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第一章 一大プロジエクト

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一大プロジエクト

 枕元の時計は午前七時を少し回り、暮春の艶やかな朝陽が、寝室の黄色いカーテンを一層鮮やかに透かしている。

 いつになく爽快に目覚めた僕の隣では、娘の結衣がまだ眠っている。

 現在、五歳になる一人娘の寝顔は、何ともいえずに……瑞々しい。

 部屋中にあふれる散光が産毛の頬に跳ね返り、幼子の嫋やかな輪郭を神々しいまでにめかしている。

 慎ましく開いた鼻孔からは、奥床しくも小気味の好い寝息が漏れ聞こえ、いとけなくも懸命なる命の脈動を、僕の心にまざまざと訴えるのだ。

 額にかかった、か細い髪を、手櫛で、そっと払ってやる……。

 掛け替えのない愛娘の寝顔は、いつだって狂おしいほどの光輝を放ち、その度に、僕の心をどこまでも瑞々しく潤してくれる。

 寝室を出ると、ダイニングルームにも、お馴染みの光景が広がっていた。

 キッチンのカウンターから妻の恵が顔を出し、元から晴れやかな声を一層陽気に弾ませる。

「おはよう、康司。食事、もう直ぐできるわ」

 僕は一笑をもって応え、ダイニングのテーブルへと着いた。

 そこから一続きのリビングでは、テレビが小さめの音量で点いている。見慣れたキャスターが『今日の天気』を報じているところだ。

 僕は、それを眺めながら……むしろ、昨日の出来事を思い出していた。

〝総工費、百億円〟

 大英製作所の『新本社ビル建設工事』は、僕が勤務する帝都建設にとっても一大プロジェクトといえた。

 プロジェクト・リーダーとしての僕に課せられた使命は、取り分け重要だ。

〝特命受注を獲得すること〟

  ここのところ、まさに掛り切りで、その任へと当っている。粉骨砕身、不眠不休、僕の日常は、すなわち多忙を極めていた。

  しかして、ようやくだ。一社独占の随意契約が見込まれる希代の一大プロジェクト。その大計は、今まさにクライマックスを迎えていたのだ。

〝競合社との一騎打ち〟

 昨日、大英製作所に対する最終のプレゼンテーションが、コンペ形式にて、公然と執り行われたのである。

 ***

  大英製作所の会議室。モノトーンの室内には、上質な会議テーブルが半楕円に配されていた。

  昇降式の大型スクリーンの正面には、大英製作所の御歴々だ。さぞや堂々たる貫禄で、ことさら大上段に腕を組む。

  その下手に陣取った当社プロジェクト・チームの表情は、皆一様に硬かった。

  僕らの対面には今回の競合社である未来建設の連中だ。その居住まいは、何はともあれ鼻につく。揃いも揃って、意気揚々たるニヤけ面を、不愉快なまでに連ねていやがる。

  プレゼンは、未来建設が先に行った。

  過去、大英製作所から発注される建設工事を、ほぼ独占的に請け負ってきた未来建設。そのプレゼンは、今まで積み重ねてきた自らの実績を手前勝手に手厚く擁護するかのごとく、極めて無難な内容であった。

  未来建設の論者が席に戻る暇である。僕に、そっと耳打ちをしてきたのは、隣に座る課長の水森だ。

「まあ、未来建設のプレゼンは、予想通りの内容だったな。とにかく木島係長、後はしっかり頼んだぞっ」

 直属の上司からの激励に、僕は改めて気を引き締める。小さく頷いてから、スクリーンの前へと進み出た。

 上座へ向けて、入念に一礼。まずもっては、務めて慎重に言葉を発するのだ。

「貴社は、高い技術力で常に業界を牽引してこられました。新本社ビルは、その実績と伝統を踏襲しつつも、何より、貴社の革新的な開発力を、全世界に向けて積極的にアピールする――その〝象徴であるべき〟と、考えます」

 大手自動車部品メーカーの保守的なイメージを、見事なまでに払拭するのが狙いである。まさに、その象徴とでもいうべき斬新極まりない完成予定図を大型スクリーンへと映し出す。

  それからの僕は、終始、舌鋒鋭く捲し立て続けた。

  未来建設陣営からしてみれば、半ば当て馬的に思われていた当社であった。 しかしながら僕のプレゼンは、思い上がった未来建設の俗流は元より、大英製作所の幹部たちの度肝をも鋭く抉り抜いた。

  大英製作所の列席者の一人、取締役兼開発本部長の海藤は、今回の『新本社ビル・建設プロジェクト』においても最重要人物と目されていた。 

 僕らは、地道な訪問活動と度重なる接待で、なんとか海藤とのパイプを築いてきた。そのキーマンは、何度目かの宴席で苦々しくこぼしていた。

「未来建設の仕事は信頼に足るものがあるが、考え方が古臭くていかん。そもそも、だ。我々自動車の部品メーカーは裏方産業ではあるものの、今日の日本文化の屋台骨を担ってきた自負がある。これからは、全世界に向けて、当社の存在価値を存分にアピールしていきたいものだ」

 僕のプレゼンは、鋭気に富んだ重鎮をも十二分に満足させる出来であった。

  コンペ終了後だ。颯爽と歩み寄ってきた海藤は、僕の背中を、ボンッと叩き付け、

「いやぁー、木島くん、本当に素晴らしかったよ。まさに、私の理想とする構想だった。ガッハッハ」

 会心の高笑いとともに、頑健な体躯を大いに揺すってみせた。

  加えて、当社内での評価も上々であった。営業課からの無理難題を見事に具現化し、斬新かつ洗練された完成予想図に仕立て上げた設計課の偉功もさることながら――大英製作所の首脳陣を唸らせた僕のプレゼンは、頗る付きに高い評価を得たのだ。

  常は泰然自若な直属の上司、課長の水森も、今回ばかりは切れ長の目をさらに細め、大いに快哉を叫んでいた。   部下の山口に至っては、とにかく大袈裟だ。

「さっすが、木島係長っスねー。あんなに、すンごいプレゼンは、係長にしかできないっスよー。憧れちゃうなー。僕、一生付いていきますっ」

 などと、しばらくは興奮冷めやらぬ、といった浮かれようであった。

  それらはさておき、今回の一大プロジェクトは、僕個人にとっても余りに重且つ大な意味を持つ希代の大計だ。そのクライマックスにおいて、何より当の僕自身が、それなりの手応えを感じていたのだ……。

***

「なんだか、ご機嫌ね」

 恵がテーブルへと朝食を並べながら、声に微笑みを含ませる。

「そうか?」

「うん。顔が、とっても、ニヤけているわよ」

 山口が演じた『予想外の苦戦を強いられ青褪める未来建設の担当者の顔真似』が、思い出しただけでも可笑しかった。

 できたてのハムエッグ。トーストには僕の好みで、濃厚なバターがたっぷりと溶けている。

「ねえ、康司。明日は、結衣と動物園に行けそう? 日曜日は、また、ゴルフでしょ」

 恵が、いくらか自重した声色で訊いてきた。

 そう言えば、しばらく前だ。確かに、結衣とそんな約束を交わしていた。娘にとっては、それこそ一大プロジェクトとでもいうべき希代の大計だ。

 しかしながら、僕の日常は余りに忙しない。掛け替えのない一人娘と交わした重且つ大な約束にして、如何せん、見事なまでに、すっかりと忘れていた。

 そこで、すかさず一計だ。いささか眉を曇らした妻には悟られぬよう、僕は慌てて思案する。

 本日は金曜日だ。大英製作所のプロジェクトが、よもやの〝特命受注〟ともなると、しばらくは完全に休日を返上しなくてはならない……が、一日二日で、そう簡単に結果が出るとも思えない。

