に遭った。が、果たして、その正体は結衣であった。

「パパぁ、起きてよー。もう、朝だよ」

 僕の腹の上へと馬乗った愛すべき小さな落石は、無邪気にして悪戯なる微笑みをもってして、渋々目を覚ました僕を、一途に覗き込んでいる。

「ねえ、パパってばー」

 僕の身に突如として降り掛かった一種の災いではあるものの、宝玉とでもいうべきこの落石を、みすみす振り払うわけにも、当然いかず……すなわち、てんで身動きの取れない無抵抗の僕は、布団の中から亀のように首を伸ばし、なんとか枕元の時計に目をやった。

 時刻は、まだ、七時前である。

「ずいぶん、早いんだなぁ、結衣……」

 僕は、重い瞼を擦りながら、往生際の悪さを見せてみる。

「そうよ。ゆい、とっても、早起きしたんだからぁ」

 五歳の娘は、そう言いながら、未だ起き上がる気配のない僕の腹の上で、ぴょこんぴょこんと飛び跳ねる。「これなら、どうだ」と言わんばかりの連続攻撃だ。

「いたたたっ」

 愛らしくもそれなりの重量感で、執拗に繰り返される落石の波状攻撃。術も術なさ、僕は、降伏するより手立てがない。

「まいった、まいった。降参だ」

 従順に、布団から這い出した僕に、結衣は、ニコッと勝利の笑顔を誇らせる。

 僕は、小さな勝利者を、ひょいと胸に抱き、そのまま、起立。愛しき宝玉を、高々と抱え上げるのだ。しかるに……。

 頭の芯から湧き上がってくる激しい鈍痛に見舞われ、敢えなく断念。愛娘を布団の上へと不時着させる格好になった。

 おまけに、食道を締め付ける、この焦熱感……まいった、二日酔いである。

 寝室の引戸を開けると、そこはリビング・ルームだ。大仰な応接セットが、我が物顔で幅を利かせている。リビングが狭いというよりは、いかんせん応接セットがデカ過ぎるのだ。なんということはない。購入する際に、サイズを計り間違えただけだ。

 僕は、覚束ない足取りで、ヨタヨタと寝室を出る。フローリングの床を、ペタペタと数歩。そのまま、大きなソファーに、ドサッと体を投げ出した。

 一続きのダイニングを挟んで、その奥がセミオープンタイプのキッチンになっている。水仕事に傾注していた恵が、すかさず手を休め、僕の元へと水を運んできてくれた。

 なみなみと注がれたコップの水を、一気に飲み干す。思わず「ううー」と、呻きを漏らす。

 昨晩は、即興で催された祝勝会の後、勢い、二件も梯子をする羽目となった。辛くも終電には飛び乗れたものの、山口らに付き合って、かなりの深酒をしてしまった。挙句、この二日酔いだ。激しい鈍痛が、ギリギリと、こめかみを締め付ける。

