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生命は輝きの中へ

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生命は輝きの中へ

 

 僕を見てくれている人なんていない、それが分かってしまった時、僕は生きる気力を失った。両親の僕へ注ぐ愛情は確かに感じていたが、その時僕はそれが親としての当たり前の行為のように感じていたのだった。その夜家族が寝静まってから、手首を切るのが怖かった僕は母親が常用していた睡眠薬を一瓶含んだ。存在していても何もいいことなどないと思ったこの世に別れを告げようと言うのに、僕は悲しくて堪らなく、静かに泣きながら眠りに落ちて行った。

 僕は死ねなかった。どうしても深い眠りにつけなかった母がもう一錠の睡眠薬を求めて階下にあった薬箱を開けようとした時、その脇に空になった薬瓶を見つけたのだった。家族は他に父も妹もいたのに、母はすぐに救急へ息子が睡眠薬を大量に飲んだと連絡し、僕は自ら手放そうとしていた余生を生きなければならなくなった。

 その後の僕はまさに余計な生命と言うべき、社会貢献もなくただ庇護を受けるばかりの人生を歩み始めた。おじいさんやおばあさんとは違う、何も与えることのないままに始まった余生。中学三年の二学期末より学校を休むようになった僕を先生は心配して訪ねてきたりもしたが、それは職責として行っていることだとひとり冷めた目で見て、母が応対している間も僕は出て行かなかった。そのまま三学期が終わり、僕は卒業式にも出席しないまま学校生活を終え、ニートとなった。

 考えてみれば母が睡眠薬を常用していたのも、空の薬瓶を見た時にすぐに僕が飲んだと理解したのも、僕が鬱屈した様子を見せながら生きていたことに悩んでいたからだろう。戸惑ったような顔をしながら必要以上に世話を焼いたり、時にそっと僕を遠くから見つめていたり、そのような節は時折見られたように思う。

 僕は大切にされている。それを感じることは多々あった。ただ、それは通念上それが望まれるべき人からのことであって、残りの社会の大多数である他人たちは僕に目を合わせようともしなかった。僕が悪い。いつも暗い顔をして笑いかけようともせず、人を助けるようなこともしない。どこでも下を向いて押し黙ったままの僕は、友人にも恋人にも全く適した存在ではなかったのだ。

 ただ生きていてくれるだけでいい、そんな両親の希望、それを甘えた根性で受け入れ再び死に向かおうとしない自分を憎みながらも、僕はぼんやりと死の淵へ立った時の悲しみを思い返して、自ら生命を絶とうとすることなどもうできないのだろう、あの悲しみに比べたら社会のゴミと罵られようがニートとして生きていた方がずっとましだと思うようになっていた。僕を見放した世界、僕の存在を望んでいない世界でも、僕は殺されもせずただ無為に過ごす時間を与えられて、それを以て天寿を全うするよう定められているのだと、そう感じた。

 

 

 


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生命は輝きの中へ

 

「ねえ、仕事をしてみない?」

 ただ生きているだけでいいと言った母は僕が十九になる年の年度替わりにそう言った。

「この不況の中、技術も経験も持たない僕に仕事なんて見つからないよ」布団に潜ったまま僕は言った。「それに」そこで僕は布団から頭だけ出して母を見、

「僕は社会に必要とされていない。いらないんだ、誰もが。それにね、僕の存在は不要なだけじゃなくて、社会にとって害悪なんだよ」

 言ってしまってから自分自身の価値を決めているのは他人でもそれに納得している自分が悔しくて、また布団に潜って泣いた。母の顔は見えないけれど、きっと悲しみに満ちた表情をしているだろう。だが、母はできるだけ優しく僕に伝わるように、穏やかに、けれどもはっきりと、

「あなたはまだ余所さまの迷惑になるようなことはしていないわ。今、学校も行かず仕事もしていないことを罵られていても、あなたの若さならそれは許される。だからね」

 母はゆっくりと布団をめくって僕の顔を見、

「今から働けばいいじゃないの。社会のためになる仕事なら、どんなものだって賤業なんてことはないから。きついかも知れないけれど、あなたは大変さを嫌って仕事をしていないわけではないでしょう? ……社会は明るく器用に振る舞える人ばかりではなくて、地味でも社会の底支えをしてくれる、悲しみと苦しみに満ちてなお懸命に生きる天使たちだって必要としているのよ」

 母は一生懸命ほほえんでいた。今にも苦しみに顔を歪めそうだった。

「お母さんこそその天使じゃないか。家族のために家事も、パートもして、辛苦を味わって、それでいて幸せを享受できないで。僕はそうはなれないよ」

 母は一瞬目を見開いて、そしてまた、今度はやわらかにほほえんで、

「幸せは人によって違うものよ。あなたには分からなくても私はこうして生きていて幸せなの。そしてあなたが働いてくれるようになったらもっと幸せ。勝手なことだけれどね。大丈夫、あなたも人のためになれる。必要とされるようになる。あなたが何を幸せに思うかは分からないけれど、もしかしたら人に求められることを幸せと感じるようになるかも知れない。働かせてくれるところは見つけてあるから。人はいやがるかも知れないけれど、人間社会にとっては必要で重要な仕事よ。やってみない?」