「ああ、大丈夫だよ」

 僕の宣誓に、恵は、至って事々しく愁眉を開く。

「ふぅー、良かったぁ。久しぶりのお出掛けで、結衣が、とっても楽しみにしているのよ」

 大袈裟に胸を撫で下ろす仕草を見せると、妻は、再びキッチンへと戻っていった。

 朝食を済ませてから、改めて寝室を覗き込む。娘の結衣は、未だ穏やかな寝息を立てて、ぐっすりと眠っている。   神々しいまでに生彩な尊容も、よくよく見れば、やはり、まだ五歳の幼子だ。掛け替えのない一人娘の寝顔は、なんともいえずに……いじらしい。

 枕元に動物の絵本が置かれていた事実には、その時、気付かされた。慎ましやかに開かれたキリンのページを目にしながら、僕はくれぐれも思い入るのだ。

 今回のプロジェクトに携わってから、実に半年あまりだ。深夜に及ぶ残業が、従来にも増して恒常化していた。休日も打ち合せや接待ゴルフなどに駆り出され、家族――特に、結衣と過ごす時間は、めっきり少なくなっていた。

  今回の仕事は、まずもって一段落だ。人事を尽くして、なんとやら、である。

 〝明日は久々に仕事を忘れて、瑞々しくも、いじらしき、我が愛娘の笑顔に、たっぷりと癒されよう!〟

 僕は、自らの忙しなき心頭に、くれぐれも入念に宣するのだ。


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花形部署の精鋭たち

 東京都の狛江市は、首都圏でも屈指の住宅密集地である。

 多摩地区の入口に位置し、東は世田谷区に隣接する。市域の南端には多摩川が悠々と流れ、一方で、狭小な寸土には、雑然とした街並が忙しなく群生している。

 通勤にも至便なこの地へは、結衣の誕生と同時に越してきた。

 最新の設備を施し、立地にも恵まれた新築の分譲マンション。その競争倍率は高かったものの、運良く、六階の角部屋『六〇八号室』を購入することができた。三LDKの間取りも、家族三人が暮らす用向きには十分な広さといえた。

 五月晴れの煌めく日差しを全身に受ける。住宅街の小道を足早に抜け、駅前へと到着する頃には、額にうっすらと汗が浮いた。

 小田急線の和泉多摩川駅。大都会の一端にあって、その周辺の風情は、取り分け忙しない。昔ながらの総菜屋から、最先端を謳う小粋なブティックまで、新旧入り乱れての雑多な趣が、せせこましき狭小な目抜き通りを、さても紛々と飾り立てている。

 さらに、この時間帯は一段と始末が悪い。四方八方から湧いてくる人波が、いわゆる高架型の駅舎を目指し、狂瀾怒濤に押し寄せる。

 構内入口を潜り、自動改札機を抜ける。階段を人波に揉まれながらも足早に駆け上がり、高架式のホームへと懸命に列を成す。末は、慌ただしく車輪をきしませて滑り込んでくる電車に、我先にとばかり、一気に雪崩れ込むのだ。

 大学を卒業後、帝都建設に入社してから、早、十三年が経つ。かつては、地方への転勤も経験した。それでも、大半が首都圏、特に、本社への勤務が主である。

 果たして、救い難いほどに紛々とした通勤ラッシュも、今では僕の忙しなき生活の一風物として、すっかりと溶け込んでいる。

 飽和状態の車両に、漫然と身を委ねること、およそ半時。会社のある『新宿』へと到着する。

 東京の心臓部である新宿に、本店や総合支店を配する建設会社は多い。

 当社を含め建設業界にとって、官公庁から発注される公共工事は、まさに生命線といえる。会社の業績を大きく左右するのだ。

 都政の中心――新宿。主戦場に、それなりの拠点を構えることが、総合建設会社――いわゆる〝ゼネコン〟にとっての、プライドともいえた。

 中でも、僕の勤務する帝都建設は〝スーパーゼネコン〟と称され、常にその五指に数えられている。 新宿駅から程近いオフィスビル群。その一郭に敢然とそびえ立つ帝都建設の本社ビル。その佇まいは、まさに、自らの隆盛をまざまざと誇っているやに見える。

 十階にある営業部のフロアには、既に数名の社員が出社していた。

 最奥の両袖デスクで新聞を広げているのは、課長の水森だ。僕の出社に気付いた水森は、ゆったりと顔を持ち上げる。

「やあ、木島係長。昨日は、お疲れさん」

 答礼する僕に、水森が言葉を継ぐ。

「それにしても、本当に良く準備をしてくれたね。素晴らしいプレゼンだったよ。私も、安心して見ていられた」

「いえ。課長の御指導が、あったからこそです」

 水森は、僕の聊か社交辞令とも取れる言葉にも、柔らかな微笑みを浮かべ、

「先方の海藤重役には、午前中のうちに、礼の電話を入れておくよ。まあ、やるべきことはやったんだ。果報は寝て待て、だ」

 この上なく柔らかく言い寄越すと、再び経済新聞に視線を落とした。

 スマートな容姿に反して、営業一筋。『本店営業一部一課・課長』の重席に座った実力者の言葉には、いつだって含蓄がある。

 自席に着いた僕に、早速、落としたてのコーヒーを運んでくれたのは、事務社員の田所美香だ。

 楚々と微笑みながら、砂糖とミルクを添える手慣れた所作は、すなわち、田所の行き届いた仕事ぶりを容易に窺わせる。

 島型に組まれた課員のデスクにて、僕の対面に座っているのは、主任の大滝である。毎朝、誰よりも早く出社してくる大滝は、外見に違わぬ実直な性格だ。どんな仕事でも、恙なく熟す。

 目下も、得意先と思われる朝駈けの電話に、淡々と心血を注いでいる。受話器越しの相手へと、律儀なまでに姿勢を正している姿は、いかにも彼らしい。

 斜向かいの席で早くも外出の準備に倉皇しているのは、中堅社員の佐々木だ。訪問先に持参するのであろう資料を一通り鞄に詰め込むと、挨拶もそこそこ、慌ただしく出掛けて行った。

 佐々木は、多少大雑把なところがあるものの、見るからに体育会系の風貌をして、フットワークも軽い。加えて物怖じしない性格は、得意先からの信望を集めた。

 ほどなく、他の課員も続々と出社を遂げて――午前九時が差し迫った当該フロアは、一段と活気付いていく。

 公共工事の安定的な受注は、間違いなく会社業績の根幹を成す。ただし、だ。成果に至るプロセスは、余りに融通が利かない。その多くには、形式張った『入札方式』が採用されるのだ。

 そこでは、発注元への接待や過度な営業活動、果ては業者間での談合などが厳しく規制されている。原則として、一社員の能力というよりは、むしろ会社そのものの〝体力勝負〟といった色が濃い。

 それに比べ、民間工事の舞台は、あまりに露骨だ。『特命受注』を糧とし、常に競合社とのつぶし合いが繰り広げられる。強固な組織と個人の能力、総じて〝営業力〟がものをいう。

 熾烈な民間工事の世界を主戦場とする『営業一部』の中でも、僕の所属する『営業一課』は、主に大手のメーカーを担当する。すなわち、一回の請負金額も巨額に上るのだ。

 会社の営業力が、まさに問われる花形部署には、当然のことながら、それ相応の精鋭が配される。

 ただし――若干一名の〝例外〟を除いてではあるが……。

 午前九時の始業を伝えるチャイムと、ほぼ同時であった。くだんの例外が、大慌てでフロアへと滑り込んできた。

「フゥー、間に合った。お、おはようございますっ」

 大袈裟に肩で息をする例外へ、水森の叱声が飛ぶ。

「おい、山口っ。お前、ネクタイは、どうした!」

「あっ、しまった。すンません」

 山口は、鞄の中に詰め込まれていた皺くちゃのネクタイを、大童で取り出した。

「うんしょ、こらしょ」などと掛け声だけは勇ましく、悠々と首根っこに括り付ける。後は、悪びれた様子なんぞ、微塵も見せない。

「さあ、仕事、仕事ー。がんばるぞーっ」 と、お調子者千万であった。

 水森は呆れ返った調子で溜息をこぼし、他の課員も、お馴染みの光景に苦笑していた。

 山口は、入社三年目の若手だ。恐いもの知らずの言動に、冷汗をかかせられる応報もしばしばだった。が、意外にも芸達者であり、おまけに人懐っこく、何より嫌味のない性格には、時として好感が持てた。