 まいったな……。 重々しく頭を振りながら、ふと、ダイニングに目をやる。小振りのダイニング・テーブルを見て、さらに困窮だ。僕は、一際の頭痛に苛まれることとなった。

 小さなリュックと、赤い水筒、おそらくは三人分の弁当で膨らんだトートバッグ。それらが、テーブルの上に、清々と支度されていた。

 ま、まいったな……。

 窮する僕に、恵は、憂い顔だ。

「康司、大丈夫? 夕べは、随分と遅かったみたいだけど……」

 恵の背後から、ひょっこりと顔を覗かせている結衣も、全身全霊で憂色を漂わせている。

 本当に、参った。強烈な二日酔いも、さることながら……

「あ、ああ……」

〝動物園〟だ。生憎、今日は大英製作所の受注獲得で、急遽、会社に出なくてはならない。

「実は、そのぉ……」

 言い淀む、僕。結衣の声は、消え入りそうだ。

「パパぁ、動物園、行けないの?」

「そ、それが……」

 言い倦む、僕。恵が、一段と眉を曇らせる。

「康司、もしかして、また、仕事?」

「す、すまん。昨日、大きな仕事が決まって、そのぉ、打ち合せが……」

 結衣の大きな瞳からは、今にも大量の涙が溢れ出しそうだった。

 恵は、いささか本気の渋面だ。

「昨日のうちに、電話してくれれば良かったのに」

 およそ部屋着とは思えない鮮やかなピンク色のカーディガンでめかした妻と、お気に入りの赤いリボンを髪に飾った娘に対して「忘れていた」とは、口が裂けても言えなかった。

「すまない。急に決まったもんだから……本当に大きな仕事で、そのぉ……とにかく、どうにもならないんだ」

 恵は、小さく溜息を吐くと、細身の体を翻す。肩をガックリと落として項垂れる結衣に、そっと、声を掛けた。

「結衣ちゃん。パパねぇ、大切なお仕事ができちゃったんだって」

「で、でも……」

 涙ぐむ娘の頬に、優しく手を当てて、さらに諭す。

「結衣ちゃん。いつも言っているでしょ。パパはねぇ、結衣ちゃんのために、一生懸命、お仕事をしているのよ。動物園は、また今度、連れて行ってもらおう、ね」

 結衣の瞳からは、大きな雫が、一粒だ。嫋やかな頬から、ポトリと滑り落ちた。

 僕も慌てて、娘の眼前へと膝をつく。

「ごめんよ、結衣。動物園は、今度、必ずっ、連れて行くから」

 結衣は、ゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳を大きく開く。

「キリンさんの、いるところだよ。必ず、だよ。絶対、だよ。約束、だよ!」

 と、小さな唇を、ぎゅっと結んだ。

 僕は、できる限り大きく頷き、できる限り切々と宣誓する。

「ああ。約束、だ!」

 懸命に涙を呑み込む、結衣。何分にも、ぎこちなくではあったが、それでも、精一杯の笑顔を見せてくれた。

 こめかみを締め付ける強烈な鈍痛は相変わらずだ。ただ、それにもまして……。

「わたった。許してあげる」

 まだ五歳の、まだ稚い娘の、それには過ぎた得心と、結衣が着ていたキリンのキャラクターが微笑むトレーナーに、この上なく胸が締め付けられた。


試し読みできます

目前

 酔い醒ましの薬を体内に放り込み、僕は急いで会社へと出掛ける身支度を済ませた。

 ダイニング・テーブルの上には、先ほどまでトートバッグに収まっていた弁当が、ところを変えて豪華絢爛に広げられていた。

 僕の妻は、いつだって献身的だ。余りに見事な弁当は、随分と早起きをした成果であろう。

「ごめんなさい。朝食の用意をしていなくて……車の中で、おにぎりでも、って思っていたから」

 言い寄越す妻は、いつも通りに奥床しい。

 僕は、様々な動物の形を模したウインナーを一つ指で抓み、花柄の壁掛け時計に目をやった。

 今日は、大英製作所のプロジェクト・チームが、一堂に会する緊急ミーティングだ。とにかく、招集をかけた僕自身が遅れて行くわけにはいかない。

 それでも、十時から始まるその会議に出掛けるには、幾らか時間的な余裕があった。

「結衣。パパと一緒に、公園へ行こうか?」

 結衣は、頬張っていたフライド・ポテトも草々に放り出す。

「わーい、行く、行くーっ」

 嬉々として、座っていたイスから飛び降りた。

 握り飯を手にした、恵が言う。

「康司、時間は、大丈夫なの?」

 僕は、案ずる恵の手から、一口かじられた握り飯を奪い取り、

「ああ、少しなら、なんとかなる。恵も、一緒に行こう!」

 と声を掛けた。

「わーい! 早く、行こー」

 弾丸のごとくに飛びついてきた結衣を片手で抱え上げ、僕は、食べ掛けの握り飯を頬張った。

 外は昨日同様、酷暑を予感させる快晴だ。しかるに、日はまだ低い。目下は、なんとも清々しい日和であった。

 僕らのマンションの直ぐ近くには、割と気の利いた公園がある。敷地もそこそこ広く、設備もまずまず充実している。

 芽吹き盛んな新緑の公園は、土曜日とはいえ、その早朝に未だ静寂を保っていた。

「よーし、ジャングルジムまで、競走だ!」

 僕は、走り出す。

「あっ、待ってよぉ。パパ、ずるーい」

 遅れをとった結衣も、慌てて続いた。

「結衣ちゃーん。転ばないように、気をつけてよー」

 手の拡声器で叫ぶ恵は、どうやら参戦する意思がないようだ。

 ジャングルジムに先着したときには、僕の息は、すっかり上がっていた。

「もぉう。パパ、ずるーい。今度は、先に上まで登ったほうが、勝ちよ!」

 肩で息する僕を尻目に、今度は、結衣が先行した。

 学生時代こそ、バスケットボールで鳴らした僕である。しかるに、今では、すっかり怠慢な、三十代も半ばの疲弊しきった体力だ。あまつさえ、児戯に執心する無邪気な持久力には、到底、太刀打ちできるものではない。

「結衣ーっ。そんなに急いじゃ危ないよ」

 仰ぎ見る僕の心配をもよそに、結衣は颯爽と胸を張る。

「平気よ。ゆい、いつも、とっても早いんだからぁ」

 と言いながら、ひょこひょこと――

「おお、凄いね」

 なるほど、器用に登っていった。

 ジャングルジムの、てっぺんまで登頂するや、結衣は、やはり颯爽と胸を張る。清新な朝陽を背に掲げ、

「ゆいの、勝ちーっ」

 えっへんと、とばかりに勝ち名乗りをあげる。同時に、恵の拍手が後方で鳴った。

 僕は、笑顔の白旗を小さな勝利者へと贈ってから、木陰のベンチに陣取った恵の側へと歩み寄り、その隣に、ゆっくりと腰を下ろした。

 その後も、結衣は、十分な敷地にちりばめられた本日一番乗りの遊具を、次から次へと制覇していく。

 五歳の娘は、滑り台を滑る度に、ブランコを漕ぐ度に、平均台から飛び降りて見せる度に――満面の笑みで、僕らに手を振った。

 清々しい陽光を一身に浴びて、結衣が煌めく。瑞々しい光の中に、掛け替えのない輝きが躍動する。神々しいまでに照り映える一人娘の笑顔は……言葉にできない。

 そんな結衣の様子を、一心に眺めていた僕へと、恵が、いささか畏まった調子で言ってくる。

「ねぇ、康司。忙しくて大変なのは、解るんだけど……もう少し、あの子のために、時間、取れるようにならない?」

 僕は、しみじみ本心から頷く。

「ああ……」

 しみじみ心肝で噛み締める。

「そのつもりだ」

 でも……。

 もう、少しだ。あと、少しなんだ。娘のためにも、妻のためにも――そう、あと、ほんの少しなんだよ。



読者登録

茜一矢さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について