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問題編

 東京に台風が来ておりました。そのお陰で小学校は、今日は午前中でお終いになりました。本来なら憂慮すべき事態なのでしょうが、仲良し五人組みはそんなことちっともお構いなしに、何時もよりうきうきしながら通学路を歩いておりました。

「池内くん、凄い風だねぇ」
濃いサングラスを拭いていた澁澤くんが、感心したようにクラシックなコウモリ傘の下から声を掛けました。確かに辺りは横殴りの暴風雨です。
「本当だね。三島くん、大丈夫かい?」
池内くんは後ろの三島くんを振返りました。三島くんは大柄な少年なのですが、さしているビニール傘が妙に小さく、それがどうも気にかかるのでした。

「うん平気さ。それより埴谷くんの傘、それ何だい?」
三島くんは隣を歩いている埴谷くんの傘を指しました。埴谷くんの傘は池内くんや三島くんと同じビニール傘なのですが、その傘の部分に何やら書いてあります。
「え? 僕にも見せてよ」
折り畳み傘をかしげて、埴谷くんの後ろにいた稲垣くんが覗き込んできました。
「へへ、視覚を透徹させてよーく観るんだぜ……」
全員立ち止まり、埴谷くんの傘を覗き込むと、

「あ!京極メキシコのサインだ!」

一気に場が沸き立ちました。この五人はベストセラー作家・京極メキシコの大ファンなのです。そのサインが五人の顔くらい大きくくっきりと、埴谷くんの傘に記されてあります。
「昨日サインしてもらったんだ♪ サインペンのインクで汚れた手を拭いた染み付きお絞りまでちゃんと持って帰ったんだよ」
埴谷くんは得意げです。皆はどうして埴谷くんがそんなストーカーまがいのまねをしたのか突っ込むのも忘れて、じっとサインに見入っておりました。

「あ、稲垣くん触るな!」
稲垣くんが覚えず手を伸ばしておりました。稲垣くんがこの五人の中でも一番熱心なファンなのです。
「……いいじゃないか、もっと良く見せてくれたって」
「だめだめ! さあ、もうお終い」
「一寸待てよ、それはないだろう? 君は刹那故に支配的なこの水の檻の中の甘美なる幼きファン心理を否定するつもりなのか?」
澁澤くんが稲垣くんに食って掛かると、三島くんがすかさず加勢に入ります。
「そうだ! 君の如き凍った時間をミニアチュールとして切り出す神の権限がない卑小な存在に、そんなひどいことをする権利はない!」

たちまち取っ組み合いの大喧嘩が始まりました。すぐ側に空き地があったのを幸い、五人はそこで思う存分暴れまわりました。埴谷くんは三島くんを蹴り倒し、澁澤くんは池内くんを引き倒し、稲垣くんは澁澤くんに掴み掛かり、三島くんは稲垣くんを投げ飛ばし、池内くんは埴谷くんに殴り掛かるといったくんずほぐれつの大乱闘です。
 さて、十分余りもそうしていたでしょうか。とうとう皆疲れてしまい、喧嘩はお流れとなりました。

「へっくしゅん! ……うわ、寒い」
雨の中で格闘したのだから当たり前です。早く帰らなくてはと、五人は先程放り出した各々の傘を取り上げました。三島くんは折れた傘をなごり惜しげに検めた後、放り出しました。
「あーあ、僕の傘壊れちゃったみたいだ……澁澤くん、入れて行ってよ」
「いいよ。どうぞ、三島くん」
「あっ!!」
不意に埴谷くんが叫び声を上げました。

 サインがありません。

「僕の……サイン……」
可哀相に、埴谷くんは真っ青な顔をして傘を見詰めています。池内くんは反射的に自分の傘を見てみました。やはり池内くんの傘です。間違えてはいません。では埴谷くんの傘は一体何処へ行ってしまったのでしょう?
 雨脚はますます強くなってきました。


追加ルール
  • 登場する固有名詞については架空の物であり、現実のそれとは全く関係ない。
  • これは恣意的な犯行であり、犯人は五人の中にいる。
  • 地の文に書かれていることは全て真実である。

解決編

「いやはや……」
皆呆然と傘を眺めている中で、始めに気を取りなおしたのは澁澤君でした。澁澤君は先程の大乱闘で汚れてしまったサングラスを拭こうと、眼鏡拭きを探しました。
「あれ、僕の眼鏡拭きは?」
その声に三島君たちもはっとして、慌てて辺りを見回し澁澤君の眼鏡拭きを捜しました。

「あ、あれじゃないか?」
埴谷君が指差した方向に、襤褸雑巾のようになった澁澤君の眼鏡拭きが落ちています。
「あっ! 誰がこんな事をっ!?」
あんな大騒ぎで誰もへっちゃくれもありません。澁澤君は眼鏡拭きに駆け寄り、悲嘆に暮れながら眼鏡拭きを検めました。
「……?」
「澁澤君、どうしたの?」
眼鏡拭きを見つめたまま微動だにしない澁澤君を心配して、池内君が声を掛けました。

「サインが……」
澁澤君は振返らずに口を開きました。その言葉に稲垣君がぴくりと反応します。
「え? どうしたの?」
「サインが見つかったんだ」

「本当かい?何処にあるんだ!?」
埴谷君が嬉しさに興奮して叫びました。澁澤君は無表情で振返ると、すたすたと埴谷君に近付きました。
「この眼鏡拭きのここを見て」
「……?」
「ここ。この汚れ、土の色じゃないだろう?」
確かに関東ロームにしては黒すぎる汚れがついています。

「まさか――」
「稲垣君、あのサインは水性ペンだったんだね? だから君稲垣君に『触わるな』って言ったんだろう?」
青ざめてがくがくと震える埴谷君を余所に、今度は澁澤君はくるりと稲垣君の方を向きました。
「そしてサインを拭き取ったのは君だね? 『触わるな』っていわれた時に、ペンのことに気付いたんだろう? それでサインが埴谷君の物になるのが悔しくてやったんだね?
――おかしいと思ったんだ、さっき僕は君の応援をした筈なのに、君に掴みかかられたんだもの」

稲垣君は下を向いたまま黙っています。三島君は苛々と訊きました。
「おい、どうなんだい?!」
「……いや、完璧にそういう訳でもないや」
やがて稲垣君は下を向いたまま答えました。
「何だって?」
「あれが水性ペンなことに気付いたのは、埴谷君が『サインペンのインクで汚れた手を拭いた染み付きお絞りまでちゃんと持って帰ったんだよ。』って言った時さ。油性ペンじゃお絞りにベンジンでも含ませていない限り染みはつかないだろ? それにぼくはサインを盗ろうと思った訳でもない。ただその時こう思ったんだ」
稲垣君はわらい微笑いながら顔を上げました。
「僕も染み付きお絞りくらい欲しいな――って」
やがて稲垣君の顔は雨煙に紛れて見えなくなりました。


――――終劇

この本の内容は以上です。


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