 また、なんの因果か、僕を崇拝しているご様子で……このお調子者には、多少なりとも目を掛けてやっていた。

 山口が、いかにも慇懃ぶった態度で訊いてくる。

「木島係長! 本日は、いかがいたしましょうか? ご下命をお願いいたします」

「そうだなあ……オレは、久しぶりに他の得意先を回ってくる。お前は、大英製作所のプロジェクト・チームの面々のところへ顔を出し、何か変わったことがないか、聞いておいてくれ」

 昨日の労いも忘れずに、と僕が言い添えると――

「はいっ。了解しました!」

 花形部署の例外社員は、おどけた調子で、敬礼をして見せた。


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ルーチンワーク

 大英製作所のプロジェクトに掛かりきりで、ここのところ、他の得意先への表敬訪問が疎かになっていた。

 顔を出したい先は山ほどあったが、月末の金曜日ともなると、都内の道路はどこも混んでいる。激しい渋滞に苛まれ、仕事は思い通りに捗らなかった。しかも……。

「本日の関東地方は太平洋高気圧に覆われ、さながら真夏を思わせる陽気……」

 社有車のAMラジオから流れる女性パーソナリティーの美声には、大いに頷けた。その上、積年の刻苦に耐えてきた商用ライトバンは、エアコンの効きが頗る悪い。吹き出し口からは、およそ冷気とは呼べない生ぬるい送風が、やたらと大袈裟な轟音を伴って、さぞや虚しく吹き荒れている。

「電車にすれば良かった……」

 僕は全開にした車窓から身を乗り出し、遙に続く車の列を遠望しながら、つくづく後悔した。

『昭和銀行』は、コマーシャル市場に抜群の強みを発揮する都銀の雄である。その得意先には、大手の有力メーカーが、わんさと名を連ねる。

 大手町にある同行へは、なんとか午前中のうちにの訪問が叶った。

応接室で待つこと暫し。軽快な足取りで現れたのは、部長の小田である。昭和銀行のコマーシャル市場を一手に束ねる、法人営業部の切れ者だ。

「やあ、木島さん。お久しぶり」

 細身の体躯に、濃紺のスーツ。精悍な黒縁眼鏡が〝いかにも〟の切れ者は、当社の水森と極めて親交が深い。水森にとっての小田は、同じ大学出身の〝頼れる先輩〟という由縁だ。同時に、当社シンパの小田は、僕にとっても〝頼れる切れ者〟といえる存在なのである。

 革張りのソファーに颯爽と腰を下ろした切れ者は、満面の笑みをこさえて、取り分け精悍に言い寄越す。

「大英製作所のプレゼンは、大成功だったらしいねぇ。木島さん」

「ありがとうございます。なんとか、ここまで漕ぎ着けました。小田部長に色々とご尽力をいただいた御陰です」

 僕は、深々と礼を添える。

「いやいや。推薦させてもらった我々も鼻が高いよ。ちょうど先程まで、大英製作所の海藤さんと、電話で話しをしていたところだよ」

 なるほど、その電話は〝水森の企て〟であろうと察しが付く。

 昭和銀行は、大英製作所のメイン・バンクである。今回の『新本社ビル・建設工事』の資金をも、一手に担っている。

 水森は、さすがの策士だ。融資元の、しかも、その担当責任者である〝頼れる先輩〟に、絶妙のタイミングでの効果的な援護射撃を巧みに願い出たに違いない。我が直属の上司の水森も、負けず劣らずの切れ者なのだ。

 黒縁眼鏡を精悍に持ち上げながらの、頼れる小田。

「先方さん、君のことを、随分と誉めていたよ」

「ありがとうございます。それで、海藤重役は、結果であるとか、今後について、そのぉ……何か、仰っていましたか?」

「なんせ、相手は難攻不落の大英製作所だ。はっきりしたことは、言えないが……」

  うーんと首を捻り、黒縁眼鏡を散漫にずらしながらの、頼れる小田。

「まあ、なんとか、なるんじゃないの」

 頼れる切れ者の、なんとも頼りない所感ではあったが、僕は辞を低くし、改めて礼を述べる。

 自今、一時の雑談に歓を尽くし、僕は昭和銀行を後にした。

 昼を過ぎると、都心の渋滞はより激しさを増した。照りつける日差しも、ここ暫く続いていた悪天候を一気に挽回するかのごとく、燦々と輝いている。

 紫色の暖簾が目を引いた。僕は昼食を取るために、いささか古びた沿道の蕎麦屋へと入る。

 エアコンが沈黙する店内には、少々面食った。人いきれも手伝って、惨たらしいまでに蒸しているのだ。おまけに、注文を取りにきた女性店員のぞんざいな態度に、僕の食欲はこの上なく削がれる格好と相成った。

 窮屈なカウンター席に止むなく陣を取る。額の汗を拭いながら、注文した品を漫然と待ち受ける。そんな折に、携帯電話が鳴った。

 慌ててディスプレイの着信表示を確認する。相手は、課長の水森だった。僕は、携帯電話を耳に当てながら、一旦、店の外へと出た。

「木島係長、今はどこだ? 直ぐに、横浜まで飛べるか?」

 受話器越しの水森は、いささか切迫した調子であった。

「今は、品川の辺りです。ただ、渋滞が酷くて……」

 僕には皆まで言わせず、水森が早々と言葉を重ねてくる。

「悪いが、直ぐに〝神谷電気〟に向かってくれ」

 神谷電気は、半導体を主力とする電機メーカーだ。半年前に竣工した横浜工場も、当社が特命で請け負った。メイン担当者は、外でもない、僕である。

「神谷電気で、何か……」

 今度も、慌ただしく言葉を被せてくる、水森。

「工場の床から、水が湧いているらしい」

 それには、仰天だ。

「えっ、水が?」

 しばらく悪天候が続いていたとは言え、ちょっとした雨漏れなどで、床から水が湧くなんて事態は、そうそう考えにくい。危ぶむべきは、配管からの水漏れだ。繋ぎ目の接合が甘かったか、最悪の場合は、強度不足などによる、破裂!