 人に求められ、人間社会にとって重要な仕事。僕は母の顔からは目を背けたけれど、大きく頷いていた。

 

 

 仕事場に行くとみな暗い顔をしていた。挨拶をするとこちらを見てほほえんだ。悲しい表情だと思った。でもそこには深い慈愛があるように感じられた。

 仕事場は犬猫の処分施設だった。飼いきれなくなったり、野に居着いて迷惑だと通報された犬や猫を、引き取ってはガスで殺すのだった。毎日多くの動物が送られてきた。その大半を殺した。僕たちは殺し屋であり、その一匹一匹を悲しみを以てあの世へ見送る数少ない聖職者でもあった。僕が処分室に追い込んだしきりに鳴き声を上げる動物たちがだんだん静まって行き、最後に白い骨となったそれを土に還した初めての夜、不要と見なされた動物たちと僕は同様の存在であるのだと、犬猫と一緒に処分室に入って理解する夢を見た。僕はうつろな瞳で犬猫の死にゆく様を見下ろし、自分だけ生き残って処分室を出た。何故彼らと一緒にいながら自分だけ生かされているのだと天に吠えた。憎しみの叫び声を上げた。そこで目が覚めた。涙が枕を濡らしていた。

 

 

「井上くん、井上奨くん」

 がっちりした体格に似合わない柔和な顔つきをした中年の男性に呼び止められた。所長だった。

「どう? 仕事はきつい?」

 母が話をつけてくれたのはこの人だった。ニートなど雇いたいところなどないだろう。そう考えると恩人とも言える。所長がどれくらいの権力を持っているのかは分からないが、少なくともこの施設で一番偉いはずだ。それなのにこの人は他のヒラの所員と一緒に動物の世話をしたり、引き取り手が見つかりそうなものや施設の広報に使うための犬猫の訓練をしたり、またあの世へ送るしか術のなかった動物たちの旅立ちを見送ったりしている。

「いえ、体は何ともありません」

 いつもより心持ち視線を上げてそう答える。

「そう、それならよかった。君のお母さまが休んでいる期間が長かったからと心配していたからね」

 僕は手際が悪い。いつももたもたして同僚に迷惑をかけてしまう。同僚は怒ったりしないし、僕の成長を見守ってくれているような節もある。だが、それも所長が僕のことを気にかけ所員に面倒を見るよう声をかけてくれているところが大きいと思う。

 僕たちが立っている廊下の窓の外を動物の骨灰が通って行った。自然と目がそちらに向く。僕はそこにこの世にあった彼らの姿と人間、特に僕たちを恨みゆく様を見たような気がした。堪らなくなって目をそらし所長を見ると、所長もその骨灰の運ばれて行く様子を眺めていた。進んで行く台車を見ながら所長はぽつり「辛い仕事だね」と漏らした。

 再び外に目を戻し門の方を見ると、就職してからしばしば目にする集団が今日も何かを叫んでいた。

「あの人たち、何なんですか?」

 そう問うと、所長は門の方へ目を向け苦い顔をして、

「正義の人たちだよ」

 と言った。「正義?」よく分からずそうオウム返しに言うと、

「そう、正義。で、僕たちが悪」

 怪訝な顔をしていると、所長が尋ねた。

「井上くんは動物を殺すことをどう思う?」

 ここに来てから毎日動物を殺した。以前までは鳥も牛も豚も魚も平気で食べていたのに、今では食べるために生命を奪うことすら罪悪に思えていた。まして僕らは罪もなく、人間の直接的な利益のためでもない理由で動物たちを殺している。

 僕は直接それに答えず、ただ正直に思っていることを伝えた。

「僕たちは不要だという理由で動物を殺しています。食べるためでもそのために殺される動物は苦痛を味わうと言うのに、ただ人間の都合で不要物と見なされた動物たちは満足に生き満足に死ねたと言えるのでしょうか。成仏できるのでしょうか。社会に不要だと言うのなら、僕だってそうです。どんな人間も健康で文化的な最低限度の生活を保障されていると言うのに、彼らは殺される。僕と彼の違いが何なのか分からないのに、僕は彼を殺し、それでお金をもらっているんです」

 所長は集団を見つめたまま言った。

「井上くん、君は動物をないがしろにしたことがあるかな? 犬や猫はまだいい方なんだよ。法律で虐待などすれば処罰されるようになっているからね。生命の価値が同じと言うのなら、他の大多数の動物たちは何故何の権利も保障されていないのだろう。……きっと人間の都合のいいように決まりが作られているからだろうね。愛玩動物として権利を保障されている動物も、人間社会との関わりから判断して、生命の価値を公正に扱ったと言うよりも、身近でかわいそうという情を抱かせるであろうことから選定されているように思うよ。どんな動物も等しく愛されなければならない。それが正しい姿だ、本来なら。だが、人間が中心の社会になっている以上、人間が頂点に君臨していなければならない。人の害になる生き物は排除しなければならないと言うことになった。捨てられたペットは人間社会に害をなす。僕たちはその害から人間を守るために仕事をしている。殺すことは罪だが人間のためには正義になる。人間と自然の共存を謳っている人類としては随分と不適当なことだろうけれどね。僕たちが罪人と言うのなら、その罪を犯させているのは動物を無計画に飼育し不要物とした飼い主たちだ。僕たちは動物を殺したいと思っているわけじゃない。でも、殺すことを社会が望んでいるから僕たちのような仕事が生まれたんだ。僕たちは悪じゃない。必要とされたことをしているだけなんだよ」