 案じる水森は、さらに会話を急ぐ。

「私も出先で、又聞きだ。詳しいことは判らんが、水道管だと、厄介だ!」

 僕が現地に急行する旨を告げると、そこで電話は切れた。

 カウンター席に届いていた〝ざる蕎麦〟は、どうやら諦めるしかなさそうだ。

 激しい渋滞であろうが、厳しい暑さであろうが、数ある得意先への表敬訪問は、僕にとっての日常だ。決して、欠かせないルーチン・ワークなのである。

 その得意先が、次から次へと巻き起こす突発的なトラブルも、僕に取ってはこれまた然りである。何を置いても馳せ参じるのが、ルーチンだ。

「天ぷらを付けなかっただけ、マシだ……」

 そう考えると、食欲を削いでくれた蒸し暑さと、いけぞんざいな女性定員の態度にも、少しは寛容になれるのだ。


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建設課の豪傑

 横浜へと向かう首都高速道路でも、断続渋滞の憂き目に遭った。

 水森の電話では「建設課にも現地へ急行するよう、手配をしておく」との算段であった。が、何分にも急な用向きだ。おそらく、直ぐには人の手当もできないであろう。

 建設課はその名が示す通り、請負物件に対する実際の建設工程そのものを取り仕切る部署である。さらには、既設物件に発生した瑕疵や、原因の究明、その修繕においても同課の処断は欠かせない。

 何時とも分かず、得意先から仰せ付かった御下命へと急ぎ馳せ参じる――僕ら営業課の任務は苛酷だ。一方で、種々雑多なクレームに、いつだって引く手数多の建設課の使命も、すなわち多忙なのである。

 原因はなんにせよ、精密な電子回路を取り扱う神谷電気にとって水漏れは一大事だ。今のところ製品に損害を与える惨事には至っていないようだが……僕の焦燥は否応なしに募った。

 それにしても、激しく滞留する車の多さには、改めて腹が立つ。おまけに、紛らわしに嵩んだタバコも、手持ちの分を全て吸い尽くす。

 その後の僕は、シートが軋む窮屈な社有車の運転席で、絶煙、空腹、酷暑、という熾烈な三重苦に、しばらくの間、じっと耐えなくてはならなかった……。

 神谷電気の横浜工場へと到着した頃には、午後の二時を大きく回っていた。

 受付にて気を揉むこと僅か、先方の山下が現れた。同工場の総務課長殿が、ただでさえ短い腰をさらに縮ませながら、なんとも卑屈な苦笑いとともに参上だ。僕の焦心苦慮は、どうやら過分だったようである。

「いやいや、木島さん、すみませんねぇ。実は、全く大したことないんだよ」

 山下は、そう言いながら、白髪優勢の頭を掻いた。

「でも、水が漏れたとか……」

「水漏れ、とは言っても、休憩室の床に、そのぉ、ほんの少し、染み出た程度でねぇ。どうも、大袈裟に伝わっちゃったみたいで……面目ない」

 いささか拍子抜けした僕ではあったが、取り敢えず自重した態度を保ち続ける。

「誠に申し訳ございません。大事に至らなくて何よりです。ただ、水漏れしている事実に変わりはありません。至急、担当部署に調査させますので……」

「ああ、その方なら、既に来てくれているよ」

 えっ、もう? 珍しく、手回しが良いな

  山下は、再びの苦笑とともに白髪頭を一掻き、そのまま僕を現場まで案内してくれた。

 当社の請負により、半年前に全面的な改築が施された神谷電気の横浜工場。先方の総務課長である山下の後に続き、僕は場内を歩いていく。

 さすがは目下〝売り出し中〟の神谷電気である。フル稼働する壮大な生産ラインを、すっぽりと収める工場のスケールには、改めて目を見張る。

 その築造の一役を担った者として、感慨深げに、あちらこちらを見渡しているうちに、問題の〝水漏れ現場〟へと到着した。

『休憩室』のプレートが、さも仰々しく貼られた無味な木製扉。その向こう側には、握り締めた携帯電話に向かって烈々と声を尖らせている一人の男がいた。

 豪放磊落を地で行く男――

「いやいや、違うって、そうじゃあないっ。だからぁ……な、なんだと、ふざけんな!」

 当社、建設課の西岡である。

 僕と山下の姿を認知した、西岡。一瞬、申し訳程度の目礼を配するも、その激高は全く遠慮を知らない。

「この野郎っ、いい加減にしやがれっ。誰に向って言ってんだっ!」

 携帯電話を相手取っての、荒ぶる豪傑。その有様に当てられて、山下は、しばらく唖然としていた。

 やがて山下は、お得意の苦笑いを浮かべながら、ここでも、白髪頭を一掻きだ。

「お帰りの際に、受付へ声を掛けて下さい。せめて、粗茶でも……」

 僕に耳打ちをしてから、いそいそと退散していった。

 部屋の中には複数の長机と、大量のパイプ椅子が整然と並べられている。それでも全体的にガランとした印象の、いかにも広々とした休憩室だ。

 その部屋中をまさに縦横無尽である。西岡のどすの利いた濁声が所狭しと響き渡っている。

 業界屈指のスケールを誇る神谷電気の横浜工場。そこの庶務全般を取り仕切る総務課長の山下をして、恐々と退散せしめる、当社、西岡の猛威……

  しかしながら、少なからず西岡の人となりを承知している僕にとっては、さして珍しい光景ではない。

「それじゃあ駄目だっ」「そうそう、明日だよ」「はあ? 休みなんて、関係ないだろうが。そもそも、お宅らが、施行した箇所なんだっ」

 西岡は一頻り捲し立てると、舌打ちを一つ。

「じゃあ、そういうことで……」

 携帯電話を、バチンッと畳んだ。さらには、大きな溜息に険を溶き、ようやく僕に向かって片手を上げる。

「西岡課長、自らのご出陣ですか?」 「ああ、人手不足でな。増員要求も、ままならん。まったく、うちの会社の人使いの荒さは、天下一品だよ。まあ、オレも人のことは言えんが、な」

 そう言いながら、引く手あまたの建設課を率いる豪傑は、大きな体を豪快に揺らした。

「先程の電話は、下請ですか?」

「ああ、細野工務店の社長だ」

 細野工務店は、当社の下請業者である。当該工場の改築工事においても、仕上げ工程を担当したはずだ。

「明日にでも直せ、と言ったんだよ」

 そう言いながら、顰めっ面の西岡は、部屋の隅のほうを指差した。

 西岡が指し示したのは、壁際の床面だ。そこに敷き詰められたグレーのカーペット・タイルに、僕は、よくよく目を凝らす。言われてみれば、なるほどだ。そこには、確かに水が染み出たのであろう形跡だ。

 ただし、なんとも些細なシミである。まったく、先方の山下が、僕らの緊急対応に対して、酷く恐縮するわけだ……。

「自分たちの杜撰な仕事を棚に上げて、人工の都合が付かない、なんて言いやがる。それじゃあ、自分でやれ、と言ってやったんだよ。そしたら、細野工務店の、あの狸オヤジ……やれ体の調子が悪いだの、やれ野暮用があるだの、下らない御託を並べ立てやがるっ」

 気色ばむ西岡は、舌打ちを挟んで、さらに続ける。

「まったく〝帝友会〟にも困ったもんだ。加盟さえしてりゃあ、その身も安泰だと思っていやがる」

 帝友会とは、当社の主だった下請業者や協力会社からなる、いわゆる親睦組織だ。大手ゼネコンの下には、その育成や結束を目的とした同種の組織が、大抵の場合で設けられている。

「日曜日には、その帝友会の、ゴルフ・コンペもありますしね」

 僕の言葉に、西岡は、一層、顔を顰める。

「そうか、あの〝ゴルフきちがい〟めぇ。練習ラウンドにでも出掛けるつもりでいやがったんだなっ」

 明後日の日曜日に大々的に催される帝友会の『親睦ゴルフ・コンペ』は、年に一度の恒例行事だ。それには、僕も参加させられる羽目となっていた。得意先の婚儀に駆り出された水森の名代である。

「細野工務店の社長は、ディフェンディング・チャンピオンですからね。でも、結局は、明日の修復作業を承諾させたんでしょ? 毎度のことながら、西岡課長の仕事の速さには敬服します」

「こういうことは、とにかくスピードが肝心だ。後回しにすると、ろくなことがないからな」

 豪傑の粗暴な言動は、ある意味、巧妙だ。一癖も二癖もある下請業者の手綱をしっかりと握り、自由自在に操るために体得した、西岡流のやり口なのだ。

 その実、謙虚な仕事ぶりと、それに対して人一倍の情熱を注ぐ西岡のことは、大いに信頼できる。その豪傑によると……。

 今回の瑕疵は「壁面に取付けられた空気口のシーリングが甘く、そこから、ここ数日の雨水が侵入。壁を伝って、床から滲み出した」との釈明であった。

 さらに、巧妙な西岡は「同室内に設置されていた〝簡易流し〟や、隣接する〝大層な従業員用のトイレ〟の配管も、入念に踏査した結果である」旨を付け加えた。

 とにかく、大事には至らず、何よりであった

 帰り際に状況の報告を兼ねて、再び、先方の山下を訪ねた。 山下は、先ほどとは打って変わって平身低頭な西岡の豹変ぶりに、またしても唖然とさせられていたが、

「帝都建設さんの、迅速かつ誠意ある対応を、当社の上層部にも、きちんと報告させてもらうよ」

 との言葉を添え、満面の笑みにて応じてくれた。

  山下には、粗茶ならぬ落としたてのコーヒーと高級クッキーで手厚く持て成され、しばし雑談。その後、僕と西岡は、神谷電気の横浜工場を後にした。


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エースの〝間〟

 神谷電気の横浜工場から会社へと戻る車には「電車で来た」と言う、西岡が便乗した。

 だいぶ傾いたとはいえ、盛夏もどきの強烈な日差しに曝されていた商用ライトバン。その車内は、サウナ風呂さながらに蒸し返っていた。

 西岡は、助手席に座るや否や、エアコンの操作スイッチやら送風口やらを慌ただしく弄くり回す。発車して早々、分厚い顔面を汗まみれにしていた。

 別に僕が詫びる筋合いの問題でもないのだが、なんとなく心苦しく、取り敢えずは、丁重に頭を下げてみる。

「すみません。この社有車、どうも、エアコンの調子が悪くて……」

「当社のエースに、こんなオンボロ車を宛がっているようじゃあ、水森の野郎っ、どうしようもねぇなあっ」

 建設課の課長であるこの豪傑と、我が営業一課を率いる優男は、外でもない同期生である。見てくれも中身も、火と氷ほどに正反対な二人である。が、僕の上司である水森に向けられた西岡の悪態めいた物言いは、その実、気心の知れた同輩に対する、日頃からの〝親交の深さ〟を感じさせる言い草でもあった。

「エースだなんて、とんでもありません」

 僕はハンドルを握りながらも、控え目に肩をすぼめてみせた。

「何を言ってやがる。さっきの神谷電気に続き〝大英製作所の特命受注〟も、既に当確らしいじゃないか。おまけに、二件とも他社からの奪取とくりゃあ、そんな離れ業をやって退けらるヤツは、社内広しといえど、お前の他にいやしないだろう」

「え! 大英製作所の件は、まだ、何も……」

「あれぇ、そうだったかぁ?」

 果たして、この人は、僕を茶化しているのだろうか?

「まったくもう、西岡課長。へんなプレッシャーをかけるのは、やめてくださいよぉ」

 僕のムクれた様子が笑壷に入ったのか――

「そんな弱気で、どうするよ!」

 と言い放ち、西岡は高らかに笑った。

「はあ……」

 僕は、控え目に畏まる。そこに、豪傑の次なる〝口撃〟だ。

「まあ、なんにしても、君は良くやっているよ。水森も、出る幕がない、ってボヤいていたぞ」

「えっ、水森課長が、ですか?」

〝ボヤく〟という言葉の真意を見出せず、僕は、思わず眉を顰めてしまった。

 西岡は、そんな僕の心中を察したかのように――

「まあ、ヤツは滅多なことでは、人を誉めたりしないからな。キザなアイツらしい、最高の賞賛だよ」

 と、今度は朗らかに笑った。

「はあ……」

 西岡は、全くもって豪放磊落だ。

「とにかく、そんなに、シケた面、すんな、よっ!」

 畏まる僕の肩を、いきなり、ドカンと叩き付ける。走行中の車が折しもカーブへと差し掛かった途端だったから、堪らない。

「うわぁ! ちょ、ちょっと、危ないじゃないですかぁ」

 僕は、大いにフラついた車体を、懸命に立て直す。その焦りようが、よっぽど笑壷を刺激したのか、西岡は、肉厚の巨体にシートベルトを食い込ませながら、しばらく大笑していた。

 ようやく笑いを静めた豪傑は、性懲りもなく、気任せな大口をたたく。

「ハァ、可笑しい。まあ、そんなに心配するな。大英製作所の件も、そのうち〝吉報〟が届くさ」

 僕は、溜息混じりに返答だ。

「また、そんな気休めを」

 やはり、豪放磊落を地で行く男――

「気休めなもんかっ。これは、オレ様のカンだ。と言うより〝間〟の問題だよ〝マ〟の」

 今度は、自儘な講釈をとうとうと垂れ始めた。

「なんですか、それ?」

「いいかぁ。好調なとき、ってのは、すなわち〝間が良い〟ときなんだよ」

「〝マ〟……ですか?」

「そうだ〝マ〟だ。間が良いとき、ってのは、何をやっても、うまくいくものさ」

 まったく、この人は、僕をからかっているんだか、バカにしているんだか……。

「西岡課長、それって、ただ単に、運が良い、ってことですか?」

「それは、違うぞ、木島。うーん、なんというか〝巡り合わせ〟というのか、あるいは〝タイミング〟というのか、それとも〝バランス〟とでもいうのか……」

 言葉に詰まること、瞬刻。西岡は、何かをひらめいたかのように、メラメラと口調を輝かせる。

「いいかぁ、木島っ。まずは〝ハードル〟を、思い浮かべてみろ」

「ハードル、って陸上の〝ハードル競技〟のことですか?」

「そうだ。いいかぁ、ハードル競技ってのはなぁ、タイミングこそが肝心なんだよ。それこそ〝マ〟が命なんだ。〝マ〟を外したんじゃあ、決して良い記録は期待できん」

 この人は、一体、何を言い出したんだ?

「万が一、ハードルに躓いてバランスを崩したら、その後、レース中に態勢を立て直すのは容易じゃない。あるいは、順調に幾つかのハードルを越えられたとしても、途中で躊躇したり、集中力を欠いてしまったら、結果は、やはり散々だ」

 このオジさんは、一体全体、何が言いたいんだ?

「要するに、だ。次から次へと、巡ってくるハードルを、着実なリズムをもってして、バランス良く飛び越え、とにかく、だ。ゴールだけを見据えて脇目を振らず、積極果敢に邁進するんだ」

 このオヤジ……。

「それでこそ、仕事上の〝障壁〟も、行く手に立ちはだかる〝ハードル〟も、タイミング良く、無事に越えていける、ってことだ」

 結局、なんということはない。仕事上の〝障壁〟と、陸上競技の〝ハードル〟を掛けた、単なるダジャレだ。

 会心のオヤジ・ギャグを炸裂させた助手席の豪傑は、殊の外ご満悦の様子である。

「どうだね、木島係長。ご理解、いただけたかね?」

 オッホン、と態とがましい咳払いまで添えて見せる西岡であった。

 ただでさえ蒸し返った車内で、西岡の言動に、いささかの暑苦しさを覚えた僕は、

「は、はあ……」

 煮詰まった、半笑いを浮かべるしかない。それでも西岡は、やはり、豪放磊落だ。

「だからぁ。そのシケた面がいけないんだ。それじゃあ〝運〟も逃げちまうぞ!」

「なぁんだ。結局は、運じゃないですかぁ」

「あっ、と。い、いや、今のは、違う……バ、バカ野郎!」

 豪傑による、照れ隠しの逆ギレだ。今度は、頭でも小突かれそうな勢いだったので、咄嗟に身構える。ハンドルを握り締めながら、大袈裟な警戒態勢に入った、僕。

 その有様が、笑壷どころか、全身のありとあらゆるツボを刺激したらしい。西岡は、でっかい図体を右に左にくねらせる。オンボロ社有車のシートが潰れるほどに、いつまでも笑い転げていた。