 所長は門の集団を見つめたまま悲しそうな表情をしていた。初めてこの職場に来た時、挨拶をした同僚が見せたほほえみと同じものを見たと思った。

「僕たち日本人には『もったいない』という言葉がある。その通り、たとえば欧米諸国で問題にされる鯨だって、日本人は肉から骨からほとんど全てを活用してきた。できるだけ殺生を嫌い、殺すからには徹底的にその生命を利用する。動物とのつきあいは同じ動物の人間としてはそれでいいんじゃないかな。……今の日本人の心は変わってしまったのかも知れないけれど」

 門の方では集まった人々が鬼のような形相で未だ何かを叫んでいる。所長は言った。

「あの人たちは動物愛護団体だよ。僕たちのことを生命の重みを理解しない鬼畜だと、そう糾弾しに来ているんだ」

 動物愛護団体。その言葉から悪い面は感じられない。動物を愛護すること、そのことはとてもいいことだと思う。だが、あの人たちは分かっているのだろうか、いつも暗い心持ちで、人と接するには悲しいほほえみを湛えて、自身のその罪悪を理解し咎め続けながらなお動物を殺し続けなければならない人の心を。動物愛護団体に属する人だって動物を食べているかも知れない。それを嫌ってベジタリアンになったところで、どちらにせよ植物という生き物の生命を奪わなければ生きてはいられないのだ。僕たちは殺生を毎日行っている。だが、それは望んだことではない。あの人たちはもしかしたら自分たちの手で動物を殺すことはしないのかも知れない。ものすごい慈愛の持ち主で、家の中にハエやゴキブリが湧いてもそれを捨て置くだけの度量を持ち合わせているのかも知れない。だが彼らは生きている。全ての生命の愛護を絶対とするのならば今頃食べるものがなくて餓死しているだろうし、動物の生命だけを重んじ植物を軽視しているならば、それは生き物に対する差別だ。死にゆく植物に苦しみがあるかは分からない。だが植物だって死なないように努力して来たことは間違いない。仮に牛はよくて犬は駄目などと考えているとしたら、それはもっとひどい差別主義者だ。まさか自分の手を汚さなければ許され、社会の要求に従い人の嫌う辛いことを悲しみを以て行う者たちの罪は許されないとでも言うのだろうか。僕たちの気持ちを理解しようともしないで、綺麗ごとを並べるためにたびたび通ってくる、生命を奪って生きているはずの彼らに、僕は憎しみにも似た感情を抱いた。

「人間は勝手なんだよ」

 所長は言った。

「生き物を無下に扱う人も、動物を大切にするために社会の要請に従う人々を差別的に扱う人も。動物を大切にしない人は都合でかわいいと思ったものを飼い、飽きたり無計画に増やして飼いきれなくなったと言って、ペットの殺害を要求する。動物愛護に動く人は生命の大切さを説くけれど、生命の価値に差をつけて販売するペットショップの存在よりも、かわいそうだと言って生き物を野に放つ人よりも、それによって害を被る人が出ないように手を汚す僕らの方が憎いんだ。僕にはそれが公正な判断だとはとても思えないのだけれど」

 所長の表情はまた悲しさを含んで、しかしそのままほほえみを湛えてこちらを向いた。

「辛い仕事だけどさ、僕たちがいなければ勝手な人間が作る勝手な社会は回って行かない。だからさ、頑張ろうよ」

 はい、と答えて僕たちは廊下を歩き出した。罪の引き受け手として僕は生きて行く。門のところでは未だ糾弾が止まない。僕も批判の対象者だ。けれども僕がやっているのは野良となった動物によって苛まれる人間が現れないようするための、少なくとも人間社会にとっての必要悪であるはずだ。ニートであった頃に無価値な人間と罵られたように、きっとこれからは犬殺しなどと言われるようになるのだろう。それは重苦かも知れない。でも前と違うのは、僕が社会に貢献していると言うこと。嫌な顔をされても、心ではよく思っていなくても、それでも僕の存在がないと困る人がいる。それを思うと母が言っていた存在を求められる人間であることの幸せと言うものが、今の僕にはあるように感じられる。同じ糾弾を受ける存在でも、今の僕には存在価値がある、そう思えた。陰で、あるいは面と向かって、おまえは下賤だと言われるかも知れない。でも僕は社会の中でひとつの役割を担っている。社会は僕を要求している。まさに母が言ったような仕事だと思った。

 この仕事こそが僕の最善の役割かどうかは分からないが、ただ辛いばかりと感じたこの仕事に就いたことを、今ではよかったと思えるようになっていた。

 

 

 


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