「……ハァ、可笑しい。まあ、とにかく、だ。せっかく、良いリズムで仕事ができているんだ。細かいことは気にせずに、ガンガン、目の前のハードルを越えて行けぃ!」

 まったく、なんとも〝間の抜けた〟西岡の激励であった。が、帰りの道中は、それこそ〝間が良かった〟のか、目立った渋滞には遭わずに済んだ。

 何より、絶妙の〝間〟といえたのは、その日の夕刻だ。

 会社に戻った僕の元へと、まさに〝間髪を容れず〟である。ジャストのタイミングで、西岡のいうところの「吉報」が届けられたのだ。

『大英製作所、新本社ビル建設プロジェクト――特命受注、獲得!』

 僕は、また一つ、耀かしいハードルを飛び越えたようだ。


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殊勲

「えーっ、皆も既に承知の通り、木島係長が中心となって進めてくれていた〝大英製作所の新本社ビル建設工事 〟を、この度っ、見事っ、当社がっ、特命でっ、受注することができたっ」

 上座から一同を見渡し、声も高らかに宣する、直属の上司。

「これも、ひとえに、木島係長の活躍――」

 課長の水森は、座敷の末席から、ひしひしと注がれる山口の視線に気付き、コホンッと咳払いを挟む。

「な、並びに、それを支えた〝山口〟くん、さらには、協力をしてくれた課員全員の殊勲です」

 山口のこれ見よがしな得意顔に、皆、吹き出しそうであった。水森が失笑を堪えて、一段と声を張る

 「それでは、カンパーイ!」

 その音頭に、総勢十名がビール・ジョッキを掲げると、一気に場が和む。それを制するのは、やはり、水森の大音声だ。

「えーっ、何分にも急な開催で、残念ながら、北原部長の都合がつかなかった。が、部長からは、大変、有り難いことに、手厚い心付けを頂戴したっ」

 プレゼンを終えた翌日だ。大英製作所から、思わぬ早さで勝報が届けられたその晩である。即興の祝勝会が催されたのだ。

 そこに、部長の北原から飲み代が給された、という更なる吉報が重なった。金曜日の夜に活況を呈する居酒屋にあって、参加者一同による一際の喝采が轟いた。

 皆の歓喜が一段落するのを待ってから、水森は、さらに続ける。

「えーっ、あとの足りない分は……私が、持つ! みんな、今夜は遠慮なくやってくれっ」

 喝采は、絶叫を伴って狂気と化した。各々が勝手次第に注文の声を張り上げる。我先にと殺気立つ一団に、半被姿の定員は、しばらく悪戦苦闘を余儀なくされていた。

 仕事上、酒の席には事欠かない。それでも、身内だけで、しかも、営業一課の全員で座を囲むのは、随分と久しぶりだ。決して酒に弱いほうではなかったが、この日は、格段に酔いの回りが早かった。

 日中から続いた蒸し暑さも手伝って、冷えたビールが空きっ腹に染み入った。さらには、当然の仕打ちとして、献杯の集中砲火を浴びた。

 僕個人としては、粒々辛苦で勝ち得た今回の成果は元より、仲間からの労いが、とにかく嬉しかった。また、何よりも、ホッとした。

 自らは無意識を装ってはいたが『過剰な期待』や『大袈裟な羨望』、果ては『先走った賞賛』などといった無類の重圧から、取り敢えずは開放されたのだ。今の僕の心境は『喜び』というよりは、やはり『安堵』と表したほうが的確である。

 ビールから焼酎、あるいは日本酒に場の趣が変わる頃には『体育会系、佐々木』と『意外の芸達者、山口』が、一段と祝宴を盛り上げた。中でも、山口が披露した極々限られた身内を対象とする『局地的なモノマネ』は、盛会に殊更の勲を立てた。

 演目にして『山口自身を叱る、事務員さん』では、指を使って極限まで眉を吊り上げた。的にされた田所美香は、酒で上気した頬をさらに真っ赤に染めていた。持ち前の童顔を、やはり極限まで吊り上げて、まさに本気の猛抗議であった。

 角張った動きで見事に特徴を捉えた『水森課長流、電話の受け方』は、皆に共感の笑いを得る。当の水森も、珍しく溜飲を下げきった様子で、爆笑していた。

 勇気を振り絞って披露した『クールな大滝主任が、思ったよりも熱かったコーヒーを飲んだときの慌て方』には、それこそ、一同が抱腹絶倒だ。まさかの標的とされた大滝自身は、仕方なく、といった感じで苦笑していた。

 そこまでは、完全に場の主役へと君臨した、山口。しかるに、殊勲の芸達者も、いつの間にやら、酒豪との誉れ高き佐々木の『体育会系、イッキ飲み』の餌食と成り果てていった。

 その擾乱ぶりを横目に、我関せず、といった感じで、淡々と手酌の日本酒を啜っていた、クールな大滝。僕は、自らの盃を差し出しながら、懇ろに声を掛けた。

「どうだ、大滝、そっちの仕事は?」

「まあ、今のところは、切羽詰まる案件もありませんし、どうってことはないですよ。それより、木島係長。今回も、まったく見事なお手並みですね。敬服しますよ。こんな僕でも、何かお役に立てることがあったら、遠慮なく言って下さい」

 いつでも実直にことを成す、俊士なるかな当課の主任。独特の淡々とした口調は、酒の席でも一向に変わらない。

「ありがとう。君が、そう言ってくれると、本当に頼もしいよ」

 本音で返した僕の愛想にも、大滝は表情一つ変えず、淡々と酌を取る。

「いいえ、後輩社員として、当然です」

 そういえば、大滝が本気で笑った顔って、一度も見たことがないな……。

 宴も酣といった頃合いに、僕の隣へと割り込んできたのは、ぐでんぐでんに失墜した芸達者である。

 両手に徳利をブラ提げながらの山口は、既に異次元の人と化している。呂律の回らぬ猫撫で声で、理解不能な、くだを巻く。

「木島係長っ。オレ、いや、ボク、あ、ワタクシは、本当に、うれしいです。ホントに、ホントに、ありがとう、ごじゃいます、ですっ」

 山口は携えていた片方の徳利で、無理矢理、僕の盃へと酒を注ぐ。

「未来建設のヤツらめぇ、ざまあ見ろっ、てんだぁーっ」

 異次元の彼方にまで届かんばかりの雄叫びだ。次いで、もう一方の徳利へとかぶりつき、そのまま天を仰いで、一気に飲み干した。

「オレ、いや、ボク、ホントに、悔しかったんです。アイツらだけには、絶対に、負けたくなったんです」

 以前、大英製作所へと、単身で書類を届けさせた際である。半人前の山口は、偶々鉢合わせた未来建設の連中に、どうやら中傷めいた当て付けを食わされたらしく――当時「それも、ヤツらの手の内だから、気にするな」と慰めてはやったが、やはり、当の山口は、相当、腹に据えかねていたようだ。

「お前も、本当に良くやってくれたよ。未来建設に勝てたのも、お前が頑張ってくれたお陰だ。お疲れさん!」

 との、僕が返した立前での御愛想に、山口は、本当に泣き出してしまった。

 肩をすぼめて啜り泣く、とってもしおらしい新米社員。僕が本音で同情を寄せたのも束の間だ。

「おいおい、山口。しっかりしろよ。うれし涙を流すのは、まだ早いだろ。これからが、本当の勝負なんだぞ」

 と、僕が励ますと――

「は、はいっ。解っておりますっ」

 半人前のお調子者は、勢いよく顔を上げ、直ぐさま、一転である。大層に肩を怒らせ、清々と鼻息を荒くした。

「オレ、いや、不肖、山口上等兵。命ある限り、全力で尽くします。木島大佐、なんなりと、お命じください!」

「おいおい、大佐は、言い過ぎだろう」

 しかも、お前はどう考えても、上等兵ではなく二等兵、いや、場合によっては、それ以下の……。

「でも、木島係長。本当に、オレ、がんばります。係長のように、なりたいんです。任せて下さい。オレ、なんでも、やりますからっ」

 さらには、再び、異次元の彼方に向けての、大音声。

「よーしぃ、いいもの、造るぞーっ!」

 山口の、渾身の決意表明であった。

 が、ネクタイを頭に巻いた雑兵の言葉には、説得力の欠片もなかった。


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過ぎた得心

 夢の中とはいえ、突然落下してきた岩石に、大いに魘される憂き目に遭った。が、果たして、その正体は結衣であった。

「パパぁ、起きてよー。もう、朝だよ」

 僕の腹の上へと馬乗った愛すべき小さな落石は、無邪気にして悪戯なる微笑みをもってして、渋々目を覚ました僕を、一途に覗き込んでいる。

「ねえ、パパってばー」

 僕の身に突如として降り掛かった一種の災いではあるものの、宝玉とでもいうべきこの落石を、みすみす振り払うわけにも、当然いかず……すなわち、てんで身動きの取れない無抵抗の僕は、布団の中から亀のように首を伸ばし、なんとか枕元の時計に目をやった。

 時刻は、まだ、七時前である。

「ずいぶん、早いんだなぁ、結衣……」

 僕は、重い瞼を擦りながら、往生際の悪さを見せてみる。

「そうよ。ゆい、とっても、早起きしたんだからぁ」

 五歳の娘は、そう言いながら、未だ起き上がる気配のない僕の腹の上で、ぴょこんぴょこんと飛び跳ねる。「これなら、どうだ」と言わんばかりの連続攻撃だ。

「いたたたっ」

 愛らしくもそれなりの重量感で、執拗に繰り返される落石の波状攻撃。術も術なさ、僕は、降伏するより手立てがない。

「まいった、まいった。降参だ」

 従順に、布団から這い出した僕に、結衣は、ニコッと勝利の笑顔を誇らせる。

 僕は、小さな勝利者を、ひょいと胸に抱き、そのまま、起立。愛しき宝玉を、高々と抱え上げるのだ。しかるに……。

 頭の芯から湧き上がってくる激しい鈍痛に見舞われ、敢えなく断念。愛娘を布団の上へと不時着させる格好になった。

 おまけに、食道を締め付ける、この焦熱感……まいった、二日酔いである。

 寝室の引戸を開けると、そこはリビング・ルームだ。大仰な応接セットが、我が物顔で幅を利かせている。リビングが狭いというよりは、いかんせん応接セットがデカ過ぎるのだ。なんということはない。購入する際に、サイズを計り間違えただけだ。

 僕は、覚束ない足取りで、ヨタヨタと寝室を出る。フローリングの床を、ペタペタと数歩。そのまま、大きなソファーに、ドサッと体を投げ出した。

 一続きのダイニングを挟んで、その奥がセミオープンタイプのキッチンになっている。水仕事に傾注していた恵が、すかさず手を休め、僕の元へと水を運んできてくれた。

 なみなみと注がれたコップの水を、一気に飲み干す。思わず「ううー」と、呻きを漏らす。

 昨晩は、即興で催された祝勝会の後、勢い、二件も梯子をする羽目となった。辛くも終電には飛び乗れたものの、山口らに付き合って、かなりの深酒をしてしまった。挙句、この二日酔いだ。激しい鈍痛が、ギリギリと、こめかみを締め付ける。

 まいったな……。 重々しく頭を振りながら、ふと、ダイニングに目をやる。小振りのダイニング・テーブルを見て、さらに困窮だ。僕は、一際の頭痛に苛まれることとなった。

 小さなリュックと、赤い水筒、おそらくは三人分の弁当で膨らんだトートバッグ。それらが、テーブルの上に、清々と支度されていた。

 ま、まいったな……。

 窮する僕に、恵は、憂い顔だ。

「康司、大丈夫? 夕べは、随分と遅かったみたいだけど……」

 恵の背後から、ひょっこりと顔を覗かせている結衣も、全身全霊で憂色を漂わせている。

 本当に、参った。強烈な二日酔いも、さることながら……

「あ、ああ……」

〝動物園〟だ。生憎、今日は大英製作所の受注獲得で、急遽、会社に出なくてはならない。

「実は、そのぉ……」

 言い淀む、僕。結衣の声は、消え入りそうだ。

「パパぁ、動物園、行けないの?」

「そ、それが……」

 言い倦む、僕。恵が、一段と眉を曇らせる。

「康司、もしかして、また、仕事?」

「す、すまん。昨日、大きな仕事が決まって、そのぉ、打ち合せが……」

 結衣の大きな瞳からは、今にも大量の涙が溢れ出しそうだった。

 恵は、いささか本気の渋面だ。

「昨日のうちに、電話してくれれば良かったのに」

 およそ部屋着とは思えない鮮やかなピンク色のカーディガンでめかした妻と、お気に入りの赤いリボンを髪に飾った娘に対して「忘れていた」とは、口が裂けても言えなかった。

「すまない。急に決まったもんだから……本当に大きな仕事で、そのぉ……とにかく、どうにもならないんだ」

 恵は、小さく溜息を吐くと、細身の体を翻す。肩をガックリと落として項垂れる結衣に、そっと、声を掛けた。

「結衣ちゃん。パパねぇ、大切なお仕事ができちゃったんだって」

「で、でも……」

 涙ぐむ娘の頬に、優しく手を当てて、さらに諭す。

「結衣ちゃん。いつも言っているでしょ。パパはねぇ、結衣ちゃんのために、一生懸命、お仕事をしているのよ。動物園は、また今度、連れて行ってもらおう、ね」

 結衣の瞳からは、大きな雫が、一粒だ。嫋やかな頬から、ポトリと滑り落ちた。

 僕も慌てて、娘の眼前へと膝をつく。

「ごめんよ、結衣。動物園は、今度、必ずっ、連れて行くから」

 結衣は、ゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳を大きく開く。

「キリンさんの、いるところだよ。必ず、だよ。絶対、だよ。約束、だよ!」

 と、小さな唇を、ぎゅっと結んだ。

 僕は、できる限り大きく頷き、できる限り切々と宣誓する。

「ああ。約束、だ!」

 懸命に涙を呑み込む、結衣。何分にも、ぎこちなくではあったが、それでも、精一杯の笑顔を見せてくれた。

 こめかみを締め付ける強烈な鈍痛は相変わらずだ。ただ、それにもまして……。

「わたった。許してあげる」

 まだ五歳の、まだ稚い娘の、それには過ぎた得心と、結衣が着ていたキリンのキャラクターが微笑むトレーナーに、この上なく胸が締め付けられた。


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目前

 酔い醒ましの薬を体内に放り込み、僕は急いで会社へと出掛ける身支度を済ませた。

 ダイニング・テーブルの上には、先ほどまでトートバッグに収まっていた弁当が、ところを変えて豪華絢爛に広げられていた。

 僕の妻は、いつだって献身的だ。余りに見事な弁当は、随分と早起きをした成果であろう。

「ごめんなさい。朝食の用意をしていなくて……車の中で、おにぎりでも、って思っていたから」

 言い寄越す妻は、いつも通りに奥床しい。

 僕は、様々な動物の形を模したウインナーを一つ指で抓み、花柄の壁掛け時計に目をやった。

 今日は、大英製作所のプロジェクト・チームが、一堂に会する緊急ミーティングだ。とにかく、招集をかけた僕自身が遅れて行くわけにはいかない。

 それでも、十時から始まるその会議に出掛けるには、幾らか時間的な余裕があった。

「結衣。パパと一緒に、公園へ行こうか?」

 結衣は、頬張っていたフライド・ポテトも草々に放り出す。

「わーい、行く、行くーっ」

 嬉々として、座っていたイスから飛び降りた。

 握り飯を手にした、恵が言う。

「康司、時間は、大丈夫なの?」

 僕は、案ずる恵の手から、一口かじられた握り飯を奪い取り、

「ああ、少しなら、なんとかなる。恵も、一緒に行こう!」

 と声を掛けた。

「わーい! 早く、行こー」

 弾丸のごとくに飛びついてきた結衣を片手で抱え上げ、僕は、食べ掛けの握り飯を頬張った。

 外は昨日同様、酷暑を予感させる快晴だ。しかるに、日はまだ低い。目下は、なんとも清々しい日和であった。

 僕らのマンションの直ぐ近くには、割と気の利いた公園がある。敷地もそこそこ広く、設備もまずまず充実している。

 芽吹き盛んな新緑の公園は、土曜日とはいえ、その早朝に未だ静寂を保っていた。

「よーし、ジャングルジムまで、競走だ!」

 僕は、走り出す。

「あっ、待ってよぉ。パパ、ずるーい」

 遅れをとった結衣も、慌てて続いた。

「結衣ちゃーん。転ばないように、気をつけてよー」

 手の拡声器で叫ぶ恵は、どうやら参戦する意思がないようだ。

 ジャングルジムに先着したときには、僕の息は、すっかり上がっていた。

「もぉう。パパ、ずるーい。今度は、先に上まで登ったほうが、勝ちよ!」

 肩で息する僕を尻目に、今度は、結衣が先行した。

 学生時代こそ、バスケットボールで鳴らした僕である。しかるに、今では、すっかり怠慢な、三十代も半ばの疲弊しきった体力だ。あまつさえ、児戯に執心する無邪気な持久力には、到底、太刀打ちできるものではない。

「結衣ーっ。そんなに急いじゃ危ないよ」

 仰ぎ見る僕の心配をもよそに、結衣は颯爽と胸を張る。

「平気よ。ゆい、いつも、とっても早いんだからぁ」

 と言いながら、ひょこひょこと――

「おお、凄いね」

 なるほど、器用に登っていった。

 ジャングルジムの、てっぺんまで登頂するや、結衣は、やはり颯爽と胸を張る。清新な朝陽を背に掲げ、

「ゆいの、勝ちーっ」

 えっへんと、とばかりに勝ち名乗りをあげる。同時に、恵の拍手が後方で鳴った。

 僕は、笑顔の白旗を小さな勝利者へと贈ってから、木陰のベンチに陣取った恵の側へと歩み寄り、その隣に、ゆっくりと腰を下ろした。

 その後も、結衣は、十分な敷地にちりばめられた本日一番乗りの遊具を、次から次へと制覇していく。

 五歳の娘は、滑り台を滑る度に、ブランコを漕ぐ度に、平均台から飛び降りて見せる度に――満面の笑みで、僕らに手を振った。

 清々しい陽光を一身に浴びて、結衣が煌めく。瑞々しい光の中に、掛け替えのない輝きが躍動する。神々しいまでに照り映える一人娘の笑顔は……言葉にできない。

 そんな結衣の様子を、一心に眺めていた僕へと、恵が、いささか畏まった調子で言ってくる。

「ねぇ、康司。忙しくて大変なのは、解るんだけど……もう少し、あの子のために、時間、取れるようにならない?」

 僕は、しみじみ本心から頷く。

「ああ……」

 しみじみ心肝で噛み締める。

「そのつもりだ」

 でも……。

 もう、少しだ。あと、少しなんだ。娘のためにも、妻のためにも――そう、あと、ほんの少しなんだよ。


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小指の契り

 恵とともに、木陰のベンチへと座る。公園の中を走り回る娘の無邪気な姿に、しみじみと心を奪われること、一時。ふと、我に返って、腕時計を確認する。

 そろそろ、会社へと向かうためのタイム・リミットが近付いていた。

 僕が、徐ろにベンチから立ち掛けたところに、折しも駆け寄ってきた結衣が、爛々と声を張る。

「ねえ、パパ。ゆい、逆上がりができるようになったんだよ」

「えっ、本当かい? すごいじゃないか」

 僕は、上体を大きく仰け反らせ、大いに驚いて見せた。結衣は、さらに口調を輝かせる。

「うん。それじゃあ、パパに見せてあげるっ」

 時間的な余裕も残り少なく、僕は、一瞬、躊躇する。それでも、勢い込む結衣は止らない。僕と恵の手を颯爽と掴み取る。そのまま僕らは、鉄棒が据えられた公園の一郭まで急き立てられる格好となった。

「それじゃあ、見ててね!」

 僕と恵を目の前へ立たせると、結衣は「よーし」とばかりに、鉄棒を握り締める。さらには「えいっ」とばかりに両足を跳ね上げる……も、勢いが足らず、虚しく地面へと不時着だ。

 結衣は「あれっ?」とばかりに、か細い首を傾げてから、再びチャレンジ……が、如何せん結果は同じで、それからも何度か同じ動作を繰り返した。

 結衣の奮闘を微笑ましく見守りながらも、僕の関心は次第に腕時計へと傾倒していく。それには、以心伝心の良妻だ。

 見るに見かねた恵が、結衣へと声を掛けた。

「ねえ、結衣ちゃん。また、今度にしたら? パパも、あまり時間がないみたいだから……」

 過ぎた妻譲りで、常から奥床しい五歳の幼女。

「で、でも……」

 しかるに、この時ばかりは、一歩も引かない。

「ゆい、できるんだからっ。本当よっ」

 憎っくき鉄棒を、ギリギリと握り締めながら、悲痛な声で訴える。愛娘の大きな瞳が、たちまち涙で満たされる。

「だ、大丈夫だよ、結衣。パパは、結衣ができるまで見ているから、がんばって続けてごらん」

 思わず口を衝いて出てしまった。それでも、心からの激励だ。

 結衣は、ぎゅっと歯を食いしばって頷き、か細い両腕を、再び忌々しき鉄棒へと絡めた。 慣れた幼稚園のそれよりは、いくらか高く、いささか太めの鉄棒らしたかったが、幼弱な体をして懸命にチャレンジする、結衣。

「そうそう、落ち着いて!」「もっと、勢いを付けて!」「もっと、腕に力を入れて!」

 僕と恵は、精一杯の声援を送った。

 それから暫くの時間を費やしたが、必死に挑戦し続けた結衣は、ようやく〝会心の一回〟を披露する。

 鉄棒に巻き付いた小さな体が、クルリと反回転。僕と恵の、祝福の喝采が鳴り響く。

「や、やったぁ」

 見事に着地も成功させた結衣は、照れくさそうに笑った。

 二重瞼の大きな瞳と、艶やかな長い髪。上気した頬と、額に浮かんだ大粒の汗。この上なく瑞々しい笑顔は……やはり、言葉にできない。

 僕は、無意識のうちに、結衣を高々と持ち上げていた。そのまま、胸へと抱え、取り出したハンカチで、そっと額の汗を拭ってやるのだ。途端に、火照った娘の温もりが、僕の全身へと染み渡る。

「動物園も、今度、必ず連れて行くからね」

 しみじみと発した僕の言葉に、結衣は、大きく頷きながら――

「うん。キリンさんの、いるところだよ!」

 小さな小指を、ひょこっと、突き立てた。

「ああ、約束だ」

 僕と、結衣は、指切りをしたんだ。

 静寂に包まれた新緑の公園で、清新な日差しが燦々と降り注ぐ、瑞々しいばかりの輝きの中で……。


若きリーダー

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踏ん張りどころ

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